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翌日、据瞬は竜潭から早々呼び出しを受けた。それも、王の私室である正寝だ。
「お師匠様」
竜潭は困ったような瞳で据瞬を見つめた。呼び出した理由は据瞬もすぐにわかった。ぷ、っとこらえ切れずに据瞬は吹き出す。
「御心配召されるな、主上」
「しかし…」
吹き出した意味がわからない竜潭は、まだ困惑した表情だ。
「大司徒が御報告申し上げている通り、一時は記憶を無くしておりましたが…」
一時は、と言う言葉を捕らえて竜潭の顔は明るく輝いた。
「では…?」
据瞬は力強く微笑んだ。竜潭は思い出す。幼い頃この笑顔を見ると何でもできるような気がした。今もそのままだ。
「しかしもうしばらくこのまま、記憶を無くしている所存でございます。今回の件がきちんと解決を迎えるぐらいまでは…」
実は…、と竜潭は切り出した。
「不安で仕方がないのです。足下から全てが崩れて行ってしまうような気がして…」
「主上」
据瞬は竜潭の前に立て膝をし、毅然とした表情で顔をあげた。
「何を弱気になっておられます?貴方には天がついておられるのでしょう。その証拠に貴方の麒麟は失道の徴候もなく、妖魔もめっきりと減った」
「確かに…。しかし、私には心の底から信頼できる臣の見分けがつかないのです」
竜潭は苦悩する様に眉間に皺を寄せ、膝の前で掌を組み、前屈みになった。
「皆を信じていた。誰も疑わなかった。だが殉角がまず私に刃を向けようとした。他にも何名かいたのだろう…。ああ、お師匠様が淳州などではなく、この王宮に…すぐ近くにいて下さったらどんなに心強いか!」
据瞬は竜潭を睨み付けた。
「だから私は貴方のおそばでお仕えする事をとても危惧しておりました。貴方は私といるといつも私に依存し弱気になられる」
「それは…」
「貴方がそれを改めるとおっしゃるならば、お近くでお仕え申し上げても良いが…」
「本当に?」
「それには条件がございます。まず私を『お師匠様』とはお呼びにならない事。そしてむやみにへりくだらない事。皆がその姿を見たら快く思わないのはお分かりになるでしょう」
竜潭は俯いてじっと考えた。
「約束しよう」
「よろしゅうございます」
据瞬は静な笑みを浮かべた。
「では、今回の件が落ち着きましたら、配属がえと言う事で、記憶が戻るまではこのままで」
「うん」
「ああ、そうだ、主上」
据瞬は思い出した様に竜潭に言った。
「蓮月を大切に為されよ。あれは恐らく天帝から貴方への贈り物でございましょう」
「天帝から…?」
「捨身木に咲く花を天帝から授かる王は滅多にいないのだと聞きます。それを貴方は授かる事ができた」
「あの、おっしゃる意味がよくわかりませんが…?噂ですが蓮月はお師匠…いや、据瞬の思い人では?」
あはは、と力なく据瞬は笑った。
「そのお言葉は蓮月に失礼でしょう。貴方は御覧になった事があるはず。五曽の里木に実った愉燵のところの白い卵果を」
「ああ、あの成長を止めた…」
「いいえ。あれは成長を止めたのではなく、成長するのに10年かかる実だったのでございます。その証拠に蓮月はあんなに聡明に孵ったではありませんか。蓮月は私の手に収まるような女ではない」
「あれが、蓮月…?」
竜潭は覚えている。あの美しく輝く真っ白い実に憧れのような感情を抱いていた日の事を。据瞬に初めて会ったのもあの里木の近くだった。もしあれが蓮月だったと言うのなら、自分は蓮月が生まれるずっと前から蓮月を知っているのだ。
竜潭の顔に少し安堵の表情が浮んだ。1人ではないのだという安堵感かも知れない、と竜潭は思った。
「申し上げます」
ふいに扉の外から声が聞こえた。警備の大僕の声だ。
「主上、先ほど亡くなった殉角の母親と名乗る老婆が尋ねて参っておるのですが…」
どきり、と据瞬の胸が痛みを伴って大きな音をたてた。
「殉角の…」
竜潭は立ち上がった。
「いかがなされます?御会いになられない方がよろしいのでは、と思いますが…」
「いや、会おう」
竜潭は扉に向けてゆっくりと歩をすすめる。
「私も参りましょう」
据瞬が立ち上がった。
