取り立てて紹介するほどの特徴もない、とある中規模の病院の採血室で、その特別な日に起こった至極平凡な、しかし少し風変わりな出来事を語ろうと思う。ただ、この病院の規模や施設の充実度が他の有名な病院と比較してどうとか、どのような職業や階層の患者が訪れるのかとか、ここを統べる院長がどのような思想を持っているのかなどは詳しく説明する必要はないと思う。それらの詳細はこれから語る物語にほとんど影響を及ぼさないからである。 さて、今日はこの採血室で一人の若い看護婦が採血実施の当番として患者の応対にあたっていた。若いが知性もあって覚えも早い腕のいい看護婦である。この看護婦を仮にAさんと呼ぼう。Aさんは普段から患者への対応はとても愛想がよかった。また老年の関ジャニありがちな聞き取りにくい難しい質問にも冷静な対応ができた。通い慣れた患者からの評判も非常に良く、まったくもって申し分のない若手看護婦である。 しかし、今日に限って言えば、彼女の応対ぶりは、いつものそれに比べてお世辞にも良いとは言えなかった。仕事が始まる前から考えごとをしているように、右足をくねらせながらそわそわとしていて、準備中にも病院に勤めるものならあり得ないような細かいミスが目立った。いざ仕事が始まっても、それぞれの患者の顔色や振る舞いを始終気にしていて、震えたような声色で治療には関係ない余計な問いかけをすることもあった。また、仕事の合間には周囲の様子を、特に廊下の角を曲がってこの採血室に向かって来ようとする人間の顔をめざとく観察するような素振りを見せていたのだった。誓って言えるが、普段の彼女はこのような自分の仕事に対して不誠実な態度をとったりはしない。今日はこの病院にとっても、そして彼女にとっても一生に一度あるかないかの特別な日なのである。 ちょうど一週間前の某日、先輩の看護婦から直々に言い渡された、その重大な機密を含んだ情報は、一週間後の火曜日(すなわち本日)、隣国の大国アジャラ皇国の皇太子がこの病院を訪れ、光栄にも、このさして有名でも大規模でもない病院に、丸一日その身を任せられ、簡単な健康診断を受けられるという事実だった。もちろん、この情報は関係者以外の人間には一切口外できない内容だった。Aさんはそれを知ると不思議に思って先輩の看護婦に尋ねた。 『なぜ、そのような偉い方が、もっと都会の大規模な病院で検査をされないんですか?』 その質問に先輩の看護婦は冷静な表情のままで答えた。大規模な病院で検査を受ければ、大勢の患者の前に皇太子様がその身を晒さなければならなくなるし、病院側にも数日前からそれ相応の準備が必要になる。数百人のスタッフの足並みを揃えることは容易ではない。どこからか、この重大な情報が漏れ出すかもしれない。そうなれば当然マスコミもこの問題を嗅ぎつけてくる。マスコミが動けば、それは当然のことながら、数日後には全国民が知ることになるというのである。我が国より遥かに繁栄し、貿易相手国としても重要な存在であるアジャラ皇国の皇太子の健康状態に関わる極秘情報を、この国の大衆に簡単に知られるわけにはいかないのである。大衆がこの情報を何らかの手段で事前に知ってしまい、皇太子の姿をひと目でも見ようと病院に殺到すれば、皇太子様本人にも迷惑をかけることになるし、自国の民度の低さを露呈することにもなる。また、考えてはいけないことだが、予期せぬ事故や皇族を狙ったテロが起こる可能性も格段に高くなるだろう。そういう複雑な理由から、自国と隣国との協議の上で、この地理的にも国境線に近く、また、比較的周囲の都市の治安が良いこの病院が選ばれたということである。 若い看護婦はそれを聞いてある程度は納得がいったが、その次に先輩の看護婦から言い渡されたことには、さすがに腰を抜かした。なんと、この隣国の皇太子様がこの採血室を訪れた際には、一番歳が若いはずの自分が採血の応対をすることに決まったというのだ。つまり、自分が世界的に有名なアジャラ皇国の皇太子の腕に注射針を刺すことになるのだ。このAさんは、この時さすがに反論した。 『私が任命されたことは、たいへん光栄なことですが、国際問題もはらんだこのような重大な検査の場合には、もっとベテランの医師があたるべきではないでしょうか?』 Aさんはこのときとばかりに、そのように言い張ったが、先輩の看護婦はまともに目も合わせずに冷酷にこう言い切った。 『このような大事な局面で仕事をこなすことはあなたの未来にとって、とても重要な経験になるのです。せっかくの上層部からの使命を無下にはねつけてはいけません』 Aさんはそれを聞いても納得することは出来なかった。そして、この先輩の言葉がまったくのでまかせであることも知っていた。