ー20ー
「一体これは…!?」
蓮月は大勢の人が王の執務室の入り口に詰め掛けているのを見て、不吉な気持ちになった。そうじゃなくても不安で仕方がなかったと言うのに。こんな時に動きやすい官吏服で来なかった自分を少しばかり恨めしく思いながらも、そこに集っている人々が大司馬栄鶴と大司冦春風の所縁のもの達である事を見て取った。
「いったい主上は何をお考えなのだ!」
1人が怒った様に吐き捨てる。
「さっぱりわからぬ」
隣にいる者も怒った様に答えた。
「栄鶴様と春風様を更迭するとは、御乱心なさったとしか思えん。一体これからどうすればいいのか!」
蓮月は彼らから少し離れたところにいたのだが、その怒った口調はハッキリと聞き取れた。そして栄鶴と春風と言う組み合わせに妙に納得した気持ちがする。
「蓮…、蓮…」
蓮月は小声で自分を呼ぶ声に気がつき、そっと後ろを振り向いた。
「丁度よかった。迎えに行こうと思っていたんだ」
「台輔…」
「しっ…!」
蓮月の後ろには、息を潜める麒麟が静かに立っていた。
「詳しい話は後で。そこからは入れない様にしている。こっちだ」
塙麒は蓮月をそっと誘って、執務室に繋がる道を先導し始めた。
「蓮!」
王の執務室には竜潭の他に冢宰の佇叔が穏やかな顔で待っていた。
「早かったな、台輔」
「うん。外に出てみたらそこに蓮がいたんだ」
竜潭と塙麒が軽く言葉を交わした後に、竜潭は改めて蓮月の方に向き直った。
「台輔に蓮月を呼びに言ってもらおうとしたところだったんだ。丁度よかった」
竜潭はいつもと変わらない笑みを浮かべて、蓮月を迎える。その笑んだ表情からは外の喧噪など全く感じられない。
「主上…」
蓮月はその場で叩頭礼をし、戸惑いがちな不安げな瞳を向ける。
「心配はいらない。少し人事換えをするだけだ」
竜潭は蓮月に更に強い笑みを向ける。蓮月はその表情を見るだけで、今までの不安が氷の様に溶けて行くのを感じる。だが、果たして本当にそうだろうか?それにしては『更迭』という言葉は重くないだろうか…?
「緊急事態だ。ほんの少しの間だが…」
そう前置きをして、竜潭は目の前で跪いている蓮月に唐突に言った。
「大司徒、虞蓮月。貴女を大司馬に叙する。しばしの間、大司徒と大司馬を兼任する様に」
は、という息を飲むような声が蓮月の口から漏れた。
「主上!」
強い困惑の表情で蓮月は竜潭を見つめる。
「俺に力をくれ、蓮月」
なおも竜潭は蓮月に言葉を挟ませない勢いで言葉を続ける。
「蓮月が大司馬という職務について嫌悪感を持っているのはわかっている。だが、俺の側にいて支えてもらえんだろうか?」
蓮月が彩施と思われる女性に『血に飢えた麒麟』と言われ、『大司馬になったら大変な事になる』と言われて不快感を持っていたのは先日聞いた。そんな蓮月に大司馬になれと言うのは酷なのだと重々承知している。だが、だからこそ蓮月を大司馬に据えてみたい。か弱い女性でも務まるだろう。直接腕力を使うのではなく参謀として、軍師として采配を振るうだけなのだから。
そして竜潭は蓮月に、これから自ら禁軍を率いて寧州に向かう事、そこでの仕事は塩害の村を救う事にあるのだから、状況を把握している蓮月が指揮をとった方がいいのだ、ということを手短に説明した。
「お話はだいたいわかりましたが…」
まだ何か腑に堕ちない表情で蓮月が竜潭に問いかける。
「何故春風様まで更迭なさったのか?主上は何かお隠しになっておられませんか?」
ふ…、と竜潭は微笑んだ。蓮月にはなにも隠す事はできまい。
「一種のカンなのだが…」
