大都会は酔客にあふれる金曜の夜を迎えていた。あちこちの建物の外壁から、景気良く放たれるネオンサインが眩しかった。 午後9時をまわった頃、高層ビル群の一角、高級飲食店が建ち並ぶ大道路の傍らに、一台の赤い高級車が停車した。 この付近でも、特に目立つその車の中には、全身を高級ブランド品で包んだ男女がいた。男はいかにも起業家といった顔つきの30代で、連れている茶色い髪の女は、ずいぶんとほっそりとした身体つきだった。特に真っ赤なドレスからはみ出す、そのか細い脚などは、今にも折れそうなほどだった。二人の乗った車のライトが見えると、お目当てのビルの中から黒いスーツ姿の男が一人出てきて、車のドアを丁重な態度で開いた。それを合図にして、男性は車からゆっくりと地面に降り立った。先ほどのフランス料理店で味わった夕食は素晴らしかった。事前に頭に描いたデートコースは予定通りにこなしてきた。これまでのところ何もかもが上手くいっている夜だ。男はそう思って内心ほくそ笑んでいた。 「お待ちしておりました」 出迎えのスタッフがそう言って深々と頭を下げたが、男性はそれに一目もくれずに助手席にいた連れの女性の手を引いた。 「ずいぶん、乗り心地のいい車ね。走ってる間、全然揺れなかった……。これって新車? いつ買ったの?」 「届いたのはつい昨日さ。これは欧州で発表されたばかりのベンツなんだ。だから、この国での発売日はまだ決まってない。知人のディーラーに無理に頼んで、発売日より前に輸入してもらったんだ」 男は何でもないことをやったかのように、控えめな声でそう答えた。その落ち着きぶりは、いかにもこういう台詞を言い慣れているのだと、女に思わせたいようだった。女は車のエンブレムをまじまじと覗き込みながらもう一度ため息をついた。 「もしかして、私を驚かすために買ったの? きっと、そうなんでしょう?」 女の遊び半分の問いかけに、男は当たり前だと言わんばかりに少し笑って、あとは何も答えずにビルの入り口に歩み寄っていった。女は手鏡を一度取り出して、みだしなみをもう一度チェックして、これから入る高級店に恥ずかしくない女であることを、自分の目で今一度確認してから男の後を小走りに追いかけていった。 「ここにはたまに来るんだけど、面白い店なんだよ。君もただ酒が高いだけの店ばかりじゃなくて、そろそろこういう店にも来るようにしないとね…」 男はこの場で全てを語ることはなく、もったいぶってそう言った。二人はスタッフに勧められるまま金箔のエレベーターに乗った。豪勢な造りで、中は10人が入れるくらいに広かった。店のスタッフは35階へ昇るボタンを押した。ずいぶん、高い部屋に行くのだなと女は思い、さらに緊張した様子を見せた。 「どうぞ、足元にお気をつけてお降り下さい。いらっしゃいませ」 目的のフロアにたどり着くと、スタッフがそう言って二人を自分の店の入り口へと案内した。黒い地の看板に金の欧文で店の名前が綴られていた。辺りは異様なほど静かだった。これまでに通ってきた、いくつかの名のある店でも見たこともないほど豪華なシャンデリアが橙色の光を放っていた。フロアの隅のテーブルには上品そうな西洋の壺が飾ってあった。その清楚で落ち着きのあるフロアには二人の他にお客はいないようだった。 「このビルの下の階の店もかなり高い飲み屋なんだけど、そっちは予約さえ取れれば誰でも入れる店なんだ。このフロアだけはそれとは違って会員制になっているんだよ。つまり、よほど、選ばれた人間じゃないと入れないんだ。政治家や企業の幹部でも、相当名前が通っている人でないと無理なんだよ。ありがたいことに僕は会員になれたけど……。ただ、仕事が忙しいから、週に一度くらいしか利用できないけどね」 男は余裕たっぷりの態度でそう説明した。女はその言葉を聞いて、自分を誘った男の素性がやはり素晴らしいものだと再確認できたが、控え目な態度を崩すことはなかった。 「こんな高い店入ったことないから、足を踏み入れるのが怖いわ」 「気にしなくていい。君はお酒を飲むだけで、無駄に緊張する必要もないんだ。後はただ目的のものを見て楽しめばいい」 男は女の肩を優しく支えて店の中に連れ込んだ。スタッフに案内されて通された部屋は25畳ほどの広さがあった。壁も床も真っ黒で、ソファーやテーブルの色すら黒に統一されていて、上品で落ち着いた空気だった。壁際の黒檀の棚には高級そうな酒がずらりと並べられていた。ドアの向かい側にある壁はすべて窓ガラスになっていて、大都会の荘厳な夜景をひと飲みにしていた。女は思わず窓に駆け寄って、「すごい光景ね。こんな美しい夜景見たこともないわ」と、思わず驚きの声をあげた。