ー7ー

据瞬は蓮月に背中を向けたまま竜潭をかばう様に言う。
「決して勇気のない男ではないんだが」
「それはわかっております」
蓮月は幼い日の事を思い出す。あの恐ろしい妖魔にたった1人で闘いを挑んだあの青年。蓮月はあの時の事を思い出すと、何も恐くなくなる。今までの自分が振り絞って来た勇気のほとんどはあの時のあの青年からもらったものだ。だがその青年自身は妖魔に対してなら勇敢に闘いを挑めるが、臣に対しては身体が引けてしまうのではないか。
「恐らく今の主上を影から意のままに操ろうと言うのが目的。その為に自分に民がついて来ているというのを目の当たりにさせる算段でございましょう」
「それで、貴女を…」
「主上の御存知ないところで既にそのせめぎ合いが行われていたと思われます。今回の私の大司徒就任の裏にきっとそれがあったのでございましょう。恐らく双方にとって、私が大司徒になる事に利点があった。利害が一致したからこそすんなりと決まったのでございます」
蓮月は考える。主上の一派は民からある程度の信頼を得ている自分を大司徒に祭り上げれば、自ずと蓮月を通して王についてくるだろう、という目論見があった。一方謀反側も小司徒である蓮月が味方についた、というより大司徒である蓮月が味方についたほうがより人々を煽動できると踏んだのだ。

そして謀反側は次の行動に移った。

「どうする?蓮」
「このままではおきませぬ。どうやら今回の首謀者は私の事を余り御存知ないと見えます」
蓮月には何か策があるのだろう。据瞬は面白いものを見るような顔つきになった。
「手は貸す」
「はい。お願いする事になると思います」
それより、と蓮月は付け加えた。
「今の主上は信頼のおける臣に恵まれていらっしゃらない様にお見受けします。たとえ臣の1人1人の能力が優れていても信頼関係がなければその能力は発揮されずに終わるもの。そして王は良き臣に恵まれて初めて良き王になれるもの。据瞬様もこのような遠く離れた所からではなく、すぐ側で主上をお守りなさいませ」
「ううむ…」
迷いのうめき声が漏れる。
「このままではあのお方は迷路に嵌ってしまわれます」

「一つ聞きたい」
据瞬は背中越しの蓮月に振り向きもせずにまるで独り言の様に言う。
「蓮は主上の良き臣になるか?」
「そのつもりでございます」
「蓮がついているだけでは足りないか?」
「足りませぬ。いったい何をお迷いです?」
据瞬は天井を見上げ、黙り込んだ。



竜潭の足下の床に牛の耳の先がちらり、と見えた。
「しかたない。文を残していくことにするか。硯と筆を貸してもらいに行こう」
竜潭はおもむろに立ち上がった。誰が味方かわからないこの状況で、指令を使っている事を誰にも見せたくなかった。それを聞き、すでに後から来た大僕も扉の方に足が向かっている。

案内すると言う雛淵を先導させ、竜潭と大僕は据瞬の仕事部屋に足早に向かった。背中越しに麒麟がぶつぶつと何かしゃべるのが聞こえる。遨粤と話しているのだろう。そっと振り向いて塙麒の顔を見てみる。さして差し迫った表情ではないのを見て取って、竜潭はこっそりと安堵した。

「蓮は州侯と一緒に捕らえられているらしい。使徒の執務室だそうだ」
麒麟は前を行く竜潭に小走りに追い付いて、そっと耳打ちした。少し驚いた表情をした竜潭だったが、信頼する据瞬と一緒と聞き思わず笑みが漏れる。
「それは蓮月も心強いだろう」
独り言の様に呟いて、竜潭は足を速めた。

そして4人は仕事部屋に入り込んで、机の上にちらばった書類と、硯が墨を入れたまま放置されているのを見た。据瞬に「道具は大事に使え」と厳しく指導された経験のある竜潭は、それが尋常の事ではないのがすぐにわかった。執務中に有無を言わさず連れ去られたのだろう。

その様子を見て明らかに令尹がうろたえた。
「まさか、そんなはずは!据瞬様!」
雛淵はくるり、と竜潭の方を向き直るとわなわなと震える唇で訴えた。顔色は一気に失せ、くず折れる様に跪く。
「主上、恐れながら申し上げます」
雛淵はそのままその場に叩頭した。
「州侯据瞬様は何者かによって連れ去られた可能性がございます。どうか!どうかお助けください!」


何かが動き始めた。もしかしたらこれが何かの始まりであるのかも知れない。

自分に何かが欠けているのか、と竜潭の顔が曇る。足下が崩れていくような気がしてならない…。だが、雛淵の前で竜潭は何ごとにも動じないような様子で声をかけた。
「安心するがよい。州侯は必ず取り戻そう。その前に知っている事を全て話せ」
竜潭は蒙燐の見つけて来た使徒の部屋にそのまま自ら乗り込む覚悟を決めた。



「腕が…」
苦しそうに蓮月が喘ぎ声を上げた。もうどれだけの時間、腕を縛られたままだろう?ぴくりとも動かす事が出来ず、痺れて感覚がないのだ。額には脂汗が滲む。
「どうした、蓮!?」
心配そうに据瞬が聞く。その心配ぶりは大袈裟なほどだ。
「もうだめです、腕が…!!」
震える涙声は痛々しく、見張りについている兵は皆困った様に蓮月を見る。
「俺に凭れろ。いや、痛みを俺にぶつけてもいい。何でもいいから動け」
据瞬とて同じ状況だ。その腕は同じ様に痛んでいるだろう。だが、そんな様子は微塵も見せずに蓮月に力強くそう言う。

