幸であれ、不幸であれ、いつも同じようなことに遭遇し、同じような対処をすることによってそれを上手く切り抜けられれば、人間の生活をこれほど楽に愉快に、そしてスムーズにすることは他にないのだが、残念ながら、運命は毎日我々に異なる事件を提示し、我々はその度に直面する新たな議題に立ち向かい、新たな対処方法を模索しながら、それを打開しなければならない。私自身がそのことを一番痛感した日の出来事を紹介したいと思う。 私はその日、念願であった文学新人賞を頂けたことを両親に報告するべく、電車に乗り、田舎にある実家を訪れていた。授賞式の会場の華やかな様子や、その後、新しいマンションに引っ越したことなどで、私の用意したいくつかの話題に両親も興味を持ってくれたため、最初の二日間は楽しく過ごすことができた。だが、ここを訪れてから三日目ともなると、話題もすっかり無くなり、両親の顔も私が独立する前の時分のような、不機嫌なものに戻ってしまっていて、ところで、まだ結婚しないのかとか、やはり作家などより定職に就いた方が生活が安定するのではないかとか、うるさい小言を連発されるようになってしまい、精神的にすっかり参ってしまった。居続けることに限界を感じたため、私は口実を設けて自分のマンションに戻ることにした。 両親には近いうちにまた来るからと別れの挨拶をしてから実家を出て、ようやく清々しい気分になり、颯爽と駅に向かったのだが、駅前の広場は人だかりに埋もれ、混乱状態になっていて思うように近づけなかった。電車は走っているらしいのだが、どうやら労働組合のストライキに巻き込まれたようで、相当に間引かれて本数が少なくなってしまい、駅の外までそれを待つ人で溢れていた。さらに、鉄道各社の労組がハンドマイクを手にがなり声を上げていて、とてもそれを掻き分けてまで駅構内に入りたいような状況ではなかった。なんでも、先日同じようなデモを駅前で行っていた最中に、それを制止しようとした警官との間で小競り合いが発生し、労組の中年男性が一人頭部を負傷して病院に担ぎ込まれたらしい。今日のデモはそのことへの抗議行動も含めた、より激しいものになってしまっていた。マイクを握った男性は顔を真っ赤にして、「こんな横暴が許されていいのか!」「我々は勝利の日まで一歩も引かずに戦う」と力強く何度も連呼して、聴衆に賛同を求めていた。これで今日も警官隊が出動してきたら面白い展開なのだが、昨日負傷者が出たばかりで、さすがに公権力も今日は出ていきにくいのか、自重しているらしかった。 私は盛り上がるデモ隊の様子を見てすっかり憂鬱になり、電車に乗ることをあきらめてタクシー乗り場へ向かった。考えることは皆同じであり、タクシー待ちの列も相当に長くなっていて、私をさらに意気消沈させたが、他に帰る術もないので、大人しく並ぶことにした。数十分並び、ようやく私の順番が廻ってきた。タクシーの後ろの扉が開き、私が中に入り込もうとすると、後から駆け寄ってきた見知らぬ男性が声をかけてきた。 「やっと、見つけましたよ」 その男性はそう言って、私の肩をポンポンと叩くと、図々しくも一緒にタクシーに乗り込んできた。その男は顔を茶色のマフラーのようなもので二重三重に覆った、一見してミイラのようなおかしな格好だった。真っ黒なロングコートと手袋と帽子で全身をくまなく隠し、肌は目の部分しか露出していなかった。 「あなたは誰ですか?」 私が不機嫌にそう尋ねると、その男性は目を輝かせ、「私たちは仲間ですよ」と弾むような声で答えた。 「そんな不穏な人を乗せない方がいいですよ」 タクシーの運転手が後ろを振り返り、不安そうな表情でそう言ってきた。 「いいから、早く出発してくれ。都内に向かうんだ。あなたもそうでしょ?」 男は運転手を睨みつけ、勝手に行き先を告げてしまい、タクシーは仕方なさそうにゆっくりと動き出した。 「私が覚えていないだけだったら、申し訳ないです。あなたはどなたでしたっけ?」 私が再びその質問をすると、男はふうっと息を吹き出して、ここに上手く乗り込めたことを満足するように椅子にもたれ掛かった。 「先ほど駅の前であなたの姿をお見かけしまして、この人なら自分の話をちゃんと聞いてもらえると思って、厚かましくもついてきてしまいました。いやね、あなた、労組の集会を苦々しい顔で見つめていたじゃないですか。いくら仲間が不幸にあったからといって、言論の自由という見えない暴力を使って、事件と関係のない市民の足を破壊した行為に嫌悪感を持たれていたわけですね。それは正しい思考です。あなたになら、私の話を理解していただけると思いました」 「私が苦々しくしていたのは労組の行動にではなくて、警察の横暴な態度に……、だったらどうするんです?」 「先ほどのあなたの顔を拝見しますと、そんなことは決してないと思いますが、例えそうだったとしても似たようなものではないですか。いずれにせよ、あなたは最近この国に多くなった政治思想に無関心な大衆とやらではない。思想に一定以上の偏りがあり、この国の現状に対して何か不満があり、権力者や国家に対して何か言いたいことがあるというわけです」 私は男から一度わざと視線をそらし、運転手にデモ隊と遭遇しそうな大通りを避けてくれとお願いした。 「なぜなんです? 私だってタクシー労組の端くれだから、今回の鉄道各社のデモには賛成しなければいけない立場ですよ。電車が完全に止まるような事態に発展したら、同調してタクシーも走らないようにしようと思っています」 「それもわからないではないですが、市民の足を守ることも大切だと思いますよ。タクシーまで止められてしまったら、市民の多くはもう歩いて帰宅するほかないんですよ」 怪しい男は横からそのやり取りを聞いていたが、私の言葉に不満そうに首を左右に振った。 「それを言ってはだめです。