『その砂浜へは自転車で行ったように思う。そう、たしかに自転車だった。砂浜では三人の女性が私のことを待っていてくれた。その三人ともに、私が見知っている人物である。私はずいぶん遅れてしまったので、あわてて自転車から降りて、三人に挨拶した。遺体はもうすでに埋められていて、その上に軽く砂がかけられていた。遺体が埋められている部分だけ、他の部分と比べて少し盛り上がっているので、一目瞭然だ。私は遺体の前で中腰になり、両手を合わせて、目をつぶった。すると、一人の女性が、突然私の手を掴んで、合わせていた手のひらを引き離した。私が驚いて、その人に理由を尋ねると、「その合わせ方ではだめだ。右手で左手の親指を握って、その上から左手をかぶせるようにしないと。死者に足を引かれるよ」というようなことを教えてくれた。私は言う通りに手を合わせ、再び眼を閉じた。すると、それにあわせて、三人の女性が何か不思議な呪文を唱え始めた。その呪文の内容は忘れてしまった。しかし、その砂浜が異様に寒かったことをおぼえている。私はその寒さとは別に、暗闇の中に潜む、常軌にあらざるモノの気配を感じ、細かく身を震わせた』

 そこまで書いたところで一度ペンを置いた。
 私はコーヒーを一口すすると、静かに眼を閉じて、空想とも瞑想ともわからぬ心境に落ち着いていた。仕事が調子よく進むときに、一休みして考えることはいつも同じである。世に言う、学者や評論家などという者が嫌いである。全くもって、何の仕事をしてどのような機関からいつ金をもらっているのか、そして、どうやって飯を食っているのかわからず、得体が知れないからだ。教授などというのも、これとよく似ているが、あれは学徒にものを教えるという、表向きの仕事があるので、ある程度は納得がいく。自分もそれほど立派な職についているわけではないので、あまり偉そうな事は言えないが、遠からず、その者たちがどんな不正を働いて金を得て飯を食っているのか、その正体を暴いてやるつもりでいた。

 数日後、そのきっかけは、案外近いところからやってきた。自分が文章を提供している、ある出版社の編集者をしている友人が、近く行われる『新理論発表会』へ、私を誘いに来たのだ。これは世界中の学者どもが、年に一度、一同に集い、自分たちがその一年の内に考え出した、様々な新理論を発表する催しだ。しかも、この会での発表した論文の反響いかんで、ノーベル賞をはじめとする、世界中の学術賞の選考に影響が出るらしい。
 私もその存在だけは知っており、何とかその会の全容を解明してやろうと思っていたこともあったが、世界中のいかなる思想の新聞や機関誌にも、この会の情報は出ておらず、しかも誰も知らぬような孤島で、厳重な警備の中行われるとあっては、これまで手も足も出なかった。
 友人の編集者はこの会の運営者が親族にいるらしく、そのコネを使って、毎年のように出席しているのだと自慢げに話した。その友人の話だと、昨年発表した私の論文『怠け者の行動に関しての謙虚なる進言』が、この発表会の出場者を選ぶ審査会にかけられ、入選には届かなかったが、割といいところまでいったらしい。そのことがあって、今年の理論発表会の選考委員の一人に私を招きたいのだという。日頃から、人に会う度に、頭の固い学識者たちの悪口をぶちまけている私自身にとって、これは願ってもない誘いであるといえるし、断る理由も全くない。友人の招待をありがたく受けることにした。友人は私の承諾を受けて、一つだけ注文を付けてきた。それは、「当日はできるだけ、頭が達者に見えるような服装をしてきてくれたまえ」というものだった。私は常日頃から、身格好にはそれほど気を使う方ではなく、レベルの高い学術会での礼儀作法なども知らないので、この助言は適当なものであると思われた。
 なんでもこの友人の話では、その島に着いても、知性の高い学識者と見なされない者は上陸すら許されないらしい。上陸を許されないから、その後どうなってしまうのか、については、彼はあえて触れなかったが、「当日はビシッとしたスーツでも着こなした上、ぶ厚い学術書の一つや二つ抱えてきてくれたまえ」