ここの採血室で働いている数人の年配看護婦たちは、この後輩の看護婦の若さと人気を妬んで、普段からいじめともとれる嫌がらせを繰り返していた。仕事の少ない暇な日に、やることもないのにわざと残業をさせたり、患者からの苦情をすべてこの後輩の看護婦の責任にして謝罪させたり、Aさんが席を外した隙に偶然を装って彼女のカバンにお茶をこぼしたりもしていた。そういうことが毎日のように繰り返されていたから、このAさんもこの病院を辞めようと思ったことさえ一度や二度ならずあったのだ。今度の一件でも、皇太子の検血が上手くいったところで、国や病院側から何か報酬が出るわけでもないし、隣国の大使からお褒めの言葉があるわけでもないだろう(それは病院のスタッフとして当然のことだからである)。しかし、もし、手もとが狂って失敗でもすれば、最悪の場合、国際問題になって警察沙汰になるかもしれない。マスコミに容赦なく叩かれるかもしれない。自分のプライバシーが全国民に知れ渡ることになるかもしれない。先輩の看護婦たちは無駄に危険を冒す必要はないと判断して、この一番立場の弱い新入りのAさんにこの一件を押しつけてきたのだろう。 その通告を受けた日から彼女は連日多忙の仕事中も、自分が皇太子と向き合っているところが頭に浮かび、気が気でなかったが、寝る前に酒を多めに飲んだり、栄養剤を服用したりして、その動揺をごまかしていた。しかしながら、今日この日が本当に来てしまうと、心中は不安や恐怖を通り越してほとんどパニック状態に陥っていた。さらに困ったことに、今日皇太子がこの病院を訪れる正確な時刻が誰にもわからなかった。これは先輩の嫌がらせではなく、病院側の職員はもとより、この地方の役人や県庁の幹部職員に至るまで、この隣国の皇太子のスケジュールを知らされていなかったのである。これはこの大国の御曹司の身辺警護がいかに厳重かを示す一例だった。不測の事態を防ぐため、両国の首脳は、皇太子がここを訪れる時間はぎりぎりまで関係各所には知らせない方針だった。そのため、責任を押し付けられたこの可哀想なAさんは、9時から10時、10時から11時へと時間が経っていくたびに、緊張の度合いが増し、先ほどのような、自分でも奇妙と思える態度を、身体が自然に取らざるを得ないのだった。 『そろそろ来るだろうか?』 『次こそは皇太子だろうか?』 彼女は心中で自問を繰り返しながら、早く来い、できれば来るなと念じながらその瞬間を待っていた。 時計はすでに午前11時半を指していた。Aさんは皇太子がこの病院に入れば、当然のことながら、多くの役人や護衛の警察官が付いて来るだろうし、病院内部の空気も少なからず動揺して騒がしくなってくるだろうと考えていた。鼻のきくマスコミが同時に入ってくるかもしれない。自分が緊張するのはそれからでもいいかと一度は考えた。しかし、この国の重役たちがあれだけ一般の大衆にこの件を知られたくないと考えているのだから、案外護衛なしでここまで来られるのかもしれないと、彼女はそこまで考えた。厳重な警備をすればするほど、皇太子が今ここにいることをテロリストたちに知らせることにもなるからだ。 彼女はいても立っても居られなくなり、一度振り向いて、検血室の奥であくびをしながら暇そうに座っている先輩の看護婦に尋ねてみた。 「すいません。一つだけお聞きしたいのですが、アジャラ皇国の皇太子様はおいくつぐらいの方でしたっけ?」 しかし、その年配の看護婦はあなたとは話もしたくないとばかりに不機嫌そうにこちらを見ると、「そんなこと知らないわ。自分で調べればいいでしょ」と突き放してきた。本当に知らないのかもしれないし、知っているが教えたくないのかもしれないが、同僚としてはあまりに冷たい態度だった。Aさんはさすがに腹が立ったが、ここで先輩と口論を始めてもプラスになることはなさそうだし、何しろ、もう皇太子がいつ現れても不思議はないわけだから、くだらない内輪もめをしているわけにはいかなかった。しかし、これから男性患者がここを訪れた際は常に隣国の皇太子様の可能性もあるということを考慮に入れて仕事をしなければならないのだった。彼女は不安要素がまた一つ増えたことに気持ちをよりいっそう暗くしたのだった。 そんなとき、廊下を速足で歩いてくる音が聴こえて、長髪で眼鏡をかけた太っちょの男性患者が姿を現した。薄汚れたジーパンに、しわしわの安っぽい白のTシャツを着ていて、とても大国の皇太子には見えなかった。王族ということで人目をはばかる必要はあろうが、いくら何でも、こんな安っぽい格好では来ないだろう。そう考えることで、看護婦は少し安心した。 「すいません、急いでいるので早めにお願いします」 男性はそう言ってカルテを手渡してきた。こんなでぶっちょでだらしのない外見の男性が大国の皇太子だという可能性はあるだろうか? Aさんは一瞬そう考えたが、カルテの中の名前と住所を一応確認した。