労組の思想行動にそんな常識は通用しませんよ。要は何が自分達にとって正義で、何をすれば相手にとって不都合か、なんです」 私が困惑した様子を見せると、男はたいそう愉快そうに笑い出してさらに続けた。 「要は自分達の生活や待遇の悪さを、すべて権力への怒りに変える単純思考の労組側と、臭いものにはフタの権力側、そして、巻き添えを喰って移動できずに足止めを食らっているにも関わらず、何が起きてもその争いを傍観するしかない、それ以外の無関心な大衆の姿も相まって、私の目にはその三すくみの状態が十分楽しめるのです」 それを聞いて、タクシーの運転手が右手でハンドルを力いっぱい叩き、突然怒りだした。 「だから言ったじゃないですか! まったく、そんな人間をこのタクシーに乗せるなんて! 私たちは魔物のような人間を乗せてしまったんですよ。これから数十分もこの人と同じ空気の中にいなくてはならないなんて! これでは誰を恨めばいいのか!」 「そんなことを言うものじゃないですよ。この国ではある事象が起こった後に、それに対して、心でどんなことを思っても自由ですし、それを言葉に出してしまったとしても、よほど荒い言葉を用いない限りは、ほとんどの場合問題がないんです」 私は運転手を諌めるようにそう言った。 「だが、その周囲に居合わせてしまった人間は不幸だ……」 運転手はあきらめきれない様子で暗い声色でそう言った。タクシーは信号のある交差点を大きく迂回して国道に入るところだった。車も渋滞しておらず、今のところ順調に流れていた。 「それで、あなたはどういう素性の人でしたっけ?」 私は仕方なくもう一度同じ質問をした。 「実はね……、外見上はそうは見えないかもしれませんが、私は元々この星の人間ではないんです」 男はわざと声を沈ませてそう囁いてきた。 「ほう、では宇宙人というわけですか? これは珍しい人と出会ってしまいましたね」 私はわざと驚いたようなそぶりを見せてやった。タクシーは駅前の商店街に差し掛かり、多くの人で賑わう飲食店が私の目を引いた。大手のチェーン店が多い都心などと比較して、こういう地方の街の方が定食屋にせよラーメン屋にせよ、勢いがあって旨い店が多いのはなぜだろうと心の中でつぶやきながら、私はぼんやりとその様子を眺めていた。 「宇宙人だから顔を隠しているというわけですか?」 「いえいえ、顔を見せないのは他に理由があるのです。それより、なぜ私が自分を宇宙人だと思うに至ったか、それを聞きたいと思いませんか?」 「興味がありますね。確証があるわけではないのですか? それでは出来るだけ詳しくお願いしますよ」 私はただ呆然とタクシーに乗っているだけでは退屈なので、時間を上手く潰すために、男にそこから先の話を要求したが、運転手は信号待ちにイライラした様子で後ろを振り返った。 「その人、本当に大丈夫ですか? お金はちゃんと払ってもらえるんでしょうね?」 魔物のようなその男性は、その問い掛けに突然静かになり、首をすくめて目を閉じて応じ、お金を払うとも払わないとも言わなかった。まあ、察するところ、何か不穏なことを言うためにここに乗り込んで来ただけで乗車賃まで払うつもりはないのであろう。私は自分が払うから大丈夫だからと、運転手をなだめた。男は安心したように再び静かな声で話し始めた。 「私は生れつき自分を他人とは異なる特別な人間だと思っていましてね。何が特別だってことですけどね、実はね、私は政府によって監視されている人間なんですよ」 「なるほど……、しかし、あなたのように自分を特別だと思うことは、一般的にも至極当たり前のことだと思いますよ。たいていの人間は自分の能力に思い上がっていて、身勝手なことを言うものですからね。私もこれまでの人生でも何度かあなたのような変わった人に出会ったことがあります。自分を今よりもずっと待遇のいい仕事に就いている人間だと思い込んでいたり、あるいは他人が自分を監視しているのではないかと疑ってかかるような人間ですけどね」 ところが、私のさほど興味なさげな言葉を聞いても、男は目を輝かせたままだった。いずれは自分の言うことを納得させる自信があるようだった。 「いえいえ、私はそういう頭のおかしな人とは違いますよ。私は本気で言っているんです。まあ、地球に移り住んでもう長い時間が経ちますから、見た目には地球の人間に見えるかもしれませんけどね」 「ちなみに両親はどちらにお住まいですか?」 「福島の郡山です。駅からはかなり離れていますがね。よく会いに行きますよ」 私の鋭い問いに、男は全く悪びれず、平然とそう答えた。 「両親が日本人だということは、普通に考えると、あなたは地球人の血を引いているわけで、宇宙人ではないということになりませんか?」 「いやいや、ですから話をもう少し聞いてくださいよ。疑いが解けるまでそれほどお時間を取らせませんから。いいですか? 私は政府によって、子供のときに宇宙船から引き取られ、民間に預けられた人間なんです」 「では、両親の本当の子供ではないとおっしゃるんですね? しかし、預けるのはいいですが、政府もずいぶん無責任ですね。自分たちで引き取ったものを管理も調査もせずに、宇宙人を他人に育てさせるというのは、そんなに簡単な問題ですかね?」 「政府も考えたものですよ。おそらく、まあ、ここからは私の想像になってしまいますが、東北のある山奥の田舎町で宇宙船が墜落していたんでしょう。夜間ですと、一般の人間は立ち入れないような場所ですから、私は負傷をしていたと思いますが、調査をしていた政府の関係者によって助けられたのでしょう。おそらく、乗客のうち助かったのは私一人だけではないかと思いますよ。しかしですね、ここで政府の役人は考えたわけです。このまま政府直属の公的な研究所で私を育てても、いずれは、誰かのたれ込みによってマスコミにばれてしまい、私の正体は公にされてしまうわけです。