ー10ー

「据瞬様!」
蓮月が桔梗殿に戻ってみると据瞬は起き上がって窓辺に佇み、見るとは無しに外を眺めているところであった。
「お加減はよろしいのですか?」
蓮月は慌てて駆け寄る。

着替えもすませてさっぱりとした据瞬はふふ、っと軽く笑ってから明るい表情で蓮月に言う。
「先ほど軽く汗も流して、もうすっかり気分はよくなった。多少痛みはするがこのくらいの傷で寝込んだりしては左軍将軍の名折れだろう」
左軍将軍…と頭のなかで繰り返し、蓮月の顔は曇った。

「蓮月」
するり、と蓮月の腰に据瞬の右腕が回された。そして間近にある据瞬の顔の方に蓮月は瞳を閉じた顔を向ける。軽くお帰りの挨拶を交わしただけで、据瞬は唇と腕を蓮月から離した。
「蓮月、聞かせてくれないか?燦大(さんだい)様は今どうなさっている?」
「燦大様…」
「どうも落ち着いて寝ていられないのだ。我が主上はあの後どうされたのか。大司馬の藩起(はんき)様は?」
蓮月は困った様に据瞬を見つめた。それに気がつかずに据瞬は続ける。
「藩起様のお嬢様の彩施(さいし)様はいかがなされている?」

一瞬据瞬の顔が少年の様に恥ずかしげになった。ちょうど蓮月に思うひとがいるか、と聞いた時と同じような表情で。蓮月は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。少し胸のあたりがずきり、と痛い気もする。

それにしても彩施と言う名前は聞いた事がない様に思った。前の塙王に殺された「前の大司馬」の娘ということは、もしかしたら仙籍を返して街に下ってしまったのかも知れない。だとすればもうかなりの年齢になるだろう。

「ごめんなさい、私にはよくわかりません」
本当に困ったような顔で言う蓮月を見て、据瞬はすまなそうな表情になった。こんなところで怪我人の世話をしている女官が知っていようはずがないと思った。
「いや、いいんだ。これから巧の国は大変になるな。燦大様がお倒れになって、藩起様がお亡くなりになるなんて…」
据瞬は自分でそう言って、目を見開いた。
「何故、俺はそれを知っているんだ?ああ、そういえば…、この前もこのような事があった。目が覚めた時、目の前の彩施様は泣き腫らされた目で俺を睨みながら言った…」
「据瞬様!いけません、据瞬様!」
蓮月は思考を止めるかの様に据瞬に縋り付いた。


『お恨み申します、据瞬様』
目が覚めた時、まずそう言う声が耳元で聞こえた。愛おしい声であるにも関わらず、据瞬の心には寒々しく聞こえた。
『彩施様…』
咳き込みながら起き上がった据瞬の目の前に、鋭利な刃物が突き付けられた。据瞬は驚いて身構えながら目を上げる。そこにはやつれ果てた彩施が鬼のような形相で、こちらを睨んでいた。
『父が…父が烈王に…。貴方を庇ったばっかりに、父は烈王に誅されてしまいました』
『なんですって!?』
『お恨み申します。決して、決して私は…貴方を許しませぬ』
返す言葉がなかった。そう言って泣きじゃくる彩施をどうやって慰めたものか、据瞬には思い浮かばなかった。

その後彩施は仙籍を返させられ、故郷の村に送り返された。すぐに後を追ったが逆に追い返された。あの刃物を構えられた時、あのまま殺されていたらどんなに楽だったか…。その後据瞬は王がいない王宮を守る為に夏官長として推挙された。だが殺された大司馬の地位を奪ったようで居心地が悪かった。折を見て仙籍を返上し、自分の故郷でもあり彩施が移り住んだ所でもある五曽の村に戻った。


「ああ、気分が悪い…」
据瞬の表情が暗くなった。
「ゆっくりお休みなさいませ。今はあまりいろいろお考えになってはお身体に障ります」
心配そうに蓮月が覗き込む。そして、蓮月は近くにあった椅子を据瞬の近くに差し出した。据瞬は倒れこむ様にその椅子に腰をかけた。
「蓮月、俺は何か変な事を言ってないか?いったい今はいつなんだ?」
「燦大様の次の王が立っております」
「燦大様の次の王…。では俺は…?ずっと眠っていた訳ではあるまい?」
蓮月はにっこりと微笑んで据瞬を見つめる。
「貴方様は主上の心のよりどころ。この度の貴方様のお怪我で主上は大変お心を痛めておいでです」
「主上が…?」

据瞬はこれ以上なにも思い出したくなくなった。そして椅子のすぐ右脇にいる蓮月にそうっと凭れかかる。蓮月はその頭を抱え込む様に据瞬の背中に腕を回した。そして優しく据瞬の髪を撫でる。
「蓮月、君は誰だ?何故ここにいる?」
返事など期待していない口調で据瞬が呟く。いつの間にか据瞬の右手は蓮月に回されていた。そしてその手はそうっと上に伸ばされ、蓮月の左の頬を優しく包む。