 私のほうが年齢は上のはずだが、礼儀を知らない友人は電話での会話の中で最後にそれだけ付け加えていった。
 理論発表会が開かれる当日、私が港に着いたのは真夜中だった。横浜港に集合ということなので、相当豪華な船旅を予想していたのだが、港には大型客船の姿はなかった。警備員や船舶の整備員・清掃員の姿も見えなかったので、誰かに会の詳細を尋ねることもできなかった。仕方がないので、誰もいない深夜の港を一人徘徊していると、「おう〜い」と私を呼ぶ声がした。そちらの方を向くと、港のはずれに友人の姿があった。やっと安心すると、彼のほうへ近づいていって、「おいおい、船はまだ来ていないのかい?」と尋ねると、友人は不快そうな顔をして、「あれだよ、あれ」と言いつつ、近くに停泊していたナマズの形をした奇妙な遊覧船を指さした。観光地の湖などによくある白鳥の観光船と大きさは同じくらいあるので、三十人くらいは乗れそうだったが、これで品位の高い学術会に向かうとは思えなかった。最初は想像力豊かなジョークだと思っていたので、大声で笑ってしまったが、そんな私を尻目に、友人はさっさとその船に乗船してしまった。彼がえらく真面目な顔をしていたので、私も従わないわけにはいかなくなった。乗船してみると、船内が以外に広いことや、もうすでに二十人ほどの客が乗っていることに驚いた。
「結構、客はいるんだな」
私がそうつぶやくと、「一大行事だよ。世界中の思想研究の方向性が今日決まると言っても過言ではないのさ。良識のある人間だったら、これに参加しない手はないだろう」と友人も相づちを打った。
 周りを見回してみると、乗客には年配の人間が多く、そのほとんどが四十歳以上と思われた。高い品位を見せるためか、その中のかなりの人間が真っ白なフロックコートを着込んでいた。さらに驚いたのは、それらの客の中の数人が、目をつぶってお経を上げたり、身体を揺すりながら教会の賛美歌を歌っていたりするところだ。
 船員たちは全員男で、様々な人種が混ざっているにもかかわらず、皆、中国人のような派手な格好をしていた。そして、お経を上げたり、歌ったりしている乗客の横で、船員たちは皆、それにあわせるようにリズムを取りながら踊っているのだった。私はそれを見て吹き出しそうになった。しかし、なんということだろうか、船員たちが踊り始めたのを見て、これまで静かに佇んでいた他の乗客たちも、各々自分の書物など取り出して、他の乗客には負けじと、大声で自己アピールを始めてしまったのだ。私は乗客たちのそんな奇妙な行動を見て、唖然としてしまったが、そんなとき、友人が側まで寄ってきて、「心配はいらないですよ。あれはねえ、船員たちや他の乗客に自分の知能の高さを見せつけようとして、やっているんですよ。学術研究の世界はなめられたら終わりですからね」と教えてくれた。
 時間が経つに連れ、乗客たちの派手な自己アピールはエスカレートする一方で、立ち上がって、首を振り回しながら、白目を剥き、漢語を読み上げる者もいた。友人はその人の様子を見て、「しかしまあ、あれは少しやり過ぎでしょうねえ」と付け足してくれた。だが、少しやり過ぎなどと悠長なことを言っている場合ではない。なんと、私の隣に座っていた七十過ぎくらいの老婆が、突然、私の肩を両手で掴まえたかと思うと、そのまま耳元で大声を張り上げ、四字熟語を連呼し始めたのだ。肩をすごい力で抑えつけられてしまったため、私は身動きもできず、混乱してしまい、抵抗することもできず、それを制止するすべを知らなかった。しかし、さすがにこれは黒人の船員によって差し止められ、老婆は私の身体から無理矢理引きはがされた。船員たちから少しの警告を受けると、老婆はすぐに落ち着きを取り戻し、照れくさそうに微笑みながら頭を掻いていた。
