捨身木に花が咲く 第3部
                     ー10ー

「これをどこで?」
竜潭は蓮月から受け取った3枚の紙を、しげしげと眺めたり光に透かしてみたりしながら聞く。自分が取り出した紙もそれに加え、4枚を横に並べた。
「昨日のこれと字が似ているな」
「はい。私も今そう思いました」
蓮月は図書館での出来事を竜潭に聞かせた。朝議の後気持ちを落ち着かせようと書物を見に行った事、歴史の本の間に挟まっているその紙を見つけた事。

「しかし意味はさっぱりだ。昨日のもそうだが…」
「誰かの悪戯ではないかしら?」
「ありえるな」
竜潭は愉快そうに笑った。

「いや、そうであってくれればいいと思う」
竜潭はその紙を机の上に投げ出して、溜め息まじりにそう言いながら背もたれに深く凭れた。
「いかがなされました?」
「うん」
一瞬、竜潭の眉根に少し不安そうな皺が寄った。

「今日俺も少し気になって調べてみたんだ。蕪帖がどんなふうに失道していったのか、彼が何故道を誤ったのか…」
話を催促する様に蓮月が覗き込む。今日の蓮月は昨日とまた趣を変えている。小花をたくさんちりばめた緑色の髪、瞳の色と同じルビ−のような唇。淡いうす紫色の薄衣からはまるで月の光が透けているかのよううに肌が輝いていると錯覚しそうなほど、玉のように透ける肌が少しばかりのぞいている。

こう言うのを衣通というのだろう。

そして今日は何の花の香りだろう?甘い香りが蓮月からも部屋からも漂って来る。これは香によるものだろうか?それとも蓮月自身から香って来るのだろうか?

今蓮月に何かせがまれたならなんだか断れないような気がしていた。それは大変危険な事だと、頭の奥の方で警鐘が鳴る。いつの間にか眉間の皺は消えていた。
「女性が原因だったのではありませんの?」
「確かに。でも、そのきっかけを作った人物がいるのではないかと思ったんだ。そして見つけた」
「見つけた…?」
「香梶(こうび)という男だ」
「そういえばそんな名前が書き付けにありましたね」

私は悲しい…。香梶は私を裏切り、私を葬ろうとしている。気をつけよ。私亡き後もきっとこやつは、『なにやら』を狙うだろう。手に入れるまで決して諦めぬに違いない。

「彼は蕪帖にとって頼りにしている無くてはならない人だった。丁度お師匠…いや、据瞬みたいに…」
再び竜潭の眉間に皺が戻った。蓮月は竜潭の顔をじっと見つめた。竜潭がその後何を言おうとしているのか、何を考えているのかを探ろうとする様に…。そしてゆっくりと、そして恐る恐る口を開く。
「据瞬様を…、そして私を疑っていらっしゃる…?」
「…疑う…?」
竜潭はそう聞き返しながら、痛いところを突かれたような顔をした。

そしてすぐに、それを否定する様に首を横に振った。
「疑ってなどいない。彼と俺が出会ったのはほんの子供の頃だ。まだ俺が王になるなどとは誰も知らなかった。だが、蕪帖は香梶とは王になってから出会った。香梶は蕪帖から何かを奪う為に近づいたのだ。それが何かはわからないけれど…」
だから、と竜潭は付け足し、蓮月に安心させるかの様に微笑んだ。
「もちろん貴女を疑っている訳ではない」
蓮月は哀しそうに笑った。竜潭が本心からそう言っているとは思えないほどの深い眉間の皺が見えた。



「今日は主上はすぐにお帰りになりましたね?」
浮かない顔をしている蓮月を心配そうにのぞきながら、叙笙が蓮月に話し掛けた。
「遅い時間にいらしたから…」
そのままの憂え顔で蓮月が答える。それ以上語らないのを見て、叙笙は口を噤んだ。話したくない事は無理に聞こうとはしない。いつか話しても良い時が来れば自分から話してくれると叙笙は信じているからだ。蓮月はそれをいつも心からありがたいと思っている。

蓮月は知っていた。この前の一件以来、竜潭が少々疑心暗鬼になっている事を。誰を信じたら良いか途方にくれているのも見た。しかし、自分が疑われる事があろうとは考えてもみなかった。

確かに蓮月は据瞬と組んで仕事をしていたとも言える。仕事のあり方や心得を学んだのは据瞬からだ。だが、彼のまわし者として大司徒になったと思われるのは、相当不本意だった。たとえほんの一瞬の気の迷いであったとしても。


翌日の朝議で、竜潭は議長を務めた蓮月が目を真っ赤にしているのに気がついた。それほどじっと蓮月の顔を見つめていたのだ。気がついて一瞬竜潭は赤面した。
「本日はかねてから懸案だった淳州の河西の件について、現在わかっている状況を申し上げると共にこれからの対処法についての御意見を頂きたく思います」

