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目の前に叩頭していた女は予想以上に綺麗だった。この内殿に来る間にたくさんの者によろしくと声をかけられたが、そういうことだったのか、と竜潭は納得した。だがこの喧嘩腰の顔は何だろう?

「小司徒、虞蓮月。あなたは今日のこの大司徒叙任に臨んで、何か申したい事はないか?」
佇叔は厳かに蓮月にそう伝えた。しかしその表情には何か含みのある笑みが浮かんでいる。
「主上にお聞きしたい事がある。今日私は大司徒に任じられたくてここに参ったのではありません」
蓮月は美しい顔を険しくしかめて竜潭を睨み付けた。許可を与える間もなく、蓮月は静かな口調でしゃべり始めた。
「貴方は私を大司徒に叙する前にしなくてはならない事が沢山あるはずだ。まず各州の遂人、田猟から今年の州の様子をお聞きになった事がありますか?遂人の報告から今年、寧州に大変な水害があった事は御存知でしょう。だが田猟の出した年貢の提示額はその考慮が全くなされていなかった。不作に喘ぐ地方の農民から貴方はどれだけ搾り取ったら気がすむのですか?」
蓮月は少し間をおいて言葉を続ける。
「そして次に」
竜潭に口を挟ませないなにか凄みのようなものを漂わせて蓮月は次の話を始める。
「淳州の安陽県では昨年は大変な豊作であったにもかかわらず、国がその余剰作物の買い上げを渋ったために大変な値崩れが起きました。それを見越してかなり早い段階で大司徒を通じて上奏申し上げていたにもかかわらず、何の音沙汰もなかったのは何故でございます」

「さらに」
竜潭が何かを言おうと口を開いたけれども、それを遮る様に蓮月は言葉を続ける。
「同じ淳州でも河西では旱魃(かんばつ)の為に作物の実りが悪く、安陽県の作物を回してもらえたら多くの民が救えたであろうに、その陳情の確認を怠ったのは何故でございます?」

蓮月の話は一つの州にこだわらずにしばらく続いた。全ての州の状況を事細かに把握し、そしてその州の問題点をふまえ、民の感情をほぼ代弁していると言ってもよい。淡々とひとしきり述べると蓮月は静かに言った。
「さて、全ての件について御説明願いたい。私は今日この場にそれを聞きに参ったのです」
跪きながらも毅然と顔を上げる。その雄々しさに竜潭は感動さえ覚えた。

「大司徒を軽んじていた訳ではないが…」
そう前置きをして竜潭は真直ぐに蓮月に向き直った。
「そのような件をきちんと把握するだけの官を捜し出せなかった非は私にある。それは許してもらいたい」
竜潭の青い瞳は蓮月の桃色の瞳をしっかりと捕らえた。
「そして一つ聞きたい。もし貴女を大司徒に任じたら、貴女は貴女が今並べ立てた数多くの問題点を克服できると言うのか?」

「このような問題は1人の官に押し付けるべきものではありません。官の一存で決められるようなものではないはず。貴方がそれを誰かに押し付けようとするなら、私はそれをお受けするつもりはございません」
そして蓮月は静かに微笑んだ。
「問いに対するお答えを、主上」


「いかがです、主上?」
佇叔は控えの間に戻って来た竜潭に声をかける。
「君たちが何故あんなにこだわっていたか、ようくわかった」
竜潭は少々憔悴した顔で佇叔を見た。
「巧はよい大司徒を得たな」
「前の大司徒は余りの激務に耐えかねて辞職しましたが…」
佇叔は静かに微笑む。
「彼がいかに大変だったか、あの小司徒を見ればわかるでしょう。彼女はあれを前の大司徒に要求したのです。彼女は民に人気が高い。それだけ民の中に入り込んで仕事をして来たと言う事でしょう。女性と思って侮られますな。必ず痛い目に会いましょう」
「侮る!?痛い目ならもうとっくに会った」
竜潭はおかしそうに笑った。


蓮月の前で、竜潭は睨み付けるような視線を受け止めながら、その一つ一つにきちんと返事を返した。
「水害に寄る被害地の年貢額は、情状酌量の余地があると言う事で改めて計算し直し、官に伝える事にしよう。多すぎた分は返す。また、水害もその被害が繰り返されない様に遂人に状況を調べさせ、即刻対処する。安陽県と河西については州侯に便りをだし、今からでも遅くないようなら即刻手配をしよう」
一つ、また一つと答えを重ねていく間に、蓮月の表情は和らいでいき、やがてその睨み付ける視線は信頼の眼差しに変わっていった。

「私は他国の大司徒出身だが、貴女にこうして指摘してもらうまでは地方に目が行き届いていない事に気が付きもしなかった。いや、大司徒出身である事が盲点であったかも知れない。どうだろう?この私を助けてはくれないだろうか?きっと今までも貴女はこの国を支えてくれていたのだろうが、大司徒としてもっと近くから助言をしてもらえるとありがたい」
「私は口喧しいですよ、御覧の通り」
竜潭はくすり、と笑った。
「よくわかった。早速明日の朝議から参加してもらう」
大司徒虞蓮月はこうして誕生した。


