いやはや、思い込みとは恐ろしいもので、人間というものは、特に様々なシステムや道徳に守られている現代人は、例え自分の身の回りに不可解な出来事が起こっていても、それに気がつかなかったり、あるいは目には入っていても、意識には入らなかったりすることがある。特にそれが常に安全に守られていると思い込んでいる、自宅の部屋の内部で起こっていたりすると、余計にそうである。 この不思議な現象というのは誰にでも、普通に感じられることである。例えば、家を出る時と帰ってきた時で目覚まし時計の置き位置が少し違う気がしたり、クーラーを消し忘れて家を出たと思ったのに、帰ってみたらちゃんと消されていたという経験は誰しもあるだろう。こういう小さな出来事を自分の気のせいだけで片付けてしまうと、後に紹介するような、社会の裏にうごめく恐ろしい組織の人間にとりつかれて、食い物にされてしまう可能性がある。私がこのことを文章にして世間に向けて公開するのは、自分の間抜けぶりを紹介したいのではなく、自分以外の被害者を出さないために他の人間に注意を促す狙いがあってのことである。 私はその日、朝7時にいつも通り家を出た。いつもと同じ時刻の電車を待って乗り、いつもと同じ先頭車両の壁際の座席に座った。目的の駅に到着すると、いつもと同じコンビニに立ち寄り、いつもと同じサンドイッチを購入した。そして、いつもと同じ時刻に会社の受付を通り抜け、いつもと同じ清掃夫に挨拶をした。 今思えば、私の日常の精密すぎる行動が、知らず知らずのうちに彼らの狡猾な罠に嵌まる原因を作ってしまっていたのだが、彼らの恐るべき行動力に気がついた、この日の午後まではそんなことは露知らずだった。 私は平日は9時ー5時勤務で、これを崩すことは滅多にない。残業は月に3回あるかないかで、ほぼ毎日同じ時刻に帰宅する。帰りも同じ時間の電車に乗ることが多い。ただ、この日は熱中症のせいか、朝から体調が少し悪かった。少しの頭痛や腹の痛みがあった。それに加えてこの日は仕事量も非常に少なかった。すでに夏休みに入っている顧客も多いせいか、新規の仕事もまったく無く、仕事のほとんどは午前中に片付いてしまい、午後に入るとやることもなくなった。そういう事情も重なっていたので、午後3時になる前に上司に思い切って早退願いを出した。ああ、思えば、時短を取っての早退など数年ぶりのことであった。申請書類の書き方を忘れているくらいだった。上司も私から早退の申請書を受け取ると、珍しいなという顔をしたが、仕事が少ないという事情はよくわかってくれていたので、快く了解してくれた。 そういうわけで、私は太陽がいつもと全く違う位置にあるうちに会社を出ることができた。帰りの電車も空いていて快適だった。一つの車両に3〜4人ほどしか客が乗っていなかった。私は隣の座席の上に右手をついて、いつもはなかなか見られない窓の外の風景を楽しみながら、少し優雅な気持ちで帰路についた。自宅への帰り道、いつもと同じ酒屋の前の自動販売機でジュースを一本購入した。実家の両親からは、甘いものを摂り続けると太るからやめろと言われているのだが、この癖はなかなか直らなかった。 自宅の前でポストを覗いても、自宅のドアの前に立っても、私は自宅の内部ですでに不気味なことが起こっているということに何も気がつかなかった。驚いたことに、ドアノブに触ってみると鍵はすでに開いていた。出るときに閉め忘れていったのだろうか? それでも、私は何も不審だと思わずに思い切ってドアを開いた。 侵入者の顔や身体つきよりも、最初にオレンジ色の派手なTシャツが目に付いた。玄関の横はすぐに台所になっているのだが、そこに長身でエプロン姿の茶髪の若者がフライパンを握って鼻唄を歌いながら卵料理を作っていた。私は事実をありのままに書いている。これは本当にその通りに起こったことなのだ。 「誰だ! おまえは!」 この時の私の驚きようは、これまでの人生で最大級のものであり、うまく説明するのが難しいほどだが、私は赤の他人が自宅に入り込んで楽しそうに料理を作っているという状態に脳みそがついていかず、思わずそんな金切り声を出してしまった。