アメリカ合衆国の下院議員オルマー氏は飛行機が離陸してから数時間が経った今も、まったく機嫌が直らないようで、顔を怒りと恥で真っ赤にしながら、通りがかったスチュワーデスに不平不満をぶちまけていた。彼がプライドを傷つけられたのは、高貴な身分であるにも関わらず、今日この日に限ってはファーストクラスの座席が取れなかったことだ。
 この日、ニューヨークからロンドンへ向かう航空機847便のファーストクラスの座席は、あるイベントへの出席者で満席だった。そのイベントは『世界強運者の集い』というもので、世界各国から我こそは世界一の運の持ち主だと主張する人間がロンドンへ集結しようとしていた。
 その中の一人にエメルトン夫人がいた。彼女はアメリカでも指折りの強運者であり、アメリカの公的な宝くじで2度も大当たりを出したことで一躍有名人になった。テレビやラジオにも毎日のように出演するようになった。一度目の宝くじを当ててからは上流階級のサロンにも頻繁に招待されるようになった。最初の頃は、周囲からちやほやされる生活に慣れず、戸惑っていた彼女も、最近ではすっかり裕福な生活に慣れてきたようで、その話し言葉や立ち居振る舞いまで洗練されてきた。何でも思ったことを叶えてくれる周囲のスタッフの存在や、彼らに勧められて高価な衣類や宝石を身につけることを何とも思わないようになっていった。彼女は元々、正確にいえば35歳までは一般庶民であった。ある日、仕事の帰り道に同僚と一緒に宝くじを購入することになり、彼女はそれほど乗り気ではなかったのだが、付き合いで一枚だけ購入した。一緒にいた同僚は皆数十枚も購入したのだが、一等を当てたのは、エメルトン夫人が買った一枚だった。彼女はそのとき300万ドルを手に入れたが、夫がいたため、渋々、彼とその金額を折半した。夫は地味な人間であったので、妻が宝くじを当てた後もその生活を変えようとはしなかった。妻が大邸宅に引っ越したいと言ってもがんとしてそれを拒み、小さな農場付きの田舎暮らしの生活をやめようとはしなかった。しかし、エメルトン夫人はそんな夫の考え方に不満をあらわにした。夫婦の間に頻繁に言い争いが起こるようになった。彼女は周囲の人間から優しくされる毎日を送っているうちに、宝くじの一等を的中させることなど、常人にはとてもなし得ないことだと思うようになっていた。テレビ番組に出演し、司会者の有名人から、自分がいかに強運の持ち主であるか、凡人がくじを一万枚を購入したところで、一等などそうそう当たるものではないと聞かされた。彼女はすっかり自分が特別な人間、神様から選ばれた人間であると思い込むようになっていた。豪華な宴席に招かれるたびに、その行動は自信に満ち溢れるようになった。彼女は次第に見栄っ張りになっていき、高貴な有名人との付き合いだけを好むようになった。胸の高鳴るような有名人との出会いも、それが特別なイベントではなく、自分にとって至極当たり前のことだと思うようになった。毎日、自宅には遅くになってから帰るか、あるいは高級ホテルに外泊することも珍しくなくなった。夫との生活や家事などはすっかりおろそかにされた。昔から付き合いのある知人の氏名を、つまらない関係と決め込み、電話帳から削除するようになった。夫は妻のそんな変貌を見て、心からの忠告をした。
「いいか、一時大金を得たからといって、そんなにはしゃいでいたら、世間の人は君を金儲け主義でスノッブの本当につまらない人間だと思うだろう。今からでも遅くないから、元の地味で堅実な生活に戻るんだ。地味な生活をひたすらに繰り返す、そこに本当の幸せはあるんだ」
こんなことを言い出した夫を、夫人はなんてつまらない人間だろうと思うようになった。彼女はいまやいくらでも資産を増殖できる身の上であったから、自分の財産だけを握ってそろそろ身軽になりたいと思った。捨てるほどの札束を持っているのに、こんな地味な田舎暮らしを続けることなど我慢ならなかった。その後、数度の修羅場を繰り返したあとで、結局二人は別れることにした。
「おまえが変わりすぎたんだ」
最後に夫が残した言葉だった。エメルトン夫人は家庭を失ってぐんと身軽になると、以前よりも夜遊びに熱中するようになった。そして、夫と別れてから二年後、彼女の人生で二度目の決定的な出来事が起こる。彼女は再び宝くじを購入し、今度は一度目とは比較にならないほどの枚数を買っていたが、またしても一等を的中させた。しかも今回は、購入してから抽選会までの一部始終をテレビ局に撮影させていた。この効果は劇的だった。前回の一等的中ではただ運のいい人としか扱われなかった彼女だが、今回は選ばれた人、神懸かった運の持ち主であると全米中に紹介された。彼女の顔写真はそれから数週間もの間、雑誌の表紙を飾った。民衆の中には、彼女の写真をお守りとして持ち歩く人まで現れた。彼女はまさに時の人になった。今度は社交界に出入りする人間ではなく、そこに君臨する人と崇められるようになった。彼女は好きなテレビ局に好きな時間帯に出演することができた。二度目の当選により、アメリカで彼女を知らない人間は完全にいなくなった。大統領もエメルトン夫人をホワイトハウスに招き、その膨大な運量を賞賛した。その様子は全米中に紹介された。そんな人生の絶頂のさなかに彼女はこの強運者の集いに招かれたのであった。

今、エメルトン夫人はファーストクラスの窓際に座り、雲海の下に時折見える大海を眺めていた。窓の外の景色に退屈すると、時折、左手を電灯の方にかざして、その細い指にはめられた5カラットのダイヤの指輪を周囲にひけらかすように眺めた。しかしながら、有名人の友人を一人も連れて来ることができない今回の旅行に彼女は心底退屈していた。周りには自分と同じ集いに参加する他の強運者の面々が揃っていたが、彼らと一緒になって会話をする気にはならなかった。出席者のリストには事前に目を通したが、一般の人間に少しの毛が生えた程度の運の持ち主がほとんどで、自分の輝かしい運量と張り合える人間はいないと思っていた。どうせ、ロンドンに到着してもマスコミのカメラはすべて自分に向けられるのだろう。強運者の集いの主役は自分である。この飛行機内に運で人生の階段をのし上がってきた人物は幾らか揃っているが、宝くじを二度も当てるという強運の自分と比較できる人物はいなかった。はっきり言ってしまえば、彼女は他の参加者を見下していた。自分は孤高の存在である。
ただ、周囲にいて、参加者同士で会話を楽しんでいる他の強運者たちも、こういうエメルトン夫人の他人を見下したような冷ややかな態度をよく思っていなかった。今度の会の参加者には彼女の引き立て役にまわろうなどと考えている慎ましい人間は一人もいなかった。エメルトン夫人を当代随一の運の持ち主と認めてはいたが、自分も半生の出来事をうまく説明さえできれば、彼女と同じくらいのスターにのし上がれると信じ切っている人間たちばかりだったし、彼らの多くは今度の会が、自己アピールの絶好の機会であることを知っていた。夫人を心底妬みきっている彼らは、折りあらば彼女を押しのけて自分こそが次のスターになるのだと隙を伺っていた。