竜潭は改めて蓮月を見つめる。その表情には今迄の甘さは感じられない。今自分にはやらねばならない事が山積みで、ぼんやりとしている場合ではない事を思い知らされる。河西といえば昨年酷い旱魃に苦しんだにも関わらず、その後の対処をほとんど施していない地域だ。州侯である据瞬からも小司徒であった蓮月からの報告からも、かなり頻繁に催促が来ていたのに…。

昨年は忙しすぎた。他の地域でも治水工事が間にあわずに洪水が起きた地域がいくつかあったし、旱魃もこの地域だけではなかった。近隣の地域で何かが起こっているのではないかと疑わずにはいられない。この国では塙麒に異変はなく病む徴候は見られていないが、その徴候の始まりではないかと邪推してみたり、近隣の国に何かが起きているのではないかと思ってみたりしていたものだ。

蓮月が激しく行政を追求する。遅れている救援、進んでいない善後策。竜潭にとっては耳が痛い事ばかりだが、そんな蓮月を頼もしく思う。そう、こう言う官吏に恵まれている限りはこの国は大丈夫だ。自分の目が届かないところはこうして優秀な官吏が手を差し出してくれる。というより、そう言う官吏をそう言う部署につける事が自分の仕事なのだと思う。

間違いではなかった。蓮月を大司徒に据えた事は。

竜潭は誇らしげな思いでもう一度蓮月を見つめた。その横顔には先ほどの憂いに満ちた表情は微塵も浮んでいなかった。


朝議が終わり、蓮月は執務室に下がる。そこには知らせの青鳥が蓮月の帰りを待っていた。一瞬蓮月の表情に暗い影リが浮んだ。大司徒になる前の気味の悪い青鳥と思い出したからだ。誰から来たものか定かではないが、主上を裏切り味方に付けと言う内容の知らせを受けたのだった。しかし、蓮月が銀の小粒を小鳥に与えると青鳥は静かに語り始めた。
「巧国大司徒様には御機嫌麗しく、この度の素晴らしい宝物のお誘いを受けました事、大変嬉しく思います。しかしその旨を主上に申し上げましたものの、恥ずかしながら我が国は昨年の酷い気象状況で財政が苦しく、余剰の予算が取れません故今回のお誘いはお受けいたしかねます。どうか大司徒様も御機嫌を損ねませぬ様よろしくお取りはかりくださいませ。慶国大司徒 余厳升(よげんじょう)」

ふう、とやや落胆の溜め息をついたその時、知らせはまた別の声で語り始めた。
「竜潭、申し訳ないがそういう訳で今回の件は君に協力できない事を大変心苦しく思っている。しかし久しぶりに君の名前を聞き、君に会いたくなった。近いうちに遊びに行こうと思う。具体的な事がわかり次第又連絡をするよ」

「あら…」
蓮月は手を叩いて人を呼んだ。すぐに蓮月についている少年が駆け付ける。
「主上に知らせの青鳥が来ていると申し上げて。すぐに連れて参りますと」
「はい、大司徒様」
うやうやしく蓮月に一礼した少年は、おもむろに走り出した。それに引き続き蓮月も青い鳥を誘う。蓮月の差し出した右手の上に小鳥はおとなしく飛び乗った。

「雪笠が?」
調度が売れなかったのは残念だが、と前置きをして 竜潭は嬉しそうに笑う。
「雪笠には会いたかったんだ」
「調度の事はお気に為さらなくても結構でございます。いくつかはすでに色好いお返事を頂いておりますから」
蓮月は主上に心配をかけまいとそう言い、更に付け加える。
「先ほどの件とさらに寧州の一件について、くれぐれも御配慮願います」
「うん」
竜潭は素直に頷いて再び微笑んだ。
「夏官長大司馬が禁軍の派遣を検討すると言うことになった。恐らく寧州の塩害は彼らと住民の有志で解決するだろう。それに治水工事の方は寧州州師を出してもらえる様打診をしているところだ」
「それは良かった…」
「いくつか気になる事はあるけれどね」
竜潭はそう言うと口を噤んだ。
「主上?」
「詳しい話はまた今夜…」
そう言いつつ、竜潭は探る様に蓮月の瞳を見つめる。蓮月の同意を得たい少しばかり不安げな瞳。蓮月は戸惑った顔で見つめ返した。

「河西については、少し時間がもらえないだろうか?」
「しかしこうしている間にも、民は疲弊し…」
「わかっている」
竜潭は少し苦しげな顔で蓮月の言葉を遮ると、視線を天井に向けた。
「しかしこれ以上翠篁宮の守りを減らす事に懸念があるのだ」
「…」
「その話も今夜貴女にだけはしておきたい」
「わかりました。お待ち申し上げます」
蓮月は叩頭し一礼すると青い鳥を連れて部屋を後にした。