仕事というものは、多ければ多いほど良いというものではない。仕事をこなして、お金を受け取るという行為に充実感を感じるのは、ある一定の仕事量までの話で、そのラインを超えてしまうと、どんなにお金をもらっても、身体が痛くて、辛くてしょうがなくなるのだ。つまり、それは幸福でないということで、働くことが幸せにつながらないのであれば、その仕事を続けていく意味は何もない。すなわち、辞めたほうがよいという事になろう。
 私は常にそんなことを考えているし、それが正しい考えであると確信している。しかしながら、仕事が全く来なくなると、それはまたそれで困った問題になる。少なくとも、先の問題より余計にやっかいな事である。そういう事態だけは出来れば避けたいものだ。
 私の会社は小さいが、イラストレーターの仕事をしている。雑誌や新聞に掲載される比較的小さめのイラストを描く仕事である。
 大きな産業道路によって区切られたこの界隈には出版社や印刷会社が数多く立ち並び、それらの社員が昼夜せわしなく、片手にファイルや書類を持って走り回っているのだ。新聞や雑誌などに載せるイラストは丁寧で美しければそれに越したことはないのだろうが、顧客相手の仕事であるから、その作品の質も締め切りまでの時間に左右されることが多くなる。
「責任校了まであと三時間しかないのに、お客さんが新しいイラストを書いて欲しいと言ってきた」などといった、編集者からの悲痛な依頼が毎日のように飛び込んでくる。こういう時に頼りになるのは絵の上手い画家よりも仕事の早い職人である。うちよりも美しい芸術的なイラストを書いてくれる絵描きさんは山ほどいるのだろうが、無茶な要望のイラストをうちより早く仕上げられる絵描きは少ないという自負が私にはある。
 今日は昼過ぎに道路向かいのビルにある印刷会社の社員が走り込んできた。
「雑誌『青空月報』のお客さんがまた無茶を言いだしまして…。責了の紙面に『幸せそうな家族』のイラストを載せたいんですが、五時までに上がるでしょうか?」
まだ、痩せていて背の高い、入社して間もないような神経質そうな青白い顔の若者はそう言って泣きついてきた。大方、めんどくさい仕事だからと先輩か上司に押し付けられてきたのだろう。壁に張り付いている時計を見上げると、針はすでに二時半をまわっていた。
「今からやって五時までにあげろって? ダメダメ。それは無理だよ。私にだって他にも仕事はあるしね」
お客さんの要望は、なんでもハイハイと言って承れば良いというものではない。こういう否定的なセリフが今後の交渉をやりやすくしてくれるのだ。本当に忙しいかどうかはまた別の問題である。
「そこをなんとかお願いします! 先生ならできると信じて、この仕事を引き受けてしまったんです…」
「いい? よく考えてみなさいよ。今からイラストのレイアウト構成を考えるんだよ。描きはじめるのはその後だ…。あと二時間ではどうやっても無理だね」
「では、六時までならどうでしょう? 雑誌の担当者に頼んでそこまで時間を伸ばしてもらいますから…。お願いします!」
この印刷会社とのこれまでの軋轢など、難しい感情を抜きにして冷静に考えてみれば、たいして手間のかかる仕事でもないし、締め切りまでの時間も十分もらえたので、これ以上ダダをこねる理由もなく、内心はほくそ笑みながら、しぶしぶ顔で承諾してやった。
「わかった…。じゃあ、六時までに…、ことによると少し過ぎるかもしれないが、まあ、そのぐらいの時間までに、あんたのいつものメールアドレスに送っておけばいいね?」
そう言ってやると、その社員はたいそう喜んで、私が承諾することを見越してすでに書き込んであった発注書を置いて帰って行った。
 しかし、幸せそうな家族と言ったって、私は最近そんな平和そうな家族の姿を見たことがないので、イラストの想像図が頭に浮かんで来ない。そんな簡単な事すら想像することが難しい時代になってしまったのかと嘆息するしかなかった。
 現代の家族像として想像しやすいのは、まず、仕事に振り回され、家庭を顧みることなく、平日は早朝から深夜までフルに使って企業で勤務する働き蟻の父親である。彼は休日も上司とのゴルフ接待に明け暮れ、子供の面倒を見ることはなく、帰りに女房に気の利いたプレゼントを買ってくるでもなく、どうせ何も変わらないからと選挙にも行かない。つまり、仕事では常に責任感を持ってやっていると言い張るが、もっと肝心な家族の幸せや休日の有効な時間利用ということには、まるで関心がないのだ。
