| 文学サイト長野 | 文芸誌O(オー) 40号

 


 

光の衣に包まれて

                                                  渡辺たづ子


 

  講演会場の入口で受付を済ませ、岸田先生の著書を一冊買い求めた。表紙を開くと、几帳面な文字で、先生のサインと言葉が添えられていた。

「イエスは嘆きを喜びに変える」

   その文字を少し眺めてから、会場のドアを押す。百席ある会議室と聞いていたが、椅子はあらかた埋まって空席はほとんどなかった。

 岸田先生は演壇寄りの隅に立って、主催者らしき男性と話していた。スーツ姿の先生を見るのは初めてだが、長身で細身の身体になかなか似合っている。クリスチャンなので正装する機会が多く、着慣れているのだろう。品格さえ感じられて、今日の主役に相応しく見えた。

 真ん中あたりに席を見つけて腰掛けると、隣は太った金髪の外国人女性だった。失礼しますと頭を下げると、たぶん彼女もクリスチャンだろう、どぉいたしまして、と人懐っこい笑顔で大きく頷いた。

 定刻どおりに主催者の挨拶が始まり、続いて講演者である岸田先生の紹介へと続いた。

「先生は大学をご卒業の後に、いくつかの施設などをご勤務なされた後、ご自分で学習塾を始められました。そのかたわら、様々な理由で学校に行かれない子供達のための居場所作りとして、フリースクールを立ち上げられて、それが今年でちょうど二十年になるそうです。最近は少し体調を崩されたというご事情から、講演会などへのご出席は控えて来られたそうですが、今年はスクール二十周年という節目の年でもありますし、先生がこれまで積み重ねられてこられた貴重な体験談を、是非お聞きしたいという話が広がりまして……」

 主催者から少し離れて、先生は懺悔している罪人のように前で手を組み、背を丸めて項垂れている。いつもの見慣れた岸田先生だ。うつむくと地肌が透けた頭の天辺が目立って、やけに寒々しい。背筋を伸ばして顎を引けば見栄えがするものを、折角のスーツが借り物みたいに見えてくる。

 やがて主催者に促され、拍手に押し出されるようにして岸田先生は演壇の前に立った。

 

 みなさま…

 

 いつものテノールは出たが、次の言葉が続かない。最初からつまずいている。先生は仕切りなおしするように、軽く咳払いした。それからぎゅっと目を閉じて一呼吸置き、改めて口を開いた。

 

 本日は、こんなにも大勢の方々にお集まりいただきまして、まことに有難うございます。……わたくしはこれまで本を出版したり、色々な場所で講演などもさせていただいてきましたが、えー…しかし……しかし……ここ何年かは、あまり人様の前でお話できるような状態ではなくて、人様に聞いていただけるような話ができるかどうか、…しかし…、……とにかく、大勢の人前で話すことがあまりなかったものですから…それで…

 

 先生は、流れ込んでくるものを塞き止めるようにして、言葉を切った。それから、ふーっと強く息を吐いた。

 

 そんな事情で、……一度はお断りしたのですが、今日の集いは、わたくしが日頃お世話になっている教会関係の方々が中心となって動いてくださったとお聞きし、それで…、……しかし……考え抜いた末にお引き受けいたしました。それでも、ここ数日ほどは特に、受けなければよかった、どんな話をしたらよいのだろうか、一時間も話せるだろうか、などと悩みまして、……さっきまでです、本当にさっきまで悩んでいまして、今でもこうしているだけで、本当にもう、こんなに手のひらが汗で、汗でびっしょりになっていまして…

 

 先生は、両手を顔の前で揃えてこちらに向けてから、その手を下ろしてズボンの脇にこすりつけた。肩で息をしているが、少しずつ以前の呼吸を取り戻してきたのか、落ち着いてきたようにも見える。

 グラスの水を一息で飲み干して、自分を勇気付けるかのようにもう一度ぎゅっと目を瞑ると、先生は観念したようにまた口を開いた。

 

 この二月まで、わたくしどものフリースクールに、若菜ちゃんという十九歳の女の子がいました。彼女はこの春から親元を離れて、短大生として新しい生活をスタートさせましたが、その若菜ちゃんが来たばかりの頃、一年半前ですが、わたしに、「せんせぇくさーい、きちんとお風呂に入ってんの?」と言うんです。「風呂というものは一週間に一度くらいでいいんじゃないのか」と、わたしが答えると、「何言ってんの先生、お風呂はふつーは毎日入るもんだよ」と言われました。なるほどそういうものかとわたくしは反省しまして、家の近くにある温泉のフリーパス券を買ってですね、そこに毎日通うようになりました。

 昼の十時くらいの、人が少ない時間に行って、ゆっくりお湯に浸かってごしごしと身体を洗って、一週間ほどわたしも頑張りました。これでもう臭くないだろうと思って聞くと、彼女は、まだ臭いと言います。そして今度は、「着てる服が臭いんじゃない? 洗濯はきちんとしてんの?」と聞くんです。「洗濯は、そーだなー、半年に一度くらいかな」と答えると、それも普通は毎日するものだそうです。普通の人は毎日お風呂に入って、毎日洗濯した清潔なものを身につけるのだそうです。

 なるほどそういうものかと、またわたしは助言に従って、毎日温泉に入って毎日洗濯しました。そういうことはあまり得意ではないのですが、努力しました。するとようやく、若菜ちゃんから合格点がもらえました。もう臭くないと言われて、ちょー嬉しかったです。

