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「お目覚かな?大司徒様」
ふとそんな声で目が覚めた蓮月は、自分の身体が思う様に動かない感覚に驚いた。ここはどこだろう?見覚えがあると言えばある、真っ白い天井…。肩が痛い。背中にも鈍い痛みがある。だが、何故こんなに息苦しいのだろう?

蓮月は飛び起きようとして、思わず苦痛で軽いうめき声を上げた。縄のようなもので両手を後ろに縛られている。
「これは失礼。若いお嬢さんにこんな事はしたくなかったんだが…」
蓮月は目を見開いた。ここは州侯の城の一室。蓮月の仕事場にしている部屋、そう、あの気味の悪い青い鳥からの知らせを受けた部屋だ。いつも愛用している長椅子に座らされ、後ろはつい立てがたてられ、部屋の中が半分しか見えない。他に誰かいるのだろうか?いったいいつの間にこんな所に来たのだろう?

ああ、そうだ、確か王宮の蓮の池のほとりで誰かに後ろから襲われた。あのとき水面に映ったあの顔は…。

だが、目の前にいるのは蓮月がずっと忌み嫌っていた州司馬の殉角だ。目の前が暗くなった。自分はこの男の手に堕ちたと言うのか…?

「は!心配するな。手は出しちゃいねえよ。何と言っても大司徒様だからな。これから俺達の為にちょっとばかり働いてもらわねばならねえからな」
つまらなそうに殉角はうそぶいてみせた。その殉角を穢らわしいものでも見るような目で蓮月は睨み付けた。罵声でも浴びせようかとも思ったが、口をきくだけで穢らわしい気がして言葉を飲み込む。

「殉角様」
その時つい立ての後ろの方からややしゃがれた声が聞こえた。
「本当に大司徒には指一本触れちゃあいけませんよ。この女は可愛い顔をしていて恐ろしい女です。本気になれば国の一つくらい平気で滅ぼしてみせるでしょう。ふ、主上はまだこの大司徒様のお力に気がついていないけれど」
「へえ、そんなもんかねえ」
「そんなもんですとも。お気付きなら大司徒ではなく大司馬になさるでしょう」
「大司馬!栄鶴様も形無しだなあ」
殉角はつかつかと蓮月に歩み寄り、身動きの取れない蓮月の顎を右手でひねり自分の方に向けさせる。蓮月はあからさまに不快な顔をし、睨み付けた。
「でも、よろしいですかな。用済になったら私が頂くと言う事で」
「お好きに。だが司馬の命は保証しませんよ」
馬鹿な男を嘲笑うような、含み笑いが聞こえた。

蓮月は耳をすませた。この声は聞き覚えがある。ちら、と視線を自分の脇にある窓に走らせた。外が明るいからハッキリとは見えないが、外さえ暗くなればこの位置からもつい立ての後ろを見る事ができるだろう。今でも微かに人影が映っている。そこに映るあの姿形は見た事がある気がする。

州師左軍将軍だ、と蓮月は思った。そしてその声はあの青い鳥と同じ…。名は確か孫通(そんつう)と言った。

孫通はもうひとり誰かを手招きした。
「いったいどうするつもりだ?大司徒だけは返してやれ」
低い鋭い声がする。憤然とした言い様はこの状況を快く思っていない人間だろう。蓮月にはそれが据瞬である事がすぐにわかった。
「州侯が何もしなければ、こちらも何もしませんよ。大司徒も丁重に扱う。我々が本当に用があるのは大司徒だけですから。だから州侯を目付け役にここに置いておこうと思っているわけです。何と言ってもここの州司馬は己を律するのが苦手でございますからなあ。州侯を置いておけば、大事な大司徒を命がけで守るでしょう」
「そんなあ。本当に将軍は手厳しい」
情けない声が殉角から聞こえた。

「さあ、そのまま前にお進みください。言う事を聞かないなら貴方の首を刎ねさせていただきます」
蓮月の視界に入って来た据瞬もまた後ろ手に縛られていた。
「据瞬様…」
蓮月は不思議と恐くなかった。どんな状況になってもこの男と一緒にいれば活路が開かれるような気がする。どんな窮地に追い込まれても周りのものをそんな気にさせる、据瞬とはそんな男だ。
「蓮、大変な目に会ったな。かわいそうに…」
こんな状況だと言うのに据瞬の蓮月に対する言葉は暖かい。そして蓮月は見た。唇だけ動かし声にならない言葉で『心配するな、守ってやる』と据瞬が言うのを。

据瞬は殉角からの視線を防ぐ様に蓮月の横に座った。蓮月を大きな背中に隠す様に。殉角はいまいましそうに小声で悪態をつくと、二人を残してつい立ての後ろの扉の方に出ていった。後には州師の兵士数名が見張りについた。おそらく孫通の部下だろう。皆据瞬を州侯と仰ぐ州師左軍の兵士達のはずだ。どんなに口惜しいだろう、と蓮月は思う。蓮月からは据瞬の大きな背中しか見えない。だが、その背中にも無念さがにじみ出ている気がする。

