何としても、この大きな道路を渡らなければならない。それは、この長い行列に並ぶ人すべての願いである。渡った先で我々を待つのは栄光か、それとも挫折だろうか? ここからではまだ見えない。でも、それはどちらでもいい。とにかく、この世界では、先に進むことが重要なのだから。前進こそが我らの願望であり、渡らなければ何も始まらない。今の低い位置では、他人からの羨望も自分の願望も何も得られないのだ。
 目を凝らして見ても、道路の向こう側はモヤがかかって霞んでしまっていて何も見えなかった。
ちくしょう! うらやましいことだ!
 先に進んで行った人達は向こう側でどんなことをして、何を得ているのだろうか? 先に行った人のことを今さら考えても仕方ないことだが、どうしても、とりとめもない想像が心を支配してしまう。先にここを渡って行った彼らは、すでに幾らかの利益を得ているに違いないのだ。待ち続けている間に次々と沸いて来る想像に自制の心が負けてしまっている。
 この世で起こる何事にも、常に先駆者がいるもので、私のような教養のない人間でもそれは十分に理解できるのだが、目的地を前に取り残された後続も、うかうかしてはいられない。このままでは駄目だ。何とか追いつく努力をしなければ。いつかは前にいる人達と同じことが出来るようにならねばと、この列に並ぶ、ほとんどの人が同じことを考えていた。心にあるのは、先の世界への興味と、先駆者への憧れと、そして自分の輝かしい未来像である。
 これから大事な試合があるスポーツマンも、家に腹を空かせた子供が待っている買い物帰りの主婦も、上司に言い付けられた仕事をいっぱいに抱えているサラリーマンも、数時間後に議会で質問をする予定の議員も、みんなが一列に並んで待っている。普段は怒りっぽい学校の先生も、早く手柄を立てたくてうずうずしている警察官も、みんな黙って並んで待っている。だが、どうしたことだろう? 信号が一向に変わらないではないか。我々はいつまで待てばいいのだろう? みんな心では焦っているはずなのに、身体は微動だにすることはない。この列はいつまでも真っ直ぐに伸びていて、ちっとも揺らぐことはなかった。
 待てど暮らせど、信号はずっと赤なので、私は飽き飽きして、ふと視線を横に向けた。するとどうだろう、私たちの隣にも、同じような長い列があって、同じように雑多な職業の人々がたくさん並んでいた。そのまた向こうにも同じような列があった。辺りを見回すと、私の右にも左にも同じような列が当たり前のように存在していて、ずっと遠くまで無限に人の列が続いているのだ。そうか、みんな前方の信号が変わるのを待っているのだ。右隣りの列の人は仲間で集まって賑やかに話し合いをしていて、私の列の人よりもおしゃべりなようだ。先の世界で歌う詩を考えている人や、すでにリズムをとって踊っている人さえいた。それに顔形や言葉も私たちとは少し違うようだった。左隣りに並んでいる人達はみんな浅黒い肌をしていて、頭にはターバンを巻いていた。話している言語も理解できるものではない。相当に異なった文化を持っているようだった。さらにその向こう側の列には、武器を持った兵士が多く並んでいるのが見受けられた。きっと、兵士さんも道路の向こう側に用事があるのだろう。兵士という職業は列の中では珍しいはずなのに、どんぐり拾いのように一つ見つけてしまえば、同じものが次々と見つかるものである。どの列にも少なからず兵士はいるようだったが、その割合は列によってだいぶ違うようだった。スポーツをしている人が多い列、ぶ厚い本を読んで周囲の人と語り合い、学者ぶっている人が多い列と、各列によって特徴は様々だった。早く信号よ変われと、皆が顔を真っ赤にして大声で叫んでいる列もあれば、うちの列のように沈黙したままで何かの考えに没頭しながら待ち続けている列もあった。待ち方にも、列によって様々なルールや風習があるようだった。ここまでの経過は違えど、目の前にある大きな道路を渡るという目的だけが一緒なのだ。
 そんな観察をしているうちに、大きな足音が聞こえて、右隣りの列が突然進み出したので私は驚いて振り向いた。その列だけ、前方の信号が青になったからだ。置いていかれまいと、みんな一斉に走り出したが、それでも順番は崩さぬように頑なに守っていた。全力で走りながらも、前の人を極力追い越さないようにと、スピードを調整することに神経を使っているようだった。彼らの時計は未来への針が動き出したのだ。他の列に並んでいる人達も、当然、その異変には気がついていたが、自分たちの信号は赤のままなので、その光景を羨ましそうに見守ることしかできなかった。短気な人間が多い列では、我慢が限界に来たのか、早く進ませろと罵声がさらに大きくなったが、いったい、それが誰に向けられているものか、自分たちにもわからないらしく、しばらくすると、また落ち着きを取り戻した。右隣りの列はしばしの黄色信号を挟んだ後でまた赤に戻った。列の進行もそこでピタリと止まった。渡る直前で白い大きな旗に止められてしまった若者は悔しそうにしていた。今回は彼の番ではなかったのだ。
 私の列はいつまで経っても赤のままだった。背伸びをして遥か前方に並んでいる人達を覗き見ても、動き出す気配が全くなかった。いや、むしろ前にいる人間の方がかえって落ち着いているようだった。彼らは次の青信号で確実に渡れると思っているので、何が起きようと余裕の面持ちなのだ。どんなに長い時間が経過しても、私の前や後に並んでいる人達は、決して列を乱さずに並んでいた。本を読んだり、ウォークマンを聴いたりして退屈を紛らわしている人も多くいた。私自身は穏やかではなく、次第に苛立ってきた。何かに怒りをぶつけたい気持ちだった。重要なことで待たされている時は、列の後方に行くほどストレスが溜まるものだ。少しでも前の方の良い位置に行って楽をしたいとさえ思った。この辺りでうまく出し抜いてやれないものだろうか? しかし、列の他の人が顔色一つ変えず、我慢して並んでいるのに、私だけが心を乱すのはどうかと思った。少なくとも、他の人といざこざを起こすような人間であってはならない。遠い昔、どこかでそう教えられたのを思い出し、なるべくみんなと歩調を合わせなければいけないと考え直した。あるいは、この列は前から後方まで教育が行き届いているから、並んでいる人は、みんな我慢強く信号を待つ術を教えられているのかもしれなかった。それは果たして良いことなのだろうか?