 

 会場に好意的な笑いが広がった。となりの金髪婦人も、ははは、と頭を揺すって笑いながら、肉付きのよい足を組み直した。

 最初から、娘の名前が出てきたので驚いた。そういえば、スクールに通い出したばかりの頃に、若菜は言っていた。

 岸田先生って、まじ臭いし。お風呂嫌いなんだって。これまで誰からも臭いなんて言われたことなかったから、自分が臭いの知らなかったって。それ信じらんない。これまでスクールは男の子がほとんどだったから、そういうこと鈍感だし、思っても言わなかったみたいよ。てか、女の子来てもすぐ辞めてっちゃうことが多かったみたいだけど、それって臭かったからじゃねえ? 奥さんは鼻が悪い人みたいよ、何にも言わないんだって。諦められてたのかもね。お母さんみたいに鼻のいい人だったら、一緒にいるのは絶対無理だね。ほんっと、くっさいから。あれはまじやばいよ。

 

 うちのスクールに来ている生徒達は、そのまま学校や社会に出て行くケースが多いです。そんな彼らが、何年か経ってスクールに顔を出すと、こんなことを言うんです。ここの先生は少し勉強教えたかと思うと、すぐやる気なさそうに引っくり返って寝てる。それ見てて、こんな大人にだけはなっちゃいけないと思った、だから社会に出たんだ、と。先日も一人、もう三十近い青年ですが、やはり同じことを言っていきました。

 わたしは体調が悪くなると、スクールのソファでよく横になっているんです。本人にしてみれば、決してのんびりといい気持ちで休んでいるわけではないんですが、彼らの目には、人に勉強させといて自分だけいい思いしてる、なんて映っているのかもしれません。反面教師だって立派な教師なんだぞ、なんてわたしも負けずに応えるんですが。

 こんなわたしです。皆さまの前でどのようなお話が出来るか自信ないのですが、頑張って話しますので、どうかよろしくお付き合いください。

 

 若菜は高校一年から二年になる時に落第した。勉強嫌いの上に、遅刻や欠課が積み重なって、単位がもらえなかったのだ。今の高校はやめる、先のことは分からない、何もしたいことがない、将来のことなど何も考えられないと彼女は言った。

 この先どんな進路を選択するにせよ、高卒資格は必要となってくる。高校だけは卒業するようにと助言し、話し合った結果、若菜は通信制高校への進学を決めた。そこでは週に一度のスクーリングとレポート提出、定期試験を受けて単位を取得していく。卒業までには四年間かかるが、これまでとは違った環境の中で、ゆっくりと将来を考えていけばいいと思った。

 若菜は四月からまた高校一年生となり、週に四日は近所のコンビニで五時間程度働いて小遣い稼ぎをし、日曜日にはスクーリングに出かけた。朝は早く起きて一時間目に間に合うように家を出て、レポート提出もきちんとしていたようで、採点の済んだレポートがよく学校から返送されてきていた。新しい環境に前向きだった。

 しかしそれも春からの三ヶ月ほどだった。夏が来た頃から理由をつけて家を出るのが遅くなり、やがて通学自体も間遠になり、レポートの返送が途絶えた。コンビニのバイトも、最初のうちこそ午前中に入っていたものが、しだいに昼過ぎ、そして夕方、夜へとずれこんだ。バイトが終わっていったん家には戻ってくるものの、夜中には出かけることが多く、連絡のない連泊は当たり前になっていった。

 一年経って通信高校から送られてきた通知表を開いてみると、取得単位はゼロだった。また振り出しに戻った。来年はきちんとやると、若菜は言った。けれどもそれから半年経っても、夜型の生活に変化は見られなかった。

 学校を続ける気持ちがなければやめて、アルバイトでなくきちんと働いた方がいい。家を出て自立するという生き方もあると、少し厳しく意見すると、若菜は重い口を開いた。

「勉強むずかしくてレポート出せない」

 教科ごとに提出を義務付けられているレポートというのは、家でやる宿題プリント、あるいは小テストのようなもの。これを解く力が若菜にはないらしかった。もともと学力が低い上に、週に一度のスクーリングだけで理解しろというのは、考えてみれば、最初から無理な話だったのかもしれない。

 塾みたいなところで勉強教えてもらいながら、レポート手伝ってもらえば出せる。家の近くにあるフリースクールなら、通信高校のサポートもしてくれるらしいと、若菜は言った。

 正式な入学手続をする時に、初めてスクールを訪ねた。そこで見た岸田先生の印象は強烈だった。痩せて尖った肩に着古したポロシャツを引っ掛けるように着て、膝が丸くなって踝が見えるズボンの下は素足にゴムのサンダル履き、薄い頭髪は櫛の目もなくぼさぼさだった。身なりを構わぬ世捨て人のような姿に、今時こんな人がいたのかと、かえって清しさを覚えた。

 

 本日は、わたし自身の生き方を変えた二つの出来事について、お話させていただきます。

 

 失礼します、と断ってから着席し、先生は手にしていたノートを開いた。

 

 わたしは若い頃、不登校の子供達を預かる施設で働いていました。その頃、不登校に対しての一般的な認識というのは、彼らは自立していないから学校に行けない、というものでした。そういう状態に陥っているひ弱で甘えた子供達を、親元から離して自立させて学校に帰そうというのが、わたしの働いていた施設の考え方でした。わたし自身もこのような考え方をしていました。最終目標が学校なわけです。わたしは、子供達を一日も早く学校に復帰させてあげよう、その為こういう軟弱な子達を何とか強くしてやろうと、指導員としてそれなりの使命を感じて、頑張っていたわけです。

