当初の目安通り、夕方近くになって、ようやくその茶屋へと到達した。そこは藁葺き屋根の外見で、全体にずいぶんとみすぼらしいものだったが、中に入ってみると、思ったより暖かかった。小太郎は真っ先に障子戸を開け、草鞋を乱暴に脱ぎ捨てると、めらめらと燃えさかる囲炉裏火に取り付き、火を除き見るように座り込んで、それに手をかざしてから、はあと大きなため息をついた。彼が囲炉裏の向かい側に座っていた小さな老婆に気がつき、とっさに会釈をしたのはその後である。老婆は微笑みながら「ようこそ、ようこそ」としゃがれた声で言いつつ、白髪頭を深々と下げた。老婆のその礼儀正しさに、小太郎はもう一度頭を下げることになった。他の人間たちも小太郎に続いて、遠慮もなく、どたどたと上がり込んできて、囲炉裏を取り囲んだ。この茶屋に入り込んできた者は全部で十人にもなるだろうか。 「いやあ、寒いねえ、いくら山の中とは言っても、まだ秋口なのにこんなにも寒いのじゃなあ…」 その中の一人が誰に話しかけるでもなく、独り言のようにそう言った。全員が顔見知りというわけではないから、それに返事をする者はなかったが、全員が深く頷いた。あまりの疲れと寒さのため、声を出すのも億劫だった。しかし、しばらくすると、皆の顔が少しずつほころんできた。あからさまに笑い出す者もいた。目的地へと一歩近づいた安堵感と高揚感がそうさせるのだ。だが、そのような安息の時間は長く続かず、入り口にあの案内人が姿を見せると、皆の顔から笑みが消え、再び、この山奥まで必死に歩いてきたときの、険しい表情へと戻ってしまった。小太郎も眉間にしわを寄せてうつむいた。老婆は全員に茶を出し終えると、この場の気配を感じ取り、速やかに奥の間へ消えていった。この者たちがこれからどこへ出かけるのかを知っているからこそ、かける言葉は少しも無かった。案内人は老婆が去ったのを見届けてから、自分も草鞋を脱ぎ、囲炉裏に集う者たちに近づいていくと、一度頭を下げてから皆の横にどっかりと座り、あの緩やかな口調で語り始めた。 「ええ、皆様、ご無事でなによりです。たいそうお疲れでしょうが、ここまで皆様全員が無事にたどり着けてなによりでした」 その言葉を聞き、小太郎たちも少し表情を崩して頭を下げた。案内人は一同を見回し、全員の表情を確認してから話を続けた。 「皆様がお疲れだということは、私も重々承知しておりますが、ここはまだ山の中腹です。村での寄会でお話ししました通り、長く休憩を取るわけにもいきません。あと、半時ほどで峠へと向かいます。短い時間ですが、それまでに、どうか皆様、身の回りの準備などを終えておいて下さい」 案内人はそれだけ言うと、再び丁寧に会釈をし、それから足早に奥の間へと消えていった。 彼が立ち去ったあとも、小太郎たちはすぐに顔を上げることは出来なかった。しばらくの間、どこかへと消えていたあの緊張感がいつの間にか戻ってきて、再び彼らの頭を痛めたり、胃や喉をつついたりしたからだ。考え事をしているうちに、小太郎は顔が熱くなり、両手で隠すように覆った。これまでの道のりは思ったほどではなかった。栗殻峠というからには、もっと陰惨で険しい道のりを想像していたし、事実、村で説明を聞いた際は、自分の脚力では、峠の入り口にあるという、この茶屋に到着することすら出来ないのでは、などと考えたものだ。しかし、この茶屋に至るまでの道中は驚くほどうまくいった。大きな蛇や熊が出ると脅かされたものだが、藪に覆われた人通りの無い道が多く、道幅が狭かった以外は特に村の周りと変わらなかった。時間こそかかったが、命の危険を感じることは一度もなく、拍子抜けするほどだった。小太郎は周りの人間と無駄話をする余裕すらあったのだった。まあ、そのおかげで知人も増えたし、これからのことを考えれば、無駄どころか、それは非常に重要なことでさえある。命を懸けた旅で必要になるのは、水よりも、食料よりも、まず頼りになる友人であるのだから。 小太郎は案内人が去ると、静かに立ち上がり、囲炉裏を挟んで向かい側に座っていた陽介のところまで忍び寄っていくと、その隣に腰を下ろした。 「よお、大丈夫だったかい、足は?」 小太郎からそう声をかけられると、陽介はあわてて振り返った。彼も話し相手を捜していたのかもしれない。 「あ、ああ、迷惑をかけてしまったな。実は、ただ皮がむけただけだった。全然大丈夫だよ。なんともない」 陽介は相手に気取られぬようにそう答えたものの、本当は挫いてしまった右足がまだぎんぎんと痛むのだった。しかし、そのことを言ってしまえば、ここで仲間外れにあうかもしれない。足手まといだと言われてしまうかもしれない。そういった思いが彼の口を塞がせた。 「このままうまく行けばいいがね」 陽介はそう言うと、これからのことを思い、深くため息をついた。そう、あと一日無事に過ぎれば、この峠さえ越えてしまえば、彼らにはすばらしい未来が約束されているのだ。もちろん、これまでの憂鬱で凡庸な生活とは比べものにならぬほどの明るい毎日が。本当はもう、彼ら全員は倒れてしまってもおかしくないほどに疲れ切っていた。肉体的なことはもちろんだが、問題は精神だ。人間の疲れとは元々精神の方からくるものである。村で集められたとき、あれだけ脅かされたのだから無理もないが、昼間はずっと、「もうすぐ、みんな死んでしまうかもしれない」などと考えながら歩いてきたのだった。そんなことを考えて山道を歩けば、普段の何倍も疲れるものだ。しかし、彼らはへこたれず、歩き続けた。栗殻峠さえ越えてしまえば、という強い思いが彼らの歩を進ませたのだ。結局脱落した者は一人もいなかった。