ー9ー
3日が過ぎた。
据瞬は見慣れない部屋の天井をぼんやりと見つめていた。妙に喉が乾いて左肩が痛んだ。
「ああ、私は助かったのか?」
生きている事を確かめる様に、小声で呟いてみる。そしてなんとか起き上がろうと身じろぎをした。
「うう…」
鈍い痛みがだんだん鋭く差し込んで来る。
「まだ動いてはいけません」
ぴしゃり、と釘をさすような口調で女の声がした。
据瞬はそちらの方に首を向ける。聞き覚えのない声だ。痛い首を更に声のする方に曲げようとした時に、女の方から近づいて来て、据瞬の視界に入った。
緑の翡翠の様な艶やかな髪は質素な簪(かんざし)で飾られてはいるが肩に上品にたらされ、睡蓮のようなかわいらしい桃色の瞳は嬉しげに輝いている。口元は丸くて愛らしく、男物の様な服を纏っていてもそこから滲み出すような華やかな色香…。
ここはどこだろう。自分は塙王の怒りに触れ、肩口から斬りつけられたはず…。
先ほどの天の国にいそうなほどの美しい女が嬉しそうに微笑みかけ、屈みこんで顔を覗き込む。こころなしか瞳が潤んで真っ白い手が自分の右手に絡み付いて来る。
「据瞬様、本当に御無事でよろしゅうございました」
据瞬は再び起き上がろうとしてみた。それを助ける様に女が手を添えた。
「あ…」
目の前が暗くなる。ずっと寝ていた為だろう、軽い貧血が起きた。それをあわてて女が抱きとめた。天女ではなく、生身の感覚…。柔らかくて暖かくて、いい香りがする…。
「水を…」
あわてて身体を起こし、据瞬は平静さを保とうとした。喉がひりつくようで声がほとんどでない。絡み付いた手が離されるのを少し残念に思いながらも、据瞬は真っ白になった頭を冷やそうと思った。
その女は急いで姿を消すと、ガラス製の洒落た水差しと大きめのグラスを持って戻って来た。しなやかな身のこなし、優美な動きでグラスに水を注ぐ。
差し出されたそのグラスを右手で掴み、一気にあおった。
「ふう…」
一心地つき、改めて心配そうに覗き込む女を見る。ずっとついていてくれたのだろうか?少しばかり顔色が悪い。
「ここは…?」
「東宮の桔梗殿です」
「貴女は…?初めて見る顔だが」
女は一瞬、少し驚いたようなそして悲しそうな表情をしたが、すぐに元の微笑みを口元に浮かべた。
「蓮月と申します、据瞬様」
「何故私を知っている?」
「貴方様のお世話を申しつかりました」
蓮月は据瞬の手に握られたグラスを取り上げて机の上に置くと、据瞬の前に屈みこんだ。そして右の肩を押す様にして再び据瞬を横たわらせた。
「ゆっくりとお休みなさいませ」
目の前で蓮月の柔らかい笑みが揺れる。そうっと据瞬の右手が蓮月の頬に延びた。それに子猫の様に頬を押し付け、蓮月はその手を両手で抱え込んだ。
「ここにずっとおりますから…」
「うん…」
素直に返事を返す自分がおかしくて、据瞬は思わず笑い出した。それにつられて蓮月も笑う。この人はこんなに無邪気な顔で笑う人だったのか、と改めて蓮月は思う。豪傑でならした州侯様というよりはまるで少年のような笑み…。
据瞬も目の前の蓮月のたおやかな笑みに、久しぶりに心地よい安堵感に包まれた。据瞬は抱え込まれた右手で蓮月の腕を掴んで軽く引き寄せた。ちょっと戸惑った後、蓮月は誘われるまま花びらのような唇を据瞬に寄せた。
塙王燦大(さんだい)様はいかがなされただろう?そんな事をぼんやりと考えながら、据瞬は右腕を蓮月の肩に回す。前にも似たような事があったっけ?あれは…、いつだろう?塙王に斬り付けられ、目を醒ましたら世話になった大司馬のお嬢さんが悲しみで泣き腫らした目で自分を見ていた。あの人も綺麗な人だった…。あの時の自分はふがいなくて、彼女に何もしてやれなかった…。いや、もう思い出したくない。せっかくこんな安らかな気持ちでいられるのだから…。
