縦書きPDF版
りんごの花咲く頃 内村 和
午後の日差しが深く入って体中が温い。司はすっきりした気分でベットから起き上がった。そろそろ退院だなと思いながら、窓に仕切られた空を眺めていた。不意に「兄ちゃんはお気楽に自分勝手で無責任な暮らしをしてきたからね」妹が漏らした言葉が胸の奥に湧き出る。親戚縁者との付き合いも、親の介護も葬儀もすべて妹に任せてきたのだからそのように言われても、申し開きの余地はない。だが司にしてみれば、色々と職を変えはしたが、常に体を張って懸命に生きて来たという思いはある。母親が五十六で死んでからは一人暮らしの父親を、年に一度だけだが温泉に連れて行ったし、八十五歳過ぎて妹の家に暮らすようになった五年間は、介護費用にもと毎月欠かさず、司にとっては大金を送り続けて来た。賭け事も無駄遣いもする余裕はなかったし興味もなかった。ひたすらただ生きてきたのだと自分的には思っていたが、まるで刑罰を受けるかのように、父親死後三年ほどした頃に肝臓にガタが来た。この暮れには急激に体がだるくなって、どうしようもなくて入院をして二か月経っている。
「内藤さん、先生がお話あるそうですから、第二診察室へお願いしま
す」
担当の看護師が顔を出した。はいと調子よく返事をしながら、退院の許可だろうと司は胸を張った。隣のベットでテレビには目をやっているだけで退屈し
ているらしい老人が、少し頭を持ち上げて眼鏡の奥から、
良かったねとでも言うように頷いた。司は左手を少し上げて答えて、軽やかな足取りで病室を出た。
椅子を奨めてから、若い主治医はにこやかに微笑んで、「内藤さんのこの病気は長期戦だからね、今週でまあ一応退院にはなりますが、今後も治療は続けなければね。だから年齢的にも一人は大変だから、紹介状を書きますので、今のうちに親族のいる故郷の病院にかかるようにしたらどうでしょうかね」
主治医はすすめるというよりも、半ば強要する言い方をして司の目を見つめた。独り者は入院費未払いとかある世の中だから、厄介払いなのかと勘ぐりながら、
「はい、まあ家は一応あるのですが、ほとんど廃屋状態で・・・迎えてくれるような親兄弟も無くて・・」
曖昧に返事をしながら、今のうちにと言われた語感だけが大きく膨らんだ。頭の片隅ではっきりと、自分の生きていられる時間に限度があることを直感した。今の今まで余命とか、命の限度などという語彙を寸分も考えずにいたから、心の波立ちは隠しようもなかった。病んでいなくても当然のことには相違ないが、この時、ぐいと余命という言葉が心に食い込んだ。
「この病院では駄目でしょうか、親しい身よりもなく、不義理をした妹がいるだけですので、骨の引き取り手ということもあるし・・・暫く考えさせてください」
「分かりました。そんな大げさに考えないでください。ここはベットの数が少ないし、それに・・・気持ちの上でも故郷の方がゆっくりできるのではと、この相談は決して無理にということではありませんから」
「分かりました、その方向で考えます」
平静を装いながら、司は深くお辞儀をして部屋を出た。主治医は何も言わないで、目を閉じ加減にしてゆっくりと頷いた。入院は二か月が限度なのだろう、個人病院のつらさだ。
退院してから司は迷いに迷った末、住めるかどうか分からない生家へ人生の始末をつけるために帰る決心をした。真っ先にあの庭にある国光りんごの花を見たいという思いだった。小学校入学記念に父親が植えた木だ。「親父―」司は何度も声にしてから、未練も無く金輪際帰るまいと決めていた故郷に、惨めな姿をさらしても帰らざるを得ないと結論し、よくよく自分に言い聞かせた。
何度もためらったあげく、久しく音信もなかった妹の佳代に、ようやく電話をしたのは三月の末になってからだった。呼び出し音が一つ二つと数えて七つまできたとき、
「真壁ですが」
佳代の声か小さく伝わってきた。司はほっとしてケータイを左に持ち代えてから、
「俺だけれどさ」
と少しおどけた軽い調子で言うと、
「あっ、兄ちゃん元気なの?」
「うんまあ、ちょっと入院していたんだよ」
「えっ、入院していたの? どこが悪いの?」
「肝臓だな」
「えー、臓のつくところは大切だそうだけれど、どんな具合いなの?」
探るような佳代のひそめた声が、司の次の言葉を躊躇させる。「兄ちゃん私はね、春樹の家に嫁に来たのに、もう五年も父ちゃんを引き取っているんだよ。いくら春樹が真壁の次男でもさ、本家がすぐ近くにあるし、土地を貰って建てた家にいるのだからね。あちらは何にも言わないけれど、私は肩身が狭いんだよ」父親が入院したときの妹の乾いた電話の声や言葉が蘇る。「悪いなあ、少ないけれど俺毎月金送るよ。それにな、小さいけれど俺の名義の家を佳代の自由にしていいよ。隣の目医者さんが駐車場を広げたいらしくて、前から売ってくれといって来ているからこの際処分していいよ。街のまん中だから、少しは為になると思うよ。俺はこっちに居るつもりだから」そんなやり取りをしたのは、父親を預ける前だ。あの時の言葉が回転する。倒産した借金返済のために、深夜タクシーの仕事までして殆ど、睡眠も休日もない生活に明け暮れて、父親の見舞いにも一度行ったきりだった。父の葬儀すらも不義理者として顔も出せずにいた。喪主不在ということにして、佳代夫婦が密葬で済ませたと電話で知らせて来ただけだった。父の死をきっかけに、音信は途絶えたままだった。この親不孝はどんなに父に詫びても詫びきれない。喪主として葬儀に出られなかった立場の情けなさは、生涯司の胸奥にこびりついている。妹夫婦の心情は察するまでもなく、知らない土地で野垂れ死してくれた方がいいと思っているはずだ。
