捨身木に花が咲く 第3部
                     ー5ー

「蓮月、出かけるぞ」
翌日、久しぶりに出席した朝議が終わった後に、竜潭は嬉しげに蓮月に声をかけた。
「どちらにおいでになりますの?」
何の事かわからずに、蓮月は困った顔で竜潭の顔を見つめた。
「決まっている。寧州だ」
「主上!」
蓮月は本当に嬉しそうな顔で笑った。

竜潭は自分のスウ虞に鞍を置き、蓮月に向けて手を差し伸べた。
「あの…」
困った様に蓮月が竜潭の顔を見る。蓮月は自分のスウ虞を持っているのだ。どうやって手にいれたかは誰も知らない。自分で捕まえたと言う事はまずないが、大商人の父親が用意したものだろうと皆思っている。だが口性ない連中は、誰かに貢がせたものだろうと噂している。本当のところはわからない。

「君がスウ虞を持っているのは知っているが、余り目立ちたくない」
「そうでございますね」
蓮月は頷いた。そして差し出された手を取り、竜潭のスウ虞に跨がる。竜潭もその後ろからスウ虞に跨がった。手綱を手に取り、前屈みになった時蓮月からふんわりと花の香りがした。あれ、と竜潭はひとり首をかしげる。この香りには覚えがあった。だが遠い昔の記憶を辿ってみたが、どうしても思い出せなかった。
「さあ、海亜(カイア)。出発だ」

海亜は白銀の毛並みを軽く揺すって、しなやかに歩き始める。竜潭が少し嬉しげなので海亜も嬉しい。

竜潭と蓮月は厩を出て、一路寧州に向かった。竜潭の後ろには護衛の大僕がゆっくりとついて来ている。余り大掛かりに視察はしたくないからと1人も護衛を連れていくつもりはなかったが、是非にと言われてただ1人だけ伴う事にしたのだ。もちろん潜伏してではあるが、塙麒も竜潭にいくつか指令を貸していた。本来ならば塙麒も一緒に行きたい所ではあるが、なんとなく邪魔になりそうな気がして遠慮したのだ。


「これはひどい…」
蓮月の案内で寧州の村に辿り着いた竜潭は、自分の目を疑った。一見のどかな農村の風景だ。今日は多少の雲はあるものの、綺麗な青空が広がっており、心地よい乾いた風がさんわりと吹き抜けている。耳をすませばあちこちから名前のわからない鳥の声が聞こえ、思わず草むらに寝転がってのんびりとしていたいような気持ちになる。
だが、と竜潭は顔をしかめた。

延々と見渡す限り続いている畑は、まだ初夏だと言うのに秋のたたずまいだった。竜潭の経験ではこの時期は青々と濃い緑色の葉が畑を覆い、人々がその手入れに休む間もないほどのはずだ。だが、畑には人の姿はほとんどなかった。畑は全体的に黄色い。既に手の施しようもなく枯れるのを待っているかの様だ。

「何故こんなに?」
「塩害です」
「塩害…」
蓮月は悲しそうに俯いた。
「昨年の洪水で海の水が逆流いたしました。水が引いた後、土を入れ替えこの塩を流さねばならなかったのですが、その人手も予算も出ませんでした。出たのはいつもと変わらない税金の額だけ」
「あ…」

最初に報告を受けたのは、この地を担当する田猟(でんりょう)からだった。駆けつけてみて余りの状況の惨さに、すぐに大司徒に奏上し、大司徒を通じて朝議にかけてもらう事になっていた。その矢先、大司徒は自らその職務を放棄してしまった。蓮月は大司徒不在の間何度も王宮に足を運び、直接奏上したがその声はとどかなかった。誰かが握りつぶしているとしか思えなかった。

次に蓮月は寧州の州侯にこの状況を陳情した。だが、州侯からも色好い返事は聞けなかった。寧州は昨年いたる所に洪水やら旱魃やらが起き、一つの村にかかり切る事ができなかったのだ。

「だから、今回の大司徒就任のお話をすぐにお受けしたんです」
誰かに握りつぶされているのなら、握りつぶされない地位に自ら昇れば良いのだ。そしてそれは現実のものになった。

竜潭はそうっと畑に足を踏み入れた。そして目の前の作物の葉に手を伸ばす。
「これはもういかんな…」
「はい」


「ちょっと、あんたたち何してるんだい!」
ふいに後ろから罵声が飛んだ。
「丹精こめている人んちの畑を…!」
振り向いてみれば血気盛んな、さして若くない女がまくしたてている。が、振り向いた蓮月をみて、おや、と言う顔をした。
「なんだ、小司徒様ですかい!」
女は更に興奮した面持ちで一歩前に出た。