そういう性質の参加者の一人にトンボイ青年がいた。彼は幼い頃から盗癖があり、まだ小学校にも入らない時分から窃盗を繰り返してきた。彼は今22歳になっていたが、これまでに682回の窃盗を繰り返して、しかも警察に逮捕されたことは一度もなかった。幼い頃の万引きといえばチューインガムやチョコレート程度であろうが、青年になってからは高級ブランド店や宝石店にも出入りするようになり、高級品の窃盗を繰り返していた。盗んだものはすべて換金し、彼は何の仕事にも就いていないにも関わらず、この若さで一財産を築いていた。もちろん、逮捕されたことがないということは、自分のしていることに反省もしたことがないわけである。彼はいつの頃からか、自分の罪を隠そうとせず、周囲の人間に向かって公表するようになっていた。いくら窃盗で財産を築いても誰にも評価されないのではつまらない。自分の盗みのテクニックを他人から賞賛して貰いたいと思うようになったのである。友人知人は彼の話を聞くと一様に驚きを見せるが、誰も彼を非難したり、警察に通報したりは出来なかった。彼の犯罪には証拠が何も残っていないからである。万引きというのは、店側から被害届が出ていない以上、盗む瞬間のその現場を抑えなければならないのである。そして、トンボイ青年のその神速のテクニックを肉眼で見分けたものはいなかった。その鮮やかな手並みに、店側も棚の上に飾ってある高級品が盗まれたことに、まったく気づいていない有様だった。もちろん、新聞やテレビで報道されたこともなかった。警察は遺失物があることすら知らされていなかった。しかしながら、トンボイ青年は、この歳になると、いくら罪を重ねても逮捕されないという今の現状に飽き飽きするようになり、いつしか、自分の存在をもっと世間一般にアピールしたいと思うようになり、今回の強運者の集いへの参加を決めたのである。この集う会への参加が、あるいは将来自分が逮捕されるきっかけになったとしても、それはそれで構わないとまで思っていた。彼は今その暗く鋭い視線でエメルトン夫人の様子を伺っていた。彼が今後とも成り上がっていくためには、この目の前の夫人を社交界から蹴落とすことが何よりも優先して必要なのである。そんな彼の決心を察したのか、一人の老医師が彼に近づいてきてこうささやいた。
「どうでしょうな、このままロンドンの集会に到着したとしても、世界で一番の強運者はエメルトン夫人ということで評価はすでに決まっていて、私やあなたが入賞ラインに入り込む余地はない。この長い旅路もすべて無駄になり、結局は彼女の引き立て役にしかならんわけです。しかし、よく考えてみますと、彼女の金儲けの仕方にはいささか品がないといいますか、世間一般の人々を引きつけるロマンのようなものが足りないようですな。言ってしまえば、偶然にも二回当たりくじを引いただけですからな。運さえ備えていれば子供にも出来るわけです。まあ、国家としての伝統がないアメリカでは、あの単純な事件でもすっかり通用したようですがね。彼らは物事の結果でしか評価しない国民性ですからな」
しゃがれた声で話しかけてきたのはプジョルという高齢の医者だった。トンボイ青年は振り返ると、彼の意見にはっきりと同意した。その上で、彼はエメルトン夫人への敵意を剥き出しにして、わざと彼女に聴こえるような大声でこう言った。
「まったくおっしゃる通りですよ。あの夫人は二度の大当たりですっかり気を良くしていて、自分は選ばれし者だからいつでも大当たりを出せると豪語していますが、人づてに聞いた話ではここ5年間の間に実は相当量の宝くじをマスコミに公表せずに別途に購入していて、その中には外れくじも多く含まれているそうなんです。つまり、彼女の運とてパーフェクトではないんですな。たまたま同時期に二度の大当たりが重なったに過ぎない。呪術を使ったわけでもなければ、幸運の天使を呼び出して皆に見せたわけでもない。言い換えれば、ただそれだけの人かもしれないんです」
エメルトン夫人は、この機内で騒いでいる誰をも相手にしていないような冷淡な素ぶりをここまで貫いていたが、実はしっかりと周囲の会話に聞き耳を立てていて、この二人の話し声にも注意を向けていたが、青年の思い上がった意見を耳にして大いに憤慨して席を立った。
「黙って聞いていれば、何という乱暴な言い草でしょう。宝くじの大当たりを一度の人生で二度も出すという運の強さがあなた方にはわからないんですの? あなた方は確率計算もできない小学生なんですか? そりゃあ、私とて時には外れくじを引くこともあります。どんなに素晴らしい陸上選手でも、地面に転がる石ころに時としてつまづくこともあります。後世に長く語り継がれる偉人の人生とて、若い頃から老年期まで、すべて完璧に上手くいくわけではありますまい。時には運命の手によって外れくじを引かされることもあります。思いがけぬ不幸に涙することもあります。しかし、私はその外れによって運量を整えているんです。人生の中に運量の山を作り出すためには、その前後に深い谷も必要なんです。私がわざと外れくじを引いたり、台所で濡れた手を滑らせて不用意にお皿を割ったりしてみせるのは、次に大当たりを出すためのいわば撒き餌なんです。わざと平民のような振る舞いをして、いざという時に宝くじで大当たりを出す確率を引き上げているんです。あなた方のように何も知らない癖に他人を非難すると後で大やけどをしますよ!」 老医師とトンボイ青年は顔を見合わせて、彼女がこの会話に乗ってきたことをこれ幸いと思った。周囲に大勢の強運者が集まっているこの場面で、堂々と彼女を言い負かしてやれば、強運者の会での風向きも変えられると思っていた。
「完璧はない、人生には谷もあるとおっしゃいましたが、それはアメリカ最大の幸運者のお言葉とも思えませんね。私が言いたいのはね、エメルトンさん、あなたは元々しがない一般庶民の生まれで宝くじのことさえなければ、あんなにテレビから引っ張りだこになることも生涯なかったということですよ。一生農村の一軒家で、昼は畑いじりをして、夜は狭く汚い台所で皿洗いをして過ごすはずだったというわけです。いい加減それをお認めになったらどうです? 自分はつまらない人間であると、運さえ持ち合わせていなければ、何の才能も持ち合わせていないということをね」
まさか、人生の絶頂期にある自分が、こんなどこにでもいそうな一青年にこき下ろされるとは思ってもいなかったので、夫人は激しく動揺した。
「何ですって? あなた方は世界最大の運量の持ち主といわれる私をつまらない人間だと思ってらっしゃいますの?」