 やがて、一番図体の大きい、東洋人風の船員が、船の中央に向かってやおら歩みだし、おごそかに一礼すると、そこに吊してあった大鐘を打ち鳴らした。その大音響に反応して自動的にドアが閉まり、ゴトゴトと鈍い音をたてて、船が動き始め、港から離れていった。
 船が動き出すと同時に、先程の黒人の船員が、何やら大声でわめき始めた。あちこち視線を動かしながら、乗客全員の顔を確認するように何か訴えているようだが、日本語でも英語でもない言語で叫んでいるため、内容が理解できない。それでも、耳をそばだて、よく聞いてみると、「パロマカ、パルマ、パルマロ!」と必死の形相で訴えていて、まるで悪魔でも呼び出す呪文のようだ。周りの乗客たちも、そのリズムに合わせて、「バ、バ、バ!」と右手を突き上げながら呼応していた。私はその恐ろしげな状況の中で、自分はどうすればよいのかと、びくびくしながら、辺りを見回していたが、友人は、「これから点呼が始まるんですよ」と落ち着いた口調で教えてくれた。私が点呼とは何のことかと聞き返すと、「俗に言う『偏差値点呼』ですよ。パロマというのは学術用語で『自信があるので言わせてもらうが』という意味です。あなたもパロマの後に自分の知能偏差値を付けて答えてください。しかし、嘘をつくと、船からたたき落とされますよ」と忠告してくれた。俗に言うも何も、今まで旅行の最中に偏差値点呼などされたことがない。しかし、時間も無いので、知能偏差値とは何かと友人に聞いてみた。それに対して、友人は眉間にしわを寄せながらも、長々と熱心に説明してくれた。それによると、知能偏差値とは小・中・高校の合計偏差値を二で割って、人格値や大学偏差値などを付け足したものだという。
 やがて、船員たちの鐘の合図で点呼が始まると、乗客たちは、端から順番に「パロマ169」「パロマカ171!」などと、右手を突き上げながら、一定のリズムに乗って答えていった。ついに、私の番が来たのだが、自分の知能偏差値など知るはずもない。大体、小学校時代の偏差値や人格値など、どうやって求めればいいというのか、算出の方法がさっぱりだ。仕方がないので、てきとうに「パロマ161」と苦笑いを浮かべつつ答えておいた。少し声が震えてしまったので、隣に座っていた友人には嘘だと気づかれてしまうかと思ったが、意外なことに、彼は私の方を見ることもなく、何も言ってこなかった。しかし、しばらく経った後、私の耳元に顔を寄せ、「どうせ、後でばれますよ」と、ぼそっと告げてきた。
 それにしても、あれだけ派手に点呼をやらせておいて、船員たちはメモを取った様子がない。いったい何の意味があるのか。それとも、乗客のそれを全て暗記してしまったのだろうか。その後は船内でこれといったイベントはなく、航海は六時間ほどで終わり、前方に真っ黒な島が見えてきた。その港に近づくと、船はゆっくりと旋回し、碇が降ろされた。
 乗客たちが船から降り始めたので、私たちもそれに続き、海岸に降り立った。船から降りてみると、なるほど、そこは島だった。周りを見回しても、延々と続く岩壁と海しか見えず、内陸は風が吹きすさぶ荒れた原野だった。きれいな建物や緑などは一切なく、何とも心細い。船はあんな幼稚な形をしているが、ごつい音を鳴らしながらも、常時かなりのスピードを出していたようなので、相当遠くまで来ているということはわかっていた。船内では理論発表会が行われるのは南洋の島ではないだろうかと考えていたのだが、どうやら予想は外れたようで、着いた途端にえらく寒い。そこで、「ここはどこだい。」と友人にさりげなく尋ねてみると、「う〜ん、口で説明するのは難しいようだが、まあ、簡単に言うと、『仕事や遊びで来るような場所ではない』ということだよ」といった答えが返ってきた。私のような俗物では、しばらく考えないと理解できないような不可解な説明だったが、とりあえず、「ほう、そういうものかい」と相槌を打っておいた。
