「こんなに狭いアパートでは何かと不便だろう?」
 久しぶりに顔を合わせた顔見知りの編集者は、私の部屋に一歩踏み込むなり、そう言った。そして、まるで今思いついたかのように、彼の出版社の管理下にある、都心の中堅マンションを格安で紹介してくれた。親切心からではなく、ちょうど部屋が一つ空いたところだからだと、彼はその時説明した。今住んでいるワンルームアパートに大きな不満はなかったが、都心からかなり離れていることと、付近の住民のマナーが目に余るほど悪いことには多少の嫌気がさしていたので、ここいらで目線を変えてみるのも良いかと思って、ありがたく、その申し出を受けることにした。
 私は相変わらず食う物や着る物にも困るような生活を送っていたが、ここ数年は、三ヶ月に一度発行される小さな文芸雑誌に拙い短編小説を掲載してもらったり、隔月で発行される土建関係の新聞に、政府を遠回しに非難する短いコラムを書いて掲載してもらったりで、どうにか生活費を稼いでいた。
 そんな地味でつまらない人生に一筋の光が射したのは昨年の夏だった。思いつきと酒の勢いで書いた『アメリカ的恋愛への不満と矛盾』という小論文が、何の前触れもなく、小さな出版社で新人賞を取ることとなり、私の人生にも遅すぎる転機が訪れたのである。そういうわけで、そろそろ仕事場を移して、大きな仕事に取りかからねば、と思っていた矢先のことだった。
「実を言うと、そのマンションには君と同業の人が多く住んでいるんだ。そこにしばらく生活して、彼らと哀楽を共にすれば、参考になることも多いと思うよ」
僕が引っ越しを承諾すると、友人は軽く笑って、そう言ってくれたが、この男はいつも表情を変えずに、冷たい目線のままで口だけを動かし、誰の味方なのか、どんな理想を持っているのか、など自分の胸の内を一切語ろうとしない男なので、私が住まいを変えるというこの一件が進むと、いったい誰の得になるのかはわからなかった。あるいは彼には別の思惑があるかもしれないので、その申し出を受けても素直に喜べなかったのだ。
 元々、小さなパソコンと衣服以外は、雑誌と数冊の文庫本しか荷物が無いような部屋だったので荷造りはすぐに終わり、引っ越し屋にダンボール4個分の荷物を任せて、自分は電車に乗って一足先に現地に向かって業者のトラックを待つことにした。
 そのマンションは、都心から程近い、漬け物屋や惣菜屋が立ち並ぶ、人通りの多いごみごみした商店街から、一歩脇道に入った閑静な中産階級の住宅街の中だった。公立の小中学校や私立病院へと続く狭い通りの坂道の途中にあって、見上げても看板一つ出ていない灰色のコンクリート造りの建物で、外観は極めて地味だった。まあ、住民は作家が多いということだから、熱烈なファンの読者に見つかりにくいように、わざと地味な外観にしているのかもしれない。この建物の正面口から通りを挟んで向かい側に、こじんまりとした喫茶店と、味わいのあるわびた床屋が仲良く並んでいるのが見えた。鉄筋4階建ての、このマンションの2階に私の新しい部屋があった。
 引っ越しの荷物を積んだトラックはまだ到着していなかったが、気が急いて仕方ないので、それを待たずに思い切って中に進むと、階段も廊下も驚くほど殺風景で、小さな机と椅子が幾つか並べてあるだけの、6畳ほどの狭いロビーには花瓶も置いて無ければ、連絡事項などを記したチラシやポスターも貼られていなかった。しっかりと管理されているから、治安に関しては何の心配もいらない、と友人は言っていたはずだが、私の目には管理人も警備員も見えなかった。古い建物なので、正面口にも裏口にも防犯機能は付いていなかった。
 2階の通路には青と赤の丈夫そうな鉄製の扉が交互に並んでいた。天井には至るところに蜘蛛が巣を作ってくれていた。定期的に掃除をしているような様子はなく、床も存分に汚かった。しゃがみ込んでよく見ずとも、廊下の端に埃やゴミが溜まっているのがわかった。前に住んでいたベッドタウンにある狭い安アパートより、よほど汚かった。
 自分の部屋の前に着いて気づいたことだが、2階の通路にある、どの部屋にも表札は出ていなかった。人気が感じられなかったので、私にはどれも空き部屋のように感じられた。有名人が多く住んでいるので、表札を出してしまうと防犯上都合が悪いのかもしれない。昼間だからなのか、他の住民と顔を合わせることもなく、辺りは異様なほど静まりかえっていた。廊下にある唯一の窓は曇りガラスで、まるで監獄の窓のように小さく、建物の内部は昼間でも薄暗かった。いかにも何か出そうな雰囲気だ。
 やがて、荷物を積んだトラックが到着して、クラクションを鳴らした。大きな荷物を苦もなく運び入れてくれた引っ越し屋さんは、「幽霊ふぜいが恐い人は、ここには住めないと思いますよ」と苦笑いを浮かべ、「ここには嫌な住人でもいるのかい?」という、私の冗談半分の質問には答えずに、否定の意味なのか、一度手を横に振ってから足早に立ち去っていった。初めて自分のこれからの住家に足を踏み入れた時の違和感は、どんな人でも体験することであるから、ここに住んで二、三日もすれば、歪んだように思えるこの空気も、悪夢のような感覚も、きっと受け入れられるようになるのだと強く思い込んで、私は自分の部屋のドアを開けた。2DKの部屋の内部はきちんと片付いていて、トイレが入り口近くにあり、ベランダはきちんと南に向いていて日当たりもよく、特に不満はなかった。
 アパートから運んできた冷蔵庫や洗濯機などの重い家具を先に配置し、ダンボールを解いて本棚に文庫を元通りに並べ、食器を整理して、一応やるべきことは終わった。私は一度大きく身体を伸ばしてからベランダに出て深呼吸をし、風景を見る振りをして上階を見上げたり、何気なく隣の部屋のベランダを覗いてみたりしたが、それでも他の住民の気配を感じることはできなかった。洗濯物を干してある部屋もなかった。前の通りはそこそこの人通りがあるものの、通行人は全てこのマンションとは関係のない人々だった。
 テレビもラジオもない部屋に一人でいても、落ち着かないので、缶コーヒーでも買いに行こうかと思い立って、部屋を出たが、階段で上階から降りてきた巨体の男性とぶつかりそうになり、慌てて身を引いた。顔を見ると、馴染みの出版社でよく会うベテランの編集者だった。一緒の仕事をしたことはないので、どうも記憶に薄いが、彼はたしか若者向けの漫画雑誌の担当で、平田という名前だったはずだ。今日はここに住む作家さんのところへ原稿を取りに来たのだろうか? 彼はあわてて身を避けた後、私の存在にひとしきり驚いた後で、こちらの胸元を指差し、「あなた、ここに住むことにしたの?」と、無作法に尋ねてきた。
私が頷くと、平田さんは目を真ん丸にした。
「そんな若いうちからここに住むって、ずいぶん、度胸があるんだねえ…」
彼は肺に溜まっていた空気を全て吐き出すようにそう言うと、何度か私の方を振り返りつつ、とても信じられないというふうに首を傾げながら、階段を降りていった。作家である私がここに住むことに対して、彼は度胸があると言う。その言葉の意味はわからなかったが、住民か施設に良くない印象があるのだろうという憶測はこの時点からあった。
 自動販売機がマンションの内部にあったりすると、お金儲け好きなオーナーの色気を感じたりして、気分も浮つくのだが、この先時代を感じるような薄暗い雰囲気からして、この建物には絶対無さそうに思えたので、大通りまで出て購入することにした。
 温かいコーヒー缶を握りしめて戻ってくると、ロビーの椅子に一人の男性が座っていた。彼は両手で頭を抱えながら、モルタル製の安っぽい机にもたれかかり、うつぶせになっていた。この人が住民だとすれば、これが初めての出会いとなる。私がわざと大きめの足音を立てて彼の前を通りがかると、ようやく自分以外の人間の存在に気がついたようで、ハッと顔を上げた。見覚えのある顔だったが、すぐには名前が出てこなかった。軽い笑顔で挨拶され、この人の名前を思い出した。彼は江尻さんと言い、元々、コピーライターで名を馳せた人で、7〜8年前まではテレビ番組や雑誌の企画を手がけていて、今でも、ローカルのバラエティー番組では売れっ子タレントとして活躍している人だ。ワイドショーなどで時折登場して、軽快で自虐的なトークでスタジオを盛り上げることも多い。テレビで見かける時は常にお洒落な恰好をしているので、今日のような、トレーナーの上からセーターという一般的な恰好をされてしまうと、本人とはわかりにくくなってしまう。明るく誰にも丁寧な方で、二、三度話すだけで、私にもすぐに打ち解けてくれた。
「いや、自分の部屋に閉じこもって企画を考えながら書いていると、電話の音が鳴るたびに、いちいちビクビクしなきゃいけないから…」
彼は部屋を抜け出してロビーで思い悩んでいた理由をそのように説明してくれた。
 その後も、このロビーや階段の途中で出会うたびに気さくに話しかけてくれるようになった。私は有名人と仲良くなれたことよりも、マンション内に知り合いが出来たことの方が嬉しかった。彼は当然ながら業界では大御所であるから、これまでの仕事での成功談をいろいろと聞いてみたかったのだが、彼は自分からは仕事で儲かった話は一切せず、雑談の中身は、もっぱら身近な家庭の問題であった。この不景気でテレビの仕事が減ってしまっているのに、ある番組でリベラル寄りな発言をしたら、週刊誌などで悪く書かれてしまって、余計に仕事が来なくなったとか、このマンションの水道から出てくる水が薬品臭くて困っているとか、娘さんの教育問題で嫁さんと口論になってしまい、しばらく別居しているのだとか、そういうジメジメとした空虚な話題が多かった。そういう話には相槌が打ちにくいので、こちらとしてはもう少し明るい話題が欲しかったが、彼は暗い話でも決して眉間に皺を寄せたり、舌打ちしたりせずに、明るい顔のままで伸び伸びとした口調で話すので長く会話を続けることはできた。
「あなたはアイディアはすぐに出る方?」
あるとき、彼から唐突にそう尋ねられた。返答に困ったが、自分は最初に生まれたアイデアを数年は大事に温めておいて、その間に頭の中でこねくりまわすタイプだったので、そのように説明すると、
「若いねえ、いや、僕のようなおじさんになると、悪い意味で仕事に緊張感が無くなって、つまり、他人の感情に対して鈍くなるんだよね。若い頃から長く付き合いのあった人でも、必要が無くなると、人間関係そのものをしばらく放って置いたりするから、突然、そういう人と再会しちゃって、その場で仕事の依頼を受けたりして、その時点では上の空だから、締め切りが近くなるまで何もしないで…、そして、ある日電話の呼び鈴が鳴り響く…、そこまで追い詰められてから、ようやく考えるようになるから、もう催促の電話が恐くて仕方ないのよ」
「いや、でも、あなたに仕事を廻してくれる人たちも、あなたのそういう人柄を最後は信じてくれているわけなので、きっと、これからも上手くいきますよ」
私は彼の悩みを聞くとき、最後はこういう言葉で締めくくることが多かった。

 実はここに引っ越してからの最初の二、三日の間に起きたことは、なぜだか、あまり覚えていないのだが、それはこのマンション内で通常ありえないようなおかしな現象が何も起きなかったからではなく、後に述べるようなことが、すでに起きていた可能性が高いのだが、おそらく、私が気がつかなかっただけなのだろう。引っ越し疲れで、毎晩深い眠りについていたから、というのもあるかもしれない。