ここからはついに、最近まで『人間が越えられるとは思えなかった』ほどの秘境、栗殻峠へと向かうことになる。 「もうすぐ、栗殻峠かあ…」 小太郎は生まれてからずっと村の外へはほとんど出たことはなかった。つい最近まで、本当に数日前まで、栗殻峠を超えた向こうに、自分の村より遙かに発達した城下町が存在することなど考えたこともなかった。小太郎の村に住む人間の大多数は、栗殻峠の名を聞いただけで身が震え、そこには侵入することさえ不可能なのだという思いが頭に浮かぶ。子供の頃から、そこは鬼の住処だと教えられてきたからだ。ましてや、そこを通り抜けるなど、ほとんど狂人か、あるいは生に絶望した者の考え方である。しかし、彼らはここまで来た。それは、恐怖心や常識よりも、人間の根元的な欲が勝った結果だった。 「もし、峠の向こうに抜けられたら、まず何をしたい?」 そんな物思いをなんとか吹き飛ばそうと、しばらく経ってから、再び小太郎は話しかけた。 「峠を越えられたらか? そうだなあ、まず、酒だな。どこでもいいから、小さい居酒屋でもいいからさ、駆け込んでいって、一杯ぐっとあおるんだよ。そんで、あとはもう、宿屋へでも行って、畳の上にひっくり返って、ゆっくりと時間をかけて、実感したいね。自分がここまで到達できたということをさ」 その答えを聞いて、小太郎は何度か頷いた。彼自身の考えも、大体そんなところだった。今日、栗殻峠に向かうのは、この近隣の村の代表者たちである。小太郎も運良く、村の代表者となることが出来た。それは本当に幸運なことだった。村には小太郎よりも山に精通した者や身体の丈夫な者が多くいた。しかし、それらの者であっても、さすがに栗殻峠の名を聞くと、身が震え、まだ成功よりも命が欲しいという思いが働くらしく、積極的に参加したいという者はほとんどいなかったのである。それでも、小太郎は自分から名乗り出ることはしなかった。そんなことをすれば、鼻が利く長老たちに怪しまれるかもしれないし、今後生活していく上で、なにかと面倒なことになる。静かに、末席で、自分の番が来るのを待ったのだ。そして、長老が、「小太郎、おまえはどうだ? 行きたいのか?」と、声をかけてきたとき、満を持して、大きく頷いたのだった。かくして、狙い通りに小太郎は村の代表になった。その後、各村の代表者たちは、この山のふもとの集会所に集められ、寄り会が開かれた。その席では、何度か峠を往来したことがあるという案内人から栗殻峠についての説明を聞いたものだ。案内人の話の中で、これまで峠を越えようとして多くの人間が命を落としているということを知った。説明のあと、小太郎は挙手し、「なぜ、その人たちは死ぬことになったのですか?」と彼に問いかけた。案内人はしばらくの沈黙のあと、「その質問には、今は答えない方がよいでしょう。栗殻峠が眼前に迫ったときに、皆様には詳しく説明いたします」との返答をよこした。小太郎が納得がいかない表情をしていると、「あなた方には、目的地に着くまで、余計なことを考えていただきたくないのです。ただでさえ、厳しい旅程なのですから」と案内人は付け加えた。小太郎はその言葉を聞いて、急に不安になった。これまで保ってきた断固たる思いが一瞬崩れそうになった。周りを見渡せば、多くの者が、小太郎のように不安げな表情を浮かべていたのだった。 それはもう半月も前のことだったが、とても現実的な出来事だった。息苦しくなって、小太郎は額の汗をぬぐった。そんなことを思い出しているうちに、いつのまにか精神が追いつめられていることに気がついた。ここまで緊張感を保ち、茶屋に飛び込んだときには、あれほどの自信と安心とを手に入れたというのにそれらは自分の知らぬうちに、もうどこかへと消え去ってしまっていたのだ。これではいけない、と小太郎は気を引き締め直した。 「鬼でも出るんかのお…、恐ろしいのお…」 隣では陽介が血の気の引いた顔に、虚ろな目つきでそんなことを呟いていた。小太郎は彼の肩を強く叩いて言った。 「大丈夫じゃ、たいしたことはない。ここまでの道も、あれほど怖かったのに、何も起こらず、ここまで来れたじゃないか、気をしっかり持て」 そう言ってやると、陽介も幾分安心したような顔を見せた。しかし、彼は痛む右足をさすりながら、実際には嫌な予感を感じていた。もし、この右足が障害になって、栗殻峠で鬼にでも出くわしたときに、倒れ込んでしまったら、どうなるのだろうか? おそらく、誰も手をさしのべてくれないだろう。今、隣で励ましてくれている小太郎でさえ、そんな緊急の時は助けてくれないだろう。一番先に死ぬのは自分かもしれない。陽介はとても複雑な気分になった。しかし、もう後ろへ下がる道はない。何も起きないことを祈るしかない。彼はここで悲壮な覚悟を決めなければならないのだ。 囲炉裏に集った、旅人たちは各々、話し相手を見つけたようで、ごにょごにょと囁き声が聞こえてくる。しかし、その表情から、明るい話とは思えなかった。これからの展望を睨み、何か予測不可能な出来事が起きたときの対策を練っている輩がほとんどだろう。しかし、彼らは自分の村から持ち込んできた少々の武器や食糧では、ここから先の道で確実な安全を買うことはできないこともわかっていた。 やがて、奥の間から、案内人が準備を終えて出てくると、その密やかな話し声も途絶えた。彼は脇差しをしてきたが、その堂々とした風貌から、元々は侍なのではないかと小太郎に思わせた。 「皆様、お待たせしました。もう、よろしいですか? 用を足したいという方はいらっしゃいませんか?」 案内人はまずそう確認した。小太郎も陽介も周りを何度か確認した後、小さく頷いた。多くの人間が彼らと同じ行動をとった。