 その妻はどうかといえば、ご近所の眼には貞節な妻として映るよう振る舞うが、その実情はひどいもので、夫に内緒で安い給料から小銭を抜き取って集め、巧妙にへそくりを作り出し、それをバッグやネックレスなどのブランド物に変えてしまうのである。子供の遊具や文房具に使われることは決してない。一家の貯蓄がなかなか貯まらないことを、全て旦那の稼ぎの悪さのせいにしてしまい、自分の身の丈に合わない収集癖のせいであるとは露とも思わないのである。夫のいない昼間、家にいるのが退屈になると、気晴らしとばかりに子供を連れて外出し、デパートや電車の中などで、まだ話すのがやっとの子供相手にヒステリー満載の怒鳴り声でお説教を連発し、自らのストレスだけを見事に発散し、お土産とばかりに、自分へのプレゼントとささやかな夕食のおかずを購入して帰ってくるのである。
 この両親の生産物である子供たちであるから、青年までうまく成長したとしても、その乱れきった生活はもう想像に難くない。休みの日はおろか、平日まで学校に行かず、朝から夜までテレビゲームに時間を浪費し、勉強は予備校頼みで自分の得意科目と受験に使用する科目しかやらない。ダメな両親に本当の人間関係の構築方法をそもそも教わっていないから、家に引きこもってしまうのである。友達も仮想空間でしか作らないから、友人関係も恋愛関係も全てゲーム感覚。人を殺しても動機が見つからないのは、そもそも彼らの生活に現実感がないのである。未成年犯罪の凶悪化や子供の非行化を嘆く父兄が多いようだが、なんのことはない。親が悪くなったから、子供の質も悪いのである。個人主義を標榜する社会に漬け込まれているうちに、家族内別居が現代家庭の模範像になってしまったのだろうか。これではいくら私でも幸せな家族像を想像することは難しい。今やアニメや映画の中にしかそういうものは存在しないのであろうか。
 私は、「絶対こんな家族はいない」と心中で連呼しながら画面上で筆を動かした。四十分後に出来上がったのは不自然に大口を開けて笑う三十代前半とおぼしき普段着姿の生活感のある両親と、二人に肩を支えられながら、虫捕り網を構えてはしゃぐ小学生の男の子の絵だった。青空月報の読者はこの絵を見て、社会の理想像と今の自分の姿とのギャップに思い苦しみ、悩まされることだろう。私は軽いタッチでそれを保存すると、例の印刷会社のアドレスに送付した。
 五時前に今日が締め切りになっている仕事はすべて片付いてしまったので、明日の仕事を少し追い込もうかと机の上のファイルをめくってみた。すると、明日の夕方が締め切りの、『ほがらかに笑う車椅子の老人』というお題の仕事が見つかった。区報の法律改正のお知らせの記事の横に載るらしいが、この老人は車椅子姿にされるまで、人生が追い込まれてしまって、いったい何をほがらかに笑うのだろうか? 
 老いで車椅子生活になったとしたら、弱者に厳しい政府が創った法律と対応の冷たい家族に挟まれ、苦笑いを浮かべるのさえ難しい。交通事故なら、なおのことである。弁護士への依頼や、民事裁判用の書類作成に振り回され、笑っている場合ではない。私はちっとも良くならないこの国の現状に気分が重くなり、この依頼もなかなか筆が進まなかった。結局、その老人を描きあげるのに二時間も使ってしまった。  さすがに疲労が溜まってしまい、一息つこうとしたとき、机の右手奥に置いてある黒電話がジリジリンと鳴り出した。受話器を持ち上げると、聞き覚えのある某出版社の編集者からだった。
「先生、先日お願いしたアザラシのイラストの件なんですが…」
「ああ、とっくに出来上がっているよ。昨日の四時頃、あなたのメールアドレスに送っておいたよ」
両者とも忙しいこの仕事では、行き違いはよくあることなので、私は落ち着いた口調で説明してやった。しかし、相手はそれを聞いて激昂した。
「先生! 違うんですよ! これではダメなんです! 先生が送ってくれたのはオットセイです。私はアザラシを描いて欲しかったんです」
「アザラシとオットセイって違うのかい? 一緒だろ?」
「全然違う生き物ですよ! 明日の印刷予定なので、今夜中にもう一度送り直して下さい!」
それだけ言って、ガチャンと無慈悲に電話は切られた。
「アザラシに直せばいいんですね? 私がやっておきますよ」
