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竜潭は少し浮かない顔で朝議に出席していた。このところこの朝の集まりがとてもつまらない。原因はわかっている。最初の朝議に出席して以降、この数日蓮月が視察に出ていて朝議に出席していないのだ。頬杖をつき、時おり溜め息が出る様子は冢宰に軽く咳払いでたしなめられるほどだ。
朝議は六官長と冢宰が一日ずつ交代で議長を務め各々の意見を交換するのだが、地官長である蓮月の順番はまだ回ってこない。そこで今まで以上にきちんと民の様子や国庫の現状を把握し、外交手段を考えて取り引きを有利にすすめる為の算段を提出する為に、数日の朝議の欠席を申し出ていた。
「竜潭様は本当に正直だなあ」
呆れ果てた様に塙麒は朝議が終わった後に竜潭に忠告した。
「今に蓮に痛い目に会わせられますよ」
竜潭は首を傾げた。忘れっぽい竜潭はこのところの儚げな蓮月ばかり見ていたせいか、初めて会った時のあの蓮月を忘れてしまっていたのだ。
「主上…」
間もなく視察から帰って報告に来た蓮月の顔にはいつものたおやかな微笑みはなかった。
「あれほどあの時に申し上げましたのに!」
責める口調はいつになく激しい。
「貴方様はあの叙任の時のお約束をいったい幾つ果たされましたのか!?」
叩頭し、頭を上げたとたん蓮月はまくしたてる。
「すぐに取りはからう…」
「すぐにとはいつの事でございます!?」
「それは明日の朝議にかけて…」
「あれから何回朝議が開かれたとお思いです?ただの一度も話などでませんでした。いったい主上は真剣にお考えになっていらっしゃるのか?」
あっけにとられていた竜潭は、少しむっとした口調で言い返す。
「国事とは民の生活のみにある訳ではない。その前になさねばならない事がたくさんある。例え大司徒が陳情したとしても朝議にかけられるのには時間がかかる事もあるのだ」
「そうでございますか」
きり、と蓮月は竜潭を睨み付けた。
「では明日。明日は私が議長を勤める番でございますから、そこでお聞きいたします。必ずお願いいたしますよ」
再び叩頭した後、大股でずかずかと立ち去る蓮月を見て、塙麒はくす、と笑った。
「ほうら、さっそく痛い目に会った。竜潭様は今晩寝ないでお勉強した方がいいよ」
蓮月はそのまま庭に出て、気がついたら蓮の花の咲いている池にやって来ていた。ここはいつも余り人気がなく、気持ちを落ち着けるのにちょうどいい…、と蓮月は思った。まだ王宮の探検はしていないから、ついつい最初の日に足を向けたこの池に来てしまう。そしてその池の縁にある長椅子にそうっと腰をかける。いままでのきりりとした顔から悲しげな表情に変わった。
これが私の仕事…。
わかってはいるけれどやはり辛い。幼いあの時から憧れて大好きだった人…。頭ではわかっている。自分が愛してやまないのは等身大の主上ではなく、幼い日の記憶から自分でつくり出した幻想のあの人だと言う事を。幼いあの日、交わした会話はほんの一言二言。たったそれだけで自分は何をわかったと言うのだろう?
わかっている。幼い日の憧れ、幻想に恋しているだけ。
だけどやっぱり嫌われたくなかった。かわいい女でありたい、あの人の前でだけは…。でも大司徒の地位を受けたからにはそれは許される事ではなかった。
蓮月は池を覗き込んだ。泣きそうな顔が水面に映る。それをかき消す様に、水の中に指先を入れて左右に動かした。 池に小さな漣(さざなみ)が立ち、それがゆっくりと広がって消えていった。そしてもう一度水面をかき消す様に手を入れる。
そう、報われる事がないとわかったこの思いに、ある種の未練を感じているだけ…。
その時池の波紋に歪んだ水面に、自分の肩ごしに自分以外の顔が映し出された。
「!」
蓮月が驚いて振り向こうとするよりほんの少し早く、蓮月は背中に鈍い痛みを感じ息がつまってしまった。そして意識がふうっと遠くなった。
翌朝、竜潭は少し浮かない面持ちで朝議の席に向かった。
「あれ?竜潭様は今日は嬉しそうな顔をしていると思ったのに…」
塙麒がからかう様に言う。それにわざとむすっとした顔をしてみせ、竜潭は笑い出した。
「確かに蓮月の言う通りだ。我々はここで何不自由なく暮らしている。だが毎日の生活を保証されていない人々について我々に責任があるからな。朝議にかけてその後僕も行ってみようと思う」
「そうだね、それがいい。早く鼓腹撃壌の国にしなくちゃ。でもおかしいな。朝議の部屋の方から蓮月の気配がしない」
「主上」