「俺は彼女とは初めて会ったのだが…」

竜潭は佇叔に聞いてみたかった。皆彼女を知っていると言うのはどう言う事か。あの台輔ですら知っていたのだ。
「主上は御存知ないのですか?」
半ば呆れ果てて佇叔が竜潭を覗き込んだ。
「二十歳前に一番で大学に入学し、一番のまま卒業した者です」
「へえ…」
「噂では卵果に10年入っていたとも言われているそうです。まあ、その才を妬んでの噂でしょうが」
それにしても、と言って佇叔は笑った。
「主上は最初の関門を突破為さったようですな」
「最初の関門?」
「蓮月は仕える者を選びます。一種の麒麟みたいなものです。そして主上は彼女に選ばれた」
「それで?」
「彼女の後ろには巧国の民がついておりますから」
「ふうん…」

「実は良くない噂を聞きました」
佇叔は少々声を潜める。
「淳州に彼女を取り込もうとしている動きがあるという話です。彼女を取り込めれば淳州だけではなく多くの民を味方につける事ができます」
竜潭は眉をひそめた。
「それは謀反を起こそうと言う事か」
「恐らく。ですから今回急いで蓮月を大司徒に、と申し上げたのです」
「彼女がそれに関わっていると?」
「それはまずないでしょう」

「ところで台輔はどこで知り合ったんだろう?」
竜潭は首をひねった。塙麒は一日のかなりの時間を竜潭とともに過ごすのだ。自分の知らない人間を塙麒だけ知っていると言うのは奇妙な話だった。
「彼女はよく小司徒として王宮に参ってましたからね。きっと王宮のどこかで会っていたんですよ。さ、お疲れになったでしょう、お茶の準備をしておりますので、少しお休みになってはいかがですか?」
竜潭は笑って言った。
「今日の俺のおやつは塙麒のものだ」


「蓮、貴女に決まって良かった!」
塙麒は嬉しそうに笑った。二人は庭にある大きな池の蓮の花を眺めながら、そのほとりにある小さな長椅子に腰をかけていた。
「竜潭様はいい人だよ。僕は大好きだ。君も絶対気に入ってくれると思っていた」
蓮月も笑う。
「台輔、貴方様は麒麟なのだから、主上がお嫌いのはずがございませんでしょう」

初めてであったのはいつの事だっただろう?まだ蓮月は学生の時だった。春がすみの淡い光の中、蒼い髪の少年が草むらに倒れていたのだ。
「あれはまだ国が安定する前の事でございましたね」
「竜潭様がその乱の平定に向かわれ、僕は密かに淳州に援助を申し入れに言った時のことでした」


当時、淳州は人々から慕われていた州侯栄鶴が王宮に去り、代わりに州侯になった据瞬に対して強い不信感を募らせていた。特に国が混乱から立ち直る前の事だったので、町にまで妖魔が出没する事も珍しくなく、さらに王がたったと言うのになかなか天候も落ち着かなかった。
王さえ立てば、と思っていた人々は天命に沿った王ではないのではないか、と思う様になった。実際そのように煽動する者まで現れたのだ。王の評判を悪くしたのは、癒着のあった大司徒からの指示で下々の官吏が動き、不当に高額の年貢を課せられていたと言うのもある。

据瞬は慣れない州侯の仕事に精一杯で、この癒着を見つけるのに数年の歳月を要してしまった。

したがってその間に麒麟がなかなか王を選ばなかったのは、天啓が希薄だったためだ、と言う噂がまことしやかに流れ始めた。
「王を倒せば新しい王が立つ。今度こそは天啓をしっかり受けた本当の王だ」
「麒麟は実ってから王を選ぶまでに時間がかかる。だから麒麟に手を触れてはならない!」

その時人々を煽っていたのは賢乗(けんじょう)という若い州官だ。弁が立つので栄鶴からも目をかけられていた。



「結局賢乗は州六官の1人に操られていた、と言う事でしたか。あの乱は…。たしかその官が捕らえられ、終わったのでしたね」
蓮月はじっと蓮の花を見つめながら、独り言の様に呟いた。
「そうらしいね。とにかく僕は淳州の州侯据瞬さんに州師を貸してくれる様に頼みに行ったんだ」
「お一人で危のうございますよ、台輔」
「うん。反省してる。僕、途中で闘いの場に足を踏み入れてしまって、気がついたら気を失っていた」
「本当に御無事でよろしゅうございました」

そのとき、あわてて駆け寄り、助け起こしてくれたのが蓮月だった。
「大学に行こうと歩いておりましたら、道ばたの草むらに倒れておいででしたから、本当に驚きました。でもすぐに意識が戻られて」
「あの時の事は本当に感謝しています」

あのときは驚いた、と蓮月も塙麒も思っている。お互いに初めて出会ったのに、酷く懐かしい気持ちがした。いまだにその気持ちは変わらない。たいして口を聞いた事もない今も、酷く懐かしい人に会った気がする。

「台輔、お気をつけなさいまし」
蓮月は声をひそめて言った。
「私が大司徒の役目をお受けいたしましたのは訳がございます」
「訳?」
「はい。本来ならばそのような大役をいただきますと、今までの様に自由に人々の声を聞く事が叶わなくなると思うので、御辞退申し上げたいところでございましたが、良くない噂を耳にいたしましたもので、お受けする事に決めました」
「良くない噂って?」
「再び乱を計画している者がいると言う噂です」
「乱を!?」
塙麒は叫びそうになった。それを慌てて蓮月が止める。

「できましたら近いうちに主上に直接お会いしてお話申し上げたいと思っております」
「わかりました。すぐにでもお時間をとれるよう、僕からも竜潭様にお願いしてみます」
少しの時間ももどかしく感じるのか、塙麒は立ち上がった。そして言い終わらないうちに足は竜潭のいる内殿の方に向かっていた。