そう言って、向こう正面に座っていた派遣の社員の方が私から書類を引ったくっていった。
「すまんね…。三日前も囲碁の碁盤の上に将棋の駒を描いちゃって先方に怒られたばかりなんだ…。自分が興味のない分野の仕事依頼はちゃんと調べないとダメだね…」
「我々の仕事は時間との戦いですから、設定がある程度いい加減になるのは仕方ないですよ」
彼はそう言って残業で仕事をやってくれた。20分もかからずにその作業を終えると、いつも通り、礼儀正しく挨拶して帰宅していった。時計は午後八時を回っていた。
 仕事がすべて片付いたと思い違いして、そろそろ帰る支度をしようかと書類の山を整理していると、その一番下からペラッとコピー用紙が一枚飛び出してきた。その真っ白い紙に印刷された、枠線に囲まれた子供向きの見本画を見たとき、ハッと思った。先程の依頼者と同じ印刷会社から、四日後までに、医療関係の新聞に載せる四コマの漫画を二本描いてくれるように頼まれていたのだった。これはその見本紙だったのだ。あまり大きな声では言えないが、法律関係と医療関係の人間は仕事の出来上がりに非常にうるさく、気に入らなければ何度も修正を求めらてくるので、かなり厄介な客相手のこの仕事には、できれば関わりたくなかった。二ヶ月前に入社した新人の平田君に頼めないだろうか? 彼はうちに来る前からイラスト関係の仕事に携わっていたし、そろそろ難しい仕事に挑んでみてもいい頃だろう。この業界に入りたてとは言え、社会人であるからには、常に重い責任が付きまとう。都合のいい言い方かもしれないが、私の仕事人生の重荷を彼にも少し肩代わりしてもらう時期に来ているのかもしれない。
「少し大変な仕事かもしれないが、この医療の四コマも平田君に頼んじゃって大丈夫かな?」
今度は声に出して隣に座る女性に尋ねてみた。
「彼はまだ若いし、仕事を覚えるためにしょうがないんじゃないですか?」
 隣の机から萩さんが少し笑いながらそう返事した。平田君が何を言われても、いつもニコニコと笑うことと、仕事を断れない人間であることを知っているのだ。萩さんは十二年前の創業当時からいる社員で、今や我が社の重鎮である。会社を立ち上げるときに友人から紹介してもらった盟友で、私より少し年配である。萩さんは女性なので、我々のように深夜までパソコン画面と向き合うような疲れる仕事をすることは出来ないが、従業員の勤務管理から事務・経理・接客までこなす超敏腕社員である。その働きぶりから、彼女を専務と呼ぶ者もいるし、私もそれに依存はない。こういう仕事はいつ依頼の電話が入るか分からないので、昼夜問わず、数名の社員がここで待機しなければならないのだ。我が社にもローテーションがあり、彼女には今夜は私と一緒に夜勤をしてもらっている。
 この職場も、昼間は印刷出版関係の細かい雑事に追われ、やたらと忙しいのだが、夜になるとだいたい仕事は片付き、することはなくなってくる。
 今、萩さんは自分の机でスナック菓子をほうばりながら、怖いくらい真剣な眼差しで、ファッション雑誌を読みふけっていた。彼女はもうすでに”若い”と呼ばれる年代は通り越してしまってはいるが、女性である以上、そのような雑誌を読むこと自体は別におかしなことではない。ただ、彼女は洋服や装飾品などの流行には割と無頓着な方で、しゃれた格好をしているところを見たことがない。それなのに、なぜそういう雑誌を好んで読むのか、ということに私は疑問を持ち、以前何気なく彼女に尋ねてみたのだが、「こういう本は色彩豊かで賑やかだから、見ているだけでも楽しいじゃないですか」という素っ気ない言葉が返ってきた。
 私の方も、明日の作業予定表に必要事項をすべて書き込んでしまうと、することがなくなり、今夜中にしておかなければならないことは、もうないものかと考えながら、しばし呆然としてみた。すると、窓の外から、サァーという雨粒の音が聞こえてきた。
「おお、やはり降ってきたか…」
梅雨の雨の律儀さに感嘆し、私がそう呟くと、萩さんも雨音に気がついたらしく、ファッション雑誌からぱっと目を離し、椅子から立ち上がり、ゆっくりと動き出すと、私の後方にある大窓を半分ほど開けてくれた。長い付き合いの中で、彼女は私が雨音を好きなことを知っているのだ。窓が開いたので、涼しい風が室内に流れ込み、サァーという雨音はザーに変わった。退屈な夜だが、この雨のおかげで少しは楽しめるのかなと思い、イスにもたれて、しばらく眼を閉じてみた。
