広大な砂漠の中にある小さな国の刑務所での出来事である。この刑務所は中規模であったが、その牢屋の多くは罪を犯した囚人たちで満員だった。壁には労働に疲れた囚人たちの汗が染みとなってこびりつき、床には砂塵と埃が幾重にも積み重なって例えようもないほど汚れきっていた。とっくの昔に希望を失った人生の敗北者たちの歌が、獣の叫び声のように監獄の内部に響き渡っていた。牢屋は左右に別れて細長い通路の奥へと続き、罪の重い囚人ほど奥の部屋を割り当てられていた。一番奥にある牢屋には処刑を明日に控えた死刑囚が一人囚われていた。
男は今、地べたに座り込み頭を抱えながら、暗がりの中で迫りくる死の恐怖と戦っていた。今日一日は自分の過去の罪を思い返し、過ちを反省し、今は亡き被害者の霊を弔い、明日には地上の人ではなくなる自分のためにも祈って過ごした。時は非情なものである。いや、時ほどに非情なものが他にあるだろうか? 時間はたちまちに過ぎゆき、やがて砂漠に夜が来た。太陽がもう一度昇れば自分は処刑されるのである。男は窓の鉄格子越しの月を眺めて深い思いに耽っていた。
ふと、廊下を歩いてくる足音が聞こえた。男が顔を上げて振り返ると、男が逮捕されてからの十三年間、いつも自分の世話をしてくれている看守がそこに立っていた。男は軽く頭を下げて挨拶をした。看守は牢獄の鍵を開けて中に入ってきた。
「いよいよ、明日だな」
「ええ、あなたには本当にお世話になりました」
男はすっきりとした表情で笑い、そう返事をした。その声には一切の動揺がなかった。
「神に祈りを捧げていたのか?」
「そうです。自分の愚かな行為のせいで命を失ってしまった被害者のために祈っていました」
それを聞いて、看守は同情したように少しうつむいた。
「それはもう昔のことだ。おまえさんはこの牢屋に入ってから毎日のように被害者に向けて祈ってきたじゃないか。今では、天国にいる被害者たちも許してくれているさ」
男はそれを聞いて首を横に振った。
「いいえ、そんな同情は無用です。確かに、私が企画した犯罪ではありませんし、被害者を殺めるつもりもありませんでした。すべては出来心です。しかし、結果的には三人もの人を殺してしまいました。死刑という結果は仕方がないと思っています」
看守は感じ入ったように大きくため息をついた。
「死刑というのは不思議な制度でな。いくら殺人犯とはいえ、人間が同じ人間を裁くわけだからな。民衆の中には死刑廃止論者も多い。『国家が人を殺していいのか』と主張する人もいる。実際に人権を重視して死刑が存在しない国もあるわけだ。長年、君に寄り添ってきた自分としては死刑に対して複雑な思いもあるし、国家に対してそれほど忠誠心があるわけでもない。実を言えば、君を救ってやりたいと考えたこともあるんだ。十三年間も一緒に生活すれば、これはもう兄弟と同じだからね」
その言葉で囚人はつい嬉し涙を流した。握りしめた右手でその涙を拭った。
「気持ちは嬉しいのですが、私は国家を恨んではいません。この十三年間、反省に反省を重ねまして、自分が殺してしまった相手の気持ちに深く思い至りました。どうしても私に死んで欲しいと願う被害者の親族の気持ちもよくわかります。理論上は難しい制度なのかもしれませんが、それ以上に、私はこの地上にいてはいけない人間なのです」
看守は男を慰めるように彼の肩をぽんと叩いた。
「ようし、今日は最後の夜だ。私も出来るだけ協力して、おまえの願いは何でも叶えてやるつもりだ。何か願い事はないのか? 可能な限り、何でも叶えてやるぞ」
それを聞くと囚人は考え込んでしまった。しばらくすると、囚人の男も吹っ切れたように嬉しそうな顔をした。
「本当に何でも叶えてもらえるのですか?」
「ああ、遠慮はするな」
看守は男を元気付けるようにそう答えた。
「それでは…、これが最後の夜になりますから、やはり美味いものが食べたいですね。贅の限りを尽くした料理を用意していただけませんか」
男は遠慮なくそう言った。看守は気持ちのいい笑顔でそれに応じた。
「よくわかった。すぐに用意させるから待っていろよ」
看守はそう言うと、一度牢屋の外へ出て、携帯電話を使ってどこかへ連絡を取り始めた。それから20分ほどで白い制服に身を包んだ料理人たちがどやどやと押しかけてきた。どうやら、付近の町にある有名な料理店のコックが一同に集って来たらしかった。彼らは男の前に美しいペルシャ絨毯を敷き、その上に世界各国の有名料理を並べてみせた。北京ダックや仔羊のステーキはもちろん、近海もののオマール海老の姿煮や白トリュフのスープもあった。もちろん、この囚人はこれほどの豪勢な料理を目のあたりにするのは初めてなので、ただ驚くほかなかった。