 引っ越して来てから一週間経ったある夜、布団に入ってから数時間後、突然、頭上でドスンという衝撃音がして目が覚めた。それは明らかに、上階の部屋で、何か金属製の重い物が床に倒れ落ちたような音だった。私は跳ね起きて、廊下に飛び出した。髪の毛が逆立った寝起きの顔のままで呆然と上階を見上げていると、続いて、女性のギャーという金切り声が数回に渡って響いてきた。これはただ事ではないと思い、すぐに階段を駆け上がり、3階に向かった。私の細腕では、とても役に立てないほど深刻なことが起きているような気がしたが、ともかく、あんな音を聞いておきながら、何もしないでいるわけにはいかなかった。後で、警察官に、『自分の住むすぐ上の階で、こんなとんでもないことが起きていたのに、あなたがたは何も気づかなかったと言うんですか?』などと、叱責の言葉を受けるのもまっぴらごめんである。こんな時に悪い想像はしたくないが、今の声の音量だと、若い女性が夜中に侵入してきた何者かに襲われて重傷を負ったか、あるいはそれ以上の致命的な悲劇を思わせるようなものだった。
 ところが、3階フロアにたどり着いて辺りを見回しても、手摺り越しに地上を見下ろしても、なんらかの悲劇的な事故が起こった様子は全くなかった。フロアは無気味なほどしんと静まり返り、しばらく耳を澄ましていても、誰の話し声も聴こえなかった。腕時計を見るとすでに日付は変わっていた。ついさっき、あれだけの大きな声量が響き渡ったというのに、2階にも3階の廊下にも、誰も人間は出てこなかった。廊下の片隅には完全に枯れきったサボテンの鉢が一つ転がっていて、哀愁を誘っていた。もしかすると、浅い眠りがなせる悪い夢だったのかもしれないと、私は首を傾げながら2階に戻ってきた。だが、自分の部屋の中に入った途端、今度は自分の真上の辺りの廊下を数人の人間が猛スピードで駆け回っているような騒音が届いてきた。
 その人間たちは、「早くしろ! まだだ! まだわからんぞ!」などと、数回叫び声を上げながら、ダダダダと、普通の人は皆、寝静まるはずのこの時間帯の静寂を突き破ってしまうことを、全く意に介さない騒音と共に、3階から1階まで一気に階段を駆け降りていった。それが警察だったにせよ、救急隊員だったにしろ、私はやはり何か悪いことが起きたのだと考え、誰が襲われても、自分だけは巻き込まれてはなるまいと、慌ててドアに鍵をかけ、布団に潜り込んだ。心臓が高鳴ってしまい、なかなか寝付けず、時々布団から顔を出して、不安げに天井を見上げてみたが、先程のような大音量ではないものの、その後も数回に渡って、若い女性たちの声で、「やっぱり、まだまだよ!」「本当に大丈夫?」「実際は、あとどのくらいなの?」「今にも暴発しそう」などといった声の掛け合いが聴こえてきて不安感は拭えなかった。
 後日、ある人から聞いた話では、このマンション内部で深夜起きていれば、毎夜のように、こうした大音響を当たり前のように聴くことができるらしいのだが、実際のところ、これに慣れるまでにはかなりの時間がかかった。
 翌朝、目が覚めてから昨夜のことを思い出し、事の真相を知りたいと思ったのだが、この付近の住民にあまり知り合いがいないため、誰に連絡をとっていいかわからず、とりあえず散歩がてらに朝食を先に食べることにして、部屋を出た。
 すると、私が出るのと時を同じくして、隣の部屋のドアも開き、中から出て来た薄緑色の作業着姿の男性と目が合った。私は咄嗟に頭を下げ、実は先日引っ越してきたばかりです、と慌てて挨拶し、彼が隣の部屋に5年ほど前から住んでいて、近くにいる建設会社で測量の仕事をしている作業員であることと、毎朝、この時間に家を出て、会社まで自転車で通っていることなどを知った。彼は私より背が高く、髪をしっかりと整えていて、目は細く平凡な顔立ちだが、がっしりとした体つきだった。
 私はちんけなライターで、ここには高名な作家や漫画家が多く住んでいるそうだから、見習いのために引っ越してきたのだと、多少大袈裟に説明したところ、「そうでしたか、ここは昼も夜も業界の人が多く出入りしているから、付近の住民からは作家マンションなんて呼ばれているみたいですけどね」と、私の自己紹介を納得したように受け入れてくれた。
「ところで、昨晩のことなんですが、ちょうど、12時頃、上の階から助けを呼ぶような叫び声や、凄まじい騒音が聴こえませんでしたか? 私はその音が怖くて眠れなかったのですが…」
私は出会ったばかりの、この人に、さっそく本筋のその質問をぶつけてみた。しかし、男性は腕組みをして首を傾げ、私の尋ねることに、不思議そうな顔をするばかりで、納得のいく反応は得られなかった。
「いえ、私には何も聴こえませんでしたね。このマンションはあなたもそうですが、文筆業の方々ばかりが住んでいますから、やたらと体面を気にする人が多くてですね、なんというか、皆さんこそこそと生活なさっているから、夜中に、不謹慎なことをする人はいませんよ」
私はその説明を全く受け入れることができなかった。昨晩耳にした、地鳴りのような騒音や、断末魔の叫び声は今でもしっかりと耳に残っていたのである。しかし、この男性の冷静な語り口にも、嘘であるとは思えない現実感があったので、彼は昨晩、相当に疲れていて、何も聴こえなくなるほどによく寝ていたのだろう、という結論に達するしかなかった。
「それならばいいのですが、こんなご時世ですから、お仕事大変でしょうねえ。かなり、お忙しいのでは?」
すると、男性は余裕の笑みを浮かべ、手を横に振って私の牽制球のような探り文句を真っ向から否定した。
「そんなことはないですよ。のんびりと働ける会社です。この時間から夜の9時までですから、まあ世間一般の人から見れば多少忙しいのかもしれませんが、仕事はあればあるだけありがたいですし、何の不満もありませんね。給料は世間と比較して普通か、やや少ないかというところです」
「しかし、これ程の不景気ですし、私自身の先入観になりますが、建設業は相当苦しいと思っているのですが…」
「いやいや、そんなことは全くありません。みんな、笑顔で働いていますし、家庭持ちの人が多いですね。うちの社員は、口々に日々充実していると言いますね。セクハラなど論外ですが、いじめやパワハラも全くないですよ。環境が良くて居心地が良すぎるのか、短期間で辞める人がほとんどいませんので、あまり多く新入社員をとってあげられないのが残念と言えば残念ですが、それは仕方ないですね。そういえば、昨今の不景気で大学を卒業したての若い人は大変だそうですね」
今の世の中には、どんなに人が良さそうな顔をしていても、自分の内面を見せたくないばかりに、周囲の人間に対して、顔色一つ変えずに平然と嘘を突き通せる人間が多くなっていて、そのために悪の限りを尽くした詐欺行為が横行して、それに騙されて大金を失ってしまう人が多いのだと、テレビやラジオなどで報道されていて、当然知っているのだが、もしかすると、眼前のこの人も、被害者にせよ、加害者にせよ、その類ではないかと思うようになり、さらに色々と質問を投げかけたい衝動に駆られた。だが、彼は会話が一瞬途切れたことを幸いと、時計をちらりと見てから立ち去ろうとした。
「うちの会社は母体がうるさ型の民主団体なので、遅刻にはかなりうるさいんです。就業の前に健康体操などがありましてね。今度またお話しましょう。これで失礼します…」
男性はそう言って、私の質問を遮ると、そそくさと出かけていった。駐輪場から自転車を運び出す音がしっかり聴こえたので、これまでの話も嘘ではないらしい。いったい、昨晩のことに関して、彼の話と私の耳とどちらが間違っていたというのだろう。
 私はその男性が出ていくのを見届けると、自分も朝食に出かけた。時間のかからない簡単なものを食べてマンションまで戻ってくると、先日階段で出会った平田さんと、入り口のところでまた顔を合わせることとなった。彼はちょうど今、自動車でこのマンションに着いたところだった。私の姿を見ても、今回は全く驚いた様子はなく、右手をさっと上げて挨拶してくれた。
「昨晩、よく眠れた? うるさくなかった?」
いきなり、彼の方から釣り糸を投げてくれたので、その話題に餓えていた私は喜んで喰いつくことにした。
「ええ、すごい騒音だったんですよ。やはり、3階の住民には何かあるんですか?」
平田さんは、やっぱりねといった顔をしてうなづくと、少し時間があるからと言って、煙草に火をつけ、そのことを説明してくれた。
「おそらくね、ちょうどあなたの頭上の部屋になると思うんだけど、あの高名なミニー鈴又先生が住んでるのですよ…」
「ああ…、お名前は存じています。ファッション雑誌なんかに小さめのかわいいイラストを掲載している方ですよね?」
「いやいや、ゲームやパソコン雑誌、それと少女漫画も書いているけど、高名と言ったのは画家として有名ということじゃなくて、彼女は多忙過ぎるんだよね…。なぜか出版社から仕事を頼まれると、どんなに小さなくだらない仕事でも断れないらしくて、自分で片付けられないほど大量に依頼を引き受けてしまうから、アシスタントを何人雇っても、期日寸前まで仕事が終わらないの。まあ、15雑誌くらいにイラストを描いているから、日曜以外は、ほぼ毎日のように何らかの仕事の〆切りが来るわけだからね」
「それで、昨晩のあの騒動だったわけですね?」
「うん、毎晩毎晩大変らしいよ。まあ、最近では、ああいう騒動できちんと驚いてくれるのは、あなたのように引っ越して来たばかりの人だけで、マンション内部ではかなり貴重なんだけど、多くの人は…、例えば、農家の人が早朝に自分の庭でニワトリが大音量で鳴き声をあげるのを聞いたとしても、それを生活の中の当たり前のこととして、意に介さないように、ミニー先生の騒動も、いつの間にやら気にしなくなってしまったんだよね…。まあ、それにこのマンションでああいう騒ぎを引き起こすのは、何もミニー先生だけではないしね…」
「やはり、そういう事実があるんですね…。先ほど、隣の住民に尋ねてみたんですが、昨晩は何も聞かなかったって言い張るんですよ…。これは変だなと思いまして…」
「慣れなんだよね…。うちの田舎も山間のかなり奥まったところにあるんだけど、甥っ子なんかが都会から遊びに来ると、夜中にカエルの鳴き声がうるさくて眠れないって言うんだよね。私らなんかはさ、あれがもう子守唄代わりになっちゃってるから、全く気にならないというか、逆に心地いいくらいなんだけどね。このマンションの住民もきっとそういうことだと思うよ。あなたも心地よく暮らしたいと思ったら、早くこの環境に慣れることだね」
平田さんはそうアドバイスをして階段を上がっていった。彼の後ろ姿を見送ってから、私はいくらか納得して自分の部屋に戻った。

 このマンションの住民の生態や施設などの特徴について、二、三書き忘れていたことがあったので、ここで補足しておいたほうがよいだろう。一つは建物の構造についてだが、これは1970年代前半の建築物全てに言えるのかもしれないが、マンションの壁がすべてコンクリート造りなために、冬場や夜間は、かなり冷える上に、物音や人の発する声がやたらと遠くまで響くのである。先日の深夜起きたような大騒ぎが3階の廊下で発生すると、2階の善良な住民たちの部屋を天井から貫通してしまい、1階のロビーにまで響き渡ることとなる。
 次は住民についてだが、数週間に渡る、決して不正を伴わない個人的な調査によって、一部例外はあったものの、ここに住んでいるほとんどの人間の職業が明らかになってしまうと、やはり、住民のほとんどは言わずもがな、執筆業の人間であった。さらに細かく分けると、新聞雑誌記者・作家・コラムニスト・漫画家・イラストレーターなどだが、ここに住むすべての人間が持ち合わせている特徴として、同業者同士での挨拶や日常会話をほとんどしないことが挙げられる。なぜか、皆さん自分と同業の人間をわざと避けているように見受けられるのだ。例え、廊下で自分と同じ雑誌に書いている作家と出会ったとしても、顔を強張らせ、よそよそしい挨拶をして、後は何も言葉を交わすことなくすれ違うだけである。