エメルトン夫人は怒りで顔を真っ青にした。その細い身体はわなわなと震えていた。この目の前の二人を言い負かして地面に叩き伏せてやりたかったが、まさか、過去の農村生活のことまで引き合いに出されるとは思っておらず、動揺のあまり、しばらく言葉が出てこなかった。彼女の激しい動揺を見てとった老医師はこの時とばかりに一歩踏み出して彼女の眼前に立ちはだかった。
「エメルトン夫人、おそらく私のことはご存知ないでしょうな」
「ええ、あなたも今度の会の参加者ですの?」
老医師はうやうやしくその白髪頭を下げてから堂々とした声で挨拶した。
「その通り、私もアメリカで有数の強運者の一人なんです。参加者のすべてを見下し、偉ぶっているあなたが、実はどれほどくだらない人間かを説明する前に、まずは私自身の紹介から始めた方がいいでしょうな。私は医業のかたわら、アメリカ南部の田舎町に引きこもって蝶のコレクターをしておりましてな。この歳になるまでには、世界中を旅して蝶の標本を集め、その数はすでに50000種類以上にもなります。アフリカのサバンナにもインドの密林にも行きました。人けのない高原で虫取り網を構えながら、三日三晩伝説の蝶を待ったこともあります。およそ、現代人が目にすることが可能な蝶はすべて手に入れたと言っても過言ではありません。しかし、この私にも手に入らない蝶が一羽だけいたのです。パープルカナリヤ蝶という絶滅危惧種の蝶だけは世界中のどこを旅しても捕まえることが出来ませんでした。それもそのはず、学会の発表ではこの蝶は数十年前に地上から絶滅したことになっていたのですから。ある専門家に話を聞いたところでは、万が一、この大陸のどこかに生き残っていたとしても、その数は数匹がやっとだろうということでした。つまり、この国に無数にあるだだっ広い森林の中から人間の目でそれを見つけるのは、困難を通り越して不可能だろうと言うのです。私もそれを聞いてさすがにあきらめる気持ちになりました。コレクションに一つの大きな穴が空いてしまうのは残念ですが、これも課せられた運命とあきらめ、残りの人生を一人の昆虫学者として静かに暮らしていこうと思っていました。伝説の蝶には出会えずとも、私の蝶のコレクションが一級品であることは誰が考えても証明されていたからです。ところが、そんな農村でのある夜です。昼間は蒸し暑く、涼しくて静かな夜が訪れても、その日を特別な日とは思っていませんでした。書斎で一人で仕事をしておりますと、少し蒸し暑さを感じまして、窓を細めに開けることにしました。5分ほどそのままの状態で論文の仕事に没頭していますと、不意に窓から森の方から飛んできたと思われる色鮮やかな蝶が舞い込んで来たのです。それは私が一度も目にしたことのない美しい羽模様でした。赤や紫色の蛍光色で彩られ、まったく下品なところを感じませんでした。しかも、その蝶は左右の羽根の模様がまるで異なっていたのです。私は一目でこの蝶が追い求めていたカナリヤ蝶だと判断したのです。そのような奇怪な羽根を持った蝶を私は他に知りません。私はしばらく夢中になってそれに見入ってしまいましたが、蝶は私の机の上に拡げられたノートの上にじっと止まって羽を休めているようで、逃げ出す素ぶりはちっともありませんでした。まるで…、いや、これは私の想像ですが、この蝶は私を一流のコレクターと認めた上で、わざわざ私を賞賛するために、また会話を楽しむために天空から降りてきたかのようでした。私は目の前に生涯追い求めてきた蝶を見据えながらも、それを捕まえようという気持ちも起きませんでした。そういう純粋な自分の気持ちを不思議にさえ思いました。どんな分厚い図鑑にも載っていないこのような蝶はもはや虫ではありません。すでに宝石を通り越して、天界からの使者にも等しいものです。この極まった蝶をこの老いさらばえた人間の手で捕らえて標本にしてさらし者にしてしまう? そのような乱暴なことが果たして許されるのでしょうか? 私はそのまま一時間はその蝶と見つめあっていました。それは運命の神が私に与えてくれた人生でもっとも幸福なひと時に思えました。私はその間もこの蝶を捕まえるべきか、目の前の生物を神の使いとあきらめて、このまま逃がすべきか葛藤に揺れていました。道徳を取るのか、名声や財産を取るのか、心は激しく揺れていました。結論から申し上げれば、私は結局その蝶を捕らえました。ご批判を下さいますな。私の長年の蝶コレクターとしての人生が、この体内を流れる熱い血が、このままあの美しいカナリヤ蝶を逃がすことを許してくれなかったのです。しかし、天使はその白い体内からその美しい血を流してこそ、より美しく見える、死してなお生きるということもあります。カナリヤ蝶もこうして私のコレクションに大人しく収まってくれました。私はすぐにその夜の出会いのことを文章に綴って出版しました。反響は凄まじく、その本は売れに売れ、私は蝶のコレクターの第一人者として世界に紹介されました。本の売り上げで億万長者にもなれました。政財界に多くの友人も出来ました。さて、エメルトン夫人、どうです? あなたの運だけの人生と違って、私の半生には輝かしいロマンがあるのではないですか? ただ、くじを引いて金を集めるだけが人生ではありますまい。ロンドンの会場に集まっている人々も、あなたの単純極まりない人生よりも、夢とロマンに満ちた私の人生を高く評価してくれるのではないでしょうか? あなたの感想をお聞かせ願いたいですな」
エメルトン夫人はここまで長ったらしい自慢話を聞かされて、このまま『はい、そうですか』と負けを認めて退散するわけにはいかなかった。周囲に集まっている乗客たちも、いまや固唾を飲んでこの議論の成り行きを見守っていた。一般的に言えば馬鹿馬鹿しい話だが、この論争で勝利した者が、ロンドンでの集う会で主導権を握ることは誰の目にも明白だった。ここで一歩引いてしまっては、ロンドンで最高の栄誉に輝くことは出来ないと思われた。エメルトン夫人はそこで、この眼前の無礼な二人にこれ以上の反論をすることが、周囲に必要以上の見苦しい印象を与え、ひいては自分の名誉に傷をつけることになるかもしれないという怖れを承知の上で反論に出ることにした。この状況で後ろに引くことを自身の熱い感情が許さなかったからだ。
「おっしゃることはよくわかりましたわ。でも、なんです? ロマンですって? あなたのような、よぼよぼとした何の飾り気もない方からそんな言葉を聞くとは思いませんでしたわ。何か、ご自分の思い出だけを美化されて、私の人生には美しさが足りないとか、単純すぎるとか、そんなお話だったようですけど、運の強弱というものと、あなたの言われるロマンとは何の関わりもありませんからね。あなただって、長年の間、ずっと思い続けてきた蝶と巡り合われて、心が抑えきれないほど動揺してしまい、蝶のあまりの美しさのために手出しが出来なかった、あるいは心のタガが緩んでつい見逃してしまったというのであれば、まだその体験にロマンも道徳も感じるのですが、結論が、結局は金に目が眩んで、その蝶を標本にしてしまったというのですからね。これには呆れてものが言えませんわ。ご自分でようやく出会った蝶を天使のような蝶とまでうたっておきながら、結局は道にばら撒かれた大金にあわてて群がる俗物と同様に、その蝶をご自分の立身出世のために使われてしまったんですからね。あなたの話には何の宗教的美徳も感じませんわ。あなたは今の話をロンドンの会場でもにやけ顔でして観衆の注意を引きたいようですけど、そんなつまらない話は世間に溢れていますからね。ロンドンには劇場も映画館も無数にあるんです。劇作家だって一流から三流四流まで星の数のごとく揃っていますわ。アメリカならともかく、欧州の民衆はその手の話にもううんざりしていますからね。誰も手を叩いてはくれませんよ」