 しばらく経って、私はまた時計の針を見た。ついに我慢しきれなくなったのだ。時計の針は、進めない人間を嘲笑うようにぐるぐると容赦なく動いていた。私には我慢の限界だった。そこでまず、自分の真ん前に立っている人に声をかけた。
「もしもし、ずっと止まっていると退屈ではありませんか? いつになったら、この列は進むのでしょう?」
その男性は私の声に反応して振り返った。
「あなたはずいぶん行儀の悪い人ですな。ここに並んでいる人はみんなそうですが、例え何十時間待たされようとも、不平を言ってはいけませんよ。我々はいつでも、信号が変わる瞬間を迎える心構えをしていなければなりません」
前の男性は真っ黒なスーツにシルクハット、ぶ厚い眼鏡をかけていて、学者や教授のような姿だった。瞑想しているところを、私に話し掛けられて邪魔されたことで、すっかり不機嫌になってしまったようだ。この列には真面目で律儀で読書好きな人が多いようだから、豊富な知識を持ち、ルールに厳しい彼は、きっと、この列の象徴的な存在なのだ。私は未練がましく話を続けた。
「しかしですね、もう3時間も待っています。我々の列はすでに3時間もまともに動いていないんですよ。最初はこの位置でも良いかと思って並んでいたのですが…、なにしろ、一応は道路が見えますし、私の後にはもっと大勢の人が並んでいますからね。しかし、この今の環境にも、いい加減飽き飽きしてきたんです。なぜって、人間は環境に慣れてしまうと、幸福を幸福と感じなくなります。初めは嬉しく思った地位にも次第に飽き飽きしてくるものです。私も俗物ですから、その例に漏れません。進みたいのに進めない、このじりじりとした気持ちがわかりますか? 早くもっと前に進んでみたいんです。あの道路の向こう側の新しい世界を見てみたいのです」
「慌てても何にもなりませんよ。何しろ、この世界では、百年、同じところで止まることさえありますからな」
学者ふうの男はさらにぶっきらぼうにそう答えた。わざと突き放すようなことを言って、私との会話を早く打ち切りたいようだった。
「冗談じゃないですよ。そんなに長い期間、全く進まないことなんてあるのでしょうか? 中には我慢できる人もいるようですが…。そういえば、この列には余裕のある人が多いですね。それはなぜでしょう? こんなに不遇でも笑っている人すらいるようですね。自分の今の位置に本当に満足しているのでしょうか?」
私は彼の肩に手を置いてぐっと背伸びをして、何度も列の前方を覗き込みながらそう言った。学者は私の行動に腹を立てて、慌ててそれを制止した。
「こらこら、私より前に出てはいけませんよ。この順番は我々が生まれる前からきっちりと決まっているんです。そして、公文書にも記録されています。誰にもそれを覆すことは出来ません。太古の昔から守られているんです。誰か偉い人が決めたわけでもありません。言うなれば、この世界の順番とは神の意志ですぞ。それでも、今より前に行きたいって言うのですか? あなたって人は本当に変わっていますね。どうも性格がね、がさつ過ぎるんですよ。この列の厳しいルールに適さないようですな。本当にこの列の住人ですか? どこか他の文明の遅れた列からの移住者ではないでしょうね?」
「何を言うんですか、私は間違いなくこの列の人間ですよ。言葉だって一緒でしょう? ほら、顔だってみんなと似たり寄ったりですよ」
学者ふうの男はその説明で少しは納得したようだった。
「それならいいのですがね。最近、この列が居心地が良さそうだからと言って、他の列から流れ込んで来て、割り込もうとする人が多くいて困ってるんですよ」
「一人二人だったら、間に入れてやってもいいじゃないですか。何を怖がっているんです? その少人数の流民が無作法なことをするとでも? 全体がしっかりとしていれば、少しくらい他の列から流入者がいても、道徳やルールは守られますよ」
学者ふうの男はそれを聞くと不審そうな顔をした。どうも、流入という言葉に嫌悪感を持っているようだった。この時点で、相当に保守的で生真面目な人間だという印象を受けた。
「一人二人だからいいだろうっていう調子で次々と割り込ませていくと、収拾がつかなくなって、そのうちに足元から秩序が崩れていくんですよ。その時にはもう取り返しがつかなくなっているんです。私はそういう安定しない列は嫌なんです。私が理想としているのはね、未来永劫整然とした落ち着きを保てる列なんです。列に並ぶ全員が同じ行動を取って、同じ意志を持って、同じルールを守れればそれは可能なはずなんです」
個々の人間に自由を求める心と物欲がある限り、それは無理だろうと言ってやりたかったのだが、この話を続けていても面白くないとわかったので、私は違う話題を探して周りを見渡した。
「実は、我々の位置は道路から少し離れていますよね。まだ、我々と横断歩道の間に数十人の人がいます。この分だと、次の青信号で渡り切れるのか不安になってくるんですよ」