「いやに遅いお出ましじゃあございませんか」
竜潭はこのすごい形相で蓮月に食って掛かっている女の顔と、困った様に目を伏せる蓮月の顔を見比べた。
「小司徒様はたしか春の初めの頃、主上に申し上げるから、とおっしゃいましたねえ!」
蓮月はきり、と瞳を上げた。一瞬に形勢は逆転する。その瞳の気おされる様に女は一歩、じり…と下がった。
「遅くなったのは私の手際が悪かった為。主上も大変お心を痛めておられる」
「嘘をお言いでないよ!主上が私らの事など考えている訳がない!主上は我々を見捨てるつもりなんだ」
「そんな事はありませんよ」
蓮月の口調が穏やかになった。
「もし、あなた方を見捨てるつもりなら、今日こうして私がここに来るのはおかしいではありませんか?」
「そりゃそうだけど…」

「遅くなったのは謝ります。でも、当面困らないような配慮はしてあるはずです」
女は黙ってしまった。その時、女の怒鳴り声が聞こえたせいか、遠くの方からも人が顔を覗かせて近づいて来るのがわかった。
「あ、蓮月様!おい、皆!蓮月様だよ」
「蓮月様、うちのおっかあが蓮月様に失礼な事を申し上げませんでしたか?」
人々がわらわらと集まる。その光景を竜潭は半ば驚嘆し、感心して眺めていた。普通なら地官長といえば民にとっては雲の上の人間だ。顔はおろか名前すら知らないのが普通なのだ。
「税金を納めるとその日の食物まで不自由する有り様でしたが、蓮月様のお陰でなんとか食べていってます」
「礼なら淳州の州侯様に。昨年豊作で値崩れした村から手ごろな値段で買い上げてくださったのです。今はそれを借りていると言う事になっています。次にこちらが豊作になった時に、ぜひ困っている方を助けてさしあげて」
「もちろんでございます!」

だが村の人はそう言うと顔が暗く曇った。一面の畑は黄色く立ち枯れるのは時間の問題だった。作物はほとんど壊滅的だろう。いったいどうすれば良いのかわからない。自分達でできるだけの事はしてみた。水を引き、土を洗い、できるだけ土も入れ替えて…。だが引いて来た水も口にいれてみるとかなり塩辛かった。それにこの辺り一面大洪水に見舞われたのだ。塩害を受けていない土が近辺にあるとは思えなかった。

役所に届け出てはみたが、あまり効果は期待できなかった。同じような届けを出している人々がどれほどいるかわからない、と役人は溜め息をついた。

「主上はこの状況を御存知なのだろうか?」
「もちろんです。だから私が今日ここに来ました」
「で、主上は我々をどうして下さると?」
蓮月は答えに窮してしまった。
「それは…」
そう言いかけた時、後ろから竜潭が口を挟んだ。
「まず、この辺りの農民を集める事だな」
いっせいに人々は竜潭に視線を移す。明らかに蓮月に対する視線とは違う不信感の混ざった視線が竜潭に注がれた。
「集めてどうするんだ?」
「自分の畑は自分で何とかすると言うのは無理だろう。だから皆で皆の畑を蘇らせるんだ。畑は人の腰ぐらいまでの深さを掘り、その土は麻の袋に詰めて土嚢(どのう)にする。今年の秋までに治水が間に合うかどうかわからんから、まずそれを川の縁に積むのだ。新しい土は近隣の州に援助を頼み、州師を使って運ぶ」
「そんなことでは秋の実りには間に合わん」
「だが手を拱いていては、来年も再来年もこの状態は続くぞ」
しん、と静まり返った。誰も反論が出来ないのだ。

しかし、としばらくして後ろの方から声が飛んだ。
「近隣の州は州師を出してくれるのだろうか?」
もっともな疑問に、そうだ、そうだ!とやじが飛ぶ。
「出させる」
竜潭は断言した。
「州のどれほどの地域でこのような状況になっているか、これから把握しに行くつもりだ。どれほどかかるかわからないが、うまく行けば一部の畑でこの秋に実りを期待する事も出来よう」
「もし何も実らなかったら?」
先ほどの女が再び勢い込んで叫ぶ。
「もうあたし達には税は払えない!」
「そうだ!蓮月様がいらっしゃらなかったら、田畑を二束三文で処分するか、首を括っていたところだぞ!」
「考慮する」
「考慮ってどう言う事だ?」
「まだ我々から搾り取ろうと言うのか!?」

蓮月は思わず人々と竜潭の間に分け入ろうと思った。だが一瞬人々が竜潭ににじり寄るのが速かった。