捨身木に花が咲く 第3部
                     ー11ー

「懸念と言うのは他でもない…」
竜潭は蓮月の招きに従い、桃李殿のいつもの部屋でゆっくりと茶を飲む。蓮月は竜潭の向側に座ろうか、隣に座ろうか少し思案して竜潭の隣に腰をかけた。目の前には巧国とその周辺の大きな地図が広げられている。向側よりも隣の方が地図を見るのも便利だろうと思ったからだ。それ以上の深い理由はなかった。

「ここが河西、ここが故郷の五曽。寧州の阿岸はここだ」
地図で見れば明らかな事に、河西は慶の国境に程近い場所であり、更に国境沿いに五曽の村がある。五曽は昨年かろうじて旱魃は免れていたが、それは主上の出身地だと言う事で神憑かり的な理由で安泰だったのではないかという噂が流れている。阿岸は青海の海岸線の間近な村で、村自体は漁業を中心に成り立っている。しかし洪水に見舞われた辺りは一体に農地が広がっており、この辺りの食料を生産する大事な拠点なのだ。ここはさほど慶と近いと言う訳ではないが、慶や雁に向かう船の出る重要な港でもある。

「気のせいならいいのだが、何となく慶に接している土地に異変が起きている気がしてならないのだ」
本当に心配そうに竜潭の目が宙を彷徨う。
「蓮月が今日持って来てくれた知らせで、声を聞いたから少し安心したけれど」
「国境付近の監視を強化した方がいいかも知れませんね」
「そうだな」
蓮月の意見に竜潭が素直に頷いた。

「奏国から調度品の購入の打診が来ております。使節の方々が来週にも巧国にいらっしゃるようなので、うまく行けばそこで資金が得られましょう。そうすれば民間からも労働力を確保できましょう」
「うん。その件は君に任せる」
「はい」
蓮月は嬉しそうに笑った。この信頼感が心地よいのだ。

蓮月は今宵も美しく装っている。本当はかなり迷った。化粧はやめておこうか、官吏服のようなものをそのまま着ていようか…。昨夜真意を疑われたのがとても悲しかった。それならば二度とそう言ういでたちで竜潭の前に出るのはやめようかと、さんざん考えた。だが、夕方桃李殿に戻ると既に叙笙が仕度を整えて待っていた。
「叙笙、私は今日はこのままで…」
「いいえ、なりません」
叙笙は優しげにしかし毅然とした口調で蓮月にそう言った。
「何があったかは存じませんが、我が大司徒、虞蓮月様ともあろうお方がお仕事でもない時に美しく装っておられないなんて、あってはならない事でございます」
「叙笙…」
「化粧は女の宝石。たとえ相手が主上であろうとも、貴女様が弱気になってはなりません。貴女様の前に跪かせて差し上げなさい」
「でも…」
「屈してはなりませんよ。胸を張って毅然と頭をお上げください」
蓮月は泣きそうな顔で笑った。叙笙がどこまでわかって言っているのかはわからないが、他愛無い言葉の行き違いであろう事は勘付いているのだろう。

実は今日蓮月は竜潭が桃李殿に来る事を心待ちにしているのだ。もちろん、昼間主上の言っていた寧州と警備の関係も気にはかかる。しかし、再び図書室を訪れて調べものをしていた蓮月は、とある本を見て身体が熱くなった。それはごく普通にある辞書だ。ふと思い立って蓮月は『白栲(しろたえ)』を調べてみたのだ。

梶、と辞書には出ていた。

〜白栲(しろたえ)香る季節の風、汝決して気を許すまじ…神木はこの世の神に仕える事のみならず、神たらんと欲している〜

梶、香。香梶(こうび)、竜潭が見つけた紙切れに出ていた人物の名前が盛り込まれている。しかし蓮月は香梶という人物の事は良くわからない。昨日竜潭から蕪帖の寵臣であるとは聞いたが、そんな人物の事は耳にした事がなかった。まるで誰かがその存在すら揉み消しているかの様に。

梶の香る季節とは5月頃のことか。古代から神に捧げる神木として使われている。春と考えるか夏と考えるか。官吏で言えば春と言えば春官は祭祀や式典を司る官で、白雉の世話などもしているところだ。音楽士もここに入る。夏なら夏官、つまり軍事関係だ。

糸がするするとほぐれていく様に話が繋がった思いがする。だが、確かに話は繋がったがなんの解決も期待できなかった。

蓮月はここまで考えて、とりあえず今日竜潭が来たらまずその話を聞いてもらおうと思った。今の官吏たちの事なら自分にも見当がつくが、2代前の王の事はよくわからない。主上も同じだとは思うが、それでも主上なら主上にしか閲覧する事が許されていない書物もあるかもしれない。

だから竜潭が今日は割合早い時間に桃李殿を訪れた時、きちんと身支度を整えた蓮月は待ちかねた様に出迎えた。竜潭はそんな様子の蓮月を見て、実はホッと胸をなで下ろした。夕べ心無い一言、しかし実は心の奥底でずっと燻っていた一言を口にしてしまった後悔に苛まれていたのだ。心地よい香りに包まれてゆっくり茶を飲むこのひととき、一度経験してしまった今ではなくてはならない時間になってしまっている。そう、それ以上のことは望んでいないと思っていた。

