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母系社会を営むモソ人の村へ
(遠藤耕太郎の報告)

その3:
瀘沽(ルグ)湖から永寧へ
 (2002.7.2更新)

 中国民族学(民俗学)で前節のように分類される妻問いが、現在、実際にどのように存在しているのか、それがどのような恋愛観に支えられているのか、その恋愛観が歌や神話とどう関わりをもっているか。中国民族学(民俗学)にはこうした関心による調査記録や報告はほとんどないため、勢い、現地に入っての調査(フィールドワーク)が必要となる。そこで私が調査地としたのは、瀘沽湖から70キロほど北に入った雲南省寧★イ族(彝族)自治県永寧郷温泉ワラビ(瓦拉片)村と、そこから四川省側に、馬で3、4時間ほど峠を越えたところの四川省木里チベット族(蔵族)自治県ウォジョ(屋脚)郷リジャズ(利加咀)村である。(★はラン、草かんむりに浪という字。以下同じ)
 麗江から瀘沽湖への道は既に多少触れたが、麗江を出たバスは金砂江(長江の源流のひとつ。ここの標高は1,000メートルに満たないから、このバスの旅は2,000メートルの標高差を体験できる。)を越え、ほぼ6時間かけて寧★イ族自治県の県城である寧★にたどり着く。雨の少ない冬には、「新路」といって、山を刻んでつけた道が通れることもある。この道は麗江―寧★を3時間強で結ぶ大変便利な道であるのだが、小石やもう少し大きな岩がこ瀘沽ろと山側から落ちてくる危険な道である。そういう時に山側をみると、大抵山羊を放牧している。山羊はこういう今にも崩れそうな山の斜面が大好きだ。谷川にはガードレールなどあるはずもなく、落ちれば一巻の終わり。よく、道の真ん中に人ひとり分ほどの岩が転がっていて、バスの乗客何人かがおりて岩をどかすこともある。そんな状態のこの道は、雨が多い夏(雨季)にはいつも不通になるから、いつまでたっても「新路」だ。夏には、6時間かかる旧路でも頻繁に崖崩れが起きる。この実状は行政もよく分かっており、ブルドーザーが賭け崩れのよく起きる場所の近くに常に待機していて、それきたとばかりに崩れて道をふさいだ土砂を  ザバザバと谷側に落とす。その間、車は行列を作って、数時間待っていることになる。
バスの固いシートでそろそろ尻の痛みも限界だと思うころ、ようやく寧★に到着する。イ族自治県のため、役人の多くはイ族であるが、副県長のひとりにモソ人がいる。昆明にある雲南大学の卒業者である。彼のほかにも雲南大学や昆明の民族学院、芸術大学などを卒業したエリートたちが役人として働いている。私の友人のモソ人の役人は二人いるが、ひとりは趣味でモソ人の風俗を油絵にしており、もうひとりはモソの歌を採集して、漢民族を意識した創作歌を創っている。彼らと話していて感じるのは、優勢異文化つまり中央の漢文化のシステムのなかで生きる少数民族エリートの葛藤である。モソ文化のすばらしさを、自民族の言葉や発想ではなく、漢語や漢民族的発想で強調しなければならない葛藤とでもいおうか。
 さて、寧★でバスを乗り換えて、永寧に向かう。しばらくは平坦な道で、いくつかのイ族の村を通りぬけた後、峠を数回越える。水冷式のバスは途中、水の補給をしてゼーゼーいいながら峠を登る。最後の峠を越えたところで、前述のルグ瀘沽湖と獅子山が眺望され、この峠を降りたところが洛水村である。寧★から3時間半ほどの道のり。2000年に雲南省が昆明市や麗江を中心に世界博覧会(日本では花博と紹介されたようだ)を行った関係で、麗江から観光地である洛水までの車道はたいへん快適な道に整備された。(それが今後維持されるかどうかは別問題。)洛水を過ぎると、道はとたんに悪くなる。この先にはめぼしい観光資源がないからだろう。まず瀘沽湖に流れ込む川をそのまま渡る。特に夏場は水量が多いため、普通自動車はなかなか通れない。ランドクルーザーやジープ、トラック、この乗合バス、つまり車高がある程度高くなければ通れない。あらためて乗合バスの力強さを感じる。いくつかのモソ人の村を通りぬけ(途中、コカコーラ社が建てた希望小学校がある。)、地域に根差したバスであるゆえ、手を上げる人を拾いつつ、「下車了(降りるよ)!」の声で下ろしつつ、洛水から1時間半ほどで永寧郷の郷庁のある永寧に到着する。
 モソ人のほか、近辺のイ族、プミ族が集まってくる市場では、肉、野菜、魚、日用雑貨、衣類、酒、タバコなど大抵のものが売られている。またチベット仏教の祭祀道具である燭台や香炉などを売る店もある。モソ人とプミ族はチベット仏教を信仰しているのだ。冬に一度、馬や驢馬、牛の交換の市も出てにぎわう。ここから眺める獅子山はとてもきれいだ。特に冬は真っ青な空の中に、くっきりと立ちあがっている。この山はモソ語ではヘディガム、つまり永寧盆地の女神という意味であるが、別名を獅子山という。永寧から見るこの山はまさに獅子が伏しているようにも、或いは女神が天を仰いでいる(そういう説話がある)ようにも見える。