そこで、政府は私を地球人に紛れさせるために民間人に育てさせることにしたと、そういうわけです」 「なるほど、それは想像ですね。一つ疑問があるのですが、あなたの両親が政府によって選ばれたのはなぜです?」 「それは、いいご質問ですね。これまでも何回かその質問を受けたことがあります。例えば、私が大金持ちの財閥の家庭にでも預けられたとしたら、やはりどうしても目立ってしまいますよね。そういう裕福なご家庭は普通に暮らしていても、常に注目を浴びる存在なわけですからね。親も子供さんも世間から期待され、羨望されていて、学校でも会社でも熱い注目を浴びているわけです。そんな家庭で、ある日家族が突然一人増えたら、周囲の人間は怪しむに決まっています。そこで政府はですね、事の次第がばれてしまわないように、なるべく目立たない平凡な家庭を選んで事を進めたというわけです」 「平凡な家庭に子供が一人増えても、私は十分に怪しまれると思いますが、まあ、そこまではいいでしょう。あなたを信用しますよ。では、あなたのご両親は政府からいくばくかの金銭を受けとってあなたを自分の子供として育てることを承諾したわけですね」 「やはり、あなたは理解が早いようだ。まさにその通りなんです。政府から養育費を受けとった時にですね、うちの両親はおそらくある約束をしたはずです。それは、これから先は政府に金銭的な面で一切頼らずに子供を育てていくということ、もう一つは子供は自分達の意志で自由に育ててよいということです」 「政府というのもずいぶん身勝手ですね。それでは丸投げと一緒ですね」 「マスコミから私の存在を守るために仕方がないんですよ。この国の政治家はやはり基本的人権というものにかなり執着していて、最低限それに配慮することが、統治機関としての責務を果たすことだと勘違いしているようなところがあります。ですから、世界中の人間に私の存在が知られてしまい、常に何十億という興味の視線に晒されるながら生きるのは哀れなことだと、彼らは宇宙人としての私を拾った当時、そう考えたのでしょう」 「なるほど、あなたが誰からも迫害を受けることなく、地球人と同じように成長して欲しいと政府は願っていたわけですね? しかし、宇宙人であるあなたをそうやってコソコソと育てることで政府に何のメリットがあるのでしょう?」 「もちろん最大の目的は、この地球という環境で異星から来た私がどのように順応して育っていくのかということを見極めたいのだと思います。私を育てていく過程で、私が何か行動を起こす度に、生物学上極めて貴重なデータを際限なく得られることになります。私が成長してからどんな食べ物を好むようになるか、どんな異性を好むようになるか、という単純な問題にしても、地球人にとっては初めて得られるデータですからね」 「それでは、政府はどういうときに成長したあなたの情報を両親から得ているのですか?」 「先ほども言いましたように、政府と私の両親との間では私の教育には干渉しないという密約がありますから、政府の人間と言えど、私の家庭に容易に近づくことはできないわけです。そこで彼らは、私を離れた所から見張ることにしたのです。もちろん、これは私が子供の時から、私の目に触れないように長期間に渡って続けられました」 タクシーは順調に国道を進み、市街地を抜けて県境の工場地帯へと差し掛かっていた。大きな緑色の円形ガスタンクがいくつも視界に入ってきた。6本も並んだ白い煙突は灰色の煙を吐き出していた。私はそこでチラッと時計を見て、この男の相手をしているのも大変だが、マンションに到着するにはまだ結構な時間がかかることを確認した。 「なるほど、政府の方達もお忙しいのに大変でしょうね。わざわざ、福島まで出向いて来て、子供時代のあなた一人をずっと見張っていなければならないわけですから」 男はそこで微笑みながらゆっくりと首を横に振った。彼は何か取っておきの情報を持っているようだった。 「こんなことを言ってしまうと、知ったかぶりするなと叱責を受けてしまうかもしれませんが、政府にはそういうことを専門に請け負う特別な機関があるのです。つまり、要人を保護したり、また逆に見張ったりする機関ですね。例えば、大災害が起こったときなどに、要人とすぐに連絡を取りに行き、救出するような命令を受けている機関です。ただ、こういう行為が公になりますと、やはり国民から金持ちだけを優遇するなと非難を浴びますから、一般にはこうした機関の存在は極力伏せられていますけどね。あなたがたもテレビや映画で黒服にサングラスをかけたスパイというものをよく見ると思いますが、大衆にわかりやすいように任務をぼかしていますが、ああいう存在は古今東西どこの国家にもあるのです」 「では、家族の話に戻りますが、あなたと両親とはあなたの話の通りだとしますと血は繋がっていないわけですが、幼い頃から関係は上手くいっていましたか?」 「それは愚問ですよ。両親は私が本当の息子でないということで、養育にそれほど熱心ではなかったですし、私が異星の人間ということにも、政府との交渉から年月が経ってしまうと次第に興味も薄れていったようで、愛情は抱いていなかったようです。まあ、時折、『あんたは理屈っぽいねえ、とても私の子供とは思えないよ。いったい誰に似たのかねえ』などと、それらしきことを臭わしたりはしますが、本当のことはもちろん言いません。私自身が地球人でないことを知ってしまうと、子供心に大きなショックを受けてしまうと考えたようですが、私は両親のそんなよそよそしい態度から、自分がこの星の人間ではないことを必然的に嗅ぎとってしまったんです。だが、私はとっくに秘密を知ってしまっているわけですから、大人になった今も時折両親にそれとなく尋ねてみるのです。