私は自分より前に並んでいる人の頭の数を数えながら、そんな話をした。学者ふうの男も途端に不安そうな顔になった。実のところ、彼もそれをずいぶん気にかけていたらしい。何しろ、どんな偉そうな口上を述べたところで、この道路を渡れるか渡れないかでは、大変大きな差になってしまうからだ。ここに並んでいる人達は、みんな未来で活躍したいと心から思っている。周囲の人間には劣っていないだろうという、ある程度のプライドも持っている。みんな必死なのだ。ここでの出遅れは後できっと大きな差となって現れる。道路はしっかり見えていましたが、またしても渡れませんでした、では済まされないのだ。
「私だってこれ以上なく胸が高鳴りますよ。私の未来を左右する信号が、いつ変わるだろうってね。ただ、それにしても待つしかありますまい。誰もが渡りたいと、向こう側を見てみたいと願っている以上、やはり順番を守ることが何より大切です。せっかくここまで長時間並んできたのですから、ここで愚かな失態をして台なしにはしたくないですな。私はここよりずっと後に並んでいた頃から、道路の向こう側に渡れる日を首を長くして待っていたんです。道路の向こうに希望が待っていると信じます。私のこれまでの学業の成果を無駄にするわけにはいかないのです」
「しかし、今度の青で渡れなかったら、また置いてけぼりを喰うことになるんですよ。その後はいつ変わるかわかりませんよ」
私は少し意地悪くそう言った。自分の焦る心を他人になすりつけたいと思った。
「そんな物騒なことを言わんで下さい。私は努力を積み重ねて少しずつ進んできて、やっと信号の色がはっきりと見えるこの位置にたどり着いたんです。この次の青信号で必ず渡るんです。ここで置いてけぼりを喰らうわけにはいかないんです」
 学者はしゃべっている間も、一時も信号から目を離すことはなかった。そんな話をしながら時間をつぶしていると、今度は左側の列の信号が青になった。並んでいた浅黒い肌の人々は前後の仲間とにこやかに会話をしながら、我々の横を次々と通り過ぎていった。彼らはそれほど待たされていないから、その顔には余裕があった。焦って走り出す人間もいなかった。我々はまた先を越されてしまったのだ。左も右も、私たちの列よりよほど効率よく進んでいるから、今、私たちの両隣に並んでいる人々は、本当は私たちよりずいぶん後方に並んでいたはずだ。つまり、私たちの列だけが全く進んでいないのだ。私は隣の列の人達がうらやましくなってきた。
「これこれ、あなた、さっきから右や左をせわしなく見回しているようですが、それは駄目ですよ」
前に並んでいた学者さんからまた注意を受けてしまった。この世界では、列から列への移動は禁止事項にあたるため、真横の列を覗き見る行為も基本的にはマナー違反である。心中に列移動をする欲求があるのではと疑われてしまうのだ。彼は私を初めて見た瞬間から、そういうことをしそうな人間だと予見していたようだ。私はすでに目をつけられていたのだ。何でも、この世界では、ルールを守ろうとする人間より、ルールを破ろうとする人間の方が圧倒的に数が少ないから、目が利く人になら見つけやすいのだとか。私は今のところ、列を移る気などないが、この列に従順なその気持ちを、周囲の人間に示してみせることは難しかった。
「わかっていますよ。あなたの言いたいことはわかっています。右側は堅い保守的な列が多い。自分の前にいる人には絶対に逆らわない列です。こちらばかり見ていると、気持ちが保守的になってしまい、列の規則やルールをより良くするための気概が薄れてしまい、改革に乗り遅れるような時代錯誤の人間になってしまう可能性がある。そして、反対に左側には列の順序に影響を及ぼすような、大きな改革を夢見るリベラルな人や穏健派の人間が多い。こちらを見ていると、改革と上の階級への反発ばかりに目がいってしまって、自分の列の昔からの個性や伝統を愛せない信用できない人間になってしまうと言うのでしょう? 私にもその辺はよくわかっています。今のところ、列移りをする気はないですよ」
男は私のそんな言い訳を聞くと、一度指をピンと弾いて見せて、ほくそ笑みながら答えた。
「私は何も、そんな小難しい話はしていませんよ。周りをキョロキョロするのは行儀が悪いからやめなさいと言ったのです。あなたは心にやましいことがあるから、私の声が天上人から放たれたように重々しく聞こえるのです。普通のモラルを持った人だったら、そんなに大きくは動じないはずですよ。我々の列はね、古くから存在する立派な列だから、自信を持って前だけを見ていればいいんです」
そんなことを言われてしまうと、私は自分の行動範囲が狭まった気がして腹立たしくなってきた。前の人の頭だけを見ながらの行進なんて、本当に楽しめるものだろうか? 左右の列から学ぶことは本当にないのだろうか?