「なんだと! あんたは、この私の一夜のロマンを侮辱するつもりか!」
老医師は顔を真っ赤にして身を前に乗り出して叫んだ。
「ええ、その通りですわ。あんな子供だましで強運者の頂点に立とうなどとは考えが甘すぎるんですよ。まあ、お聞きなさい。その程度の美談で良いのであれば、私にも言いたいことがあります。あなた方は先ほど、私のことを宝くじを二回当てただけの女と評価しましたけど、それだけでは私の半生を残らず語ったことにはならないんですよ。何しろ、私は一度目に宝くじを当てた後で、もっと正確に言えば、二度目に宝くじを当てる直前に夫と離縁しておりますのでね」
「だから、それは知っていますよ。あなたは財産を独り占めしようと目論んで可哀想な旦那さんを荒野に放り出して見捨てたんでしょう?」
ここで、トンボイ青年が口を挟んできた。夫人も彼の方に挑発的な視線を向けて小さく頷いた。
「ええ、そうですわ、その通りですわ。私は宝くじをもう一度当てる前に夫を見捨てました。食卓を囲むごとに口から飛び出す説教くさい彼の言い分にうんざりしたということもありますけど、本当のところは、自分がこの先に得るであろう大金に、自分の幸運が吸い寄せてしまうであろう未来の財産に目が眩んでしまったのです」
「あんたは鬼畜だよ!」
プジョル医師は鬼のような形相になってそう叫んだ。しかし、夫人は一向に構わずに自分の話を続けた。
「確かに、あなた方のような俗物からすれば、私のやり方は非情に見えるかもしれませんわね。しかし、このことが、二度目の大当たりの前に夫を捨てていたという事実が、私の強運を何にも増して証明してくれるのですからね。さて、ある一般の夫人が宝くじを当てて夫と財産を二分しました。さあ、あなた方ならこの後どうなされます? 夫と未来永劫一緒に暮らしていくか、私のように夫を見捨てて一人で歩んでいくか。あなた方二人を含めてほとんどの人間は前者を選ぶでしょうね。安定と保証、これがあなた方俗物が判断に困った時に最初に判断材料にされることです。安定ですって? けっ! 冗談じゃありません。私のような選ばれし者なら迷わず夫と離れて一人で生きていくことを選択するでしょうよ。だって、ああ…、このことが、この一因が何より重要なのですが、未来にも、自分は圧倒的な財産を得る自信があるから、夫との安定した生活などいらないと判断したこのことが、私を世界一の強運者と証明してくれるもっとも有力な証拠なのですからね。そうです! あなた方の言われる通り、私は宝くじを当てる前に夫を見捨てました。それは何故か? 自分がもう一度宝くじを当てることが、再び大金を得ることがわかっていたからです。己の強運を説明するにあたって、これほど説得力のある発言がありますかしら? 自分がこれから独りで生きていかねばならないという孤独感を、あるいはこれからどんな逆境に遭っても自分一人で解決しなければならないというリスクを跳ね除けて、二度目の栄冠を手にしたんですからね。私がロンドンの会場で再びこれを言えば、先ほどのあなたの蝶のうじうじした思い出など、みんなの頭から吹き飛んでしまうに決まってますわ」
夫人は老医師を指差して勝ち誇ったようにそう言った。プジョル医師は満座で恥をかかされたが、これ以上の反論はやめて顔を背けた。議論に負けたのではなくて、あなたとは議論のそりが合わないとそう周囲に思わせたいようだった。しかし、もう一人の反乱分子、トンボイ青年は一歩も引くことなく、さらに議論を広く展開させていった。
「いやいや、夫人、ご高説は確かにうけたまわりました。しかし、あなたの今のご意見では私やプジョル医師の説を覆すことは出来ませんな。なぜって、夫を平然と見捨てて大金を手にしたというあなたの半生からは、また、その決断からは何の愛情も感じ取ることが出来ないからです。今も昔も、大衆の心を一番魅了するのはやはり愛ですからね」
エメルトン夫人は言われた方を振り返り、不思議そうな表情で青年の顔を凝視した。
「あなた、先ほどからずいぶんとつっかかってきますわね。いったい、どこのどなたでしたかしら?」
「失礼しました、夫人、私はアメリカ一の盗人、トンボイと申します」
青年はそう応じてうやうやしく頭を下げた。
「ああ、強運者名簿で見ましたわ。あなたが数百回も盗難を繰り返して、一向に悪びれないという噂のお方ですの?」
「左様でございます、奥様。ただ、悪びれないとは少々言い方が悪いですな。私の犯罪は一つの芸術ですからね。誰も非難するものはありません」
夫人は青年の端正な顔に何の興味も覚えなかった。自分に反論してくる者はすべて気違いのように思えた。動物園でつまらない南米産の猿の檻の前を通りがかった時のような表情だった。
「それで、あなたは私の半生のどこにケチをつける気ですの?」
トンボイ青年は夫人から返答を求められると、待っていましたとばかりに顔を上気させ、得意になって熱弁をふるい始めた。
「そうですな、先ほども申し上げましたが、夫人、あなたの半生の弱点は、大金を得るまでの過程に何のロマンも愛情も感じないところです。確かに、宝くじを二度も当てられ、その辺の富豪を超越するような大金を得られたのは喜ばしいですし、素晴らしいことです。しかしですね、世間一般の人々はやはり裕福になってから夫をあっさりと見捨てたあなたの判断に、俗物の女性特有の嫌らしさを感じてしまうでしょうね。あなたはご自分の判断で自分が卑しい平民階級の出であることを、また、自分の気質では決して貴族階級の仲間入りは出来ないことを証明されたんですよ。ロンドンであなたの半生を披露されても同じことですよ。これ以上評価は良くはなりません。ロンドンの市民は口ぶりと話の内容から、あなたに備わった安っぽいオーラを即座に見破ってしまうでしょうね。私の考えを言わせていただければ、あなたはどんなに当選金の分け前をやるのが嫌でも、夫と別れるべきではなかったですよ。あの田舎町での地道な生活を続けるべきだったんです。世間一般の純情家(なぜか、こういう人たちはいつの世にもいて、なかなか絶滅しませんが)たちは、どうしても有名人の資産よりもその愛の深さの方を見るからです。どうやって成功したかよりもどういう愛情を心に秘めているのかに興味を持つわけです。