そう前置きをして、竜潭は蓮月に手を差し伸べた。蓮月はゆっくりと立ち上がり、竜潭のすぐ横の椅子に腰を下ろす。
「白栲(しろたえ)香る季節の風、汝決して気を許すまじ…神木はこの世の神に仕える事のみならず、神たらんと欲している」
竜潭は先日蓮月が本の間から見つけた紙切れの言葉を暗唱した。不審そうに蓮月が見つめる。
「この解釈を考えていた。白栲とは梶の木の事、香るのだから香梶。そう考えたな」
「はい」
「白栲が香るのはいつの季節かと言えば」
「春でございますね」
「そう、春の風、春風だ」
「あ…」
「彼は前王の時代から今現在まで秋官長だから気がつかなかったが、彼は字を王から賜ったと聞いた。俺は前王燦大だと思っていたのだが、もし前々王蕪帖の話だとしたら…。その蕪帖の時代に春官長でそういう字を賜っていたなら、先日据瞬が言っていた『香梶』なのではないかと踏んだのだ」
「それは…!」
佇叔も竜潭の口からそれを聞くのは初めてだった。
「佇叔は香梶について何か知っているようだが、間違っているか?」
「『香梶』とは全く別の方のお名前で…」
佇叔が言い終わらないうちに、蓮月が口を挟んだ。
「いいえ、あり得る事だと思います、主上」
きり、として睨み付ける様に蓮月は佇叔を黙らせた。
「香梶は少なくとも3人は存在いたします」
「なに!?」
竜潭は驚いて目を剥いた。佇叔も口をポカン、と開けて蓮月を見る。
「冢宰殿は香梶とは何方の事とお思いでいらっしゃる?」
「私が存じているのは…」
そこまで言って躊躇った様に蓮月の顔を見つめた。
「女性でいらっしゃる?それとも男性?」
「男性だとお見受けしておりましたが」
歯切れの悪い口調で様子を伺う様に蓮月を見ながら、更に困惑し切った顔で竜潭の顔をちらり、と見た。そしてモゴモゴと呟く様に白状する。
「私が存じております香梶は、今は昔の面影は見る影もなく、品行方正な若者になりました。だから過去の事は蒸し返さずともよいのでは、と思うのです」
「私も昔のお話を伺い、本当に驚きました」
そして、くるりと蓮月は竜潭の方を向き直った。
「主上、まず最初の『香梶』殿は据瞬様です。据瞬様本人に確認いたしました」
「え…」
息を飲むような驚きの声にならない声が竜潭の口をついて出た。
「そして次の『香梶』は彩施さん」
淡々と蓮月は名前を挙げる。
「そして恐らくもうひとり。主上のおっしゃる通りに春風殿かも知れません。据瞬様のお名前を語った誰かがいて、罪を据瞬様に擦り付ける予定だったのではと思います。据瞬様には何か心当たりがおありのようでした」
「何故、そんなことが…」
眉根に皺を寄せて、竜潭が苦しい顔をした。
「わかりません。でも、据瞬様も苦しんでおいでのようでした」
「うん…」
竜潭は一度目を伏せると、何かを決意した顔でもう一度目を開き蓮月を見つめた。
「蓮、良い話をしてくれた。これで決意は固まった。やはりこの件はもはや後には引けないようだ。きっちりと決着をつけなければ、恐らくこの巧は立ち行かなくなるだろう」
そしてその顔のまま、竜潭は立ち上がった。
「冢宰。今から官を集めろ。そして遣いを走らせ淳州州侯据瞬もここへ」
「主上…」
「相手は誰かわからぬ。だが…」
竜潭はここで言葉を切った。しかし佇叔も蓮月も塙麒も痛いほど竜潭の気持ちがわかる。今が立つ時だと誰もが了解した。そして3人も立ち上がる。
「ついて参ります、主上」
まず、蓮月が竜潭の前に跪き、叩頭礼をした。そしてゆっくりと顔を上げる。
「どこまででも」
その隣で佇叔もそれに倣う。そして更に塙麒も続いた。
竜潭の顔が一瞬ほころんだ。
|