ー1ー
「いいですか、主上。今日は大司徒の叙任ですからね?貴方はいつも叙任と言うと必ず難くせをおつけになる傾向がありますから、くれぐれも円滑に進むよう御配慮をお願いいたしますよ」
「わかってる。わかってるから口喧しく言わないでくれないか?」
孟竜潭が巧州国に登極して、すでに三十年余り。小さいとは言い難い乱も幾つか経験し、慣れない国での官吏選びに難航したものの、なんとか一人前に国を運営できる所までやって来た。
それもこれも皆優秀で口喧しい官吏がいてくれたからこそだと、頭ではわかっている。
「だが、俺は今日初めて大司徒に就任すると言う者に会うのだ。もしなにか思うところがあれば叙するのを止める事もあり得るぞ」
冢宰(ちょうさい)の佇叔(ちょしゅく)は笑いながら主上、孟竜潭を見た。
「きっとお気に召す事でございましょう、今度こそは!」
登極直後、竜潭は衝撃的な出来事に見舞われた。最初から決めてあった大司馬を師匠と慕う据瞬に断られたのだ。
「恐れながら申し上げます」
擦り付ける様に据瞬は額を床に付けた。
「主上にいただきましたこの度の大司馬にとの御命令を、大変ありがたく存ずると共に大変心苦しく、誠に申し訳ございませんが、御辞退申し上げたく存じます」
「何故!?何故です?」
竜潭は完全に狼狽し、感情の命ずるまま悲鳴にも似た叫びを漏らしてしまった。
「今回のおめでたき場に相応しくないと重々承知いたしておりますが、私は仙籍をお返しして国に帰ろうと思っております」
「据瞬…」
竜潭は呆然とするしかなかった。
「お願いです、お師匠様」
昔の口調で竜潭は玉座の上から縋り付く様に据瞬に言った。
「どうかお教えいただきたい。何故そのような事をおっしゃるのです?」
「それはたった今の貴方の発言からお察しいただければよかろう」
据瞬はただそう言うと黙って竜潭の青い瞳を見据えた。
「あ…」
必要以上に依存し甘えている自分がいる。竜潭は口惜しそうに唇を噛む。
「主上となられた今、もう私には貴方様にお教えする事など何もない」
苦渋の表情。彼も決して自分を見捨てたい訳ではないのだろう。だが、このかつての上下関係を彼は案じてくれている。
「では、誰か代わりの者をお教えいただきたい」
「なれば淳州州侯栄鶴殿あたりをお勧めいたしましょう」
栄鶴といえば、あの椒図と出会った妖魔との闘いで州師を率いて援護に来てくれた勇猛果敢な男だ。彼ならば竜潭にも異存はなかった。
栄鶴の前の州侯は先の王に反乱の罪を着せられて処刑されたと聞いた。その後の荒れた土地をなんとか守り抜いた男でもある。
「では、こうしよう。淳州州侯栄鶴殿を夏官長大司馬に任命し、その代わりに淳州州侯に据瞬殿を任命いたそう」
州侯ならば、と据瞬は考えた。毎日竜潭と顔を突き合わせる事もない。それに故郷の州でもある。仙になって久しい据瞬の家族はもう皆とうに亡くなってしまったが、どうせなら故郷に帰りたい。
こうして師匠と心から尊敬していた据瞬は竜潭の元を去った。
要である冢宰も難義した。仮朝を率いていた前の冢宰は頑に継続を拒んだ。
「燦大(さんだい)様をあのような失い方をしてしまいました故、私にはこのまま冢宰をお引き受けする事などいたしかねます」
体の言い言い方ではあるが、その裏に竜潭に対する不信感が強くあるのを感じた。長年昇山もせず慶でぬくぬくと過ごしていたこの王に、漠然と嫌悪感を抱いていたからだ。
このままこの地位にしがみついていれば、家族共々安泰だと言うのに、それを投げ打ってもここにはいたくない、という決意の現れのような申し出だった。
竜潭は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
冢宰の仕事は重要だ。王がいなくとも国は動くが冢宰がいない事には国は動かない。そんな要の仕事を何もわからない者に任せる事など出来はしまい。
「一つだけ聞いてもらいたい」
竜潭は叩頭しているこの男に玉座から声をかけた。
「国を動かしているのは王ではない」
叩頭しているこの男の肩がぴくり、と動いた。