「社長、誰か来たみたいですよ」
 数十分経った頃、萩さんのその声で目が覚めた。耳を澄ませてみると、雨音に紛れ、カツカツというかすかな音が非常階段の方から聞こえてきた。誰かが上がってくるらしい。昼間なら、受け付けに案内の人がいるから、外部の人でもエレベーターを使ってこの階まで上がってこられるのだが、深夜にこのビルに用事がある人は建物の側面に設置されている非常階段を使うしかないのである。一週間に一度くらいの割合で、深夜に編集者などが緊急の依頼を持って駆け上がって来ることがあるのだが、今夜の来訪者の静かな足音からは、それほど慌てているような印象は受けなかった。
「お客さんかねえ」
私のそのセリフに期待のニュアンスを感じたのか、萩さんは即座に「でも、大家さんが賃料を取りに来たのかもしれませんよ」と、微笑みながら皮肉混じりの言葉を返した。我々は会話を止め、耳を澄ましてみた。足音は次第にはっきりと聞こえるようになり、やがて、コンコンとドアをノックする乾いた音が聞こえた。私は飛び跳ねるようにイスから立ち上がった。萩さんも反射的に雑誌を閉じて、身構えた。私はドアに走り寄り、「どちら様ですか?」と内側から声をかけた。耳をそばだてても聞こえるのは雨音ばかりで、外からの返事はなかった。この事務所のドアには覗き穴がついていないので、誰が尋ねてきたのか確認も出来ないまま、私は覚悟を決め、静かにドアを開いた。
 すると、黒い背広を着込んだ老紳士がドアの外に立っているのが見えた。黒い大きな帽子を深くかぶっているので顔は見えにくいが、白い顎髭が見えたのでなんとか老人であるということは分かった。
「どうかしましたか?」
 私が声を声をかけると、老人は顔を少し上に向けてくれた。
「ああ、すいません…、少々お聞きしたいことがあって来ました…」
老人は一度深々と頭を下げてから、そう返事をした。よく見ると、老人の背広は上から下までぐっしょりと濡れていた。彼は傘を持っていなかったのだ。もう一時間は雨が降り続いているはずだ。いったいどのくらいの距離を歩いてきたのだろうか?
「傘をお持ちでないんですか? 大変だったでしょう。ささ、とりあえず中へ入って下さいよ」
私はあわてて老人の手を取り、事務所の中へ引き込んだ。こんな真夜中に人が尋ねてきたことよりも、こんな老人が傘も持たずに深夜出歩いていたという事実に驚かされた。 その老人は事務所に入っても、目的を忘れてしまったかのような、きょとんとした表情のままで、洗面所からあわててタオルを持ってきた萩さんのことをぼんやりとした目つきで眺めていた。全くこちらの狼狽ぶりには気づかないようだった。私はその事にまた驚かされた。そう言えば、先程の「傘を持っていないのか?」という質問にこの老人は全く反応しなかった。いや、反応しなかったというより、反応する気がないと言うべきなのか。思えば、私はその時すでに、かなり違和感を感じていたのだった。
 老人の衣服を一通り拭き終わると、次に萩さんはお茶を炒れてきてくれた。私は彼を部屋の中央まで誘導し、イスに腰掛けさせた。老人の顔は未だ呆然としたままだが、彼はもしかしたら、我々がなんでこんなに親切にしてくれるのだろうかと、それについて戸惑っているのかもしれない。私としてもこのままでは対応しづらいが、会話のきっかけになるような言葉も見当たらなかった。しかし、その直後、その老紳士は突如口を開いた。
「松岡さんの家をご存じですか?」
「えっ?」
私から話しかけようと思っていた矢先だったので、不意をつかれ、とっさには解答できなかった。
「ああ…、松岡さんという方の家を探していらっしゃるんですね? ええと…、この辺にそういう人はいたかなあ…」
 私はここから二つ離れた駅の側にマンションを借りて住んでいるのだが、職業柄、家に帰れないことも多く、その場合は近くのホテルで泊まっていくことも多い。食事は外食中心のため、旨い飯屋を求めてふらふらと出歩くことも多い。この周辺にはかなり土地勘があると自負している。大きな家であればかなりの数記憶しているはずだが、松岡という名は知らない。
「高名な画家の方ですから…、そのお屋敷もかなり知られていると思うのですが…」
老人はそう付け加えてくれた。しかし、有名人となると、よけい難しい。この辺にそんな目立つ家はあっただろうか?