 このマンションの2階には小説家や記者が多く住居を構えており、3階は主に漫画家の住家であり、一部彼らの専属アシスタントが数人で借りている部屋もある。4階は経済・雑誌のコラムニストや評論家が多く住んでいるのだが、この方たちは、部屋に篭りがちで出歩く姿がほとんど見受けられないため、ここに移ってきてから数ヶ月が経過した今も、素性はよくわかっていない。
 最近になると、私も夕方の散歩がてらに各フロアの喫煙ルームを練り歩くようになり、その時々に、どのフロアやロビーでも住民同士の会話風景を見ることになるのだが、例えば、子猫を主役として、ほのぼのとした絵を描いて女子学生に人気を博している漫画家と、外圧に決して屈しない強固な国防論を主張する文芸雑誌のコラムニストが、なぜか一緒にクッキーを食べ、笑いながら話していたり、常に生命の危険と隣り合わせの冬山登山を生業とする写真家と、高校生の青春恋愛ものを描く少女漫画家が一緒にベンチに腰掛け、煙草を吸いながら他愛もない話をしていたりで、会話の相手の職種に一貫性がないのである。こうしたいくつかの事例を検証した結果、自分が心血を注ぎ、苦労して書いた作品をいずれ公表する立場の職業に就いている人間には、自分と同じ分野の人間を避ける何か後ろめたい本能が必ずあるのだと、とりあえずの推論をたてることにしてみた。私はこれは理にかなった仮説であると思う。なぜなら、かくいう私も、自分と同業の作家と会うのは、地位や財産の比較の面で肩身の狭い思いがあり、何かと気が引けるからである。だが、ここに住むほとんどの人間の内面に、私とまったく同じ感情が芽生えているとは考えにくいので、それぞれが何らかの別々の意図によって同業者を避けていると考えるべきだろう。
 もう一つの特徴は住民の活動時間についてであるが、ご想像の通り、朝は無人のごとく静かである。編集者に罵詈雑言浴びせられ、追い回され、必死に原稿を仕上げた過酷な仕事明けで、早朝は頭を鋼鉄製のハンマーで叩かれても覚めないような深い眠りについている人がほとんどであろう。ここの住民が普段の生活を取り戻すのは、主に深夜であり、その動き始めはというと、夕方でもまだ早いくらいである。近所に住む一般の人が子供を寝かしつけ、町内会の火の用心が大声を張り上げて近くの通りを行き過ぎ、日付が変わるか変わらないかになってようやく、このマンションでは最も多くの人間が激しく活動的に動き回るようになるのだ。この辺りはハムスターの生態と酷似しているかもしれない。読者がこのような情報を得ても、何の足しにもならないことを承知の上で、このマンションの特徴をいくつか挙げてみた。

 このような情報が出揃ってきたのは、このマンションに移ってきてから二ヶ月ほど経過してからであるが、ちょうどその頃、私の耳に驚くべき情報がもたらされた。何と、私が敬愛してやまない、あの、人気漫画家の袴田天平先生が、私と同じこのマンションに住んでいるというのである。この情報は隣の部屋に住んでいる、あの謎の多い測量士が何気なく教えてくれたのだが、漫画やアニメに興味のない人間にとっては、これはたいした問題ではないらしく、彼も自分が今私に伝えたことが、それほど重要なことだとは夢にも思わなかったらしい。ここは作家マンションであるし、世間で注目される有名作家が住んでいても、別段驚きには値しないのかもしれないが、袴田先生といえば、言わずと知れた『封印都市アルカリデウス』の作者であり、この作品は数年前に若者向け雑誌に掲載されるやいなや、書店から、彼の作品の関連雑誌が軒並み消え失せるほどの大ヒットとなり、その後、アニメ化、映画化と続き、彼はあっという間にスターダムにのし上がり、時の人になってしまった。その後、テレビで彼の作品が取り上げられない日はなかった。道を歩く若者は皆、この漫画関連のキャラクターグッズを身につけて歩き、海外のメディアでも、日本の社会現象として、大きく取り上げられたことがある。作者自身はマスメディアが苦手らしく、雑誌やテレビに顔写真を掲載されることがほとんどないので、幸いなことに熱狂的なファンに追い回されることもなく、日常生活を送るに支障はないようだが、読書好きな若者の視点で言えば、袴田先生は日本一の有名人といっても差し支えはないほどの方なのだ。
 そうか、思えば、立場は全く違うが、私と同じ出版社から本を出しているわけだから、その管理下にある、このマンションに住んでいても一向に不思議ではないのだが、まさか、袴田先生ともあろうお方が、高度経済成長期の遺物というか、昭和リアリズムの象徴とも言える、こんなマンションに住んでおられるとは、思ってもみなかったのである。あれだけ本を売りさばいておられる人だから、私はてっきり、印税生活を満喫し、高級住宅街に住居を構えておられるのだろうと、勝手な想像してしまっていた。卓越した才能と、先の尖った鉛筆、そして口に含む僅かの飲料さえあれば、芸術はどんなむさ苦しい部屋でも描けるのだという、近代芸術家たちが築き上げた創作理論の基礎を、私はすっかり忘れてしまっていたのである。
 私はもちろん彼に出会いたい思いに強く駆られた。私も数年前に自分のアパートの壁に先生のお作品のキャラクターポスターを貼っていたこともあり、アルカリメゾンが発表されてからの私の生き方や、友人宛てに発した文句や文章などは、全て先生の作品の登場人物の生き方になぞらえたものである。私の精神世界で先生の影響を受けていない部分は全く存在しないと言ってもいいのである。
 ところが、この完全無欠と思われる袴田先生にも大きな弱点がある。まあ、この性質の弱点というものは執筆業の人間の業と言えるものであるから、私ごときが袴田先生の仕事ぶりについて、とやかくいう権利は全くないのであるが、先生の熱狂的なファンに批判されてしまうことを承知で書いてしまえば、彼は恐ろしいほどの遅筆なのである。最初は週刊誌で順調に掲載されていたアルカリメゾンであるが、いつからか一般の読者には公表できない理由によって隔週連載に変更となり、さらに、漫画好きな読者諸兄がよく目にすることがある『作者取材のため〜』という文句が目立って巻末に載るようになり、前号の予告にはあったはずの先生の作品が掲載されていない号も多く見受けられるようになってしまい、ついには、まったく趣のことなる月刊の青年雑誌へと、作品ごと移られることになってしまったのである。その後も、先生の気まぐれにより、これでもか、これでもか、と病気休載や取材のための休載が続き、最初の頃は一年に一冊は必ず刊行されていた単行本の発売間隔は、今や夏季オリンピックと同じ間隔にまで伸びてしまい、せっかく、待ちに待った先生の新刊が発売されるに至っても、読者は前刊の結末がどういう内容であったかを覚えていない始末である。
 普通の作家であれば、こんな事態が続けば、2年も持たずに業界から干されてしまい、一人寂しく郷里に帰る羽目になるのだが、そこは日本一の大作家である。キャラクターグッズの売れ行きや前述の映画・アニメの大ヒットで、出版社やアニメの製作会社はいまだに大儲け。アルカリメゾンは本筋がまったく進んでいないにも関わらず、読者やマスコミは憶測で勝手なストーリーを構築し、自分たちだけの楽しみ方を見つけるようになっていった。発表から10年以上経過した今も、その人気には全く陰りはないのである。それどころか、年月が経つごとに、アニメの再放送や中古の本、また新作映画などを見てファンになる若い層が増え、いまだに新たなファンを獲得し続けているのである。袴田先生もすでにデビューから15年が経ってしまったが、時の人から伝説の人へと称号を変えて、今でも私たちファンの心に大きな柱として存在しているのである。
 菓子折りでも持って今すぐにでも挨拶に出向きたいところなのだが、いきなり見知らぬライターに訪ねて来られても迷惑だろうし、私は勢いがなかなかつかず、怖じけづいて部屋の中を行ったり来たりした。そんな時、タイミングよく、例の友人の編集者が引っ越し後の生活について知りたいと、電話をかけてよこしたのである。彼は私の前ではでかい態度を取るが、家を改築したとか、出世したとかいう話も全く聞かないため、出版社の内部でどんな地位にあるのかはわからないが、ここは、このマンションを薦めてくれた友人に、袴田先生の実情を聞いてみることにした。彼は相変わらず忙しそうな振りをしながら私の質問に答えてくれた。
「そんなにあの漫画が好きなら、会いに行ってみたらどうだい? 君も同業なんだし、本人もそんなに悪い顔はしないと思うよ。袴田先生は3階の4号室だよ。ミニー先生の部屋のお隣だから、両先生の仕事のお邪魔にならないようにな」
電話の向こうから、そんなそっけない返事が戻ってきて、こちらが返事を考えている間に彼はいつものように自分勝手なタイミングで電話を切ってしまった。編集者から会いに行けと言われたのだから、それだけでも、ある程度の口実にはなるし、すでに時計は昼をまわっていた。この時間なら先生も休憩がてら、少しはお時間を割いてくれるかもしれない。私は恐る恐る階段を昇って3階に向かった。
 袴田先生のお部屋の前に到着したものの、当然のことながら、長年憧れてきた人との、これが最初の出会いであり、あまりの緊張で何も考えられず、胸が激しく躍った。しばらく、呼び鈴を押すことができず、いつ押そうかと、そのタイミングを考えながら、うろうろとドアの前を歩いていた。いっそのこと、彼の方から何らかの用事で出て来てくれる方が、憧れとの出会いという場面には好ましいのだが、向こうも引きこもっての仕事だけに、いつ起こるともわからない、そういう偶然を期待するわけにも行かなかった。
 すると、不意に私の背中の方でドアが開く音が聞こえ、隣の部屋から白いコートを羽織って、帽子を深く被った中年女性が姿を現した。私は袴田先生の扉を注視していたので、彼女の方を一瞬しか見ることはできなかった。不自然にならないよう、横目でちらりと容姿を確認しただけだったので、詳しい外見をここに書くことはできないのだが、顔はぶ厚い化粧で真っ白であり、頬はすっかりこけていて顔のあちこちに深い皺があり、一見して50台くらいの苦労人の女性に見えた。しかも、栄養不足なのか、ガリガリにやせ細っていて、まるで江戸時代の怪談にでてくる皿割り女の幽霊のようだった。
 私はこの時はもちろん、袴田先生とお会いすることしか考えていなかったから、失敬な話、彼女がどんな行動を取っていようと、さして興味もなく、そのため、覚えてもいないのだが、彼女はそのとき何を思ったのか、ドアから一歩外に出たところで立ち止まり、一度玄関の方を振り返って、自らの部屋の中にいる誰かに向かって、「作っておいて! いつものやつ! 言ってることわかる? 帰って来るまでに確実に作っておいて! ニンニク汁と唐辛子入れたやつね! 帰ったらためらいなく飲み干してみせるから! それと、もし電話が来たら、相手は誰でもいいから、下痢をして今はトイレだって言っておいて!」などと、数回怒鳴り声を発してから、ハイヒールの音を響かせて、結局は私の方を一度も振り向くことはなく、タタタっとエレベーターの方に走り去っていった。後からよく考えてみれば、この女性こそ、あのミニー鈴又先生なのだが、この時は心が別のことに働いていて、気がつかなかったのである。彼女とも初対面であるから、本来ならば、挨拶の一つもしなければならないところだったのに。
 自分の部屋があるフロアでもないのに、いつまでも、この辺りをうろうろとしていても怪しまれてしまうだけなので、意を決して私は先生の部屋の呼び鈴を押した。中から声はしなかったが、床の上をひたひたと歩く足音が聞こえ、ドアの隙間から顔を出したのは、真っ青のニット帽子を被った気弱そうな青年だった。自分で袴田ですと名乗ったので、間違いなくこの方が袴田天平先生なのだが、私の想像していた豪壮なお顔と掛け離れていて、たいそう驚いて反応が遅れてしまった。漫画の読者というのは、作家を登場人物のキャラクターの風貌でしかイメージしていないから、いざこういう場面で本人に出会うと、面食らうことが多いと思われる。袴田先生はひどく痩せていて、無調ヒゲを生やした浪人中の学生のようにさえ見えた。私よりもだいぶ年配のはずだが、威厳を感じない風貌のせいか、ずいぶん若く見えた。アルカリメゾンの主人公は立派な口髭を蓄えた金髪のアメリカ産の大男で、両手斧をブンブンと振り回して、迫り来る敵を薙ぎ払うのだが、このか弱い容姿の作者の姿とは似ても似つかなかった。私は先ほどのミニー先生の怒鳴り声に感化されてしまったのか、幾分強気になっていたので、さほど緊張することもなく、初めまして、下の階に引っ越して来た者です、と軽い静かな口調で挨拶することができた。
