捨身木に花が咲く 第3部
                     ー12ー

「何故でございますか…」
長椅子に座ったまま、ぎこちなく頬を寄せて、 蓮月は静かに竜潭に聞いた。
「そなたが愛おしいという理由では足りないか…?」
蓮月は夢見がちな少女の顔で竜潭の顔を見つめると、小さく首を横にふった。

竜潭は腕の中にいる蓮月をしげしげと見つめてみた。今日は赤い絹絣の衣の上にうす紫の薄衣を重ね、見事な刺繍がそれを豪華に彩っている。その衣に合わせて髪には見た事もないほどの細かい細工が施された簪が小さく結われたまとめ髪にさされている。だが、大部分の髪は下に垂らされており、そのつやつやとした輝きは思わず手に掬ってみたいと思うほどだ。

そして気がついた。蓮月は昔命を助けてくれた官吏を追いかけて大学に行き、官吏になる為に優秀な成績を修めたと言う。だから蓮月は誰の手にも堕ちない。いったいその官吏は誰だろう?そんな噂があちこちで囁かれていた。もしかしたらその官吏とは自分の事だったのではないか。

蕪帖や香梶の話が頭を掠める。彼らの時の様に、今自分に対して謀反を起こそうとしているものたちがいる。しかし、蓮月がいてくれたら、どんな困難でも立ち向かえるのではないかとさえ思えて来る。

「蓮月。明日から忙しくなる」
「はい…」
返事をしながらも、蓮月は不思議そうに竜潭を見上げた。
「俺は今までできるだけ皆にとってよい王であろうと心掛けて来た。だから臣達に迷惑になるような行動はできるだけ慎んで来たつもりだ」
蓮月は静かに頷く。
「だが」
そう言って竜潭は言葉を切った。

「主上…」
「ついてくるか?」
「はい」
「どこまでもついてくるか?」
「はい」
「大司徒としてだけではないぞ」
「はい」

竜潭は蓮月の両腕を掴んで自分の方に向かせた。
「一つ聞いておきたい。俺も据瞬や塙麒のように蓮月の事を『蓮』と呼んでもいいか?」
蓮月は艶を含ませた華やかな笑みを浮かべた。
「もちろんでございます」
「ならば『蓮』、蓮も俺を名前で呼んでくれ」
「はい、竜様」
二人は顔を見合わせて同時に、くすくす、と笑った。


「主上はいったいどこにいらっしゃったのだ!?」
冢宰はいつになく青ざめた様子で王宮内を歩き回っていた。今まで竜潭は朝議を休んだ事はない。休んだ事はおろか遅刻した事すらないのだ。だがその日の朝はどこを探してみても竜潭の姿は見え無かった。
「佇叔様、竜潭様ならきっともうお出かけになっているよ」
塙麒がくすくすと笑う。
「なんですと!?」
佇叔の顔が青い色から急に赤くなった。
「だって、今朝散歩をしていたら、竜潭様のスウグともう1頭のスウグが人を乗せて出かけて行くのを見たもの。珍しいな、とは思ったんだけど」
「もう1頭とは…?」
「あははは!」
ころころと笑い転げる塙麒に血圧が上昇気味の佇叔が食って掛かる。
「台輔!笑い事ではありませんぞ。いったいどうなっているのだか!」
「ようく回りを見回して御覧よ。もう1人いない人がいるでしょう?」
「今朝は、大司徒、虞蓮月殿からは欠席する旨の連絡をもらっているけれど、他は皆揃っている」
「そう、蓮はスウグを持っているよね」
「まさか…!」

佇叔は絶句したが、すぐに気を取り直し自分を納得させる様に呟いた。
「大司徒と一緒ならば問題ない…。朝議を始めましょう」


竜潭と蓮月は淳州州侯の据瞬に会う為に朝早くから翠篁宮を抜け出していた。彼は先日翠篁宮から自分の館に戻ったばかりだ。スウグの足をもってすればあっという間に州侯の館に着く。できるだけ誰にも迷惑をかけたくなかったし、できれば今日一日を有意義に使いたかった。
「佇叔はどんな顔をしているだろう?」
竜潭はおかしそうに笑う。
「きっと戻ったら大目玉ですよ」
蓮月も、赤くなって怒っている佇叔を思い浮かべ、ころころと笑った。
「蓮月だって同じだろう?」
「私はきちんと欠席の旨を申し出て参りました」
「あっ!ずるいぞ。1人でいい子になるつもりなんだな?」
「なんとでも」
蓮月は涼しげな瞳を竜潭に向けた。
「ちぇ。俺は欠席届けを出しても許してもらえそうにないからな」
蓮月の視線を受け、今までにない視線のむずがゆさに竜潭は思わず顔をほころばせた。それを見た蓮月も同じ様に視線を泳がせる。

「お待たせしました」
そこに据瞬が急ぎ入って来た。二人は据瞬が朝議を終わらせて戻って来るのを待っていたのだ。据瞬は主上の前に叩頭礼をする。蓮月は竜潭の斜め後ろに控え、静かに跪いていた。
「お珍しゅうございますな」
「うん。据瞬の記憶を当てにして来たんだ」
竜潭はゆっくりと顔を上げた据瞬に自分の前の椅子に座る様にと、手を差し出した。据瞬はもう一度礼をすると立ち上がった。竜潭は蓮月にも自分の横に座る様に手招きする。

