捨身木に花が咲く 第3部
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据瞬は再び記憶を辿った。据瞬は竜潭を慶の国の大きな屋敷に預け学校にいかれる手筈を整えた後に、慶の王宮を訪ねた。そして再び衝撃が起きる。景王が倒れていたこと、彩施がまた知らない男と再婚していた事。ここに来て、据瞬はやっと気がついた。自分は彼女に利用されていたのではないだろうか?

もはや景王がいないとあっては慶にいたところで 巧と余り変わらないだろう。気にかけていた彩施はこれで何とかやっていける。もはや禊(みそぎ)は済んだ。大司馬もきっと許してくれる。

据瞬はひとり巧に戻っていった。

そして数年後立派に育った竜潭と会う。そして見た。伝説の妖魔椒図が彼を目指して飛来したのを。椒図はただの妖魔ではないと言われている。麒麟に次ぐ霊獣、龍の一族だという説もある。麒麟がそれを指令として下したが、据瞬は思い当たった。彼の懐にあるあの竜眼石が椒図を呼び寄せたのではないだろうか?

そして竜潭は主上として立った。ぜひ大司馬に、という誘いを自分は断った。理由は二つ。もはやかつての大司馬藩起(はんき)に遠慮している訳ではなかった。大司馬と聞く度に藩起や彩施の事を思い出すのが辛かったのだ。そして国の一番上に君臨すべき王が自分を師匠と慕ってくれるのは嬉しくもあったが不安でもあった。この甘えが高じたらきっと碌な事はならない気がした。

そして淳州州侯であった栄鶴と入れ代わったのだ。実際は州侯は冢宰や三公と共に侯であり、大司馬は卿伯であって州侯の方が身分が高い。だが、栄鶴は正式な王が倒れてから就任した州侯であって公式に認められている訳ではなかった。そこで据瞬としても遠慮なく州侯の座につき、栄鶴に大司馬を任せたのだ。

その時、慶の国に行っていた殉角が戻って来た。そしてそのまま州師に入ることになった。子供の頃に比べ少しは兵士としての訓練も積んだらしくそこそこの腕を持つ様になってはいたが、どこか卑屈なところがあり、いっぱしの軍人としてやっていけるかは怪しいものがあった。

そして州侯になってしばらくして、田猟(でんりょう)として納税の管理にやって来た地官の蓮月に会った。まだ大学を出て間がない頃の事だ。当時の蓮月は今と違って、美しい薄衣を幾重にも重ねて艶やかな服を着て、綺麗に化粧もしていた。その美しさはたとえようもなかった。既に昔の頃とは違い浮き名など流していない据瞬ではあったが、一目で気に入り本気で求婚を考えようかと思った。

他の者も同じだったに違いない。もともと官吏に女は少なく、蓮月は仕事にならないほど皆にちょっかいを出される様になる。だが、すぐに皆は思い知らされた。彼女は一筋縄ではいかない『食えない』官吏だったのだ。迂闊に近づいた男達は蓮月にみっちりとやり込められ、恥をかかされた。いつの頃からか黒い男物のような官吏服しか着なくなり、化粧も紅すらささない様になった。常に冷徹な官吏であろうと心に決めたようだった。

先ほど主上の遣いの者が来た時に見せた、あの表情だ。

「疲れてないか?」
そんな蓮月に声をかけた据瞬は、ふっと蓮月の瞳がなごむのを見た。
「はい。少し…」
蓮月は自分にそう答えた。きっと他の者になら『少しも』と答えたであろう事を据瞬は知っていた。この少しばかり気を許しているかのような受け答えが、据瞬にはとても嬉しいものだった。
「あまり無理をしないように…。続きは明日にしたらどうだ?」
「州侯様直々にお声をお掛け頂くとは、とても嬉しゅうございます」
本当に嬉しそうに言う蓮月を見て、主上竜潭の幼い頃を思い出した。瞳の色は全く違うけれど、憧憬の眼差しはほとんど一緒だ。

そして聞いた。蓮月は自分や竜潭と同じ五曽の生まれであること。幼い頃から据瞬の武勲を聞いて育っている事。その人となりをかなり美化されて蓮月は聞いて育っていた。
「だから据瞬様にお会いできるのを大変楽しみにしておりました」
「ではもしかしたら、五曽のどこかで会っているかも知れぬな?」
蓮月は少し考えたふうに間をおいて言った。
「州侯様は御存知ありませんでしょうか?10年間里木にぶら下がっていた白い卵果を」
「ああ、あの愉燵のところの…」
「あれが私です」

据瞬は目を見開いた。まさかあの実がきちんと実るとは考えてもみなかった。

そう、その時思ったものだ。この蓮月は将来きっとこの国に重要な何かをもたらす様になると。それがいいものかそうでないかはわからないが。そしてその後調べて遠く蓬山にある捨身木に咲く花の伝説を知った。

