ー4ー

翌日、蓮月は初めての朝議に出席した。昨晩はとりあえず外殿の殿堂に部屋を設けてもらったが、ここは来客の為の建物故、いつまでも住む事は出来ない。第一仕事をするにも、身一つでやって来てしまったから不自由で仕方ない。申し出ればきっと皆揃えてくれるのだろうが、使い慣れたものがないとどうにも落ち着かなかったりする。恐らく数日の間に今の屋敷から荷物を運び込んで新しい屋敷を構える事になるのだろう。そうなればずっと付き従ってくれている女官も来てくれるだろうし、少しは落ち着くかも知れない。

だけど、と蓮月は思案する。昨日主上に言われた様に東宮に屋敷を構えるなど大それた事をしたら、いったいどうなるだろう?確かに気味の悪い青鳥を断り、ここ、王宮に来たからには用心に越した事はない。直接身に危険を感じた訳ではなかったが、計画を聞いてしまっているのだ。

それでも東宮には…、と思った時、冢宰がゆっくりと部屋の中に入って来た。後は主上を迎えるばかりである。

朝議は高級官吏のみ集められ、叩頭して王を迎える事から始まる。王は一番最後に入って来て、ゆっくりと玉座に座るのだ。冢宰の合図で官吏達はゆっくりと顔を上げる。そして今日一日の予定が読み上げられ、早急に議論せねばならない事を話し合う。蓮月はそれを隅の方で眺めていた。まだしきたりも何もわからない。とりあえずこの雰囲気に飲まれない様にする事だけを考えていたと言ってもよい。

ゆっくりと辺りを見回した。大司馬はかつての淳州州侯栄鶴だ。淳州では彼の人気はいまだに高い。王のいない苦しい時を共に歩んで来たという連帯感みたいなものと、その時の面倒見のよさが人々の口を伝わって、必要以上に美化されているのだろうと蓮月は思う。

淳州は蓮月の生まれ故郷のある州でもあり、小司徒として仕事をしている時も拠点として任されていた土地だ。他の地の事もまあまあ知ってはいたが、淳州の事なら隅々までわかっている。そこで知り合った現州侯据瞬にはとても好感を持っていたし、彼が主上贔屓である事も知っていた。

「蓮、今年の作物はどうだ?」
それがいつも彼の最初の挨拶だった。
「はい、今年はいつになく豊作でございます」
と答えた時には、まるで飛び上がらんばかりに喜んだ。逆に冷害などでうまく作物が実らなかった年は、近隣の州から民の足りる分の食糧を確保するために走り回った。水害の被害が出たと聞けば、兵を連れて治水しに行った。とにかく落ち着きがないと思うくらい据瞬は活動的に飛び歩いているのだ。蓮月が仕事を全うするためにあちこち自らの足で見回るのは、彼の影響が大きい。

そんな彼が心底愛してやまないのは巧の国の王であり、彼を見る限り巧国の主上は素晴らしい人柄なのだ、と思う事ができた。あの怪しげな誘いに乗るつもりが全く起きなかったのも、彼を通して見た王が素晴らしい人物に思えたからだ。

いつだったか据瞬にたった一度だけ聞かれた事がある。
「蓮、貴女には思う人がいるか?」
その時の少年のような顔が忘れられない。蓮月は少し戸惑った後、小さく頷いた。

そうか、とだけ言った彼の少しだけ下がった肩を見た時、彼が何を言おうとしたのかわかったが、蓮月は何も聞かなかった。もし、幼いあの時、あの人に会っていなかったら、蓮月はこの人のこれから言わんとしていた申し出を受けたかも知れない。いや、実際少しばかり心が動いた。記憶のあの人に、少しどこか似ているような気がしていた。でも、ごめんなさい、と蓮月は心の中で据瞬に謝った。

それ以降も彼は全く態度を変えずに、蓮月に接してくれていた。その潔さにもますます好感を持った。もし、もう数年記憶のあの人に会わなかったら、その残像が彼に重なってしまったかも知れない。違うとわかっていながらも、それくらい雰囲気も青い瞳も似ている…。

大好きな淳州であったが、1人だけ苦手な男がいた。彼はいつも纏わりつくような粘っこい視線を蓮月に向けじろじろと眺め回しては、なにか下心の有りそうな気味の悪い笑いを浮かべる。年はわからないが、もう中年の域に差し掛かっているだろう。彼は州司馬の地位にあり、昔主上の幼馴染みだった、というのだけが自慢だ。そのつてで今の地位を得たのだろう。名前を殉角と言った。蓮月は彼にできるだけ会わない様にしていたし、もし会ったとしてもすぐに席を外す様にしていた。


「…月、虞蓮月」
蓮月はハッとして顔を上げた。冢宰の佇叔がこちらを向いて自分を呼んでいたのだ。
「…はい」
「前へ」
蓮月は皆が開けてくれた道を通り、主上の前に行って叩頭する。

「そんなに緊張しなくていいよ」
主上からもそんな声がかかる。どうやら朝議での主上からの言葉はよほど異例の事らしく、皆少し驚いた顔で主上を見た後、ゆっくりと頭を上げた蓮月を見つめた。そしてそのまま竜潭が言葉を続ける。
「今日から我々の仲間入りをした。貴女の活躍を期待する」
蓮月はもう一度ゆっくりと叩頭した。

