ー15ー
叙笙の話は続く。
「蕪帖様は私も知っている誰かに誅された…?」
蓮月は目を見開いたまま、叙笙の顔を見つめる。
「はい。それもおそらくお取り巻きの架基様か据瞬様か春風様か栄鶴様のいずれかによって。しかし私は架基様であっただろうと思っております。その後仮朝を切り盛りされた先の4名が申し合わせた様に口を噤まれ、そのままうやむやにしてしまわれた」
「何故でしょう?失道した主上を誅する事は過去何度も行われた。しかし余り褒められた事ではないけれど歴史はきちんと残されているもの。こんなによくわからないままになっているなんて…。その後の燦大様は何もお調べにならなかったのかしら?」
「定かではございませんが、燦大様ももしかしたらお仲間だったのかも知れません。そして蕪帖様と同じ様に誅された」
「え…?」
心配そうに叙笙は蓮月を見つめる。
「全て私の推測でございます。しかし、私はこの翠篁宮の架基様のお屋敷で聞いてしまったのでございます」
「あれは、蓬山から翠篁宮に移って10年ほど過ぎた頃の事でございました」
そう前置きをして、叙笙は語り始めた。
「なあ、春風。例の件はどうなった?」
何かに追いつめられたような架基の声を叙笙は聞いた。部屋には架基と春風の他、燦大と栄鶴も訪れていた。この頃、叙笙は架基の妻として側に控えている事が多かったのだが、その時はその鬼気迫るような声に圧されて架基の元に駆け寄る事が躊躇われた。だから隣の部屋のつい立てに潜む様に身を寄せた。
「御心配召されますな。もう既に手筈は整えてございます」
栄鶴のなだめるような温和な声がした。
「しかし、もう時間がないぞ。あいつが、あの男が、据瞬が帰って来る!」
「できるだけ温和な方向で善処いたします」
「止められぬか?」
「不可能です」
「くそう、据瞬のやつ…!」
くく、っとくぐもった声が聞こえた。この声が誰のものか、笑ったのか唸ったのかの判別はつかない。しかし叙笙は何やら不吉な匂いを感じ、足が竦んでしまった。
「おい、架基!据瞬を我々の仲間に引き入れると言うのはどうだ?」
「話にならん」
「架基!」
次の王になるなどとは露程も思っていなかった燦大が、鋭い声で架基の名前を呼んだ。しかしそれに対する返答はない。
「おい、架基。私はもうたくさんだ。この上据瞬まで敵に回したくは無い」
追いつめられたような燦大の声が虚しく架基の後を追いかけた。だが、やはり架基の返答は無かった。
そして竦んだままの叙笙は目と鼻の先を、今まで見た事もない険しい顔で通り抜けた架基を見た。それは阿修羅を思わせるような表情であった。
「そういきり立つな」
栄鶴は架基に追い付くとその肩を掴んだ。
「あの男の始末は任せてくれ。我々は何がなんでも長の地位を独占せねばならないのだ。特に夏官は大切な要となる官だ。それをあやつに明け渡す訳にはいかん…」
「いや、据瞬は侮れない男だ。敵に回すよりは味方につけた方が良い」
架基に追い付いた燦大が栄鶴をなだめる様に言う。
「臆すな、燦大」
栄鶴は燦大をねめつけた。
「どうでしょう…?」
怒鳴りあうような牽制しあう声の中に、のんびりとした声が割り込んだ。春風の声だ。
「もし、取り込めるようなら取り込みましょう。大事の前に無駄な争いは避けたいもの。なに、据瞬の弱点はわかっている」
「弱点ですと?」
皆はいっせいに春風を見た。
「蕪帖様と同じです。ま、蕪帖様とは別の意味でですけれどね」
かみ殺すような含み笑いがそこかしこから聞こえた。
「それからしばらくしてでございます、蕪帖様が桃李殿に女性をお囲い遊ばす様になられたのは…」
叙笙が悲しそうにそう言った。
「では、蕪帖様は彼らに嵌められたと?でも、燦大様と言えばその後に王になられた方。そんな方を天がお認めになるものでしょうか?」
「燦大様はこのお仲間を抜けられたのでございましょう。ただ、このお仲間を恐れた為か、おそばからお離しにはなられなかった」
「そして誅された…?」