 ちょうどそんな時だった。この列を見張っている係員が並んでいる人々に挨拶をしながら、私の横を通り掛かった。白い制服と制帽を身につけていたので、すぐにそれとわかった。係員だけは列を前から後ろまで自由に移動していて、退屈とは無縁のようだった。自由に歩けるその様子がうらやましくもあった。私は我先にと係員の右腕を掴んで質問をした。
「もしもし、すいません。あなたはこの列の係員の方ですよね?」
係員はたった一人でこの長い列のすべてを管理しているので、常に誰かの相談相手をしているような忙しさで、彼がこんなに暇そうにしていること自体が珍しいことなのだ。列のどの辺りにも、必ず、体調が悪いから、これ以上前進できないだとか、後ろの人から押されて苦しいから助けてくれだとか言う人が出てくるものだ。しかし、これだけの人数が並んでいて、そんな些細な理由でいちいち係員を呼んでいたら、一人ではとても手が回らないので、多くの人はなるべく彼に迷惑をかけないように自己保身を心掛けていた。私もよほどのことがなければ、彼に話しかけることはないと思っていた。しかし、今回はさすがに我慢しきれず声をかけてしまった。
「はい、そうですよ。何か困ったことがありましたか?」
係員さんは、まるで、何も異常なことは起こってないと言わんばかりの冷静な態度だった。特権を持っているのに決して偉ぶっておらず、自分もこの列の住人と対等な立場だというような、にこやかな表情だった。周囲の人間も平静を装ってはいるが、私が係員を呼び止めたことは当然察知していて、私のこれからの質問に注目しているだろう。あざとく聞き耳をたてているように感じられた。私はそれを承知しているから、できれば自分だけが早く進みたいという、図々しさが他にばれないように、慎重に言葉を選んで質問をした。
「先ほどから、いえ、正確に言えば、もう4時間も我々の列は前に進んでいないのです。見てください。両隣の列はその間にどんどん進んでいってしまって…。何でしょう、左右の人々は、止まったままの我々をあざ笑っているようにさえ思えるのです。なぜ、我々の列だけが立ち往生しているのですか? いえ、不利益を被っているのが私一人ならこんなことは申し出ませんが、列全体が止まっていますのでね、今回ばかりは危機感を感じるのですが…」
「申し訳ありません。この列はですね、道路の向こう側に当たるのですが、一番区という地域でトラブルが発生してしまいまして…、それに伴いまして通行規制を行っていますので、前方から非常に混雑している状態なのです。まだ、しばらくは前に進めない状態が続くと思われます」
「トラブルですって? いったい、何が起こったんですか?」
私は身を乗り出してそう質問した。自分の悪い予感が的中した気がして、全身に悪寒が走った。これだけ多くの人間が並んでいるわけだから、到着するまでに何も起きない方が不思議で、いつか事故が起きて流れがストップするのではないかと、内心脅えていたのだ。
「それがですね、道路の向こう側の最初の区間でですね、自分は今のルールに納得できないから、これ以上進みたくないと主張する人が数人出てしまいまして、まあ、規則上、そうして進行を妨げる行為は認められていませんので、後に並んでいる人達からは、そんなつまらない私情を捨てて早く進むように強い要望が出されまして、それでも、前にいる数人は道を塞ぐように座り込んでしまって動きませんので、係員を含めまして、そこで協議をしているところなのです。まあ、おそらく今現在は、これからのことを慎重に検討しているはずです。何事が起こりましても、順番は変えられませんので、係員がその辺りを説得に当たっているところなのですが、それでもまだ、復旧の見通しが立たない状況です。何しろ、『今のルールのままで進行させるのであれば、自分のこれからの成功をフイにしてでも前には進みたくない』と頑なに主張しているわけですからね。その騒ぎが周囲の人間を巻き込んで次第に大きくなっているわけです。当然ですよね。後ろにいる人からすれば、何の落ち度も無いのに進めないわけですからね。まだ、しばらくこの混乱は続くと思われます」
係員はこの列に並んでいる多くの人をなるべく納得させようと、丁寧な態度でそう答えてくれた。不利益を被っているのは道路のこちら側も一緒である。下手に我々の感情を逆なですると、まだ道路を渡っていない集団の中でも混乱が起きてしまうからだ。
 私は今の説明に納得がいかなかったので、代表して質問を続けた。
「しかし、道路の向こう側まで渡っておきながら、何を衝突する必要があるんですか? 向こうに渡っている人達はですね、もうすでに一つの成功を勝ち取っているんですよ。後ろを見てくださいよ。まだ、渡れていない人達がこんなにいるんです。それを思えば、自分たちは相当恵まれているのだと、単純に納得してさらに前へと進んでもらえませんかね? こういう世界では、思考はなるべく単純化した方が良いと思うんですよ。難しく考え出したら、我々を産んだ神様にまで文句をつけなくてはならなくなる。なぜ、自分をこんな悪い位置に産んだのだとね。言うなれば、道路の向こうは成功者の群れです。そんなにがめつくなる必要はないんです。あとは標識に沿って順当に進んでもらいたいのです。後ろの人はそれを待っているのです」
「それは上の人には上の人の悩みがあるとしか言えませんね。ここから先はですね、海で言えば沖に出るようなものです。これまでとは比較にならないほど波は高くなります。逆風も強く吹いてきて顔や胸を容赦なく叩きます。この辺りを小さな貝や蟹しかいない、平和な浜辺だとすれば、道路の向こうは沖にあたります。人を襲うような大型の魚介類も増えます。競争が激しくなるという意味です。左右の列からの苛立たしいちょっかいも増えます。まさに、我々には伺い知れない世界です」
「それでは、その激しい競争の中で、いよいよ得るものが見えてくるというわけですか? いったい、あの道路の向こうには何があるんです? さわりだけでも教えてもらえませんか?」
私は周りの人間にはなるべく聞こえないように、静かな声でそう質問をした。係員は私のその問いに特に驚かなかった。信号にほど近いこの辺りで呼び止められるということは、当然、そういうことを尋ねられることもあると予見していたようだ。