『俺は実はあなたたちの実の子供じゃないんだろ?』とね。両親はせせら笑ったり、テレビに視線を移しながら話をうまく反らしたりして、まだ本当のことは語ってくれていませんが、彼らもいつかは真実を語る日が来るであろうことは知っているのです」 「本当に両親の子供か云々は一般の家庭でもよく交わされる会話ですし、親子関係が疎遠な家庭も今は普通にありますから、そのことだけで、自分は異星人だなどと、そこまで思い詰めることはないのではないですか?」 「おっしゃる通りですよ。まったく、人間なんてものは、そもそも一つにまとまって生きていくことに無理があるようですね。学校や家庭など、比較的親しい人間が集まるところでさえも、身体だけでなく、心でも押し合いへしあいながら生活しているわけです。苦しいときはみんなで団結しようなどとよく言いますが、あれはまったく理不尽な言葉ですね。それぞれが別の嗜好や目的を持って生きているというのに、協力なんてできるわけないですね。これは家族関係についても同じですよ。家族だからってお互いの主張にすべて同意しながら生きていくわけではないですよ。生活の中で身近に接している者であればこそ、そうした心の対立が日ごとに鮮明になり、鼻につくようになってくるものです。政治・宗教・信条、お互いの境遇、そして金銭の問題、好みのアーティストまで違うとなると、そりゃあ生活のすべてで対立するはずです。そもそも、これまでの半生で出会った友人や知人、そして恩人などの人間関係や、見てきたものが全く違うわけですからね」 「でも、家族はやはり頼りになるでしょう? 悩みができたり、困ったときなどに……」 「とんでもない! うちの家族なんてなんの役にも立ちはしませんよ。私が困っていても、余計に混乱させるようなことばかり言って、事態をさらにおかしな方向に持って行きますからね。だいたい、一家そろって誰も大金を持ってませんからね。困るんですよね、政府が配っている明るい家庭ポスターの写真などに騙されて、この国の家庭は仲の良い明るい家庭ばかりだと勘違いしてしまう人が多くてですね」 「では、あなたがこの星で一番頼りにしている人は誰ですか?」 「もちろん、友人がいますよ。かなり年配の方なんですがね。老人ホームに入っていて、聞いた話では最近は満足に箸も持てないような状態らしいですが、頭脳明晰で大変信用できます」 「その方とは話が合うわけですね? どういう話をするんですか?」 私がそのことを尋ねると、男は嬉しそうな顔をして、私の方へ身体を擦り寄せてきた。 「実はですね、私が実は宇宙人で、政府に疎まれている人間だということも、その老人が教えてくれたのです。彼はすでにかなり痴呆が進んでしまっていて、家を勝手に抜け出して数キロも離れた町まで歩いて移動してしまったり、電気を消して暗くすると大声でわめいて狂乱状態に陥ったりしてしまうため、家族に促されて今の施設に入ることになったのですがね。歳はもう70を過ぎていまして、戦後に日本を支えた、どんなことでも我慢できる世代ですから、飯はまずい、介護者も少ない、虐待すらあるような、ろくでもない老人ホームですが、彼はいつもニコニコとしていて、今の生活を甘んじて受け入れているのです。その老人はかなり卑屈な人ですから、若いときから誰に対してもペコペコと頭を下げていて、喧嘩をするような意気地もないんですが、世の中の裏に潜んでいる真の情報を知っているのです。その情報は、彼にしか知られていない特定のルートから入手しているようです。一般の人は何も知らされずに生きていますが、彼は世間一般の、情けないひ弱な老人たちとは違いますから、簡単に娘夫婦に捨てられたりはしないわけです。彼は普段は静かですが、何かの拍子に突然唸り声をあげるんです。それは、一般の人間には到底理解できない獣のような声ですが、それを使って私を呼び付けることがあります。そして、話すのです……」 「何をです? それは秘密に関わることですか?」 私はあえて彼と歩調を合わせるように、この場に緊迫感を持たせた。 「もちろんです。政府の秘密、行政の秘密、官憲の秘密、そして誰もが心の内に持っている秘密を彼は何でも知っています。問題は彼が言葉を話せないことなんです。彼は身体を大きく揺り動かしながら、ベッドのへりを両手で力いっぱい叩き、顔を強張らせ、目を見開いてアーアーウーと叫びますが、我々が理解できるような言語には、なかなかならないのです」 「あなたはそれでもその老人が何を伝えようとしているのか、理解できると言うんですね?」 「もちろん、彼は常に言っています。『これらはすべてまやかしの人生、来世に栄光がある。時代を戒めて生きろ』とね」 「彼は言葉を話せないのに、あなたはどうやってそれを知るんですか?」 「目の光です。瞳の輝き方でわかります」 私は一つ大きなため息をついてタクシーの進行方向を見た。タクシーは都内を循環する高速道路に入ったが、渋滞に巻き込まれてしまったようだ。もう少し、彼の話相手をする必要がありそうだった。 「先ほどから気になっているんですが、そのマフラーで顔を隠していらっしゃるのは、政府のスパイの目から逃れるためなんですか?」 彼の話にあわせた質問をしたつもりだったのだが、男は意外にもその質問には難しい顔をした。うーんと考え込んでしまい、まるで相手を驚かせようと、何か新しい答えを探しているようだった。 「これを着けるようになった直接の原因はメディアなのです。私はマスメディアが苦手でして」 「ほう、それは不憫ですね。今はどこへ出かけてもテレビやラジオの音が聞こえてくるでしょうし、電車に乗れば大抵のサラリーマンは新聞を持っていますから、どうしても目に入ってしまって大変でしょう?」 「まったくです。そういったものから余計な音が聴こえて来ないように、こうして耳を塞いで生活しているのです。