私がその建物に収容されたのは、奇しくも9月15日の9時15分だった。ただ、時間の経過はこの物語の中で特に重要ではない。話を前に進めよう。
馬車から降ろされると、辺り一帯を非常に濃い霧が立ち込めていた。風景を見定めることはかなわなかった。だが、ここは深い森林の中のようだった。どこからか野鳥の鳴き声がした。たちまちに不吉な予感に襲われた。私は確かに逮捕されたのだ。それもこの地上でも名だたる悪の集団に。私は両腕をきつく縛られ、両脇を屈強な兵隊に囲まれながら、森林の奥深くにある敵の基地の内部に連れ込まれた。周囲を高い塀に囲まれた長大な渡り廊下を歩いていくと、いくつかの古びた門をくぐった後に基地の中央にあるフロアについた。建物全体が驚くほど殺風景だった。芸術品など、きらびやかな目の楽しみになるようなものは何も置いてなかった。自分以外の囚人とすれ違うこともなかった。どの部屋も、どの門もすべて2・3人の衛兵によってしっかりと守られていた。私が連れ込まれたその広大な部屋の内部はすべて監獄だった。部屋の中央部が円形の監視所になっていて、ぐるりと見回せば、三階建てのフロアにある全ての牢屋のドアが見えるような造りになっていた。私は抵抗することも出来ぬままに鉄鎧を着た兵士に連行されて、その中の一つ、一番中央の部屋に乱暴に押入れられた。そこはまるで幾人もの人間を残忍に葬った手のつけられない犯罪者が、重大な判決を受けてから放り込まれ、そのまま生涯を終えるような極めて侘しい、それでいて荘厳な造りになっていた。希望に繋がりそうな物は何一つとして置いてなかった。天井は10メートルほどの高さもあって、鉄格子のついた唯一の窓も、梯子を使ったとしても、とても手の届かない位置にあった。部屋の隅には薄汚れた木製の机が一つあって、その上に闇夜を照らすための古びたランプが乗っていた。部屋のちょうど真ん中にどんな巨体でも座れるような大きな椅子が置かれていて、その上に、ここが不思議なのだが、黒い旧式の電話が一つ置かれていた。この牢屋の内部には他には何の家具も設置されていなかった。これまで別の囚人が使っていた気配もしなかった。ここに閉じ込められた者はそれほど長い期間生きてはいられない証拠だろう。そこに思い至り、私はすっかり絶望した。私もこの数時間後には絶命することになるのだろうか。
たまの休暇を利用して決行した今度の旅は、自分でも驚くほど快適で、あまりに順調に進んだので、つい自慢のジープで砂漠を深入りしてしまい、まったく気づかぬまま悪の組織の領地にまで侵入してしまったのだ。食糧が尽きてくると途端に焦りが吹き出してきた。考えてみれば、地図も方位磁石もない無謀な旅だった。道に迷って右往左往した挙句、私はこの組織の手の者に捕えられてしまったのだ。そして、この奴らの基地、要塞と言ったほうがいいだろうか、に連れて来られてしまったのだ。長い時間をかけて連行されているうちに、携帯電話もとっくに電池が切れてしまい、今からでは誰に助けを求めることも出来なかった。捕えられてから砂漠やジャングルをずいぶん長いこと連れ回されたので、今自分がどこにいるのかもさっぱりわからなかった。しかも、捕えられたのが悪の組織の基地であるから、誰かが私の苦境を知ったところで強国の軍隊でも連れて来なければ私を救い出すことは出来ないだろう。状況は最悪だった。いくら人命が大事とはいえ、私一人のために本国がそこまでしてくれるとは思えなかった。先ほどまで悠々と自分だけの旅を楽しんでいたというのに。いつの間にか、人生は追い詰められていた。死はすぐそこまで来ているようだった。
私が自分で考えを整理して、何とか落ち着いたのを見て取ると、この牢屋を管理している全身鉄鎧の男は重々しい口調で話しかけてきた。
「よし、いいか。おまえは我ら悪の組織、プリエミネンスエプの領地を土足で犯した。その罪は非常に重い」
「どうか許してください。ほんの気まぐれで迷い込んだだけなんです。ここが世界的に有名なあなたがたの領地だとは知らなかったんです」
私は眼前で両手を合わせて許しを乞うた。しかし、男の視線は冷たいままで、何の感情も感じさせずにこちらを睨みつけていた。
「だめだ、もうなんと言い訳をしようが、おまえを許すことは出来ない。おまえは自力でこの苦難を突破するか、我々に処刑されるか、二つの選択肢しか残されていない」
