捨身木に花が咲く 第3部
                     ー1ー

「もうお加減はよろしいのですか?」
据瞬は自分とよく似た青い瞳の青年に出会った。その瞳が心配そうに自分に向けられている。内殿の手前、こんな所にいるのだから彼も高級官吏の1人なのだろう。
「おかげさまでもうすっかり…」
据瞬は少々戸惑った様子で青年を見つめる。見かけの年は自分より少しばかり若そうだ。屈託のない笑み、親しみをこめた眼差しは、記憶には無いがきっと現在親しくしている者なのだろう。
「お大事になさって下さい、お師匠様。中に椅子が用意してありますから、そこにおかけください。今日はいつものような叩頭礼はいりません。僕は後から参りますからお師匠様は先にお入りになってお待ちください」

「ありがとう…」
軽く会釈する据瞬の後ろにいる蓮月は、この青年に深々と頭を下げた。
「蓮月、お師匠様を」
「はい」
蓮月は据瞬を促して、内殿の中に入っていった。


中には既に数名の官吏が駆けつけていた。おそらく内訳は六官と三公、冢宰。そして鮮やかな青い瞳の少年は麒麟だろうか。玉座のすぐ脇に腰掛けている。今の麒麟は青麒麟なのか。

あれ、と不思議に思った。先ほど出会った青年は?彼は高級官吏では無いのだろうか?彼の着く席は見当たらない。
「据瞬様こちらです」
蓮月が手招きする。みれば主上の座る玉座のすぐ脇、麒麟の反対側だ。
「そんな席には…!」
据瞬は慌てて辞退した。だが蓮月は微笑んだまま据瞬を手招きする。
「据瞬様がここに座って下さらないと私が主上に叱られます」

「そうですとも。とにかく無事で何よりでした」
先の王の時からの冢宰である佇叔(ちょしゅく)が親しみをこめた顔で据瞬を促した。
他にも知った顔が無い訳では無い。夏官長大司馬の栄鶴(えいかく)も据瞬の記憶では淳州州侯だ。
「本当に。据瞬が寝込むなんて滅多にないことだからなあ」
「鬼のなんとかってやつですかね」
皆一様に嬉しそうな笑顔で据瞬を玉座の横に誘った。据瞬は戸惑った顔でそこに座る。

さて、と笑顔を引っ込めて冢宰が皆の方に向き直った。据瞬と麒麟以外の皆が元の場所に戻り、その場で叩頭する。

軽く下げた頭をゆっくりと上げた据瞬は、先ほどの青年が現在の主上である事を知った。そして首をかしげる。彼は自分に対してこれ以上無いほどの丁寧な口調で声をかけて来たでは無いか。自分の事を『お師匠様』と呼んでいた。自分が主上にそんな扱いをされるとは…。自分はそんなたいそうな人間ではないはずだ。

やはり記憶は取り戻しておかないと…、と据瞬は辺りを見回して思った。



自分が仙籍を返還して五曽の村に帰ったとき、人々は嬉しくなるほどの歓迎をしてくれた。もちろん知っている者はいない。が、据瞬は勇猛果敢な将軍として名前を知られていたのだ。そして妖魔がたびたび現れる様になって、皆不安に思っていた矢先であったから、妖魔と戦える人材はとても貴重だった。

そこで、衝撃的な事実を知る。あんなに憧れた彩施が見知らぬ男と結婚していたのだ。

据瞬はその男をじっくりと値踏みしてみたが、とても自分が劣っているとは思えなかった。生活に困っての事だろうか?そう思った据瞬はのこのこと彩施のところに出かけていって、改めて求婚した。
「貴方って人は、本当にいつまでも愚かだわ」
彩施が据瞬に投げた唯一の言葉だった。刺すような眼差しは据瞬の傲慢な心に最後のとどめを刺したのだ。
彩施はそれ以上何も言わずに据瞬の前から家の奥へと姿を消した。据瞬はただ黙って立ち尽くしていた。

据瞬は当時を思い起こして1人自嘲気味に微笑んだ。あの頃の自分は本当に恐いものなど何も無かった。全ては自分中心に回っていると思っていたし、自分の思い通りにならないものなど何も無いと思っていた。思い通りにならない女がこの世にいるとは思えなかったのだ。先ほどまで世話をしてくれていた蓮月に対しても、そう思って無かったと言えば嘘になる。

しばらくして彩施には男の子が授かった。名前を殉角といった。

殉角…。据瞬は思い当たった。先ほどの使者が口にしていた名前だ。確か獄中で自害したとか…。何故獄に入っているのか据瞬にはまだわからないが、とりあえず自分にとっても無関係と言う訳ではなさそうだ。