案内人は全員の顔を一度見回してから、話を続けた。 「それでは、まず、体調のほうなんですが…、どうですか? 怪我をしてしまった方、気分がすぐれない方はいらっしゃいませんか? もしいらっしゃいましたら、今、この場で申し出てください。体調不良などありますと、栗殻峠に出てしまってからでは、取り返しのつかないことになってしまいます」 案内人は少し寂しそうな顔をしながら、皆にそう呼びかけた。それは、これまで幾人もの事故死を見てきた顔だ。陽介は肝が冷えた。自分が呼びかけられたような気がしたのだ。しかし大丈夫だ。このぐらいの怪我ならば、問題はあるまい。彼は自分にそう言い聞かせた。 「それでは…、これから出発しますが、ここに至るまで、皆様に栗殻峠についての予備知識を全く与えられませんで、申し訳ありませんでした。ただ、誤解のなきよう願います。それまで峠を何度か往来した経験から、初めて峠に入る者にはなるべく余計な知識を与えないほうが良いと、私が個人的に判断いたした次第です。決して、皆様を欺こうと思ったわけではありません。しかし、ここまで、この茶屋まで来てしまえば、皆様も、もうすでに覚悟のほうがお決まりになっているかと思います。ですから、峠に向かう前に、やはり、少しでも、栗殻峠について、お話をしようと思います」 案内人はゆっくりとした口調でそう話した。小太郎は座り位置を変えずに身を前に乗り出した。陽介は唾を飲んだ。 「ご承知のとおり、栗殻峠のことは、これまで近隣の村々でさえ、あまり知られていませんでした。しかし、陸地から狭灘の城下町に入るためには、栗殻峠を通過する以外に道はありません。船を持たない山地の村の人々は、これまでにもおそらくですが、何度か栗殻峠の通り抜けを試みたのだと思います。そして、その度に大多数の人間は峠で命を落とし、命からがら狭灘の町に辿り着いた者でさえ、もう二度と栗殻峠に入りたくないという思いから、再び、故郷の村に戻って峠であったことを伝えようとしなかったのでしょう。ですから、今日まで、付近の村で栗殻峠について知っている人はほとんどありませんでした」 案内人はそこで一呼吸を置いた。 「ですが、皆様に以前お話しましたとおり、私は峠を往来したことがあります。まだそれほど多くはありませんが、何度か、狭灘へ行きたいという希望を持った方々を向こうへ送り届けてきました。残念ながら、毎回幾人かの犠牲者を出してしまいますが、そのことにつきましては、事前に皆様からの了承を取ってありますので、私自身はそれほど問題とは思っておりません…。しかしながら、そういう人々の死に直面するたび、この峠を越えるために必要なのは体力ではなく、精神の力だ、ということを思い知らされます」 案内人は再び間をおき、皆の顔を嘗め回すように、もう一度見回した。 「先ほど、皆様に気分のことについてお伺いしたのはそのことなのです。よろしいでしょうか? 栗殻峠に着いてから、一番してはいけないことは、もう帰りたい、と思うことです。なぜならば、そのような精神力の弱さにつけこまれてしまって、これまで多くの人間が命を落としてしまったからです」 案内人は山中でどんな生物が旅人の弱みにつけこんでくるのかについて、あえて話さなかった。 「ああ、やはり、鬼が出るのだろうか」 陽介はそう思った。小太郎も心臓を震わされる思いがした。精神などというものは、その時になってみなければ、どうなるかわからないのだ。ここまで来てしまってから、そんなことを聞かされても、どうしようもないではないか。しかも、こんな話をされてしまったら、否応なく家に戻りたくなってしまう。小太郎はそこで、少し自分の家のことを思い出した。別に家に帰ってみても、それほど大したものがあるわけではない。この茶屋よりもさらに狭い藁葺きの家に牛が一匹、それと狭い水田と畑がある。二年前に結婚した女房が一人。そして、屋根に住み着いた燕の親子。彼を待っているのはそれぐらいのものだ。しかし、自分の住処というものには、他の場所では絶対に得られない何かがある。安堵とか、安らぎとか、説明はしにくいが、自分の家というのは、彼が唯一、自分の意見を思い通りにぶちまけられる場所でもあるわけで、そういう意味では非常に稀有な存在である。それに比べると、今の状態は最悪だ。こんな寂しい場所にろくに話したことも無い者たちと一緒に集い、これから命をかけて未知の領域に踏み出そうとしている。そんな全く気を抜けない状況下で、今度は『家に帰りたいなどと考えるな』ときたものだ。まったく、冗談ではない。 小太郎は気分が悪くなってきた。本当に自分はこんな素性も知れぬ案内人に導かれ、狭灘へなど行きたいのだろうか? 行ける気がしなくなってきた。彼は自分が狭灘の城下町にたどり着いた画を頭に思い描けなかった。しかし、それでもなんとなく、自分だけは峠を越えられるとも考えていた。死ぬ気がしなかったからだ。狭灘へたどり着くということよりも、栗殻峠で死ぬことのほうがよほど非現実的である。そのことに小太郎は少し安心した。自分が、自分だけは、死ぬわけがないのだ。ここに集まった旅人全てが、今、同じようなことを頭に描いていた。 「峠の道中、もしかすると、これまで目にしたことのない、恐ろしいものを目にするかもしれません。しかし、たとえどんなことが起きても、どんなものを見てしまったとしても、皆さんの執念で乗り越えてください。私はどんな恐怖よりも、今日、ここにお集まりいただいた方々の目的地への希望がそれを上回ると、堅く信じております。申し上げることはそれで終わりです。さあ、では出発しましょう」 案内人は話をそのように締めくくった。