蓮月は自分に回された腕の力が抜けるのを感じて、据瞬の唇からそっと自分の唇を離した。そして安らかに眠りに落ちた据瞬を見つめる。寝顔はいつもより少しばかりあどけなくて、ほどいた髪がさらに若々しい印象を与える。まじまじと見た事はなかったが、整った目鼻立ちと凛とした口元に思わずみとれた。
それにしても、何故記憶が…?蓮月は不安そうに据瞬の顔を見つめ続けた。
「お師匠様の記憶が?」
竜潭は心配そうに蓮月の話を聞く。正寝は人払いがされ、今は蓮月と塙麒の3人だけだ。
「特に頭を打ったような事はございませんでした。恐らく一時的な記憶の錯乱だとは思うのですが…」
「ならば良いのだが…」
そういえば、竜潭は出会う前の据瞬についてほとんど何も知らない事に、今さらながら気がついた。何年か前、なぜ前の塙王が失道したのか聞いた事があった。それ以外は五曽の村の人々のうわさ話でしかない。
初めて据瞬に会った時、自分の瞳に似た青い瞳にとても好感を持った。子供の自分から見るとその整った風貌も鍛練された体躯も心からの憧れだった。いつも冷静で沈着で、彼がいるだけで全てがうまく行くような気がした。その時の彼が彼の全てだった。自分がほんの子供だったからかも知れない。だからそれ以前の彼については全くと言っていいほど関心がなかったのだ。
今から思えばおかしな事がないと言えなくもない。忘れもしない、初めて彼が妖魔を退治するのを見た時だ。彼は何故そこまで?と首を傾げたくなるほどの『熱心さ』で妖魔と闘った。殉角の父親が妖魔に弾き飛ばされた時、彼は素手で妖魔に闘いを挑もうとまでした。いくら愛する故郷の為とはいえ、仙になって久しい彼はもはやあの地に家族や知人など1人も持ち合わせていなかった。それどころかあの時は仙籍を返した後だったのだから、今ではなんともないような多少の怪我でも命取りになりかねなかったのだ。
そんなときに何故命をかけてまで村を守ろうとしたのだろう?
その後の行動も変と言えば変だった。竜潭を慶に連れ出した癖に、すぐに巧に戻ってみたり、頑として大司馬の位を拒んでみたり…。
「もうしばらくついていてもらえるか?大司徒としての仕事も忙しいだろうが」
「もちろんでございます」
蓮月は言われなくてもそのつもりでいた。ただ、無防備で少年のような彼にどんどん惹き付けられていきそうな自分が恐くもあった。
「そういえば殉角がいろいろ話してくれたよ」
ひと呼吸して竜潭が蓮月に切り出した。竜潭の握りこぶしが膝の上で軽く握られ、言葉を選びながら話をしている様子が伺える。
「そうでございますか」
「貴女の言う様に、周りの兵達は何も知らずに警護を言い渡されたらしい事がわかり、明日にでも解放する事になると思う」
「それはよろしゅうございました」
胸をなで下ろす様に蓮月の顔が明るくなった。
「殉角の胸のうちを慮(おもんぱか)れなかったのは僕の失敗かも知れない。でも…難しいな」
竜潭は眉間に皺を寄せた。膝の上の拳に力がこもる。蓮月はその苦しそうな表情にやっと気がついた。
「いかがなされました?主上?」
いや、と竜潭は無理に微笑みを浮かべる。だがその表情は笑い切れない何かを抱え込んでいる様に苦しげだ。
蓮月も胸に何かがつかえてしまったような息苦しさに、思わず小さな溜め息をついた。今回の事で何かが狂ってしまった気がしてならない。