 また、永寧にはチベット仏教ゲル(Dge-Lugs)派の寺院、扎美寺がある。99年の正月(春節)には、モソ人のロサイシ活佛(位の高いラマ僧)のための住居が新築され、その披露の法要が会った。永寧郷の各家が、それぞれ少なくない喜捨をして建築されたもので、その法要には永寧郷のすべての家の代表がひとりずつ参集した。寺院は周囲の建物と比べて桁違いに壮大で、本殿には多くの仏像や万巻の経典が収められ、ロサイシ活佛の住居のほか、位の低いラマ僧の宿舎もある。永寧のモソ人は、ダパという呪術も行う民間宗教者を中心とする元来の民間宗教をもっているが、その上にチベット仏教が深く浸透しており、両者が複雑に絡み合い、分担し合いながら、葬式や祖先祭祀、厄祓いなどを行っている。なお、本書には、この点について紹介、考察する余裕はない。改めてダパを中心とするモソ人の宗教世界に関わる報告を公刊したいと考えている。
 98年、私たちが始めて永寧にきたとき、郷長として案内してくれたのが、ヤン楊ギゾ(この地のモソ人は小学校入学に際して、中国風の学名を与えられる。姓は殆どがヤン楊さんとなる。)である。大学は出ていないが、人民解放軍を退役後、役人になった人。36歳。ざっくばらんで大仰なモソ人である。役場の中の宿舎に、アシャと子供と暮らしている。ジープを所有しており、それを乗り回すのが趣味らしい。そうとう乱暴な運転をする。「太郎」が日本の男の名であることを知っていて(抗日戦争映画のビデオは永寧でも盛んに放映されてきた。その辺りからの知識だろう)、自分は「中国太郎」(モソ太郎でないところが大仰だ)、著者は「日本太郎」ということになった。一年ほどして、郷長は昆明の大学出の若者に替わっていた。
 中国太郎の紹介で知り合ったのが、郷の科学技術担当の役人である阿洪生である。科学技術の中心は、りんご栽培である。この土地は冬季、乾燥が激しくりんご生産には向いているのだそうだ。彼は日本のりんご生産の技術をなんとか取り入れようと頑張っており、長野県のりんご農家の方を招いての研修に参加したらしい。彼はアシャの家に住み込み(アシャ同居)、6人の子を育てている。長男は麗江のチベット系の医学学校に学んでおり、次男、三男はりんご栽培をしている。長女は昆明の民族学院に親元を離れて通っており、次女は麗江の師範学校に同じく通っている。三女は地元で小学生。中学に進学する希望を持っている。彼のアシャの家には、アシャとアシャの兄と母、母の兄、そして彼とアシャの子が現在は3人、居住している。アシャの兄と阿洪生はほぼ同年齢である。アシャの兄は毎晩夕食を終えると自分のアシャの家に行き、翌朝日の昇る前に帰ってくる。つまりアシャ別居ということになる。阿洪生は、役人として、また地元の知識人として永寧が経済的に発展していないことを真剣に考えているのだが、その理由の一つに、「摩梭人走婚」があるのだという。妻問いと経済発展がどう結びつくのかわからなかったが、彼もまた優勢異文化のシステム内にいる少数民族エリートの葛藤を感じているのだろう。
 阿洪生のアシャの家のあるバチ村の隣が、ジャシ村である。前に油絵を描くと紹介した寧★の県の役人である和正明(モソ名はボワ=ゴンガ)の実家はこの村にある。99年の正月には彼の家を訪ねたが、彼の兄は以前、木材の運搬作業の事故で亡くなったのだと聞いた。雲南省と四川省の境界は木材の産地であるが、ジャシ村には木材の集積地がある。大きな大木を山ほど積んだトラックが、よくぬかるみにはまって動けなくなっている。先年の長江の氾濫にみられるように(ここは長江の上流である)、現在、中国の森林伐採による環境問題は相当深刻であるらしい。そのために木材の切り出しを制限したり禁止したりするようになっているのだが、四川省側では、農民個人が山に入って生活用の薪を刈ることも禁止されているらしい。この話は後に紹介するリジャズ村で聞いた話だが、まったく無茶な話である。
 さて、我々の乗ってきたバスは永寧が終点である。ここから先は公的な交通手段はない。永寧から比較的離れた村の人々が買い出しに来る場合には、荷を運ぶための馬を連れ徒歩で来たり、(これはかなり遠方から来ており、泊りがけになることもある)、歩いて来たり、トラックの荷台に乗って来たり、廃車寸前のジープに乗って来たりする。このジープは近くの村の若者が運転するのだが、永寧に行く人や永寧から帰る人を乗れるだけ乗せて行き来する。ひとり5元とるから、けっこういい商売になっている。廃車寸前、よく壊れ立ち往生しているが、何もなければ30分ほどで温泉ワラビ村に到着。ここが我々の調査地である。


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