相手の若者も私の姿を見て十分に驚いていた。彼は口をポカンと開いたままで、しばらくの間、料理の手を休めてこちらの様子を見ていた。悪事がばれてしまった子供のような表情だった。私は一度家の外に出て表札を確認した。きちんと私の部屋番号が書かれていた。やはり、ここは私の部屋なのだ。盗みに入った賊が見つかって慌てて逃げていく画なら容易に想像できるのだが、なぜ、見も知らぬ男性がくつろいで生活しているのだろうか? 私は少々の恐怖心もあったが、再び部屋に乗り込んだ。このままにしては置けないからだ。 「あなた、何をしているんですか? ここは私の家ですよ!」 大きな声でそう言ったのだが、相手の男性は少しも逃げ出そうともせず、その余裕が怖いくらいだった。それどころか、おかしなことを言っているのはそっちの方だと言わんばかりに少し微笑みながら両手を広げて見せた。 「まあまあ、とにかく一度落ち着いて下さい」 彼は確かにそう言った。輝くほどの笑顔だった。罪悪感など微塵もなかった。 「これが落ち着いていられるか! ここは私の家だぞ! 早く出て行ってくれ! いや、その前になんで人の家に勝手に上がり込んで生活しているのか事情を説明してくれ!」 私はとりあえず相手を威嚇しなければと思い、なるべく大声で叫んだ。 「いえ、その通り…、まさに、あなたの言っている通りなのですが、いいですか? ひとまず落ち着いて下さい。これは…、何と言いますか、かなり大きな偶然が引き起こした手違いなんです。さあ、深呼吸をして、落ち着きましょう」 相手の男性はずいぶん落ち着いた表情だった。まるで、いつでも、こういう事態が起こり得ることを予測していたかのようだった。彼は作りあげたハムエッグを手際よく皿の上に乗せて、それを持って悠々と奥のリビングルームへと入っていった。もちろん、そこは私の部屋である。朝出かける時と同じような散らかりようだった。床には音楽CDやバルザックやジョイスの読みかけの文庫本が伏せて置いてあった。テーブルの上にある野菜ジュースの空き缶までそのままの状態だった。 彼はテーブルの上に今出来上がったばかりの料理を置くと、部屋の一番奥から慣れた動作で座布団を一枚持ってきて、それを床に敷いて私に勧めた。 「まあ、取り合えず腰を落ち着けて下さい。私にも仕事がありまして、それほど時間はないのですが、これからゆっくり話し合いましょう」 どれもこれもが私の私物なのに、この男に好きなように使われてしまっているのが、半ば恥ずかしくて、そして、もどかしくて仕方なかった。 「あなたは泥棒なんですか? どういうつもりでこんなことをしているんですか?」 私は怒りと悲しみが入り混じった声で、取り合えずそう尋ねることにした。男はハムエッグを美味そうにほうばりながら、私の意志など気にしないように、その柔らかい笑顔を崩さずに話し出した。 「ええ、ええ、何と言いますか、そうですね、あなたの視点で見てしまえばそうなるかもしれません。私は泥棒で、あなたは被害者。しかし、落ち着いて下さい。ここで自暴自棄になってはいけません。事態を早く片付けようと混乱してしまいますと、結局はすべてがグッチャグチャになってしまいますよ。これから数分のお時間を頂ければ、私が今起こっていることをわかりやすく、正確に説明して差し上げます」 「なんと、盗っ人猛々しいとはこのことだな。よし、わかった。説明して貰おうじゃないか」 私は覚悟を決めて座布団の上にドッカリと腰を降ろした。男は一度手に持っていたフォークを皿の上に置いてゆっくりとした口調で話し出した。 「まず最初に申し上げておかねばならないことは、今日起こったことはすべて手違いであり、もっと言えば、あなたの側から起こされてしまったミスなのです」 「なんだと! 自分の家に泥棒に入られたのに、それが自分のせいだって言うのか? いい加減にしないと警察を呼ぶぞ! いや、こっちとしては、もうすでに呼んでたっていいくらいなんだ!」 「ですから落ち着いて下さい。