「俺1人で国を動かせと言われたら、到底無理に違いない。国は王が動かすのではなく、それぞれに才を持ったものがその才を最大限に生かして動かすものだと思うがどうだろう?」
「確かに…」
「だから王はその才のあるものを掻き集め配属する仕事をする役職なのだと思うのだ」
「…」
「先の王が貴方を冢宰に選んだのは、その仕事を全うするためだと思うがどうか?」
「主上…」
「貴方が俺を王と認めずとも、貴方がよい冢宰になってくれるだけで俺は王としての職務を果たした事になるのだ。貴方にはそういう冢宰の仕事ができるか?できるというならやってもらいたい。俺に仕える必要はない。これは王の為ではない。巧のためだ」
男は黙って叩頭した。ゆっくりと頭を上げた時、そこに冢宰佇叔が誕生していた。
次に苦心したのは地官長大司徒だ。慶ではその地位に着いていた竜潭は冢宰にはああ言ったものの、どうしてもその仕事ぶりに口を挟みたくなった。前の王朝の大司徒は反乱の首謀者となり処刑されていた。だから新たに選ばねばならなかった。
大司徒は民の心を知り、民を管理する役職だ。影に隠れて搾取する事もできるし、施す事もできる。
自ずと監視の目も厳しくなってしまう。
この三十年で何人の大司徒が立っては消えただろう?始めは仮朝の大司徒の役割をしていた男をそのまま任命した。だが、すぐに不正をして私服を肥やしている事がわかった。次の男は竜潭が監視をしていると訴えて自らその地位を降りていった。
しばらく空位ができた。
そのあとも何人かが大司徒になっては見たが、長続きしなかった。もっとも竜潭のせいばかりではない。そのうち数名は余りの激務に耐えかねたのだ。
「本当にお分かりになっていらっしゃいますか?」
「わかった。俺は大司徒の仕事には一切口は出さんよ」
「その言葉、うそ偽りはございませんね?」
「なぜそこまでこだわる?」
佇叔の表情が和らいだ。
「今度の大司徒は今までの官とは違います。本当に大事になさいませ」
「まだ任命すると決まった訳ではないからな。会って話をしてから決める」
「よろしゅうございます。では内殿においでを」
「主上」
大司馬の栄鶴が内殿に移動しようとした竜潭を呼び止めた。
「どうか、今回の大司徒の件、くれぐれもよろしくお願いいたしますよ」
「なんだ、お前まで!」
「いいですか、主上。貴方様は大司徒の扱いが余りお上手ではありませんから」
そして心配そうに竜潭を見遣った。
まったく、どいつもこいつも…、と思った竜潭だった。今日は官の様子がいつもと違う。叙任式があるとは言え、いつもより明るい空気が流れている。
「主上!」
塙麒が飛びついて来た。
「ねえ、竜潭様!今日は大司徒をお選びになるのでしょう?」
「だから、まだそいつに決めると決まった訳では…」
麒麟は嬉しそうに笑った。
「でもきっとその人に決まるよ。僕、今日のおやつを賭けてもいい!」
くすくす、と笑って塙麒は竜潭から離れた。
そして…。内殿に入ったとたん、皆のはしゃいだ理由がわかった気がした。そこに叩頭して竜潭の入って来るのを待っていたのは、地味な官吏服を着た女だったのだ。
巧の国の官吏には女はいない。わざと遠ざけていた訳ではないが、たまたま官吏に相応しい女が見当たらなかっただけだ。竜潭は叩頭している女をじっと見つめた。瑪瑙を思わせる緑色の髪は無造作に束ねられ、頭の上にねじ上げられている。それをとめる簪には飾りらしいものはついていない。だが、と竜潭は思った。男物と大差ない官吏服を纏っていながら、この溢れ出る色香は何だろう?
これは危険だ、と竜潭は思った。
「顔をあげよ」
佇叔の言葉でこの女は顔をあげた。若い女だ。瞳は玉のような桃色で、化粧をしていないのに唇が赤い。官吏服を通してもわかる美しい曲線…。
顔をあげたとたん、この女は一瞬驚いた顔をした。しかしすぐに思い直した様にその表情は険しいものになった。
「初めてお目もじいたします。虞蓮月と申します」
半ば喧嘩腰と言ってもいいほどの激しい言い様に、心当たりのない竜潭は眉をひそめた。
|