据瞬は目を見張った。そこにはほんの一握りになってしまったような小さな老婆が背中を丸めて座っていた。そしてまず先頭になって入って来た据瞬を見て、びくり、と身体を震わせた。
「御無沙汰しています、彩施様」
据瞬は微かな慈しむような微笑みを浮かべて老婆に話し掛けた。竜潭はそのすぐ後に部屋に入り、この二人のさぐり合うような顔つきを不思議そうに見つめていた。
「ほんに。あれから何年経ちましょうねえ」
蚊の鳴くような小さな声で老婆が答えた。据瞬はその声の弱々しさに胸が詰まる。
「据瞬様はお変わりになりませんわね、当然でございますけれど…」
嫌味がないと言えばない、あると言えばある言い回しで老婆は懐かしそうに言葉を紡ぐ。
「父はもうじき50回忌を迎えます」
「もうそんなになりますか…」
懐かしそうな顔になりながらも、据瞬の顔は曇った。
「そう、もう遠い遠い時代のお話です」
重苦しい沈黙が流れた。据瞬に言葉が出なかったのだ。
その沈黙を破ったのは竜潭だった。
「私にお話とは、どういうことでしょう?」
彩施はちらり、と竜潭を見た。叩頭礼を強要されていないのはかなりの年齢だからだ。
「確かめに来たのですよ」
「え?」
「この目で今の国を治めている役人を確かめに来たのです」
老婆は不敵に笑った。据瞬はこの笑みに見覚えがあった。その昔はこの高飛車な態度と笑みがたまらない魅力だった。今もその面影はある。村の老婆にしては気品もあり、言葉遣いも少しばかり優美だ。同じ村の出身だから幼い頃の竜潭とも面識があるのだろう。
「殉角の事は仕方がない。これがあの子の運の尽きだったのでしょう」
老婆はじっと天を振り仰ぐ。その視線の先には何が浮んでいるのか、と据瞬は彩施の顔を見つめる。
「政はきれいごとでは出来ませんからねえ。親の私にはわかる。あの子はそんな才は無かった。州司馬だって分を越えた役職でございましたし。そりゃ、そんな事続けていればいつかはうまく行かなくなるでしょうとも」
「私は殉角の出世など一度も願った事はございません。あの子にはあの子の分がありましょう。それをわきまえないからこんな事になったのです」
気丈だった声が微かに震えた。そして老婆の目尻から深くなった皺を伝って涙がぼろぼろっとこぼれる。その涙の訳を据瞬は理解した。殉角を州司馬に、と推したのは据瞬だったのだが、それを静かに責めているのだ。
「お言葉ですが」
丁寧に竜潭が口を開いた。
「分があるとおっしゃいますが、人の持ち合わせる分はいったい誰が決めるのでしょう?」
「天帝か西王母様でしょう」
「なれば自分を試してみたいと思うのが人情ではないのですか?」
「貴方は人情で王になったのですかえ?」
竜潭は赤面した。そのとおりだ、と居直りたい気持ちだった。
「言葉が過ぎますぞ、彩施様」
据瞬がかばう様に言葉を挟む。
「人情で死んでしまったら、なんにもならないでしょう?そう思いませんかえ?そんなに高い地位や身分は魅力的ですかえ?どんなに貧しくてももっと魅力的なものだってある。貴方には一生わからないでしょうけどねえ」
老婆の目に後から後から涙が沸き上がってはこぼれ落ちる。
「父上様も殉角も愚かしい…。ほんに愚かしい…」
据瞬は泣き崩れる彩施に懐からハンカチを出し、そっと差し出した。彩施はそれを拒むと自分の懐からそれを取り出した。娘時代のものだろうか、豪華なものではあったがかなりくたびれた布きれだった。据瞬は見つめた。何故この人はこんなに頑に自分を拒み続けるのだろう?彩施はその視線に気がついて、前と同じ小馬鹿にしたような目で据瞬を見据えた。
「彩施様…」
その目におされて据瞬が言い訳する様に声をかけた。
「今、彩施様はいかがなされているのですか?御主人は?」
「とうに死にました」
そっけなく彩施は言う。
「王宮においでになるおつもりはござい…」
「ほんに貴方って人は!」
据瞬の言葉を遮って、彩施は薄ら笑いを浮かべた。
「いつになったらおわかりになりますのかえ?愚かしい…!」
吐き捨てる様に言葉を続け、彩施は深い溜め息をついた。
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