「自力でここから脱出なんて、そんな無茶を言わないで下さい。私の細腕を見てください。一人では料理だって出来ないんですよ。包丁を構えたって猫の子一匹殺せやしない。かと言って、ここから脱出する妙案を思いつくほど私の頭は賢くありません」
「それなら結論は一つだ。おまえは我々に殺されるしかない。潔くあきらめろ」
私はそれを聞いて、頭を抱えて絶叫した。
「嫌です! 確かにいいことは何もないお粗末な人生でした。大金もない、美しい女房もいない。しかし、そんな凡庸な人生でもこんな終わり方はあんまりです。旅先で道を間違えて悪の組織に捕まってしまうなんて。お願いです、私の哀れな人生に少しでも同情してくれるのなら、何かチャンスを下さい!」
その衛兵は私の懇願を聴くと、しばらくの間考え込んでしまった。やがて、目を開くと重い口調で話しかけてきた。
「よし、いいだろう。我々は確かに世界に広く知られた悪の組織だが、悪気もなく踏み込んで来た者をすぐに殺してしまうほど残酷ではない。これまで捕らえて来た者たちにも何がしかのチャンスを与えてきた。おまえにも一つの試練をやろう。おまえが類い稀な知性を発揮してそれを突破できたら、潔くおまえを解放してやろう」
「本当ですか? ありがとうございます。さあ、その試練とやらを御授け下さい」
私は大喜びでその条件を受諾した。
「よし、その試練を受け入れてみよ。ただ、これだけは言っておくがその試練に失敗した場合は、これはもう神からも見放されたと思っておとなしく処刑を受け入れることだ」
「わかりました。その時は、自分はその程度の人間だったとあきらめることに致します。決して不満は申しません」
「よし、それならおまえに『三度のコール』という試練を与える。心して受けるがいい。まず、そこから振り返って部屋の中央を見てみろ。黒い電話が置いてあるのが見えるな? よし、それなら試練は簡単だ。あの電話は万能電話といって、頭の中で念じれば世界中の誰にでも直接に電話をかけられるようになっている。おまえに今から三回のチャンスを与える。この場所から三回の連絡でもって外にいる人間に救援を求め、自分をこの要塞から助け出してみるがいい。何度も言うが電話をかけられるのは三回だけだ。その三回で救われなかった場合にはすぐさま処刑が執行されるだろう」
「なるほど、例えば、私が外国の強力な軍隊に出動を要請したとして、その軍隊がここを強襲して要塞を破壊し、私を救い出したとしたらそれは認められるんですか?」
それを聞くと、鉄鎧の男は少し笑ったような気がした。
「もちろん、その方法でも構わないぞ。ただ、もう少し真剣に考えてみろ。確かに、そこの電話からならおまえの国の大統領にでも電話をかけられるが、果たしてうまくいくと思うか? 大統領が見知らぬおまえの言葉をどうやって信じるというのだ? こっちは忙しいと一蹴されるのがオチだろう。百歩譲って大統領が救出を承諾したとして、ここは誰にも知られていない秘密の基地だ。どうやってその軍隊はおまえの居場所をつかむというのだ?」
私はすっかり意気消沈してしまった。
「それはその通りです。第一、私一人のために軍隊が動いてくれるとは思えません。別の方法を考えることに致します」
「それがいいだろう。おまえの持っているすべての人脈を駆使してこの苦難を突破して見せよ。腕の立つ空手家やプロレスラーにここへ来てもらうのもいいだろう。おまえもこの近くを旅行していたんだし、この基地のだいたいの場所を教えることは出来るだろう。ただ、その方法をとる場合に一つだけ頭に入れておいたほうがいいことがある。それはこの基地の警備のことだ。この基地の内部には数百人の腕利きの衛兵が警備している。食料もなくジャングルに放置されても一ヶ月は生き永らえる者もいれば、ライオンと素手で格闘できる者もいる。わかるか? 生半可な戦力ではここまで、おまえが捕えられているこの牢屋まで辿り着くことは出来ないということだ」
私は先ほどぬか喜びしたことを後悔した。いくら腕っぷしの強い知り合いに連絡が取れたとしても、この厳重な警備をかいくぐってここまで来れるとは思えなかった。私は腕を組んで考え込んだ。どうすればこの鉄壁の城から脱出出来るだろうか?