先ほども申し上げましたが、あなたの視点で言えば、これはもう、自分の住居に勝手に入られてしまったわけですから、十分に警察を呼べる立場にあるわけですが、それだけでは今日起こったことはうまく解決しないのです。今、両者が鉢合わせたことによって、大変なことが起こってしまっているのは事実ですからね。ですから、私の立場も考えて頂けませんと」 「何がおまえの立場だ! おまえはただの不法侵入者じゃないか! 言いたいことはそれだけか?」 「いえ、ですから落ち着いて下さい。今、すっかり話してしまいますから。そうすれば、あなたの方も、『なんだ、そういうことだったのか』と納得して頂けることもあると思います。何しろ、あなたはこういう職業があることをまるでご存知ないようだ。まず最初に申し上げますが、私はあなたの住居を間借りさせて頂いている者です。そうですね、我々の業界では、これを朝借りと呼んでいますがね」 男を時々にこやかな笑顔を浮かべながら、私を論説で上手く誘導して巧妙に騙そうとでもするかのように、説明的な口調で話し続けた。だが、私はこの時点では、この男の口車に乗るつもりなどさらさらなかったし、男の言うことに少しでも不信感があればすぐに警察を呼ぶつもりでいた。 「間借り? 朝借り? なんだ、それは! ここは俺が大家から借りている部屋で、俺はおまえに住居を貸した覚えなど全くないぞ!」 「そうなんです。問題はそこでして、私の組織の上役を含めて、この件に絡んでいる人間の中で、このこと、あなたの家に私が勝手に入って生活していることですね、このことについて何も知らなかったのは、実はあなた一人だけなのです。つまり、あなた以外の関係者はみんなこのことについて納得してこの一件を進めているのです。それで今までは万事上手くいっていたのです」 「何が関係者だ! 早い話が泥棒組合じゃないか!」 「ですから、泥棒とは少し違うのです。いいでしょう。朝借りについてこれから説明しますね。あなたはいつも午前7時に家を出られて徒歩で駅に向かわれますね。それを確認してから午前8時に私が自分の仕事、まあ、小さな印刷会社の夜勤なのですが、それを終えて、この家に帰って来るわけです。あなたの世界の言葉で言えば、泥棒として侵入しに来るわけです。私は合い鍵を使って侵入すると、午前9時頃からまずお宅のお風呂をお借りしています」 「最近、風呂場のタオルの乾きがやけに遅いと思っていたら、おまえが使っているせいだったのか…」 「そうです。そして、私はなにしろ夜勤明けですから、朝方はひどく眠いのです。この部屋の布団を敷かせて頂いて睡眠を取らせて頂いています。そのまま熟睡しまして、午後3時頃すっきりと目が覚めますと、あなたが録画していらっしゃるビデオを拝見させて頂いております。あなたは木曜の8時から放送されている音楽バラエティーを毎週録画してますね。私もあの番組が好きなんです。司会の女性アナウンサーが可愛いですよね。それを見終わりましたら、仕事の前の食事の準備です。まあ、今食べているこれですが…」 男は目の前のハムエッグを指差してそう言った。 「おのれ! この数ヶ月間、そうやって俺が仕事に出かけている間にこの家を乗っ取っていたのか。いったい、どのくらい、その行為を続けていたんだ?」 「もう、すでに丸二年ほどになります。私がこの部屋を間借りしてからですね。どうです? あなたは全く気がつかなかったのではないですか? というとこはですね、あなたも今のこの状態、朝は私が部屋を使って、夕方以降あなたが使うというこの状態ですね、これに満足して頂いていたのではないですか?」 「なんて理不尽な言い方だ! 部屋を勝手に使われて満足なんてするもんか! こんなことが毎日行われていたかと思うとぞっとするわ!」 「ええ、ですが、実際は全くお気づきにならなかった…。私が朝からここで生活をして、満足して夕方になって仕事にでかけると同時にあなたが仕事から家に戻ってくる…。直前まで他の誰かがここにいたなんて露ほども疑わずにね…。本当に我々は素晴らしい関係だったんですよ。