「そうでしたか…、ライターの方で、この業界の勉強のために、わざわざここにお引越しをね…」
袴田先生は私の話を良く聞いてくれて、感心したように優しいお顔でうなづいてくれた。大先生がこんな現実的な建物に住んでいらっしゃるとは思いませんでした、と震える声で伝えると、この付近の雑多な町並みと、名誉や地位を余り気にしない人間関係が気に入っているのです、と答えてくださった。
「先生には膨大な数のファンがおられるでしょうから、いろんな方から同じようなことを言われているでしょうし、今更こんなことを言われても気が滅入るばかりでしょうが、私は学生の頃から、先生の作品の大ファンなんです。お会いできて大変な光栄です」
私が頭を深く下げながらそう言うと、先生も満足そうに大きく頷かれて、「いやはや、メディアが私の作品についてあそこまで騒ぎ立ててしまい、テレビや雑誌で大きな特集を何度も組んでしまって、自分勝手に深くまで掘り下げてしまうと、すでに世間では作品が一人歩きしてしまっているんですよね。つまり、私の手を離れてしまった印象すらあるんです。今さら、私が作品の今後の情報を何か言ったところで、ファンの方に信じてもらえるのかどうかも疑わしいものです。それでも、頭の中で勝手に暴れてくれる登場キャラたちや、熱狂的なファンの方の声援に後押しされて、やっとここまで頑張って来れましたけどね」と、照れながら返事をしてくださった。自分のファンがここを訪れた時用の台本通りのお答えとは言え、私はすっかり嬉しくなった。
「先生の作品に出てくるジャガー三木本の『人間はどんなに偉ぶっていても、いずれ勘違いをする。だから、今おまえが考えていることもおそらく勘違いだ』という台詞が大好きで、大学生の頃に何度も繰り返して読んだのですが、今でもしっかり覚えているんですよ。私はあのキャラの主義主張に沿って生きてきたようなところもあって、あの作品は今でも私の人生のバイブルなんです」
「その台詞に対して、主人公が『では、おまえの存在自体も神様の勘違いだな』って答えるんですよね。その後、二人はこれまでの怨みを忘れてきちんと和解をして、やがて最後まで一緒に戦い抜く戦友になっていくわけですが、あの場面は締め切りに追いまくられながら、徹夜で必死の思いで描いたからよく覚えてますよ」
「そういう熱い場面をポンポンとハイペースで描かなければならないわけですから、言うまでもなく、大変なお仕事ですよね」
私は読者を待たせっぱなしの袴田さんの、多少の悔恨の言葉が聞きたくてそう言ったのだが、先生にはうまく伝わらず、作家業の宿命や本当に持ち合わせなければならない精神面の話になってしまった。
「僕らは、大工さんや料理人さんではないですから、スケジュールやお客さんの要望通りに仕事をこなす必然性は低いと考えています。決まった時間通りに美術の作品が仕上がるのは中学生の授業まででね、実際は作品の仕上がりスピードには自分の心の波長が強く作用するから、うまくピークが来なければ、思い通りの時間には仕上がらないことも多いんですよ。もちろん、その内容だって、最初に思っていたストーリーと全然違っていたりするし、その当初との食い違いみたいなものを、一見して戸惑いつつも楽しむ心も大切だったりするんですよね。必ず図面通りに自分の作品が出来上がっていく人が、もしこの世界にいるとすれば、私はその人は芸術家ではないと思いますね」
「なるほど、では、アルカリメゾンも先生の心の中で思わぬ方向へ成長したり、今後も意図しない方向にストーリーが変貌を遂げたりしていくわけですね。今後も期待させていただきます」
私は当たり障りなくそのような答えを作り上げた。咄嗟に考えた返答にしては出来は良かったと思う。
「ところで、あなたは出身はどの辺りなんですか?」
先生の方からそう尋ねてこられたときに、突然、部屋の奥の方から大声が響いてきた。
「おい! 何をそんなに長く話すことがあるんだ? さっさと仕事に戻れよ!」
その筋の職業の方ではないかと思うほど、ドスの効いた声で、一度聴いただけで私は震え上がってしまった。
「ああ、はいはい、ちょっと待って…」
袴田先生は一度部屋の内部を振り返って少し怯えたような声でそのような返答をなさった。
「出身地ですか? 私は富山なんです…」
「ああ、そうでしたか…、海がきれいなところですよね? 一度行ってみたいです…。お話はまた今度でよろしいですか? また、遊びに来てくださいね…」
袴田先生は声を震わせながらそう言って礼をすると、ゆっくりとドアを閉められた。私は先ほどの怒鳴り声に生気を奪われてしまって、最後は上手く挨拶もできずに別れることになってしまったのだが、それよりも気になったのは、あの質問に対して、自分はなぜ富山出身などと答えてしまったのかということだ。私は千葉県出身で富山とは縁もゆかりもない人間なのだが、怒鳴り声に呼吸を止められた時に記憶が全て飛んでしまい、とんでもない嘘をついてしまった。長年生きてきたが、本来は終生穏やかであるはずの、私のような人間の心理に、あるとき突然こんな高波が起こるとは思いもしなかった。
 さて、部屋の中から怒鳴ったあの男は何者なのであろうか? 袴田先生を呼び捨てにしていたが、とても肉親とは思えないので、どこかのたちの悪い編集者か、あるいは何らかの因果関係を持った他の業界人かもしれないと、その時は思うことにした。私は憧れの人に会えた高揚感と、関係のない人に怒鳴られた屈辱感から、ひどく動揺してしまい、顔が燃えるように熱くなり、逃げ去るように3階を後にした。

 その夜はいつになく長い夜になった。普段のように10時頃には執筆の仕事を終え、寝酒を軽く飲んで布団を敷き、疲れていたのですぐに横になった。ここまでは普段通りに進んだ。だがこの夜は、この2階フロアのどこからか何度となく響いてくる歓喜とも絶叫ともとれる大きな叫び声に悩まされ、なかなか眠つけなかった。
 実はこれは初めてのことではなく、引っ越ししたての頃から、頻繁にこれと同じような騒ぎ声が聞こえてきていたのだが、何度かよく聴いてみると、何かスポーツ番組を見て熱狂しているかのような声だったので、これまではさほど問題視していなかった。だが、なぜか火曜日と金曜日の深夜だけは必ずと言っていいほど、この狂ったように叫ぶ声が聴こえてくるので、週末ぐらいはゆっくり休みたいと願っている私としては、いい加減、精神的に堪えるようになってきた。そろそろ真相を解明する時期が来たのかもしれない。考えてみれば、この階は雑誌記者が多く住んでいるので、スポーツを見て、人並み以上に興奮してしまう人間が住んでいたとしても、まるで不思議はなかった。彼等にとってみれば、テレビでスポーツ観戦をすることは仕事の一環でもあるわけで。しかも、そうやって自分の精神状態を興奮の極みにまで一気に引き上げながら、スポーツ雑誌の提灯記事を書いているのかもしれない。そういうことであれば、こちらからクレームをつけることは、彼の仕事の邪魔にもなりかねない。どうしたものだろうか。
 私は一度布団から出て身を起こし、新聞のテレビ欄を開いた。案の定、今夜は10時から外国のサッカー中継がやっていたのだ。サッカーとは厄介だ。90分という長い試合の中で、野球や相撲よりも興奮する場面が多く訪れるからだ。国民の一番多くが、その動向に注目しているスポーツでもある。私はしばらくの間、この階のどこかで絶叫している男性が見ているのと同じと思われるチャンネルをしばらく見ていることにした。すると、画面の中で赤いユニホームを着たブラジル人の選手が、鋭いドリブルで敵陣内まで持ち込み、相手のチームのディフェンスを二人も交わして、そのまま低弾道の素晴らしいシュートを決めた。これは素晴らしいプレイだ。私も思わず絶叫したくなったが、そこはぐっと抑えて、すぐに入り口のドアを開いて廊下に飛び出て、フロアの奥の方を見据えながら耳を澄ましてみた。ところが、この階のどこからも先ほどのような大声は聴こえてこなかった。おかしい、あんなにいい場面だったのに…。いつものように狂おしい叫び声をあげるには絶好のタイミングであったはずだ。もしかすると、先ほどの絶叫者は仕事に疲れてテレビを付けたまま、すでに寝てしまったのだろうか? それとも自分が応援していたのと別のチームの側がゴールを決めたので、今は肩を落としてがっくりしているのだろうか? この時点では何も疑問は解決せず残ってしまったが、試合内容もなかなか面白かったので、私はそのままテレビを見続けることにした。
 しばらくすると、先ほど点数を入れた赤いユニホームの方のチームにまたチャンスが訪れていた。今度はブラジル人からのロングパスをペナルティーエリア内でオランダ人が胸でトラップすると、そのまま胸のすくような弾丸シュートを放ったのだが、これは惜しくもゴールの左側へ逸れていってしまい、得点にはならなかった。はずなのだが、その瞬間、「なんでだよおー!」という絶叫が壁を何枚も貫通して響いてきた。やっと来たかと思い、私はすぐにドアを押し開けて廊下に飛び出した。すると、今度は「おまえ、それはひどいよ! 何度やれば! なんてことだあ!」と同じ人間の大声が何度も聴こえてきた。それらは、ほとんど、理不尽な騒音に悩まされ続けている私の方が言いたい台詞なのだが、叫び声は三部屋ほど奥にある赤いドアの部屋から聴こえてきたように思えた。あの部屋には熱狂的なスポーツライターが住んでいるのかと、私は推測して、ある程度の満足感を持って、何も言わずに部屋に戻ってきた。いろいろ言いたいことはあるのだが、スポーツ番組に熱中して、つい大声を出してしまうということは、世間の一般家庭でもあることだし、たまたま、音が響きやすいこの建物に住んでいるからといって、その人にとっては、選手のスーパープレイを見ることが無類の幸せの瞬間である。それが周囲の人間の戒めによって制限されることがあってはならないとも思ったからだ。私だって、これからどのような迷惑を周りの住民にかけてしまうかわからないわけだから、うるさい! と怒鳴りたいところをあえて我慢して、相手に貸しを一つ作る思いで今回は黙って引き下がることにした。もし、あまりにも目に余るようになってきたら、それはその時に対応しようと思った。
 その後、しばらく同じサッカー番組を見ていてわかったことは、その絶叫者は試合でどちらのチームが押しているかということにはあまり興味がないようで、どちらがチャンスを作っても点数を入れても、さほど目立った動きを見せなかった。しかし、先ほどチャンスを作ったオランダ人がボールを持つとやたらと興奮するようで、オランダ人が画面の中で何か行動を起こすたびに、何度も何度も聞き取れないほどの奇声を発していた。彼は単にこのプレーヤーが好きなだけなのか、それともオランダ人プレーヤー全員が好きなのか、それともオランダ人以外のプレーヤーが嫌いなのか、それともオランダという国家そのものが好きなのか、あるいは絶叫者はそもそもオランダ人なのか、結局はこのどれかには当て嵌まるのだろうが、予想してみたところで、それは憶測の粋を出ず、今夜のところはそれ以上踏み込むことはできなかった。サッカーの試合が終了し、番組が終わると、再び辺りは静まり返った。私は安心して再び布団に入って目を閉じた。