「そこまではわかりません。私は間もなく架基様のお屋敷を出て、女官として主上にお仕え始めましたので」
叙笙の口調が静かに穏やかになった。
「もう、昔のことでございます。私はただ近くでそれを見てまいりましただけ…」
「その方々が長の位をいまだに占めている。いったい彼らの目的は何なのかしら?さほど華美な生活をなさっているとは思えず、私利私欲を貪るようなこともなさっていない」
蓮月はずっと地官の仕事をしてきたのだ。不正があればすぐに気がつくはずだ。
「もう、大昔のことでございますから…」
蓮月は静かに頷いた。
「お約束通り」
と、しばらくの沈黙の後に叙笙は切り出した。
「しばらくお暇をいただけませんでしょうか?」
「叙笙…」
「久しぶりに蓬山に帰って参ります。本当はもっと早くに帰らないといけなかったのでございますが」
「蓬山に…」
叙笙は暖かい手で蓮月の手をそっと握った。そして両手で包み込む様に蓮月の手を挟む。
「きっと貴女様にお会いする為に私は蓬山を出たのではないかと思います。貴女様は懐かしい捨身木の香りがなさいます」
叙笙の手が蓮月の手を離れ、蓮月の頬を包んだ。
「それはただの伝説。私がそうとは…」
「いいえ。貴女様は捨身木の花。私がそう申し上げるのだから間違いがありません」
怪訝な顔で蓮月は叙笙を見つめた。
「私は蓬山で捨身木のお世話を申しつかっていた女仙でございます。見間違えるはずがございません。この髪のお色は捨身木の木の葉の色。つやつやとした輝きまで本当にそっくりでございます」
叙笙は真剣な瞳を蓮月に向け、話を続ける。
「貴女様こそ主上をお支えになれる唯一のお方。貴女様が必要だから天は貴女様をこの巧の国にお遣わしになった。どうぞ、あのお若くて透き通る瞳を為さった主上をお支え下さいませ」
蓮月の顔がふと優しくなり、頬がほんのりと染まった。
「私は蓬山に参り、玉葉様に伺って参ります。貴女様が為さらねばならない事、私にできます事。貴女様はきっと台輔と同じような何かをお持ちのはず。貴女様は戦える麒麟なのかも知れません」
「戦える麒麟…」
「それまではどうか早まりなさいますな」
蓮月は左手で自分の髪をそうっとすくった。たった今、これを切り、州侯架基のところに潜り込むつもりでいた。面は割れている。奥深く潜り込む事は難しい。婢では中の様子はわからない。
「では、私はいったい何をしたら良いかしら…」
眉間に皺を寄せ、蓮月は天を仰いだ。
「主上に御相談なさいませ。今私が申し上げた話は、できればまだ為さらない方がよろしいでしょう。今あの方は不安にかられていらっしゃる」
「そうね。差し迫って何か危険がある訳ではないようだし…。弱味を見せてはいけない。叙笙、翠篁宮に帰りましょう。そしてこのスウグに乗って蓬山にいらっしゃいな。一刻も早く帰れる様に」
蓮月と叙笙はゆっくりと宿を出た。そして厩にスウグを取りに行く。厩には見事な騎獣がたくさん繋がれていた。それだけ信頼のある宿だと言う事だ。手入れも行き届き、高価な獣達を安心して預ける事が出来る。ここは巧国のなかでも評判の宿であった。
「!」
厩の入り口に差し掛かった時、蓮月はふいに立ち止まり、入り口の柱の片隅に身をひそめた。叙笙も急いでそれに習う。
「あれは淳州の!」
ひそめた声で蓮月は呟いた。そこにいたのは自分が捕らえられた時に姿を現した州師左軍将軍、孫通だった。蓮月と据瞬の身柄を拘束した後、姿を消していた。据瞬はその後記憶を無くし先日淳州に戻ったばかりだ。蓮月から話を聞いた竜潭が急ぎ追跡したが行方は知れなかった。
その孫通の脇にはもう一人人影が見えた。孫通との距離はかろうじて顔が見える程度。隣の人物までは確認できない。
「蓮月様!」
小さな叫び声が叙笙の口をついた。しかし蓮月は既に身体を低くし、滑り込む様に厩の中に入って行った。
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