自分が守らねばならないものを見つけた思いがした。

据瞬は次々に沸き出す様に記憶が蘇った。その後、蓮月を連れ歩き田猟としての仕事のあり方を教えた事。蓮月はそれが認められて遂には小司徒となり、さらに大司徒に抜てきされた事。王宮に入ったとたん何やら騒動に巻き込まれ、囚われた事。

蓮月をかばう為に殉角に斬り付けられた事。そのまま意識が薄れ、先ほど意識が戻った事…。

思い出して改めて据瞬は辺りをぐるりと見回した。少しばかり立派になった竜潭がいる。禁軍将軍だったときに親交の深かった冢宰の佇叔がいる。さらに昔からともにつるんでいた仲間達がいる。類い稀な青い麒麟もいる。

据瞬は1人の男に目を止めた。倒れる前に蓮月から名前が出た男だ。捕われる直前池のほとりで水面に顔が映るのを見たと言う…。その男は何食わぬ顔で話し合いに参加している。もちろん蓮月もその男に気を留めている素振りは見せていない。彼が何かを知っているのか、たまたまなのか…。

このまま記憶のない振りをしていよう、と据瞬は考えた。自分が何故記憶を一時的に無くしたのかはよくわからない。だが記憶を無くす寸前に殉角に言われた言葉が胸を抉る。
『あんたは俺の気持ちなど何にもわかっちゃいねえ。あんたはあいつを、あいつだけをずっと特別にかわいがった』
竜潭を特別にかわいがった事は認める。そして殉角を心の片隅でどこか疎んじていたのも認めよう。だが、彼は自分を慕っていたのだ。だからこそそんな発言をしたのだ。わかって欲しくて、認めてもらいたくて。だが自分は彼に何をしただろう?確かに州司馬に取り立てられる様に計らいはしたが、彼の母親を思い出すのが疎ましく近くに寄せようとは思わなかった。殉角もそれを察したのか今までさほど親しい交流のようなものはなかった。ただ、役目上の付き合いがあっただけだ。

母親はどうしているかすら、州侯になってから一度も尋ねた事はなかった。

ふっ…、と据瞬は笑った。目の前で皆が次の州司馬に相応しい人物を推挙しあっているのを眺めながら、据瞬は自嘲気味な笑みを浮かべていた。

「では今名前の挙がった人物について、その推薦理由と経歴を明日までに書にして提出を。その後明後日の朝議にて再び議論いたします」
佇叔はそう締めくくった。

まず竜潭と麒麟が退席した。そして官達も立ち上がり、顔に笑みが浮ぶ。
「さあ、蓮月。帰ろうではないか」
据瞬は少し大袈裟に蓮月を誘う。
「もうすっかり夜も更けた」
そしてそのまま傷を負っていない右腕を馴れ馴れしく肩に回した。他の官達はぎょっとした顔で据瞬を見る。
「なりません」
落ち着き払った声で蓮月はその腕をほどこうとした。だがその手を今度は細い腰に絡ませる。
「なに、恥ずかしがる事はない。明日の朝は遅くなると藩起(はんき)様に遣いを出しておこう。帰るぞ」

蓮月は困惑した顔で据瞬を見つめた。蓮月の知っている据瞬とは別人のようだった。
「何を変な顔をしているんだ?『蓮』?」
蓮月は一瞬だけ気がついた顔をした。そしてすぐに据瞬にそっと身を寄せた。
「お身体に障りますよ」
「ふ、構うものか。禁軍将軍たるものこれしきの事で…」
据瞬は蓮月を引きずる様に扉から出ていった。

後に残った官達は眉をひそめひそひそと囁きあった。
「懐かしいな、あんな据瞬を見たのは久しぶりだ」
「やはり記憶を無くしていると言う噂は本当だったんだな」
「それにしても蓮月とは羨ましい」
「蓮月も世話になった据瞬相手ではむげにも出来ず困っておったな」
「助けに行くか?」
「いや、それは不粋と言うもの。ま、蓮月のことだ。心配はあるまい」
「東宮の警備の巡回を少し増やす程度でよろしいでしょう」

「据瞬様もお人が悪い」
桔梗殿に着くとすぐに蓮月は笑い転げた。
「そんなに可笑しいか?」
少しばかりぶ然と据瞬が言う。身体に回した腕はすぐに外した。
「皆さんのお顔を御覧になりまして?」
「ああ」
ころころと笑い転げながら、蓮月は嬉しそうに据瞬の顔を覗き込んだ。
「私の事、思い出していただけたでしょうか?」
「もちろんだ、蓮。俺が忘れる訳がなかろう」

きゅっと蓮月は据瞬の鼻をつまむ。

据瞬は苦笑いを浮かべ、すうっと蓮月から離れた。
「どうやら俺はこのところ勘違いが激しい様だ」
「据瞬様?」
いや、と据瞬は笑ったまま蓮月に言った。
「済まないが茶をいれてくれないか?」
「はい、そうしたらお聞かせくださいませね。何故記憶が戻らない振りを為さる事にしたのか」

蓮月はゆっくりと据瞬の側を離れ、窓辺によると華やかな緞子を下ろした。そして茶をいれる為に奥の部屋に姿を消した。