「こみ入った話なら夜がいいけれど、今ねえ孫を連れて理沙が来ていて落ち着かないのよ」
電話の向こうから幼児番組らしい音楽が聞こえる。
「ああ、理沙ちゃんが来ているんだな、じゃあまた夜に電話するよ」
司は寂しさを包み込むように言った。
「でも今がいいよ、春樹がいないときの方がゆっくりと話せるから。理沙は兄ちゃんに世話になったんだものね。高校のときにお小遣い度々送って貰ったものね。何なのよ、早く用件を言って」
佳代は相変わらず忙しい素振りをする。
「実はな、俺肝硬変が進んでいるそうで、医者に身内の近くの病院に転院した方がいいと言われてね。紹介状まで書いてもらってさ、そっちの市立病院にかかることになったんだよ」
司は思い切って一息に喋った。
「えーこっちの病院でー、ということは病気がすごく悪いんだね」
電話の向こうで暫く沈黙があった。
「まあ、そういう訳じゃあないがね、入院するわけじゃないよ。あの家で一人で暮らつもりさ。一応報告しただけだよ。俺はタクシーで行くつもりだから・・・心配しないでくれよ。それにさあ、タイミング的にも、今月で住んでいる市営住宅は取り壊しで、夏までに空けるように言われているしなあ、俺も歳だからさ、全部もう整理したよ。だから心配しないでくれよ。佳代には迷惑にならないようにするからさ。承知だけしてくれ」
迎えに来てくれないかと、司は言葉にして言えずに寝転んだまま、ケータイを耳から離したり、押し付けたりしていた。
「兄ちゃんのいい加減な言い癖が見え見えだよ。分かったから、春樹に頼んで、迎えに行くようにするから心配しないで、でもー、兄ちゃんの家なんかボロボロで住めないかもね」
「分かっているけれど、居間と台所と風呂が使えればいいから、便利屋にでも頼んで掃除しておいてくれよ。かかった金は払うから」
「じゃあシルバーの所にでも、掃除をやってもらうに頼むことにするよ。住めるようになったら迎えに行くから」
司はやっぱり妹だと思いながら、ゆっくりと座りなおしてから、
「そうかー悪いけれど、甘えさせて貰うわな、休みを取ったりさせて、春樹君には申訳が無いけれど、じゃあお願いするよ」
司は頭を下げながら電話を切った。歓迎されていない故郷に戻る辛さと同時に、話のけりがついた安堵からか、まるで不整脈のような激しい鼓動に襲われて暫く横になっていた。
妹夫婦は三月末の暖かい日を選んで迎えに来てくれた。大体の予告どおり十時過ぎにブザーがなった。
「兄ちゃん、迎えに来たよ」
佳代の大きい声がした。大部分は宅急便で送ったが、身の回り品は朝早く玄関の前に運んでおいた。妹夫婦に向かって何度も頭を下げながら、司はゆっくりと玄関のドアを後ろ手で閉めた。ドアの鍵の落ちる音を聞き逃すまいとするかのように暫く佇んでから、安堵の表情を浮かべると肩で息をして、目をすぼめ加減にして潤んだように淡い青を融けこませている空を見上げた。
「すっかり春だねえ」
通路の端に止めた車の脇で待ちくたびれているらしい妹の佳代にというより、自分に向かって呟くように声にした。長い間住んでも挨拶するほどの隣人もいない、長屋風の市営住宅の前を何日ぶりかの暖かい日差しを浴びて、司は前かがみにゆっくりと歩いた。
「迷惑かけるなあ」
また口の中で小さく呟いて妹夫婦の車に乗りこんだ。三時間ほどの長旅になることは、最近までタクシー運転手をしていた司には、故郷までの道路状況などは十分に分かっている。「りんごの花が咲くまで持つかなあ」自分の中で呟く。だるい体は座ってなどいられるはずはないから、後部座席で横になった。足を折りたたむと、膨らんだ腹がもろに垂れ下がるようにシートにもたれ込んで重い。司はけだるい空と長年住み慣れた住宅の屋根にゆっくり目を移した。市の方針で老朽化した住宅は近く取り壊されて五階建てのアパートになるというので、住人たちはここ二か月ばかりの間に越して廃墟に近い死んだ団地だ。
「今日は大安だから、家に帰ればきっと元気になれますよ」
春樹は手早くダンボール三個と紙袋二つの僅かな荷物をトランクに詰めながら話しかけた。
「済まないねえ」
内藤という家は俺が潰すことになるなあと、喉元まででかかった言葉を飲み込みながら、司は再びこの地に戻る事はないという思いで時々目を上げては、四十年住んだ町並みを見ていた。長男でありながら、たった一人残っている父親の世話も妹に任せてきた辛さが、郷里に引き取られて死に行く身を無口にする。
「兄ちゃん大丈夫?苦しくない?」
佳代が時々、助手席から後ろを向いて声をかける。