まあ、お互いに顔を見せ合うことはできませんけどね。あなたが今日早退さえして来なければ…。ところで、今日はどうなされたんですか? 昨日までは早退届けは出てませんでしたよね? 体調でも崩されましたか?」 「うるさい! なんで自己都合をおまえに説明する必要がある。今すぐ出て行け! さもなければ警察を呼ぶぞ!」 この時の私の心情は、怒りというよりも恥ずかしさで満たされていた。それは、赤の他人に二年間も勝手に部屋を使われ、私生活をのぞき見されていたことの屈辱感でもあった。男はそんな私の態度を嘲るように薄い笑みを浮かべたまま話を続けた。 「まあ、お気持ちはよくわかりますよ。見知らぬ他人に自分の生活を知られるというのは誰しも嫌なものです。私が仮にあなたの立場だったとしても、今のあなたのような屈辱感を味わっていたと思いますよ。自分が読んでいる本や見ているテレビ番組っていうのは大事なプライバシーですものね。私の業界では今日のこの現象、二人が鉢合わせてしまうことですね、この現象を『関係の崩壊』などという言葉で呼んでいますけどね。いや、あなたは今相当に落ち込んでいらっしゃいますが、私たちのように、突然関係が壊れてしまった他の人に話を聞いても、今のあなたのような、まるで恋人にふられた若者のような態度を取られることが多いらしいです。恥ずかしさとそれに勝る屈辱ですよね? よくわかります。皆さん、関係が壊れてしまいますと、顔を真っ赤になされて、同じような態度を取られるらしいです。今、簡単に関係が壊れたなどと陰欝な表現をしてしまいましたが、実際こうなってしまうとですね、修復はかなり難しいようですね。実際、我々の業界で鉢合わせが起きてしまいますと、95%以上の間借り人がそれまでの関係を壊されてしまっていますね。私も実際に自分の身の上に今日のようなことが起きてしまうとは思ってもいませんでした。あなたを恨んでいるわけではないですが、いや、それどころか、今まで部屋を貸して頂いていたわけですから、本当は感謝しなければいけないわけですが、それでも、あなたが不当に早く帰って来られて、突然関係が終わってしまうということになりますと、私としては明日から別の住居を探さねばならないわけですから、ほら、もうそんな落ち込んだ顔はやめてください。これで、私の方も被害者と言った理由がお分かりになったでしょう?」 「ちくしょう…、なんでこんな理不尽なことが起きてしまうんだ…。二年間も自分の家を他人に勝手に使われていたなんて…。凡庸でもいいから平和な毎日を生きていたかっただけなのに、こんな情けないことはないよ…」 私は半泣きの顔でそう呟いたが、間借り人の男はそんな私を慰めるように肩をポンポンと叩いた。 「あなたの側にも責任があると言った理由が少しはわかって頂けたでしょう? そうなんです。気づかなければいいんですよ、こんなものはね。実際、世間では仮面夫婦関係なんてものもありますけど、夫婦ってのもかなり怪しいですよね。血は繋がってないわけですからね。言うなれば他人でしょう? 顔が好きだか、才能に惚れたか知りませんが、夫婦だって正直言って騙し合いながら生活しているわけです。出てくる言葉は嘘だらけですよ。お互いに何らかの利益があるからくっついているだけで、例えば、立派な夫を持つことで…、体面だとか、他人への自慢とかですかね。愛なんて言葉も陳腐ですけど…、ふふ、まあいいか、この際使いますか。例え、愛なんてものがあるとしてもね、それによってピッタリとくっついていたとしても、元々は長い間他人だったわけで、お互いに見られたくない部分も多くあると思うんですよ。趣味だって他人に知られたいものばかりではないでしょ? 朝はずっと妻が家を支配して、夜になって夫が帰ってくるわけですが、妻は昼間家で何をしているかわかったもんじゃないし、それこそ、まあ、例えが下品ですが、愛人を家に連れ込んだり、夫の貯金を使い込んだりしているかもしれませんし、旦那だってそうですよね? 