据瞬は二人の前の椅子に腰をかけた。顔には満面の笑みが浮んでいる。
「何か困った事でも?旱魃の件でございますか?」
竜潭は軽く いや、と首をふり切り出した。
「香梶という人を御存知ありませんか?」

この時の据瞬の表情を、蓮月は決して忘れられないだろうと思った。一瞬にして満面の笑みがこわばり、瞬時に青ざめたのだ。
「香梶…!」
小さな声で繰り返す据瞬は、竜潭が初めて見るような険しい顔で竜潭に問いかけた。
「いったい香梶が何を…?」
「御存知なんですね」
困った顔で竜潭は据瞬を見た。そして念を押す様に問いかけてみる。
「何をしたかわからないから、こうしてお尋ねしたのです」

「知っていると言うほど知っている訳ではないですが…」
据瞬の表情はいくぶん和らいだ様に見えた。
「今さら彼にいったいどんな…」
竜潭は懐からこの前蓮月の屋敷の調度から出て来た紙切れをとりだした。そして皺を伸ばし据瞬の前に置く。

青ざめたまま据瞬はその紙を見据えた。そしてややしばらくしてやっと口を開く。
「これを、どうされました?」
「恐らく先先代の王、蕪帖殿の持ち物と思われるものの中から出て来た。不思議に思って調べたところ、香梶とは蕪帖殿の大変頼りにしていた臣とわかった。いったい蕪帖殿と香梶と言う人物の間に何があったか不審に思ったのです。別に今知らなくてはならない事ではないけれど…」
据瞬は黙ったまま宙の一点を睨み付けた。睨んだまま長い沈黙が流れた。

「いや。言いたくなければ無理に聞かなくてもいい。だが、蕪帖殿の失道になにか関係があるのか知りたかっただけだから…」
竜潭は据瞬にこれ以上尋ねるのは難しいと思った。そして退散するべく立ち上がろうとした時、据瞬がぽつぽつと話し始めた。

「主上。今からお話する事は、どうか私と主上とそして大司徒の3人の胸のうちにだけ留めておいていただけませんか」
「ああ。約束しよう」
竜潭は困ったような表情のままで同意した。蓮月も静かに頷く。

「蕪帖様が王位に就かれて間もなく、私は大学を卒業し官吏の道を歩き始めました。最初は春官の仕事につきましたが、その時の春官長が香梶様でした」
据瞬はそこで言葉を切り、遠くを見つめるような顔をした。
「そうか、据瞬の世話になった人だったのか」
「はい。大変お世話になりました」
据瞬はそのまま口を噤んだ。そんな据瞬に聞きにくそうに竜潭が言葉を繋ぐ。
「据瞬は御存知だろうか?この掠れた文字はなんだろう?香梶と言う人物はいったい何を狙っていたと言うのだ?」
「私もすぐに夏官になった為、詳しい事は存じませんが…」
そう前置きして、据瞬は歯切れ悪い口調で続けた。
「当時、まだ私はほんの駆け出しでした。そして香梶様も。若気の至りでございましたのでしょう。主上である蕪帖様に頼りにされてはおりましたが、何かにつけて意見が食い違い言い合いになる事もしばしばでございました」
「つまり…?」
竜潭はその紙切れについた血液と思しきシミを見つめた。
「香梶様は蕪帖様の無軌道な生活を戒める為に、寵姫の涼嬬(りょうじゅ)に身をお引きになる様にと諌言為さった。しかし香梶様はまだお若かった。艶を武器にしている女と渡り合うには…」

竜潭と蓮月の視線が据瞬に突き刺さった。
「ミイラ取りがミイラになったのでございます」

据瞬は悲しそうな表情で竜潭の差し出した書き付けの掠れているところを、指で撫でた。まるで愛おしむかのようでもあった。
「ここには涼嬬、という言葉が入ります。蕪帖様のそして香梶様のもっとも愛されたお方のお名前が」
「では、この血は…?」
「そこまではわかりません」
「香梶と言う人はその後どうなされたのだ?」
「涼嬬の目の前で蕪帖様に殺されなさったと聞いています」
「そうか…」

神妙な面持ちになってしまった竜潭とは対照的に、蓮月は据瞬の表情をじっと見つめていた。何かが違う。何かがおかしい。今語っている据瞬は蓮月の知っている据瞬とは別の人物である気がしてならなかった。いや、逆だ。いつもの据瞬ではない、自分だけがこっそり知っている別の据瞬である気がする。真の据瞬であると言えるのかもしれない。

「忙しい時に邪魔をした。胸のつかえが無くなりました」
竜潭はそう言うとゆっくりと立ち上がった。
「では旱魃の対応についてはまたいずれお伺いする事にする」
「はい。お待ち申し上げております。できるだけ早いうちに…」
竜潭は頷いた。据瞬は、その少し後ろに下がり自分を見つめる蓮月の目に、今までないほどの不信感が宿っているのを見た。そして一瞬苦しそうな表情をすると、ふいっと目を逸らせた。