「大丈夫だよ、春樹君の車はでかいからゆっくりだよ」
司も努めて明るく返事をする。
「軽井沢辺りまで、休まないで行ってもいいですか?」
ハンドルを握ったままの硬い声に、おもねるほど軽く、
「ああ、ご厄介かけるけれど頼むね」
司は口の中が粘っこくて喋りにくいけれど、会社を休んで迎えに来てくれた妹の連れ合いに、出かける前から、何度か口にした言葉を言う。
「兄ちゃん、いいから眠って行きな」
佳代が振り向いて司の顔を覗き込む。
「ああ、そうするよ」
司は六十三歳という歳を確かめるように、胸の上で両手の指を折り曲げたり開いたりししながら、湧き出る思いを消し去ろうとした。
司が工業高校を卒業して、地元の企業に就職したのは昭和二十八年だった。当時工業高校の人気は高かったので中々の難関だった。それでも中学の担任は太鼓判を押してくれた。高校でも司は中の上くらいの成績だったから、保線区員だった父親は息子が国鉄の試験を受けることを望んでいた。「俺のようなエンヤコラじゃなくて、工業出てな、汽車の技術屋になれや。助役の松村さんが大丈夫受かるって保障してくれている」無骨な父親の気持ちは分かりすぎるほど知っていながら、司はテープレコーダーや、新しい機器のはやり始めた頃でもあり、どうしてもそういう関係の仕事をしたかった。取り寄せてくれた国鉄の願書も机の引き出しにしまったまま、父親との会話も避けるように、早く学校に行ったり、夕食などもわざと遅れてしていた。
「まあ自分の好きなことをやれ」
就職試験が近づいたとき、無口な父親はあっさりと認めてくれたが、そのときの親の本当の気持ちはまだ司には分からなかった。ただほっとして、
「有難う」
と言っただけだった。だが、殆どの家事を父親が分担しているほどの病弱の母親は、青白い顔でタバコを吸う度に咳き込みながら、
「小学生の佳代のためにもねえ司、富士通に就職してくれないかねえ」
と細い声で懇願し続けた。
「タバコは毒だよ。止めれば丈夫になれるよ」
司が何度言っても母親は、
「エコーは軽いから大丈夫だよ」
などと言い繕って止めようとはしなかった。やせ細っていく母親は年の離れている妹にかこつけて、くどくどと言い続けた。司は「分かった」と言いながら、腹の底に憎悪の種を隠した。だから司はたばこを吸わない。
「お前は新しい技術の仕事がしたいんだろう。男だからなあ貫くものがなくっちゃな、まあ学校の先生に相談して決めろよ」
父親の言葉で決着はついたかに見えたが、司は陰でしつこく言い続ける母親の懇願に負けて、地元では中規模の電気部品の会社に就職した。同窓の先輩もいたので司は会社に馴染むのも早く、仕事の覚えも順調だった。四月半ばだった。
「やっぱ工業出はいい、頭の出来が違う、おめさんこの仕事に向いているよ」
主任は時々耳元で囁いてくれた。
「跡取りは仕方がねえよ。最後はこの町にいる選択しかないし、まあそれが最良なのさ、今に分かるよ」
先輩は随分年寄りじみたことを言うなあと思ったが司は、
「はあ、頑張ります」
とだけ言って微笑んだ。その夜一番遅れて風呂に入った。差し掛けの屋根の下の五右衛門風呂につかると、半分開けた窓から小さい庭が見える。ほんの三メートル四方ほどの坪庭だ。
「貧乏人の家でさ、何が跡取りかよ」
と小さく呟いてみる。農家の四男だった父親は保線区の先輩の仲介で、母子世帯で紡績工場に勤めていた母親と結婚したのだという、「お前さんはどうせ部屋住みだからな、養子で無くてもいいなんて、条件はあんまりないぞ。ボロ家でも家はあるから」そんな話で、父親は喘息気味の母親をかばい続けてきた。姑が亡くなり、母親が死んでから、全部更地にして小さい家を建てたのだ。こんなものの後を引き受ける義務も責任もないだろう。司は顎まで湯につかりながら、ぶつぶつと言い続けていた。満月に近い明るい空と風呂の小さい明かりの中に、咲き始めたりんごの花が見えた。蕾はピンク色なのに花は寂しげに白い。司が小学校に入学するときの記念樹だ。
「実のなる木を植えるのは、司に中身のある人間になって欲しいからだ、これは国光といってな、春までも長持ちのする種類だ」
と父親は言った。
「中身って?」
「まあ、しっかりした人間ということだ。それには辛抱が大事だ」
婿養子ではないが、妻の家に入った父親はいつも何となく感情を抑制していた。だからこそしっかりという語に力を入れて言ったのだと、司は理解した。それからこの木は自分だと思って春は花を眺め、小さな実に袋をかけ、秋には堅いりんごをかじって、少年時代を過ごした。僅か十年ばかりの間に品種改良されて、国光などという種類は今は名前すら知る人は少なく、そんな木すらもなくなっている。しかし、司の国光は狭い庭を占領するように徒長に近く成長している。今は誰も果樹として扱ってくれないばかりか、選定もしていないのだ。司は啓示でも受けたように、「中身」を思った。ここにいればただの工員だ。東京に出て特許をとって、いつか小さい会社を立ち上げる。半分日陰の庭のりんごで気楽に生涯を終えるのはいやだ。幼いといえばそれまでだが、司はその夜家を出る決心をした。