蓮月はその手に応える為、そうっと屈みこんだ。


窓辺に夕闇が迫っていた。窓の外は紫色の残光がかすかに見え、雲海の漣の音が遠くの方から聞こえて来る以外何の気配もしない。

蓮月と据瞬は窓辺に置いてある長椅子に移り、そうっと身体を寄せていた。ただそれだけで暖かく、据瞬は気持ちが落ち着いた。いったいこの女は何者だろう?見れば身なりも良く、ただの婢(はしため)とは違う気がする。だいたい王宮にいる女の大半は綺麗な着物を着たがり、髪も色とりどりに飾るものだ。あの憧れだった彩施様もいつも見事な衣をお召しになっていたではないか。だが目の前の蓮月は男物とたいして変わらない官吏服に、何の飾りもない簪を付けているだけ。

それなのに、こんなに華やかで綺麗なのはなぜだろう?確かに黒い官吏服は見事な光沢のあるなめらかな繻子でできており、簪もなかなかの値打ものだろう。しかしこんな地味な服を好む若い女がいるだろうか?今まで据瞬が見知って来た女は皆鮮やかな衣やまばゆい玉を好んで来たではないか。

そう、禁軍左軍将軍だったとき、自分の周りには数多くの女官達が群がる様に世話をしてくれていた。それを軽蔑した様にたしなめたのが彩施だったのだ。彼女にとっては本当に軽蔑するべき男だったのだろう。だが若かった自分は彼女がこの多くの女達に嫉妬したのではないかと勘違いをした。

ならばあの女を妻として迎えてやろう。そう思い何度も求婚したがかなわなかった。どんな贈り物をしても、どんな言葉を贈っても、彼女はこちらを振り向く事はなかった。まばゆいばかりの玉も、見事な刺繍が施された衣も、彼女には魅力的には映らなかったのだろう。

振り向かないとなったら何がなんでも振り向かせたくなった。そこで身の回りの世話をしていた女官達を追い払い、心身共に鍛える努力を始めたのだ。あの人が振り向いてくれるまで、と言う限定付きではあったが…。だが彼女は全くと言っていいほど自分に興味を持たなかった。

そんな彼女がただ一つだけ興味を示したものがあった。竜眼石の入っていると言う伝説のお守り…。武勲をたてて燦大様から賜った小さなお守りだった。なかには薄く斬った紫色の石が入っている。これは竜の目の化石だと言われていて、大変珍しい美しいものだ。彼女はこれを一目見るなり、欲しい、とだけ告げた。

この時それを彼女に渡していればその後の人生は変わっていたかも知れない。だが、その時の自分は何故かどうしてもそれを渡す気になれなかった。そうしているうちに彼女の父親は主上に誅され、彼女は自分から逃げる様に村に下った。

据瞬は懐をそうっと探ってみた。が、このお守りはそこには見当たらなかった。いったいどこに置いただろう?賜った時から肌身はなさず持っていたはずなのだが…。


「御無礼つかまつります」
ふいに入り口の方から声が聞こえた。
「大司徒様がこちらにおられると伺って参りました。大司徒、蓮月様。主上が火急のお呼びでございます」

大司徒…?据瞬は目を見開いて、自分の腕をすり抜けて立ち上がった蓮月を見つめていた。自分の知っている大司徒は主上に反旗を翻し…、いや、あれは既に前の王の話なのか。

据瞬も立ち上がった。そして軽く服の乱れを整え、ゆっくりと蓮月の後を追った。
「おくつろぎのところ申し訳ございません」
使者は蓮月の足下で叩頭し、そして据瞬の方を向き直った。彼はもう一度据瞬に向かっても叩頭すると、蓮月に切り出した。
「申し上げます。先ほど捕らえていた州司馬殉角様が、自害なさいました」
え、っと軽く驚きの声が蓮月の唇から漏れた。
「つきましては大司徒様に大至急お越し願いたいと」
「わかりました」

据瞬は蓮月の顔をじっと見つめていた。今までの甘い顔はどこかに行ってしまっていた。色香など微塵も漂ってはいない。その横顔は冷徹な官吏そのものだ。そして今聞こえた殉角と言う名前。どこかで聞いた事があった。しかし、それがどこだかは思い出せない。

据瞬は蓮月と使者の顔を代わる代わる見比べていた。
「据瞬様、お聞きの様に私はほんの少しだけ席を外させていただきます。すぐに戻って参りますが、どうぞ先にお休みになって下さい」
「いや…」
据瞬は言う。
「私も連れていってもらう訳には行かないだろうか?」
新しい主上の顔を拝みたかった。大司徒だと言う蓮月をもっとよく知りたかった。そして殉角と言う名前がかなり気にかかった。

蓮月は少し考えた後、使者に告げた。
「では主上にお伝え願いたい。淳州州侯据瞬様もお連れ申し上げると。まだ意識が戻って間が無い故、どうか格別の配慮を希望しますと」
「かしこまりまして」
使者はもう一度一礼すると、急ぎ主上の元に戻っていった。

「蓮月、州侯とは?」
据瞬は蓮月の言葉にあぜんとした。
「据瞬様の現在のお立場です」
「私が州侯なのか?」
「はい」
そして、と据瞬は驚きを隠せない顔で言う。
「なぜ蓮月は大司徒という高級官吏でありながら、こんな婢がするような仕事をさせられているのだ。危うく勘違いをするところであった」
「勘違い…?」
涼やかな瞳で見つめられ、据瞬はすぐに真っ赤になった。

「据瞬様がお倒れになったとあっては、私は1人でのうのうと自分の屋敷に帰ってくつろぐ事などできません。この仕事はさせられているのでは無く、自ら望んでさせていただいているのです。さ、主上がお待ちですよ」
蓮月は据瞬を促して桔梗殿を後にした。