「もちろん、ここから先はですね、これまでのようにただ並んでいるというわけには参りません。皆さん方でですね、様々な試練を受けていただきまして、それを早く突破できた人から順番にですね、次の区間に進めるような仕組みになっています。試練が始まってしまいますと、これまでの列の順番はすべて反古にされますので、弱肉強食の、非常に厳しい世界と言えると思います」
このまま並んで進むだけの楽な世界が続くわけないと、多少の覚悟はしていたものの、私はその言葉に動揺を隠せなかった。
「実は、私はかなり気弱な人間でして、ほら、普段から胃薬を常用しているんですよ。そういう試練だの競争だのというのは、一番苦手なんです。他人を押しのけて進むことができない性分なんです。列の後ろからくっついていくだけの方が遥かに気楽でして…。ですから、そこに到達するまでに少しでも情報を得ておきたいんです。図々しいかもしれませんが、試練の内容を少しでも教えて頂けませんか?」
「残念ですが、どなたもひいきにはできません。ここから先は皆さん同じ条件で競って頂きますのでね。病弱でも気弱でも優遇するわけにはいきません。これまで渡っていった人達も各々に何らかのハンデは背負っていたでしょうけど、みんな不正をせずに試練に取り組んでいるんですよ。禁煙中の人も、自転車のタイヤがパンクしてしまった人も、家政婦にへそくりを発見されてしまった人も、動揺せずに頑張ってます。あなたにも、きっと同じことができますよ」
係員は私を落ち着けるように、少し微笑みながらそう言うと、軽く会釈をして通り過ぎていった。
「この列はしばらく停止いたしますー。ご気分のすぐれない方は申し出て下さいー」
係員が後方に呼びかける、そんな声が響いてきた。しばらくして、誰か他の人から呼ばれたらしく、彼はかなり後ろの方まで走って行ってしまった。もう、大声を出しても呼び戻すことはできないかもしれない。私は聞き忘れたことはなかったろうかと思いを巡らせた。私が彼から有益な情報を聞き出せなかったのは、私の立場が弱いせいかもしれない。あるいは、もっと上手い文句があったのかもしれない。私は下を向いて唇を噛み、残念そうにした。
 すると、前に並んでいた先ほどの学者ふうの男が振り返って、不気味な笑みを浮かべながら私の顔を見た。彼は私の係員とのうまくいかなかった会話をすべて聞いていたようだ。
「ふうん、あなたは今、あの係員から情報を得ようとしていましたね? あるいは、何か卑怯な手を思いついて、前に並んでいる我々を出し抜こうとしていたんですか?」
「面目ない。あまりにも長く待たされるものだから、気分が苛立っていたんです。自分一人で情報を独占しようとしてしまいました。魔がさしたとはこのことです。ただ、追い抜きをしようとまでは考えていませんよ。私は他人に嫌な思いをさせてまで成功したくはない」
「忠告などする義理はないんですが、この際言っておきますと、列の追い抜きなどを考えると、後々ひどい目に遭いますよ」
彼は私の言葉を信じないのか、胸を二三度ポンポンと叩きながら、脅すような口調で言った。学者はそのまま列の最後方を、いや、それは地平線の向こうに霞んでしまって全く確認できないのだが、とにかく後方を指差して言った。
「いいですか? 追い抜きや割り込みなどをして、まあ、例え、それがわざとでなかったとしても、その不正行為が周囲にばれた場合どうなると思いますか? 私は知っていますよ。しばらく前に鶏肉料理を得意とする下町のコックが私のすぐ前に並んでいましてね。人柄は悪くなかったのですが、あなたのように非常に短気な人でしてね、信号に近い位置で長時間待っているのに耐え兼ねて、前にいた二人のご婦人がおしゃべりに夢中になっている隙に、忍び足でその二人の前に割って入ったのです。その瞬間、けたたましい非常ベルが鳴り響きましてね。私はいつもは物音一つしない静かなこの列で、あんなに興奮を掻き立てる大音量を聴いたことがないほどですよ。その音を聞き付けて数人の係員が走ってきて、そのコックは瞬時に羽交い締めにされてしまったのです。彼は言い訳をすることすら許されませんでした。涙を流して、これは出来心だと言っていましたが、それすら、聴き入れられませんでした。どんな理由があろうと規則は規則ですからね。数時間後に、彼に料理されるはずだったニワトリが、もしあの光景を見ていたらなんと言ったでしょうかね? 結局、彼は列の外へ引きずり出され、この列の最後方から並び直しとなったのです。あのコックの悲痛な叫び声を私は今も覚えていますよ。これまでの半生のほとんどが無駄になった瞬間です」
「最初の位置から並び直しですって? それは少し厳し過ぎると思いますよ」
私は驚きのあまり一歩後ずさりをした。
「誰だって、自分が今いる位置より、少しでも前に出たいとは考えているわけですし、少々の出来心で悪事を働いてしまうかもしれないのです。何と言われようとも、私はそのコックさんに同情しますね。最後方からやり直しだなんて、いくらなんでもやりすぎですよ。少しの苛立ちや思い違いで、誰だって道に外れた行為をしてしまう可能性はあるんですよ。前にいる人に気に喰わない行為をされるかもしれないわけで、それならば、それはこの世界の人間すべての責任でもあります。我々は、全員が少しずつ干渉しあって生きているわけですからね。この長い人生の中で、その哀れなコックさんの心に誰が影響を及ぼしたか、わかったもんじゃないですよ」
「そんな甘えは許されませんよ。あなたね、他人のことなんて気にしていられるんですか? あなただって、今、相当に焦っていて、心が浮ついているようですけど、そんなことではそのうちにルール違反を犯しますよ。現に係員から先の試練に関する情報を聞き出そうとしていたようですが、厳密に言えば、それだってルール違反です。競争は常に平等でなくてはならないですからね。誰がこの順番を決めたか知りませんが、私とあなたは、この通り、近しい存在です。だからこうやって親身になって忠告していますけど、他の人だったら、あなたの危うい行為を黙って見過ごして、あなたが憲兵に連れて行かれても、何もせずに見送るだけだと思いますよ。そうなってしまったら、私もあなたを助けませんよ。自分の身が惜しいですからね。友情などというものに揺るがされない程に、私の今の地位への執着は強いんです」