男はそれを聞いて満足そうにうなずき、「まあ、この辺りの店の中では一番高いからね。この国でも有数の眺めだと思うよ。君へのほんのプレゼントだよ」と相槌を打った。 「でも、君をここへ連れてきたのは、何も夜景のためだけじゃないんだ。実は他に見せたいものがある」 「他にも、何か仕掛けがあるの?」 「そうそう、ぜひ、君だけに見せたいものがあるんだ」 「この部屋の中に何かあるの?」 男は少し微笑んで、小さくうなずいて見せた。 「何だろう? 夜景がすごくきれいだけど、それは関係ある?」 「まったく関係ない! とは言えないな。少しは関係ある」 女はしばらく考え込んだが、やはりわからないと無難な答えをだした。その顔には期待がありありと浮かんでいた。男は簡単に教える気は無いようで、女の手を取って窓際のソファーに座らせた。 「まず、何か飲もうか? それから本題に入ろう」 男が中央のテーブルの横についているスイッチを押すと、それは呼び鈴になっていて、黒い壁の一部が開いて、スタッフが出てきた。 「俺がこの間開けたムートン・ロートシルトがあるでしょ? この子についであげてよ」 かしこまりましたと丁重に答えて一礼し、スタッフは引き下がっていった。 「そんなに高いお酒じゃなくていいわよ。さっきの店でも、もうずいぶんご馳走になっちゃったし」 「いいから、他にも食べたいものがあったら、遠慮なく好きなものを注文してね」 「ねえねえ、あなたのことだから、この店にも大きな秘密があるんでしょ? 何があるの?」 女は十分に酒を飲み、高価な料理をいくつかたいらげた後で再びそう尋ねた。 「そろそろ、知りたいかい?」 男はまたスイッチを押してスタッフの一人を部屋に呼んだ。 「いつものあれを見たいんだが」 「かしこまりました。少々お待ち下さい。準備を整えて参ります」 指令を受けたスタッフが奥の部屋に消えてからしばらくして、部屋の内部にカチッという小さな音が鳴り響いた。次の瞬間、女は絶句した。足元の床がすべて透けて、下の階のバーの様子が丸写しになったのだ。そこでは大勢の人間が酒を飲み、はしゃぎまわっていた。 「ちょっと! これ何?」 男は何も答えずに女の狼狽を見て楽しそうに笑った。下の階のフロアは壁とカーテンによっていくつかの個室に区切られていたが、上からはそのすべての部屋の様子を一望することができた。その光景を目の当たりにして、しばらくの間、女は声を出すこともできなかった。自分の目のすぐ下で50人以上の人間が酒を飲みながら各々自分の世界を楽しんでいるのだ。この男に連れられて、これまでいくつかの風変わりな店を体験してきたが、この店の仕組みにはさすがに肝をつぶされる思いだった。 「これって、下の人達は……、私たちのことが見えないの?」 女は怖くなって、消え去りそうなほど小さな声で男に尋ねた。 「もちろんそうだ。お互いに見えたら面白くないだろ? 安心してよ。下にいる人間は上の店がこんな構造になっているとは知らないんだ」 「信じられない……」 「声も聞いてみるかい?」 男がスタッフに合図すると、今度はマイクのスイッチが入れられ、床の下の飲み客たちはいっせいに喋りだした。 女はしばらくの間夢中になって各部屋の様子を見入っていた。そのうち、男が下の左側の部屋の数人の男性を指差した。 「あれはインサイダー取引というやつだよ」 そこでは、政治家らしき偉そうな男と証券業界の数人の男性が密議をこらしていた。二ヶ月後にある製薬会社の画期的な新薬が認可されるため、その会社の株が大幅に値上がりすることを事前に連絡しているのだ。業界人たちは株が動く会社のパンフレットを政治家に見せてやり、見返りに封筒に詰められた多額の現金を受けとっていた。男は次に右端の部屋を指差した。 「見てごらん。あそこはきっとスポーツの八百長会議だね」 女がそちらを見ると、数人の黒いスーツ姿のノーネクタイの男たちが集まって、次はどこの競馬場でBとDという騎手がわざと出遅れをやらかすとか、プロ野球の1位を走っている球団のYという投手が、次の日曜日に思いがけず、わざと打たれて負けるとか、そういう情報の取引をしていた。もちろん、ギャンブルやスポーツの試合の結果には、暴力団絡みのあらゆる賭博場でお金がかかっているから、裏情報を知っている、ここにいる数人の人間だけが大儲けできる仕組みである。人間が自分で走るわけではないから、他のスポーツに比べて競馬の八百長は難しいが、それでも、本来逃げる予定のない馬が大きな逃げをうったり、出遅れ癖のない馬が大きく出遅れたりすれば、それを事前に知らない人間たちと比較して、予想が大きく有利になるのは自明である。