そんなとき、突然ルルルルル! とけたたましい音が響いて黒電話が鳴りだした。
「これは、どういうことなんです?」
驚いて私がそう尋ねても鉄鎧の男は冷静な表情のままだった。
「早く出ねばなるまい。その電話はおまえから世界中の人間に連絡が取れる品物だが、逆に言えば、世界中の誰もがおまえに連絡を取れる状態にあるということだからな」
「まさか! この相手からのコールも私を救うための一回に数えられるんですか?」
「当然だ、早く受話器を取るがいい。万が一、その呼び出し音が切れてしまった場合も三回のうちの一回に数えさせてもらうぞ」
それを聞くと、私は慌てて黒電話の受話器に飛びついた。
「もしもし、いったい誰ですか? そして何用ですか、こんな大事な時に!」
間を置かず、受話器の向こう側から中年男の気だるそうな声が響いてきた。
「ああ、こちらはフェデリコ新聞の者ですがね」
「あなた、マスコミの人間ですか? マスコミがいったい何の用ですか?」
「ふふふ、そう声を荒らげないで下さいよ。あなたが悪の組織に捕らわれたという情報を入手しまして、今どんなご様子なのかと思いまして、こうしてご連絡差し上げたわけです」
想像に難くないことだが、その返事を聞いて私はカンカンになってしまった。
「なんだと! 人が命の窮地に立たされて途方に暮れているときに、それを新聞のネタにしようと思って電話をかけてきやがったのか?」
どんなに熱くなってみても電話の向こうは冷静だった。
「まあまあ、そう熱くならないで下さい。気持ちはわかります。その組織に捕まって生き永らえた人はいませんから、あなたが絶望してしまう気持ちはよくわかるんですよ。それで、今どんな気持ちです? 家族には何と伝えたいですか? この国の役人に声が届くとしたら、どんなふうに助けを呼びますか? それともすでにあきらめていますか? その辺を我々に教えて下さいよ」
「貴様、苦しんでいる私を新聞のネタにするつもりか? どこまで極悪非道なんだ! 世の中には強盗や殺人鬼もいるが、おまえのように残酷な人間には出会ったことがないぞ」
私は顔を真っ赤にして受話器に向かって怒鳴りつけた。
「まあ、落ち着いて下さい。これも職業病なんですよ。なんでしょうね、この仕事をしていると、自分が手に入れた情報がすべて金づるに見えてしまって、それに関わっている人やその家族の不幸なんて目に入らなくなってしまうんですよ。実際あなただってそうでしょう? 新聞を読んで事件の被害者にそこまで同情したことがありますか? 涙したことがありますか? ありませんよね? 飢餓のニュース、戦争のニュース、鉄道事故のニュース、あなたは気にも止めずに次々と読み飛ばしていく。何十人の死者の上には何百人の親族の不幸が重なっている。しかし、あなたは普段はそこまで考えずに、新聞をすぐに放り投げ、鼻くそをほじっている。自分が被害者になった感想はどうです? 切実でしょう? 今や立場は逆転です。あなたが笑われる番になった。道化を演じる番です。未開の土地に入って悪の組織に処刑される人生なんてなんて愚かしいんだろうと国民の多くがあなたを笑います。あいつは自業自得だ、自己責任だと言ってね。同情なんてほとんどありませんよ。あなたが捕まったニュースが流れてもほとんどの人は平静に普段と同じ暮らしを続けます。『あの人はバカだよね。何を好き好んであんなに遠くまで出かけたんだろう』と笑っています。自分の身に危険が及ばなければ誰も真剣に考えてくれません。あなたがこのまま処刑されても、我が国に波風一つ立たないでしょう」
電話の向こうでそう言われてしまい、私は悲しくなってきた。
「そんな、あんまりです。実を言いますと私にはチャンスが与えられていて、この電話で助けを呼んでもいいことになっているんです。お願いです。私を救ってくれるのはあなたでもいい。何とかマスコミの総力をあげて私を救い出す運動を起こしてくれませんか? あなたはさっき、私が処刑されればニュースになって儲かると言っていましたが、もし私が救い出されればもっと劇的な展開です。記事を読んで涙する人がいるかもしれない。勇気を貰ったと言ってくれる人がいるかもしれない。どうか、私の窮状を多くの人に伝えて、助けに来て下さい」
