ー16ー
蓮月は息を殺して自分のスウグに向かって歩を進めた。丁度孫通がもう一人と立ち話をしているその手前に繋いでいるのだ。だが、できれば姿を見られたくはなかった。
厩にはかなりの人間が出入りしているが、孫通の回りにはその連れの人間以外ほとんど姿は見えない。だから余り警戒している様子ではなかった。
「全く、主上も手を焼かせて下さる」
孫通の隣にいる人物がそう言った。
「何かを気付きかけている様だが…」
孫通は一応警戒しているのか声を顰める。
「おまえさんがしくじるからよ。そのせいでこちらは相当な被害を被った」
険のある口調でそう言った人物の顔は、孫通の影で見えない。だがその声には聞き覚えがあった。低いくぐもった声…。男の声ではなかった。
誰だったかしら、と蓮月は首を捻る。できるだけそちらを見ない様に足音を忍ばせながら、一生懸命声の主を思い出そうとした。
「それにしても主上も主上だ。よりによって蓮月など…」
「し…」
孫通の声が大きくなりかけたとき、それを制する様にもう一人の人物が声を潜めさせた。慌てて蓮月は顔を臥せる。丁度手前の騎獣の影に隠れて、蓮月の姿は見通せないようだった。
「確かに蓮月は美しい。だがあんな食えない女は滅多にいないよ」
その女も蓮月を知っているようだった。そして自嘲気味に小さく笑い声が聞こえた。
「私に蓮月ほどの才能と美貌があったら、きっとこの野望成し遂げてみせるのに!」
孫通はそれには返答せずに、残念そうに呟いた。
「我々も最大の努力をしてみたのですがね。青鳥(しらせ)を持ってしてもなびかず、拉致して脅すもなびかず…」
「それもいまいましい据瞬が阻んだのであろ」
「はい」
「やはりあの時片付けておけば良かったものを」
「燦大様と共にでございますか?」
「そうともよ。何を血迷ったか我が父を誅するとは、あの燦大め!最後の最後に気がつきおって」
次第に声が大きくなって、蓮月の耳にもハッキリと言葉が聞こえる様になった。そしてすぐに気がついた。この顔の見えない女の正体…。
殉角の母親、彩施。先日殉角を失い、それをきっかけに据瞬の過去を少しばかり知る事になったあの彩施ではないだろうか。
蓮月の身体に鳥肌が立った。いったいこの女は何を言っているのだろう?幼い頃近所に住んでいたからだろうか、何度か聞いた事がある声だった。だが、それだけではない気がする。
「私は殉角も失ったのだ。手足の様に動く便利な男だったのに!親子の振りをして手なずけルのに、どれほど時間をかけた事か!ほんに、お前さんの浅はかな計画はお見事だよ」
「香梶様…」
びし、と音がして、顔面に拳が飛んだのだろう、孫通の身体がグラリと傾いだ。
「愚かな男だね。こんなところで名前を呼ぶんじゃないよ」
ついに甲高い彩施の声が叫び声に変わった。
「香梶…!?」
蓮月の心臓が激しく高鳴る。息を顰めていてもこの心音を聞かれてしまいそうな気がする。
「も、申し訳ありません、彩施様…」
香梶が彩施…。蓮月は頭の芯に熱いものが沸き上がって来る感触がした。いったいこれはどう言う事なのだろう?