野球やサッカーはもちろん、陸上競技や相撲などの裏情報も取引の対象になっているようだった。男たちは相手の話を注意深く聴きつつ、忙しそうにメモをとっていた。 そういう裏社会の人間たちばかりでなく、下の階には、もちろん普通の飲み客も多くいた。男性が大金をつぎ込んで高い料理や酒を注文し、必死にここまで連れ込んだ、相手の女性を口説き落とそうとしているカップルたちの様子から、賑やかな一流企業の合コンの様子まで様々である。下の客たちは自分たちの話が上から聞かれているとは思ってもみないから、どんな恥ずかしいことも、後ろめたいことも言いたい放題である。下の店も2時間で十数万程度の相当な高級店であるから、彼らにも相応のプライドがある。誰も自分たちを覗く人間がいるなどとは思ってもいないのだ。男の肩に上半身を預けながら、女はときに真剣な表情で、ときに笑いながら下の階の人間たちの会話を楽しんでいた。彼女は上から見下ろす優越感にすっかり虜になった。それを見て、男はとどめを刺すようにこう言った。 「つまりさ、ここは世の中の仕組みと同じなんだよね。下にいる人達にも、それぞれの立場があって、みんな競争しながらがんばって生きているけど、残念ながら、もっと上に立つ人間から常に覗かれているし、自分からは上の人間を覗き見ることも逆らうことも出来ないんだ。上の人間には上の人間だけの世界がある。孤独で静かな世界で……、まあ、それを言ってしまうと、僕も少し寂しくなるけどね」 男の口ぶりは、自分の側にいれば、ずっと上の世界が楽しめるぞ、とでも言いたげだった。女はこの頃から、この男に身も心も捧げて、何が何でも後をついていこうと思うようになった。 二人が外の美しい夜景と、下の飲み客たちの世界を楽しんでいると、スタッフの一人がゆっくりと男に近づいてきて、「俳優のA様が下の階におられますが、挨拶に行かれますか?」と丁重に尋ねた。 「そんなこといいよ、今夜は彼女がいるし、ここを離れられないから」 「いいの? 映画とかテレビドラマでよく見るあの方よね? 行って顔を見せてこないとまずいんじゃないの?」 女はわざと少し心配そうな顔をして尋ねた。 「いいんだ。そんなこと、たいしたことじゃない」 この決め台詞が男の格をまた一段高めた。 二人はそれから一時間ほど社会の裏側の、のぞき見を楽しんだ。 「今夜は、ほんと、面白かった! これぞ、社会の真実って感じね。こんな凄いものが見れるとは思ってもみなかったわ」 女は酒の勢いもあって、少し興奮気味にそう話した。 「まだ時間あるでしょ? もう少し他の店で遊んでいく?」 男は自分の焦りが顔に出ないように、慎重に言葉を選んでそう尋ねた。本当はもう時間的にはぎりぎりだと感じていたようだ。 「もう、お腹いっぱいよ。どうせホテルも、私が驚くようなところを予約してあるんでしょ? 早く連れて行ってよ」 女は軽く目配せしてからそう答えた。慎重な割にはやたらと金がかかる女で、ここ数日間、高い貢ぎ物が続いたが、ようやくこの台詞が出てきたので男は胸をなでおろした。もちろん、それでも自慢の冷静な表情を崩すことはなかった。 「じゃあ、そろそろ出ようか」 二人がエレベーターで1階に降り立ち、スタッフに案内されて駐車場にたどり着いた時、ちょうど少し前に店を出たと思われる、他のカップルが車に乗り込むところだった。3人のスタッフが彼らの後についていた。身なりやスタッフの態度からして、向こうも相当な上客のようだった。そのきらびやかな恰好をしたカップルの会話が二人のところまで聞こえてきた。 「どう? こういう遊び場もけっこう楽しかっただろ?」 「うん、最高だった。まさか、下の客の話しているところが見えるなんて!」 「下のカップルの間抜けな会話、面白かったな? 自分たちがエリートだとすっかり思い込んでて!」 「ええ、あのダサい服着た、茶髪の女、男にすっかり騙されてはしゃいじゃって……、なんだか見ていて可愛そうだったわ」 そんな衝撃的な会話が目の前で展開された。前の二人は後ろで待つカップルにまったく気づかずに、そのまま見たこともないような外車に颯爽と乗り込み、数秒後には走り去って行った。 女は前の客が消え去っていった方向を、何か考え事をしながら、しばらく見やっていたが、やがて怒りが込み上げてきたらしく、これまで慕ってきた男のスネの辺りをガツンと蹴っ飛ばした。男が足をおさえて痛がっている間に、女はタクシーを呼んでそれに乗り込み、男を置いてさっさと走り去ってしまった。 後に残された男は勝利寸前で逃した獲物を名残惜しそうに目で追いながら一言つぶやいた。 「しまった…、もっと上の階があったんだ…」 了 <2011年6月4日> |