 

 話している間中ずっと、先生の指先は落ち着きなくノートの縁を行ったり来たりしている。

 

 施設はあまり人の来ない山の中にありまして、子供達には勉強のかたわら畑仕事などもさせて、自然に触れながら体力もつくという、わたしにとっては理想的と思えるような環境にありました。そういう空気のいい場所で、朝の六時に起床して、ラジオ体操とマラソン、掃除をしてから皆で朝食を作ります。それから勉強があって農作業があって、夜の十時に消灯です。

 こんな至れり尽せりの環境に置かれた子供達が、実際にはどうだったかというと、これはもう、理想とはほど遠いものでした。そこに来るまでは、ほとんどの子達が昼夜逆転生活をしていました。ですから一日の始まりからして、本当に大変でした。

 一人一人に声をかけて、揺り動かして、また声をかけて、ああしてこうして、やっとのことで起こしても、彼らはフラフラ状態で、とてもじゃないけど体操やマラソンどころではないんです。こんないい環境の中で、恵まれた生活を送ろうとしているんだ、オレも頑張るからお前達も頑張れ、頑張って変われと、わたしは彼らを励まし、自分を励ましました。努力を重ねることで、子供の身体のリズムも整って、やる気も出てくる、良くなる、そして、最終目標である学校にも行けるようになるんだと、信じていました。

 ところが当の子供達は、こちらがいくら努力を重ねても、待っても待っても、いっこうに良くならないんです。一日の始まりに、フラフラでも起きようとする子はいい方で、ちょっと目を離せばすぐにまた布団に逆戻り、一日中フテ寝を決め込む子もいます。規則は守らない、自分からやろうとする前向きさはない、その上、施設をいやがって脱走するんです。

 子供を追いかけて連れ戻すというのが、そのうちに、毎日の仕事になっていきました。家に帰りたいと泣き叫ぶ子供を連れ戻しても、またしばらくすると脱走する。こんな繰り返しの中で、わたしは葛藤しました。これが本当に最善の方法なのか、これで本当に彼らは良くなるのか、もっと違うやり方があるのではないか、あるいはもうこういう子達は良くならないのではないか、無理かもしれない、などと疑問を持つと同時に、わたしは段々と苦しくなってきました。

 こんな自分の心を受けて、身体は正直なものですね、今度はとうとう、わたし自身が起きられなくなってしまったんです。これまで不登校の子供達を指導していた自分がですよ、えらそうなこと言っていたこの一人前の大人がです。出勤できないなんて、そんなバカなと自分でも思うのですが、自分が一番思うのですが、なにせ身体が動かない。最初は眩暈や下痢という症状があったのですが、それがない日でも、どうしても起きられなくなってしまったのです。

 

 落ち着きなく動いていた岸田先生の手がようやく止まって、視線も定まってきた。

 

 それで仕方なく、休職という形を取って実家に戻り、毎日ぶらぶらと過ごしていました。すると、近所の人の目が気になるんですね、これが。こいつ病気にも見えないし、いい年して仕事しないでいったい何してるんだろう、と思われているだろうなと考えるんです。ま、実際そう言われていたでしょうが…。いつも人から見られている、批判されているというふうに、必要以上に思い込んでしまうんです。ですから段々と、玄関の戸をちょっと開けるのにも外の様子をうかがってから、人がいない時を見計らって、などとなって、そのうちに外出もしなくなりました。

 そうなってから初めて、これまで自分がみてきた不登校の子供達の気持ちが分かったんですね。自分が指導者として、彼らを見下ろしていたというのも分かって、同じ立場に立てるようになった。彼らが親しい仲間、友人のように思えてきた。あぁ、あいつらもこんなふうに苦しかったんだなと、ようやく思えてきた。職場は半年休みましたが、結局、そのまま退職しました。その時の病気は今でも断続的に続いています。これがわたしの、一つ目の転機でした。

 

 初めてスクールを訪れたその日、私は先生に訊かれるまま、これまでのいきさつを話した。若菜がどんな学校生活を送ってきたか、親として自分が娘をどう見て、感じて、考え、悩み、向き合ってきたかを、思いつくまま、とりとめもなく話した。

 中学の時から、もちろん登校時にも、若菜は化粧なしで人前に出られない子供だった。初めのうちは眉とファンデーション位で済んでいたのが、学年が進むにつれアイシャドーやラインで目の周りが濃く縁取られていった。自分の顔が嫌いだと、彼女はいつも言っていた。もっと綺麗だったら化粧なんてする必要ないのだ、化粧なしでは学校に行かれないと泣いて訴えるのだった。

 出来る限り客観的にみても、彼女の容貌はごく人並で、それ以下とは思えなかった。本人が嫌うニキビが目立つ丸い頬や、肉付きのいい瞼などは思春期特有のもので、大人になるに従って自然に変化していく、そんな程度としか思えなかった。けれども、思春期という時の中にいてただ息をしているだけで、とてつもなく疲れる人がいる。私自身がそうだった。この閉ざされた重く濃い時間の中で、その上荷物はもう背負えないという若菜の心情は、自分なりに理解できた。出来る限りそのまま受け止めてやりたいと担任教師に伝えて、特別に黙認してもらっていたのだった。

