ー8ー
がし、っと殉角の腕を据瞬が捕らえた。
「やめないか、殉角」
「おっと、さすがは正義感に溢れた州侯様だ」
殉角は再び顔を歪めて笑う。
「ぐ…」
ふいに据瞬のうめき声が聞こえた。据瞬の背中に守られた蓮月には、何が起こっているのかわからない。だが、しばらく後に床にぽたぽたと落ちる赤黒い血を見た時、殉角が据瞬に斬り掛かったのだ、とわかった。
「据瞬様!」
悲鳴にも似た声が蓮月の唇から漏れる。
「きつく縛られていたあんたの腕では、いつもの怪力は出せまいよ」
そして殉角は据瞬が守り抜こうとしている蓮月の腕を、いとも容易く掴む。
「さあ、こっちに来るんだ、大司徒様。用があるのはあんただけだ。州侯など用はない」
「やめろ、殉角!」
その腕を離させようと据瞬は殉角に掴み掛かる。呻くようなその声の状況から、傷がかなり深い事がわかる。
「だめだね、『お師匠様』。もうあんたの指図は受けねえ」
殉角は据瞬の腕を簡単に捻りあげる。力が入らない据瞬は、悔しさに歯がみした。
何故だ、という据瞬の無言の問いかけに、殉角は口の端を歪めて言う。
「あんたは俺の気持ちなど何にもわかっちゃいねえ。あんたはあいつを、あいつだけをずっと特別にかわいがった」
「竜潭の…、いや主上の事か」
呻く様に据瞬が言う。
「あいつは何でも持っていやがる。この巧の国まで手に入れやがった。俺がどんなに苦労しかも知らねえで、あいつは何もかもを手にいれやがった」
だから、と据瞬は蓮月の腕を強く引いた。
「据瞬様よ、あんたが惚れてるこの女は俺が頂く事に決めたのよ。今まであんたは俺が欲しかったものを皆竜潭にやっちまった。だからあんたが命をかけて守ろうとしているものを、今度は俺が頂くんだ」
「ばかな。蓮には…大司徒には、かかわりのない事だ。それに大司徒は俺のものじゃない」
「では、誰のものだ?」
「知らないのか。主上のものだよ、殉角。天がそう決めたんだ」
殉角の顔が歪んだ。
「なに…?」
「お前は知らないで蓮月をさらって来たのか?五曽の里木に真珠のような綺麗な実が実っていただろう?」
据瞬の顔がふいに穏やかになり、口調も優しくなった。
「あの何年も大きくならなかった実か?」
「そうだ。普通は黄色い実がなるものなのに、一つだけ真っ白で光が当たると七色に輝いたあの実だ」
「まさか…」
据瞬は教え諭すようないつもの口調になった。
「伝説で聞いた事がある。遠く蓬山にあるという麒麟の実る捨身木にごく稀に美しい花が咲く事があると言う。その花は蓬山を出て送生玄君の手に渡り子供の元と混ぜて卵果となり、送子玄君が主上所縁の土地に運ぶのだそうだ。その卵果は10年の歳月をかけて実り、生まれる。捨身木の花は主上を助け、国を富ませるのだ」
蓮月は卵果に10年入っていたという…。
「ただの伝説でございましょう」
蓮月が静かに言う。
「そうかもしれん」
据瞬が静かに答える。
「ちぇ…、据瞬様も俺と同じってわけか…」
そう独り言を言った殉角はふいに自分が囲まれたのを察した。辺りを見回してみると、この部屋に配置した兵達10名が皆剣を手に殉角を取り囲んでいる。見れば全員左腕を衣から抜いている…。
「ふ…」
殉角は静かに笑った。そしてゆっくりと蓮月の腕を離す。
「蓮月さんよ。あんたは竜潭に夢中で俺の事など覚えちゃいねえだろうけどよ」
殉角の目が遠くなった。
「あんたには子供の頃命を助けてくれた恩人がいたはずだ」
蓮月のこの話しは、かなり知られている事だった。蓮月は誰の手にも堕ちない。なぜならば幼い頃命を救ってくれたその人だけを待っているからだ。どうやら王宮の官吏らしいが、誰だかわからない。蓮月が大学を一番で卒業できたのも、それを励みに努力をしたからだ。
だが、それが誰なのかは誰も知らない事だった。蓮月すらも今回の叙任で初めて主上だと知ったのだ。
「竜潭はあの時妖魔を退治して、護衛のものにあんたを送らせた」
「どうしてそれを!?」
「あんたを家まで送っていったのは、俺だよ」