私は周りを見回して、列の他の人の様子を伺ってみた。みんなが私を白い目で見ていた。確かに、私がヘマをして、憲兵に連れ出されても、弁護をしてくれる人はいなさそうだった。
「この列に並んでいる人達は、他人とつるまないで一人で並んでいる人が多いようですが、道の向こうに着いて栄光を得ることは、友情より大切だと言うのですか?」
「その通り、みんな自分の今の居場所を守るために必死なのです。あなたのように浮かれている人は他にいませんよ。私だって、道路の向こうに着いたら、今度こそ、あの大きな魚を釣ってみせます」
学者は声に力を込めてそう言ったが、私はその意味が理解出来ず聞き返した。
「うん? 大きな魚ですって? それは何かの例えですか?」
「違いますよ。この先の試練の話です。まあ、あなたはこれまでの言動から察するに、ここから先に起こることを何もご存知なさそうだから、よろしければ、この先の試練について少しだけ教えて差し上げましょうか?」
学者ふうの男は顎を少し上に向けて、私を見下すようにそう言ってきた。最初は近しくなれそうもない関係だったが、長いこと話しているうちに、私の短気の裏に隠された臆病な性格に親しみが湧き、打ち解けてきたのかもしれない。それとも、自分だけが隠していると思える秘密というものは、保管しているうちに、自然と他人に教えたくなるのかもしれない。
「この先のことを知っているんですか? ぜひ、教えてくださいよ。私はここから先の情報を何も持っていないのです。このまま、無防備なままで道路を渡るのでは、不安で仕方がない」
「うんうん、そうでしょう。道路を渡り切れば間を置かずにすぐに試練が始まります。このまま、あなたに何も知らせずに競争に持ち込めば、情報を持っている私のような人間は非常に有利になります。順序の近いあなたにだって容赦はしませんからね。私にはその分の優越感がある。しかし、今のままではあなたがあまりにも不憫だ。私のように先のことをすっかり見通しながら、どんな手段で挑むか想定しながら並んでいる人間には、あなたのように未来の予測をまるで持たない人間が、まるで捨てられた子犬のように哀れに思えるのです」
「おっしゃる通り、私のように何の準備もなく、ここに並んでいる人間は、道路を渡り終えていきなり競争だと言われても、とても対応はできないでしょう。負けを見越して戦うようなものです。真っ赤なマントをまとって大量の雌牛が充満した牧場を走り回るようなものです。少しでもいいですから、試練の内容を教えていただけませんか?」
「よくわかりました。教えて差し上げますよ。実はですね、私は若い頃に一度道路の向こうに渡ったことがあるのです。まあ、その時のことはあまり詳しくは申しますまい。人生経験浅い頃の話というのは、常に自分の恥になりますからな。私はそこで不慮の事故に巻き込まれて、憲兵に睨まれてしまい、大きく順位を下がることになってしまったのです。今、こんな位置にいるのはそのためです。決して、誰が悪いわけでもないですがね。その原因は、実は、これなんですよ」
学者ふうの男はそう言って、小指をピンと立ててみせた。今は立派に見える彼も、若い頃はかなり危険な橋を渡っていたらしい。そんな無邪気な失敗を犯していたにも関わらず、彼は少しも恥じずに堂々としていた。
「まあ、過ちを犯して順番を下げられてしまう人の多くがやはりこれに足を取られるようですな。女の魔力は凄いものです。戦場で冷や汗一つ流さず、地雷を上手く避ける軍人も、これには引っかかりますからな」
学者は小指を左右に振りながら嫌らしい目つきでそう言った。
「道路の向こうの試練では女性まで絡んでくるんですか?」
「そういうわけではないです。やることは真面目な競技なのですが、競争する相手には女性もいますからな。どうしても手心を加えてしまうというか…。まあ、後々のことを考えての下心が出てしまうものですよ。そういう小さな優しさは、ばれなければ平気なのですが、この列の中には堅物が多くて、そういう破廉恥な行為には総じてうるさいですからな。まあ、余計な話かもしれませんが、女性との付き合いには、もっとおおらかな列もあるんですよ。向こうに見える白人の列なんて、女性にならば自由に自分の順番を譲ってもいいそうです。最近の言葉でレディファーストとか言うそうですがね」
「他人に自分の地位を譲るなんて、この列では絶対に起こりそうもないですね。それどころか、この列では、前の方で幅をきかせているのはほとんど男性ですね」
「まあ、当然のことですが、男性の方が機転も利くし、ずる賢くて、ルールに抜け道を見つけやすいですからな。どんなに険しい関門でも、効率のいい進み方を見つけるのが特に上手いですな」
学者はそう言ってほくそ笑んだ。自分の過去の経験の中から男性の特権を利用して得をした思い出を呼び覚ましたらしい。いつも、女性を助けているわけではない。人間なら誰だってそういう道を選ぶこともあると、そう言いたいようだった。
「そうそう、道路の向こう側の世界を教えるという約束でしたな」
「はいはい、ぜひ、お願いします」
私は飛びつくように彼に顔を近づけた。
「私の記憶の中では、道路の向こうはいつも真っ白でしてな、霧が立ち込めておるんですよ。よく前が見えません。それが普通の状態なんです。まず、足元に気をつけなければなりませんよ。道路を渡るとそこは大きな庭園になっていて、広大な芝生の中を小道が奥へと続いています。道なりに進んでいくと、そこには豪華な宮殿とその脇に巨大な池があるのです。宮殿の前にテントが張ってあって、そこが登録所になっていて、そこまでこの大行列は続いています」
「そこで、いよいよ試練が行われるわけですね? いったい、どんなことで競い合うのですか?」
私はいても立ってもいられず、身を乗り出して質問した。
「まず、宮殿前の先ほど説明した登録所で身元の調査が行われます。本当にここまで辿り着ける器の人間なのかがそこで調べられるわけですな。順番の不正操作などがありますと、そこですべてばれてしまうわけです。調査を通った人には釣竿が渡されます。そして、庭園の中央にある大きな池で釣りをするわけです」