どこにでもあるような名前でとても王族とは思えなかった。彼女はひとまず安心したが、病院内での安全を確保するためにわざと仮名を使っている可能性もあった。ぼろのTシャツも自分の高貴な身分を隠すためかもしれない。 Aさんがそこまで考えていると、その男性は強い口調で、「ちょっと! 急いでいるので早くしてもらえませんかね?」ともう一度同じことを、今度はかなり怒気を含んで言ってきた。初めて外見を見た当初は王族ではあり得ないと思っていたが、この少し乱暴な物言いには威厳があるような気もする。それに、大国の御曹司ともなれば、日々あまり節制などせず、ろくな運動もせずに贅沢な暮らしをしているから、次第に腹に脂肪が溜まり、このようなだらしのない体型になりがちなのではないかとも、思えるようになってきた。そこで、彼女は万が一のことも考えて、なるべく丁寧な対応を心がけるようにした。男性は不機嫌そうな態度を崩さぬまま、右腕をテーブルの上に投げ出し、注射を待ち構えていた。 「では、血管を探しますので、親指を中に入れて、ぐっと強く握ってくださいね」 太っちょの男性患者が言われた通りにすると、腕の中ほどに青い血管が浮き出てきた。こういう肉厚の患者は血管を探すことが難しい場合が多いので、すぐに探せたことにAさんはほっとした。どうやら恥をかかずに済みそうだ。 「アルコールを塗っても大丈夫ですか? そうですか。では、ちょっとチクっとしますね」 腕に針を刺してもその男性は微動だにしなかった。顔を歪めることもなく、痛そうな素振りもまったく見せなかった。ああいう損な体型だから、しょっちゅう成人病系の診断を受けていて、こういう検査を受け慣れているのかもしれない。 注射針を抜かれ傷の上から絆創膏を貼られて、バンドを巻かれると、男性は慌てていた気持ちも少し落ち着いたようで、一言お礼を言って、荷物を持って悠々と検血室から出て行った。後ろから素性を尋ねようかと思ったのだが、寸前のところで思いとどまった。あの太っちょの男性患者が自分の質問に何と答えようとも、その真偽を確かめる術はまったくないのだから。可能性はゼロではないが、今の患者は隣国の皇太子さまではないだろう。態度が庶民的でだらしないし、あまりにも威厳がなさ過ぎる。大国の王族の方ならば、もう少し、余裕というか、言い方は悪いが、少しは贅沢に慣れた偉ぶった態度があるはずだ。彼女はそう考えた。それは、まだしばらくこの緊張状態を持続せねばならないということでもあった。 これで今日ここを訪れた患者は7人。普段の日の半分ほどしか来ていない。不自然なほど少ない。やはり、特別な日ということで、当局から何らかの調整が働いているのかもしれない。これまで診た患者は、皆どこにでも居そうな人ばかりで、王族らしき威厳を備えた人はまだ見えていなかった。 ついに時計は正午を指した。この若いAさんの心にも、ようやくいつもの余裕が戻ってきた頃、この採血室を管理している男性の室長が少し慌てて、そして緊張の面持ちで入ってきた。 「みんな、ちょっと集まってくれ」 Aさんはそれを聞いて、少し心臓が高鳴ったが、落ち着きを装って、飲んでいたコーヒーのカップをテーブルに置いて、室長の近くまで歩み寄った。そのとき、検血室には全部で5名のスタッフが働いていたが、皆仕事の手を一時休めてこわばった表情で集まってきた。室長はみんなの顔を一通り眺めてから、眉間に皺を寄せ、重々しい口調で話し始めた。 「たった今、アジャラ皇国の皇太子様がこの病院の敷地内に入られたという連絡があった」 その言葉は最近聞いたどんな言葉よりもこの若い看護婦の胸を動揺させた。彼女はもともと精神的に強いほうではない。病院の看護婦という神経が疲れる日々の生活も、自分を励ましながらやっとこさこなしているのだ。今はもう右足がまたぶるぶると震えて立っているのが精一杯だった。室長はそんなことお構いなしとばかりに話を続けた。 「みんなも知っている通り、今日は皇太子様が御身ずからこの病院を訪れるという大きなイベントがあるわけだが、これはこの病院の歴史のみならず、我が国の歴史書にも書いて残されるようなとても光栄な出来事だ。隣国であるが、アジャラ皇国と我が国には正式な国交もないし、これまで隣国の王族が我が国を訪れたことは数えるほどしかない。それに加えて、相手は遥かに大国である。どうしても、我が国の閣僚は下手に出なければならない。先方の申し出をむげに断るわけにはいかない。国力で劣っているのだから敬意を持たなければならない。石油の備蓄量だって我が国のざっと10倍はある。軍事力もまた然りだ。つまり、今回の訪問は実にデリケートな問題を含んでいる。世界中の経済が不安定なこの時期に大国の機嫌を損ねるわけにはいかない。