蓮月は驚いて殉角を見つめた。だが、その時の顔はどうしても思い出せない。
「は!思い出して下さらなくて結構だ。だが悔しいじゃねえか。竜潭はあんたの事なんて覚えちゃいねえってのに、あんたはそんなに竜潭が好きか?竜潭はあそこで確かにあんたを助けたさ。だがそんな事は俺だって、据瞬様だってやるだろうさ。なのにあんたはなぜ竜潭なんだ?あんたが捨身木に咲いた花だからか?」
蓮月はただ、困った様な顔でそこに佇んでいた。なぜあの時あんなにあの青年に心惹かれたのだろう?今、目の前の据瞬は自分をかばう為に傷を負っている。なのにまだ自分の心はあの青年に惹かれたままだ。
「気にするな、蓮…」
据瞬の静かな言葉に蓮月は泣きたくなった。据瞬が嫌いな訳ではないのに、どう言う訳か最後の一歩が踏み出せない自分がいる。この人についていけばきっと幸せになれると確信しているにも関わらず…。困って困って、そうっと据瞬の背中に額を押し当てた。
ずる…。
ふいに据瞬の身体が傾いだ。そしてそのまま大きな音をたてて崩れた。いつもより時間がゆっくりと流れてその様が目に焼き付いた様に蓮月には見えた。
「据瞬様…!?」
蓮月はしばし呆然とした後、そう名前を呼んでみた。倒れてすぐだったものか、一呼吸あったものか自分ではわからない。叫んだつもりではいたが、うわ言の様に上ずった声が口をついて出ただけだ。
殉角も凍り付いた様にその場を動かなかった。
「だ、誰か!誰か!!」
うわ言のようなまま、蓮月が叫んだ。思っていた以上に出血している。早く止めないといくら仙であるとはいえ、命に関わるだろう。
その時、つい立ての後ろの扉のあたりで押し問答が聞こえて、その扉が勢いよく開いた。
「蓮月!?」
部屋に踊りこんで来たのは、両脇を蒙燐と縞瑠に守られた主上、竜潭だった。中で見張り番をしていた兵士達が一斉に跪く。竜潭はそれを不思議そうに見回してから、つい立てのこちら側に用心深く入って来た。
「蓮月!」
竜潭はうずくまる蓮月を見て、抱え起こそうとし、初めて据瞬が倒れているのに気がついた。
「主上、急いで!据瞬様をお助けください!」
「州侯様!」
令尹が叫び声をあげた。次々に駆け付ける人々の声で辺りは騒然となった。まず、意識のない据瞬が数名の男達によって運び出された。そして急に安堵したのか、一度立ち上がった蓮月が、力が抜けた様に長椅子に倒れこんだ。
大僕の指示に従ってこの部屋にいた兵達が次々に捕らえられ運ばれるのを、蓮月は何かを止めようとするかの様に物言いたげな顔で見つめる。彼らを弁護しなくては。だが、この混乱した中で、それは途方もない事の様に思われた。張り詰めていた緊張感が急に弛んで、もう立ち上がる気力もない。
「蓮月、大丈夫か?」
竜潭は蓮月を抱え起こそうとして、ふと後ろから視線を感じた。自分を静かにずっと見つめている瞳に気がついたのだ。振り向くとそこに幼馴染みが静かに立っていた。
「…殉角…」
「竜…」
殉角は静かに微笑んだ。
「大切にしろよ…」
殉角は自ら大僕の前に歩み出た。
「行こうか」
「殉角?」
竜潭はその後ろ姿に声をかけたが、殉角は振り向きもせず歩を止める事もなく大僕とともに部屋を出ていった。
竜潭はその後ろ姿を見守った。彼の足下に落ちていた血まみれの剣を見て、彼が何をしたのかだいたいのところは想像がついた。だが、これが始まりなのだ、と心の奥底で警鐘が鳴り響く。何かが動き始めている。今、自分が問われようとしている…。
竜潭はきゅっと拳を握ると、小さく深呼吸した。そしてくるりと振り向き蓮月を見遣る。朦朧とした意識の中自分を見つめる桃色の瞳を見た。
どこかで見覚えのある瞳だった。
竜潭は蓮月に近寄ると、おもむろにひょい、と蓮月を抱き上げた。
「主上!1人で歩けます…!」
蓮月は気力を振り絞って竜潭にそう告げた。だが、竜潭は首を横に振る。
「簪(かんざし)は預かっている。だけど下ろした髪も良く似合ってていいな」
蓮月は真っ赤になった。
|