入学式は無事終わった。まったく文句のつけようもない素晴らしい式典だった。会場である体育館の後方を上品なスーツを着込んだ保護者たちがびっしりと埋めて、ステージの壇上には赤い花の胸章をつけた来賓の方々がこちらを眺めながらにこやかな表情で座っておられた。満開の胡蝶蘭がステージを華やかに彩り、会場は終始緊張感に包まれていた。それにしても、まさか市長が直々に来てくださるとは思ってもみなかった。今回、同時刻に入学式を執り行う小学校は市内に6校もある。数週間前までは、市の中心部に近く、学生の数も最大のS小学校に参加するのではという憶測が流れていた。その予想を覆してうちの学校に来ていただけたからには我が校の校長の影の努力があったのだろう。何かしらの便宜をはかっていただけたのだろう。

 新入生たちは辺りをきょろきょろとしながら、少しおっかなびっくりに体育館の中央をきょろきょろしながら行進して……、まるで動物園のイベントで行進する皇帝ペンギンの群れのようだった。彼らの周囲には色とりどりのチュウリップの鉢植えが飾られ、それが新入生たちをより華やかにそして可愛らしく見せていた。

 新入生が入場してくると、会場の保護者たちも緊張を抑えきれずにざわざわして……。我が子をカメラに収めようと、皆少し身体をよじらせながら体育館の前方に注目していた。そして、式典は前方の壁に貼られた式次第に沿って順調に進められた。式の半ばで新入生のクラスの担任が一人ずつ名前を呼ばれて紹介されて…。私の姿は皆様の目にどう映っただろうか? 2組の私の番が来て、名が高々と告げられると、私は椅子から立ち上がり、ステージの来賓のお歴々に一礼した後、ゆっくりと保護者の方を向き、深々と頭を下げた……。視点は定まっていただろうか、足は震えていなかっただろうか?

 そして、式典は終わり、私は今、一人で教室に佇み、少し慌ただしい空気の中、子供たちが入ってくるのを待っている。子供たちは上級生に先導されて体育館をあとにして、そのまま別室に案内され、さっそく明日から使用する教科書のセットを受け取っている頃合だろう。これは小学生になった証でもある。あと10分か15分ほどで私の生徒たちはこの場に現れ、この教室は新入生とその保護者で埋め尽くされる。胸は高鳴る。しかし、心地よい鼓動だ。大丈夫、大丈夫、この日が来るまでに何度もシミュレーションしてきたではないか。不安ではない。少し、気持ちが高ぶっているだけだ。

 心の準備はすでにできている。入学式という人生の一大イベントで多少テンションが高くなるのは子供たちも一緒だ。うるさく騒ぐ子もいるかもしれない。逆に緊張で口も聞けなくなり、みんなと中々打ち解けない生徒もいるかもしれない。例え、どんな生徒がいても、私が上手く導いてやらねば……。外部から見えるところは一応差別やいじめのないクラスにしなければ……。生徒たちはまだ現れない。私は落ち着かない気持ちになり、自然と足が動き出した。教室前方の扉を開いてみた。そのまま、少し首を伸ばして廊下を覗いてみたが、まだ生徒や保護者の姿は見えず、誰の声も聞こえてこなかった。今頃、上級生に校歌を教わっているのだろうか?

 私はここであの日の出来事を思い出した。二週間前の夕方、私一人が突然校長室に呼ばれた。ノックをして中に入っていくと、校長先生は私に背を向け、窓の外の風景を眺めておられた。部屋の電気はついていなかった。夕日の橙色の光が差し込んでいた。
『先生のクラスにお二人入られますから』
私の気配を感じると、校長先生は開口一番にそう言われた。私は不意を突かれてしどろもどろに返答した。
『お二人? 私のクラスの受け持ちは32名ですが……』
校長はその返事を聞いて、何を馬鹿なことを……、とでも言いたげに鼻をふんと鳴らすと、こちらを向いた。口はいつものようににこやかに笑っていたが、その瞳はとても厳しい光を放っていた。
『あなたのクラスに入られる、RK君は地銀の副頭取のお孫さんです。この地方ではかなり大きな影響を持たれています。そして、もう一人、MT君は与党改進党の県議会議員の三男です。この学校のすべての教室にクーラーが設置されたのも、この御方のご助力があったからなのですよ。いいですか、先生? このお二人のお子さんには決して恥をかかせてはいけませんよ』
私は緊張した面持ちで話をそこまで伺い、ようやく事態を理解した。そして、『慎んでお受けいたします』と、そう答えたものだ。部屋を出ていこうとする私に、校長先生は背後からまるで唄うような口ぶりで声をかけてきた。
『教師というのは素晴らしい職業です。先生には期待しています』

