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「台輔から聞いたのだが…」
竜潭の私室である正寝に招かれた蓮月は、少し緊張の面持ちで豪華な飾りのついた長椅子の片隅にちょこんと腰をかけていた。無理もない。今まで凌雲山の中腹にある割と質素な屋敷に住み、このような贅を尽くした生活など経験した事がない。広々とした寝室からは王の瞳と同じ色の雲海が広がり、心地よい風が吹き込んでいる。だが、蓮月は緊張の余り微かに震えている。竜潭が人払いをした今、この部屋は自分と竜潭の二人きりなのだ。竜潭が恐い訳ではないと、蓮月は思う。だって、この人は自分がずっと探し求めていた人なのだから…。
先ほどとは違う様子に、竜潭はおや、っと思った。あの雄々しい雰囲気はすでにこの人の周りにはない。男物と変わらない官吏服、綺麗に結い上げていると言うよりは機能的にまとめられた髪。そのいずれをとっても先ほどと変化はないのに、なぜか儚げで弱々しく感じる。その伏し目がちの眼差しを受けるだけでも何故かうろたえてしまう。先ほどの睨むような眼差しを受けた時より、今の方が何倍もきついと感じる。
「何か気になる事があるという事だったのだが…」
「なんとなくそんな気がする、というだけの話でございます。具体的に何か起きている、という訳ではございません」
先ほどの雄弁さとは打って変わったすべりの悪い言い回し…。
首を傾げながらも、竜潭は話題を変える事にした。
「ところで、貴女の住まいを決めていなかったな」
「はい…」
蓮月は困惑した表情で竜潭を見つめていた。
「どうだろう?他の官と同じ内朝に屋敷を設けてもいいのだが、たまたまここの近くの東宮に空き部屋が山の様にあるのだ。使わずに傷んでしまうのももったいないので、使ってもらえるとありがたいのだが」
「そんな、とんでもありません!」
蓮月はますます身体を固くした。東宮といえば王の家族が住む場所だ。そんな所に住んでいる官など、どこの国を探してもいないだろう。
「東宮が気に入らないのなら北宮でも構わないのだが…」
本当にこの人は自分の言っている事を理解しているのだろうか?と蓮月は竜潭を見つめた。北宮と言えば王后が住む所だ。
竜潭はあまりに気まずい雰囲気に泣きたくなった。
「失礼いたします」
そこに慣れた様子で塙麒が入って来た。
「遅かったな、台輔」
竜潭は半ばほっとしながら笑みを浮かべた。日頃扱い慣れていない若い女性の官吏をどう扱ったらいいものか本当に困っていたのだ。
「だらしないなあ、竜潭様は!」
部屋の空気から様子を察知した麒麟は笑い転げそうなのを我慢しながら、竜潭の隣に座った。
「だいたいだめじゃないか。いきなりこんな所に呼んだら誰だってびっくりしてしまうよ」
「そうかな…」
「そうだよ!とくに蓮は女性なんだからさ」
麒麟はちょっぴり竜潭を睨んでから蓮月の方に向き直った。
「蓮もぜんぜん心配しなくて大丈夫だよ。竜潭様は悪気はないんだから」
蓮月は少し和らいだ表情で微笑んだ。その笑顔を見て竜潭の顔もほころぶ。その笑顔を見て、蓮月は更にうっとりと竜潭を見つめた。
この人は覚えていないのだろう、と蓮月は思う。あの幼い日、何かに腹をたてて1人で学校から帰って来たあの日。妖魔に襲われそうになった自分を助けてくれた人がいた。光に当たると青く光る不思議な髪、海を思わせる青い瞳。勇敢に妖魔に立ち向かうその人を蓮月は昨日の事の様に思い出せる。
まさかその直後に王位についた主上だとは夢にも思わなかった。お披露目の時も、自分は王を見に行かなかった。父や母に誘われたが、夢中で勉強していたのだ。自分を助けてくれたあの人は、きっと王宮の官吏だろう。自分も官吏になって王宮に行くのだ。あの人にもう一度会いたい…。
その後数回小司徒として王宮に参上した時も、叩頭して後ろの方にいた蓮月は主上の顔がわからなかった。伸び上がって見る事はできたかも知れなかったが、それよりもたくさんの人々の中に『あの人』がいるのでは、と密かに見回していたりもした。
主上だと知っていたら、今日の大司徒の叙任を大喜びで受けていただろう。あれから何年だろう?本当に会いたかった。会いたくて、会いたくて…。でも、いざ会ってみると何を話したらいいのかわからない。大学卒業とともに仙になったため、見た目は若い娘のまま止まっている。だが、民を管理する仕事について久しいためか、いつの間にか官吏としてのプライドみたいなものが首をもたげたりもする。