すると、誰からともなく皆次々と立ち上がり、無言で土間に降り立ち、草鞋を履き始めた。気がつくと、先程のお婆が奥から出てきて、死地へと赴く旅人たちに笠を手渡していった。茶屋の中には最後に陽介と小太郎が残された。二人の動きはほとんど同じだったが、陽介は無意識のうちに小太郎よりも早く戸外へ出た。最後に土間に残ったのは小太郎だった。そのことは彼にとって意識的なことではなく、さほど気にも止めなかった。小太郎が茶屋から出てくると、案内人は全員そろっていることを確認してから、庭先においてあった鎖鎌を左手に握り締め、峠に向け、再び一歩ずつ歩き出した。小太郎や陽介たちもそれに続いた。旅人たちが茶屋を去ると、屋根にとまっていた烏がくわあと鳴いていずこかへと飛び去っていった。 暗くなると、山道の様相は一変した。高地ということもあってか、しだいに緑があまり見られなくなっていった。ただ、置き去りにされたような数少ないすすきだけがふらふらと風になびいていた。葉っぱの抜け落ちた老木と吹き降ろすから風が、人の踏み込んだことのない山道の寂しさを強烈に演出していた。ここいら一帯は雑草や芝が伸び放題で、獣道すら存在していなかった。そのため、初めて来る小太郎たちには進む方向すら全くわからなかったが、案内人の足取りには迷いがなく、これまでの経験から、峠を抜ける方向に大体の見当をつけているに違いなかった。茶屋から半時ほど登るころには、完全に日が沈んでしまっていた。そして、目の前には広大な杉の林が姿を現した。 「ここからが栗殻峠になります」 そう説明されるまでもなく、山全体が大量の杉をかぶせられたような、この光景を見せられれば、誰でも想像がつく。なるほど栗の殻のようだと。草木を掻き分けて、杉林の中を覗き見てもそこには道が見えなかった。いや、存在しなかった。隙間なくそそり立つ巨木たちと、足元に茂る雑草が人間どもの侵入を敢然と拒んでいるようだった。ここまでどんなに山道が険しくとも常に一定の速度を保ち、力強く歩んできた旅人たちもさすがに臆したのか、そこで数人が歩みを止めた。 「ここでは休憩を取りません。すぐに出発しましょう。大丈夫です。私の後をついてきてください。暗くて皆からはぐれてしまいそうになったら、この鈴の音を目標にしてください」 案内人はそう言って、背中に背負った袋の中から木の枝を取り出した。その枝先には幾つかの鈴がぶら下がっていて、彼が枝を振ると、ちゃりちゃりと鳴いた。 「これは私の故郷では守り神なんです。今日のために、神社でお払いをしてもらいました」 後にして思えば、この言葉はずいぶん印象的だった。案内人は手に持った鎖鎌で入り口付近の邪魔な古木を切り倒すと、躊躇せず杉林の中に踏み込んだ。ここで遅れをとるわけにはいかない。あれこれと考える暇もなく、他の旅人たちも後に続いた。 「おい、何も見えないぞ。みんな、どこにいる?」 誰がそう叫んだのだろうか。真っ暗な林の中で、これまで心中に潜んでいた恐怖が破裂した。 「あ、足に、足元に何かいるよ!」 「見えねえぞ! おい、みんな、どこにいるんだ!」 皆置いていかれまいと必死だった。あちこちで杉の木に体をぶつける音や、木の根っこや草木に足を取られて転倒するような音が聞こえた。 「落ち着いて! ここで慌てないでください。鈴の音を、鈴の音を聞いてください」 案内人は皆にそう言い聞かせながら、時々、右手に持った神木をちゃりちゃりと鳴らした。小太郎は周りの人間と違ってそれほど慌てず、叫び声も出さなかった。このぐらいのことは予想していたし、恐怖はあったが、すでに疲れもたまってきていて声を出すのがしんどかったからだ。ひたすら前の人間の下半身だけを見て、一定の速度で山道を登り続けた。顔を上げることはしたくなかった。こんなに暗くてはなにも見えるわけないし、第一、恐ろしかったのだ。もし顔を上げて、大蛇や鬼の姿が見えたとしても、どうにもならないのだから。足腰が弱ってきていて、何に襲われても、全く逃げ切れる気がしなかった。すこし、夜の山道を甘く見ていたかもしれない。ぜいぜいと息を切らしながら、小太郎はそんなことを考えていた。半時ほど暗闇の中を登り続け、ふと振り返ってみたが、もう杉林の入り口は見えなくなっていた。周りは全て大小さまざまの杉、そして足元には雑草があるだけだった。もう先ほどの茶屋にも故郷の村にも戻れないのだ。小太郎はそこで初めてそんなことを考えた。少し胃袋が寒くなった。夜になって気温が下がったせいではない。それでも彼の歩みは安定していて、他の旅人につられながら、真っ暗な杉林の中を突き進み、順調に目的地へと近づいていた。 しかし、その頃、後方にいる陽介の状況は少しずつ悪化し始めていた。彼は足元をしきりに気にしていた。痛めた右足からはついに血が吹き出した。右足を引きずるようになった。それに伴い、歩む速度は確実に落ちていった。暗闇にも目が慣れてきて、自分が隊列から遅れ始めていることが、はっきりと認識できた。案内人の鳴らす鈴の音は少しずつ遠ざかっていた。このままでは、やがて皆からはぐれてしまうだろう。そして、それは直接死を意味する。そんなことは陽介にも当たり前のように理解できているが、体は空回りし、焦るたびに両足に余計な力が入り、山道をうまく捕らえきれなくなっていた。周りにいるはずの旅人たちの足音が次第に遠ざかっていった。 「もう、だめだろう」 彼はそのとき、そんなことを考えた。 「そんな危険なことはやめたらどうだい?」 あのときの母の声がまた聞こえてくる。彼が栗殻峠へ出かけることを両親に話したのは、出発日の三日前になってからだ。案の定、両親はそれを聞いて絶句してしまった。