「さて」
佇叔が代わって言葉を繋いだ。蓮月はゆっくりと頭を上げる。見ると目の前の主上が優しく微笑みを投げている。なんだかそれが嬉しくて、蓮月もそっと微笑み返した。
「虞蓮月に新たな屋敷を提供せねばならないのだが…」
そう言って佇叔は周りを見回した。
「内朝の手ごろな屋敷が見当たらないため、しばらくは東宮の四阿(あずまや)の桃李殿を提供しようと思うのだがどうであろう?」
辺りから賛成の意を表わす拍手が沸き起こる。

蓮月は驚いて辺りを見回し、また途方にくれてしまった。
「承認が得られたようなので、早速桃李殿に居を構えるよう」
冢宰は何か物言いたげな蓮月に軽く視線を投げると、有無を言わさず宣言した。
「これにて本日の朝議を終了いたします」


「やはり貴女は他の官と一緒に内朝に屋敷を構えるのはよくないからな」
竜潭は再び正寝に蓮月を呼んで、そう言った。今日は最初から塙麒も呼んである。
「東宮に一つ寝殿を持つといい」
「でもそれは、恐れ多うございます!」
蓮月は再び辞退する。竜潭の言葉をどう受け取ったらいいものか、判じかねたような困惑した表情だ。だが、竜潭はいっこうに気に介したふうもなく続ける。
「貴女の昨日の話を聞いて、貴女に何かあったら困ると思った。佇叔達とも協議してそう言う事に決めたのだが、もし東宮が嫌なら北宮でもいい」
「北宮…!」

「竜潭様!」
見かねて麒麟が茶々を入れた。
「口説くならもっとうまくやってよね。それじゃ見え見えだよ」
悪戯っぽい笑顔の麒麟を見て、竜潭はやっと自分の言葉の意味に気がついて真っ赤になった。北宮は后の住まう所。独身のまま王になった竜潭は結婚する事はもはや許されないが、そこに女性を囲った王は過去何人もいると聞く。
「そんなつもりでは!」
「竜潭様がそんなつもりじゃなくても、誰もそうは思わないよ」

見れば蓮月も恥ずかしそうに俯いている。竜潭はそんな蓮月を見てますますうろたえてしまった。
「本当にそんなつもりはなかったんだ。もし不愉快に思われたなら謝ろう。ただ…」
竜潭は今度こそは慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、昨日の『乱を計画しているものがいる』と言う噂は他からも聞いた。だから貴女の話には信憑性がある。東宮や北宮なら警備もいるし、女官もたくさんつけられる。何かあれば俺もすぐに駆け付けられる」

「私はそれほど力のある官ではありません」
やっとの思いで蓮月はそれを口にした。
「皆様がいろいろと評価して下さるのはありがたいですが、そんなに過大評価して下さると大変居心地が悪うございます」
恥じらう様に控えめに言う蓮月を見て、竜潭は叙任の時のこの人と全く別人なのではないかとさえ思ってしまう。

けっこうかわいい…。

自分で思って自分で驚いた。そして改めて蓮月をまじまじと見る。危険だ、と叩頭しているこの人を見た時にまず思った。他の誰でもない自分にとって本当に危険だ、という意味だったのかも知れない。

「でも、とりあえず東宮に住む事は僕も賛成だよ」
麒麟が急に真面目な顔で蓮月の方を向き直った。
「台輔…」
蓮月は少し驚いた顔で塙麒を見る。
「蓮が大事な大司徒になったからには、僕達が蓮を守らないといけない。だから仁重殿とかここ、正寝とかで過ごせて僕達がいつも一緒にいられたらいいんだけど、そうはいかないじゃないか。そしたら、やっぱり東宮しかないと思うんだ」
「台輔もそうおっしゃって下さるなら…」
蓮月はまだ困惑の表情ではあったが、王だけでなく皆がそう言ってくれるなら、と言う気持ちになって来た。

なかなかうまい言い回しだ、と竜潭は半ば感心して麒麟を見た。最初会った時はなにか自信がなさげで頼り無い麒麟だ、と思ったが、いざと言う時だけは何故か大胆になる。長年蓬山で女仙達を相手にしていただけあって、特に女性の扱いは見事だと思う。塙麒は竜潭にこっそりウィンクしてみせた。

「蓮、ほらこっちに来て御覧よ」
塙麒が蓮月を窓辺に誘った。
「まあ、綺麗…!」
正寝の窓からは丁寧に整えられた庭が見える。王宮に初めて来た時に麒麟と話をした蓮の池だが、夕暮れ時になって真っ赤に染まった白い花が燃える様に輝いている。まもなくここは夜の帳に覆われ、今度は月明かりに神秘的に輝くのだろう。

庭にみとれている蓮月の脇から塙麒はそうっと後ずさった。そして、代わりに竜潭を呼ぶ。
竜潭がいつの間にかとなりに来ているのを見て、蓮月は少し緊張した顔をしたが、それを解く様に竜潭は微笑んでみせた。
「どうか、貴女の力を私に貸してくれ。共にこの国をよりよくする為の同志として貴女を迎える」
「はい。私にできることでありますれば、必ず全力でお仕え申し上げます」