昔の事は語らなくて良い。でもこの人の為にきちんと仕事を全うしよう。
蓮月の顔がふと曇った。あれは王宮から青鳥(しらせ)を受ける前日の事だ。蓮月はいつもの様に色々な町を回り、官が作成した調書やら報告書やらを確認していた。それは淳州の州侯の執務室の一角であり、その仕事部屋は自由に人の出入りができるような場所だ。
コツコツ、と窓を叩く音が聞こえた。蓮月はふと目を上げて窓の外を眺めた。
「青い鳥が…?」
蓮月は窓を少し開け、鳥を中に入れた。父か母か、それとも王宮から大司徒が決まったと言う知らせか…。
青い鳥は慣れた様子で部屋に入ってくると、蓮月の置いた銀の止まり木にふわりと止まった。蓮月は掌に銀の粒をひと粒乗せて、鳥に差し出した。鳥はそれを嬉しそうに口に入れる。
「虞蓮月だな。私は貴女の腕を買っている」
知らない声だった。蓮月は眉根を寄せる。
「貴女は今の王に不満はないか?今の主上、孟竜潭は王の器だと思っているか?大司徒ひとつまともに任じる事が出来ないものを王と呼んで良いものか?」
蓮月はきょろきょろ辺りを見回した。誰にも聞かれたくない、と警戒したのだ。幸い辺りには人影はなかった。それにしてもいったいどこから飛んで来たものだろう?
「私は貴女の腕を買っている。貴女ならこの国を動かす官になれるはずだ。この国の民を救う官になれるはずだ。私に手を貸してくれないか?唐突で驚かれる事だろうが、私は貴女からの色好い返事を待っている」
そう言ったまま鳥は口を噤んだ。心臓の音が耳にまで聞こえてくる。青い鳥は首を傾げたまま真ん丸い目で蓮月を見つめている。
蓮月はしばらく考えた後、銀の粒をもう一つ鳥に差し出した。
「どなたかは存じませんが、私は私の仕える人は自分で選びます。誰の指図も受けません。名前を名乗る事すら出来ない貴方に腕など買っていただかなくて結構。私に構わないでもらいたい」
蓮月は日頃の柔らかい声とは別人のような、冷徹な官吏の声でそう言い放った。
くるる、と鳥は一声鳴くと窓から出ていった。
その翌日、再び青い鳥が窓の外からコツコツと窓を叩いた時、蓮月は窓をあけるかどうかしばし考えた。だが、あの知らせを他の誰にも聞かれたくなかった。そして恐る恐る窓を開けた。
銀の粒を差し出すと、鳥はしゃべり始めた。
「突然の知らせをお許し頂きたい。私は巧州国冢宰(ちょうさい)の佇叔(ちょしゅく)と申します」
蓮月は昨日の声とは違う声を聞き、少し安心したものの冢宰からの直々の知らせに心当たりは全くなかった。
「我々は主上に新しい大司徒として、小司徒虞蓮月を推挙いたしました。つきましては叙任に当たり王宮に至急おいで頂きたい。できるだけ早くにおいでいただける様に、手配願います。日にちを御連絡ください」
大司徒…。私が?
蓮月は困惑した。そろそろ空位だったこの地位に誰かが叙任される頃ではあった。だが大司徒といえば地官の長である職だ。そんな大それた地位に何の手柄もない自分がいきなり叙任されるのは、どう考えても不自然だった。それに自分が今までやって来た事は、直接民の声を聞き、民の側に立って政の助言をする事だった。大司徒になると今までの様に動けなくなるだろう。それは自分の為にも民の為にもならないのではないだろうか?だが、昨日の鳥の知らせといい、なにかがこの国に起ころうとしている予感がした。
蓮月は考えた。大司徒に任じられる以前に自分は現在の王をあまりに知らなさ過ぎると思う。果たして自分が仕えるに値する男なのかどうか、この目で見てみたくなった。思い返せば今まで自分が陳情した数々の事をきちんと処理してくれているとは思えなかった。無能な大司徒を送り続けるのにも閉口した。
昨日の青鳥の言う様に王の器の男ではないかも知れない…。
一度会ってみようか?その後の事はその後考えよう。蓮月は伺う旨を鳥に託して窓を閉めた。
「ねえ、蓮。君がさっき言ってた事を話してくれないかな」
少し雰囲気が柔らかくなったのを確認して塙麒が催促をした。世間話のついでのような、軽い言い回しだ。
「ほら、謀反の計画の噂を聞いたってやつ」
蓮月は小さく頷いた。
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