 どのくらいの時間が経過しただろうか、今度は廊下で誰かが口論しているような声が響いてきた。どうやら、二人で話しているようだが、最初は落ち着いていたその会話は次第にヒートアップしてきた。
「だって…、何度も何度も約束したじゃないですか…! 期日は金曜日だって! それなのになんで連絡もくれないんですか? ……あなた、電話だって……ってないし、こっちだって、こんな……になってしまったら、もう、どうしていいかわからないじゃないですか!」
「謝らなくていいです! ……なんで…、いいから…、頭を…になる……、下げないでくださいよ!」
今度は先ほどのスポーツによる絶叫よりも遠い場所で戦いが行われているらしく、聞き取れない部分も多いのだが、これはおそらく編集者と執筆者の締め切り間際のやり取りで、私にしても身近な問題であり、いたたまれない心境にもなるのだが、あまりに必死な口論なので、両者とも相当時間に追い詰められていることはわかった。
「なぜなんですか? なぜ…、何度もこういうことを…」
編集者とおぼしき男性はすでに涙声になっていて、自分が担当している自堕落な作家に対しての必死の説得が続いていた。同じ職業に就いている私からすれば、何が起こっているかを推測するのは簡単で、おそらく、作家の方は、かなり煮詰まってしまったから、今から期日に間に合わせるのはすでに無理だと申告しているのだろが、編集者は印刷日程の関係で簡単には引き下がらず、泣き落としにかかっているのだろう。作家側の男性の声は暗くて落ち着いているため、なかなか響いてこないが、「ですから何度も……で言いますけど、もう少し色校の日を…、そこをなんとか…」などと、謝っているようにも、うまく言いくるめようと、言い訳を繰り返しているようにも聞こえた。私はどんな状況なのか、すっかり興味深くなり、眠気がとれて意識がしっかりしてくると、布団から再び這い出してドアの外へ顔を出してみた。すると、おかしいことに、隣の部屋の赤いドアも開いていて、例の測量士の方が顔を出していた。彼も現在進行中のこの問題にえらく興味があるらしい。朝が早いから、時間的にはすでに寝入っているはずの彼に出会うとは、かなり意外な気がした。まあ、怒鳴り声と違って泣き声というものは様々な憶測や想像をかきたてられるものである。
「とにかく、早く誠意を見せてくださいよ! 一緒に死ぬ思いになって、今夜中に決着をつけましょうよ! このまま時間だけが経てば、今日が、あなたと私の人生の曲がり角になっちゃいますよ!」
さすがに廊下まで出てくると、編集者の大声ははっきりとここまで聴こえてくるようになった。騒動は私の部屋から4つ先の青いドアの部屋で起こっているらしい。先ほどの絶叫サッカーの一つ向こう側である。その部屋のドアが半開きになっていたので、ドアの影に隠れてしまって当事者たちの姿までは見えなかった。隣の部屋の測量士さんも少し楽しそうに首を伸ばしてその様子を伺っていたが、ふと、後にいた私に気がつき、慌てて会釈した。私も唇に人差し指をあてて、声を出さないように一緒に笑った。周囲の部屋の迷惑になっていることを薄々と気づいてきたのか、あるいは気恥ずかしくなってきたのか、二人の論争も少しずつテンションが落ちてきて、結局は大団円を迎えそうな雰囲気も、多少は感じられるようになってきた。
 そんなとき、事件が起こっている部屋の一つ手前の赤いドアが開いて、コピーライターの江尻さんがひょいと顔を出した。彼はすぐにこちらに気づいて、我々二人に向かって、「この騒ぎは僕のせいじゃないよ」とでも言いたげに手を振って見せた。彼もずいぶんと楽しそうで手で口を塞いで笑いを噛み殺していた。このような修羅場に慣れているマンションの住民にとっても、今夜の騒ぎはなかなかのお祭りのようである。
「じゃあ、そういうことでしたら…、もう一度、外で相談しましょうよ…。今からでも、何か糸口が見つかるかもしれない…」
その決着とも思える声で気づいたのだが、泣きを入れていた編集者は平田さんだった。マンション内でも会社内でも、いつもは静かにしている人だから、あんなに凄い声を出して悲哀を演じられる人だとは思ってもみなかった。平田さんと加害者のライターさんは、どうやら外の喫茶店で企画の日程を練り直すことにしたらしく、二人揃ってドアの外に姿を見せると、我々の方に向かって歩んできた。我々三人が慌ててドアを閉め、部屋に引きこもったのは言うまでもないだろう。彼らが通り過ぎてしまうと、我らは再びドアの外へ顔を出し、お互いの顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「いやあ、なかなかいいよね、ああいうやり取りは」
江尻さんが始めにそう言って不謹慎に笑ってみせた。
「私たちも人事ではないですよ。いつ、加害者側にまわるかわからない人間ですからね」
私がそう言うと、不思議と笑いが込み上げてきて三人で大笑いした。
「人間あのぐらい熱くなる瞬間があってもいいんですよ」
測量さんも満足げにそう言って笑った。こんな夜は簡単には眠れそうになかったので、私は二人を自分の部屋に招き入れてもうしばらく話すことにした。
「あの赤いドアは江尻さんの部屋だったんですね。さっき、あの辺りで絶叫している人がいたんですけど、江尻さんはあんな声出しませんよね…?」
二人を部屋に入れてしまうと、私はすぐにその一件を思い出して言った。
「ああ、あの声のことね…、何かを応援しているような大きな声が確かに聴こえたね…。言うまでもないけど、あれは僕じゃないよ。もっと奥の部屋の住民だと思うけどね…」
江尻さんはそう釈明した。
「奥の部屋には名うてのスポーツライターさんが住んでいるんですかね?」
「さあ…、奥の二つの部屋は引っ越し作業を見ることが多くて、最近だけでも何度も住民が入れ替わっているから、職業はわからないな…。ただ記者じゃないかもしれないよ。かなり酒に酔ってる声だったからね」
「そうですね…、あれは相当酒が入った声でしたよ」
測量士さんも、すかさずそう相槌を打った。
「私はスポーツ観戦に夢中なオランダ好きな記者さんが住んでいると思い込んでいたのですが…、そうですか、ただの酔っ払いの騒ぎだったのかなあ…」
私はそこで会話を一端切り、冷蔵庫からビール缶を出してきて、二人にうやうやしく手渡した。
「おいおい、僕はまだ仕事中なんだよ。この時間から飲めっていうの?」
江尻さんは顔をしわくちゃにして笑い、楽しそうにそう言うと、一番先に缶蓋を引き開けた。
「しかし、あなたはひどいですよ…。こういう騒ぎを一度も体験したことがないって、はっきりと言ってたじゃないですか…。今夜はドアの影からしっかり様子を伺ってましたよね? やっぱり、こういうことがあるって、知ってたんですね?」
私は酒の勢いもあって、隣に座布団を敷いて座っている測量さんに食ってかかった。
「いえいえ、あの時の会話は、そういう意味ではなかったはずですよ。だいたい、今夜の騒ぎだって、どこにもある普通のマンションにだって起こりそうなものだし、作家はこの国のどこにでも住んでいますからね…。私の故郷は雪深い東北の山形なんです。ご存知の通り、山と川ばかりで、町から少し離れるだけで民家がほとんどなくなるような地方ですけど、そこにもいい文章を書く作家さんが多く住んでいるんですよ…。都会の中心にいて、このくらいの騒ぎで…、あなたね、いちいち驚いてたらだめですよ。だいたいね、改札で乗客の切符の回収すら行わないような田舎の駅員は、汽車が鳴らす大音量の警笛でね、いちいち跳ね上がって驚いたりしないでしょう? あと…、他に例えて言うならなんだろ…? ああ、動物園の飼育係だってそうですよ。象や猿の糞が臭い臭いと、いちいち文句をつけていたら、あんな仕事はね…、とてもできないんですよ。わかります? 他人は嫌がることかもしれないが、自分はそれが好きだからやっているというか、職業病ってやつですよ…。私は建設現場で働いていますが、ここへ住んでいる以上は、心はすでにライターでもあるわけですよ。何しろ、毎夜、想像と時間と編集の戦いである、あのような大音響を聞かせてもらっているわけですからね…」
彼は目をすっかり充血させながら、私をうまく丸め込もうとするかのように熱く語った。江尻さんもそれに大きく頷いた。二人がもうすでにかなり酔っていることは言うまでもない。
「動物園の飼育係って…、いいよねえ、いや、僕自身はその仕事に夢があるとは思わないんだけど、追いかける人は徹底的だからね…。実は僕が昔バイトに勤めていた頃に好きだった女の子がね、ある日突然、『日本なんてもうだめでしょ?』 って言い出してね…。まあ、おそらく当時は未曾有の大不況時だったから、日本全体が少し落ち込んでいた時期だったし、他の人にも学校にも、企業団体にも、何物にもすがれないような喪失感もあったんだろうね…。彼女はある意味で、日本社会に絶望してしまったらしいんだけど、日本を飛び出してアメリカで動物の飼育係をやりたいなんて言い出してね。なんで、アメリカを挙げたのかは、今でもさっぱりわからないんだけど、こんな世の中だからこそ、この国で堅実に生きろって僕は引き止めたんだよ。もちろん、行って欲しくなかったしね。だけど、彼女はどうしても日本を出るって聞かないわけよ…」
「青年時代の話ですよね? じゃあ、その娘と付き合ってたんですか?」
僕が酔った勢いで興味津々で横槍を入れると江尻さんは右手の甲を差し出して僕を制した。
「まあ、聞いてくれよ…。これはいい話なんだよ…。それでさ、彼女の話が本当なら、これが今生の別れになるわけだから、僕も必死になって彼女に告白したわけだよ。君とは別れたくない…! 運命の人だからって言ってね。だけどね…、次の日に彼女はなぜか自分の姉さんをバイトの職場まで連れてきてね。決断を他人任せにした理由もさっぱりわからないんだけど…。そのお姉さんが僕の顔を一目見るなり、『この男はダメ!』って彼女に向けて怒鳴ったのよ…。こんな男に引っ掛かっているようではダメって意味だと思うけど、僕は呆然と立ち尽くすしかなくて…、あの時のやりきれなさは今でもしっかり覚えてるなあ…」
三人でそのようなくだらない話を続けていると、夜中の1時をまわった頃、上の階からいつもの女性の叫び声が聴こえてきた。「もうだめ! 絶対限界ライン! 水だけでも飲みに行かせて! だめ? それすらダメだなんて、誰が決めたの?」などと金切り声で叫んでいて、私はそれが誰の声かあえて思わないようにしたのだが、普段よりもさらに煮詰まっているようだ。
「上でまた始まりましたね?」
私が目配せしてからそう言うと、江尻さんは嬉しそうな顔になった。
「鈴又先生は偉いよね…。どんなにギリギリの状況になっても、朝にはしっかりと原稿をあげるんだからね…。綱渡りっていう言葉があるけど、彼女は長年のこういう経験で、綱の渡り方をちゃんと知ってるんだよね…。他人にまで渡っているところを見せちゃうのはどうかと思うけど…」
「ああ、では、キリキリとした切迫の空気と、究極の責任感の狭間にいると、ああいう絶叫をしてしまうわけですかね?」
私が何かを悟ったようにそう尋ねると、測量士さんはなぜか首を横に振った。
「いえいえ、私には何も聴こえませんよ。いつも、そう言っているでしょう?」
今度ばかりは誰も笑いださずにはいられなかった。彼はあくまでもこの問題に対しては知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい。作家の苦境に対する発言はすべて禁句だと、そう言いたいようだった。