 さて、乗客たちのほとんどは我々より先に降り立っているのだが、彼らは前方で一列に並び、何かを待っている様子だ。島に降り立つのに旅券の検査でもあるのだろうか。近くに寄っていって見てみると、その列の先頭で、この島の島民らしき数人の男たちが、乗客たちの頭に不気味な機械を近づけ、身体検査をやっているのだ。
「連中はどうしたんだ。今度は放射能値でも測定する気なのかい?」
私がほくそ笑みながら、多少の嫌みを含んで尋ねると、「ああ、あれがほら、さっき各々が申告した人間偏差値の真偽を測定する機械だよ」と、友人は尖った眼鏡の下で目を光らせながら答えた。
「自分はさっき、船内の点呼で、突然ふられたから、いい加減なことを言ってしまったが、大丈夫だろうか。ばれやしないかな」
「そうだなあ、確か前の開催の時、申告した偏差値と実際の数値に大幅なずれがあった男がいて、その男は頭に参考書を縛り付けられたまま、海に沈められてしまったということだったが、しかしまあ、祈るしかあるまいよ、こればっかりは」
やがて、我々の番がきて、島民の一人が、「ゲハマパロカ」などと言いながら近づいてきた。その島民は私の頭に円錐状の測定器を押しつけた。その機械はとてもひんやりとしていて、皮膚に触れるとブイーンという音を発した。この瞬間に脳波が測定されているのかと思うと気分が悪かった。しばらくすると、値が出たらしく機械からチ〜ンという音が聞こえた。島民は数値を確認するなり、「ぎゃおー157!」という叫び声を発し、奇怪なダンスを踊り始めた。私の偏差値に申告と4つのずれがあったのだ。その男の踊りを見て、他の島民たちが、わさわさと集まってきてしまった。どうやら私の処遇について、これから協議をするらしい。とんでもないことになってしまった。しばらくすると、しゃがみこんで脅える私のほうへ、一人の島民が近づいてきた。そして、持っていた分厚い参考書で、私の頭をバカッと一叩きした。その後、島民は驚いている私の背中を進行方向へ向けて、ドンと突き押した。どうやら、島での滞在を許可してくれたようだ。しばし呆然としている私に向かって、友人は「よかったな、4つ程度のずれだったから、そのぐらいですんだんだよ」と声をかけてくれた。
 船員や島民など、一般の世界ではお目にかかれないような変わり者たちから、ようやく解き放たれたので、気持的にも多少のゆとりが出来た。そのため、少し辺りを見学してみることにした。しかし、島内にはずいぶんと霧が立ちこめていて、そんな私のやる気をくじいた。
「いやあ、これはひどいな。今朝がた、雨でも降ったのかな」
私がそんなことを言うと、「この島はいつもこんな感じだよ。常時こういう天候だからこそ、この島が会場に選ばれているわけじゃないか」と、友人からの返答がきた。今いる場所は小高い丘のようになっていて、ある程度景色を見渡せるのだった。この島には木造ながらも、人家が点在していた。どうやら、いくらかの住民がいるらしい。市場のようなものも見えてきた。島の中央にはコンクリート造りの白い大きな建物が見える。私の目にそれが見えたとき、友人が、「ああ、ほら、あれが会場だよ」と説明してくれた。会場のほうへ向かって歩いていくと、この島の島民らしき子供たち数人とすれ違った。どの子も、頭に辞書を載せ、手を前で合わせて、何かぶつぶつと呟きながら歩いていた。ずっと下を向いていて、私たちの事も気にならないようであった。私が後ろを振り返って、そんな子供たちを目で追いながら、「しかしあれだね、この島の住民というのは、さっきの島民たちもそうだったが、子供に至るまで、何か少し変わっているようだね」と言うと、友人は不服そうな顔をして返答した。
「おい、君、君、そんな失礼なことを言うもんじゃないぜ。この島には世界の名だたる評論家や学者などの末裔や、その近親しか住めないんだ。つまり、先程の子供たちでも、もう少し大きくなれば、あっと言う間に学会の中心人物になるわけだよ。君なんかはすぐに追い抜かれるわけだから、今のうちから、彼らに頭を下げておいたほうが良さそうなもんだがね」