 教師であるからには、生徒を平等に扱わなければならないし、どんな落ちこぼれであれ、どんな貧乏な家庭の生徒であれ、世間的には決して差別してはならない。私だってそのことはよくわかっている。しかし、私はそんな常識的なルールを守ること以上に大切なのは校長先生に認められることである。二年間の間、このクラスをうまく乗り切れば、やがては教務主任になれるだろうか? 教頭や校長への出世も、試験の結果以上に教育委員会のお偉方へのコネの方が重要だと聞いている……。だめだ、だめだ、今日この日だけはそんなことを考えてはいけない。どの生徒の保護者にも私の最初の話を聞いてもらい、『これは素晴らしい先生だ。これなら安心して我が子を任せられる』と、感嘆していただき、帰ってもらわねば……。

 自分の生徒と初めて出会うこの日のために、二週間かけて、教室の四方の壁の飾りつけをした。正面の黒板の上には、『みんなの目標』と題して、『誰とでも仲良く学べる元気な子』と大きく書いておいた。保護者たちはあんな単純な文句に心躍らされ、安心するものだ。左右の壁の飾りつけの方はどうだろうか? 左側の壁は赤とピンクの壁紙に『みんなのゆめ』と書いておいた。後日、生徒一人ひとりに自分の夢を絵と文章で表現してもらい、貼り付けていくのだ。それにしても、教室内の壁紙は赤系統の色が多く、少し派手すぎたかもしれない。今からではもう変えられないが……。

 一度時計を見た。まだ少し時間がありそうだ。もう一度、生徒の名前の呼び方をチェックしておこう。最近はどうも、どの親御さんも子供に難しい名前をつけすぎる。愛情を持っているのは伝わってくるが……。凝った名前のつけ方一つで幸せになれるとでも思っているのだろうか。名簿にはフリガナをふっておいたが、今日のような緊張する場面では何が起こるかわからない……。親御さんたちも自分の子供の名前が呼ばれるのを今か今かと待っている。特に例の二人のお子さんの名前だけは呼び間違えるわけにはいかない……。県議会議員様本人も今日来ておられるかもしれない。その場合、なおさら失敗は許されなくなる……。

 そう、生徒は一人ひとりがかけがえのない宝だ。常識の範囲でいえば差別などあってはならない……。しかし、私の心の大海原には二週間前の校長先生の言葉がぷかぷかと浮いている……。

『先生には期待しています』『先生には期待しています』『先生には期待しています』

重い言葉だ……。やはり、例の二人のお子さんには特別扱いをしなければ……。銀行の副頭取のお孫さんか……。きちんとした教育は受けているだろうが、理解力の方はどうだろうか……? テストの点数が少し足りなくても、こちらで上乗せして差し上げなければ……。少々出来の悪いお子さんだったらどうしようか……。声をかけてあげる必要があるだろう。

『大丈夫ですよ。算数や歴史ができなくても、あなたの進学や就職はコネでどうにでもなりますし、そもそも、大人になってしまえば、一切使わない知識ですからね』

だめだ、だめだ、そんな言葉をかければ、余計恥をかかせることになってしまう! 子供の頃のそういった記憶は心の傷となって長い間残るものだ。教師に余計な心配をかけたなどと思わせてはならない。教師が発する一言一言の責任は重いのだ。

 念のためにお二人の通知表は毎回テストの点に関わらずオール5にしておいたほうがいいだろう……。校長先生の『恥をかかすな』というお言葉はそういう意味に違いない。しかし、他の生徒の保護者からだってクレームはくるかもしれない。この市内の小学校の規則では最高評価である5をつけてあげられるのはクラスで2〜3名の生徒だけだ。

『先生、なぜうちの子はテストでいつも満点をとっているのに5をいただけないんですか?』

保護者会の席でうるさ型の父兄は当然そういうことを言ってくるだろう。社会に出てしまえば、家柄次第で当然地位や週給に差別が生まれてくるわけだが、小学校の時分から大した理由もないのに差をつけるわけにはいかないか……。