「兄ちゃんサービスエリアでちょっと休んでいくから、下りる?」
佳代の声で司は目を開けた。
「ここにいるから、春樹君と休んでおいで」
「何か欲しいものがあったら買ってくるよ。ソフトクリームなんかどう?」
「何にも要らないよ」
「アイス大好きだったじゃん」
「昔はな・・・春樹君に悪いから早く行きなよ」
司はけだるい言い方で佳代をうながした。
「エアコン入っているからね」
佳代はそれだけ言うとドアを閉めた。暫くするとまだ弱いようでも春の日差しは、車内の温度を上げはじめた。車内の温度をゆっくりと調節して、シートにもたれ込んだ。体調は良くならない、何となく息苦しい気分で、ひたすら司は目を閉じ続けていた。人生の仕上げにこの姿で故郷に帰る哀れさを、寝ていても起きてみても身の置き所のないだるさの中で受け止めていた。
ニ年目になったとき上司に頼んで川崎の本社に転勤させてもらった。転勤という言葉に母親は「またこっちに帰るんだろうね」とようやく納得した。父親は「家のことは心配するな、やりたいことをやれ」とだけ言って、当面の小遣いだと二千円くれた。司は今になってようやく父母の思いが受け取れた。蒸し暑くなってきた車の窓に向かって「しょうがねえ野郎だ」声に出して吐き捨てるように自分をののしった。
「兄ちゃん、ゼリーのマルチヴィタミンを吸ってみて、少しはしっかりするから」
佳代からウイダーを受け取ってはみたが、口に持っていく気分にはならない。春樹はちらと後部座席に目を向けただけで、黙って発車した。
「一休みしたから、後は休まなくてもいいよね」
春樹に対して、佳代のおもねるような言い方が胸にこたえる。
「大丈夫ですか?スピード出しすぎですか」
百キロは出ていると思いながら司は、
「大丈夫だよ、元タクシードライバーだ」
冗談めかして言ってみた。トンネルの多い単調な道は会話もない、エアコンのかすかな唸りだけが支配する。一つの箱の中にいても、お互いが自分の想念の中に閉じこもるだけだ。司は眠ったふりをして目を閉じ続けた。
閉じた目の奥の薄墨の闇の中に真理子の顔が浮かんだ。七年目に黙って出て行ったきりの女だ。入籍もせずに暮らしたから傷は浅いと言えるかもしれない。真理子と一緒になったのが、ケチのつき始めだったと今でも思っている。妙に気になる女だった。下宿したテーラー高井は大森で母親の従兄弟で、紳士服の仕立をしていた。職人と一緒でいいからと母親がわざわざ頼み込んで、何が何でもそこに行けと譲らなかったからだ。青い血管の筋が浮き出ている手にタバコを挟んで、軽く咳き込みながら、
「そうせうもんだ」
と説得する母親に負けたというよりも、家を出る詫び状のつもりで承知した下宿だった。真理子は向かいの通りの履物屋の娘で、司より二つ年上だった。仕立屋のおばちゃんは、「真理ちゃんは運送会社の事務員をしているが、セクシーな美人だろ。どうも夜はたまにハイカラな名前の飲み屋のような所に行っているって噂だよ。純情な娘じゃないから気をつけな」いつも話の終わりには付加えていた。そうは思っていても、司にはなんとなく真理子に惹かれていた。母親は都会の女を嫁にするじゃないよと、リフレーンのように玄関を出る背中にまで念押しをした。司だってそんなことなど考えるよりも、東京で一旗上げたいという野心で気持ちが一杯な時だから、
「分かっているよ」
と反発せずに家を出たはずだ。ところが一年も経たないときに偶然に出会った通勤途中の駅で真理子に誘われて、退屈していた休日に浅草に映画を見に行ったのがきっかけでいつとはなしに付き合い始めていた。デートが週に二回を超えたとき、テーラーのおばちゃんから、母親に通報が行った。
数日して「チチキトクスグカエレ」という電報が来た。「大変だからすぐ帰りな、切符は買っておいたから、今夜の夜行に間に合うよ。会社には事情を言ってやるから心配しないで早く」とまで言われて夜の十一時過ぎの汽車に乗ってようやく四時過ぎに家に行くと、夏の夜明け早い庭で父親が庭の草取りをしていた。司はぼんやりした気分で、ただ
「父ちゃん」としか言えないで突っ立っていた。
「おう、どうした?」
怪訝な顔で父は泥の手を払って立ち上がった。
「元気だったの?」
「何かあっただかい」
父は解雇でもされたのかというニュアンスを込めて、囁き声で言った。大きな朝日がもうすぐ五十五歳の定年を迎える父の皴の多い顔をまともに照らしていた。
「ちょっと休暇とっただけだよ」
「仕事きついのか」
「そんなんじゃないけれど、連休は混むから先取り休暇さ」
「そうか、まあ中に入れや、飯は出来ているから」
「父ちゃんが作ってるのかい」
「ああ、母ちゃん朝は咳き込むからな、まだ寝床にいるわい」
庭の水道で手を洗いながら父はこともなげに言っていた。
「父ちゃんも苦労するなあ」
「なあに俺の仕事なんか、頭使うことじゃねえからな、仲間もみんないいやつ等だしさ、達者でいられるわい。何か相談事でも出来たか・・・」
先に立って歩きながら、父親は玄関の引き戸に手をかけた。このまま家に入れば母親の枕を蹴飛ばしてしまうかもしれない、司は左手で胸をぐっと押して足を踏ん張った。