「松岡画伯なら、相当前に亡くなられましたよ」
後ろの壁にもたれて立っていた萩さんが静かな声でそう言った。その途端、老人はガバッと立ち上がった。私はそれに驚いて、後ろにひっくり返りそうになってしまった。老人は無言のまま目を見開き、萩さんの顔をじっと見つめた。そして、直立不動のまま、身動き一つしなくなった。この場の異様な雰囲気に私も何も言えなくなってしまった。
「裏の公園の隣のお屋敷に住んでいた松岡のおじいちゃんのことでしょう? たしかもう、五年ぐらい前に亡くなってしまって、近親者がなかったから、それから一月も経たずに、あのお屋敷も取り壊されちゃったんですよ」
 沈黙に耐えられなくなったのか、萩さんはそう付け加えた。その言葉を聞いても、老人はしばらくの間そのままの姿で立ちつくしていたが、やがて、力をなくしたように、再びイスに座り込んだ。
「松岡さんの家に何か用事があったんですか?」
少し間を空け、頃合いを見計らって、私は声をかけた。
「届け物をするように頼まれていたのです」
「失礼ですが…、何を…?」
私は間髪入れずそう尋ねた。
「蛇です」
老人はうつむいたまま、私の顔の方を全く見ずにそう答えた。
「蛇ですか? 蛇を今日届けにいらしたんですか?」
私は驚愕し、何度もそう聞いてみたが、老人は何も答えなかった。蛇と言われても、老人は檻も籠のような物も持っておらず、意味が理解しがたかった。再び沈黙の時が訪れ、雨音がザアザアとはっきり聞こえてくるようになった。
「松岡さんの家は…、ほら、あの、裏手にある竹林の中に戦前からあったんですよ。晩年はあまり絵を描かなかったようで、他人との交流が少なくなって、訪れる人も少なかったようですけど…。庭も雑草が伸びきって荒れ放題でしたしね」
 御老人が何も言わなくなってしまったので、萩さんは私に向けて、そう説明してくれた。私が「君はよく知っているねえ」と感心したような顔を見せると、「私も小さい頃からこの辺りに住んでいたんですよ」と彼女は言い足した。
「へえ〜、あんなところに一人暮らしで? かなり偏屈な人だったのかねえ…」
私が感心してそう言うと、その次の瞬間、老人が聞き取れないほど小さな声で再び話しだした。
「松岡さんは変わったお方でしたから…」
その声に反応して私は再び彼の顔に視線を戻した。
「おそらく…、もう、二十年ほど前のことになると思います。私が松岡さんからの依頼を受けたのは…」
それを言ったあと、再び老人は考え込んでしまい、沈黙の時を迎えてしまったので、私の方から、せかすように「それで…、松岡さんはなぜ蛇を所望したのですか?」と尋ねてみた。老人はその問いにもすぐには返答しなかったが、しばらく間を取ってから、再び口を開いた。
「彼は…、松岡さんは大変珍しい物が好きな人でして、自分が心を動かされたものしか絵の題材になさらなかったようです。ですから、画家になって十数年の間に静物・動植物にこだわらず、世界の珍品を人に集めさせて、それを夢中になって描いていたそうです。世の中に自分を驚かせる物がもっとありはしないかと、画商や業者に依頼して、方々を探させていたぐらいです…。奇妙な物を題材にした彫刻や絵画などはもちろんですが、変わった動物や植物などにも興味を持っていたようです。松岡さんは足が不自由でしたから、あまり家の外へは出ることが出来なかったようです…。ですから、あの屋敷の中に奇妙な物を集めて飾り、それを眺めているのが、もっぱらの彼の趣味だったのです」
 この界隈にそんな奇妙な画家が住んでいたという話をこれまで聞いたこともなかった。よほど近所づきあいがなかったのだろう。なにしろ、萩さんでさえ、その松岡という人の詳しいことについては何も分からないのだから。萩さんはしばらく私の後ろに立っていたが、やがて自分の机へと戻っていった。彼女は顔をずっとこちらに向けたままだった。突然、尋ねてきて、不自然なことを言い出したこの老人を不信感を持って凝視しているようだ。
「そして…、まあ、その松岡さんにも、わずかながら友人・知人がおったのですが、そのうちの一人に旅行好きな若い男がいまして、その男が松岡宅を訪れたときのことなんですが…」
 老人はそこで一度話を区切った。たった今、気づいたのだが、この老人、話している間ずっと両手をだらりと下げたままだ。いや、それよりも、私はこの老人が腕を動かす場面を見ただろうか。両手を下げたまま、首をつきだし、眼球を見開いて動かさず、口だけをパクパクと開くこの姿を、異様だがどこかで見たことがある。ずいぶん昔だと思うが、たしかに見たことがある。どこで? 