 そんな事情を話している間はそれなりに落ち着いていたが、しかし、話すほどに感情が高ぶってきて、しだいに理性を保つのが難しくなってきた。

 とにかく、夜になれば家を出て行って、帰ってこないというのが娘の日常です。高校在学中からそうでした。一ヶ月のうち、自分の家で眠るのは半分もないです。当然、家で食事することも少なくなり、親の視線も避けるようになってきました。特に反社会的な、例えば補導されるようなことをしているわけではないと思っていますし、一緒に遊んでいる友人もだいたいは分かっているつもりです。幾人かの友人の家を泊まり歩いているようです。未成年で親の保護下にいるのだから、毎日家に帰ってくるというのは、最低限、扶養されている子供として義務ではないかと、このことでは、夫と共に何度も注意したり、話し合いしたりを繰り返しました。それに対して娘は、夜は一人で部屋にいられないから外に出ると言うんです。そこまで行動を禁止されると、生きていられないと泣くんです。どうしてと聞いても、何にも言わないで泣くばかりです。思春期の悩みや苦しみは色々あるでしょうが、娘はそれをほとんど話してくれません。私自身、自分の同じ頃を思い返してみても、特に高校生ともなれば、親にはもう何を話しても分かってもらえないだろうと、そう思っていたような記憶があるので、娘の気持ちも自分なりに察するだけです。具体的には分からないけれど、その時期特有の息苦しさのようなもの、それはやっぱり苦しいだろうと、体験から思います。けれども正直言って、そんなふうに理解したとしても、娘のこういうありかたを受け入れて、親として大きな気持ちで愛情を持って接するというのは、頭では理解していても、実際、とても難しいことでした。一番悩んだのは、娘との接し方でした。というか、自分のありかた、かもしれません。どこまでが愛情で、どこからが甘やかしか、どこまでがしつけとしての厳しさで、どこからが自分の苛立ちにすぎないのか、あるいは諦めからくる無関心とか、疲れて投げやりになって突き放しているだけじゃないかとか、考え始めると全く自分自身が分からなくなり、そのつど葛藤という繰り返しでした。好き勝手している子供に振り回されて、親の自分がなんでこんなに苦しまなければならないのだろうと、何度もやりきれない気持ちになりました。

 私には、岸田先生が初めて会った人のようには思えなかった。これまで誰にも話せなかった心のうちを言葉にしながら、膝の上に涙をぼたぼた落として、私は子供のように泣いた。

 先生は相槌を打ちながら、辛抱強く私の話を聞いてくれた。眼鏡を人差し指で押し上げながら、うつむき加減でぽつりと言葉を挿んだり、私につられて時おり涙を拭いたりした。たまにまとまった言葉を口にする時には、それが癖なのか、ぎゅっと目を閉じて苦行僧のような風貌になり、吟味した少しの言葉を絞り出すようにして喋った。けれども、何かの拍子で見せる笑顔は底抜けに明るく、顔一杯に素朴な善良さが広がった。

 そんな先生が、これだけは申し上げておきますと、最後に顔を挙げてまっすぐに私を見た。

「わたしはクリスチャンです。これまでは、スクールの中で信仰には触れてきませんでした。ところが、ここに来るお子さん達は皆、それぞれが複雑な事情を抱えていまして、年ごとに対応が難しい状況になってきています。やはり何らかの指針が欲しいとスタッフとも相談した結果、今年からは週に一回、聖書の学びと祈りをする時間を設けるようになりました。朝の三十分だけです。若菜さんにも、できれば参加していただきたいのですが、ご理解いただけますか」

 

 勤めはやめましたが、わたしも家庭を持っておりますので、家族を養わなければなりません。そこで、近所の小中学生に勉強を教える、普通の学習塾を始めました。もう不登校の子供達とはかかわらない、自分にそんな資格はないと思っていました。ところが何年か経つと、どこから聞いてくるのか、うちの子が不登校で困っている、何とかならないだろうか、というような相談がぽつんぽつんと持ち込まれるようになってきたんです。そういう人達と話をしていく流れの中で、近所に住む元塾生の男の子を、自宅の離れで預かるようになりました。高校を中退して以来家に引きこもりきり、昼間は寝て夕方起き出し、朝までテレビゲームという日常にいた子でした。

 わたしはこれまでの経験と反省から、不登校の子供に対してはゆっくり待つことと、子供の心に寄り添うことを心掛けるようになりました。そして、親御さん達にもそのように伝えていました。ですからその子に対しても、こちらから意見めいたことや細かいことをいっさい言わずにいました。ただ一緒にご飯を食べたり話したり、ゲームをしたり音楽を聴いたりという日々を送っていました。ゆったりとした時間の中で過ごしていけば、彼もそのうちこんな生活に飽きて、自然に自立していくだろうと思っていたんです。

 ところが実際には、一年経っても彼は変わりませんでした。それどころか昼夜逆転の生活の中にいっそうどっぷりと浸って、アルバイトなどをする気配もありません。わたしはしだいに不安になってきました。大事なお子さんを預かっているのに、本当にこのまま見守るだけでいいのだろうか、一体いつまで続くのだろう、大事な子供の一生を、もしかしてこのままダメにしてしまうのではないだろうかと、こんな心配がいつもいつも、心から離れなくなりました。

 そうなってからわたしは、これまでの自分が子供の立場にだけ立って、その苦しみしか考えていなかったことに気づきました。親の大変さを知らなかったのです。だから親御さんには、ゆっくりあせらず受け入れてと暢気に繰り返していたのですが、ここへきて初めて、今度は、不登校の子を持つ親の不安や焦りや孤独感、背負わなければならないその重さを知ったのです。

