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「前からお聞きしたかった。いったい私の何が愚かしいのでしょう?」
据瞬は昔からの疑問をぜひ聞いてみたくなった。
「私は私の分を知っているだけのこと。王宮で暮らす為の何物も持ち合わせていない。誰かの七光りで暮らすのはもうたくさん。昔から申したでしょう、私に構わないでもらいたいと」
据瞬は初めて聞くその言葉に、ただ呆然とした。
「分…?」
「父親が大司馬と言うだけで仙籍に入り、友人もなくこんな広い王宮に囚われの身になっていたのです。自由になりたいと思ってどこが悪いでしょう。私には官になる才能もなければ、プライドを捨てて婢になることもできなかった。ここに私の居場所はなかった!」
「婢になどならなくとも、私の妻になれば良かったのだ」
「そして永遠の時を奴隷として過ごせと?婢と同じではないか。貴方は女は全て自分の思い通りになると思っていた。それを見るのが本当に不愉快だった。貴方は私が欲しかったのではない。自由にならない女がいる事が嫌だっただけ」
据瞬は彩施の心のうちを初めて聞いた気がした。心に大きな一撃を食らった思いがする。違うと自分は言い切れるだろうか?さらに思い出してみれば確かに彩施には友達がいる様には見えなかった。女官にかしずかれてはいたが、女官達と楽しそうに会話をしていたとは思えない。孤高の人、そんな印象があった。そしてそこに惚れたといえなくもない。
「私は欲しかったのだ。私を必要とする世界。例え肉体は年老い滅びようとも、永遠に退屈な人生を送るよりよほど良いはずだった」
彩施は殉角の遺体を引き取ると、五曽の村に帰っていった。もちろん、帰りは据瞬が村まで送っていった。この人を苦しめたのは結局自分なのだ、と小さな後ろ姿をみて思う。そんな悔恨で胸がいっぱいになった辺りで据瞬と彩施は村についた。
「もうお会いする事もないでしょうから…」
彩施は別れ際に家の前でくるり、と振り向いた。
「貴方に申し上げておきたい事がいくつかある」
「はい」
据瞬は彩施の顔を焼きつける様にまじまじと見つめる。確かにかつての若さも美貌もないが、だが何かを悟ったかのような潔さが表情にあった。
「貴方が私を追い掛ける前、私は貴方に惚れていた。ふふ、今じゃこんなになってしまったけれど、私にもそんな娘時代もあったのですよ」
「え…」
「父上様がお亡くなりになった時にはそりゃ少しは貴方を恨み申した。だが貴方が求婚してくれた時には、天にも昇る気持ちでございましたね」
なぜ、と聞きかけて、据瞬は言葉を飲み込んだ。
「ああ、私に愉燵のところの蓮月みたいな美貌と才能があったら、人生変わってたのでしょうねえ」
据瞬は再び口を開きかけて、やはり何も言わずに口を閉じた。
「ふ、少しは利口になった様だわ。感謝しますよ、据瞬様。私は貴方を永遠につなぎ止めておく自信がなかったのです。ほら、その証拠にあんたは私らが慶に行った後ぱったり現れなくなりましたからねえ。貴方の周りにはいつも綺麗な女がいっぱいとりまいていた。今だってそうでしょう?」
「いや…」
据瞬はそれだけ、そっと呟いた。
「結局私は憶病者だったって事。ま、そう思えば殉角みたいな生き方も悪くないかも知れない」
言うだけ言うと、再び家の方に向き直り二度と振り向きもせず彩施は扉の向こうに消えた。
据瞬は唇を噛み締めた。そうしていないと泣いてしまいそうだった。高慢でいつも見下す様に自分をみていた彩施は本当はあんなに弱々しくて臆病だったとは…。自分はいったい彼女の何を見て来たのだろう?扉に駆け寄り今からでも遅くないから、と声をかけようとも思った。だが、彩施はそれを喜ぶだろうか?彩施の最後の自尊心を汲み取ってやるべきなのではないか…?