そういう人たちはあなたが大金を持っているからといって、特別な扱いをしたり、例えば、大リーグで40本もホームランを打った野球選手のように尊敬したりはしません。ただ、大金を持っているから羨ましいという思いは当然あるにしても、それはやがて粘着性の嫉妬に変わるものです。あなたにさらに何か落ち度があった時には嫌悪感に変わるでしょう。夫人、話は少し脇に逸れますが、数年前にロンドンで流行ったストーリーというのはこんなものでしたよ。ある富豪の独身女性が、昔付き合っていて愛情が途絶えたために疎遠にしていた男性が事業に失敗して破産の憂き目にあい、絶望しているときに、つまり、昔の恋人の弱みを見た時にですね、突如としてその女性の心に以前の愛情がよみがえり、今さら自分の財産のすべてを投資してもその男性を助けられないことを承知の上で、その人を助けるために市場に大金を投資し、まあ、結局、運用はうまくいかずに夫人も財産を失う羽目になり、二人とも一般市民階級まで落ちぶれてしまったのですが、それでも二人はよりを戻して、愛情をさらに深めて結婚に至り、旧市街の一角にあるアパートで慎ましく幸せに暮らしたという話です。この話の重要なポイントは、以前は大金を持っていたがために見えなくなっていた二人の愛が、お金を失ったと同時に復活するところにあります。まるで、あなたの半生の真逆ですよ。このストーリーはロンドンの劇場で公開されて大反響を呼び、アンコールまで起きたそうです。夫人、あなたのストーリーではダメなんですよ。いくら劇的でも単純すぎて大衆は喜びません。やはり、ロンドンの一般大衆というのはディケンズ以来、単調な成功物語よりも愛情を大いに含んだ泥くさい物語を好むんですよ」
「何ですって? 財産を失ったことで以前の愛情が復活したですって? ふん、ずいぶんと安っぽいわね。そんなストーリーで本当に現代人が、特に今の若者が喜ぶとは思えないわ。ところで、あなたはどうなの? 強運者リストの紹介ではアメリカ有数の盗人ということでしたけど、何か他人に自慢できるエピソードをお持ちなの? もう、あなたの語る想像上のストーリーには飽き飽きですわ。そこまで仰るなら、あなたが体験してきた実在のストーリーを聞かせてちょうだい。もし、その話が私の半生よりも美しいロマンを含んでいるのならば、私も潔く自分の負けを認めるでしょうよ。この飛行機がロンドンの会場に着いた時には自分のことよりも、まずあなたの人生の紹介から始めることにしますよ」
トンボイ青年はそこまで挑発されても、落ち着いた整然とした態度を崩さなかった。ここでエメルトン夫人を打ち負かしてやるんだという野心に満ち溢れていた。彼は真横のテーブルの上に置かれていたクリスタル製のワイングラスを手に取ると、慣れた手つきでそれを口に運んだ。
「夫人、良いでしょう。あなたのお望みの通り、私の生涯の断片をご紹介します。私はロサンゼルスの郊外の裏町の生まれで、実家の周囲は薄汚いビルに取り囲まれた昼でも陽が射さない碁盤の目のような細い路地でした。両親は居酒屋の店員をしていましたが、十分な仕事がなく、家も貧しかったものですから、学業もろくに身につかず、低級学校の教師たちにも、あれは汚い生徒だから面倒は見なくていいと差別される有様で、何時の間にやら近所の不良仲間に入っておりました。盗みも鳥の子どもが生まれてすぐに鳴き声を覚えるように自然に覚えました。一度盗みの味を覚えてしまうと、まるで持って生まれた能力のように、よどみもなくそれを繰り返しました。家にいても、外で遊び歩いていても、幸福など微塵も感じることのない人生の中では仕方ないことですが、他人の持ち物を何度奪ってみても、罪悪感などまったく育ちませんでした。私も仲間たちも毎日のように当たり前のように盗みをやりました。商店の外に並べてある食べ物には平気でむしゃぶりつきましたし、ちょっと身なりの良さそうな老人を見つけると、棍棒で殴りつけて追い剥ぎをしました。町で店を開いている人々は、私たちが通りから近づいて来るのを恐れるようになりました。その頃は、自分たちはこの世で一番貧しく生まれついたのだから、周囲の幸運な人間たちのものを奪うことは当たり前のことだと思っていました。他人から道徳を学ばない、そして愛情を知らない子供の心には自分中心の考えしか育たないものです。法律上は悪いことだと知っていても、それをやらなければ自分の生活がますます苦境に立たされると思っていました。そこは貧民街でしたから、周辺に住んでいる商人や住民たちも平和そうには見えながらも、日々生きるためのお金をやっとのことで得ていたのだと知ったのは、ずいぶん成長してからでした。私たちは知らず知らずのうちに自分と同じような人種からお金や物を奪い取っていたのです。私たちが奪ったのは小銭や日用品のたぐいがほとんどでしたが、奪われた人間にとっては、それは取り返しのつかない財産であったかもしれないのです。
学校にもろくに行かず、盗みと酒と女遊びを繰り返していた私は、いつしか18歳になっていました。その頃には幼い頃から一緒だった盗人仲間たちも立派に成長して大工の弟子になったり、パン職人の弟子になったりして、私から離れていきました。成長して犯罪に頼らず生活を維持する術を学んでいったのです。このまま犯罪を続けていき、いつか警察に捕らえられて、人生を大きく狂わせるのを恐れたのかもしれません。大人になっても盗みで生計を立てていたのは何時の間にか私だけになっていました。それでも私は自分の道を曲げようとしませんでした。私が万引きやスリなどつまらない犯罪を繰り返していたのは、何も社会に恨みがあったからではありません。平穏に暮らす人々の生き方が妬ましかったからでもありません。私には盗っ人の才能があったからです。一緒に犯罪を繰り返していた仲間たちは、警察や町の守衛に幾度となく捕らえられ、その度に長時間の説教を受けたり、折檻を受けたりしていましたが、私にはそんな体験はありませんでした。盗もうと心に決めたものは必ず盗んでいました。失敗したことはありませんでした。私は後悔という言葉を知らなかったのです。一度も捕まっていないのに、この犯罪をやめるわけにはいきませんでした。私の指先の素早い動きを一般の人間が肉眼で捉えることは難しいようでした。店主が目の不自由な老人でなくても、視力の良さそうな若い男性の店主でも、私の盗みは確実に成功しました。盗みを延々と繰り返し、18歳になったとき、私の自信は頂点に達していました。