 不可解な夢の中に閉じ込められたような感覚に襲われ、私は何か嫌な予感がして、萩さんの方を振り返った。萩さんは相変わらずこの老人のことを見つめているのだが、その視線はずいぶん冷たいものだった。せっかくの来客に対して、従業員が向けるようなものではない。彼女は何か気がついたのだろうか、この老人について。しかし、そこで再び老人が話し始めたので、私の思考は中断された。
「ええと…、その旅行者の若い男と松岡さんは旅先で知り合ったらしいのですが…、それがどこかは存じません。しかし、おそらくはアフリカや南米などの未開の地であると考えます。松岡さんは一般の人間が出かけるような場所は若い頃にとうに行き尽くしてしまっていて、五十を過ぎた頃になりますと、親族を数人だけ連れて、車椅子のまま、行き先を普通の人間が踏み込めないような特定の地に限定して、お出かけになっていました。そのようなところで出会ったのですから、まあ、その若い男もただの旅行者ではないことは間違いないと思います。そして…、その晩、松岡邸を訪ねたその若い旅行者は会食の席で、自分がこれまで見てきた奇妙な生き物について、松岡さんに話して聞かせたのだと思います。私はその場にいたわけではありませんので、話の内容について詳しいことまでは分かりかねますが…、経緯からそのように推測します」
 経緯とは何の経緯なのだろうか。まあ、ここで私が口を挟んでもどうにもなるまい。もう少し後できちんと説明してもらえることを期待しつつ、私はそのまま老人の話に耳を傾けることにした。
「そして…、珍しい生き物の話をする中で、その若者は、自分がこれまで見た中で、一番驚いたのは密林の奥深くで見た緑色の巨大な蛇なんだと、そう松岡さんに話して聞かせたのでしょう。巨木の枝に頭部を中心に据えてとぐろを巻くその姿はあなたがたには見慣れないものだと思いますし、危うく襲われかかった若者にとっても、平和なこの国では体験したことのない恐怖であったでしょうし、その緑色の物体が、さぞ不気味で気味の悪いものに見えたのでしょう」
今、この老人は少しおかしな言い回しをした。しかし、私がその事について尋ねる前に老人が話の続きをしゃべりだしてしまったので、またしても、その思考を中断せざるを得なくなった。
「松岡さんはその蛇の話を聞いて、大変興奮なさって、すぐにでもその緑色の蛇を見たいと、そして晩年の作品の一つとして描きたいと、そう仰ったのだと思います。この辺りも私の憶測ですが、経緯から考えましても、そこまで的は外していないものと考えます。その後、松岡さんの親族の方から直接に連絡が入りまして、それは、まあ…、私どもにすぐに尋ねて来て欲しいという事でしたが…、残念ながら、その頃の私には肉体的なことから、海を越えた長旅は少し難しく思われまして、東洋の日本という、まだ見ぬ遠い国へのあこがれはありましたが、断念せざるを得なかったのです…。しかし、私は時が経てば、必ず松岡さんの依頼に応えられるだろうと、そう考えておりました。困難な障害は時間が解決してくれるものです…。そして、近頃になって、私は松岡さんの依頼を遂行したいと再び考えるようになりました。肉体的な障害も現在ではなくなり、自分の生涯の最後をそのような形で締めるのも、悪くないと思いました。今日ここに参りましたのは、そのような理由からなのです…」
 なるほど、この老人の話には幾つか不可解な点があったが、それでも、その概要はほとんど理解できたように思う。つまるところ、彼は南米やアフリカの奥地の珍しい動物や植物などを都会人らに販売する業者なのだろう。そして、二十数年前、松岡という日本人画家から緑色の巨大な蛇を売ってくれという依頼を受け、その希望に応じて蛇を彼に届けようとしたが、肉体的な理由、つまりこの老人自身の体調が思わしくなかったため、それを実行できなかった。そして、彼はそのことをずっと気に病んでいたのだ。しかし、最近になってようやく体調が回復して蛇を運搬する目処がつき、ここまで運んで来ることができたと、そういうわけなのだろう。依頼人から様々な注文を受け、それを探し出して届けるといった辺りは、我々の職業とよく似ている。しかしまあ、長い年月が経っても過去の依頼を忘れず、仕事完遂への情熱を持ち続けたこの老人の態度には、見習うべきところが多くある。今日はいい体験談を聞く事が出来た。