その上で、このように口をも塞ぐことによって、私の声が不特定多数の人に聞こえないようにしているというのもあります」 「かなり聴こえてきますよ!」 ここでタクシーの運転手が茶化すように相槌を打ってきた。その男はそれでも私の方から視線を逸らさずに話を続けた。 「ラジオやテレビからは、何というんですか……。DJやアナウンサーのように、ニュースの合間に必ず自分の意見を間に挟む人がいるんですが、そういう他人の発する、自分と異なる意見を聞くと反論したい衝動で、血が高ぶってしまうのです。言うなれば、私以外の人間の言っていることはすべて間違っているわけですが、そういう他人の間違った意見に過剰に反応してしまう自分が怖いんです。間違った意見を連呼する評論家の音声を聞いていると自然に感情が高ぶってくるのです。最悪なのは討論番組を見せられることですが、全員が間違った思想を持っているくせに、それを堂々と自己主張してますからね。そういった世の中の様々な意見のぶつけ合いが、私をおかしくしてしまったのです」 「しかし、それは仕方のないことですよ。さっきあなたもおっしゃってましたが、人間は各々が別々の意見を持って生きていますからね。時には妥協することも大事です。政治にせよ、企業社会にせよ、どこかで各々が意見を戦わせないとですね……」 「ああ! 議論の中心に私を据えてくれればいいのに! 私の意見だけを重視すれば世界はうまく回っていく。それでいいのに!」 男は天井に向かってそう叫んで苦しそうな表情になり頭を抱えてしまった。 「私は頭の中でがんばって作り上げた意見を、他人に無視されたり、必要以上の反論を受けるのが怖いのです。私に反論をする人は例え家族でも許せません。ですから、そういうことを怖れて次第に他人との接点を消していき、共同生活を避けるようになりました。本当を言えば、テレビなどで、自分の視点でしかものを言っていない人、あるいは目を血走らせて怒鳴り散らしている恐持ての教授や評論家などより、私の方がよっぽど強くて正しい意見を持っているのです」 この男は勢いに乗ってしまうと、とめどないので、私はそこで一度男の話に割って入ることにした。 「少し待って下さい。あなたは先ほどからずいぶんとご自分を卑下されていますが、異星人であるとか、他人とうまく協力して生活ができないとかですね。しかし、私の意見を言わせていただきますと、あなたは全くおかしくないですよ。他人の強い意見が耳障りであるとか、集団での討論に参加しにくいというのは、程度の差こそあれ、日本の多くの若者が持っている悩みですからね。あなたはこれまでの社会との軋轢に多少敏感になっているだけで、それほどおかしい人ではないのです」 私は男の話を正常な方向へ持って行きたかったので、そのような心にもない慰めを言ってみたが、男の様子は至って平静で、他人のタクシーに勝手に乗り込んでおきながら、自分はずっと正しいことをやっているとでも言いたげな、その真面目な表情に変化は見られなかった。 「もちろん私は正常です。おかしいのは今の人間社会の方です。まあ、もうすでに親兄弟をも見限っている私に怖いものはありませんけどね。私はよほど自分が気に入った相手でなければ自分の心を開いたりしません」 「これは大変失礼な質問なのですが、今現在、どこかの精神科関係の施設に入っているということはありませんか? あるいは以前に入所していたことがあるとか……」 「もちろん、ありますよ。私は一時期、この身を政府の管理下に置かれていたことがあるのです。まあ、私の素性からすれば、それは当然のことかもしれませんがね……。幼少期から、どうも私の話す言葉が一般の人には理解しにくいようで、他人に有益となる長話を聞かせてやっても、いや、こちらが気に入った相手には無理にでも聞かせますがね。それでも、聞き手が首を傾げることや、話の途中で逃げていくことが多かったですね。あなたのような特別な空気の中に住んでいる人にしか、うまく伝わらないのですよ。そうこうしているうちに、いつしか周囲の人間にばれてしまいまして……、私が政府によって監視されている特別な人間であるということがですね。そして私は精神病棟という政府によって造られた高度な研究施設に入れられることになったのです」 「その施設にはどのくらい入っていましたか? 辛くなかったですか?」 「それはもう、最初は失望しましたよ。政府の策略によって、またしても一般社会から離れた位置に押しのけられてしまったわけですからね。しかし、その施設に入れられてから数週間経ったある日、私は気がついたのです。その同じ病棟にいる全ての人が、世間ではほとんど受け入れられなかった私の言葉を、きちんと理解して聴いてくれているのです。政府を憎んでいるという私に同感してくれる人さえ多くいたのです。それはまったくもって不思議な体験でした。社会では受け入れられなかった私に、病棟の中の住人は人間としての普通の生活を送らせてくれたのです。施設の管理人は、朝夕の身の回りの掃除さえきちんとしてくれれば、ここで他の患者とどんな話をしても、基本的に自由だとまで言ってくれました。しかし、考えようによっては一般の人から優しい言葉をかけられ、一般人と同じように扱われ、わざと温かな施しを受けさせることによって、私が社会に従順になるように仕組まれていたのかもしれません。つまり……、少し怖い話になりますが、洗脳ですね。うう……、私は自分が意識できずにいる間に洗脳されていたのかもしれない……」 「それで、施設にはどのくらい入っていたのですか?」 男がまた自分の夢想の世界に入ってしまわない内に、私はもう一度同じことを尋ねた。 「ああ、施設に入っていた期間ですか? 5年ですよ。たった5年で政府は私を解放しました。