そしてしばらくの重苦しい沈黙の後、竜潭が話を差し戻す。
「州師左軍将軍は行方がわからなくなった。殉角の話では彼も共謀者の1人だと言う事だが、間違いはないな?」
「はい。間違いはございません」
「ではさっそく追跡の徒を差し向ける事にする」
「そしてもうひとり…」
蓮月は、竜潭に迷いながらも名前を告げねばならない人物がいた。連れ去られる寸前蓮の池の水面に映ったあの顔。共犯である証拠は何もない。だが耳に入れておく必要はあるだろう。
「えっ…」
その名前を聞いて、竜潭も塙麒も絶句した。
「彼も、今回の件に一枚噛んでいたと?」
「証拠は何もございません。一瞬お顔を見ただけですから」
蓮月は自信がなさそうに付け加えた。
「でも御用心なさいませ」
「蓮…」
正寝を後にして東宮に向かおうとしている蓮月を追いかけて、塙麒が走って来た。辺りは夕暮れのうす紫色に染まり、なにもかもがぼんやりと薄い輝きを帯びている様に見える。
「台輔…」
振り向いた蓮月はそんな儚げな風景に溶け込むような、青い髪の少年の表情がその風景に似つかわしくないほど苦悩しているのを見て取った。
「蓮、少し時間をもらえないかな」
「はい、大丈夫です、台輔」
二人は蓮の池の周りをゆっくりと巡って仁重殿に向かった。今までならこの池のほとりで話し込んでいたかも知れない。だが、この前の一件でこの池のほとりが安全と言う訳ではない事がよくわかったのだ。
「蓮、貴女にお願いがあるんだ」
苦悩したままの塙麒は仁重殿につくとすぐに蓮月に切り出した。椅子をすすめる暇もないほどだ。ただ、部屋に入る前に人払いは申し付けていたので、部屋のなかには蓮月と塙麒二人だけだった。
「どうなさいました?」
蓮月は美しい眉をひそめ、塙麒の青い瞳を見つめる。
「竜潭様を、主上をお願いします」
いきなり切り出されても困るような言葉を塙麒は一気に吐き出した。そうせねばいられないほどの苦しそうな表情のまま。
「どう言う事でございます?」
「僕は先ほどのあの話にもう耐えられなかったんだ!」
塙麒は震えんばかりの様子で話を続ける。
「竜潭様は苦しんでいらっしゃる。思えば竜潭様には心から信頼を寄せられる臣がほんのわずかしかいらっしゃらない。例えば景王であるならば周りを大学の仲間で固められ、うまく足場を固められた。でも、うちの主上は今まで官吏をしていたと言っても異国の話。巧の国にはほとんど知り合いもなく、心を許せる官が少なすぎる」
「…確かに…」
「今回の州司馬の一件も信じていた幼馴染みの裏切りで、相当お心を痛められています」
「そうかもしれませんね…」
「それで州侯様までそんなお加減では、さぞお心を痛められているのではないかと…」
蓮月は塙麒の表情を言葉もなく見つめていた。確かにその通りだろう。先ほど自分が彼にこっそり告げた名前を聞いた時の、竜潭の狼狽は明らかだった。
「竜潭様が登極されて三十年。そろそろほころびが出始める頃だと聞きます。きっと近いうちに何かが起こりそうな気がしてならないんだ…」
蓮月は静かに頷いた。この王がこのまま続けて行くには何かを捨てて、何かを得なくてはいけないのかも知れない。
「呼び止めてごめんなさい。据瞬様のところにもどって差し上げて。そして一日も早い復活をお待ちしていますとお伝えください」
蓮月は一礼すると、塙麒をそこに残して仁重殿を後にした。
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