「釣りで競うのですか? 簡単なことで良かった。そのくらいなら、何の特技のない私にも出来そうですね」
「ここから先が重要なんです。まあ、落ち着いて聞きなさい。池の中には三種類の魚がいます。それぞれ色分けされていて、金と銀と銅です。大きさも様々です。この池にいる魚は特別で重さという概念はありません。釣竿にかかれば、誰にでも持ち上げられます。当然、大きい魚の方が価値があるようです。一匹でも釣れたら各々、宮殿前のテントまでそれを持って行き、評価を受けたら次の試練に進めるというわけです。そこから先はまた行列になります。この試練によって、人数はだいぶ少なくなりますけどね」
「一匹でも釣りさえすれば、取り合えず先へは進めるわけですか?」
私は学者さんの説明を一度遮って質問をした。
「単純に言えばそうですが、自分が選んだ魚で、その後の評価が決まるわけですから、そう簡単にはいきませんよ。例えば、よく見知っている友人が銀色の大きな魚を釣り上げたとして、あなたは銅の小さな魚で満足できますか? きっと、心がうずくでしょう。あなたのほうが早く宮殿前の審査所まで着いたとて、たくさん褒められるのは友人の魚の方ですからな」
「私だって簡単には引き下がらないですよ。何度も挑戦して、きっと大きな魚を釣り上げて見せます」
「ところが、ここで行われる釣りは、あなたのような凡人にはなかなかうまくいかない仕組みになっているのです。池の魚には二つの変わった特徴があります。ここが肝心なのです。一つは、魚が自分から釣られる相手を選ぶということ。もう一つは、池を取り囲んで釣りに興じている人間の数の大小によって、魚の数や大きさが変化するということです。なんと、人間の数が少なくなるにつれて、魚のやつは図体がでかくなるのです」
「魚のほうから人間を選ぶですって? では、魅力のない人間はしょうもない魚しか釣れないということになりますね」
「単純にそうとばかりは言えませんが、容姿にも才能にも恵まれていない人は、大抵の場合、小さくて不恰好な魚を持って帰ることが多いようですね。ただ、能力の少ない人でも、人より多くの時間をかければ、いい魚が釣れることもあるというわけです」
「道路を渡るまでは、全員が公平なルールの下で並んでいたというのに、その先へ行くとずいぶん不公平な世界になってしまうんですね。私としては、才能に恵まれてない人間でも栄光を得られるような仕組みであって欲しかった」
「まあ、落ち着きなさい。何の知恵もなく、ただ漫然と釣りをするだけでは銅色の魚をつかまされてしまうのですよ。そこで、先ほど申し上げた二つ目の特徴が生きてくるのですよ」
「魚釣りに興じている人が少ないほど、獲物が大きくなるというやつですか? そのルールはややこしくて、それほどうまく活用できそうもないですがね。何しろ、これだけの大人数で並んでいますからね。次の青信号で今か今かとイライラしている人間たちが、その池にどっと押しかけますよ」
学者ふうの男はそこで一度ウインクをして、そこからは声をさらに小さくして話を続けた。
「ですから、もう少し考えを進めてみましょうよ。俗人と同じ思考ではいけません。この列に並んでいるほとんどの人は次の試練がどんな内容か知らないんですよ。おそらく、次の青信号で渡る人間の中で魚釣りの情報を知っているのは私とあなただけです。つまり、魚の色や大きさが変化することを知っているのも我々だけです」
「なるほど、私にもわかってきましたよ。みんなが先を競って釣りをしているところをしばらく黙って眺めていて、池の周囲にいる人間の数が少なくなってきたら釣りを始めるというわけですね? その方法なら誰にでも大物が釣れそうですね」
「よく理解できましたね。その通りですよ。皆、早く先へ進むことしか考えていないから、釣れてしまえば、小さな獲物でも満足して先へ進んでしまうんです。しかしですね、ここでの評価は後々非常に重要になってきます。みんなが小さな魚で満足しているから、自分も小さな魚で良いと思ってしまいがちですが、その考えでは後で後悔する羽目になります」
「では、目先の小さい成功に惑わされず、腰を落ち着けて大物を待ったほうが良いというわけですね。素晴らしい助言をありがとうございました。礼を言わせてください」
「なんのなんの、礼などいいんですよ。この情報だけで次の試練に勝てるほど、この世界は甘くないですが、一見万人に公正に見える競争も、目を凝らしてよく探せば、どこかに抜け道が見つかるものなんです。私はここに並んでいる人々と違って、一度向こうに渡ったことがあるから、それが発見できたのです」
「なるほど、自分の才能が他の人間と大差ないとわかっているのなら、それを悔やんで、ただやみくもに努力を積むのではなく、競争という仕組みのどこかに、何か自分だけを有利にするような抜け道を探せということなんですね。いや、これは勉強になりました」
「なになに、当たり前のことを申し上げただけですよ。あなたはまだ若いから、この道の向こうで試練をうまく乗り切れば、まだ成功のチャンスは巡ってきますよ」
「しかし、あなたのような聡明で立派な人が、なぜ処分を受けることになってしまったのですか?」
私は恐る恐る尋ねてみた。
「過去のことはあまり話したくありませんが、こうなっては仕方が無い。よろしい、教えますよ。私は前回もこの信号のある道路を渡りました。前回もここで渋滞していましたので、その時のことをよく覚えていますよ。道路の向こうの宮殿前できちんと審査も受けて釣りをする権利を得ました。池の周りはすでに先を争う人たちで充満していて、割って入る隙間はありませんでした。私は人と人の狭いところに割り込んで釣りをするのは嫌だったので、ひとまず、釣りをすることをあきらめ、人々の様子を観察していました。すぐに釣れて身体全体で喜びを表現する人、なかなか釣れないで焦る人、釣った魚が小さいからと池に戻す人、大きな魚が釣れたとみんなに見せびらかす人、自分だけが巧く釣れないと首を傾げる人、数人で協力して知恵を出し合いながら釣りをする人、釣れないのは釣竿が悪いのだと文句をつける人など、人間の数だけいろんなタイプがいました。私はそうして観察をしているうちに、池の周りの人が少なくなるたびに、池の中の魚が大きくなっていくことに気づいたのです。時間が経てば経つほど、大物を釣れたと喜ぶ人が増えたからです。