 わたしは、同じ思いを抱えた親同士が気持ちを分かち合い、心を開いて相談し会える場所が必要なのではないかと思いました。そして、不登校の子供を持つ親の会を始めました。その会に参加している親御さんの中から、不登校の子供が通える場所を作って欲しいという声が出て、それがきっかけとなり、今のフリースクールの原型が出来たわけです。

 

 アルバイトを続けながら週に二回、朝の十時から夕方四時まで、若菜はスクールへ通うようになった。自宅から自転車で十五分ほど、岸田先生の他にはスタッフ一名にボランティアの若者二名、下は十五歳から上は二十二歳までの生徒十人と、家庭的だった。

 通い出してすぐ、若菜は変わった。相変わらずの夜遊び朝帰り時には濃い化粧で素顔を隠すが、スクールへ行く時だけはスッピンになった。中学以来、家族にしか見せてこなかった素顔だった。

「化粧はめんどい、時間かかるから。スクールじゃ同じ仲間だけで他の人は誰も来ないし、それに、先生があれだしね」

 若菜は毎週、火曜と金曜には弁当を持って自転車に乗った。金色に染めた長い髪が風になびいて、剥き出しになった丸い額や頬は、小学校時代を思い出させた。

 スクールに通っていた一年半の間、しかし、若菜に何の問題もなかったわけではない。生活が規則正しく動いていけば、持ち前の素直さが表に出て、若菜は前向きで積極的な日々を送ることが出来た。けれどもどうしてか、彼女は時おり、まるで大きな魔の手に搦め捕られるようにして、以前の昼夜逆転生活に戻った。

 アルバイトの時間帯が以前のようにずるずると夜にずれ込み、帰りが深夜になり、やがて家に帰らなくなる。スクールはめったに休まなかったが、家からではなく、外出先から直接の登校だった。そんな時には、どこにいるのか、何をしているのか、どうして家に帰ってこないのかという問いにはほとんど答えずに、暗い目をして一点を見つめ、ただ涙を流すだけだった。

 夫が父親として、ある程度の厳しさを示したのは、彼女が普通の高校生として通学していた一年間までだった。厳しさは彼女をただ頑なにさせるだけ、良い結果を生み出すことはなかったからだ。育て方が悪かったのか、どこかで間違ったのか、ならばどう正して具体的にどう接していけばいいのか、夫婦で何度も話し合ったが、結論が出るものではなかった。悪かったといえばそうだろう、間違ったといえばそうだろう。しかし、そんな反省が自己嫌悪となって自分を責めることになり、それが苦しくなってお互いを責めることに繋がり、最後には若菜を責める結果になった。

「何もかも親掛かりで、親がいなけりゃ何も出来ないくせして、その態度はいったい何なの。おまえが帰ってこない間ずっと、お父さんもお母さんもどれだけ心配してるか、どうして分からないの、連絡くらいよこしなさい」

 そんなふうに感情を爆発させる私に、娘は目を伏せたまま呟いた。

「こっちのせいにばっかするんじゃねぇよ」

 頭の中には綺麗に取り繕った言葉が並んでいるが、心にある言葉は醜いと、口にしてから後悔する。自分を省みる強さを持てぬまま、ただただ相手を責める自分というものの、この本質を変えない限り、私もまた娘同様、いやそれ以上、闇に迷う哀れな者だった。

 私は変わりたいと思い、変わろうと思った。娘が闇の中で暮らす日々に、ただ、娘の苦しみが少なくなりますように、はやくそこから抜け出せますように、その前途に光が差しますようにと、祈るような気持ちで娘を見守りたいと思った。見守ろうと思った。そしてまた、自分の中の祈るような気持ちに気づいた時、祈りたいと思った。祈ろうと思った。

「信仰を持たない者でも祈れるのでしょうか」

 思い切って岸田先生に相談すると、

「勿論です。祈りは、神に近づく手段ですから」

「神を知らない者でも祈ってよろしいのでしょうか」

「祈りたいという気持ちがあるということは、既に神を知っているからではないのでしょうか。神とは、学んだり捜し求めたりするようなものではありませんから」

「どんなふうに祈ったらいいのですか」

「心に浮かぶ言葉そのままで。ただ、わたしの経験からいうと、感謝の言葉は入れたほうがよいと思います。とても感謝できないような精神状態でも、とにかく口に出して感謝することを続けていくと、言葉が心の状態を作って整えてくれるような気がします。理屈ではなくて」

 こんなやりとりがあって、よくは分からないけれど、私も祈るようになった。神の名は知らないが、とにかく毎朝毎晩、祈った。そして最後に、聞いていただいて有難うございました、と締めくくった。最初は独り言のようだった呟きも、続けているうちに、誰かが聞いていてくれるような気持ちになってきた。それが励みになって、今度は、娘を授かったことに感謝する祈りを加えた。娘がいることを、心から感謝できるような自分になれればと思ったからだった。

 

 フリースクールというのは、実際には経営に追われて大変なことが多くて、わたしも一家の主という立場上、家族を支える義務がありますから、資金面の問題でこれまで何度か、閉鎖したりまた始めたりということがありました。そんな中で神経をすり減らしているうちに、わたしはまた、前に出社拒否した時のような内臓系の症状が出て、やがて本格的なうつ病になってしまいました。