「俺さあ、駅前の里根に頼まれていた小型のテープレコーダー持って来たんだよ。会社の新製品だからさ、渡してくるよ。彼の出勤前の方がいいから」
「そうか、じゃあそうしろよ、そのうちに母さんも起きてくるから・・・」
父親はほっとした顔になって頷いたが、司は返事もせずにバックをつかんで走り出した。もう二度とここになんか帰るものかと、心の中で怒鳴り続けて、駅まで走り通した。
駅についても電車の時間にはまだ三十分もあった。隅のベンチにうずくまるように体をこごめて目を閉じた。おしゃべりなテーラーのおばちゃんと組んで、姑息な電報騒ぎまでして、呼び戻そうと企んだ母親を思い切り憎んだ。主なことはただ真理子と引き離したいということくらいは見当がつく。
「おい内藤じゃないか、今頃珍しいな。休暇か?」
里根が後ろから肩を叩いた。中学高校を通して一緒の唯一の友人だ。
「あっ久しぶりだなあ、ちょっとした野暮用でさ、夕べ帰ったよ」
司は体裁を繕った。
「もう帰るのか?用事済んだのか」
「ああまあな、大した用事じゃあないから・・・」
「明日は土曜だから飲まないか、来たついでだ、もう一晩ぐらい泊まれよ」
「そうしたいところだが、今は会社が輸出物で忙しいんだ。厳しいしな」
湯田中行きの電車が入ってきた。
「じゃあ今度来る時は知らせろよ、仲間四、五人集めておくからな、」
半鐘泥棒とあだ名されたほど背の高い里根は、背中を丸めて一番ホームに走って行った。あれきり里根とは会っていない。三年前に里根は奥さんが亡くなって、一人で暮らしていることを佳代から電話で知らされたが、司は捨てた故郷だと悔やみの焼香にも来ていない。不義理の限りだ。
「兄ちゃん眠っているようだね」
佳代の声がかすかに耳に入る。寝ていなければいけないと司はシートに身を固く縮めて仰向いた。
「家の権利書はどこにあるんだ」
春樹の押し殺した声がする。
「兄ちゃんが持っているよ」
「口だけの約束じゃあ駄目だからな」
「取り上げるようで嫌だけれど・・・」
「生前だと贈与税がかかるけれど、その方が確実だ。しかしー借金抱えてでもいたらアウトだ。ちゃんと聞き出した方がいいぞ」
「家に着いて落ち着いてから話すつもり」
急にスピードが出たように感じた。前の車を追い越したらしい。司は目じりに涙のたれていく感覚の中で、息まで殺して固く目を閉じ続けた。
下宿のテーラー高井にも寄らず駅から直接会社に行った。上司は心配してくれて、「親父さんどうした」と小声で聞いたので唯「持ち直しました」とだけ言って作業服に着替えるためロッカーをあけていると、同僚たちが「よかったな」と言ってくれたので、なりふりも構わずにしゃくり上げて泣いてしましまった。二十二歳にもなって本当に恥ずかしかった。良い上司や同僚に恵まれたここで一生働こうと決心したのもその日だった。
その夜司はテーラー高井には帰らなかった。真理子を呼び出して安宿に行った。初めての夜だった。真理子と二日ほど過ごした六畳ほどの小さい部屋の、せんべい布団のかび臭さが未だに記憶の底にある。
テーラー高井を出ようと荷物を持ちに行くと、そこには母親がいた。
「この不良の恥さらしのバカヤロウを連れ帰るために来たのだよ。」
顔を見るや否や母親は矢継ぎ早に喋った。そして、
「祖父さんが半島の人とかいう噂じゃないか。だから連れに来たんだよ」
釣りあがった目が青く見えた。
「それが何だというんだい、真面目に生きている人間を侮辱するな」
「東京人と一緒になるとねえ、東京に居ついて帰らなくなるからだよ」
少しはトーンが落ちついてきた母親は、へたりこんで咳き込んでしまった。テーラー高井のおばちゃんがおろおろした素振りで、立ったり座ったりしている。司は黙って立っていた。自分たちだって、世間一般から見ればしがない暮らしの人間じゃないか、父親がハーフということだけで、見下した言い分が余りにも気に入らなかった。
「伯父さんのコネで、家から通えるいい会社に頼んでもらったからね。まだ食べさせてもいけないくせに、結婚なんか早過ぎる。きっぱり断ち切って帰って来ておくれ」
母親は今度すがりつくように言った。
「伯父さんが何だ、顔が効く?たかが田舎の町会議員じゃないか、それが偉いのかい」
司はそれだけ言って下宿の玄関を出た。世話になったおばちゃんたちに、不義理の限りをしたと悔いたのは、ずっと経って真理子と別れてからだった。母親は裸足で飛び出して来て、シャツを引っ張ったが、振り切って後ろも見ずに駅に急いだ。