「ははは、そうです、そういう必死な声が聴きたかったんですよ。心底助かりたいという声を聴きたかったんです。しかし、私も善人ではありませんからねえ。あなたを救い出す運動なんてまっぴらごめんですね。だいたいですね、絶体絶命のあなたを助け出すなんて、そんな力はマスコミにはありませんよ。出来るのはせいぜい真実を有りのままに伝えるくらいでしてね。それ以上の精力的な運動なんてしないもんなんです。それに、私に助けを求めたって、あなた、私の細腕でいったい何が出来ます? 雨中の駅前であなたのことを大衆に訴えてビラを配って署名を集めてそれで運動を起こせと仰るんですか? 嫌なこったですよ。それで国民の救えという声が高まってくる頃にはあなたはとっくに処刑されているでしょうよ。我が新聞社としては、少々残酷ですが、バラバラになったあなたの遺体の写真を誌上に公開して読者からせめてもの同情を集めるくらいしか出来ませんね。それではごきげんよう。ご遺言はそれで十分です。あなたがどんな死に方をしようが記事は書かせてもらいますよ」
それだけ言って電話は切れてしまった。私は脱力して受話器を元の位置に置いた。
「どうだ? 助けを呼べそうなのか?」
後ろから監視人が冷やかしとも思えるような冷たい声を投げてきた。
「いえ、駄目でした…。今のはマスコミからで、苦境に陥った私を冷やかすためにかけてきたんです」
「それは残念だったな。しかし、先ほどの約束通り今のも三回の内の一回に数えさせてもらうぞ。おまえが電話を使える権利はあと二回だけだ。さあ、よく考えて自分の権利を行使するがいい」
私はすっかり絶望して立ちすくんでしまった。今さら誰に電話をかけても、こんな状況から自分を救えるとは思えなかった。どんなに多くの仲間を呼んでも、この堅固な要塞の前ではかえって犠牲者を増やすだけになりそうだった。この監視人が言うようによほど劇的な手段を思いつかなければ私は助からないだろう。しかも、グズグズはしていられない。こうしているうちにも、また余計な電話がかかってきて、私の重要な権利を台無しにしてしまうかもしれないのだ。こんな焦った気持ちで素晴らしいアイデアなど思いつくはずもなかった。顔面からは血の気が引き、手のひらにはぐっしょりと汗をかいていた。今なら判決を受ける直前の死刑囚の気持ちがよくわかる。
「そうやってグズグズと考え込んでいてもいいが、電話を放っておいて大丈夫なのか? こうしている間にもおまえが我々の組織に捕らえられたという情報は世界を駆け巡っていく。今のおまえの状態を心配した親族が、あるいは先ほどのように、この事態に興味を持ったやじ馬がここへ電話をかけてこないとも限らんのだぞ。おまえが電話を躊躇するほどにその危険は高まっていく。あと数秒後にその電話の呼び出しベルがなるかもしれない。そうしたら、おまえはますます追い詰められることになるのだ」
衛兵は私が苦しんでいる様子を見て、それを楽しむかのようにそう言った。しかし、彼の言うとおりだった。私に残された時間は少ない。早く善後策を思いつかなければ、あと数時間後、いや、数十分後にも私は処刑されてしまうかもしれなかった。弱りきった私は一つの結論を出した。
「わかりました。今から実家の近所にあるラーメン屋に電話をかけたいと思います」
「それは一向に構わないが勝算はあるのか? その店におまえを救い出せるアイデアを持った人間が勤めているのか?」
衛兵は不思議そうな様子でそう尋ねてきた。
「いえ、勝算など全くありません。その店には私が好きな女の子が働いているんです。どうせ誰にかけても助からないのであれば、最後に好きな女の子と話をしようと思ったんです」
「おまえに与えられた権利をおまえがどう使おうが勝手だ。それはそれで構わんぞ。過去にもおまえと同じような選択をした人間がいなかったわけじゃない」
私は悲壮な決心をして受話器を取った。頭でその子の店を強く念じると、ルルルと呼び出し音が鳴りだした。どうやら繋がったようだ。ガチャっと受話器を取る音がして女性の声が響いてきた。
「もしもし、こちらラーメン屋『グース亭』ですが」
「もしもし、繋がって良かった! 君かい? 僕だよ、常連客のTだ! 今、ちょっとだけ話ができるかい?」
受話器の向こう側では、馴染みの店員の娘の少しだけ驚いた声が響いた。
「ええ! 本当にあなたなの? 今時分どうしたの? 今どこからかけているの? 最近、店にも顔を出さないじゃないの」