わたしに訪れた二つ目の転機は、こんな自分の病気に加えて、重なるように起こった、自分の子供、長男のことが切っ掛けになりました。

 仕事柄、これまで大勢の子供達と接してきましたが、一番身近であるはずの自分の子供に対して、わたしは、忙しさにまぎれて距離を置いていました。長男は親が言うのも何ですが、小さい頃から本ばかり読んでいて、学校の勉強はほとんどしませんでした。それでも学業成績は良かったものですから、この子は放っておいても大丈夫、という間違った安心感があったのです。長男は、有名大学に現役で合格して、都内のアパートで一人暮らししていました。  

 そんな息子が、ある時から急に連絡が取れなくなりました。いつ電話をしても留守電になっているんです。男の子ですし、最初のうちはあまり心配しなかったのですが、半年ほどそれが続けば流石に心配になって、わたしは彼のアパートを訪ねて行きました。息子は部屋にいました。「いつ電話しても出ないで、いったいこれまでどこで何をしていたのか」と聞くと、「僕は半年間、この部屋の中でずっと一人で座っていた」と言うのです。わたしは前後の見境なくカッとなりました。「おかしいぞお前は、いったいどうしたというんだ、学校にも行かずに外にも出ずにこんな狭いところに一人で閉じこもって、いったい何をしているのか、自分がおかしいと思わないのか」

 私は一気にまくしたてて、息子を責めました。パニックになっていました。それまで二十年間、人様に言ってきたことと全く逆のことをしていました。これまで大勢の親御さんと係わってきましたが、わたしがほんとうに最低の親でした。

 こんな親でしたから、子供はすっかり心を閉ざしてしまいました。電話は勿論、今度は部屋に訪ねていっても開けてもらえない。自分の子なのに、顔も見られない、声も聞けないという最悪の状態になりました。これは親としては、とても辛いことでした。

 一番の心配は、息子の命でした。自殺するのではないか、今この時にも、息子が死んでしまったらどうしようという不安と焦燥感で、いてもたってもいられませんでした。辛いことでした。その上、自分のうつ病も悪化して、人前に出たり話をしたりということがとても苦痛になっていて、仕事も出来なくなってしまうのではないかという、生活自体の不安も抱えなければなりませんでした。

 その頃医者に勧められて、わたしは温泉に通っていました。温泉療法というやつです。湯に浸かりながら、わたしはよく祈っていました。

「神様、息子はわたしを拒絶していて、顔を見ることも声を聞くこともできません、わたしはいったいどうしたらよいのでしょう。無理にでも鍵をこじ開けて息子と向き合うべきか、そして自宅に連れ戻した方がいいのか、あるいはもう少し待って見守っているか、その場合どれくらい待ったらよいのか、全くもうどうしたらよいのかさっぱり分かりません、神様、どうかわたしの取るべき道を教えてください」

 もうなりふり構わず、手をこうぎゅーっと合わせて目をきつく閉じて、毎日必死で祈っていましたから、人様からはきっと変な奴だと思われていたことでしょう。そんなある日、いつものように温泉の中で真剣に祈っていると、わたしの目の前に不思議なビジョンが現れたのです。

 それは、息子が一人で暮らしているアパートでした。四畳半くらいの狭いその部屋が金色に輝いて、部屋の真ん中には息子が座っています。そんな中にイエス様が立っておられました。そしてイエス様はわたしに、こうおっしゃったのです。

〈お前は来てはいけない。お前が来ると息子を悪くする〉

 イエス様のお言葉とはいえ、わたしは納得出来ず、反射的に応えました。

「なぜですか、なぜいけないんですか、親であるわたしが、なぜ息子に会ってはいけないのでしょう」

 けれどもイエス様はそれ以上お答えにならず、その不思議な光景もそれっきり、消えてしまいました。

 わたしは、その時に見た幻とイエス様のお言葉を繰り返し繰り返し、何度も何度も思い浮かべながら、息子の引きこもりが発覚してからの自分の言動ひとつひとつを思い返して考えました。そしてやっと、ある結論に達しました。

 わたしが息子に対してしてきたことは、ただただ自分の不安をぶつけていただけでした。息子の将来は勿論、いつ回復するかも分からずに一進一退を繰り返す自分の病気、こんな状態でこのまま仕事を続けられるのだろうか、家族の生活を支えていけるだろうかと、それら全ての不安をわたしは全部、息子にぶつけていたのです。だから二人が向かい合うとき、息子が持っている不安とわたしが持っている不安、お互いの不安がぶつかりあって増大する。こんな状態がいい結果を生み出すわけがありません。わたしはようやくそれに気づきました。考えてみなくても、これはもう当たり前のことだったのですが。

 自分がうつ病になってみて、よく分かる事ですが、本当に死のうと思ったら、二十四時間誰かに監視されていても、人はほんの数秒の隙をみて命を絶つことができます。離れた場所で一人ひきこもったままの息子に対して、命の不安はあっても、もし本人に生きる気持ちがなければ、たとえ自宅に戻して保護しても守りきれるものではないと、わたしはそう思い直しました。その上でまた、わたしは改めて、あの時のイエス様のお言葉を考えました。そしてこう思ったのです。

息子の命はひとまず神に預けてまずはお前自身が平安になれと、わたしは神に諭されたのだと。

 