「そんなひどいことを言わなくてもいいだろう。ちょっと両親の頭が良いからって、子供までがいい学者になれるとは限らんし、だいたい、僕はその学者や評論家が信用できなくて、文句を言うためにここへ来たようなもんなんだぞ」
「ふ〜む、まあそういうことならもう少し説明しておこうか。いいかね、この島に住んでいる人々の血統の良さにはさっきも触れたが、この島では、その優れた人間同士が交配することによって、さらに優れた純血の子孫を生み出しているんだ。とても君なんかのかなう相手ではないさ。それに君はしょっちゅう評論家や学者を小馬鹿にするような発言をしているらしいが、彼らのような優れた人間が、すばらしい理論を創ってくれるからこそ、僕らはたいした労働をせずとも、こうしてのんびりと生きていくことができるんだよ。つまり、まあ、政治経済とか企業社会とか外交とか、そういうこの世の事物全てが、理論という絶対的な存在の上に成り立っているわけだよ」
「もう、わかったよ」
難雑な話になってしまい、反論できなくなり、私はなんとか彼の話を中断し、つまらなそうな顔をして、再び歩き始めた。濃い霧のため、目の前に人や物体が突然姿を現して、人間を驚かすというような現象が起こりがちになっている。今も5メートルほど先に得体の知れない屋台が姿を見せ、私をひどく驚かせた。店が出ているということは、住民もこのイベントを多少は意識しているということなのか。それにしては、港からここまで歓迎ムードを感じることはなかった。私が最初に目をつけたこの店には、何やら黒いはんぺんのようなものが、所狭しと並べられ、売られていた。そのはんぺんの表面には古代文字のような奇妙な文言が刻まれていた。この島の名物なのだろうか。私が不思議そうな顔をしていると、友人は「ああ、この島特有のもので、知的食物と呼ばれているものだよ。これを一枚食べると、少しの間、自分の偏差値が単純に1上がるそうだよ。どうだい、君も発表会の前にこれを食べて、他の来客とのハンデを少しでも埋めておいた方がいいのではないか?」と説明してくれた。こんなものは間違いなくこの島にしかないであろうが、味が想像できないし、とても信用できる代物ではないので、遠慮しておいた。
 島に到着してから、一時間が経ち、かなりの距離歩いたように思えた。ようやく目の前にぼんやりと会場の姿が見えてきた。何となく全体像はつかめたが、霧のせいで、もう少し近づかないと細部まではわからない。それにしても今日は霧が濃い。そう言えば、横浜港にも霧がでていたっけ。
「それにしても、さすがにこうまで霧が濃いと、何か恐い気がするね。人に見せたくないようなものがあるみたいじゃないか」
足下の小石を蹴飛ばして、じゃりじゃりいわせながら、私がそんなことをつぶやくと、友人は微笑した。
「君もわからない男だな。もう一度言うが、霧が濃いからいいんじゃないか」
「しかし、これでは島の景色も会場の姿もよく見えないぞ」
「それもいいことじゃないか。だいたいねえ、今の世の中に何か一つでもはっきりと見えるものがあるのかい。重要なものや、吐き気をもよおすようなものにはいつも霧がかかっていて、我々はそれをはっきりと見ることが出来ないが、それとともに、それらを見なくても済んでいるようなところがあるんだ」
私は猛烈な反論を用意していたが、私の声をかき消して、会場のほうで、大きなドラが打ち鳴らされた。
「ああ、あれが開場の合図だよ」
友人はそう言って、私から目をそらすと、会場の入り口に向かって歩き出した。私もそれに続いた。近づいてみると、その会場は私の住む町にある公民館のような格好をしていた。入り口付近の沿道には、なんと二宮金次郎の銅像がずらっと一列に並んでいた。
「いやあ、なかなか壮観だが、しかしなぜだろうね、この島の連中は日本に興味があるのかな」
私がこれに驚き、そう言うと、友人はまたも不気味な笑みを浮かべ、語り始めた。