「これはすごい、本当にいただいてもよろしいのですか?」
「もちろんだ。おまえのために用意したんだからな。さあさあ、これがこの世での最後の食事だ。遠慮なく全部食べてくれ」
看守は余裕の表情でそう答えた。男は腹を空かしていたので近くに置いてある料理から手当たり次第に口に運び、ものすごい勢いで食い尽くしていった。一時間ほどでほぼすべての料理を食べ尽くし、男は満足そうに食後の高級ワインをガブガブと飲んだ。看守も満足そうにその様子を眺めていた。
「ああ、こんなに贅沢をしたのは初めてです。しかし、こんな凄い料理を食べてしまいますと、この世に未練が生まれてしまいますね。せっかく、先ほどまでの祈りで死への覚悟が整っていたというのに」
男は赤い顔で微笑みながら、冗談混じりにそう言った。
「何も罪悪感を感じることはないぞ。おまえは明日には死んでしまう人間なんだし、このぐらいの贅沢はきっと神様が許してくれるさ」
「それはその通りです。これは文字通り最後の晩餐ですからね。しかし、少し不思議に思ったのですが、この料理にはかなりの費用がかかっているのではないですか? 国家が死刑囚の私にこれだけの予算を用意してくれるとは思えません。いったいどうやってこの料理の費用を捻出したのですか?」
看守はその質問に一度首を横に振ってにこやかに答えた。
「これはおまえにとって最後の贅沢だ。お金のことなんて何も気にしなくていい。おまえはただこの最後の夜を楽しんでくれればいいのだ」
囚人はあまり深く考えずにその答えに納得した。自分の命にはまだそれだけの価値があるのかと思った。
「さあ、他に何か願いはないのか? まだ夜明けまでは時間がある。願い事があれば何でも叶えてやるぞ」
囚人はそれを聞くと、再び考え込んだ。
「そうですね。では東洋の花火というものが見たいです。我が国にも花火はありますが、その作りはとても大雑把です。東洋の特に日本の花火はとても優美で繊細だと聞いております」
看守はその願いを聞いて大きく頷いた。
「よくわかった。それもお安いご用だ」
そう言うと、彼はまたもや携帯電話を取り出し、どこかへ連絡をとり始めた。それから20分もすると、刑務所の外が騒がしくなってきた。男が窓から覗いてみると、鉢巻きを締めた和服姿の男たちが数十人も集まって何か準備をしていた。
「ようし、そろそろいくぞー!」
その中の一人が大声でそう呼びかけると、たちまちにして夜空に美しい花火が打ち上げられた。囚人は目を見張った。赤い光、青い閃光、緑色の残光などが次々と夜空を彩っていった。花火職人たちは巨大な花火を惜しげもなく次々と打ち上げていった。わずか2時間の間に数百発の花火が夜空を輝かせ、そして一瞬の輝きとともに散っていった。囚人は天界のようなその素晴らしい光景にすっかり見惚れていた。
「いや、これは美しい。私は感動しました。こんな素晴らしい時間を独り占め出来たんですからね。この世にこれに勝る贅沢はありますまい」
「そうか、おまえが喜んでくれれば嬉しいよ。何しろこれはおまえにとって最後の贅沢だからな」
囚人は少し暗い表情になり考え込んでしまった。
「しかし、こんなことまでして頂いて本当に大丈夫なんでしょうか? 日本の花火といえばたとえ一発でも、とても高価なはずです。それをあんなに惜しげもなく打ち上げてしまって費用の方は大丈夫なんですか? いったい、あの花火たちの費用はどこから出てくるのでしょう」
看守はそれを聞いても余裕の表情で首を振った。
「何を言う。今夜はおまえにとって最後の晩ではないか。人間の命にはそれ相応の価値がある。明日になれば死刑によって命を取られるという悲しい運命にある、おまえの気持ちを慰めるためなら費用はいくらでも出るのさ。何せ、たった一度きりの人生なんだ。おまえにはすっかり満足してからあの世に行って欲しいからな」
囚人はそれを聞いて今夜の費用は国家が自分のために支払ってくれているのだと思うことにした。それ以外に納得のいく答えは見つけられなかった。
「それを聞いて安心しました。犯罪者である私に対して、国家がそこまで気を使ってくれるとは思わなかったのです。あなたの言葉を聞いてとても感動しました」
「まだ夜明けまでは時間がある。何か他に願い事はないのか?」