アジャラ皇国で皇太子様のお帰りをお待ちになっている、公王夫妻も、こちら側に何らかの手抜かりはないかと、かなり気を揉んでおられるということだ。我が国の大統領も官邸にこもって、これからこの病院で行われる検査の詳細な報告を逐一受けている。うちの病院の不手際で皇太子さまが不機嫌になるような事態は断じてあってはならない。怪我をさせるなど、もってのほかだ。病院の関係者は皆全力を投じて今日この日を乗り切らねばならない。特にこの部署は皇太子様の腕に直接注射針を刺すということで、関係者は皆、非常に神経を尖らせている。当局も何か事故があるとすれば、この採血室だと思っているだろう。アジャラ皇国内部でも王族の身体に直接触れることが出来るのは本当に限られた人間だけだ。医療関係でいえば、大学病院から招かれるような特別な医師だけだろう。我が国でこれから行われる検査で皇太子様のお相手をするスタッフはどんな人間なのか。本当に皇太子の腕に触れられるほど優れたスタッフなのか、ど素人や酔っ払いやテロリストである可能性はないのかと、関係省庁からもしつこく問い合わせの連絡が入っている」 室長はそこで一度話を切って、皆の顔をもう一度見回した。その表情はさらに厳しさを増していた。この若いAさんはもう恐ろしくて、心臓が凍えて、自分がすでに失態を犯したような気がして、室長と目を合わせることが出来なかった。 「ところで……、一つ尋ねるが、今日、皇太子様のお相手をするのは誰かね?」 当事者のAさんはプレッシャーに耐えかね、『体調が悪くてめまいがするので、皇太子様のお相手をするのはとても無理です。今すぐ帰らせてください』と訴えたくなったが、彼女にそんなセリフを言わせる間も与えず、正面に立っていた先輩の看護婦が一歩前に進み出て、偉ぶった態度で話し始めた。 「室長、ご心配には及びません。担当者はすでに決まっています。先ほどみんなで話し合いまして、(若い看護婦を指さして)このAさんが皇太子様のお相手をすることに決まったのです」 室長はそれを聞いて、顎に手を当てて、少しの間考え込んだ。 「うむむ……、よりによって若手のA君か……、大丈夫かな? これは本当に重大な使命だぞ」 若い看護婦は先輩の意地悪に耐えかね、弁解をしようとしたが、それを制するように先輩の看護婦は話を続けた。 「ええ、もちろん、私たちもそのことは承知してます。当初は、私たちのようなベテラン看護婦の中からその担当者を決めようとしていたのです。しかしですね、そこでこのAさんが横入りしてきて、でしゃばったような態度で、自分にやらせて欲しいと、先輩や室長に恥をかかせるような失態は絶対にしないから、ぜひ私にやらせて欲しいと訴えてきたんです。私たちも最初は躊躇しましたけど、あれだけ強く言うからには失敗した時の責任の取り方も知っているんでしょうし、彼女に任せてみることにしたんです」 この嫌な先輩に、自分が気に食わない人間への個人攻撃が趣味なのではないかと思われるような嘘を並べられた怒りと屈辱で、Aさんは顔が真っ赤になったが、この部屋に自分の味方は一人もおらず、反論しても言い負けるに決まっているし、ただ、下を向いて我慢する他はなかった。室長は先輩看護婦の報告を聞いて、腕組みをしてしばらく唸っていたが、やがて諦めたように話し始めた。 「そうか、すでに決まってしまったのなら仕方ない。私からはもう何も言うまい……。それではA君に任せることにしよう……」室長はそこで一旦間を起き、彼女の方に冷たい視線を向けた。 「だが、A君、今日のこのイベントは本当に重大なことだと覚悟しておいてくれ。万が一のことがあったら、私でも、もちろんこの病院の院長でさえも、君をフォローしたりは出来ない。もし、皇太子様のお身体に必要以上の傷をつけてしまうようなことになったら、君には凄惨な罰を受けてもらうことになる。当然、最初は我が国の警察機関から聴取を受けることになるだろう。そこで、皇太子さまの怪我が、君の責任であることが明確になれば、今度はアジャラ皇国に強制連行されることになる……」 「それは覚悟の上です……」 Aさんはうつむいたまま、蚊の鳴くような声でそう返事をした。本当はこの展開に納得がいかなかったが、ここまできてしまったからには上司の命令に従う他はなかった。室長は足音も立てずに半歩近づいてきて、彼女の顔を下から覗き込み、梟のようなとがった目で睨みつけながら話を続けた。 「本当にいいのかね? 君が隣国に連行されれば、当然マスコミ各社も何があったのか、これは一大事だと動くことになる。重大な外交問題に個人のプライバシーなど働かない。今日から毎晩、君の顔がテレビに大写しにされることになる。大手新聞の一面はしばらく君の失態の話題で持ちきりだ。君の親族は泣き崩れるだろう。