「まあ、現存している日本の芸術作品の中でまともに評価できるのは、この銅像ぐらいだよ。見てごらんよ、あの、『真面目に勉強しなければ、生きている意味がない』とでも、言いたそうな顔を。この像以外の彫刻やら絵画なんて、僕に言わせれば道楽の域を出ないね」
 私はもう反論するのはやめ、とにかく、黙って会場に入ることにした。ところが、会場の入り口には、奇妙なことが書かれた看板が掛かっていて、再び我々の足を止めた。
  一 完全禁煙のこと
  二 偏差値が60以下である者の入場を禁ず
「室内禁煙というのはよくわかるし、しごく当然のことだが、はて、『完全』という言葉が付くと、少しわかりづらいようだね、どういう意味があるのかな」
不思議に思って、私がそうつぶやくと、友人は自慢げに、また説明を始めた。
「これこそ、我々がこの神聖な島に到達したことを実感すべき文章だよ。いいかね、禁煙なんてのは、世界的に見れば当たり前のことなんだよ。今や、運動に関係する施設や乗り物などの公共の施設はすべて禁煙だ。しかしね、この島ではそんな低レベルなことをいちいち言いたくないのさ。少しでも学のある人間なら、煙草の煙が人体に良くない、なんてことは乳幼児の頃から理解していて然るべしだからね。つまり、この完全という言葉には、『言うまでもないが』という意味がかなり含まれているんだよ。わかったかね?」
「しかし、それはおかしいだろ。頭のいい人間だって、煙草の一本や二本吸うだろうし、そんなに有害な物なら、政府の認可を受けて、町中で売ることなど出来ないはずだろう」
喫煙者の私は懸命に反論した。
「おやおや、それは偏差値50以下の論理だよ、君。いいかい、周りに人がいないから吸っていいとか、自分の身体のことなんだから別にいいだろとか、自販機で売ってるんだから、買ったっていいはずだろ、なんていう意見は、全て喫煙者の主観的な論理でしかないわけだよ。それに、本当に優れた学者に煙草を吸う人間はいないよ。少しでも学のある人間なら、わかるんだよ、煙草自体がこの世に不要な物だって事がね」
私は腹が立ってしょうがなかったが、言い返す言葉も見つからないので、仕方なく話題を変えた。
「それじゃあ、次の偏差値のほうの規定については、どう対処したもんかね。このままでは、数値の足りない私は入場できないのだが」
友人も深刻な表情をして、これには同意した。
「あんな規定は去年来たときにはなかったはずだが、はて、最近創られたのかな。それにしても困ったねえ。君の頭の悪さにここで足を引っ張られることになるとは思わなかったよ」
友人は私のほうへ顔を向けると、もう一言付け足した。
「これでわかったと思うが、頭が悪いということはそれだけで罪なんだよ」
私はついに頭にきて、顔を真っ赤にしながら、後方に向かって走り出した。そして、先程の奇怪な屋台まで来ると、売り物のはんぺんを三枚口にくわえて、再び会場の入り口まで戻ってきた。金を払ったような記憶はない。
私が何か行動を起こすと、すぐに憎まれ口を叩く友人も、今回の私の行為にはさすがに面食らった様子で、呆然とした顔のまま、しばらくは口を動かさなかった。しかし、私の方へ軽蔑の視線をよこすことだけは忘れていなかった。私は冷静を装いつつ、「じゃあ、行こうか」と呼びかけ、彼を先導して、ようやく場内へと足を踏み込んだ。
 この会場にはロビーや受付といったものがないらしく、入ると、すぐに緑色の幅の広い回廊があり、それが奥に向かってひたすらに伸びているだけだった。その回廊の遙か先に金色の大扉が見えた。
「あの奥が会議場だよ」