司は諍いをしながらも、家庭らしい暮らしをしたのは、真理子と暮らした七年間だけだったような気がして、あれが幸せという状態なのだと今になって思っている。司が小さい部品を工夫した特許が認可になり、会社の上司の口利きもあって念願の会社を立ち上げたのは二十七歳だった。農家のおばちゃん二十人ほどだが念願の社長になった。孫請けでも親会社からの信頼があり、司はどんなに徹夜をしても平気だった。意気に燃えて働いた。金も稼げたし、セコのベンツなんかに乗って、景色だけが移動して行く感じさなどと嘯いたりもしていた。司の人生で一番ピークの時だった。その多忙と経済的にある程度恵まれたことが、外国旅行などに誘われると必ず行った。大言壮語しては現地の歓楽街で浪費の限りも尽くした。「なあに俺の特許はどこまでも通用する、誰にも出来やない」などと思い上がっていた。真理子とうまくいかなくなったのは当然だった。司は酒も余り飲まない。たばこを放さなかった母親を見ていてたから、たばこなど吸いたくはなかった。俺の裁量で稼いだ金だ、女と遊ぶくらい何だ、金さえ入れればいいだろうなどと高をくくっていた。僅かでも年上だったせいか、真理子は愚痴も喧嘩もしかけなかったが、ある日突然黙って出て行った。歌謡曲の文句のような別れだった。入籍もしていないし子もないから、それは実に手軽な別れだった。真理子も財産分与など口にしなかったし、司は事業の拡大ばかり考えていたし、女に不自由もしていないから未練もなかった。それでも、始末をつけようと喫茶店に呼び出して、詫びもせずに手持ちの金を半分分けにして、
「達者でな」
とだけ言った。
「元気でね、私の祖父は韓国人なの、だからお母さんは許してくれなかったのでしょうね。でも私だって背筋を伸ばして生きたいからこれでいいのよ」
真理子も寂しく笑った。
「あの騒ぎはテーラーの婆ぁの告げ口が元だったのか・・・覆水盆に返らずってやつだよな」
修羅場もなかった。
真理子からの何かの連絡もなかったし、その後の消息は知らない。尋ねようともしなかった。残酷なことをしたと思ったのは、自分が心も体もぼろぼろになって入院してからだった。
「兄ちゃん、真理子さんが去年亡くなったってこと知っている?」
司の想念を察知したかのように佳代が振り向いた。
「知らないさ、大昔の関わりなんか知るかい」
むっとしながら、それでも七年も暮らした一人の女の消息を、話の腰を折らずに促す気分で聞いていた。
「母さんが死んでからだけれど、父さんはずっと真理子さんにりんごを送っていたよ。真理子さんは父さんに年賀状寄こしていたからね。若しかして情報はテーラー高井のおばさんかな。父さんは誰にも内緒でりんごを送っていたようだよ」
「親父は何でそんなことをしたんだい」
怒りを込めた言い方が自分でも切なかった。不甲斐なかった。
「分からないけれど、詫びる気なのかなあ。兄ちゃんの仕打ちもあったし、それに何で母さんは無闇に反対したのかなあとは、死ぬ少し前頃ふっと漏らしたよ。真理子さんのことらしいと思ったから、そうだねとは言ったけれどねえ。多分可愛そうだと思い続けていたのかもね」
佳代は夫にも同意を求めるように言った。
「へえー死んだのかー何か病気だろうな、まだ六十代になったばかりだったろうになあ」
つい話を継ぎ足して、司はかすかな後悔を感じた。
「去年の冬だった。養女という人から電話があったわ。母がお世話になりましたからお知らせだけと言ってね。春樹と相談して香典は父さんの時頂いた分送っといた。父さんも真理子さんも会ったことなんか無いんだけれどね。あの人その後、男と少しはあっても結婚はしなかったみたい。父さんが亡くなった年に、香典を送ってくれたけれど、誰にも言わないで下さいという添え書きしてあったから、もう関係ない兄ちゃんに黙っていたんだよ。ねえ」
佳代はまた夫に同意を求める言い方をして振り向いた。春樹は黙ってハンドルを握ったままだ。世間の付き合いから全部除外された厄介者という言葉が、春樹のいらいらしたような横顔に張り付いていた。
「済まないね、とことん面倒かけて」
司は痛くなった背中をさすりながら、春樹に向けて言ったが返事はなかった。真理子も結局幸せではなかったのだと切なく思った。優しいらしい娘と寂しいけれど、後年は幸せがあったのかななどと、記憶の底の気がかりに結論し、真理子は背筋を伸ばして生きたのだと思った。
バブルが弾けると同時に司の小さい会社は注文ががくんと減り、単価もこれ以上叩けないほど値切られた。何とか、やり繰りしたのも三年が限度で倒産してしまった。父親が家を建替えたとき「いずれ司が住むのだからな、俺の名前はいらないよ」と登記しておいてくれた家を抵当にした借金だけが残った。知ってか知らずか父親は司と一緒に住むことを口にはしなかった。それは終生言わなかった。司は分かり過ぎるほど承知していたにも関わらず、父親を妹に預けたままで、年にたった一晩温泉宿に泊まったきりだった。温泉宿の後自分の建てた家で親子で寝ながら「今日は極楽だった」とその度に言った父の言葉が胸に刺さる。今になって言葉の奥の父親の気持ちが胸に沈むのがつらい。目先に借金返済がぶら下がっていた。深夜勤務のタクシーまでやって必死に働いた。ようやく返済を完了させて気がついたら肝臓がやられていた。
目を閉じたままどのくらいの時間を使っていたのか分からなくなったが、司は起き上がって乱れを直すように、髪の毛を掻き上げた。
「もう一度休むってよ。トイレとかどうなの」
佳代がきつい顔をして振り向いた。トイレなど行きたくもなかったが逆らうのもいやだから、
「そうだね、下りてみるか。春樹君も疲れただろうし」