 私は勝手にそう結論を付け、満足してしまっていた。これで全てを理解したつもりでいたのだ。老人が話し終わると、私には自分の思考を進める余裕が生まれ、彼の腕のことがまた気にかかってきた。
「お話の方は大変よく分かりました…。いやあ、しかし、貴重な体験談をありがとうございました。それで…、先程、肉体的な障害というお話がありましたが、大変失礼だとは思いますが、それは両腕のことなんですか?なにか、少し不自由なように見えますので…」
私は彼の腕を指さし、そう尋ねてみたのだが、老人の反応は全くなかった。彼は突如顔を上げ、私の目をじっと見据えた。その視線は思いの外厳しかった。私の方に何か落ち度があったのだろうか。少し狼狽してしまった。
「ええと…、さっき、二十年前に肉体的な理由で、ここまで来られなかったという話がありましたよね? そのことで…」
私がそのような言い訳を口走っていたとき、後ろから冷たい声が飛んできた。
「彼は子供だったんですよ」
私は振り返った。もちろんそこには萩さんがいた。彼女は先程まで老人に向けていた冷めた視線を私の方へ切り替えていた。彼女の突然の言葉は、私には全く理解できなかった。
「子供? 誰がですか?」
とっさに敬語を使ってしまう辺りに、動揺しているこの時の私の様子よくが表れていた。
「彼はそのとき子供で、体が小さかったから、ここへ来れなかったんです。松岡さんの依頼が大きな蛇だったので、来る意味もなかったんです」
 萩さんは先の言葉と同じ質の声でそう言った。私はしかし余計に意味が分からなくなり、言葉を失った。その次の瞬間、老人が立ち上がった。彼はあいかわらず、腕をだらりと彼はあいかわらず、腕をだらりとしたままだ。そして話し始めた。
「どうもお騒がせして…、ご迷惑をおかけしました…。私たちが住む世界と、あなた方の社会との間には大きな差異があることは分かっていましたが、それでも、誰かに伝えておきたかったんです、私がここまで来たということを。意味がないこととは分かっています。依頼者が死んでしまっているのですから、今更何をしても意味がないということは分かっています。ただ、自分自身はある程度満足できるものなんです…」
老人はそう告げると、ドアに向かって歩き出した。彼は足を引きずっていた。よく見ると靴を履いていなかった。なぜ、今になってこんなことに気づいたのだろうか。私がそんなことを考える前に、老人はもうドアのところまでたどり着いていた。なぜか、彼にもう少しここにいてもらいたい気がして、私は声をかけた。
「ちょっと、待って…、今、レインコートを…」
もちろん、聞く耳を持たずに老人はドアを開いた。
「萩君! 早く! レインコートを持ってきて! 早く!」
私は顔だけを彼女の方へ向け、そう叫んだ。萩さんは立ち上がってはいたが、動き出す気配はなかった。彼女は冷たい視線を私に向けたまま、黙って、ドアの方を指さした。私はその動きにつられ、再びドアの方向を見たが、もう老人の姿はなかった。代わりに別のものがいた。
この夜はいろんな事で驚いていたから、あるいはもう免疫が出来ていたのかもしれない。私はそれを見てもさほど驚かなかった。ドアの外には巨大な蛇がいたのだ。
追いかけようとしたのだろうか、私はドアへと走り寄った。しかし、緑蛇はこちらから視線を逸らすと、間髪入れずに非常階段の手すりをつたって地面へと滑り降り、今だ降り止まぬ暗い雨の中に姿を消してしまった。
                      −了−
                (2000年 9月11日)

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