後ろで友人がそうつぶやいた。延々と続いているようにも見えるその回廊には他に人影もなく、ただ我々のコツコツと言う足音だけが響いていた。私はその無機質な音をしばらく聞いているうちに、妙に心細くなった。そこで友人に向かって、「いやあ、すごく長い廊下だね。この会場は何だい、えらく広いじゃないか」などと、少し明るい口調で話しかけてみたが、彼からの返答はない。ふと、視線をそらして右側の壁を見ると、『理論というものは理解できない者には生涯理解できない』と書かれたポスターが貼り付けてあった。その言葉の意味を理解しようとしているうちに、私は恐ろしくなってきた。考えてみれば、なんだ、船に乗ってからここへ来るまで、私に味方してくれる人間は誰もいなかったじゃないか。学術の世界というのは偏屈で理不尽で不可解で、しかも閉鎖的だ。彼らのアジトに到着してみれば、私のような素朴な人間ではついていけないような人間たちの集まりだった。はじめはずいぶんと息巻いていたが、来る途中、友人と言い争っているうちに、だんだんと自分に対して自信が持てなくなってきた。そんなことを考えていると、突然右胸がキンキンと痛くなったきた。そこを左手でさすりながら、心臓が痛むわけではないから、まあ大丈夫だろうと、そんなことを考えていたら、今度は左胸が痛くなってきた。私は顔をしかめた。歩むスピードが落ちたので、友人が私を追い抜き、先に奥の扉に到達した。取っ手を握り、強く押すと、音もなく扉が開いた。
「何をしているんだ。はやく来たまえ」
そう言って、友人は大扉の向こうに姿を消した。彼に続いて、私もその部屋へ足を踏み込んだ。
 そこはずいぶん大きな議場で、部屋の中央には三十人ほどが座れる、長円の巨大な卓があった。その円卓の上に飾ってある置き時計や、座っている人間の身なりの豪華さが、近づきがたい雰囲気を強烈に演出していた。そこで、円卓には近づかず、部屋の両側を見渡してみると、周囲の壁に沿って、多くの人が立ち並んでいた。船内で見かけた人も数人いるので、どうやら彼らは見物人らしい。彼らは興味深そうに中央の方を眺めながら、金色のグラスにそそがれた液体を飲みながら、何か楽しそうに話し込んでいた。人恋しくなっていた私は、そのガヤガヤとした声につられて、壁のほうへ歩もうとした。しかし、友人から「おいおい、君はそっちではないだろう。いいからこっちへ来たまえ」と呼びつけられ、中央の円卓の方へ行かざるを得なくなってしまった。見ると、友人は赤い豪華な服を着込んだ婦人と話していた。私が近づいていくと、彼は取ってつくったような笑顔を浮かべ、「さあさ、この人が昨年この会で最も高い評価を受けた人だよ。君も今のうちから、お近づきになっておいたほうがいい」などと、その女性を紹介した。
「あっ、どうも。ご高名は…」と私は軽く挨拶した。体調が悪く、頭がうまく働かないが、この女性は見たことがある。昨年、何かの授賞式で表彰され、「これからもがんばりますので、皆さんも、もっとがんばって下さい」などとふざけた発言をした女だ。その女性は、私のことを視界に捉えると、不適な笑みを浮かべ、話しかけてきた。
「あら、紹介してくれなくても、この方は知っていますよ。昨年、あなたの作品もかなりいいところまでいったんですよねえ。もちろんおぼえてますよ。今日は一緒に審査の方、がんばりましょうね」
「は、はい、どうか、よろしく」
自信のない私の返事を聞いて、友人が追い打ちをかけるように、「先生、この人は学者や研究者が気に入らないらしくて、本日も、今回集まる高名な先生方に何やら文句を言いに来たそうですよ」などと、不敵に笑いながら余計なことをしゃべくった。それを聞いても、女は全く動揺は見せなかったが、声には力を込め、「まあ、それはずいぶん乱暴なことをおっしゃいますね。でも、昨年のあなたの作品も私に言わせれば、そこまで優れたものでは無かったようですけど」と言い放った。私は女のその言葉に動じなかった。あの作品は、自分の部屋で寝っころがって、利き腕ではない手で、てきとうに書いたようなもので、それほど高く評価されては、私自身も困るのだ。顔色を変えることもなく、私は目の前にあるイスに腰を下ろそうとした。そして、何の気もなく、少し顔を上げ、天井を見上げた。天井はモヤがかかっていて見えなかった。私はその時、一瞬にして顔面の温度が下がり、血の気が引いていくのを感じた。
「き、霧だ! こんなところにも霧が!」