殉角は父親に似てうだつが上がらない少年だった。据瞬は村にすっかり馴染んでからも、常に彩施の事は気にかけていたが、殉角が大成するとは余り思えなかった。

そしてそんな時に1人の少年に会った。彼は自分とよく似た青い瞳をし、勇敢で聡明だった。名前は竜潭。初めて共に妖魔と闘った時、据瞬は懐に忍ばせていた大事なお守りを彼に渡した。あの時何故彩施が欲しがったかは定かでは無いし、何故急に彼にこれを渡したくなったかも良くわからない。

だが、このお守りを塙王から賜った時、王はこう言って据瞬をねぎらった記憶がある。
「据瞬よ、竜がそなたについて行きたいと言っておる。これをそなたに預けよう。竜の気持ちの趣くまま、これを次の者に渡すがよい」
小さなお守りであったが、手にとった瞬間なんだか暖かいものが身体に流れ込んで来るような気がした。そしてその後そのお守りの中に竜眼石という珍しい石の破片が入っていると聞いた。開けてみると小さな紫色に光る石の破片が出て来た。


そのお守りを竜潭に渡した時、自分は竜がこの少年を選んだのではないかと思った。それほど彼にこれを渡したい衝動に駆られたのだ。彼は澄んだ青い瞳で自分を見つめた。そこには憧憬の眼差しが浮んでおり、恥ずかしくなるほどであった。久しぶりに全身に自信がみなぎるのを感じた。そしてこの村に来て初めて胸を張り、頭を上げた気がした。

そのときの妖魔との闘いで、彩施の夫であった男は妖魔に弾き飛ばされ大怪我を負った。その時何故かあの男を救いたい、と心の底から思った。自分の為に誅されてしまった、彩施の父親である大司馬に対する償いの気持ちだったかも知れないし、彩施に対する当て擦りだったかも知れない。

その男を担いで殉角に案内させ再び彩施に会った時、彼女は少し驚いた顔を見せた。だがその態度は相変わらず頑だった。
「今日の件はお礼を申し上げます。ですが、私は貴方様を許した訳では決してありません」
据瞬は小さく溜め息をついた。落胆の溜め息と言うより、すでにこの関係に疲れていたのかも知れない。あの左軍将軍であった頃の自分に戻りたくなっていたのだ。きらびやかな生活に憧れたと言うよりは、自分に自信の持てる、自分の価値を認めてくれる所に行きたい…。禊(みそぎ)は終わった…。

「かあちゃん、据瞬様はかあちゃんが欲しいって言ってたあのお守りを竜潭にやっちまったんだよ」

殉角は父親を抱えて来た据瞬を指さして母親に叫んだ。据瞬はそのまま父親を奥の間に運び、そこに下ろすと彩施の顔を見つめた。彩施は目を釣り上げていたが、何も言わなかった。何も言わなかったが明らかに据瞬を見下すような瞳をしていた。

「一刻も早く治療をした方がいい。頭を打っているようだ」
据瞬はそれだけを言うと、彩施をふり返りもせず家を出ていった。


しばらくしてこの怪我が元で殉角の父親は亡くなったらしい。彩施は未亡人になってしまった。その時になって初めて彩施は据瞬の家を訪れた。

「据瞬様…」
満面の笑みを浮かべ、瞳には艶かしい光が浮んでいた。昔、大司馬のお嬢さんとして王宮で華やかに暮らしていた頃のような笑みだった。据瞬は見てはいけないものを見てしまった気持ちになった。彩施は必死だったのだろう。子供を抱え、この荒れ果てた地で生きて行かなくてはならないのだ。少し前ならきっともう一度求婚していたかも知れない。多少やつれてはいるが、相変わらず美しい。だが、彩施に対して以前のような気持ちになれなかった。

そんな自分の身勝手さに嫌悪感を覚えた。しかし据瞬は決断した。彼らをとりあえず生活に不自由しない隣国に連れていこう。慶ならきっと厚遇してくれる。なんといっても麒麟だけでなく王まで慈悲深い国だ。巧の国をどれほど支援してくれたかわからない。何度か訪れ官吏にも何人か知り合いがいる。事情を説明し、せめて殉角が一人前になるまで二人を保護してもらおうと思った。

彩施はその据瞬の意見に素直に従った。それしか生きていく術がなかったからかも知れない。
「あとから私も慶に参りますから…」
そう言って送りだし、自分は竜潭家族を連れて慶に脱出した。どこでもいい、自分を生かせるところで再び試してみたくなった。王が立ったらこの国に戻ってくればいい。そして知った。景王も倒れたのだと。


据瞬は我に返った。周りの官吏達に秋官長大司冦が今回の出来事を説明している最中だった。殉角の様子が生々しく報告されていた。どうやら自分は彼に蓮月とともに捕らえられ怪我を負ったらしい。

そうか、それで、と据瞬は蓮月の顔を盗み見る様に見た。彼女はそれを引け目に思い世話をしてくれていたのか。わがままにも付き合ってくれているだけ…。少しばかり落胆した。