『貧乏なおたくらの子供に色目を使っても何の得にもならないからですよ』

などとはとても言えない……。教師の微妙な立ち位置をどう表現すればいいだろうか? 『申し訳ありません……。うちのクラスは特に優秀な生徒さんが多く、テストの点数だけではなかなか差がつきませんので、それ以外の要素、例えば、授業中の態度や忘れ物の有無なども含めて評価させていただいています』

そう応じれば納得してもらえるだろうか。対した家柄でもない、一般庶民の父兄など皆単細胞だ。ただ、自分の子供が可愛くて仕方ないだけなのだ。『運動はよくできます』『歌はうまいですよ』などと、ちょっとおだて上げれば、わけなく解決するだろう。
 そうだ、通知表より先に考えなければならないことがあった。5月の半ばに家庭訪問があるのだ。銀行の副頭取のご自宅に私が直接出向くことになるのか。かなり緊張するイベントだが……、これはチャンスでもある。うまく自分の人柄や知性をアピールできれば、校長先生にも教育委員会のお偉方にもいい印象となって伝わるだろう。それにはまず第一印象が大事だ。人間は、特に上流社会では、たいていの場合見た目で判断されるものだ。友人の結婚式のときに購入した一張羅のドレスを着ていくしかないか……。しかし、今からクリーニングに出して間に合うものだろうか。それに、色も少し派手だし、この季節には向かないような気もする。二番手扱いの水色のワンピースでもいいだろうか? いや、だめだ、だめだ、そんな安っぽい服装で副頭取の豪邸に入っていくことはできない。ボーナス前だが……、背に腹は変えられない。やはり新調した方がいいだろう。

 チャイムを押すと、中から使用人の方が出てきて、私は奥の居間に案内されるだろう。豪華なソファー、壁には美しい絵画、黒檀の棚には高級酒がずらりと並んでいて……。私は促されるままに静かにソファーに腰を沈める。高級なお茶菓子をつまんでいるあいだに緊張も解け、雰囲気が良くなってくれば、先方からにこやかにこう話しかけてくるかもしれない。

『先生、そろそろ堅い話はおやめになって正直に話してくださいよ。実際のところ、うちの子供はどうなんです? 何か迷惑をかけていませんか?』

などと尋ねられたらどうしよう……。会話の流れをどういう方向に持っていこうか……。
『迷惑だなんてとんでもありません。とても人あたりのいいお子さんで、他の生徒にも好かれていますよ』
とりあえず、そう答えておけばいいだろう。その後の流れでどういう方向にももっていける。
『うちの子の可能性といいますか、才能についてはどうでしょう?』
確率は低いだろうが、そんな難しい質問がきたらどうしよう……。今のうちから、回答を考えておく必要がある。
『RK君は卓越した詩文の才能に恵まれ……、計算能力でも他の生徒を圧倒し、芸術の分野にもし進まれればいずれは人間国宝間違いなし、運動では比類なき体力を見せつけ……、人間関係の面では類まれな包容力と深い愛情でこのクラスを、いや、この学校の生徒全員を温かく包み込み……、とにかく素晴らしいお子さんです』
これでは少し大げさ過ぎるが、5月までにはまだ少し時間もあるし、これから話す内容を考えてまとめることも可能だろう。気を使うのは例のお二人の家庭だけだ。他の生徒の家への訪問は服装もてきとうでいい。暑ければ、Tシャツとジーパンでもいい。会話の内容も天気と地震の話だけで切り上げていいだろう。
 廊下から子供たちの足音が届いてきた。校舎全体がざわついてきたような気がする……。いよいよ、対面の時が来たらしい。前方の扉が勢いよく開かれると、先導してきた上級生の声が響いてきた。
「はーい、皆さん、ここが1年2組ですよ。前から番号順に座ってください〜」
もちろん、新入生たちはそんな指令にすぐには従わない。初めて見る教室内をきょろきょろと見回し、ぼけ〜と立ち尽くす生徒。隣の女の子にちょっかいをだす生徒。全然自分のとは違う番号の机に座ってしまう生徒など様々だ。このままでは動物園になってしまうが、私はこの日のことを何度も頭の中でシュミレーションしてきた。校長先生から新入生の担任を任されたベテランには何も慌てることではない。例え、泣き出す生徒や喧嘩を始める生徒がいたとしても、私がパニックに陥ることはありえない。