彼らとて、この家を継ぐはずであった大事な一人息子を、簡単にそんな危険な旅に行かせるわけにはいかなかったのだが、もはや出発日目前である。今さら止めたとて、頑固な息子の決心が揺らぐとは思えなかった。 「それなら、死ぬことだけはやってくれるなよ」 寡黙な父はそれだけ言って、寝所へ向かった。母は夜明けまでの長い時間泣いて、なんとかあきらめがついたようだが、「おまえ、危なくなったら、なんとか逃げてくるんだよ。逃げることなんて、両親より先に死ぬことに比べたら、恥ずかしくもなんともないんだからね」と真剣な顔で陽介に訴えていた。彼は逃げ延びてくることなど、いささかも考えていなかったが、母のため思い、その場は頷いておいたのだった。 こんなことを思い出すこと自体、縁起のいいことではない。陽介は自分の死が近づいていることを強く感じていた。ここで死んでなるものかと必死に皆の後を追いかけているつもりだったが、極度に悪い視界と、足元に生い茂る雑草に阻まれ、うまく足が進んでいかなかった。直後、目の前に巨木が現れ、彼はとっさに大きく右へ寄れた。その途端、地面の窪みに足を取られ、真後ろに転倒してしまった。陽介は焦った。心臓が高鳴った。彼は大きな荷物を背負っていたため、背中に負荷がかかり、うまく立ち上がれなかった。 「まずい、とんだことをしてしまった!」 陽介はそう叫び、半狂乱になって足をじたばたさせたが、頭のほうに大きな力が加わっていて、立ち上がれる気配がなかった。一度荷物を解こうとしたのだが、寒さで手が悴んでいて、それもうまく行かなかった。状況は刻々と絶望的になっていった。厚い脂汗が額を伝ったが、彼にはどうしようもなかった。陽介は右足を負傷していたことを思い出し、さらに暗い気分になった。このままでは鬼でなくとも、狼でも山犬でも現れれば、それで一巻の終わりだ。彼は最後の力を振り絞って大きく身体を左右に振った。彼の動きはがさがそと茂みの中で大きな音をたてた。そして、次の瞬間、顔になにか生暖かいものが触れた。陽介は絶叫した。 「おい、おめえ、大丈夫か? 転んだのか?」 かなり濁った声だが、それは間違いなく人間のものだった。その声に反応してとっさに首を後ろに向けると、彼の視界には熊のような大男が映った。たしか、ここまでの道中のどこかで、彼の顔を一度顔を見かけたことがあった。その男は陽介の肩を力強く掴むと、そのまま一気に身体を起こしてくれた。しかし、陽介には助かったという実感はあまりなく、しばらくの間、呆然としたままだった。 「おい、足を怪我しちまったのか? 大丈夫か?」 彼は陽介の様子など意に介せず、話を続けた。 「さっきまでは平気だったんだがね、今はかなり痛むんだ」 彼にしてはずいぶん弱気な言葉だった。関係のない男まで巻き込んでしまい、情けない思いでいっぱいになった。 「それなら、俺が右肩を支えてやるから、ほら、早く連中を追いかけよう。追いつかなくなっちまうぞ」 大男はそう言って、陽介を連れて歩き出した。 「なあに、慌てることはない。この山は異常だ。前に行った連中だって、今頃どんな目に遭ってるか、わからんよ」 その男も大きな荷物も背負っていたから疲労の色が濃く、表情も険しかった。しかし、それを気にせず、自分を助けてくれた。彼にはそれが嬉しかった。そして、峠を抜けられたら、必ずこの男に礼を言おうと心に決めた。今考えてみると、陽介は誰かに声をかけられた瞬間に小太郎のことを頭に思い描いたものだった。しかし、助けられてみると、その男は小太郎ではなかった。彼はそのことを強く意識したつもりはなかったが、そのとき、ふとある思いが胸を突いた。 「小太郎は今頃どうしているだろうか。」 小太郎は先頭を歩く男たちにつられ、順調に峠の頂上付近にまで達していた。先程、下の方で、何かが転倒するような音が聞こえ、先導していた案内人は心配だからと、慌ててそちらの方へ駆けていった。しかし、案内人以外の人間は誰もそのことを気にかけなかった。それも当然のことで、もし、下の方で誰かが鬼に襲われていたとしても、助けようがないのだ。そんなことをすれば自分たちまで巻き込まれてしまうだろう。そういう思いから、先頭を歩く彼らは助けには向かわず、かえって歩む速度をあげたものだった。小太郎にしても、一度は下で倒れたのが陽介かもしれないという考えが脳裏をよぎった。しかし、彼は立ち止まるどころか、後ろを振り返ることもしなかった。仕方がないからだ。そう、こんな状況で死んでしまう人間は仕方がないのだ。ここでは一人一人が自分だけが峠を越えられればと、そう考えて進んでいく他はない。その考えはきっと正しかったはずだ。しかし、山頂付近の酸素は薄く、疲れきっている彼らの息をさらにか細くした。 「厳しいなあ…」 彼のそばで誰かがそう呟いた。わざわざ、この場面でそんなことを言う意味は何もなく、あまりの過酷さから、思わず口を飛び出した言葉だと思われる。小太郎はそのことに強く共感した。 「しんどいなあ…」 ついに彼の口からもそんな言葉が漏れ出した。漆黒の空を見上げると、いつのまにか風の向きが変わっていた。 「そんなにしんどいなら、やめてくださいな」 彼は不意にそんな言葉を思い出した。今朝、恐怖のあまり、玄関でうずくまった彼に、妻はそう声をかけた。彼は逆上し、妻を罵倒し、蹴り倒してしまった。ああ、全くなんて事をしてしまったのだろうか。ただ、自分の決意を歪める言葉が許せなかっただけなのだ。そこまでするつもりはなかった。出発の朝くらい、笑顔で家を出てくればよかったのに。今は激しく後悔していた。狭灘に行こうと決めた頃は、村に妻を捨てていくつもりだった。