囚人はそう尋ねられると、これまでのことを思うと、あまりにも図々しいとも思ったのだが、ここまできたら、今さら断るのも悪いかと思い、次の願い事を打ち明けた。
「では図々しく申し上げます。この近くのジェンダという街の一角で20歳にも満たない数十人の美女たちが薄い水着のような淫らな格好で夜な夜な踊り明かすダンスホールがあるのです。私も犯罪を犯す前からその存在は知っていて、一度でいいから入ってみたいと思っていたのですが、根が純情なのと、その店の入場料が高額なこともあって、結局入れないままだったのです。あの美女たちのダンスをこの目で見られたら、それはもう、この世になんの悔いもありません」
「なんだ、そんなことでいいのか。すぐに準備をするから待っていろよ」
今度も看守は落ち着いてそう言うと、三たび携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。その電話もほんの十数秒で、すぐに話はついたようだった。囚人はわくわくしながらも、おとなしく黙って待っていた。それから20分ほどもすると官舎内がにわかに騒がしくなり、どたどたと軽やかな足音が響き渡り、30人以上の美女たちが一列に並んで踊りながら賑やかにやってきた。太鼓やラッパを背負った半裸の男たちもあとに続いていた。一行は囚人の男を取り囲み、うやうやしく一礼すると、たちまち派手な音楽があたり一帯に鳴り響き、大勢の美女たちによる華やかな舞台が始まった。若々しい美女たちはほとんど全裸のような淫らな格好で、頭には純金の髪飾りを刺し、ダイヤの首飾りを下げながら、銀色に光り輝くプラチナ製の鞭を振りかざし、腰をくねらせて踊っていた。囚人の興奮はピークに達した。最初は座って拍手をしているだけだったが、彼女らの陽気なダンスを見ているうちに、居ても立っても居られなくなり、彼もやおら立ち上がり、美女の腰に手を回して一緒に踊り始めた。あまりの派手な騒ぎに、いったい何が起こったのかと、隣の監房の囚人も鉄格子越しにこちらを覗き見ようとしていたが、それは角度的に難しいようだった。今夜の優美な、そして淫らなダンスパーティーを享受できるのは、処刑を明日に控えた囚人の男だけだった。彼はもう有頂天だった。自分の目的のすべてを達成していた。あまりの幸せに明日自分が死ぬことなど忘れてしまっていた。汗だくになりながら、数時間に渡って彼女らと共に踊り続けた。やがて、夜空が東の方から白みだすと、ダンスチームの一行は素早く後片付けをして引き下がっていった。囚人はこの夜の数時間の出来事にすっかり満足していた。もう、思い残すことは何もなかった。彼は看守の前にひざまずいて熱くお礼を言った。
「ああ、果たして今の私以上に幸せな人間がこの世にいるでしょうか。たった数時間で、この世の楽しみをすべて味わい尽くしたような気持ちです。もう、この世に一切の未練はありません。数時間後の処刑を喜んで受け入れます」
看守も囚人のその様子を見て暖かい笑顔を浮かべ、満足そうに頷いた。
「そうか、最後に思う存分満足出来たのならそれは良かった。往々にして俗人は死を前にすると、思考がどうしようもないほど暗い方に傾いてしまい、何か突発的に嬉しいことが起きても、思考がそれを受け入れられず、素直に喜べないものだが、おまえはその達観した表情を見る限り、すっかり今夜の出来事に満足したようだな。そこまで喜んでくれたら私も嬉しいよ。さあ、あとは二人で雑談でもしながら、その時を待とうではないか」
二人は牢屋の床に粗末な敷物を敷いてその上に座り込んで処刑場の役人が迎えに来るのを待っていた。看守は時折囚人の様子を伺ったが、男には少しも恐怖は見られなかった。すでにこの世に未練はないようで清々しい表情でその時を待っていた。しかし、夜が明けてから2時間が経っても迎えは来なかった。処刑の日の前例によれば、この時間にはとっくに迎えがきているはずだった。看守は首をひねった。
「おかしい…、何かあったのかな?」
その時だった。監房の廊下をけたたましい足音が響き渡って、一人の下っ端の役人が腕を振り上げながら走り寄ってきた。
「大変だ! 大変なことが起きたぞ!」
その役人は顔面蒼白になってそう叫んだ。
「どうした、いったい何が起きたというのだ。まずは落ち着けよ」
看守は驚くべき報告を持ってきた同僚をなだめ、コップに水をついでそれを飲ませてやった。長距離を懸命に走ってきた、その役人は水を飲んでようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「それが、大変なことが起きたんだ! まさに革命的だ。我が国の国王に、長年後継ぎに恵まれずに悩まれていた我が国の国王に、つい先ほど念願の男の赤ちゃんが生まれたんだ!」