 ファッション雑誌かコミックしか読んだことのない若菜が、週に一度、三十分とはいえ、聖書をどう受け止めるかと心配だったが、案外、性に合ったようだった。

「なんか、絵本みたいの読んでる。この前はイエス様が丘の上で話してるやつだった。勉強始める前には、先生が必ずお祈りしてくれるよ。若菜さんがきちんと学べますように、みたいな祈り。昼ご飯の前にもお祈りする。これはみんなでね、感謝する。アーメン。なんかわかんないけど、気持ちいいよ」

 そんな若菜の内側をいくらかでも知ったのは、これも岸田先生との面談の中からだった。

「若菜さんはかつて、一番苦しい時に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたと言っていました」

 それは初耳だった。若菜にとって一番苦しい時とはいつだったのだろう、どんな原因があったのだろう。

「声、ですか…」

「はい。わかな、と、はっきり呼んだ、とても優しい声だった、と言っていました」

「それは幻聴だったんでしょうか、それとも何か別の…」

「それは、わたしには分かりません」先生は首を横に振り、「でも、その声が何だったのか、これから先、一生かけて自分で確かめてもいいのではないかと、助言したのですが」

 先生の話を聞きながら、私はいったい娘の何を知っていたのかと改めて思った。知ろうとしなかった、いや、知りたくなかったのだと。

 例えば若菜が中学生になった頃から、私はどれほど「普通」の娘が欲しかったことだろう。できればスポーツ系の部活に所属して、朝は朝練、夕方は上気した頬に額を汗で光らせながら帰ってきて、成績はそこそこ、たまに反抗的にはなるけれど、最低何か一つの事柄に対して、それなりの評価がされる子供。

 頭の中では、今、目の前にいる自分の子をありのままに愛さなければいけないと分かっていながら、それが出来なかった。若い肌を厚いファンデーションで隠して、目の周りを黒く塗りつぶし唇を白くして、制服のスカートは勝手に裁断して一足歩けば下着が見える、スポーツも学業もいつも最下位で、興味があるのは異性とファッションだけ。こういう娘を恥じ、こういう娘を持った自分を、私はいつも恥じていた。学習内容が理解できなくて、勉強についていけなくて、学校に通わなくなっていたことすら知らなかったのだ。

「スクールじゃ人を褒めることしかしないんだ。まじ、どうでもいいことでも、ぜったい褒めるから、へんだよ」若菜は言っていた。「昨日、スタッフのボランティアのお姉ちゃんに、お母さんと一緒に温泉入ったら月がすんごい綺麗だった、って話したら、月が綺麗と思える若菜はすごいとか言うし。何にもしないでボケっとしてても、いるだけで周りを明るくする若菜は素晴らしい、とか、ソファで寝てれば、寝顔見てるだけで癒されるとか、笑えば笑顔がまじ可愛い、歯が綺麗とか、何やっても何やらなくてもハンパなく褒めるよ、ふつーにおかしいって、あれは。そそ、お母さんとこも褒めてるよ。弁当がいつもちょー豪華で愛情たっぷりとか言うし。てか、弁当の中身なんて別にふつーじゃねぇ? ばかにしてんのか、おい、って感じ」

 それはおかしいね、と二人でひとしきり笑った。岸田先生の周囲には、そんなボランティアの若者達が入れ替わりで出入りしているようだった。

 その頃の個別懇談で、先生からこんな話を聞かされた。

「ここに来ているのは、ご存知のように特別な事情を抱えている生徒ばかりです。なかには精神安定剤のようなものを服用している子もいて、時々不安定になることもあります。突然に大声を出したり、独り言いいながらイライラ落ち着き無く動き回ったりなど。勿論、人に直接的な被害を与えることはないんですが。でもこれまでは、特に女のお子さんなど、そういう子達に敏感な反応を示して、一緒に学ぶのを拒んだり、あるいは親御さんから、うちの子が嫌がっている何とかならないか、なんて言われたりしたこともありました。それはそれで当然な反応なんですが。でも、若菜さんはそういう生徒とも分け隔てなく接して、その子の言葉によく耳を傾けています。よい聞き手になってくれています。聞き上手ですね。先日の二者面談では、福祉の勉強をしたいと話されていましたが、そういう適正は十分にあると思います」

 岸田先生が通っている教会の紹介で、若菜は週に一度、近所の保育園や施設にボランティアスタッフとして通うようになっていた。そこでの経験が、彼女に道を開いてくれたのだった。目的が出来たからには、時間をかけて通信高校を卒業するよりも、高卒認定試験を受けて上の学校に進みたいとの希望を、若菜はスクール側に伝えていた。その頃から、彼女の生活態度に、ようやく落ち着きがみられるようになってきた。

 

 とりあえず、息子を見守るという決心はつきました。けれども、このことがきっかけとなって、わたしの欝という病気は更に深刻化していきました。

 自分はなんてダメな親なんだろう、一人の息子さえ人並に愛してやれなかった。その上、何十年も人様に教えてきた教師としての自分は、いったい何だったのだろう、何もかも分かったような顔をして何て恥ずかしい、生きるに値しないダメ人間だと、自分を責める日が続きました。息子の自殺を恐れるどころか、自分自身が死への誘惑との戦いでした。死んだ方がいいという内なる声との戦いには、かろうじて勝ってはいましたが、それにエネルギーを使い果たして、いつも疲れていました。クリスチャンとしての自分が、降りかかったこれら一連の事々を振り返る時、神が与えた試練だと頭では分かっても、本音はとても苦しくて神に感謝など出来ない、これはほんとうに悲しいことでした。