応ずることもなく、ゆっくりと駐車場に車を入れる春樹の背中に、これからの自分のたたずまいを思って落ち込んでいった。
「兄ちゃん早く降りてよ、トイレって言っていたでしょう」
佳代の尖った声で、司は迎えになんか来てもらわない方が良かったと、何度も腹の底で叫びながらのろのろと車から降りた。自分で生きぬいて来たという小さなプライドも粉々にくだける存在になった。長男のくせに親を看取らず、家庭も子もなく財を成すこともなく、今は自分の始末もつけられない厄介者だ、ろくでなしの疫病神だ。佳代や春樹の言い分は分かっている。ただ一つ持っているのは家の権利書だ。地価がいくら安くなったとはいえ、町の中の八十坪弱の土地は、隣りの目医者から何度も譲って欲しいと言われ続けているのだ。
「俺流の最後っ屁をするか。ただの負け犬じゃあな」
司は手を洗いながら、健康には見えない黄ばんだ鏡の中の顔に向かってふっと笑った。何となく心が働き始めたような気分になって背中を伸ばした。希望のような、野心のようなおかしな高ぶりが満ちてくるのを感じて、ペットポトルの冷たいお茶を一口飲んだ。
「直接行きますけれど」
春樹は相変わらず、司に顔を向けないまま発車した。司もこれ以上卑屈に言葉を重ねたくなかったので、そのまま目を閉じた。高速を下りて五十分ほどして司の家に着いた。
「兄ちゃん、電気ガス水道使えるし、一応住めるようにはしておいたからね」
佳代はトランクから荷物を運び出しながら言った。なるほどここ数年ほったらかしていた家は、昭和四十七、八年頃に建てた粗末な造りだから、周りの家から陥没したように、古びて丈の伸びたまま枯れた雑草が取り巻いていた。
「しかしすげえなあ、これは一旦更地にした方がいいなあ」
春樹は家の鍵をはずしながら呟いていた。下心が透けて見える口ぶりに、
「朝早くから有難う。俺はまあ暫くここで生活するよ。親父の使った生活用具があるしね」
司は反発を隠しながら、柔らかく言って妙に力んだ格好で家にいった。何となくかび臭いが、それでもこたつもテレビもストーブも古いままセットされている。
「車の中にいるよ。駐車違反になると困るからな」
春樹はそそくさと出て行った。
「朝から本当に有難うな、ここで俺は佳代たちに世話をかけないで何とか生きていけそうだよ」
「そうしてよね、父ちゃんみたいにね。家は几帳面な父ちゃんがみんな整理しておいたから、十年経ってもこうして家具も使えるのよ」
「そうだなあ、毎年秋の温泉の帰りには一晩ここで泊まったものな、親父が虫食いりんごをもいでいたよ」
「父ちゃんは家を立て替えて、やっと自分の力で司に譲るものが出来たと言っていたそうだよ」
「そうか」
クラクションがいら立たしそうに鳴った。
「じゃあ帰るけれど、今夜はすぐそこのコンビニで何か買って食べてね。困ったことあったら電話してよ、来るから。ああ疲れた、夕飯はどうしようかな」
佳代はあわただしく帰って行った。司は、
「じゃあね」
といっただけで、あえて車を見送らなかった。
襤褸家でも自分のエリアに辿り着いた安堵というのは、このための言葉だと思うほど、絶望と孤独を差し引いても、お釣りがくるほど緊張が解けていた。親父はこの家で十五年近くも一人で暮らしたのだと思うと、胸がえぐられるほど切なくて、手垢のついた古びた家具やかび臭い布団が懐かしかった。こたつに入って寝転んでいると、体が緩んだようで、知らぬまに深く寝入ってしまった。
妙に鮮明な夢だった。真理子が若い娘と、寄り添って写真のように立って司を見ていた。「俺に子どもなんかいるはずはないんだよ」司は何度も叫んだ。最後の絶叫に近い「いるはずないー」という自分の声に驚いて目が覚めた。こたつが暑すぎたせいでもないのに、粘りつくように体が熱く、汗びっしょりだった。熱が出たのではないらしいと、後頭部を叩きながらのろのろと起き上がったとき、不意に真理子の娘は養子だとか言っていた佳代の話を思い出した。なぜなのか他人のまた他人のようなその娘のことが無性に知りたくなった。「おかしいぞ俺」ぶつぶつ言いながら、宅急便で送ったダンボール箱からからシャツを取り出した。
「とにかく今は、残っている時間を有効に使うことだ」
シャツを被りながら司は大きく声にした。声にしたことであのバブル時代に寝る間も惜しんで行動した感覚が戻ったような気がした。
「よーし」
司は立ち上がって四股を踏んでから、コンビニに出かけた。おかしいほど体が軽い。俺病気なんかしていなかったんだと自分に言い聞かせて角を曲がった。真っ先に氏神の芝宮神社にお参りした。それから、自分の好きな食べ物を二日分くらい買って帰った。こたつに広げながら、この分だと二年くらいはこの家で親父のように暮らしていられそうな気がしてきた。