 ある日、それは小雨模様の暗い陽の射さない日のことでしたが、いつものように裏通りを獲物を探してぶらついていた私は、一人の少女と出会いました。その少女はどうやら目が見えない様子でした。片手で通りのビルの外壁をまさぐりながら、古い木製の杖をついてふらふらと歩いていました。少女は足も不自由なようで、右膝には包帯を幾重にも巻いていました。こんな状態ですから、普段は外歩きなどしないのでしょう。家でベッドの上で寝かされているはずです。こんな薄暗い雨の日に無理をして出歩けるような身体ではないからです。普段の晴れた日なら、こんな通りでも少なからず人通りがありますから、この少女の異常な事態を察して誰か助けてくれる人がいるはずです。ところが、その日は雨模様であったために、通りには私とこの少女の他に人影はありませんでした。少女はぐらぐらにふらつきながらどうやら一歩ずつ進んでいました。顔は焦りと苦痛に歪んでいました。私はとうとう声をかけることにしました。
『お嬢さん、そんな身体では外歩きは厳しいでしょう。そんなに焦って、いったい、何があったんです?』
優しく声をかけてやると、少女は見えない目で私の顔をみました。
『母が、母が、病気で倒れてしまったんです。家には母と私しかいないんです。私がなんとかしなければ…』
少女はそう訴えると、再び足を引きずるようにして進もうとしましたが、すぐにバランスを崩し、危うく前のめりに倒れそうになり、私の身体にすがりつきました。彼女は私の腕の中でさめざめと泣いていました。初めて出会う他人にこういう態度に出るということは、彼女の内面は絶望に打ちひしがれていることは明らかでした。家庭の事情はよく飲み込めませんでしたが、この少女の細い身体ももう三日は何も食べていないような骨ばった身体つきでした。少女に抱きつかれたときに気づいたのですが、少女の右手には二枚の紙幣が握られていました。
『薬屋で心臓のお薬を買わないと母は死んでしまうんです。でも、ここからどう歩けば薬屋なのか、わからないのです。あなたに少しのお時間があれば、どうか、助けて下さい』
少女は続けてそう言いました。その薄暗い通りには相変わらず、私たちの他に人影はありませんでした。つまり、私がこの少女を助けて薬屋まで連れて行くのも、少女を殴り倒して紙幣を奪って逃げるのも、どちらも容易に出来たのです。何の抵抗も出来ない病人の女の子から金を奪って逃げる? 私は考えただけでゾクゾクしました。その行為は悪の絶頂、そして悪の華だと思いました。まさに、究極ともいえる悪の行為ではありませんか。いくら路上で大胆に振舞ってみせても、心の奥に微かな善意を隠し持っている普通の悪党にはできますまい。このいたいけな少女を殴り倒すことが、あるいは私が今以上の大悪党に脱皮するいいきっかけになるかもしれません。ええ、私はその頃にはすでに生涯に渡って悪の道を歩き続けることを決めていましたからね。それに、パンや工具といった凡庸なものを盗んで生計を立てる生活にも飽き飽きしていました。私の心の針は悪に偏っていました。当初はこんなボロボロの少女に手を差し伸べるつもりなど毛頭ありませんでした。あの時の心境であれば、そのまま、少女のか弱い手から紙幣を奪って蹴り倒すことだって、当たり前のようにできたでしょう。かえってその方が、少女を殴り倒して上から見下した方が結果として自分の心にはえもいわれぬ快感が湧いたと思われます。そうです、私にとってはこんな汚い少女を相手に一文にもならない善行を働く方がよっぽど不可解なことに思われました。世の中の人々は他人に優しくすれば、いつかきっと自分に幸せがやってくると子供をしつけ育てましたが、私にはそんな野暮な言葉はウンザリでした。それで…、ねえ、エメルトン夫人、私はこの時どうしたと思われます? 少女を助けたのか、それとも蹴り飛ばしたのか。やはりわかりませんか? そうでしょう。あなたの凡庸な思考では、この時の私の心境を理解できるわけはありません。結論から申し上げて、私はその少女を助けましたよ。ちゃんと手を引いて薬局まで連れて行きましたよ。薬を手にして母の元に帰ることができた彼女が、感激してむせび泣いたのはご想像の通りです。私は自分の人生を描いた無数の悪行の絵巻物の中に一つだけ善行を刻み込んだのです。もちろん、少女を助けたというこんな小さな出来事がそれからの私の行動に何ら影響を与えたことはありませんけどね。私が他人に優しさを見せたのはその一回だけでした。将来、良家に生まれ、高僧になるために神学校に通う前途ある坊さんが酒の勢いかほんの少しの気まぐれで、夜の女に一度だけ手を出したとて、それが彼の将来に何の影響も与えないことと一緒です。人間は一生に一度くらいは気まぐれを起こすものです。私が少女を助けたという一件がまさにそれです。私はそれからも何も変わりませんでした。次の日からは平然とまた盗みを続けました。もう一度、あの少女に出会うことがあったら、今度こそは蹴り倒したことでしょう。その後も悪徳をずっと続けてきました。あの少女がその後どうなったのかも知りません。しかし、このことが重要なのですが、私はあの少女を助けた瞬間に天に向かって吠えたのです。
『やい! 神よ! 俺は自分の主義に反してこの少女を助けた。だが、こんなことはもうこれっきりだ。これから先は生涯に渡って遠慮なく悪行を続けさせてもらう。おまえに少しの恩情があるなら、そして俺のただ一度の善行を少しでも認める気持ちがあるなら、俺のこれからの悪行が一度も失敗しないように見守ってくれ! 』
そうです。私は神に恩を売ったのです。自分の信条を曲げて行なったあの一度の人助けは、私にとってそれだけ大きな意味があったからです。そうです。この大悪党にキリストのような善行を働かせておいて、お返しは何もないよ、では困るんです。本来ならば、偶然通りがかった善人に救われるはずだった少女を悪人の私が快く助けたのですからね。このまま何も起こらずに時間が過ぎ去ってしまえば、私の損になるところです。私は天空の神に自分の将来の安泰を誓わせたのです。
もちろん、天空からの返事はありませんでしたから、神々が私の言葉を聞いてどう思ったかはわかるはずもありませんが、その効果はてきめんでした。私はそれからというもの、どんな大胆な盗みを働いても捕まることはありませんでした。神の加護を得てからの数年は、私は盗みの対象を高級ブランド店に絞っていきました。当然、安物の雑貨など狙ってはいられません。身の安全について絶対の保証を得たのですからね。金は一文も持ってなくとも、強気な態度で宝石店に入ってスーツのポケットを盗品の指輪だらけにして出入り口から堂々と出て行っても警備員は何も言いません。私がどうやって盗みを働いたか、まるで時が止まったかのように誰も見ていませんでした。カウンターに立っていたスーツ姿の店員に至っては貴重品を大量に盗まれておきながら、愛想の良い笑顔で『ありがとうございました』と言う始末です。神に祈って以来、以前にも増して私の犯罪は人の目に映らなくなりました。今では、昼は高級ブランド店を荒らしまわり、夜は社交界に出入りするようになりました。盗みを続けた結果、すでに一生働かなくても困らないだけの財産を手に入れました。私の能力であれば外車であろうが、ダイヤモンドのネックレスだろうが好きな時に手に入るのです。エメルトン夫人、いかがです? 同じ大金を得るなら、私のようにドラマチックに手に入れた方が世間の評価は高いと思いますよ。最近の若者は私の人生のようなドラマを好むんです。それでも、宝くじで得たお金の方が価値があると言い切れますか?」