「据瞬様」
どのくらいの時間がたったのだろう?じっと佇んでいる後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「蓮…」
振り向きもせず、据瞬は答える。
「主上が迎えに行って来いと…」
「ああ、ありがとう」
しかし据瞬はその場を動こうとしなかった。窓には分厚い幕が下ろされていて、中から彩施がこちらを見ているとは思えなかったが、それでもここにしばらくいたいと思った。
蓮月はその背中を何も言わずに眺めていた。据瞬が蓮月の存在を忘れるくらい気配を殺してじっと立っていた。
「蓮…」
辺りは既に夕闇に覆われようとしていた。遠くの山の端に最後の残光を微かにとどめているだけだ。
「…はい」
据瞬はとぼとぼと歩き始めた。蓮月は次の言葉を待ちながら、その広い背中を見つめる。
「なあ、蓮」
「…はい」
「今晩、一緒に飲まないか?俺は少し乱れはすると思うが、蓮の他に相伴してくれる女がいないのだ。迷惑だろうか?」
「迷惑などとはとんでもございません。喜んで…」
その夜、蓮月は声をあげて泣く据瞬を初めて見た。最初は途方にくれたがただ黙ってそこにいた。彩施の名前を呟きながら泣いて泣いて泣きつかれて、据瞬はやがて蓮月の膝の上で幼い子供の様に眠りに落ちた。その寝顔を見て、蓮月は据瞬を初めて本当に愛おしい、と思った。と同時に据瞬は生涯これほどまでは自分を愛しはしないだろうとも思った。自分の身に何か起きたとしても、ここまで乱れてくれたりはしないだろう…。
蓮月はそうっと据瞬の髪を撫でた。据瞬にどんどん惹き付けられていた心が、行き場を失い凍り付き震えているようだった。
「夕べはすまなかったな…」
翌朝、据瞬は痛む頭を抱え、泣き腫らした目で情けなさそうに蓮月に詫びた。
「いいえ…」
熱い手ぬぐいと冷たいお茶を差し出しながら、蓮月は微笑んだ。
「夕べの事は何も覚えていないのだが、俺は変な事を言わなかったか?」
「さあ、私も余り記憶はございませんから…」
探るような視線が蓮月の瞳を貫き、蓮月は思わず顔を伏せた。
「俺は蓮に何か言ったのか?まさか蓮に不埒な事はしてないだろうな?」
蓮月は伏せた顔をあげ、こっくりと頷いた。
「それならいい…」
据瞬は少し安心した様に笑った。
「蓮はこれから朝議だろう。早く行って来い。俺はもう少し寝る」
「主上にはお休みの許可をもらっています」
「それはいけない。俺の為に誰かの迷惑になるのは」
「いいえ。朝議に出たりしたら主上に叱られます」
ふ、っと据瞬は笑った。
「昔の俺を知らない主上や蓮はさぞかしびっくりしただろう?」
蓮月は正直に頷いた。
「でも、据瞬様も普通の人間だとわかって、少し安心いたしました」
「普通の人間…」
「はい…」
「蓮、俺はもう大丈夫だ。今晩から桃李宮に戻ると良い」
静かに微笑む蓮月を見て、据瞬はそう切り出した。本当は帰したくない。ここでの蓮月と一緒の生活は悪くなかった。だが、たぶんそろそろそれは限界になるだろう。
「はい、そうします」
蓮月は素直にそう答えた。
蓮月も思っていた。こうして共同生活をするのは恐らくそろそろ限界だと。
夕べの据瞬を見て、蓮月は据瞬の中に自分の居場所がない事を知った。それは悲しくもあったが逆にほんの少しの安堵も感じた。据瞬も昨日の彩施を見て、すぐに他の女を心に住まわせるのは無理だと思った。さらに自分にはその資格がないとも思った。
据瞬は本当に蓮月がついていてくれて良かったと思った。1人ではきっと自分の心を抱え切れなかっただろうと思う。だから感謝をし、ねぎらうような気持ちで蓮月を見た。
「世話になった。楽しかったなあ…」
「私も楽しゅうございました」
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