会社で他の同僚とつるんでどんな悪事をしているかわからないし、自分がやっている仕事の詳しい内容を妻に話している夫なんてほとんどいやしないと思うんですよ。夜は枕を並べて寝ているとしたって、夫婦関係ってのも、こりゃあ怪しいもんですよ。これまでの我々の関係と似たり寄ったりです。いや、もっと言えば、同じ生活用品を日常的に扱っておきながら、お互いに何の干渉もしてこなかった我々の方が、あるいはレベルの高いお付き合いだったかもしれませんよ」 「うう…、あんまりだ…、この心を裂かれたような思い…、どんなに慰められても容易に消えそうにない…。なんで…、なんで、私に狙いを付けたんですか…? これまで、何の悪事もやって来なかったし、規則正しい生活を送ってきただけなのに…」 私は事態が飲み込めてくると、すっかり動揺してしまっていた。 「そんな…、泣かないで下さいよ。これだって立派な巡り会いじゃないですか。実は調査会社の方で間借りする相手の人を事前に調べてくれるんですがね。趣味や嗜好がだいたい一致する同年代の同性の住家をね、紹介してくれるわけです。合い鍵はこちらが登録料と紹介料を振り込んだ後にもらえるわけです。どうしてもね、家を持たない、間借り人希望の人ってのは、私のように男性が多いんですよね。そういう意味ではこの国では今のところ、女性の方がしっかりしてるという物の見方も出来ますよねー。例え安くても自分でしっかりと給料を稼いで自分の家を持っている人が多いわけです。でも、女性は成人しても親兄弟と一緒に住まわれている方も多いみたいですね。間借り人は登録をするときに、女性の家を希望することもできますが、私の経験で言えば異性はやめておいた方がいいと思いますね。いや、なんというかね、うは、思い出し笑いしちゃうな。やはりね、趣味が全然合わないんですよね。家をお借りしてもね、面白くないんです。若い男性もののアイドルCDや写真集ばかり置いてあったりしてね、くくく、実は、それについて他愛もない日記なんて書いている方もいましたけどね、まあ、その辺は話さない方がいいでしょう。間借り人にも一応のルールがありまして、他人のプライバシーをかなり知ることになりますから、それはなるべく他言しないということになっているんですよね。まあ、他人に話してしまうと、そこから足がついてしまいますからね。そういうわけで、なるべく自然に溶け込めるような家をお借りするのが理想です。なにしろ、その方がお付き合いが長続きしますからね。私とあなたのようにいい関係が続くんですよ。私としてはね、間借りしている間に、ここにはどんな人が住んでいるのか夢想していたりもしますね。置いてある本や音楽やパソコンソフトから、だいたいの人物像を想像したりとかしましてね。いや、あなたはずいぶん難しい話の本ばかりお読みになるから、仕事に対しても真面目な、堅い人だろうなっていう印象はあったんですよね。そういう人は心にもろいところもあって、傷つきやすくもあるから、なるべくこの関係が崩れないようにと努力していたんですよ」 「では、あなたのように他人の家に勝手に侵入して、昼間の間自由に使っている人が全国にかなり多くいるんですか?」 「もちろんですよ。安心して下さい、騙されているのはあなただけじゃないですよ。調査会社の方は全国に展開していましてね、間借り人の方で希望を言えば、どの都道府県の家でも紹介してもらえます。登録料は一ヶ月に数千円ほどですね。紹介してもらう部屋はどうしても、あなたのような独身のサラリーマンの家が多いですが、例えば、自宅兼店舗になっている床屋や八百屋なども昼間の間は台所や寝床が空いていたりしますからね、紹介してもらうこともできますよ。ただ、侵入してみたら、居間で小さな子供が遊んでいたりもしますから、一人暮らしの家に比べて油断ができないというか、難易度は高いですね。今もちょっと言いましたけどね、実際ね、私たち間借り人がやっていることはほぼ全て自己責任でしてね。何が起こっても、調査会社は一切責任をとってくれないんですよ。彼らは情報を扱っているだけですからね。別に泥棒をしろと指示を出しているわけではない。