妻を嫌っているわけではない。まず、彼女を連れて栗殻峠を越えられるわけがなく、それに、たとえ狭灘に着けたとしても、一生村に戻ることは出来ないのだ。彼女のことは諦めるほか仕方がなかった。しかし、出発日が近づくにつれ、自分の妻をを村に置いていくことが辛くなった。狭灘まで行ければ、自分の夢がかなう。しかし、同時に大事なものを捨てなければならない。彼は次第に物思いにふけることが多くなっていった。ここ数日の彼のそうした態度を見て、妻もこれが夫との今生の別れだと気がついたらしい。だから、別れ際、そのようなことを言ったのだろう。彼は山道を這うように歩きながら、そんなことを思い返していたが、次第に嫌になってきた。歩くのが、暗闇に怯えるのが、そして自分の命を賭けてまで、旅を続けることが嫌になってきた。そうだ、狭灘に着いても、しばらく時間が経ったら、自分は戻ってこよう。もう一度、村に帰ろう。そして妻に謝ろう。彼は案内人との約束を忘れ、そんなことを考えるようになっていた。そして、それは極めて危険な感情だった。 「おうい! 大丈夫ですかー!」 坂の上方からそんな声が聞こえ、茂みが激しく揺れた。やがて、木々の隙間から案内人の顔が覗いた。彼の顔を見て、陽介は胸をなでおろした。これで助かるはずだ。自分はずいぶん運がよかった。 「おお、足を怪我してしまいましたか。でも、大丈夫ですよ。もうすぐ、山の頂上です。そこからは下るだけですから。他の方はもう峠を抜けている頃でしょう」 案内人はそう言って、過酷な状況にある陽介を励ました。もちろん、怪我人を背負ってしまった今の状況は全く楽観視できるものではなく、ここにいる二人が助かる可能性はそれほど高くないと見ていたが、そんな思いを少しも表情に出してはならないと思っていた。彼は落ち着いた動作で腰の袋から布切れを取り出し、それを陽介の右足に巻きつけた。 「これで大丈夫でしょう。血さえ止まってしまえば、こんな怪我はそんな重荷にはならないですよ」 なぜこの男は何度も同じようなことを言って、自分を安心させようとするのだろうか? 陽介は少し不気味に思った。三人で並んで歩きながら、陽介は少しあたりの様子を気にしてみた。そういえば、林に入った頃は多少なりとも鳥や小動物の声が聞こえてきたものだった。しかし、今は自分たちが落ち葉を踏みつける音しか聞こえなくなっていた。 「おいおい、ずいぶん静かになっちまったなあ」 陽介を助けた大男も隣で同じことを考えていたようだ。そのまま、ふと首を右方に向けると、いつのまにか案内人の表情が先程とは比べものにならぬほど険しくなっていた。 「少し急ぎましょうか」 彼は突然そんなことを言い出し、陽介の左手を強く引いた。 「そうだな、そろそろ急がないと、前のやつらに追いつかなくなるぞ」 大男もそう言って賛成した。しかし、陽介は歩く速度をあげるのには、なにか他の理由があるような気がしてならなかった。 「あまり動物たちの声がしなくなりましたねえ…」 案内人にそう声をかけてみた。 「動物たちはいるんですよ。でも、彼らも声を出せないのです。危険が迫ってますから」 案内人はそんな説明をした。相変わらず言葉が足りないと思われた。そして次の瞬間、「うっ!」とうめき声をあげ、隣を走っていた大男が倒れ伏した。 「どうしました?」 「うわっ! なんだ? 変なものに脚を掴まれちまった!」 大男は先程とは打って変わってかなり動揺していた。 「何に掴まれたんですか? 動物ですか?」 陽介は腰をかがめて、男の足元を見ようとした。 「離れなさい! 危ないですよ!」 突然、案内人がそんな叫び声をあげて、陽介を藪の中へ突き飛ばした。そして、そのままの勢いで脇差を引き抜き、大男の足を掴んでいる何かを切りつけた。ぐしゃという音がして、黒いものが飛び散った。よく見えなかったが、それは多分血だろう。陽介はなぜかそんな気がした。案内人は素早く刀をしまって、うつむき、手を合わせていた。地べたに座り込み、唖然としている陽介のところまで、彼が小声で唱えるお経が聞こえてきた。それが終わると、助けられた大男は顔を強張らせたままゆっくりと立ち上がった。 「なんだ、今のは…、人間の手だったぞ…」 彼の声も身体も震えていた。陽介も再び立ち上がって、いったい何があったのだろうかと、案内人が何かを切った場所を覗き込んでみた。 「見てはいけませんよ!」 その瞬間、横から案内人がそう叫んで、陽介の腕を掴んだ。しかし、陽介は一瞬だけそれを見てしまった。地面の上に転がっていたのは人間の手のようなものだった。しかし、そんな筈はない。彼はとっさに自分の思いを吹き消した。そうするしかなかったのだ。 「峠に入る前に言ったでしょう? 多くの方がここで亡くなったと。あなた方も亡者にならないように気をつけてください」 結果的にはこの体験が幸いだった。そこから三人は一刻も早くこの峠を越えるべく、がむしゃらに登り続けた。特に陽介は地面から生え出た人間の手を見て、返って開き直ることができた。自分の足の痛みも忘れることができた。もう、余計なことを考えるのはよそう。故郷の母も、暗い林も、小太郎のことも。この気味悪い林さえ抜けてしまえば、恐怖や迷いは去る。そして、再び日常が返ってくるのだ。今は前を向くしかない。懸命にに歩くことしか今の自分に出来ることはない。迷いを捨てた陽介の足取りは軽く、前を行く他の旅人たちに迫りつつあった。 長い時間が過ぎ、夜明け頃になって、ようやく一行はこの長く苦しい旅を終えようとしていた。一番先頭を歩く男たちにも歩みを止めて、雑談を交わすほどの余裕が出来ていた。 