 池の周りに5人ほどしかいなくなると、私はようやく自分の釣竿を取り出しました。私の考えた理論が間違いなければ、今なら、相当な大物が釣れるはずです。池の中を覗いて見ると、案の定、大きな魚が5匹だけ泳いでいました。私はえいやっとルアーを池に投げ込みました。すると、ほんの数秒で立派な尾ひれがついた巨大な銀の魚が釣れました。私はそれを抱いて審査所のあるテントに戻ろうとしました。そこで初めて気づいたのですが、テントへ向かう途中の道端、池とテントのちょうど中間地点の芝生の上でしたが、そこにバラの刺繍の入ったワンピースを着た、清楚な女性がうずくまっていたのです。彼女も一応は釣竿を持っていましたが釣りをする気はないようで、拾った細い木の枝で地面の上に落書きをして時間をつぶしていました。私はなんとなく心配になって、『君は釣りをやらないの?』と尋ねました。その女性は、『競争は嫌いだから』と小さな声で答えました。私以外の人間にはその声が届かないように気を使っているようでした。『今、地面に家族の名前を書いているの。心の中から消えないように。みんなと競っているうちに忘れてしまったでしょうけど、本当はあなたにも、他の人にも家族がいるのよ』少女は続けざまにそう言いました。そして、いい順位を獲得するために血眼になっている私たちを見て笑っていました。小さな獲物で満足して次の試練へと向かう人をあざ笑っていた私の姿こそが、こんな無垢な少女には一番あざとい行為に見えたのでしょう。私は彼女を一緒に連れて行こうとして、自分の釣った銀の魚を彼女に渡そうとしました。私はいつでも新しい魚が釣れるので、自分の分が無くなっても惜しくないと思ったのです。私のその言葉を聞いた瞬間、それを待っていたかのように彼女は一度高笑うと、立派な白鷺に姿を変えて、あっけに取られる私を捨て置いて、そのままどこかへ飛び去って行きました。私は青空と雲にまぎれてしまった彼女の姿を探そうと、大空を見上げて呆然としていました。すぐに係員がかけつけてきました。彼らは厳しい表情をしていました。その顔を見たとき、私は自分がルール違反をしていることに気づきました。係員は落ち着いた冷たい声で言いました。『おわかりと思いますが、他人に自分の手柄を譲る行為はこの世界では規則違反です』私は数人の係員に取り囲まれ、すぐに連行され審議にかけられました。その結果が、ほら、あなたと同じ程度の順番までの格下げということですよ」
「なんと、そんなことがあったのですか。自分が正しいと思って行った行為も、この世界ではルール違反になってしまうこともあり得るというわけですね?」
学者さんは一度大きく頷いた。
「全部が全部そうではありませんが、我々はあくまで列の一員ですから、個人の考えや損得だけで動くと、それが全体の不利益にあたると判断されてしまうこともあります」
学者は考え深げにそう言った。私たちがそんな話をしているとき、ちょうど真横を係員が慌しく通り過ぎて行った。前方で変化があったようだ。
「いよいよ、この列も動きそうですね」
学者さんも少し興奮しながら言った。係員は我々の列の一番前の、道路との際まで来ると、そこで足を止めて一礼し、大声を張り上げた。
「前方での混乱が収まりましたので、これから信号を青に変えます。聞こえていますか? これから信号を赤から青に変えます。どなた様も、順序を守ったままで、すみやかに前にお進みください」
係員はそれだけ言うと、列の進行を妨げないように脇へどいた。
「いよいよですね」
私は独り言のようにそう声に出していた。そのとき、学者さんが左側の列で何かを見つけたように、驚いた表情になった。
「おや、向こうの列ではどうやら革命が起きたようですね」
そちらを見ると、左側の列では、これまで最前方に並んでいた人たちが憲兵に連行されて、次々と後ろに送られて行くところだった。代わりに、これまで後ろで虐げられていた人たちが前に出てくるのだった。列の順番が大きく変わる瞬間だ。よほどの違反が起きない限りは、この革命以外の手段で列の順番が大きく変わることは無い。
「我々の列で起きなくて良かったですね」
私はその光景に見とれながらも、学者さんに声をかけた。
「全くですよ。あんなことがこの列で起きたら、私とあなただって、次はいつこの信号に戻って来れるか、わかったもんじゃないですよ。だから言ったでしょ? 秩序がきちんと保たれている列は優れているんです。少なくとも、革命は起きませんからね」
革命が起こった列では、今まで前であぐらをかいていた連中が次々と後方に下げられていた。みんな悔しそうな顔をしていたが、今さらどうすることもできなかった。下にいる者の力を甘く見ていたからこうなったのだ。係員たちが、その列のこれからの順番をどうするか話し合っていた。まだ、平静を取り戻すまで時間がかかりそうだった。私はその光景に夢中になってしまった。
 私の列の信号は、そのとき、すでに青になっていたのだ。後ろの人に背中を叩かれて私はようやく我にかえった。しかし、前方にいる学者さんは、すでに十歩も前を走っていた。彼は腕を上下に大きく振り、必死の形相だった。私はずっと止まりっぱなしだったせいか足がもつれて上手く走れなかった。やっと、道路の手前までたどり着いた。そう思った瞬間、私の目の前で白い大きな旗が振られた。信号は再び黄色から赤に変わってしまった。
「はい、今回はここまでです。もうしばらく待ってくださいね」
係員はそう言って、私の肩をポンと叩いた。私はまた渡れなかったのだ。後ろの人から、おまえが遅かったせいだと文句を言われる羽目になった。私は恨めしい顔で信号を見た。その大きな信号機は、無情にも、真っ赤な光を放っていた。次に青に変わるのはいつだろう? 横断歩道の真ん前まで来て、私は途方に暮れるしかなかった。
                     了
<2011年10月2日>