自分の親戚が、我が国の歴史上過去に例を見ないほどの大犯罪者となってしまうわけだからね」 「む、向こうで裁判を受けることになるのですか? もし、私の採血に何か不手際があった場合、どのくらいの刑期で帰れるのでしょう?」 Aさんは少しの希望にすがりたくてそう尋ねてみた。 「帰れる? 帰れるかだって? 残念ながらありえないよ。もし、今日の勤務に失敗したら、君がアジャラ皇国に連行された後、自分の家に戻れる確率はゼロに等しいと思っておいた方がいい……」 室長は腕組みをしたまま、部屋の中をゆっくりと動きまわりながら、そう呟いた。 「君は少しこの任務を甘く見ているようだな。今日のこのイベントは我が国の大統領の進退もかかっているほど重要なものだ。君のような一般の看護婦の命など大風に飛ばされる蟻のごとしだ……。君には同情するが、アジャラ公国では裁判の後に厳しい拷問を受けることになるだろう……。王族は一般の人間とは命の重さが違う……。皇太子の身体に傷を負わせるということは、それほど重大なことなんだ。君を処刑することは簡単だよ。我が国の首脳も申し出を受ければ、それを止めたりはしないだろう。反論して、両国の関係をこれ以上悪化させることはできないからね……。『そちらの好きなように処分してください』と声明を発表するくらいさ。しかしね、皇国の国民は君を単純に殺したところで満足はできないんだよ……。我が国のような小国に大国が恥をかかされる結果になったわけだからね……。大勢の群衆が大使館の周りを取り囲んで抗議のデモをするだろう。皇太子を傷つけられた恨みをたった一人の一般人の命とは引き換えにできないわけだ……。君は最終的には死ぬことになるだろうが、そんな簡単にはあの世には行けない。これ以上ない、屈辱と痛みを味わうことになるだろう……」 室長はまるでそうなることを望んでいるかのように、口に手の甲をあてて、くっくっく…と低く笑った。 「蛇だよ……、まずは蛇皮の鞭で叩かれるんだ……。向こうの国ではより殺傷力の高い蛇皮の鞭を使うからね。軽く二三発叩かれただけで君の白い肌から血が噴き出すだろう……」 看護婦は唇を噛み、息を殺して恐怖に耐えながらその話を聞いていた。 「『おまえは最初から皇太子を殺すつもりでこの仕事を引き受けたんだろう!』 『おまえはよその国から紛れ込んだスパイだ!』 そう叫びながら、全力で君の背中や尻を叩きまくってくるぞ……。鞭の刑が終わったら次はラクダに縛り付けられて、砂漠中を引きずりまわされるかもしれない……。猛毒のサソリが詰められている瓶の中に放り込まれるかもしれない……。アジャラ皇国の刑罰は残忍なことで有名だ。拷問は寝る間も与えずに何度も何度も繰り返される……。君が息絶えるまで、地獄のような刑罰は続けられるのだ……」 室長はAさんを脅すことに飽きてくると、何かを思い出したように突如背を向けて部屋から出て行こうとした。Aさんは後ろからすがりつくように声を投げかけた。 「室長! せめて、皇太子さまの特徴や外見だけでも教えていただけませんか? 王族がいつここを訪れるかだけでも知っておきたいんです……」 しかし、室長は振り向くこともなく、冷酷にこう言い放った。 「まあ、この仕事を引き受けたからには覚悟を決めることだ……。皇太子の外見なぞ、私だって知らないし、知っていたとしても君に教えることはできない。信用できないからだ……。そう、君はまったく信用されていない。もし、ベテランの看護婦がミスを犯したら、その責任は我々上層部の人間にまで及ぶかもしれないが、今回注射を担当するのは一番若い君だ……。皇太子さまがどんな痛い思いをされたとて、君一人の未熟さに責任を被せれば後はどうにでもなる……」 この言葉にはこれまで幾人もの若い看護婦たちを使い捨ててきた残酷な上司の姿が見え隠れしていた。 「それでは、私はこれから病院内の幹部会議に出てくる……。後のことは頼むよ」 室長はそう言い残して、Aさんにまったく温情をかけることなく、話を打ち切り、部屋から出て行った。 「あんた、こうなったからには、ちゃんと仕事しなさいよ!」 「皇太子さまが怪我をするところなんて、私たちだって見たくないんだからね!」 室長が出て行くところを確認すると、先輩の看護婦たちの口から堰を切ったように罵詈雑言が飛んできた。Aさんはまったく味方のいない今の状況に絶望し、すっかり脱力して、椅子の上にへなへなと座り込んだ。 室長の話から5分ほど経ったころ、廊下をひたひたと歩んでくる足音が聞こえて、30代後半と思える中年の夫婦が姿を現した。中睦まじく腕を組んでいて、男性は立派な紺のスーツ、女性は上品な灰色のブレザーを着こんでいた。Aさんはその上品なたたずまいを見て、いよいよその時が来たかと身構えた。