「それが…、これから僕が言うことを落ち着いて聞いてくれ。僕はこの数週間、海外を旅行をしていたんだ。ところが、ふとしたことから砂漠で道に迷った挙句、悪の組織として名高い『プリエミネンスエプ』に捕まってしまったんだ」
「何ですって! 旅の途中で悪の組織に捕らえられてしまったというの? 本当に驚いたわ。まさにオーマイゴッドね。それにしても運がない人ねえ。私も新聞でしか知らないけど、その組織に捕まって助かった人はほとんどいないと言うじゃないの。今どうしてるの? まさか乱暴なことはされていないでしょうね?」
「それが、組織の本部に連行されてしまって、彼らが言うには僕を助けることはどうしてもできないと、でも、一つだけチャンスをくれて、それによると、ここから三回電話をかけて自分を助けだして見せろ、ということらしいんだ」
「まあ、それで私のところに電話をかけて来たってわけね?」
「そうなんだ。いや、電話をかけた理由はそれだけじゃない。今だから言うけど、君の店のラーメンはお世辞にも美味しいとは言えない。晩飯時になっても店の中はいつもガラガラだろ? 周囲の店の喧騒と比較してもそれは歴然だ。そんな魅力に乏しい店なのに僕が足繁く通っていた理由がわかるかい? 僕だって我慢して通っていたんだ。ああ、今だから決心して言うよ。僕は君のことが好きなんだ。だから、下手なラーメンも我慢して食えたんだ」
「まあ、ラーメン自体に興味があったわけじゃなくて私の魅力に惹かれてうちの店に通っていたと、そういうわけね?」
「その通りさ、実は近々君に求婚しようと思っていたんだ。なあ、君の目から見て、僕のような男はどうだい? この苦境を乗り越えてそっちに帰ることができたら、僕と結ばれてくれないだろうか」
勇気を振り絞って告白したのだが、彼女からはしばらく返事は来なかった。こんな状況であるから、通話が途切れることは出来るだけ避けたいのだが、とにかく数分の間、彼女は返事をしなかった。よもや、このまま受話器を降ろされてしまうのではないかと思い始めた時、彼女はようやく返事を寄越した。
「ああ、ごめんなさい。今、お客さんの相手をしていたの。だって、今来てるのが、ちょっとおかしなお客さんなんですもの。タンメンと担々麺の区別がつかないんですって、自分で看板を見てラーメン屋に入っておきながらそんなの変よねえ。担々麺を注文したつもりなのに全然辛くないから驚いたんですって。私は注文を受ける時、明らかにタンメンって聞いたのに…。それが、こともあろうに急いで作り直せって言うのよ。本当におかしい客だわ。そんなに辛いものが食べたいなら、総菜屋にでも行ってキムチでも唐辛子でもたらふく食べればいいのよ。食べるほどに頭は薄くなるわね。寿命だってどんどん短くなるわ。困った人だわね。お客がこんな人ばっかりだったらこっちは丸損だわね。それで、あなたの用事は何だったっけ? ああ、そうね、私にすっかり惚れたから結婚してくれってことだったわよね? うーんと…、残念だけどそれは無理ね。え、なに、断わる理由? 特にこれといった理由はないけど、うーん、やっぱり今回の一件はあなたが間抜けだったと思うわ。だって、海外を旅行するときは、その観光地の側に危険な組織や団体はいないか調べてから行くのが普通だと思うわ。鮫のうようよ泳ぐ海にわざわざ飛び込む人はいないでしょ。私ならそうするもの。それを調査を怠って、未開の土地を車で気分よく走り飛ばして、道に迷って蛮族に捕まるなんて不運というより間抜けだわ。そんな人が処刑されてしまってもあまり同情は出来ないし、私の心にもそれほどの痛手とはならないと思うわ。あなたは自分のことをずいぶん買いかぶっておいでだけど、あなたが店に来なくたってうちの店は潰れませんからね。あなたみたいな間抜けな男と結婚するなんて考えただけでも恐ろしいわ。一緒に生活を始めたら、私まで不幸のどん底に叩き込まれかねないわ」
彼女はそれほど感情もこもっていない口調で、早口にそう言ってきた。照れているわけでなく、どうやら本心から私を嫌っているらしかった。いい返事をもらえるとばかり思っていた私は大きなショックを受けた。
「そんな! もっとよく考えてくれ! 僕は一応社会的身分もある男だ。自慢じゃないが一般のサラリーマンよりは貯金も持っている。中古だが、都内の一戸建てに住んでいる。一方、君はしがないラーメン屋のアルバイト店員だ。どう考えても僕らは釣り合わないが、そこを我慢して交際しようと言っているんだ。僕は君を養うことができる。君を遊園地やイタリア料理店に連れていくこともできる。僕と一緒になることは君の未来のためにもいいことなんだ。どうか、考え直してくれないか」