「長いこと話しておられるので、どんな面白い話が聞けるのかと期待しておりましたが、そんな結論なんですの? とんだ期待はずれでしたわ。あなたが仰るロマンチックというのは、行きずりの少女を助けたとかいう場面だけですの? まったく馬鹿らしい話ですわ。自分のたった一度だけの善行に見返りを要求しているんですからね。まあ、持ち前の盗みの才能だけは評価して差し上げますが、あなたなんて、今はたまたま運の上昇期にあって捕まらずにのうのうとしていられますが、時がくれば、必ず警察に捕まる日が来ますからね。そんな強運が10年も続くはずはありませんわ。その日が来たら、あなたがとっ捕まって裁判所に引き出される時が来たら、私は喜んで警察側の証人にならせていただきますわ。『ええ、この方は本物の大泥棒ですわ』ってね。いえ、それどころか、このまま飛行機がロンドンに着いたら、そのまま市警に突き出して差し上げましょうか? 証拠は揃っていますからね。何しろ、自分で証言なさったんですから」
その夫人の言葉を聞いてさすがのトンボイ青年も興奮してきた。自分のこれまでの人生がまったく認められず、足ざまに扱われたことがプライドを傷つけたらしかった。
「何ですって? 人がせっかく心暖まる、とっておきの話を聞かせてあげたのに、あなたという人は恩を仇にして返そうと言うんですか?」
夫人はこの大泥棒に自分の半生が負けているとは、とても思えなかった。周りを10人ほどの聴衆に囲まれながら、3人はいつまでもその中央にいてかなり興奮して議論を続けていたが、その頃にはすでに、飛行機の機体には異常が発生していた。右側のエンジンが故障で動かなくなり、もくもくと白い煙をあげていたのだ。これは機長だけが知っていたことだが、操縦室にも異変は現れていて、油圧計がまったく作動しない状態に陥っていた。3人は議論に夢中になっていて、この迫り来る危機にまったく気づかなかったが、右側の座席に座っていた数人の乗客が機体の異変に気がつき、スチュワーデスにそれを知らせた。しかし、彼女たちも(こんな危機的な状況に遭遇するのは当然初めてであるから)おろおろとするばかりで、乗客に対して何も有効な手立てを取れなかった。数分も経つと機体は水平を保てなくなり、右へ左へと大きく揺れ始めた。声をあげていたのは主に隣の客室の乗客たちであったが、エメルトン夫人ら三人もそんな叫び声を聞くうちに、ようやく機体の異常に気がつき始めた。三人は睨み合いを続けながらも、一時的に議論を中断した。
機体はさらに大きく揺れ始めた。カバンや食器などが振動に耐え切れず、床に落下して大きな音を立てた。機内はここにいる誰もが体験したことのない緊迫感に包まれていた。乗客も乗務員も誰の顔も青ざめていた。しかし、強運者たちは、これはすぐに収まることだと信じ切っていたので、後で物笑いの種になるような醜態を晒さぬよう、平静を装っていた。
「私はもう、こんな歳ですから、人生にそれほどの未練は無いのですが、若いあなた方はさぞかし怖いでしょうな。この飛行機がこのまま大事故になれば、生存率はことの他低いですからな」
プジョル医師は自分の顎の震えを何とか隠して、強がりを言った。
「まあ、これから何があろうと、私だけは生き残るでしょうけどね。あなた方のような凡人とは運の総量が違いますからね」
エメルトン夫人もまだ恐怖に負けまいと強がってそう答えた。
「その通り、事故に見せかけて機体を激しく揺らせてみせるなんて、こんなことで我々を焦らせようとしても無駄ですよ。まるで茶番ですね。神様もなかなか茶目っ気があるようですね。少しでもイベントを起こしてみて、強運者の我々の反応を見て楽しもうとしていらっしゃる」
青年も冷静さを保っていたが、すでに自分の座席に戻り、シートベルトをしっかり握りしめて、少し不安そうに窓の外を眺めていた。しかし、機体はますます大きく揺れ始めた。スチュワーデスは座席に座ってシートベルトを締めるようにすべての乗客に伝えた。高度が少しずつ下がっていることが、乗客たちにも視認できるようになってきた。窓の外を見ると、エンジンからはますます白い煙が吹き出していた。一般乗客の中には隣の人と抱き合って泣き叫んでいる人が多く見られるようになった。強運者ツアーの乗客も皆頭を抱えていて、すっかり混乱状態だった。三人の顔にも冷や汗が浮かび、徐々に焦りが出てきた。
「運で他人を圧倒するような財産は作れましたけど、こういう緊急事態でも発揮できるものなのかしら?」
エメルトン夫人は不安混じりにそう言った。すでに声の震えは隠せなくなった。ただ、助かったときに、「自分の運を信じていたので少しも動揺はしなかった」と冷静な表情で言わなければならないので、身体を小刻みに震わせながらも、努めて平静を装おうとしていた。そんなとき、機内アナウンスが流れた。
『お客様、当機体はエンジン不調のため、目的地までは到着できない見込みです。そのため、近くの空港に緊急着陸ができないか、ただ今検討しております。シートベルトをしっかりと締めてお待ちください』
このアナウンスがもたらしたものは乗客たちのさらなる混乱だけだった。子供や女性たちの叫び声が機内に響いていた。
『皆さん、落ち着いてください!』
スチュワーデスは騒ぎを収めようと大声で指示を出したが、この局面では何の効果もあげられなかった。乗客たちはわんわんとわめくばかりだった。
「どうやら、我々も本気で命の心配をしなければならないようですな。この騒ぎは冗談ではないようです」
老医師は残念そうにそう言った。彼も半生の中でこれほど死について考えさせられたことはなかった。
「今日に限っていえば、どうも運のバランスが崩れているようですな」
青年も半ばあきらめたように神妙な態度でそう呟いた。エメルトン夫人の恐怖や焦りは次第に怒りに変わってきた。圧倒的な運に保護されているはずの自分に、たとえ無事に済むとしても、こんな厄災が降り注ぐこと自体が許せなかった。夫人は隣に座っているトンボイ青年を睨みつけて叫んだ。
「あなたがくだらない犯罪を繰り返したから、神がお怒りになったんです!」
「それは違う! あなたが短期間のうちに強運を発揮しすぎたから、その反動が来たんです!」
「何ですって! この私のせいにする気なの?」
そんな見苦しい言い争いをしているうちにも、飛行機の高度はぐんぐんと下がってきた。『強運者、飛行機の事故であっけなく死す』という明日の朝刊の記事を想像すると震えが止まらなかった。その記事を読んで世間の人々は笑うであろうか、それとも嘆くであろうか? 飛行機はぐらぐらと大きく揺れて、スチュワーデスも立っていられなくなり、近くにあるシートにしがみついた。