「いいかい、我々の長年の夢は今度こそ叶えられるのだ。そんなに浅はかでどうする?我々の悲願は今の主上は何のかかわりもない。だから一層良い機会となろう。まず据瞬だ。まずあやつの息の根を!」
怒った様子の彩施はそう言い捨てると、目の前にいた天馬に跨がった。息を顰める蓮月にその顔がちらり、と見えた。
その顔は老婆ではなかった。叙笙と同じくらいに見える。
「いいかい、寧州の港だけはきちんと押さえるんだよ。架基にようく言っておいてくれ」
「は、はい…」
「そう、それから去年は運悪く洪水に見舞われたんだって?春風が言っていたよ。蓮月が寧州に興味を持っているそうじゃないか。いいかい、あの女を近付けちゃいけないよ。女の直感は恐いからね。据瞬なら何とか丸め込めるが蓮月が相手ではきっと分が悪くなるよ」
「お言葉ですが…」
孫通がおどおどと彩施を見上げて言葉を発した。
「あのような子娘、どうして恐れる事がありましょう?」
「馬鹿だね、知らないのかい。あの娘は戦える麒麟。血に飢えた麒麟なんだよ」
「は…?」
「あの血の色の瞳を見ただろう?主上も気がついてない様だから今ならなんとかなる。あの娘を大司馬に据える前に、我らの野望を!」
彩施はそう言い放つと天馬の手綱を引いた。
あっという間に彩施の姿は厩から消えた。そして続いて溜め息まじりの孫通も天馬に跨がり、視界から消えた。
後には呆然と柱の影に潜む蓮月だけが残された。
しばらくした後、蓮月は思い直して自らのスウグに鞍をつけ、静かに連れて外に出た。そこにはかなり前に残した叙笙が、そのままの場所に身を顰める様に立ち尽くしていた。
「お待たせ…」
そう、声をかけた蓮月は正気を失っているかの様に目を剥く叙笙に気がついた。
「叙笙!!」
蓮月は叙笙に駆け寄り肩を掴んで数回揺さぶった。
「あ…。れ、蓮月様…」
涙目のような怯えた目に蓮月が不安になった時、叙笙の方から蓮月に縋り付いてきた。
「ごらんになりましたか、蓮月様。彩施です。あの、彩施です…」
「『あの』彩施?」
「御存知ありませんのか。何代か前の主上が登極なさったときに蓬山を追放された、女仙の彩施です…。まさかこんなところで会おうとは!」
「落ち着いて、叙笙。とにかく桃李宮に帰りましょう」
蓮月は抱える様に叙笙をスウグにのせると自分もスウグに跨がった。
「取り乱しまして、申し訳ございません」
叙笙は蓮月に深々と頭を下げた。桃李宮に戻った蓮月はすでに身支度を整え、綺麗に化粧を施している。
「教えて叙笙。彩施とは誰?据瞬様は先の王、燦大様の大司馬だった藩起様の娘だとおっしゃった」
「出生はわかりません。しかし藩起様は蕪帖様の前の王の寵臣だったとか。蕪帖様も信頼されおそばにお置になったのだと聞いております。もし、その以前に生まれ女仙として蓬山に入っていたとしたら」
蓮月は頷いた。
「いったい何故貴女はあんなに怯えた様な顔をなさったのです?」
「彩施は蓬山から、天から何かを持ち出したのでございます。玉葉様が顔色をお変えになったのを私は初めて見ました」
「蓬山から…?」
「それがいったい何なのか私にはわかりません。私たちは孵った麒麟のお世話をするお仕事しか存じ上げませんでしたから。彩施が蓬山を去った時、蓬山は大変な騒ぎになりました。玉葉様が取り乱されたのを見て、皆何か恐ろしい事が起きるのではと怯えたのでございます」
「ふうん…」
わかったようなわからないような表情で蓮月は相づちをうった。
「玉葉様は大変な剣幕で彩施を追放なさるとおっしゃり、そして昇山なさりかなわずに蓬山を去ろうとしていた一人のお方に何やらを託されたのです」
「ああ、彩施は蕪帖様の前の主上の登極に合わせて追放されたんでしたね」
「ええ。何かを託されたそのお方がどなただったかはわかりません。何を託されたのかも」
しばらく沈黙が流れた。
「そう、もう一つ聞きたい事があるの」
蓮月は思い出した様に切り出した。本当はこれが一番聞きたい事でもあった。
「なんでございましょう」
「彩施は言っていた。私は血に飢えた麒麟だと。その証拠に血の色の瞳をしていると…」
「まあ!」
叙笙の顔が赤く上気した。
「そんなはずはございません!」
しかし、その言葉の勢いは次第に弱まって来る。
「私は大司馬にこそ向いていると」
なおも続ける蓮月に叙笙は観念した様に口を開いた。
「確かに、そう言う言い伝えがございます。天が必要と判断した時、捨身木に美しい花が咲くのだと。慈愛の麒麟が捨身木に残して行くものを全て練り上げてできた、本当に美しい花が…。」
「麒麟が残して行くもの…」
蓮月の赤い瞳が曇った。
「必要な国にその花は送り込まれ、天と天命のある王に仕えるのだと。私はそれを確かめに蓬山に戻ろうと思ったのでございます。おそらく貴女様はそのような天命を背負っておられる」
「蓮月様、主上がお渡りになられました。かなり夜も更けてございますが、いかがなさいますか」
そのとき蓮月に仕える女官の一人の声で、夜もかなり更けている事に気がついた。
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