解放せざるを得なかったのですよ。私は敵の策略に乗らぬよう、一度も問題を起こさずおとなしく暮らしていましたからね。政府は宇宙人である私へのこれ以上の監察を一時止めなければならないと思うに至ったのです。彼らも人の子ですからね。私がこの星の住民に何ら危害を加えないというのであれば、留置しておく理由はないのです。私はそうして再び外の世界の空気を吸えるようになったのです。すると、どうでしょう。施設の中だけでなく、外の世界にも私の言葉が理解できる人が多くいることに気づいたのです。真夜中に暗い建物の中で一人で雑巾で床磨きながらも、時々「くそ!」と独り言を呟いて、水の入ったバケツを蹴っ飛ばす、企業ビルの掃除夫。許可も取らずに車で混み合う駅前に乗りつけて、たいして旨くもない焼き芋をそれなりの値段で売り飛ばそうとする老年の焼き芋屋。海外アーティストのコンサートチケット売場に朝から晩まで並んで大量に購入し、インターネットを利用して他人に転売しようと企む販売人。あるいは、路上に安っぽい金メッキの貴金属を並べて、観光客相手に売りさばいている派手な髪型の若者でさえも、実は私の仲間だったのです。声をかけますと、彼らは喜んで私の組織に加わってくれました」 「それで、私もあなたによって選ばれた、その仲間の一人というわけですか? 何と言いますか、言葉は悪いですが、だいぶ社会の低い層にいられる方が多いようですね」 「それはそうですよ。政府によって迫害されて、社会の中で孤立してしまう人間は、やはり底辺層に多いのです。しかし、彼らこそ、現実の職業の裏側に隠された高貴な身分を持っていることが多いのです。それがために、今の権力者によって行く手を遮られてしまうわけです。なぜなら、この国を今現在支配する資産家にとっては、隠された身分を持つ我々は非常に邪魔な存在ですからね。我々はそこで社会への復讐を画策するために、都心の水道局の地下にあつらえてある目立たない小さな会議室に集まって、週に一度密議をこらしているのです」 「ほう、そこではどんなことが話し合われますか?」 「まずは、お互いの恵まれない境遇を報告しあうことが多いですね。職場での人間関係が上手くいかないとか、クレームをつけてくる顧客とのトラブルとか、その実際の人生の外にある偽りの仕事の活動中に、他人からの罵声があったり、通行人の視線が痛く感じられることなどが報告されていますね」 「その集まりでは最終的に何を目指しているのですか?」 「それは難しいご質問ですね。我々はこの人間社会というものに対して、あらゆることを試みながら、大衆の心情にゆっくりと訴えかけていき、彼らの思想を上手くこちらの言いなりになるように先導してやり、最終的な目標は国家の転覆ですね」 「国家の転覆とは……、それはまたずいぶんと物騒なご意見ですね。大丈夫ですか、そんな話をしてしまって」 「あなたは信用できる人ですしね。お話しますよ。私はどこへいてもどうせ見張られていますから、どうせなら、ここで話してしまった方がいいでしょう。政府は恵まれない境遇にある我々が、さらに困難な状況に陥るようにと画策しているのです」 「なぜ、政府はあなたがただけにそのような不幸を押し付けようとするのですか。何かよほどの理由がなければそうはならないと思いますが」 「それは私たちがもし順調に出世して、企業の重役などになれば、その意見が社会的に重視されるようになってしまい、それが世論を今と違う方向へと喚起し、政府にとっていろいろと不都合なことが起こるからですよ。そうに決まっています。……ここだけの話ですがね。先ほど話した焼き芋屋の親父などは、実はイタリアのある特権階級の貴族の末裔だそうです。驚くなかれ、現代のお金で数百億もの資産を所有しているらしいです。これは数日前に新宿の裏通りに居座っている、高名な占い師に見てもらって判明したことなんです。しかし、彼は自分が大変な資産家であることが周りに知られてしまうと、大騒ぎになってしまい、一般人からの妬みによって、さらなる迫害を受けることになるので、それをひた隠しにしているのです」 「では、あなたがたは、自分がそういう特別な身分にあると思い込んでいる一派というわけですね?」 「その通りです。しかし、あなたはまだ一般人の思考から抜けきっていない……。だいぶ疑いの目をお持ちですね。まあ、お聞きなさい。我々は幸運にも、そして不幸にもそのような選ばれた身分に生れついてしまったわけですから、それを受け止めて生きていかねばなりません。そんな懸命に生きる我々を、政府や愚かなる大衆は傍観しながらも迫害し、そして実際は何か不穏な動きを起こさないか、始終見張っています。この世の中のシステムそのものが、例えば、一般人の誰かが何らかの大きな行動を起こせば、たちまちにして、我々の一味が必ず不幸になるように仕組まれているのです。企業による新製品の発明はもちろん、スポーツ選手の海外での活躍、新しい法律の制定や改正、NASAによる新たな天体の発見、魅惑たっぷりの団地妻の不倫、その全てが我々の生活にはマイナスとなって降り注いでいるのです。彼らは我々がある程度長生きできるようにと願い、時には短時間の恵みの雨を降らせることもあります。なぜなら、もし、我々がまだ若いうちに変死などすれば、それはたちまちマスコミが嗅ぎ付けることとなり、世間一般の大衆に糾弾されることになり、政府が行ってきたこれまでの悪事が暴かれてしまうことになるからです(宇宙船の発見から始まって、我々の活動を妨害してきたこと全てですよ)。ですから、彼らは利口にも、我々に直接その手を下さず、時々は餌を与えながら、苦々しくもその行動を見張るだけにとどまっているのです」 その話に耐え兼ねて窓の外を見ると、車の渋滞は二重三重の長い列を作っており、タクシーはゆっくりとは進んでいたが、まだ高速の出口までは少し距離があった。