「た、確かに何か聴こえる…のかもしれないが、ここは民主主義国家なんだから、だから…、市民がどんなすごい声を出しても…、出してもね、構わないんですよ…。け、警察ですよ。警察が来るまでは事件にはならないんです。げふっ、警察が来て、聞き込みを始めたら、初めてこれは一大事だということになるんです。このマンションでは諸般の事情で、通報する人間は誰もいないから、だって…、警察に踏み込まれたら、自分の方がやばいっていう事情を抱えた人がいっぱいいるわけでしょ? あなただって、私だって困るかもしれない…。つまり…、何だっけ…? ああ、そういう意味では、このマンションでどんな大きな声を出しても事件になるとは思えませんけどね」
彼はそのようにこの話に公権力の影響を絡ませ始めた。
「それは実際、警察が来たら、どうなるかわからないよ。確かに、ここに住む全員が任意で呼び出されるかもしれないしね…。でも、あなたのさっきの話は面白かったね。どんな職業の人間でも、この作家マンションに入ってしまったら、作家と同じ心情で生活しなければならないってところがね…」
江尻さんは話を膨らませるのが上手い。こうやって、酒の席を退屈させない術を心得ているようだ。
「そうでしょ…? わ、私だってねえ、しがない建設作業員で薄給で働いているけど、心は皆さんと同じですよ。だって、私の部屋にだって、時々、部屋番号を間違えた編集者さんが尋ねてきたりしますしね。そう…、そういうとき、少し嬉しくなるんですよ。普段はビルの建設現場で工事機具を扱っていても、そういう瞬間だけは、ああ、ここではみんなが作家でなくてはならないんだとね…」
「いいこと言うなあ…。住んでいる人は皆さん一蓮托生だよね…」
「ところで…、つかぬ事をお伺いしますが…、なぜ、ここには作家さんばかりが集まって住むようになったんですか? 契約上は一般の人でも住めるわけでしょ? 一般の不動産屋に募集は出していないんですか? 実際には住民は出版関係者がほとんどみたいですけど…」
「それを聞くかい? いくら酒の勢いに任せてみても、そのストーリーだけは語らない方がいいよ」
江尻さんは愉快そうに笑ったが、避けたい話題なのか、なぜか逃げ腰だった。
「大光栄印刷って会社知ってる?」
そう真顔で口を開いたのは測量さんだった。
「知りませんね。どこにあるんです? そう大きくはない会社ですか?」
「もう、どこにもないよ。出版の企画と印刷を兼ねた大会社で70年代までは日本で三本の指に入る出版会社だったんだよ。大手の新聞印刷の請け負いや、雑誌の出版もしてた。50万部を越えるような雑誌をいくつも手がけてたんだ。だけど、会社が好調な時期に幹部たちが外国のリスキーな国債に手を出しちゃって、怪しい団体から持ち掛けられた土地売買なんかにも手をだして、会計には見えない損金をたくさん作っちゃって、まあ、そういう乱脈経営を繰り返しているうちに、一般社員が誰も気がつかないうちに債務超過になってたんだよ」
「それで、倒産してしまったんですか?」
「そう、だけど、その本社は12階建てだったんだけど、その4階から地下4階までは全部印刷工場になってて、刷版から枚葉、そして印刷や製本や発送に関わる人まで合わせて1000人以上が働いてたから、当然、若い独身者が多かったんだよ。当時だから、都心の近くに家を買える人も少なかったし、新聞も手がける印刷業だったから、二十四時間操業しないといけないし、仮の宿舎が必要だってことになって、会社が絶頂期に購入したのがこのビルなのよ…」
「では、ここは元々は印刷会社社員の仮眠用の宿舎だったんですね?」
「そう…、でも、ここからが複雑なんだけど、会社が倒産してみると、本社ビルは当然銀行の抵当に入ってるから、すぐに差し押さえられちゃって、社員が引き払った後で取り壊されて、さら地にされてしまったんだけど、今、この建物の西側に商店街がある大通りがあるけど、その向かって右手側にディスカウントショップがあるでしょ? ちょうどあの辺に大光栄印刷の本社ビルがあったんだよ。もちろん、今は面影なんてないけどね。しかしね、今我々がいる、この宿舎用のビルはというと、なぜかどこの債権者の抵当にも入ってなかった。会社が潰れた後、80年代後半になってから一部の編集者が集まって、新しい出版社を立ち上げたんだよ。もちろん、当時より規模は小さくなったけどね。それが!」
そこで測量さんは話を一度止めて、私の胸に人差し指を向けた。
「あなたたちが今付き合ってる出版社なんだよ」
「本当に? 会社の黎明期にそんな革命的な話があったなんて、全然知らなかったですよ」
私が驚くと二人は大笑いした。業界人なら知らないと恥ずかしい話だったらしい。
「まあ、倒産と再生なんて、この業界ではそんなに珍しい話でもないからね。ただ、僕が知っている話とはちょっと違うなあ。まあ、僕の話は今日は聞かせないけどね」
江尻さんはそう言って、さらに笑いながら6本目のビールを開けた。
「新しく立ち上がった会社の幹部は、もちろん、大光栄印刷当時の編集者たちだけど、彼らも給料や立て替えておいた原稿料の一部、それと退職金などで、元の会社に対して、かなりの債権を持っていたから、それと引き換えという形で、当時は宿舎だったこのビルを引き取ったということ…、だったはず…だけどね…」
「僕の記憶もあやふやだけど、それでだいたいあってると思うよ…。大光栄印刷も大変だったよね…。倒産したときは、社員のほとんどを他の出版社や関連の印刷会社に引き取ってもらうっていう話だったんだけど、実際には半分以上の社員が再就職先が決まらないうちにお払い箱になっちゃったしね…」
江尻さんが、一度頷いて、話を引き継いでそう話を繋げた。その発言で測量さんの炎を思わせるような話しっぷりに再び油が注がれた。
「我々だって、大変だったんですよ…。職が無くなった後、経営陣の責任を問うデモやらビラまきやらをやりながら次の職を探して、私はいくつもツテを頼って、やっと知人の紹介で今の会社に入れたんですよ…」
「ああ…、測量さんは元々大光栄印刷の社員だったわけですか…」
私はようやく合点がいって、バチンと大きく手を叩いた。建設業の彼が異業種ばかりの住家であるここに住んでいる理由がようやく理解できたのだ。
「あの後、大変だったでしょ? 大光栄印刷は組合活動が活発だったから、他の会社の経営者からは敵視されてしまって、あそこの元組合員だけは雇わないっていう方針の出版社もあったらしいしね」
「私だって、就職が決まるまで丸一年くらいかかりましたよ…。これまで付き合いのあった出版社の雑誌だって、我々の経営陣非難の活動に対しては、マイナスイメージになるようなことしか書いてくれないし、世間からは散々組織潰しのような嫌がらせを受けて、通行人の中には『会社が潰れたのはおまえらのせいでもあるだろうが』なんて野次っていく人達もいて驚きました。世間から見れば、我々も旧経営陣の仲間のような扱いだったんでしょうね。そうして不当な弾圧を受けている間に、最初はまとまっていた元社員たちもみんなバラバラになってしまったんですよ…。争議はまだ続いていて、いまだに仕事にありつけなくて、日雇いしながら活動を続けている人も少数いるんですよ…。中には、そういう仲間にも加われなくて…、なにしろ、人間にはそれぞれ別々の生活や家族の事情があるからね…。知人や周囲の人間の意思だって尊重しなければならないし…、そういうものに揺さ振られているうちに、行きどころも無くしてしまって、すっかり落ちぶれてしまって…、警察に追われるような組織に入ったり、恐喝とか密輸とか非合法な商売に手を染めてしまった人達もいるけど、そういう人間を簡単には責められないよね。自分だって、どこかで曲がり角を一回間違えていたら、そうなっていたのかもしれない…。自分だけは職をもらって助かって、それで良かったと言えるのかどうか…」
測量さんはそこで一度溢れ出た涙を拭って、再びビール缶を握りしめた。これまでの半生の苦しみを思い出し、万感の思いが込み上げてきたようだ。
「それで、このマンションは今の会社に引き継がれて、うちの会社関連の人が住む賃貸マンションになったわけですか…。私なんて何も考えずに簡単に踏み込んでしまったけど、思いもかけない歴史があったんですね…」
私は測量さんを励ますためにそう言ったが、その言葉を聞くと、江尻さんはこれ以上場の空気が暗くならないよう、明るい顔で語りかけてきた。
「一度は、ほんの数人の悪事のためにダメになってしまった事業だけど、みんなでもう一度立て直そうってことで、気合いを入れ直して集まった人達の会社だから、かなり書籍作りに対する気概があるし、そういう熱い気持ちについていきたくて、ここに住むようになった作家も多いんじゃないかな…。袴田先生や上谷先生は大光栄印刷当時から付き合いがあるから、そういう思いが特に強いと思うよ。彼らはお金が貯まっても簡単にはここを出ないんじゃないかな。鈴又先生はどうだかわからないけどね…」
私はそれに頷いて隣をふと見ると、すでに測量さんは首がうつらうつらと揺れてしまっていて、限界が近そうだった。時計を見ると、すでに2時半を廻っていた。
「また今度3人で飲みましょう」
そう言って今夜のところは解散することにして、名残惜しかったが、二人の肩を持って玄関から送り出した。廊下に出ると、涼しい風が頬に当たったが、それと共に、上階から、いまだに睡魔や自分の中の何かと戦っていると思われる鈴又先生の、耳をつんざくような絶叫音が聴こえてきて、私は身をすくめた。

 翌日、まだ太陽も昇りきらない朝の10時頃、このマンションの管理人を名乗る人が私の部屋を尋ねてきた。茶色のセーターを着た白髪の老人だったが、彼が説明するところによると、なんでも、最近になって、ここを作家マンションだと嗅ぎ付けた不審者が、隙を見てマンションに侵入するようになり、いたずらで各部屋の呼び鈴が鳴らされたり、ゴミ収集所が荒らされたりするようになり、今日の昼の1時から、各部屋の代表者を集めて対策会議をすることになり、そのことを知らせに来たのだと言う。徹夜明けの人や昼間は部屋を空けている人も多いのに、昼間の1時から開始ということで本当に大丈夫なのか、と尋ねたが、管理人はこういうことはできるだけ早くみんなに知らせたいからと言うことであって時間に関しては譲らなかった。ゴミ荒らしは原稿などが目当てではないらしく、主に女性の作家さんの衣類が狙われる傾向にあるということで、ストーカー行為とも思われ、事は急を要するらしい。私も二日酔いだったので億劫だったが、できるだけ参加しますよ、と前向きな返事をすると、管理人さんは笑って、「皆さん出版界の複雑な事情があるから、仲が良くない人だとか、顔も合わせたくないような、嫌な人もいるんでしょうけど、不快なことがあったら先に抜けてしまっても構わないので、とにかく状況説明への参加だけはぜひお願いします」と、ここの住民の人間関係を知り尽くしたような言葉を置いて去っていった。
 中途半端な時間が空いてしまったので、遊ぶことも仕事をすることもできず、コーヒーを飲みながら、とめどない夢想状態でテレビを見ていた。昼間のこの時間はどの放送局もたいしてお金をかけた番組を作らないから、知性の毒にしかならないような番組しかやっていないのだが、たまたま目に入ったドラマに、最近あまり見かけなくなったタレントが出演しているのを見て、自分の心に哀愁が入り混じった喜びを見つけだして、なんとか時間を潰すことができた。
 約束の時間が近くなったので、指定された一階のロビーに向かった。すでに数人の男性がいて、煙草を吸いながら、わざわざ建て付けの悪い椅子に腰掛けていたが、私の知っている顔はなかった。私は彼らの後ろ側の壁にもたれ掛かって集会が始まるのを待った。しかし、約束の1時になっても私を含めて5人ほどの人間しか集まらなかったので、管理人もさすがに報告を始めることができず、時折腕時計に目を落としながら、イライラとした様子を見せていた。このマンションには時間をきちんと守って生活している人はほとんどいないから、という言葉で慰めてあげたかったが、余計な話しかけは薮蛇になりかねないので、声をかけるのはやめておいた。1時を15分ほど廻ると、ようやく幾人かの男性がエレベーターや階段を使って降りてきて、ロビーはそこそこの人数になった。言うまでもないことなのだが、その場の雰囲気は非常に悪かった。ちょうど寝起きの人が多い時間なので、どの顔も、何で普段は気を抜きまくっているはずの、こんな時間に呼び出されなきゃならないのか理解に苦しんでいて、他の先生方が参加しないのであれば、まず間違いなく無視したかったイベントなのであろう。皆さん、他の知り合いの先生の動向を見ながら渋々の参加であり、その複雑な胸中を存分に垣間見せてくれていた。女性がストーカーに付け狙われているという話だったのに、鈴又先生を始め、女性陣は誰も来ていなかった。