つかつか、と足音が一つ聞こえた。見張りについている兵士の1人が持ち場を離れて蓮月に歩み寄ったのだ。均整の取れた体躯の浅黒い肌の男だ。こんなところで女の見張りをするのには相応しくないような、鋼のような印象の男。

彼は蓮月に歩み寄ると、腰から短剣を抜き取った。そして蓮月の腕に食い込む縄をざっくりと切る。ふいに蓮月の腕を苛んだ負荷がふうっと軽くなった。汗の滲んだ蓮月の顔を見るこの男の顔には何の感情も浮かんでない様に見えた。そのままその男は使った短剣を長椅子の下に置く。

蓮月は不思議そうにこの男を見つめる。会った事があるのかも知れないが、あまり兵士には近寄る事がなかったせいか記憶にはない。
「俺は女を痛めつける趣味はない」
ふいにこの男は口を開いた。
「だからあんたの縄だけは解いてやる」
それ以上の関心はないと言わんばかりに、この男は元の位置に戻った。戻った後も蓮月が見つめていると、ぷいっと視線を逸らせた。

他の兵も同様だ。蓮月はこの男から視線を外し見える範囲の兵達を見てみたが、皆一様に困った様に視線を逸らす。蓮月の縄を断ち切った男を非難するでもなく、短剣を渡した事を咎めるでもない。

味方はいる、と蓮月は確信した。見張りについている兵達も、好きでこんな所にいる訳ではなさそうだ。蓮月は痛む手をそうっとさすって感覚が戻るのを待った。

あんたの縄だけは解いてやる、だから州侯の縄はあんたが勝手にしな、という意味に取ればいいのだろう。彼は蓮月の手に届く所に短剣を残していったのだ。短剣と言うには少し大きめの、がっしりした飾り気のない剣だった。蓮月はそれを拾うと据瞬の腕を縛っている縄を慣れない手付きで断ち切った。

「ふう」
安堵の溜め息が据瞬の口から漏れる。彼はできるだけ目立たない様に手を2、3回振ると、蓮月から短剣を受け取り、腰のところに抜き身のまま差し込んだ。

実は蓮月は一芝居打ったのだ。確かに腕は痛んだが泣くほどではなかった。だがもしこの中に味方がいるなら少なくとも目を逸らすくらいのことはするだろうと思った。まさか縄を解いてくれる兵がいようとは思っても見なかったが、それは大きな収穫だった。

「甘い桃や李の木の下には自ずと小道ができる、と言いますが」
蓮月は兵にも聞こえるような声でそう据瞬に語りかけた。
「据瞬様はどうお思いでございましょう?」
据瞬は黙ってゆっくりと蓮月を振り返った。その瞳には力強い炎が宿っている。
「虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うからな。桃の下に行き着く為には多少の危険は致し方あるまい」
据瞬は答えた。

「お聞きになられたか?」
蓮月は静かに兵達に語りかけた。
「これが我々の考えです。あなた方はどうなさいます?」
見える範囲の兵士は5名。窓に映る、つい立ての影の兵士も5名。恐らく部屋の外にも見張りはいるだろう。何名こちらの味方につくだろう?
「私は主上竜潭様についていくと心に決めました。その為ならば据瞬様同様、多少の危険は顧みない覚悟でございます」
蓮月は立ち上がり、自由になった手で一番上の衣の左袖から腕を引き抜いた。そして続ける。
「我々に続きたくば、道を開けなさい。武器は捨てなくてよい。我々の仲間になるなら、上衣の左肩を抜きなさい」

据瞬がまっ先に動いた。蓮月を守る様に立ち上がり、兵達の前に立ちふさがる様に仁王立ちになる。そしておもむろに左肩だけ上着を抜いた。

勝つ自信などなかったが、ここで兵が後に続かない限りこの後自分達に勝ち目がない事はわかっていた。据瞬と自分と王のこれまでの評価が下されるのだ、と内心震える思いで辺りを見回す。兵達は皆困惑していた。そして先ほど短剣を蓮月に渡した男が一歩前に歩み出て跪いた。
「恐れながら、虞蓮月様にお聞きします」
蓮月はその男の方に一歩歩み出す。
「許す」
「我々は州師左軍の兵士です。我々は左軍将軍の孫通様から、この部屋に謀反の疑いのある者を監禁すると言う事で、その見張りを言い付けられました。それが州侯様と大司徒様でいらっしゃり、我々は大変困惑いたしております」

その男は跪いたまま蓮月を見上げた。
「しかし貴女様は今おっしゃった。主上竜潭様についていくと。いったいあなた方はどなたに謀反を企てようとなさっているのです?」
「我々は主上に謀反を企てている者から、このような仕打ちを受けました。謀反に加担しているのはあなた方の方です」
辺りがざわめいた。兵達の顔に動揺が走る。
「では、孫通様や殉角様が謀反を企てているとおっしゃるのか?」
「彼らが首謀者と言う訳ではないでしょうが、そう言う事になりますね」

「おっと、そこまでだ」
その時つい立ての後ろから殉角の声が聞こえた。大きな足音とともについ立ての後ろから殉角が現れる。
「蓮月様、御自分が可愛いならそのくらいに為さった方がいい」
赤ら顔で顔を歪めて笑う殉角は、ふいに蓮月の腕を掴もうとした。