隣の車線に並ぶ赤い車の後部席には5歳くらいの子供がぬいぐるみを抱いて遊んでおり、私はその子に向かって手を振ってみた。男の子は私に気がつくと明るい笑顔で応えてくれた。その車は名古屋ナンバーだったので、まだまだ長い旅になりそうだが、彼が退屈していないようで良かった。私は振り返って再び不思議な男の方を見た。 「ずいぶんと社会を敵視してらっしゃるようですが、これまで政府や社会から何らかの干渉はありましたか?」 「もちろん、ありますよ。まあ、敵も直接は手をかけてきませんから、第三者から見るとそれとはわからないような、間接的な攻撃が多いですけどね。例えば、近所のうるさ型のおばさんが我々の活動中に突然現れて、夜中にこんな場所に人を集めてうるさいだの陰気だのと文句をつけにくるのです。そして地下室で重要な会議を行っているときに聴こえる犬の遠吠え、また上空からのジェット機の騒音などに姿を変え、我々に干渉してくるのです」 「では、そういう干渉によって、政府はあなたがたに何を求めているのですか?」 「先ほども言いましたが、政府やその直属の機関は我々を直接攻撃することはできません。自分達の悪事を公にできないからです。しかし、彼らとしても、我々数人が夜な夜な集まって密談していることを黙認はできないわけです。我々がいつ真理に、つまり、彼らの悪事の大本にたどり着いてしまうか知れないからです。彼らは我々をひどく怖れています。そこで、我々の同士がこれ以上増えないように、せめてもの抵抗をしているというわけです。本当は政府もかなり追い詰められています。少しずつではありますが、我々の活動はアリのように前進していますからね」 「では、あなたは今この時点でも見張られているわけですか?」 「当然ですよ。何と言っても、私は首謀者ですしね。宇宙人ということもありますから、他のメンバーよりもきつくマークされています。さっき通り過ぎた信号にも監視カメラが備え付けてありましたよ。気づかれましたか? それと……、いまさらこんなことは言いたくないですが、タイミングよく我々の前に現れたこの運転手も怪しいですね。一般人より目付きが鋭いですし、政府の犬かもしれませんね」 「いいたかないですが、私も相当に底辺の人間ですよ。あなたほど重症ではないですが……。残念ですけどね、政府とは関係を持ったことはないですし、何も命令を受けていませんよ。だいたい、勝手にこの車に乗り込んできて、秘密とやらをわめいているのはあなたでしょうが……」 半笑いしながら、あきらめ顔で運転手はそう応じた。彼はこの件にはもう関わりたくないようだった。この職業をやっていれば、年に数回は、今日のようなあまり相手にしたくない客を乗せなければならないこともあるのだろうが、それでも我慢ならないらしく、私たちに早く降りてもらいたいと願っているようだった。 「ほらほら、今のを聞きましたか? 政府に雇われている小役人は、私に問い詰められると、いつもこういう反応をして話をはぐらかそうとするんです。つまりですね、仕込みをしている本人ですら、まるで自分の使命を忘れてしまったかのような表情や振る舞いをして、我々に安心感を与えようとする。しかし、その実はしっかりと我々二人の反応を見ていて監視を怠らないわけです」 「では、そういうことでいいですよ……」 運転手は力無く返事をした。彼はこの辺りから、すっかり不機嫌になってしまった。 「政府の関係者はこうやって一般の目には気づかれずに雑踏に紛れ、また時には一般市民を装って、馴れ馴れしく私に近づいてくるのです。行き慣れたパン屋の店員や、駅前でポケットティッシュを配布している派手な格好をした娘さんたちも怪しいですね。あるいは政府の犬かもしれません。目配りや動きが相当に訓練されていますからね……」 私は虚ろな目で彼の話に聴き入っていたが、そんな話をしている間も、タクシーには電波無線が絶え間なく入ってくる。 「ガーガー、田中さんが丸々団地の入り口で待っています。そこから向かえますか? ガーガー」 「今のは、何の暗号ですか? 今の無線で政府のお偉方からどんな指令を受けたんですか?」 男はガバッと前のシートにかぶりつき、そう尋ねた。運転手はそのしつこさが嫌になったらしく、返事をしなくなり、代わりに「チッ」と舌打ちをした。 「世間では他人の何気ない行動にすぐに腹を立て、自分は何ら実害を受けていないにも関わらず、相手に対して、まるで大きな不利益を被ったかのような物言いをする人が時々いますが、我々はそういう偏屈な輩とは違います。そういう人間ははっきりとした病気なんです。我々はしごくまともです」 「もちろん、あなたがおかしな人だとは思っていませんよ。しかし、今まで生きてこられて、多少なりとも、現実の世界の他の人と比べて自分の想像力が進みすぎていると思われたことはないですか?」 「ああ、これらはすべて私が自分で作り出した妄想だと言いたいのですか? 例えば、被害妄想というのがありますが、あれは幼い頃、他人から受けた差別やいじめが背景にある心の傷が原因ですが、私は違いますよ。どんなひどい目に遭っても普通に日常の雑事をこなしてきました。障害や困難から逃げたことはありません。目的がはっきりしているからです。政府の打倒という目的がね。ただ、私は一度こういう話を始めてしまうと止まらなくなり、自分の言っていることの中に自然と反論や矛盾を見つけ出してしまい、それがために脳内で勝手に自分の架空の敵を作り出してしまって、余計に熱くなってしまうのです。自分の作り出した妄想の中の敵に対しての思いが止まらなくなって、それと勝手に戦ってしまうのですよ。会話の相手に言葉をぶつけているわけではなく、自分の心にいる何者かと戦っているのです。