「お集まりいただきまして…、どうも…、このマンションの管理を委託されている笹本と申します…」
やっと、管理人の説明が始まり、彼の話の中で、先月辺りからゴミ収集所が荒らされるようになった経緯や、この地区全体の治安が不安定になっていることなどがあげられた。
「もう少し様子を見てから、警察に相談したほうがいいんじゃないですか?」
管理人の話を中断させるかのように、後の方で話を聞いていた男性からそのような声があがった。誰かが長い説明をしている最中に、突然こういう極論を言う人は、心からそう思っているわけではなく、早く部屋に帰りたいから、という思いが高ぶる中で口走るケースが多いのだが、彼は果たしてどうだったのだろうか。
「何言ってるんですか。警察はまずいでしょ…。マンションの中は機密情報の巣だから、余計な部分を突かれないとも限らないし…」
私の隣にいたコラムニストと思われる男性が嘲笑混じりにそう答えた。
「とりあえずの対策として、皆さんのゴミを出す時間帯を朝の決まった時間だけに限定していただきたいんですが…。どうですか? 何か他にご意見などありますか?」
「ゴミを出す時間を揃えるったって、そりゃあ無理でしょ。ここに住んでいるのは、全員が全員、朝まで寝ないで活動しているような人達だし、シュレッダーにかけないといけないゴミだっていっぱいあるんですよ。その作業を全部朝までにやるだなんて…。私は明け方が特に忙しいから、毎日同じ時間にゴミを出すなんて、とても無理ですね。他の方々が賛成したとしても、私は無理です。撤回して下さい」
一番手前のテーブルに座っていた白髪の男性がそのような反論を述べた。周りからはそれに併せて「そうだ」「無理だ」などの否定的な声が多く飛んできた。
「しかしですね、最近はどこの自治体でも、ゴミを出す時間帯を限定する傾向にあるんですよ。その方が衛生的にもいいですしね…。そろそろ、うちも世間の常識に合わせていきませんと…」
「余所は余所でしょ? 我々は自分から望んで、そういう一般の生活時間には囚われない仕事をしているわけだからね。最近はこうなったんですよっていう話を聞かされても、すぐに、わかりました、明日からそうします、っていうわけにはいかないんですよ。確かに、我々が不規則な生活を送ることによって、周りに住むある程度の人が不利益を被ったり、軽犯罪に対して隙を見せているかもしれないですよ。だけどね、そんなものに臆病になって、自分の生き方を縛られるようなことを許していたら、芸術家なんてやってられないんですよ。泥棒結構じゃないですか。どんどん入ってもらおうじゃないですか! 我々のゴミ袋になんて、どうせ、ろくな物は入ってないんですから!」
白髪の老人はそう続けたが、さすがにこれは極論に過ぎたようで、参加者の中から反対意見も多く聞かれた。反論の中で、最近は世間の生き方に合わせて、生活時間を整え、清潔な生活をしている作家も多いという話がでて、そういう作家の透き通ったみずみずしい文体の本の方が、道徳的できれい好きな読者層には受けているらしい。それを聞くと、時間や道徳観念に縛られないで書いている我々は、すでに時代遅れなのかと、場はさらにどよめいた。
「今まで通り、好きにやればいいじゃないですか。皆さん、好き勝手やってる部分もあれば、他の作家さんの活動のせいで我慢を強いられている部分もあるでしょう? それでいいじゃないでか。これまで通りにしましょうよ」
白髪の男性は反対意見などに耳を貸さずにそんな乱暴なことを言い出したが、悪い意味で保守的というか、このような意見が出てしまうと、現状維持に賛成せざるを得ないような空気になってくるのだが、幾人かの人がそれでも生活時間をなるべく世間に合わせるようにした方がいいという主張を譲らなかった。管理人もすでに治安の部分については諦めていて、ゴミの収集時間を揃える問題だけでも解決できないかと糸口を探っていた。しかし、強硬な意見が多く、場はかなり沸騰してしまい、この問題の意見だけに留まらず、お互いの生活に対する不満のぶつけ合いが始まってしまい、出口の見えない迷路に入ってしまった。その後、数十分話し合いを続けても結論は出ず、会議は次回に持ち越しとなってしまった。
 いつの間にか、私の背後に江尻さんが迫ってきていて、ぽんと肩を叩かれてしまったので、不意をつかれた私は心底驚いてしまった。
「知ってた? あれが演歌作曲家の第一人者、重松権作先生だよ。見てのとおり、相当な堅物なんだよね…」
先程一番熱く議論を交わしていた、というより管理者への反論が一番うるさかった白髪の老人を指差して、彼はそう教えてくれた。
「やれやれ、内容はゴミを早朝の決まった時間に出すってことだけなのに、偏った思考の持ち主がこれだけ集まると、それすら決まらないとは…」
参加者が立ち去った後、私が顔を曇らせ、頭を掻きながらそう言うと、江尻さんも同意して、「ここに住んでいる人達には良い意味で普通の人は全然いないからね。アクの強さだけを売りにして飯を食べている人がほとんどだから、どの人も自分の主張と少しでもズレがあると絶対に引き下がらないと思うよ。マンション内部には職業だけでは単純に計れない、複雑な派閥構成や人間関係があるからね」と説明してくれた。しかし、袴田先生や鈴又先生などは結局姿を見せず、私の頭の中では、こんな真昼間に集まってくれただけでも、ここにいた人達はある程度まともなのだろう、という結論に達するしかなかった。
 私が部屋に戻るとすぐに電話が鳴り出した。慌てて受話器を取ると、例によって、編集者の友人だった。
「どこへ行ってたんだ? なんだって、泥棒が入るようになったから報告集会? それは、まったくと言っていいほど時間の無駄だな。まあ、赤の他人がそこに入ったって、取るもんなんて垢のついたペン先くらいで、まともな貴金属は何も無いのにな。いまさらセキュリティを入れるような費用は会社は出さないから、各自で財布くらいは自己責任で守るしかないだろうけど、そんなに他人に立ち入られるのが嫌なら、こんなのはどうだ? 入り口に『どうか、関係者以外は入らないで下さい。どうせ、めぼしいものは何もありませんから』って書いておくんだよ。どうだい? え、不謹慎だって? それは悪かったな。それはまあいいとして、君は明日は暇かい? 我が社の創立30周年記念のパーティーが都内のホテルであるんだが、よかったら君も来るかい? 出版界のお偉い方々とお近づきになれるいいチャンスだと思うが…」
「そういう厳粛な雰囲気での集まりは苦手なんだよ。数年前の理論発表会でもえらい目に遭ったしね」
私は肩をすくめて小声でそう返した。
「君のような、業界の末端にいるような、目立ちたいのに目立てないような、寂しい極みの人間にわざわざ声をかけてやったというのにむざむざと断るのかい? 他にも声をかけたい候補はいっぱいいたのに、わざわざ君を選んでやったんだぞ…。そういえば、前の発表会のときも君は途中でいなくなったっけな。あの後で君の不始末を取り繕うのが大変だったんだぞ。今回は君も正式に賞を取ったんだし、ベテランの先生方に頭を下げて挨拶をしておいた方がいいに決まってるんだぞ」
そう言われてしまうと少しばかり考えてしまうが、私の決心は揺るがなかった。
「悪いとは思うが、やはりやめておくよ。そういうお偉い先生に挨拶をするとき、『私の作品には当然目を通してくれているんだろうね?』とか向こうの作品のことをいろいろと聞かれるのが耐え切れないほど苦痛なんだ。特に、相手は自分のことを知っているのにこっちは相手を知らない場合が最悪なんだ。作家が多く集まる場所では、往々にしてそういうことは起こり得るからね。悪いとは思ってるけど、僕は国内の作家の本はあまり読まないんだよ」
「なんだ、君は相変わらず礼儀を知らない男だな。そういうことが起きないように、自分が関係している出版社のお偉方の新作本くらいちゃんと目を通しておいてくれよ。まあ、そこまで期待しなくてもいいかな…。では、来れなくてもいいんだが、一つ頼まれてくれないか? え? なになに、簡単なことだよ。そのマンションの4階に高名なコラムニストの上谷先生が住んでいるんだが、彼に、明日の午後2時からパーティーがあることを伝えてくれないか? どうも、上谷先生とも、こちらからは連絡がつかなくてね。君なら階段を上がるだけで直接会いに行けるだろ? では、頼んだよ」
こちらの返答も聞かずに友人はそこで電話を切ってしまった。だいたい、パーティーの前日になってから、出席の有無を聞いてくるなんて、それだけでも失礼な話なのに、その上、話したこともない相手への言付けまで頼むとは…。私は呆れ果てたが、これまでのいくつかの失態で、彼には借りもあるので引き受けないわけにもいかなかった。
 安易に引き受けてしまったものの、上谷先生のところへ行くのはかなり億劫だった。彼は温厚そうな顔や、温かな喋り口とは裏腹に、徹底した軍国主義者であり、明治時代の官僚の生き残りではないかと思えるほど思想が偏った人なのだ。私は何か特別な事件でも起きない限りは、国の防衛のことなど少しも考えない人間なのだが、上谷先生は青少年犯罪も少子化も経済力の衰退も大きなスポーツ大会の勝敗も、全てを国防論争に結び付けるような人で、一度その方向に話がいってしまったら、凡人ではその勢いを止めようがないと思われる。天井を見上げながらぐずぐずと考え込んでしまうのが私の悪い癖だが、期日も迫っていることだし、このまま行動せずに考え込んでいても、かえって伝えにくくなってしまうだけなので、これ以上、状況が悪くならないうちに、彼の部屋に向かうことにした。
 どのフロアも同じ造りのはずだが、住民が少ないせいか、4階のフロアは他のフロアと比較して床や壁がきれいなので、雰囲気までが違って見えた。どうも新しい建物に踏み込んだような気がしてきて、任務遂行のための緊張感が増してくるのだ。どの部屋が先生のお部屋だったかを聞き忘れてきたのだが、上谷先生の部屋だけはきちんと木製の立派な表札が出ていたので、404号室がそれだとすぐにわかった。しかし、呼び鈴を何度か押してみたが、誰も出てくる様子はなかった。時間が経つに連れて焦りと緊張は増してきた。パーティーはもう明日に迫っているので、伝えそびれるわけにもいかず、私は困り果てた。一度部屋に引き返そうかと階段まで戻って来たところで、屋上へと続く階段の欄干に寄り掛かって煙草を吸っている男性の姿が見えた。もしやと思って近づいてみると、それは探し求めていた上谷先生であった。
「おう、どうしたの? 私に用事だって、わざわざ来てくれたのかい? なになに?」
先生は、にこやかな笑みを浮かべて、そう尋ねてきた。私がパーティーの一件のことを伝えると、穏やかな顔のままで頷いて下さった。
「うん、創立記念のパーティーのことはもちろん知ってるよ。友人のライターから話は聞いているからね。そんな簡単な用事で、わざわざ来てもらって悪かったね。ところで、あなたは出席しないの?」
私は体調がすぐれないので出席しないと答えると、上谷先生は心底残念そうな顔をした。私などがいなくとも、パーティーに少しも影響があるわけはなく、先生に迷惑がかかるわけでもないので、本当に残念がっているわけではないだろうが、この先生は相手を不快にさせることを極力避ける外交術を心得ているらしい。さすが、大手の経済雑誌にもコラム欄を持っている作家は違うなと感心してしまった。