「主上、昨日のあの紙切れの件ですが…」
蓮月は頃合を見計らって竜潭に切り出した。そして自分の気がついた事を話してみる。竜潭は興味深そうに話を聞き、合間合間に相づちをうった。
「では明日にでも据瞬に聞いてみよう。据瞬がいつ生まれたか聞いてはいないが、先の王には登極した時から仕えていたと聞いた事がある。もしかしたら知っているかもしれない」
「私も一緒に行ってはいけませんか?」
蓮月がそう言った瞬間、竜潭は鳥肌が立つのを感じた。

何故だかわからない。しかしその後身体の奥の方で熱いどろどろとしたものが渦を巻いて沸き上がって来るのも感じた。そんな事は許さん、と口をついて出そうになる。だが、その理由が見つからない。返事のない事を不審に思ってか蓮月が怪訝そうに竜潭を見つめた。

蓮月は竜潭の顔が瞬時に曇ったのを見た。そしてその後眉間に皺を寄せ、怒った様に顔をしかめた。気持ちをはかりかねて首をかしげる。そのとき、ふと竜潭の顔が目の前から消え、蓮月は左の頬に柔らかく暖かいものがふっと触れたのを感じた。は、っと息を飲むような声が口をついて出る。

すぐ目の前に竜潭の顔が現れた。

幼い頃からずっと憧れていたこの顔…。あの幼い頃、忘れない様に穴があくほど見つめたこの顔…。まぶたが半分ほど閉じられてゆっくりと自分の顔に近づいて来る。蓮月は困惑した表情を一瞬浮かべたが、ためらいがちに肩に回された腕に身体を固くしながら、そうっと瞳を閉じた。


「大司馬の意見では禁軍を淳州と寧州に派遣すると言う事なのだが…」
何故か竜潭の瞳は透き通り自信に満ち溢れているようだった。初めて見るそんな竜潭を蓮月はじっと見つめる。竜潭は紙に兵の数を書き付けながら言った。
「淳州に中軍二師五千兵、寧州に中軍三師七千五百兵。それに寧州は州師を一万五千加えて治水及び塩害の対策とする。淳州は首都州師ゆえ右軍、中軍合わせ二万五千兵ほど出す事が可能だろうという」
「数としては妥当な気もいたしますが…」
蓮月が聡明な瞳を向ける。既に意識は目の前の書き付けに向かっていた。
「これに国境の警備を加えるとなると、少し王宮の守りが手薄になるような気がいたします」
「やはりそう思うか」
「はい」
蓮月は先日の州師左軍の暴挙を思い出していた。
「首都州師とはいえどこまで信頼してよいものか。先日の一件もありますし。左軍が入っていないことにかなり不安は感じます」
「そうだな」
竜潭の顔が曇る。

「出したとしてもそれぞれを一軍程度にとどめておかれた方がよい。できれば各軍一師もしくは二師ずつ分けた方がよろしいのでは。そして足りない分は民から掻き集めるがよろしいでしょう。報酬さえ出せれば彼らも喜びます」
「うん…」
「そして大司馬がどの師を抜てきするかをよく御覧になるとよいと思います。誰を起用し、誰を残すのか。勘ぐり過ぎているのかも知れませんが、警戒するに越した事がございません」

そして蓮月は竜潭の正面に向き直り、その瞳をしっかりと見据えた。
「私もお疑いではありませんの?据瞬様と組んで貴方様を陥れようとしているのでは?」
竜潭はバツが悪そうに蓮月の瞳を見つめ返した。
「いや…」
竜潭はそれ以上の言葉は言わなかった。日々惹き付けられて行く自分が恐かっただけだと言う事もわかっている。身の回りで亀裂を見つけた時に出会った美しい女。するすると自分のすぐ側に入り込んで来た女。据瞬は利用されただけかもしれない。自分に近づく手段として。そう思ったら何を信じたらいいかわからなくなった。

「御心配なら一つだけ申し上げておきましょう」
蓮月は竜潭から目を逸らし、遠くを見つめるような顔になった。
「私が主上に初めてお会いしたのは、まだ主上が登極なさる前の事でございます」
「え…?」
「お忘れでございましょうが、私は主上にこの命をお助け頂いた事があるのです」
竜潭は驚いた顔で蓮月の顔をまじまじと見つめた。

「あれは貴方様が登極為さる前、五曽の村においでになった時の事でございます。まだ幼かったあの時、少学からの帰り道に突然妖魔に襲われ逃げ場を失ってしまった時、貴方様が飛び出してこられてお救いくださった。竦んでしまった私はお礼すら申し上げませんでした。でもあの時に私は決意いたしました。必ず貴方様を見つけだし、お役に立ちたいと…。その一心でここまで参りました」
「あ…。あの時の…?」

竜潭はつかえていたものが全て流れて行ったような気がした。それなら今までのいろいろな事が納得できる。何故殉角が蓮月にこだわったのか、蓮月が初めて会った時に驚いた顔をしたのか。そして思い出した。据瞬が蓮月を愉燵のところの白い卵果だと言った。そう言えば、あの時助けたあの少女も愉燵の家の娘だった。

「それにしても、かわいい子でしたね。 将来かなりの美人になりますよ、きっと。 多分彼女、大司徒に惚れましたよ…」
殉角の言葉が昨日の事の様に思い出される。竜潭は再び蓮月の顔をじっと見つめた。記憶は定かではないが、この花のような香りは確かに覚えている。
「ここは来ようと思ってもなかなか来られるところではない。よくここまで来たな」
なかば呆れた様に竜潭が呟く。
「はい」
言葉少なに蓮月が答える。

一番で入学して、一番で卒業した巧国唯一の官吏…。ふっと竜潭の顔がほころんだ。
「疑って悪かった」
竜潭は蓮月の腕を掴んで引き寄せた。