私はもう必死になってそのように説得したが、彼女の機嫌は悪くなるばかりだった。
「冗談じゃないわ。あなたは自分に都合のいいことばっかり言うけど、独身の寂しさを私のような行きずりの女で紛らわそうって言ったってそうはいきませんからね。あなたは社会的には成功しているのかもしれないけど、周囲で結婚できていないのは自分だけだと感じるようになって、焦ってきただけなのよ。そこで、たまたま通りがかったラーメン屋で見染めた私に求婚して自分の欲望を満足させようと思っただけなんでしょうよ。ねえ、そうでしょ? 相手は誰でも良かったんでしょ? なになに、愛してるのは君だけですって? 安っぽいわね。本当に安っぽい男だわ。私も見くびられたものね。こんなつまらない男に引っかかってしまうなんて…。もういいわ、私はあなたなんかを全然必要としてませんから。その悪の組織とやらに勝手に処刑されてちょうだい。あなたがくたばったっていう新聞記事を読んで人前では涙の一つも流してあげるわ。じゃあ、これで切るわよ?」
「ちょっと待ってくれ! 君に結婚する意志が無いのはよくわかった。だけど、もう少し考えてくれ。君に電話を切られた瞬間に僕の処刑までのカウントダウンは一歩進むことになるんだ。君が僕を無下に見捨てたことが、こんな哀れな一人の男を死地に追いやったことになるんだ。君だって、ラーメンを作りながらも時々は僕を思い出すこともあるだろう。『ああ、そう言えば、あの常連客は蛮族に処刑されてしまって、もうこの世にはいないんだなあ。ちょっとは寂しいなあ』そう思うこともあるかもしれない。知性の低い冷酷な女とはいえ、君も一応は人間だからね。その時になって後悔しないために、今君にできることはないだろうか? この処刑間近の哀れな男を救うためにささやかな努力をしてくれないだろうか?」
「もう、わかったわよ。うるさいわねえ。あなたの生死なんてどうでもいいけど、私の知り合いに一人プリエミネンスエプに詳しい人がいるの。何でも、身内が一人、その組織で働いているんですって。その人に連絡しておいてあげるわ。ただ、万が一、あなたが助かっても、もう、うちの店には来なくていいですからね。困ったときに女に電話をかけるような女々しい男はもうまっぴら!」
その心の叫びにも似た言葉を残して電話は切られた。私の、死ぬ前に好きだった子に告白して結婚の許しを得たいという些細な望みも叶わなかった。
「二度目の電話はどうだった? 首尾良く自分をここから助け出すことはできそうなのか?」
背後から暗く冷たい死に神のような声が響いてきた。私はすでに絶望を深め、下を向いたまま、首を横に振ることしか出来なかった。衛兵はそんな弱々しい私の態度を見て、クククと低い笑い声を発した。彼は捕らわれた弱者を、こうして少しずつ追い詰めていくことが楽しくて仕方ないらしい。
「我々はおまえに三度のチャンスを与えた。その三度の権利が行使されるまでは、我々はおまえに決して危害を加えない。この本部には病気の老婆を背後から平然と殴りつけるような乱暴者もいるが、そんな男でさえ、今のおまえには何も手を出さないだろう。それはこの組織に勤める誰もが理解できている。だが、それはおまえがあと一回の権利を行使するまでだ。それが済んでしまえば、この本部にいる全ての野獣がおまえに牙を剥くだろう。おまえはあっという間に引き裂かれ、無惨な死体になるかもしれんぞ」
そんなことを言われても、私は今さら悲嘆しなかった。恐怖というものは不思議なもので、ある一定の値を超えてしまうと、それ以上は高まらず、絶望は深まらず、逆に、死に直面しても笑っている殉教者のような達観した気持ちを与えてくれるのだ。私が電話を使えるのはあと一回だけだ。この一回では、どこの誰に知らせたとて、もはや誰も私を救い出すことは出来ないだろう。私がもうすぐ処刑されることは確定事項になってしまった。
「どうした、もう電話はかけないのか? 家族や友人に最後の別れを告げなくていいのか?」