 そんなわたしに、ある日、神様の声が聞こえました。ずいぶん心身共に弱っていた時でした。神様はわたしにこう言われました。

〈毎日教会に行って祈りなさい〉

 その頃、わたしの身体は最悪の状態で、週に一度の日曜礼拝でさえやっとの思いで参加していたのです。毎日なんてとんでもない、とてもそんな元気はないとその声を無視していました。ところがそれからしばらく経った頃、偶然にもある方の助けを得ることができて、わたしは毎日教会へ行って祈れるようになりました。

息子のこと、自分の健康のこと、仕事のこと、金銭面のこと、全てがわたしの前に立ちはだかって苦しみの種でした。神様どうか助けてくださいと必死で祈ると、

〈だいじょうぶである〉

 そんな声が聞こえるような気がして、どうにか一日を生きられるのでした。イエス様のこの励ましが一週間分とか一か月分の力になるといいのですが、本当にきっかりと一日分なんです。ですから必然的に、翌日にはまた教会に行って一日分の命を頂いてくるという繰り返しで、わたしは毎日教会へ行くことになりました。

 毎日毎日飽きもせず、神様の前で思い切り泣けたことは、大きな力になりました。泣いて泣いて泣き尽くしたところで、悲しみから開放されたのです。それはわたしの想像を超えた大きな大きな喜びとなりました。

 

 私は膝の上で岸田先生の本を捲り、その言葉を読む。

「イエスは嘆きを喜びに変える」

 私は娘の嘆きも喜びも理解してやれなかったと、また思う。娘の側に立ち、自分を決して理解してくれない母親を持った子供の孤独というものを、考えてみた。きっと私など、想像の及ばない寂しさなんだろうと思うばかりだった。

 嘆きを通して神に近づけること、神が常に自分と共にいて下さる喜びというものを、娘も経験したのだろうか。どうして神を知ることが喜びなのだろう。なぜなら神は愛だからです、と牧師さんなら言うのだろうが。

 私は若菜が羨ましいと思った。彼女が聞いたという自分を呼ぶ優しい声を、私も聞いてみたいと思った。答えはその中にしかないような気がした。

 若菜は二度の高卒認定試験を経て単位を取得した後、望んでいた短大の保育科に進学した。

「昔はテレビで、アフリカの栄養失調の子とか、病気で苦しんでる子とか、虐待されて死んだ子とか、そういうの見るだけで苦しくなって、うまく息ができなくなった。だからきっと、そういう可哀想な子供のために、何か出来ればいいかなとか、自分はそうしなきゃいけないんじゃないかなと思って、施設みたいなとこで働こうかと考えたこともあった。でもそれは違う、って何となく分かってきた。自分を犠牲にするみたいな生き方じゃなくて、自分が喜べる生き方をしたいと思うようになったんだ。だから、障害を持った子供の施設で働きたいかもしれない。自分が楽しくなるんだよ。視聴覚障害とかね、そういうものを持った子供って、普通の保育園の子達より心がずっと綺麗なんだよ。あーしがそう思うだけかもしんないけどね。だからそゆとこ行くと、あぁ楽しいなって思う。あーしはただ、楽しい自分でいたいだけだからさ」

 若菜の人生は始まったばかりだ。親元から離れた目の届かないところで、またあの闇が娘の前に現れたらと、思えてならない不安な夜もある。そんな時は、この私を助けてくださいと一心に祈る。この祈りは、私を少し落ち着かせてくれる。その後に改めて、娘がいる、ただそのことだけに感謝をして祈る。すると、娘の穏やかな目の光とくったくのない笑顔が浮かんできて、案ずることはないと思えてくるのだった。

 祈りは、私を娘に近づけてくれた。

 

 フリースクールを始めたばかりの頃のわたしは、ここに来ている子供達それぞれが、外の世界、社会に出られるのを最終目標にしてきました。けれども今のわたしは、これまでお話してきた個人的なこの二つの出来事を通して、『今のままで神に愛されていると思えること』が最終目標ではないかとして、今年度からは、スクールの目標としても掲げさせていただいています。

 わたしはクリスチャンですから、イエス・キリストの無条件の愛を信じています。けれどももっと大きく言うと、神の御名は呼ぶ人によって、それぞれ違ってもいいと思っています。呼び名は違っても、信仰心は一つです。

 私たちはみな、大いなるものの光の衣に包まれて、この世に誕生してきました。でもこの世で生きていくということはそれだけでとても大変ですから、いつの間にか忘れてしまったのです。ですから、この世にある苦しみや悲しみという嘆きの体験を通り抜けて、私たち一人一人が、本当は光に包まれた存在であると思い出すことが、生きていく上での最終目標ではないかと、わたしは思うようになりました。

 人は、いわゆる社会で言われている価値観にとらわれている限りは、とてもちっぽけでな哀れな存在であると、自分を振り返って思うのです。

 今現在、わたしの息子はまだ東京の同じアパートで一人暮らしをしています。生きています。わたしは、心身の不調を抱えながら、相変わらずしばしばスクールで横になりつつも、今夜こうして皆さんにお会いすることが出来ました。生きています。今年巣立っていった、冒頭でお話しました若菜さんですが、彼女が最後にわたしにくれた言葉というのが、「先生あんま寝てばっかいたらだめだよ」でした。たまにメールが届きます。彼女も元気に生きています。

 本日は、わたしの個人的な嘆きの体験を通して、神に近づけた喜びを語らせていただきました。

 ありがとうございました。

連作「祈り」 その2

 

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