「おお、それはめでたい」
看守も顔をほころばせてそう言った。
「ところが、話はそれで終わりじゃないんだ。いいか、よく聴けよ。国王はお子さんが生まれたことをたいそうお喜びになられて、ただちに恩赦を発せられたんだ。それによると、すでに10年以上牢獄に囚われている重罪犯罪者は全員無罪になるということだ」
「そ、それは本当ですか? ということはつまり…」
囚人の男はすがりつくようにして役人の男の足下に身を投げた。
「そうなんだ、そういうことだ。つまり、君はこの瞬間に無罪放免だ!」
役人は男の肩を一度強く叩いてそう言った。すでに13年も監獄に囚われてきた男はその話を聞いても実感が湧かず、信じられないような思いだった。
「さあ、君は今から自由だ!」
役人はそう告げると、男の手錠を外し、牢屋から外へ出してやった。囚人は牢屋の外に出られた喜びを噛みしめるようによろよろとゆっくり歩き回った。
「ああ、これは本当のことだろうか…。何度ほっぺたをつねっても夢から覚めない…。看守さん、あなたは先ほど言ってくれましたよね。私は13年の間、被害者に祈りを捧げてきたから、彼らもそろそろ私を許してくれると…。その通りのことが起きたんです。神の御意志がついに私を許してくれたんです!」
囚人の男は天を仰ぎながら感極まってそう叫んだ。彼は看守の手を握った。
「本当にありがとうございました。あなたの温かい思いやりのおかげで今日まで生きてこられたんです。私はふたたび無実の身になりました。これからは人の役に立つ職業に就いて、自由に生きていきたいと思います」
しかし、看守はその言葉を聞いてもあまり嬉しそうではなかった。奥歯に物が挟まったような複雑な表情をしていた。彼は囚人に聞かれないように独り言を発した。
「いや…、しかし、本当にこれでいいのかな?」
囚人が何度も両手を上げて喜びを噛み締めていても、看守は戸惑いを隠せないようにうつむきながら立っていた。囚人の男は二人の役人にもう一度礼を言ってから監獄の外へ出て行こうとした。しかし、監獄の入り口では黒いスーツを着て武器を携帯した数人の不気味な男たちが囚人を待っていた。
「あなたたちは何者ですか?」
新たな訪問者に脅えながらも、釈放されたばかりの囚人は勇気を振り絞ってそう尋ねた。
「うるせえ! さっさとこっちに来い!」
マフィアと思われる男たちの怒りの矛先はどうやら囚人の男に向いているようだった。
「こ、これはいったいどういうことです?」
囚人は震えながらも振り返り、申し訳なさそうに立ち尽くしていた看守に尋ねた。
「うむ…、君の処刑はほぼ確定事項だったからな…。まさか、こんなことになるとは…」
看守は頭を二三回かいてから事情を説明した。
「実は今日の処刑によって失われるはずだった君の命を、生命保険会社への担保にして、マフィア系の金融機関から金を融通してもらったんだ。勝手なことをして悪かったな。そうでもしなければ、花火やら食事やら、あんな贅沢をする費用は捻出出来なかったろうしな。だから、マフィアの連中にしてみれば、君がちゃんと死んでくれないと、貸した金が取り戻せなくて困るというわけさ」
囚人はそれを聞いて、絶望の谷に叩き落とされ、真っ青になった。
「ちょっと待ってください! つまり…、せっかく無実になったというのに、私は結局死ななければいけないというわけですか?」
「すまん、その通りなんだ…」
看守は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「何をぶつぶつ言ってやがる! さっさとこっちに来やがれ!」
マフィアの男たちは殺意を秘めながら、囚人の男を羽交い締めにした。男は一度地獄から天国へと引き上げられ、今また一転して地獄に突き落とされ、もうすでにわけがわからなくなっていた。
「いやだあ、死にたくない! なんでこんな目に、私は何も、何も悪いことなどしていないのに〜」
囚人は錯乱して泣き叫んだが、マフィアたちは乱暴にその身体を引きずって外に連れ出そうとしていた。
「早く来やがれ! 砂漠でも海底でも、好きな方に埋めてやるぜ!」
囚人は必死に抵抗して、涙ながらに周囲に助けを求めたが、看守も他の役人も、ことの成り行きを見守ることしか出来なかった。
                     了
<2013年1月18日>