衛兵は私の焦りを誘うようにそんなことを言ってきた。私はすでに諦めの境地だった。あと一回だけのチャンス、だが、誰に電話をかけていいのかわからなかった。今さら家族の声が聴きたいともおもわなかった。そんなことをすれば、自分の親族に余計な悲しみを与えるだけだと思った。いっそのこと、もうこのままじっとしていて、誰かから電話がかかってくるのを待とうとさえ思った。この世で最後に話す相手がランダムで決まるのも悪くないと思った。それこそ、神の思し召しなのかもしれない。私が運を天に任せたそんなとき、あの黒電話がルルルと鳴り出した。
「これが最後の一回だ。早く受話器を取るがいい」
後ろから、冷酷な衛兵にそう促された。私は悲壮な覚悟を決めて受話器を手にとった。
「もしもし」
私は震える声でそう言った。
「ああ、繋がった。あんたは誰なんだい?」
電話の向こうは中年の女性の声だった。彼女ははっきりとした強い口調でそう尋ねてきた。
「それは私が聞きたいくらいですよ。こんな大事な時に電話をかけてきて、あなたこそ、いったい誰なんです?」
私はもう必死になってそう聞き返した。
「あたしゃあ、ただの専業主婦だよ。主人は場末の中華料理店を経営してるけどね。さっきね、知り合いのラーメン屋の娘がドタバタと駆け込んできて、もし時間が空いたら、あんたのとこに電話してくれって、それだけ言って帰っていったから、そうしたまでさ」
「何ですって? 彼女が言ってた悪の組織に詳しい知人っていうのはあなたのことだったんですか?」
私はすっかり驚いてそう聞き返した。まさか、私の愛する彼女が、こんな近所のおばさんに私の命を預けるとは思わなかった。ああ、すっかり枯れ果てたと思っていた絶望の泉がまた心中に湧いてくるのがわかった。まさか、人生の結末において、神がこんなくだらないシナリオを用意しているとは。私は呆れ果てた。
「まあ、よくは知らないけど、うちにも橋にも棒にもかからない馬鹿息子がいてね。その息子から、よくその組織の噂を聞かされるのさ。そんで、どうする? その基地の場所は知らないこともないから、これから買い物の帰りに立ち寄ってもいいけど、それまで待ってられるかい?」
彼女は高飛車な態度でそう尋ねてきた。この電話の結果に、人の命がかかっているとはまるで思っていないようだった。私はもう怒りを通り越して薄ら笑いすら浮かんできた。
「あのねえ、あなたが来たくらいで助けられるような状況だったら、私一人でここからとっくに抜け出していますよ。私が捕らえられているここは、世界で一番堅固な要塞と言われているんですよ。それに札付きの悪が数百人からいる。まあ、来ても構いませんが、どうせ死体が一つ増えるだけですよ」
「ああ、そう、それじゃあ、とにかく向かってみるから」
それだけ言うと、その女性は電話を切ってしまった。私は失望が極まって顔面蒼白になってしまった。静かに受話器を置くと、そのままへなへなと座り込んでしまった。これでせっかく与えられた全ての権利を行使してしまったのだ。結局何もすることは出来なかった。結局のところ、中年の主婦一人が自分の居場所を知っただけだった。心中もすでに真っ白だった。もはや何も思い浮かべることは出来なかった。処刑直前の死刑囚の開き直った気持ちがわかるようだった。もはや、祈りたいとも、願いたいとも思わなかった。
「それで3回目のコールだ。どうだ? 自分を救い出すことは出来たのか?」
真っ青な表情で床に座り込んでいる私の姿を見れば結果は一目瞭然なんだろうが、衛兵は私にさらなる重圧を与えるようにそう尋ねてきた。私はもはや返事をする気力もなかった。
「どうやら、おまえは我々が与えてやった三回の権利を行使しても自分を救い出すことが出来なかったようだな?」
私は両手を膝の上に置いてうつむいた姿勢のまま静かに頷いた。衛兵はそんな私の様子を見て上機嫌になって話を続けた。彼にはこういう結果になることが始めからわかっていたんだろうに。
「先ほども言ったが、我々は捕らえた者をすぐに処刑してしまうほど残酷ではない。ちゃんと知性も持っている。我々の中での法というのも確立している。毎日の勤務を支える厳しい規則もある。世間並みの道徳心を身につけている幹部もいる。おまえに与えた温情がその証拠だ。おまえが勇気を奮い立たせ、あるいは類稀な知性を発揮してこの試練を突破すれば、我々はおまえを勇者として讃え、喜んで釈放しただろう。しかし、おまえは我々の期待に応えることは出来なかった。我々が与えたチャンスをみすみす無駄にしてしまった。こうなったからには、おまえは我々による処刑を受けいれる他はない。もう、おまえを弁護してくれる者はこの地上にはいないのだ。おまえが生きてこの本部を出られる可能性は露と消えたのだ」