自分が想像していた年齢よりかなり上だが、まず間違いはないだろう……。これまでのどんな患者よりも、その夫婦の立ち居振る舞いには威厳を感じた。 「採血をお願いできますか? 健康診断なんです……」 女性が物腰の柔らかい口調でそう告げると、男性はゆっくりと採血室に入ってきて、彼女の眼前の椅子にどっしりと腰をかけた。Aさんはもうこの男性がアジャラ皇国の皇太子と思って間違いないだろうと考えていたが、一応確認をとるために軽い質問をしてみた。そのくらいのことは権力を持たない自分にも許されると思った。 「あの……、すいません……、今日はアジャラ皇国からいらっしゃったんでしょうか……?」 「え、なぜ、そのことをご存じなんですか。その通りです……。今日は軽い旅行の気分で来たんですよ……」 男性は丁寧に言葉を選びながらそう答えた。Aさんはその言葉を聞いて、先ほどの室長と対面したときの激しい緊張感が蘇ってきた。間違いない……、間違いなくこのお二人は隣国の王族なのだ……。自分よりも遥かに高貴な身分の方々だ……。右足が体勢を崩すほどぶるぶると震えて、やがてその震えは全身に及ぶようになった。自分の後ろで先輩たちがほくそ笑みながらこの様子を眺めているのが安易に想像できたため、その緊張と怒りはピークに達した。どうせ、何が起きても先輩方は助けてはくれないだろう。いよいよ、自分の生死をかけた一生で一度の大舞台がやってきたのだ。 「では、すいません……、腕の静脈を拝見しますね……」 Aさんはそう言って、男性の右腕を凝視したが、腕の表面を何度こすってみても血管はなかなか浮き出てこなかった。自分が想像していた最悪のパターンに陥りつつあるのを感じながら、Aさんは震える声で言った。 「申し訳ありません……、左腕を見せてもらってもよろしいでしょうか?」 「ああ、いいですよ」 男性は落ち着いた口調でそう言って、半身になって左腕の袖をまくってテーブルの上に置いた。Aさんはやさしくその腕をさすりながら、血管を探したが、今度も上手く見えてこなかった。ただ、先ほどよりはうっすらと紫色の血管が肘の辺りに浮き出ているように見えた。 『どうしよう……、経験上、これでは上手くいかないかもしれない……。かといって、もう一度右腕を見せてくれとは言えない……。この状況で針を刺してみるしかないか……』 Aさんはそう思って、思い切ってこのまま進めることにした。どこからか、王族のSPがこちらをうかがっているような気がする……。そうなると、ここでこれ以上時間を無駄にはできないからだ。 「では、アルコールを塗っていきますね……」 「ちょっとチクっとしますよ」 Aさんは採血管をセットして、細心の注意を払って、男性の腕に針を刺してみた。しかし、血管の位置が微妙にずれていたのか、あるいは肉厚のために血管まで針が届かないのか、注射針はうまく血を吸ってくれなかった。『どうしよう……』最大限の不安と恐怖と緊張を伴いながら、そう思ったが、やはり、ここでも彼女は前に進むことを選んだ。しかし、運命の女神というのは、こういう重大な二択の選択をしたときに残酷な決断をすることが多いのだ。彼女がさらに針をぐっと奥に押しこむと、男性は「いたい!」と叫んだ。 「ああ、ごめんなさい!」 彼女は涙目になりながら、そう謝罪し、それでもなんとか採血をして針を抜きとった。 「私ったら、なんていうことを! 本当にすいませんでした!」 そう謝罪するつもりだったのが、緊張からくるあまりの指の震えで採血管をテーブルの下に落としてしまった。運勢の悪い時には悪いことが続くもので、今度は勢い余って右足で採血管を豪快に踏みつぶし、割ってしまった。床には採取したての血があふれだした。親切にも、ことが起こるまで、ずっとこの様子を黙って見ていた先輩方は我が意を得たりとばかりに駆け寄ってきて、『ついにやったわね!』とばかりに、彼女の右の頬を思いっきり叩いた。Aさんは床に倒れ伏して、ついに泣き出した。 「申し訳ありませんでした……。この看護婦はその……、まだ経験が浅いもので……。やはり、高貴な方のお相手をするのは無理だったようです……。どうかお許しください」 先輩看護婦は腰を低くしてそう謝罪すると、その男性患者に丁寧に詫びて、もう一度検血させてもらえるようにお願いし、了承を得ると、採血の一連の作業を手慣れた様子でわずか数分でやり終えた。Aさんは『そんなに簡単にできるんだったら、最初からあんたがやりなさいよ』と言ってやりたかったが、もうすべて遅かった。室長やベテラン看護婦が目論んでいた通り、彼女の運命は悪い方に決まったと思われた。後方から、別の意地の悪い看護婦が近づいてきて、彼女の耳元で囁いた。 「あなた、明日からもう来なくていいからね。