それで、私の話の中に幾つか聞き苦しい点があったかもしれませんが、それはお許しいただきたい。私が悪いのではなくて、私をこんなにした社会が悪いのです。もし、社会が優しかったら、私はこんなにひねくれることはなかったろうし、苦しまなくても済んだのです」 タクシーはついに大川にかかる橋を渡り、私の住むマンションの地区へ到達した。都内に入ったその頃から、男は窓の外が気にかかってきたようで、しきりに辺りを見回してソワソワとし始めた。 「大丈夫ですか? だいぶあなたの家から離れてしまったんではないですか? そろそろ降りて戻った方がいいですよ」 「いえいえ、私の住まいのことなど気になさらないで下さい。あなたといる今の時間の方が貴重なんです。しかし、すっかり長居してしまいましたね。そのお詫びに、最後に一つだけ、あなたにとって、とても有益な情報をお知らせしましょう」 「有り難いことです。どんなお話でしょう?」 「今から、四年前に函館の競馬場である人と出会ったのですが、実はその人は異能者でしてね。少し話しただけで、すっかりと意気投合してしまいまして、二、三度電話や手紙でやり取りをするうちに、うちの会にぜひ入りたいと申し込んできたのです。私も喜んで承諾して、他の会員にも相談したいから、こちらに来てくれるか? と尋ねましたところ、彼は仕事の都合でしばらくは都心には行けないから、会員証があるなら送って欲しいと言うのです。その後も何度か電話でやり取りをしまして、他のメンバーの承諾も得られたので、彼を正式にうちの会に招くことにして、手書きの会員証を送付したのです」 「仲間が一人増えたのですか? 良かったじゃないですか」 いったい、この話のどこが私にとって有益になるのか、さっぱりだったが、退屈な話を盛り上げるために相槌を打ってみた。 「ところがです。彼は一年ほど前に『誰にもやれない、他人は思いつきもしない、自分だけがやれる仕事を見つけたからそれを始める。その仕事に目処が立ったら上京する』という連絡を最後に消息を絶ってしまったのです。しかし、私は落ち込んでいませんし、我々の会は彼がいつでも戻って来れるように、入会の手配はしてあります」 「先ほど、彼を異能者だと言っていましたが、その人はどんな能力を持っているんですか?」 「端的に言えば、彼は他人の願いを叶えることができるのです」 私はそれを聞いて一気に脱力してしまい、こんな話を聞かされている我が身の情けなさに、にやけ笑いを浮かべずにはいられなかった。 「そもそも、ささいな願いですとか、ちょっとした手助けや援助でもいいというのであれば、多くの人間に同じようなことができそうですが、そういうこととは違うのですか?」 「そういった手助けとは違います。あくまでその人間の願望達成能力、まあ、言い方を変えれば誇大妄想ですね。それを最大限まで高めることによって、その人の人間としての質そのものを引き上げ、願いを叶えさせるわけです」 「それができるのなら素晴らしいと思いますが、そのようなことが現実に可能でしょうか?」 「単純に言えば、夢や希望を増幅させることが彼の能力です。彼に励まされてしまうと、大抵の人間は自分が持っている能力以上のことができると思い込むようになり、行動力が大幅に上がります。さらにそのままの調子でおだてると、高揚感がまるでマッターホルンのように高まり、それからの毎日が夢見心地のまま過ぎ去って行くと言います。長い幸せが持続し、自分はいつどういう過程を経てお大尽になるのだろうかという取り留めない想像を心に秘めながらの普通の日常に、大いに満足するわけです。それはもう、限りない夢想に取り付かれた、幸せ真っ只中の人生になりますよ。初めて彼に出会う人はさすがに疑ってかかるらしいですが、彼の説教じみた小憎らしい言動にすぐに共感してしまい、三日もすれば先生や神様と崇めるようになり、教育過程がすべて終わっても、まるでブッダの弟子のごとく、彼の後をついて歩く有様です」 「彼は宗教家ですか? それとも金銭を取ってそういうことをしているわけですか?」 「彼が持っているのは慈愛だけですよ。今はまだ独りの身ですが、都会に来ればすぐに信望を集めるようになり、多くの人に慕われる人間になると思います。我々の一派も彼と出会える日を心待ちにしているのです。彼が仕事を終えて帰って来る日をいつまでも待っています。そして、我々をあの元の位置、輝かしい地点まで早く戻して欲しいと願っているのです」 彼は力強くそう言ってから、私の手を握りしめた。 「もちろん、あなたも我々の同士です。まったく恵まれない地位にいらっしゃることが一目でわかりましたよ。これからは一緒に虹の橋を渡って行きましょう。北海道の同志の消息がつかめたら、最初にあなたのところへ向かうように言っておきます。なぜって、全人類の目をきちっと覚ます前に、まずあなたを救ってあげねばなりません。あなたがこの国で最初の覚醒者になるのです。一緒に幸せになりましょう」 彼の口から入会を促す言葉がついに出てしまったが、いつ来るかと身構えてはいたものの、どう反対すればいいのかわからず、緊張して声が出てこなかった。 「あなたも自分が本当は優れた人間なんだとわかれば、今の私のように、もっと充実した日々を送れるようになります。まがい物の現況に苦しめられている自分を早く救ってあげてください」 彼はそこまで一気にまくし立てると、前の席にいる運転手の肩をぽんぽんと叩き、車を止めるように指示を出した。タクシーが路肩に止まると、一度だけさっと左手を上げて、それが彼流の挨拶をなのだろうが、颯爽と車を降りていった。彼はコートのポケットに手を突っ込みながら、一度も振り向かずに歩道をひたひたと歩いていった。堂々としたその後ろ姿には何のけれんも無いように見えた。 了 <2011年3月28日―4月11日> |