蓮月はその背中にそうっともたれたくなった。だが何とか踏み止まった。自分にはその資格がない様に思ったからだ。この背中は自分のものではない、と蓮月は自分に言い聞かせた。


そのころ竜潭と塙麒は賓客の為の間に通され、そこで州侯の不在を聞かされた。ふいの王の訪問に令尹(れいいん)の雛淵(すうえん)は戸惑うばかりだ。
「今朝ほどお姿を少し拝見いたしましたが、その後お出かけになられた様です。我々もお探し申し上げておりますが…」
「いつも誰にも何も言わずに出かけたりするのか?」
据瞬らしくない、と竜潭は思う。
「いいえ、滅多にそんな事はございません」
「少し待たせてもらってもいいか」
「もちろんでございます」

かなり落胆した竜潭であった。ここに来れば何かわかる気がしていた。こんな時にいったいお師匠様はどこに出かけているのだろう?そう思っていたその時、麒麟が不思議そうに辺りを見回しているのに気がついた。竜潭も辺りをぐるりと見回してみる。この部屋は客を通す間としては殺風景だ。飾り一つない様子は、淳州が貧しいのだと言う事を実感させる。皆人々の穀物となってしまったのだろう。登極したばかりの頃、外国に調度を売り払う許可を出した覚えがある。
「竜潭様、この近くに蓮がいる」
そっと小声で塙麒が囁いた。
「本当か?」
「うん。ここの近くから蓮の匂いがするんだ」

麒麟は鼻がきくのかと妙な所に感心しているとき、麒麟が小声で何か呟いているのに気がついた。
「蒙燐(もうりん)、潜伏したまま蓮月を探して来てくれないか?きっと近くにいると思う」
「御意」
低い声が小さく聞こえた。麒麟が指令の遨粤(ごうえつ)に指示を出したのだ。他の者に悟られない程度に、微かに耳の先だけ姿を見せた遨粤に、麒麟がさらに細かく指示を出す。
「まず、蓮がどこにいるか、見つける。そして状況をきちんと見極め、連れて帰れるようだったらここに連れて来てもらいたい。蓮の身に危険が迫るようなら姿を現しても構わない」


「なあ、蓮」
もうかなりの時間が経過している。据瞬は事態が全く動いていない事に、少し焦りを感じ始めていた。いったいいつまでこんな事をしているのか。これから何をしようとしているのか?
「はい、据瞬様」
蓮月はさらに据瞬の近くに顔を寄せ、そっと返事をした。
「この中で我々の味方はどのくらいおるだろうか?」
「そうですね…」
蓮月は少し考え込んでから、言葉を慎重に選びながら答える。
「孫通がいた所を見ますと、恐らく兵は左軍の者。左軍もまさか7500名全てが謀反を起こした訳ではないでしょう。そんなにいたのでは統率も取れません」
「それもそうだな」
「ほんの一部の数両でございましょう。孫通がどんな男かわからないけれど、あの州司馬に肩入れする人間がそんなにいるとは思えません」
「で?」
「州司馬も孫通も恐らく捨て駒」
「捨て駒!?」
「背後にもうひとり」
「それは!?」
「確かな事は言えませぬ。ただ、ここに連れ去られる寸前、池のほとりで水面に一瞬映った顔がございました」

蓮月は据瞬の耳元でその名前を囁く。
「え…」
据瞬の顔に明らかに動揺が走った。
「彼が相手だと、もしかしたら彼につく人間もいるかも知れません。ただ、彼らに自分の身分を明かしているかは不明ですね。失敗すれば今の地位も危ない」
「目的は何だろう?」
「王位の纂奪って訳ではなさそうですね。王位は麒麟が選ぶもの。彼は昇山して叶わなかった」
「今の王が倒れたら…?」
「でも、自分が王位に就けるとは限らない。そんな不確かなものの為に謀反は起こさないでしょう」
「では、いったい何の為に?」

蓮月は小さく深呼吸する。
「主上はたいへんお優しい方ではあるけれど、お優しすぎてなんだか危うく感じます。例えば私が少し語気を荒げて諫言すると、あきらかにうろたえてしまわれます」
それは傲慢で独りよがりな王よりも決して悪い事ではないけれど、と蓮月は言葉を続ける。
「私から見ると、御自分に自信がおありでないのかと思えます」

まだほんの数回しか会話を交わした事はない。だが、自分の取扱いにすら困惑していた主上を思い出すと、かなり心配になってしまう。官吏として王に出会ってから、まだ雄々しく強い主上の姿を見ていなかった。