もっとも、あれだけのことをしたんだから、多分、今晩から警察の本格的な聴取が始まるかもね。忙しくなるわよ……。明日はアジャラ国でサソリや蛇と遊んでらっしゃい。もう、会うこともないでしょうね……」 「助けてください! 蛇皮の鞭なんて嫌です!」 彼女は最後の力を振り絞ってそう叫んだが、その願いが届くとは彼女自身にも思われなかった。 「国家の体面を傷つけるような不誠実な看護婦は、この病院には必要ないのよ!」 先輩看護婦はそう言い放つと、先ほどAさんが床に撒き散らした血液を手早く拭き取ると立ち去っていった。Aさんは完全に人生に破れたと思い泣き崩れていた。 その頃、注射を終えた中年の夫妻は待合室の椅子に腰掛け、談笑しながら血が止まるのを待っていた。 「今日はちょっと痛かったなー」 男性は眉間にしわを寄せ不快感をあらわにしながらも、Aさんをこれ以上傷つけないように優しい余裕のある口調でそう呟いていた。先ほど、彼女を叩いて押しのけたベテラン看護婦は奥の部屋からコーヒーと洋菓子を持ってきて、二人に手渡した。こういう最悪の事態になっても、自分たちだけは後で訴追を受けなくするための周到な準備がしてあったのだ。 「こんな扱いを受けちゃっていいんですか? 本当に気にしないでくださいね」 男性の妻は遠慮がちにそう言いながらも、コーヒーをおいしそうにすすっていた。 中年患者夫妻のご機嫌を取りなおすと、ベテラン看護婦3名は会議中の室長にこの事態を知らせるべく、階段の方に向かって走り去っていった。当然、今起こったAさんの一連の失態は、幹部たちに残らず報告されることになるだろう。あと数分もすれば、病院や役所の幹部たちが顔を真っ青にしてここまで駆け込んでくるのが簡単に想像できるのだった。 「ああ……、もうだめだ……」 その様子を見ていたAさんはすっかり絶望して床に座り込んでしまったが、勤務中にいつまでもこうしているわけにもいかず、とりあえず、待合室に入って、怪我をさせてしまった患者さんに謝罪することにした。 「本当に……、申し訳ございません……。お詫びの言葉もありません……。今日は不運が重なってしまって……、あんなことに……、悪気はまったくなかったんです……」 Aさんはそう言って深々と礼をした。夫妻もその丁寧な態度に感じ入ったようで、優しくうなづきながら返事をした。 「ああ、もういいんですよ。今は全然痛くないし、こういうことは起こりがちですからね。今後、経験を積んで痛くない注射ができるよう成長してくださいね」 男性はにこやかにそう言って血止めのバンドを外し、それをAさんに手渡した。その後、夫妻は待合室の椅子から立ち上がり、歩み去ろうとした。Aさんはいたたまれなくなり、後ろからもう一度声をかけた。 「皇太子さま、本当にもうしわけありませんでした!」 しかし、その言葉を聞いて、夫妻は不思議な顔をして振り返った。 「皇太子ですって? 何のことです?」 女性の方はきつねにつままれたような表情で、しばらくAさんの顔を見つめていた。 「え……、もしかして……、アジャラ皇国の皇太子夫妻ではないんですか?」 夫妻はその言葉を聞いてはじかれたように身体をのけぞらせ、手を叩いて笑い始めた。 「これはおかしい! なぜ我々が皇国の夫妻だと思ったんですか?」 男性がそう言うのを聞くと、隣で笑っていた女性は何かを思い出したようにこう言った。 「そう言えば、先ほど玄関で王族の一家のような派手な一団を見かけましたが、もしかすると、今日、皇太子さまがおいでになるんですか?」 Aさんはその言葉に返事をすることもなく、ぽかーんとした顔をして立ち尽くした。これはどういうことだろう? ここにいるスタッフはあの夫妻が王族だとすっかり思い込んで相手をしていた……。中年の夫妻はAさんのその様子を見て、これ以上話すこともないだろうと、先ほどのように腕をしっかり組んで、受付の方に向かって歩み去っていった。 あの二人の言っていることが本当だとすると、本当の皇太子さまはどこへ行ったのだろう……。Aさんはそう思い、もう一度周囲を見回してみた。すると、献血室とレントゲン室の境の患者用の椅子の上に、浅黒い肌をした10歳ぐらいの子供が下を向いて座っていた。豪華な刺繍の入った白い服をまとっていた。彼は数分ほど前からここにいたようだが、まったく生気を感じなかったため、今まで看護婦たちの視界に入ってこなかったのである。検血室の受付には今日作られたと思われる、新しいカルテが置いてあった。名前のところには『ハッタビ二世』と書かれていて、その横には王家の紋章がしっかりと押されていた。しかし、衝撃の事態にあっても、今度はAさんの心は波立たなかった。先ほどの一連の失敗で記憶回路の一部がリセットされてしまったというか、もうショックで右脳が真っ白の状態にあって、今は緊張することさえ忘れてしまっていた。 