「たしか、あなたも今回大きな賞を取ったんでしょ? ちゃんと、聞いているよ。なんて言ったっけ? あの凄い賞だよ。ほら、ほらほら、なんだっけ?」
先生は急かすように尋ねてきたので、私が小声で賞の名前を伝えると、先生はぽーんと手を叩いて喜んだ。
「よかったじゃないか! まだ若いのに素晴らしいことだよ! ところで、あなたいくつなの?」
私が歳を教えると、先生は自分の長女の娘も同じくらいの歳だから、付き合ってやってくれないかと、冗談混じりに言い寄ってきたが、私は三文ライターで身分が違うのでさすがに無理ですよと丁重にお断りすると、先生は満足そうに高笑いした。その後、26歳になったのになかなか地方の大学を卒業してくれない次女の話など、私生活の余分な部分を聞かされたが、まさかこのタイミングで逃げだすわけにもいかず、私は苦笑しながら、ええ、ええ、とうなずき、しばらく黙って話を聞いていた。このように楽しげに会話をしてくれたのは序盤のみで、話を続けている間に、話題はいつの間にか現在の文学界の話になってしまい、先生は目つきを鋭くして真剣に語りだした。
「最近の文学は全然ダメだね。時間だけはズンズンと流れているけど、この国の文学はすっかり停滞してしまってるよ。なぜだかわかるかね? 賞だよ」
「賞ですか? ああ、文学賞のことですね? しかし、ああいうものがないと実力の指標がわからないのでは?」
先生は首を大きく振って反論をした。
「では、作家の実力ってのはいったい何だね? 多くの読者を納得させて、本を買わせることだろ? いかに多くの読者に自分の文章を読ませるか、そこに労を払っている作家こそ評価されるべきだろ? 読者を喜ばすための文章こそ必要だというのに、今の作家が書く多くの文章は賞のための文章になってしまってる…。嘆かわしいことだよ。本来、賞なんて後からついて来るものだよ。多くの時間を費やして、何冊もの本を描ききったご褒美であるはずだ。しかし、今の文学賞は、明らかにまだいくつも書いていない新人作家のお披露目会になってしまっている! これではいかんね」
先生はトーンがすっかり上がってしまい、なんでこんな話になってしまったのか、聞き手の私にも全くわからないのだが、私自身も最近くだらない賞を取ったばかりで、相槌も打ちにくい空気になってしまった。
「そ、そうですね…。ただ、各々の出版社も業界全体がさらに盛り上がってくれることを祈って、そういう小さな賞を創り続けている部分はあると思います…」
「だから、それがいかんのだよ! 本当に優れている人は放って置いても自分だけで芽を出して、ぐんぐんとそれを伸ばすもんなんだ。編集部に手伝ってもらって、二人三脚で作品を書いて、賞を受けるための手口だけを磨いて、標本通りの作品ばかりを作っても意味はないんだ。なんだか、最近は装丁や色合いだけ手が込んでいて、内容はさっぱりという作品ばっかりだがね…。主人公が実在の人物で、最後に病死すれば感動のドラマ、探偵ものは途中で容疑者がコロコロ変われば劇的なストーリー、そんな作品ばっかりだろ? 同じようなものばかり読まされていて、よく読者が飽きないものだと感心するよ…」
「私はかなり端くれの方ですが、言わせていただければ、確かに時代が進むごとに、読者が喜ぶものが単純になってきたとは思うんですよ。一つ大ヒット作が出れば、追随して同じような作品が次々と出ますしね…。しかし、誰も喜ばないような小難しいものを、苦労して時間をかけて長々と書いてギャンブル的に出版して、それが転んで酷い目に遭うよりも、ある程度読者層を絞って、一部の人だけでもいいから確実に売れるものを書いた方が裾野も拡がりますし、文学界にとっても悪いことばかりではないと思いますが…」
「いや、賞を取った作家だけが幅を効かせて、浅い思考で単純な作品を量産していったら、いつか、この国の文学は滅びるよ。単純なものほど喜ばれると定義するなら、漫画やアニメの方が訴える力は強いし、わかりやすくていいわけだからね。このままでは、演歌が次第に衰退していったのと同じ道を辿ることになりかねないね…」
先生は寂しそうにそう語った。私もそうですねとは答えたが、文学界全体のことなど考えずに、読者層のことなどもっと考えずに、思いつきで作品を量産している私にも痛いお言葉だった。私はうなだれてしまい、大きなため息をつかずにはいられなかった。
「小説にとって本当に必要なのは、画期的なアイデアでも、優秀な大学出の脳みそから放たれる緻密な文章でもなく、深い思念や思想でしょ? 最近の作品からは全く感じられなくなってしまったがね…。私はある大学で学生に近代文学論を教えているんだが、試しに古典の御三家といわれている三作を学生達に読ませてみたんだよ。数日後に感想文を書かせてみたら、多くの生徒が同じことを書いていて、『戦争と平和』は平和の美徳、『ゴリオ爺さん』はいじめの物語、『カラマーゾフの兄弟』は宗教の正当化だとさ…。つまり、現代の学生は名作を読んでも、あの偉大で芸術的な文章から、その程度の印象しかつかみ取れていないんだよ」
「お言葉ですが…、先ほども申しましたように、この国が経済発展を遂げて生産や物流の過程が簡略化されていっているうちに、読者の思考の方もずいぶんと単純化してしまっています。ですから、19世紀の名作のような古臭い難しいものを書いても、あまり喜ばれない時代かもしれませんね。作家の側も難しい思想や思考を持ち出さずに、しかも、なるべく難しい知識をひけらかさずに浅い思考で書いて、例え少なくても、一定の量のファンを得ることが、最近の作家の飯の食べ方なんです」
私の話を聞いているうちに茹でタコのように真っ赤になっていく上谷先生の表情に恐ろしくなったが、自分でも止められないような、反論したい衝動に耐え兼ねて長々とした意見を述べてしまった。
「なんだい! すると君は確信犯で駄作を量産しているのかい? 消費者の思考レベルが下がったというなら、それをなんとか引き上げる努力をするのが作家の仕事だろ? 君らまでが一緒になって下がっていってどうするんだ! どんなに時間と金がかかってもいいから、今こそ、大衆の知性の底上げをするような作品を目指さなきゃだめだよ!」
「お言葉ですが、現在はそれが難しい世の中なんです。中世のフランス貴族のように、時間と金が有り余っていれば別ですが、最近の若い人は、遊んでいても仕事をしていても時計をちらちらと見ながら動いていて、とにかく忙しくて自由な時間がないですから、腰を落ち着けて小難しい話を読んでいるような余分な時間はないと思います。一流会社に勤めているような人間でも、仕事帰りに電車の中で推理小説や時代小説の簡単なものをパラパラとめくるくらいなんです。まあ、そういう労働者たちの気持ちはよくわかります。私だって、ボロボロになるまで働いて、心底疲れてしまい、これから帰って寝ようかというときに、ぶ厚い哲学や思想の単行本は読みにくいですからね。最初のページを開いただけで頭が痛くなりますよ。ですから、簡単なものしか売れなくなってしまったのは、消費者の知性が下がっただけではなくて、近代から現代にかけての生活の変化も挙げられると思うんです。いかがですか?」
「君はこのコラムの帝王と呼ばれる上谷周五郎に反論しようと言うのかね? 誰に意見を言ってるんだ! 私が文芸雑誌でコラムを一つ書けば、世論が5%は動くと言われてるんだぞ! それとも、私に実名をあげて悪口を書かれて、世間から追い詰められたいのか? 黙って聴いていれば、生活が変わったから知性が下がっただと? 時間がない忙しい人間には知性はいらないとでも言いたいのか?」
「ですが、大きな戦争によって苦しめられ、生きることだけで精一杯であった頃の作家が書いた作品と、書けば書くだけ金になる裕福な現代作家の作品を比較されましても、それは内容の重さも読者が受ける印象も違うでしょうし、そういった人生の暗さそのものを浮き彫りにしたような、大昔の作品を引き合いに出して、現代作家の弱みとされてしまうのはどうかと思いますが…」
「白米にタクアンを乗せる給料もないおまえに、近世の文豪の幸せや不幸の何がわかると言うんだ! この国の一番右側を40年に渡って引っ張り続けてきたこの私に意見をするとはいい度胸だ! 私の書いている雑誌には金輪際、おまえの駄文など載せてやらんから覚悟しておけ! とっとと、去れ!」
上谷先生の顔は究極まで真っ赤になり、身体を震わせ全身から蒸気を出していて、まるで蒸気機関車のようだった。私はさすがにこれ以上の論争は我が身を滅ぼすことになるのではないかと思い至り、頭を深々と下げて失礼しますと震える声で一言発して、そのまま階段を走り降り、自分の部屋に駆け込んで頭から布団に潜り込んだ。目的を果たせたのは良かったが、さらに難しい問題を一つ作ってしまい、次から次へと悩みを量産する現代人特有の苦悩に打ちのめされながら、その日は仕事をせず、静かに過ごした。

 翌日、寝床からはい出たのは、すでに昼近くになってからだった。出版社の大きなパーティーがあるわけだから、このマンションの住民の多くがそれに参加するはずで、今日はずいぶん静かな一日になるだろうと考えながら、ベランダに出て、真下にある駐車場を覗いてみたのだが、車は相変わらずびっしりと停まっていて、誰も外出したような気配はなかった。まさか、名のある先生方が電車を使って移動するわけもないし、迎えのタクシーやハイヤーなども来た様子はなかった。着替えや挨拶などの下準備の時間を考えれば、すでに出発していなければ、開場に間に合わないはずだった。午後一時になっても状況は変わらなかった。この階にしても誰も廊下に出てくる気配がなく、静かすぎるほどだった。作家の多くがパーティーの日にちを間違えているか、朝起きが出来ずに出席を見合わせてしまったかのどちらかだが、自宅のあるマンションに泥棒に入られても、善後策を決められないような悠長な人達であるから、それも十分有り得るかと思ってしまった。
 やがて、開場の時間まで数分ほどまで近づき、本当にパーティーは行われるのだろうかと根本的な疑問を抱き始めた頃、このフロアの各部屋のドアが次々と開け放たれる音がして、廊下を数人の人間が早歩きで過ぎ去っていく音が響いてきた。慌てて覗き穴から外を見てみると、数人の男性が雑談をしながら通り過ぎて行くところだった。やがて、上階からも階段を走り降りてくる多数の人間の足音が聞こえてきた。どうやら、一人がパーティーのことを思いだして動き出したので、それとリンクするかのごとく、アフリカの大地を感情もなく駆け巡る野牛の群れの行進のごとく、自らの主義主張を持たない野生的な動作で各人が動き出し、このまま無機質な態度で会場に向かって行くらしかった。私に余計なことを考える暇も与えず、駐車場から車のエンジンをかける騒音がいくつも同時に鳴り響いた。
「だって、まともな飯が喰えるのよ! 参加しない手はないでしょ!」
そう叫びつつ、鈴又先生も参加を決めたらしく、けたたましい靴音を響かせて階段を駆け降りてきた。作家陣の車は駐車場の外にきれいに列を作って一直線に大通りを目指して進んでいった。
 私はその姿を見て、自分が憧れる先生方のこれ以上の醜態を文章にすることが恐ろしくなってきた。このマンションについて、伝えたいことも、伝えなければならないことも、まだまだあるのだが、ここでいさぎよく筆を置こうと思った。なぜなら、このままこの文章を書き続けていっても、これらの作家先生を愛してやまず夢を膨らませる読者諸兄の助けには全くならないばかりか、逆に出版業界全体のイメージを大きく損なうことに成り兼ねないと思い至ったからだ。
                     了
<2011年2月5日―3月22日>