麒麟が首を傾げたその時、佇叔が控えの間に慌ただしく入って来た。微かに顔色が青ざめている。
「どうした?」
佇叔は竜潭の前に叩頭し、緊迫した声で告げた。
「議長の虞蓮月が朝議に現れません」
竜潭はくすりと笑った。
「おおかた旅の疲れで寝坊でもしたんだろう?ゆっくり寝かせてやれ。朝議は今日は無しだ」
「いいえ!いいえ。慌てて桃李殿に遣いをやって見ました所、昨日から東宮には戻っていないそうです」
「昨日から!?」
竜潭の顔色も変わった。思わず椅子から立ち上がる。
「はい。そして池のほとりにこれが!」
佇叔が差し出したのは、蓮月が昨日髪を結い上げていた簪(かんざし)に間違いなかった。こんな簡素な飾り気のない簪を使うものは他にいない。そして片隅に小さく『蓮』、と彫られている。
「蓮!」
塙麒が叫び声を上げた。
「確かに昨日蓮はそれを付けていた!」
竜潭はそれを奪い取る様に佇叔から取り上げた。
「いったい何が…?」
竜潭はそれを握りしめ、大股で部屋の出口に向かう。そしてその後ろを麒麟がぴったりとついていく。
「主上、どちらにいらっしゃいます?」
「決まっている。朝議を始める。蓮月を探し出す為に」
朝議は紛糾した。すぐに探索を開始するべきだという冢宰の意見と、もう少し様子を見た方がいいと言う大司馬栄鶴の意見がぶつかる。
「事件に巻き込まれたかどうか定かでもないのに!」
「どこの物好きが簪だけ残して行方を眩ませますか?大事な大司徒です。捜索するのは当然の事でしょう」
「しかしどこを探せばいいかもわからないものを、いったいどうやって探されるつもりか?」
「淳州だ」
竜潭はふいにそう言った。
「淳州に鍵がある。よし」
竜潭は勢いよく立ち上がった。
「主上、どちらにいらっしゃいます!?」
佇叔は叫び声を上げた。
「淳州州侯に会いに行く!」
「主上、貴方様はその前に王としての仕事を為さるべきです」
出口に向かいかけた竜潭を止めたのは栄鶴だ。
「王の仕事とは何だ?」
「まずこの朝議をきちんと収め、今日の執務を執り行うべきです。今日片付けなくてはならない仕事が幾つかおありのはず」
「は!そんなもの!」
竜潭は鼻で笑って栄鶴に言い放った。
「いつも言っているだろう?国を動かすのは王ではない。国は優秀な官吏がきちんと動かしてくれる。こんな時ばかり王様風を吹かせてみても仕方あるまい?」
竜潭は足早に厩へと向かった。その後ろから栄鶴が追い掛ける様に声をかける。
「お待ちください!主上!護衛の準備を…!」
「後から大僕をよこせばよい!」
振り向きもせず竜潭は大司馬栄鶴に言い残した。
「なあ、どう思う?」
最近黄海に行ってようやく捕らえたスウ虞に鞍を置き、竜潭は麒麟に話し掛ける。
「僕にはわかる。蓮月はどこかに閉じ込められている様だ。でも、酷い事はされてないと思うよ。怪我もしていない」
竜潭は首を傾げた。
「何故そんな事がわかるんだ?」
「さあ?初めて会った時から不思議だったんだけど、何故か僕は蓮月がわかるんだ。そして蓮月も僕がわかる。まるで僕の一部が蓮月の中にあるみたいに」
「ふうん…」
竜潭と塙麒は2頭のスウ虞を連ねて淳州に向かって飛び立った。
「確かに…」
人気がなくなったのを確認して塙麒は竜潭に言う。
「栄鶴の言う事ももっともだとは思うんだけど…。何で謀反の可能性のある話を皆に為さらなかったんです?」
「話した方がよかったかも知れないのはわかっているさ」
黙って麒麟は竜潭を見た。
「わかってはいるけれど…。まだ何も掴めていないうちからこちらの持ち駒を見られたくない」
竜潭の表情に苦渋の色が浮かぶ。今までも内乱は幾つかあった。生活がなかなか上向かないいらだちから農民が起こした反乱もあったし、王の権力を狙った官吏の反乱もあった。いままでのそれは、起こるべくして起きているところが大きかった。王宮の官を整え、余分な財産を始末し、穀物を揃え、妖魔を退治し…。その時間が瞬く間に過ぎ、民達が考える以上に長期間安定した生活は訪れなかった。
慣れない自国で適材適所な官を見出せなかったのも原因だ。だが、今回の大司徒就任でほぼ足固めはできたつもりでいた。だから今回は心当たりがない。いったい誰が不満を持っているのだろう?いったい要求は何なのか?
久しぶりに据瞬に会いたかった。会えばきっとなにか良い案が浮かぶのではないかと思ったりする。結局は自分はまだ全然成長してないのだな、と据瞬に甘えそうになる自分を確認した竜潭だった。
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