「それでは、次の方……、ハッタビさま、どうぞ……」 Aさんは静かで落ち着いた口調でそう呼びかけた。奥の座席に座っていた子供はこちらを一瞥すると、ゆっくりと立ち上がり、ひたひたと近づいてきたが、検血室の前で、はたと立ち止まってしまった。 「ぼく、ちゅうしゃはあんまりやりたくない……。こわいんだ……」 その子はうつむいたままで小さな声でそう話した。凶暴な虎に狙われたシマウマのように怯えてしまっていた。Aさんはその様子を見て、王族の威厳だとか偉そうな態度とかを想像していた先ほどまでの自分を恥ずかしく思った。そして、誰しも同じ人間ではないか。誰でも幼い頃に初めての地で検査を受けるのは怖いのだと思い直した。 「大丈夫よ、最初はみんな怖いのよ。お姉さんが怖くないようにやってあげるからおいで」 彼女はそう言って、その子の腕を優しく引いて検血室に連れ込んだ。 「でも、かぞくのみんながちゅうしゃはいたいぞっておどかすんだ……」 Aさんはそれを聞いて、微笑んだ。 「じゃあ、魔法かけてあげる。あなたが一番好きなキャラクターは何? それを教えてくれる?」 子供が天井を見上げてちょっと考え事をしている間に、Aさんはスムーズな動作で注射針の準備をし終えてしまった。 「ぼくねえ『王様ライオン』っていうアニメがすきなんだ……。いえではいつもそれをみてるの……」 「うん、わかった。じゃあ、目をつぶって、頭の中で主人公のライオンさんのことを考えてみて……。そう、考えたら、そこで10数えてみて……」 子供が目をつぶると、Aさんは素早く彼の腕にアルコールを塗ると、針をゆっくりと肌に突き刺した。やがて、その子は数え終わり、目を開けた。 「はい、もう終わったよ。どう? ぜんぜん痛くなかったでしょ?」 「ほんとだ! おねえさん、どんなまほうつかったの?」 子供の表情にみるみる生気が蘇ってきた。 「ぼく、いえにかえったらパパにいってやるんだ。ぜんぜんへいきだったって、すこしもなかなかったって!」 Aさんは普段はなかなか感じることができない充実感を感じていた。思えば、初めてこの仕事に就いた頃は毎日今のような充実した感覚を味わっていたのではなかっただろうか。この感覚を味わいたくて、自分は看護婦になったのだろうと今鮮やかに思いだすことができた。 「じゃあ、精算が終わったらこの青いバンドを外して受付の人に渡して帰ってね」 Aさんが丁寧にバンドエイドを貼って、あとの処置をすると、子供は注射前の態度とは打って変わって元気よく走り出した。 「おねえさん、ありがとう。またけんさするときはおねえさんがちゅうしゃをしてね」 その力強い言葉を残して、子供は角にある階段を駆け下りていった。それと入れ替わるように、ベテランの意地悪看護婦3人がものすごい形相をして階段を駆け上がり戻ってきた。 「あなた、皇太子さまに会った? 院長に話を聞いたら、皇太子さまはまだお子さんなんですって! さっきの二人は違うわ!」 Aさんはもう彼女らに恐怖を感じることもなく、落ち着いた口調でこう答えた。 「ええ、来られましたよ。もう、私がすでに検査をやっておきましたから」 「ちょっと、なんであなたが……」 ベテラン看護婦はそこまで言いかけたが、Aさんの瞳は力強く輝いていた。言葉には先ほどまでにはない勢いと自信があった。3人はその声の圧力に押されて、それ以上何も言えなくなった。時計は夕方の5時をさしていた。もうすぐ、夜勤の医師と交代の時間だ。Aさんは先輩方の方には目もくれずに待合室の掃除を始めた。そのとき、先ほど子供が座っていた椅子の後ろで青い絹のハンカチーフが落ちているのが目に映った。拾い上げると、その隅には王家の紋章が入っていた。Aさんは急いで階段を駆け下りて、ロビーに向かった。そこには大勢の護衛と報道陣に囲まれた先ほどの子供の姿があった。Aさんは走り寄ると、皇太子は嬉しそうに笑った。 「あっ、ぼくのハンカチ、さがしてきてくれたの? ありがとう、おねえさん!」 子供はハンカチを受け取ると礼をして、何度もこちらを振り返りながら、玄関口に停まっていた黒いリムジンに乗り込んでいった。 「皇太子さま! またおいでください!」 Aさんは大きく手を振りながら、力強くそう声をかけた。子供は車が動き出すまで、こちらに向けて窓から何度も手を振っていた。報道陣から皇太子のいる車窓に向けてカメラのフラッシュがたかれた。病院の幹部たちも入口に整然と並んで皇太子の車を見送っていた。 Aさんはこのとき少なくとも二つのことを学んだ。看護師の仕事とは、すべての患者を平等に扱わねばならないということ。そしてもう一つは、その勤務のすべては国や病院の体面のためにあるのではなく、患者個人の命の尊厳と健康のためにあるのだということを。 |