衛兵は気分良さそうに、まるで重要犯罪の判決文を読み通す裁判長のように話を続けた。
「よく、わかっております。この期に及んでは、自分の運の無さに自分でも呆れ果てました。こうなりましたからには、いかようにも処分して下さい」
「よし、わかった。先ほどここの幹部と話をつけてな、おまえの処刑方法は決まっている。この本部の左翼にある工場に、温度が6000度にも達する溶鉱炉があるのだが、おまえは天井から吊り下げられ、その溶鉱炉に頭から突っ込んでもらう」
「ひええ! あんまりだ!」
私は頭を抱えてうずくまってしまった。
「さあ、来い! すぐに処刑執行だ。俺と一緒に来てもらおう!」
衛兵はそう叫んで私の衣服を引っ張ったが、すでに緊張と恐怖で足が震えて立ち上がることが出来なかった。そんな時だった。この監獄の廊下を駆けてくる音が聴こえて、新たな衛兵が部屋に入って来た。
「おい、大変だ! 侵入者だ、侵入者が来たぞ!」
「何だと?」
長いこと私の相手をしていた衛兵は慌てて振り返った。
「ここ50年もの間、どんな軍隊の侵入も許さなかった、我がプリエミネンスエプの本部に乗り込んで来た者がいると言うのか?」
「ああ、その通りだ。しかも、乗り込んできた相手はどうやら一人らしい。まったく、向こう見ずな奴だ。今、各部所の警備隊が重火器で応戦しているが、敵は進撃を続けている。相当に手強い相手らしい」
二人は相当に動揺してしまっていた。世界でトップクラスの悪の組織が、まさか本部の中枢まで乗り込まれるとは想定していなかったのだろう。冷静なはずのここの看守も先ほどまでとは声色がまったく違っていた。事態は大きく変わった。信じ難いことだが、どうやら私の処刑どころではなくなったらしい。私には何が起こったのかさっぱりわからなかった。不安や恐怖が胸から消え去ることもなかった。時を置かず、西側の廊下から、けたたましい発砲音が響き渡り、この部屋のすぐ側で何者かが激しく戦っている音が聞こえた。数名が吹き飛ばされたような叫び声や手榴弾を使用した爆発音のようなものも聴こえた。私は恐ろしくなって震えが止まらなくなり、地面に伏せるしかなかった。戦争など映画の中でしか見たことがなかったので、実際の戦闘がこんなに恐ろしいものとは思わなかった。
「我々も応援に行くぞ!」
そう言って衛兵の二人が勢いよく出て行こうとしたとき、乱暴に扉が開かれ、何者かが入ってきた。
「おまえが侵入者か!」
衛兵たちはそう叫んで斬りかかったが、相手の凄まじい格闘術の前になす術なく殴り倒されてしまった。侵入者は素手だったが、その武力は圧倒的だった。私は何が起こったのかと、そうっと顔を上げて侵入者の顔面を確認した。驚いたことにそこに立っていたのは、60歳くらいの小太りの中年の女性だった。防具もなにも身につけておらず、食事の支度の途中なのか真っ白なエプロンを身につけていた。
「あんた、ここにいたのかい。さあ、迎えに来たよ」
その女性は力強い声で私に向けて確かにそう言った。私はあまりの展開に錯乱し、うまく返事をすることができなかった。先ほどまで私の相手をしていた衛兵は顔をしかめながらなんとか起き上がり、自分を殴り倒した敵の顔を見上げた。
「か、か、母ちゃん?!」
衛兵はそう叫んで腰を抜かしてしまった。極度の恐怖でそれ以上声が出ないらしかった。
「何が悪の組織だい! いい歳して一般の人に迷惑をかけるんじゃないよ!」
そのおばさんはそう叱りつけると、衛兵の頭をさらに一発殴りつけた。衛兵は白眼をむいて口から泡を吹き倒れこんでしまった。そうやって衛兵たちをすっかりのしてしまうと、おばさんは緊張と恐怖で足腰が立たない私を担ぎ上げてそのまま要塞の外まで運び出してくれた。もはや、組織からの反撃はなかった。おとなしく白旗を上げている兵士もいた。
「それじゃあ、私はスーパーで買い物でもして帰るから」
おばさんは最後にニコッと笑うとそのまま立ち去っていった。私はしばらくの間、呆然と立ちつくした。
以上が、悪の組織に捕らえられながらも、私の命が助かった経緯である。私が無事に帰国してから数日後、有名な悪の組織、プリエミネンスエプが解散したという報道がなされた。
                     了
<2012年12月15日>