「こらこら、君の席はそこじゃないでしょ」
「隣の子にいじわるしちゃだめだよ」

私はそんなふうに優しく声をかけてまわりながら、一人ずつ席につかせていく。座らされた後も、まだ暴れ足りずブーブー言っている子もいるが、この場の雰囲気に馴染んでくれば直に大人しくなるだろう。

 生徒全員が無事に席につき、ここまで案内してきた上級生たちが私の合図で立ち去っていくと、それを待っていたかのように教室後方の扉が開き、どやどやと保護者たちが入ってきた。そして、生徒たちの後方を取り巻くように壁や窓を背にして並んで立った。私が苦労して作った、壁紙の飾りつけを興味深く眺めている父兄もいる。生徒たちはまだ緊張から抜けきれず、みんなそわそわとしていたが、後方に自分の両親の姿を見つけ、嬉しそうに手を振る子もいた。

 生徒も親御さんたちも、ここに集まった全員が緊張でがちがちになっている。新入生の担任を任された者として、こんな悪いタイミングでこれからのことを話し始めるのはあまり得策ではない。子供は今なにが起きているかわからずに上の空であるし、父兄は我が子の可愛らしさと未来への不安で浮ついているからだ。こういう場で大事な話をしても受け付けてもらえない可能性がある。記憶に残らない挨拶は無意味だ。今はしばし待つときだ。私はそう判断して、にこやかに生徒たちを見渡し、その時が来るのを待った。そうしているうちに、がやがやとうるさく騒いでいた生徒たちも次第に集中し始め、皆きょとんとした目を教壇の方に注ぐようになってきた。

 そんなとき、後方で様子を見守っていた保護者の一人がカバンからビデオカメラを取り出そうとしたのだが、慌てていたのか、それを床に落としてしまった。ガツンという大音量が室内に響き渡り、一同の視線がそこに注がれた。その男性は決まり悪そうに床に落ちたカメラを拾った。なかったことにしようという空気がその場に流れたが、私はこの瞬間を見逃さなかった。

「なんでしょうね。どうも今日は親御さんの方が緊張してらっしゃるようですね?」

私が笑顔を振りまきながら絶妙のタイミングでそう言うと、教室内がどっと湧いた。両親らが頷き合いながら笑っているのを見て、子供たちの緊張も解けてきたようだ。教室の雰囲気が途端に明るくなってきた。私はこの弛んだ空気の隙をついて父兄の顔を一瞬のあいだに滑るように眺め回した。すると、教室の右奥の方に見覚えのある中年男性の顔が確認できた。選挙ポスターやチラシで何度も拝見したことのあるお顔だ。やはり、県会議員さまが自ら来ておられた。次いで、私の目は出席番号15番の席に座っているMT君の姿を確認した。紺色のブレザーを着て、坊ちゃん刈りの可愛いお子さんだ。少し緊張気味で膝の上にきちんと両手を乗せて大人しく座っていた。

『議員様、大丈夫ですよ。あなたのご子息は確かにお預かりしました。他の子供の垢のついた汚い手に触れさせはしません。私がきっと守ってみせます』

私は心でそう念じてから、大きく息を吸った。いよいよ、この時が来たのだ。

「はーい、皆さん、初めまして! 私がこのクラスの担任のYと申します。今日はまだ覚えられなくていいです。一週間くらいでこの名前を覚えてくださいね。皆さんの心は今日の澄んだ空のようにまっさらですが、これから6年間でいろんなことを学んでいくことになります。このクラスでは一切の差別やいじめはありません。どの生徒さんも平等です。平等というのは同じことを学び、同じように遊び、同じチャンスを与えられるということです。あとでみんなの夢をきかせてください。その夢が叶うように応援するのが私の仕事です。学校生活の最初の2年間を私と楽しく過ごしましょう」

私が最初の挨拶を言い終ると、教室の後方から大きな拍手が起こった。私はばれないように、ちらっと流し目を右奥の方向に送った。議員様は感心した様子で何度か頷きながら大きく拍手してくださっていた。これなら大丈夫。きっとうまくやっていける。私はそう確信した。


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