「もうここまで来れば、さすがに大丈夫だろう」 「うむ、ずいぶん静かになってきたしな」 「おお、あそこが出口じゃないか?」 その中の一人が林の奥から差し込んだ一筋の光を指差して楽観的にそう言った。そんな皆の弛緩した声を聞いて、小太郎も安心し、自然と口元には笑みが浮かんだ。太陽が昇り始めたらしく、木々の隙間から透き通った光がこぼれ出した。そうしてじんわりと辺りの様子が見えてくると、もう、この杉林も怖くはなくなった。 「やはりそうだ! あれが出口だ! 狭灘に着いたんだ!」 先頭の男がそう叫んで、突如走り出した。それに続き、周りの男たちも一斉にその光に向かって駆け出していった。だが、小太郎はなぜか走る気にはならなかった。走っていく男たちの表情は真剣そのものだった。目的地に着いたという安堵や緩みがいささかも感じられなかった。小太郎はそのことがまた不思議でしょうがなかった。彼は気がつかなかったようだが、それは人間の命への執着心から来るものだった。他の者たちは少なくとも、今このときまで自分の命を守り続ける気持ちを絶やさなかった。それ以外のことは考えていなかったのだ。しかし、小太郎は他の旅人たちが全員走り去ってしまっても、それを追いかける気持ちにはならなかった。相変わらず下を向いたまま、ゆるゆると考え事をしながら歩き続けていた。もう、目的地にたどり着いたのだから、そんなに焦らずともいいではないか。彼はそう考えていた。気の緩み以外の何物でもなかった。彼は不意に腰に手を当てた。 「あれっ、あのお守りはどうしただろう?」 一人でそう呟いた。逆上して妻を突き飛ばしたあと、玄関にお守りを置き忘れてしまったのを思い出した。そして、突如、信じがたいほどの寒さに襲われた。彼は完全に立ち止まってしまった。前の晩、妻から手作りのお守りを手渡された。そうだ、そのときからだ。迷いが始まったのは。彼は余計なことを思い出し、後ろを振り返った。そしてまた独り言を呟いた。 「陽介はどうしたのだろうか?」 彼が追いついてくれば、一緒に狭灘にたどり着き、喜びを分かち合うのも悪くない。しかし、後ろからは誰もついて来ていなかった。気がついてみると、杉林はずいぶんと静かになっていた。しばらくの思考のあと、小太郎は再び前を向き、一歩踏み出した。だが、次の瞬間、大地の窪みに足を取られたのか、派手に転倒してしまった。 「いかん、いかん、考え事をしていたからだな…。」 彼は苦笑して、服についた砂を払い、起き上がろうとした。簡単に立ち上がれるはずだった。しかし、その右足は思いのほか深く大地に突き刺さってしまったようで、うまく引き抜けなかった。 「根っこだ。木の根っこに絡まったんだ」 彼は自分を安心させるようにそう言い、再び力をこめたが、その窪みに捕られた右足は全く動かない。だが、彼はこの事態にも、あまり動揺していなかった。もう林の出口も見えているし、自分の明るい将来は約束されていると、そう思い込んでいたからだ。この林に足を踏み入れたときのような、研ぎ澄まされた集中力が、疲れ切っている今の彼にあろうはずもなかった。しかし、何度か窪みから足を引き抜こうと努力してみて、彼はようやく事態が切迫していることに気がついた。右足が蔦や木の根に絡まっているのならば、少しは動かせるはずである。だが、その窪み、いや穴に捕られた右足はどんなに力を込めても全く動こうとしなかった。 「いったい、どうしたというんだ?」 彼は不思議そうにその中を覗き込もうとした。その穴はさして深いわけでもなく、少し腰をかがめただけで、その底まで一望できた。そうやってよく見てみると、彼の足は気の根っこに捕まっていたのではなかった。掴んでいたのは人間の手だった。土気色をした人の手が彼の足を押さえつけているのだった。 「なんだ、こいつは…」 その声は今まで出したことのない音質だった。まるで腹の一番底から自然に湧き上がった来たような。彼は自分でそれがわかった。そして、自分が生まれて初めて心底恐怖していることも。それを見た瞬間から、顎と首が同時にがくがくと震えて、声を出すどころか、身動きすらもできなくなってしまった。 「くそ! くそっ!」 そう叫びながら、必死に右足を引き抜こうとしたが、何者かにがっちりと掴まれたそれはもはや自分のものではなかった。仕方なく、彼は懐に手を入れ、用意しておいた短刀を探った。それで右足を切断してしまえば、助かるかもしれないと、そう考えたからだ。彼は短刀を引き抜き、自分の右足を切りつけるべく身構えたのだが、そこで動きを止めた。自分の足を切り裂くことに躊躇があり、なかなかそれを振り下ろす気にもならなかったのだ。こんなことをしなくても、無事にこの危機を回避する方法が他にあるような気がしたからだ。そうだ、まだ後方に案内人や陽介がいるはずだし、彼らに助けを求めれば無傷で助かるのだ。ここで焦ってはいけない。彼はそんなことを考え、短刀をしまってしまった。しかし、その直後、状況が一変した。足を掴んでいた手がもの凄い力で彼の体を引き付け始めたのだ。彼は慌てて、近くの大木にしがみついた。しかし、そのときはもう、彼の右足は膝まで地面に引き込まれてしまっていた。 「まずい!」 彼はようやく自分がどういう最期を迎えるのか理解できたようだ。額から血の気が引くのがわかった。小太郎は大木を掴む両手に力を込め、脂汗を流しながら、必死の形相で自分の体を引き上げようとした。すると、わずかだが、こちらの力が勝ってきたようで、少し彼の右足が地面から戻ってきた。 「ようし! この意気だ」 彼は自分をそう励ましながら、額を汗びっしょりにして、右足を引っ張り続けた。しかし、ふと、今度は腰の辺りに違和感を感じ、顔をそちらのほうに向けた。 