こたつ脇の茶箪笥の引き出しを開けたら、はがきの束があった。父親の遠い生家の甥からの年賀状に混じって、真理子からの古いタツノオトシゴの絵の印刷のある賀状が一枚あった。決まり文句の挨拶と、住所の横に真理子と比呂とだけあった。司はその偶然の出会いに胸が痛くなった。「気持ちが弱っているなあ」小さく言いながら、真理子はなぜ薄情な別れ方をして音信もない男の父親に、年賀状を送り続けたのだろうと首をかしげながら、その真意も測りかねてはがきを見つめていた。中身のある人間になるように国光を植えたという父親の言葉が思い出されて、償いというわけではないが、自分の最後のケリは比呂という娘に会うことだと結論した。まるで病気を忘れたかのような気分になった。
ケータイが耳元でけたたましく騒いでも、中々手が伸ばせない。だらしなくこたつで転寝をして体は、鉛でも入っているように重い。もう九時過ぎている。佳代から電話だった。司はやはり身内だ、心配してくれていると明るい声で、先ず引越しの礼を言った。
「兄ちゃんに頼みがあるんだよ。家の権利はどうなっているの?抵当に入ってでもいるの、それに借金あるの?前には家は私たちが自由にしていいと言っていたけれど、書類なんかも今のうちにはっきりしておいてね」
最後の言葉が胸を刺した。奥に封印し続けていたモノが首をもたげた。
「今のうちかー、春樹君がそう言ったのかい」
「そういう意味じゃないけれど、結局兄ちゃんは一人でしょう、その上病気でしょう、最後の面倒を見るのは私たちしかないものね」
「分かった。俺は放り出してもらっても構わないんだけどね、だから本当は帰りたくなんかなかったんだ」
司は語気を強めて言ってから、思い切り強くケータイをOFにして、こたつにひっくり返った。暗い天井を見上げながら、
「あと二年くらいの軍資金はあるから、俺流の一番納得できるケリをつけたいな。恵比寿講の三尺玉よりでかいものを打ち上げてバイバイとするか。うん」
自分に言い聞かせるように、声に出した。
薬が終わったので紹介状を持って病院に行った。町の病院なのに、浦島太郎のようで誰も知っている人には出会わなかった。医者は画面で血液検査の細かい数字指しながら、
「数値は変わらないから、今のところまあいいですよ」
などというおざなりの言葉に、司は投げ出されていることを承知で何度も肯き、納得した素振りをしていた。
県境の山々に雪が少なくなると、北信濃の春は一時に訪れる。手入れをしていない藪のようなりんごの蕾が濃いピンクになったと思ったら、数日の暖かさで一斉に白い花が咲き出した。これを見納めにしようと帰ったのだと、司は立ち尽くしていた。体が弱くて我儘な母親を庇い通していた父親が、母の死後すぐに家を全部つぶして建て替えたことや、その名義を自分でなく、司に登記した気持ちがじんと伝わってきた。そういう父を最後は佳代に預けて、喪主の努めすらもしなかった自分が許せなくて唯情けなかった。
「父ちゃんごめんな、俺は親不孝の極道だ」
司は灰色の年老いた太いりんごの幹を撫でながら、子どもの時のように号泣した。
その夜、突然里根が訪ねて来た。
「お帰りー内藤、水臭いじゃないか。でもよく帰ってきたな、嬉しいぞ」
少し背中が丸くなっている。
「もう聞きつけたのかい」
「狭い町内だからな、情報は早い」
「病気なんだ俺、肝硬変、長くないかも」
「馬鹿こけ。そんなことで帰って来たのか、まあ俺だって薬飲んでるわい。一病息災ってやつさ。俺もカアちゃんがないし孤独だ。一緒に旅行なんかどうだい」
「有難う、でも俺はあんまり時間が無いらしい」
「馬鹿言ってるんじゃないよ」
里根は笑いとばしたが、司が本気なので改めて向き合った。里根は以前の仕事が不動産関係だったので、家のことなどの相続や手続きを頼んでみた。
「あくまでも転ばぬ先の杖的な準備なのさ」
と付け足すと、里根は溜息をつきながらも、
「内藤・・・本気かー、それじゃあ仕方ねえ」
と引き受けてから、
「自分では罪滅ぼしをしたつもりでも、世間じゃ先ず通用しないな。それに先方は迷惑かもしれないぞ。そのこと承知だな」
里根は釘を刺した。司は卑屈にも佳代たちには秘密にして欲しいと頼んだ。
十日ほどして里根が来た。
「あの子はタイ生まれの孤児だそうだ。真理子さんが三歳ぐらいのとき引き取って養子にしたのだそうだ。見た目も言葉も日本人と変わらないぜ、今時のそこいらの女の子よりずっといい子だぜ、躾もよく出来ているらしいし」
と言いながら、ケータイに写っている顔を見せた。優しい目をした髪の長い若い娘だった。
「この子が俺の遊んだ国のー」
司は絶句した。真理子が娘を育てたことは、復讐か愛情か、寂しさか、今になっては解明しようも無いが、アパートで一人暮らしをして、アルバイトしながら大学に行っていると、里根は語ってから帰った。
その夜更けに、司は比呂と佳代に宛て手紙を書いて硬く封をして、古ぼけた茶箪笥の引き出しに仕舞った。
十二時は疾うに過ぎている。肩をもみながら、司は静かに窓を開けた。淡い月の光の中に、りんごの木が不揃いの枝を広げている。
「父ちゃん・・・この家を潰す我儘を許してくれ。佳代は春樹君がいるからね。俺さあ、真理子にどうしても詫びたいんだよ。だから一人ぼっちの比呂という娘に半分上げたいんだ。突拍子もないことかなあ。俺の締めくくりの花火は、三尺玉には及びもつかない線香花火だけれどさ」
風も無いのに、りんごの花がひそやかに散り始めていた。
|