『お客様、本機はこれより緊急着陸を試みます。座席についてシートベルトを締めてください。宗教上の理由で神へのお祈り等がある方は早めに済ませてください。どのみち、こうなってしまったら、生きながらえるかどうかは運否天賦です』
機長からは落ち着いた声でアナウンスがあった。
「もうダメだ! こんな物騒なアナウンスが流れた後で助かった試しはないんですよ。僕は映画の特撮ものをよく見るから詳しいんですよ」
エメルトン夫人もすでに自分が強運者であることも忘れて絶望していた。
「ああ、この私が! 類い稀な運と若さと多くの財産を持ったまま死んでしまうなんて! なんて、 もったいない。人類の損失だわ! お金を使って贅沢をしたいことが、まだまだたくさんあったのに!」
緊急着陸というのは機長の嘘であり、飛行機はこの時すでに完全な操縦不能に陥っており、ジェットコースターのように激しく横揺れしながら地表に近づいていた。三人の周囲の様子からいえば、強運者ツアーの客たちの方が一般の乗客よりも余計に騒いでいた。この期に及んでは自分の強運など少しも信じられないようだった。
エメルトン夫人はこんなことになるのであれば、多少貧しくても夫との田舎暮らしを続けていれば良かったと思うようになった。こんな緊急事態に何の役にも立たないのであれば、お金とはなんと虚しいものであろう。
「神様! 人生にこんな結末が用意されているなら、宝くじなんて当ててくださらなくても良かったのに!」
エメルトン夫人は涙を流しながらそう叫んだ。もはや、機内にいる誰もが、よもや自分が助かるとは思ってもいなかった。




 ここまで熱心に読み進めてくれた読者にはまことに申し訳ないのだが、ここで場面を切り替えなければならない。エメルトン夫人らが飛行機に乗っていたのとちょうど同じ時刻、スイスの田舎町、ボードレンでは4年に一度の世界お菓子祭りが開催中であった。会場には世界数十カ国から数千種ものお菓子が集められ、豪華な飾り付けとともに真っ白いテーブルの上に並べられていた。決して広くはない会場には、約3万人もの利用客が集まり、世界各国のスイーツに舌つづみを打っていた。メロンに生ハムを巻いた奇抜な料理もあったし、牛肉とマロングラッセを組み合わせた豪華なスイーツもあった。この日のために運輸されてきた色とりどりの和菓子も飾られていた。会場の一角には、奇をてらった長さ10メートルのチョコポッキーも飾られていた。もちろん、お菓子の山を見て、甘いもの好きな子供たちは大喜びだった。堅くつないだ両親の手をあちこちに引っ張り回して、『次はあれが食べたい』と大はしゃぎだった。
 しかし、会場に集まった人々をもっとも驚かせたのは、この祭りの主催者パーレグ氏が数日間をかけて製作した巨大卵プリンだろう。世界一の圧倒的な大きさを誇り、ギネスにも登録されたそれは、なんと直径が200メートル、高さが120メートルという前代未聞の大きさだった。会場の真ん中に設置されたその巨大プリンに、人々の注目が集まっていた。まるでふわふわの生地で造られた小高い丘があるようだった。いよいよ、メインイベントの時間が来た。パーレグ氏が自ら巨大プリンにスプーンを差し込むのである。プリンはこのイベントの後で細かく裁断され、集まった大勢の客に無料で振る舞われることになっていた。ところが、パーレグ氏がスプーンを入れようとした瞬間、スタッフの一人が上空で何かを見つけて小さな叫び声を発した。パーレグ氏もその声に反応して、目を細めて空の彼方を見やった。最初は大きめの鳥のように見えたが、どうやらそれは北から飛んでくる飛行機のようだった。恐ろしいことは、その飛行機が制御不能に陥っていることが誰の目から見ても明らかだったことだ。機体はバランスを失い、フラフラとまるで紙飛行機のように揺れながら飛行していた。
「なんてことだ! あの飛行機はここへ突っ込んでくるぞ!」
誰かが上空を指さしてそう叫んだ。すぐに会場中がパニックに陥った。混乱して頭を抱える客もいたし、子供たちは危険な事態を察してすぐに大声で泣き出した。パニックになった客の多くは一目散に駆け出し、町の出入り口に殺到した。
「ああ、せっかく時間をかけて準備してきたお菓子祭りが台無しだ」
パーレグ氏はそう叫ぶと絶望のあまりしゃがみ込んでしまった。憶測になるが、狭い町の一角に大量の人間が密集したこの状態に、もしあのままの勢いで飛行機が突っ込めば、爆発の衝撃と混乱による圧死で数千に及ぶ犠牲者が出ると思われる。もはや、逃げられないことを悟った多くの人が迫りくる大事故を頭に描いて絶望していた。飛行機はぐるぐると不規則に回転しながら、みるみるうちに会場に迫ってきた。人々は絶叫した。誰もが生をあきらめた次の瞬間、どすんという小気味いい音がして、飛行機は巨大卵プリンの北東側の斜面に頭から突き刺さった。誰もが目を覆っていたが、爆発も衝撃波も何も起こらなかった。
飛行機は巨大プリンに機体の前方部分が突き刺さった形で停止した。この事態に驚いたのは主催者やプリンの製作者だけではなく、その場に居合わせた人全員だった。皆呆気にとられて、しばらくの間、目を見開き、口をだらしなく開けて、下からその光景を呆然と見上げていた。やがて、警察と消防が駆けつけ、プリンに埋まってしまった機体の中から乗客が次々と助け出された。エミルトン夫人も他の乗客も頭から足のつま先までプリンまみれであった。弾力性のあるプリンに突っ込んだことで、奇跡的にも機体も乗客もまったくの無傷だった。しかし、乗客の多くは墜落時の精神的ショックで放心状態であったことは付け加えておく。この驚愕すべき事件は瞬く間に集まってきたマスコミ各社によって詳しく取材され、その日のうちに世界中に伝えられた。墜落したにも関わらず、乗客に犠牲者が出なかったことや、そもそも、この飛行機には世界中から集まった多数の強運者が乗り込んでいたということが、テレビや新聞を読んだ人々の驚きに拍車をかけた。巨大プリンに飛行機の前方部が突き刺さったユニークな写真が翌日の世界中の朝刊の一面を飾った。驚くにはあたらないが、アメリカの有力紙はこの年のもっとも衝撃的な事件にこの一件を選んだ。
数日後、スイスで生存者による記者会見が開かれたが、墜落した飛行機に乗り合わせた人たちは、いまだにショックから立ち直れていないようで、その顔には疲れの色がありありと見て取れた。それは一般の乗客だけでなく、会場に現れた強運者たちも一様に憔悴しきっていた。強運者が集う会を代表してエメルトン夫人が事件の感想を述べることになった。
「我々が世界有数の強運の持ち主であることは疑いようもないですし、それは何度も証明されているのですが、そんな我々でさえ、自分の運を疑わしく思ってしまうような、そんな瞬間があるものです」
記者会見場には世界各国から有能な報道記者が集まっていたが、疲れのせいで青白い顔をしたエメルトン夫人から聞き出せたのは、その言葉だけだった。
                     了
<2013年4月30日>