「げっ!」 それを見て絶句した。いつのまにか、地面からもう一本手が生えてきて、腰の部分を押さえていたのだ。再び、恐怖と焦りが増大し、今度は下半身にうまく力が入らなくなってきた。精神が集中できないのだ。これがいったいどういう現象なのか、自分を引っ張っている者たちは何者なのか。彼には理解する暇がなく、対応する策を考える余裕もなかった。彼が上を見上げると、大杉の枝に烏が集まってきていた。やつらはこの光景を見慣れているから、これから人間が死ぬことがわかるのだ。そんなものを見てしまうと、絶望感で胸が押し潰されそうになる。否応なく、体は地面にずぶずぶとめり込んでいった。しかし、腰の部分まで地面に埋まってしまっても、彼はまだあきらめるわけにはいかなかった。なにか、助かる方法があるはずだと、必死になって自分の運命に抗おうとした。彼は助け舟を求め、辺りを見回した。するとそのとき、遠くの方から、ちゃりーんという音が聞こえてきた。 「しめた、あれはたしか…」 小太郎がそう呟いているうちに、後方から、人間の足音が聞こえてきた。足音は独りの人間のものではなく、何人かの男が連れて走っているのだ。 「よし! 助かった!」 彼は肩の辺りまで地面に沈められていながら、まだそんな楽観的に考えることができた。やがて、左後方から、三人の男が走ってくるのが見えてきた。少し距離はあるが、大声を出せば気づいてくれるはずだ。 「おおい! ここだー! 助けてくれー!」 小太郎は最後の力を振り絞り、これまで溜めておいた力を出し切るようにそう叫んだ。しかし、三人の中の一人がちらりとこちらを見ただけで、彼らは方向を変える素振りは全く見せず、助けにきてくれる様子はなかった。聞こえなかったのだろうか? 「おおい! どうした! こっちだー!」 小太郎は再び全身全霊の叫び声で呼びかけた。足音がさらに近くなってくると、はっはっという三人の激しい呼吸音が小太郎の耳まで聞こえてきた。そのとき、眼の前に三本目の手が現れ、小太郎の髪を掴んで引っ張った。彼の首はその勢いで反転し、通り過ぎてゆく三人の姿を間近で見ることができた。小太郎はその中に陽介の姿を見つけた。彼は痛んだ足を引きずりながらも、他の二人に支えられ、懸命に走っていた。その顔に妥協の色はなかった。自分の声が聞こえないはずだ。陽介や他の旅人たちは自分が生き抜くことだけを考え、自らの希望や夢のためだけに走っていたのだ。小太郎はもう叫ばなかった。抵抗するのも止めた。そうだ、自分が考えていた妻や狭灘やこの杉林の恐怖のことなど、全て、現実のものではなかったのだ。本当の現実は、甘いことを考えていたために命を落としかけている、今のこの自分だけなのだ。なぜ、そのことにもっと早く気づかなかったのか。彼の心からあるものが去っていった。そして間もなく、小太郎の体は声も光も届かぬ暗黒世界の中に引きずり込まれていった。 杉林の外は快晴であった。早朝で気温はまだ低かったが、鋭く幾重にも降り注ぐ太陽の光が、戦いを終えて林を抜けてきた勇気ある旅人たちを暖かく迎えた。最初に林を抜けた男はまだ信じられないというように、しばらく呆然と青い空を見やっていた。やがて、次々と旅人たちが暗い林から姿を現した。疲れのためか、あるいはあまりの状況の変化に頭が対応できないのか、皆きょとんとした顔で立ちすくんだり、幼児のように辺りをきょろきょろと見回したり、大きな試練を乗り越えた人間とは思えないような落ち着きぶりであった。やがて、一人の男が前方へと歩み、この先には何があるのかと、木々の間から遠くの方を覗き見た。 「あ! おい見ろ! 狭灘だ! 狭灘の町が見える!」 その男の声は全員の目を覚まさせるには十分の大きさだった。一斉に男たちが駆け出した。彼らは先を争うように、いい景色の見える場所へと殺到した。そこは丘陵になっていて、生い茂る木々の隙間から狭灘の城下町が一望にできた。これまで一度も村の外へ出たことがない彼らにとって、その光景は別世界であったに違いない。そして、そのまま彼らの未来であると言ってもいい。巨大な城を瓦屋根の民家が幾重にも取り囲んでいた。広大な海も見える。それだって、彼らにすれば初めて目にするものだ。港には伝え聞いていた鋼鉄船の姿があった。 「いやあ…、でっけえ船だ。あれは何をするんだろう…。魚を捕るのかな?」 「あそこで煙を噴出している屋敷はいったいなんだ? あれが銭湯か?」 「ばかだな、あれは鍛冶場というやつだ。あそこで鉄を焼いたり切ったりするのだそうだ」 「そうか…、あとでちょっと覗いてみよう」 各々の心で希望が膨らんでいた。美しく立ち並ぶ城下町を見て、彼らの現実感も次第に戻りつつあった。杉林の中での悪夢はもう過去のものだった。そして、やはり現実のことではないのだ。これまで夢破れて命を落とした多くの旅人たちからすれば、それは素晴らしいことだった。しばらく時間が経ち、陽介も杉林を飛び出してきた。一緒に苦労を分かち合った同士と一頻り喜びあうと、彼も狭灘の町のことが気にかかりだし、皆が待つ丘陵へと歩を進めた。そして、他の旅人たちを押しのけると、一番よい場所へと自分の身を滑り込ませた。 「おお!」 彼もまたその壮大な光景を見て感嘆の声をあげた。陽介は故郷のことをもう思い出さなかった。栗殻峠での危機もすでに忘れてしまっていた。小太郎のことなど、彼の頭の中に一欠けらも残っていないだろう。非情さからではない。目の前に希望があるからだ。 陽介はしばしの間、なにも言わず、じっと狭灘の町を見据えていた。そして、自らの新しい生活と輝ける未来に思いを馳せていた。 了 ( 2001年 3月24日 ) |