私の叫び声を聞いて、友人とその女も上を見上げた。しかし彼らには何も見えないようで、不思議そうな顔をしながら、首を傾げると、互いに顔を見合わせた。
「なんだい、何も無いじゃないか。何だい霧って?」
友人はそう言うと、僕の右手を掴んで、手前にあるイスに無理矢理座らせた。
「まあ、少し落ち着きたまえ。これ以上醜態を晒されると私が困るんだ。しかし考えてみれば無理もないか。君にこんな大仕事はやはり無理だったのかもしれないねえ」
二人は腹を抱えながら、下品な声で笑い出したが、私にはその声がうるさくてしょうがなかった。赤い服の女性は真顔に戻り、話を続けた。
「それで…、どのような文句があるのでしょうか。私でよろしければ、代表として、お話を伺いますけど」
私は頭が痛くてしょうがなかった。右手で前頭部を押さえながら、なんとか言葉を発した。
「いや、しかし、あなたたちはすぐに物事を数字で言い表そうとするじゃないですか…。人間の能力を数値で判断するというのは…、まず、おかしいじゃないですか」
私はそんな言葉を呟きながら、その女の方へ顔を向けたが、彼ら二人の顔は煙幕でもかけられたように真っ白で、よく見えなかった。わかった。霧のせいではなく、私自身の視界が狭くなっているのだ。きっと、悪い病気にかかったんだ。そこまで考えが至ったとき、再び、呼吸が苦しくなってきた。さっきよりひどい。右胸もキンキン痛む。私は自然とイスから立ち上がり、出口の方に足を向けた。
「おい! 待てよ! どこへ行くんだ?」
友人が後ろから叫んでいるが、私はもう、この時にはこの友人のことも、この理論会の審査のことも、どうでも良くなっていた。しかし、なんでこんなところまで来てしまったのだろうか。来るんじゃなかった。私は何とか家に戻りたかったが、それは難しいように思われた。息が苦しくて、顔をしかめる私を見て、周りの人間たちがガヤガヤ騒ぎ出した。しかし、「あの人かわいそうね。私は平気だからいいけど」というような視線が一番痛いのだ。そんな人間たちの無責任さに腹が立った。私はなんとか議場から抜けだし、廊下に出た。
 通路の雰囲気は一変していた。長い、来たときよりもずいぶん長くなっている。私は左手で顔を覆い、右手で胸を押さえながら、ふらふら歩いた。このまま死んでしまうにしても、できるだけ自分の場所に近づいて死にたかった。しかし、もう遅いかもしれない。なんでこんなところまで来てしまったのか。私は必死の思いで歩き、ようやく建物の外へ出た。
 だが、外はすっかり霧に覆われてしまい、どこもかしこも真っ白だった。もう何も見えない。仕方がない。とにかく船へと、ナマズの形をした船へ。そう念じながら、足を引きずり、先程の丘の上まで戻ってきたが、この島のどこを見回しても、船など見あたらなかった。いや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。困り果てた私が、そこから建物の方を振り向くと、小さく友人の姿が見えた。彼は口を大きく開けて、何か叫んでいたが、もう何も聞こえてこなかった。私は「もう、いいよ」とつぶやき、小さく手を振った。足元だけを見ながら、海岸をふらふら歩いていると、あの黒人の船員が立っていた。私は船はどこかと尋ねようとしたが、息が詰まり、声は出ないようだった。船員は黙って右手で左前方を指さした。そこには一隻の手こぎボートがあった。そうか、ここからは一人なのか。私は倒れ込むようにそのボートに飛び乗ると、必死にオールを掴んだ。ボートの上から、船員の方を振り向いて、これを借りてもいいかどうか尋ねようと思ったが、彼は冷たい視線を向けるだけで、何も言ってくれなかった。その向こうには、友人の姿はおろか、もう何も見えなかった。いや、初めから何もなかったのかもしれない。
 そして、私は一寸先も見えぬ濃霧の中へ船をこぎだした。

        (2000年 2月15日)


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