昼間空いている家を教えてくれているだけです。ですから、今日のような問題もそうですが、間借り人と実際の居住者との間にどんなトラブルが起こったとしても、調査会社は一切介入してくれないんです。登録料を払う、情報を貰うだけの付き合いですね。そこから先、上手くやっていけるかは全て間借り人のテクニック次第ということになります。それを利用して、本当に泥棒のような行為をしている人間もいます。金品を盗んだり通帳やカードを悪用したりですね。でも、そこまでやってしまうと当然のことながら罪の上塗りですから自身の危険は増えます。見つかってしまった時に、私とあなたのような穏便な話し合いでは済まなくなってしまうんですね。どうしても警察が絡んで来てしまう。そこでね、我々の間でも暗黙のルールのようなものがありまして、なるべく、家の中の物に手をつけるなということですね。置物は勝手に動かさない。布団やフライパンなど使用した物についてはきちんと元にあった場所に戻す、そういうことですね。スナック菓子程度だったらいいんですけど、饅頭などに手を出してしまいますと、几帳面に数えている人などいますからね。ばれてしまいますよ、居住人以外にもここに人が住んでいるってことがね」 「最近、実家から送ってくる野菜ジュースが減るのが早いと思っていたんだが、それもあんたのせいだったんですか…」 「ええ、そうなんですよ。でもね、この辺は私もこの道のベテランですから、きちんと間合いを計らせてもらってね、慎重にやってるんですよ。完全に大丈夫だと思っている範囲の物しかお借りしてないんですよ。醤油やマヨネーズは使っても大丈夫。水道や電気代も多少増えていても問題はない。野菜ジュースは最初はちょっと躊躇していたんですが、まあ、あなたの人となりを確認してね、この人なら大丈夫だろうってことで先月辺りから飲ませて貰うことにしたんですよ。たいへん美味しく頂きました。ありがとうございます」 「あなたのお話はだいたい伺ったんですが、しかし、やはり理不尽だと思いませんか? この家は私が日頃から社会で努力して、まあ、給料も決して良いとは言えませんが、それでも何とか生活できる分を稼いできてやっとこさ借りている部屋なんですよ。あなたはこの部屋については何も努力していない。途中から現れて、勝手に布団や家具を使って食い散らかして去っていくだけ。不公平だと思いませんか? 同じ額の家賃を払って一緒に住んでいるのなら、まだ話はわかるんですよ。いや、例え家賃を折半して払っていたとしても、私としては男の人とこんな狭い部屋で一緒に住むのは嫌ですけどね」 このままのペースで相手の男の話を聞いていたのでは、こんな不法行為を正当化されてしまいかねないので、私も自信を持って自己主張することにした。部屋を乗っ取られるのではないかという危機感も多少はあった。しかし、間借り人は私の言葉を聞いてもまったく動揺を見せないばかりか、警官が冷や汗をかきながら必死に言い訳をする道交法違反者の話を聞くときのような余裕の表情で聞いていた。これでは立場があべこべではないか。本来説教されていなければいけないのは向こうの男のはずなのに、追い詰められているのはこちらのような気さえしてきたのだ。 「ええ、おっしゃることは良くわかりますよ。しかし、あなたもようやくご自分の立場がわかってきたというか、いや、今のは言い方が失礼でしたね。少し引いてくれたようなので安心しましたよ。最初は、あろうことか、私を警察に突き出すような勢いでしたが、今はもうそんなことはなくて、我々の生活の仕方が不公平だという話になってきましたよね? それでいいんですよ。落ち着いて話し合えば民事の問題というのは上手く解決出来るものなのです。熱くなっちゃいけません。いくら、自分に不利益になるようなことが起きたからといって、交渉が何でも自分の思い通りになると思っちゃいけませんよね。民事と言えば、特に酷いのはあれ! 相続問題ですよね。知ってます? わかりますよね? あれは酷いですよ。それまで仲良くしていた兄弟姉妹が、両親が亡くなって遺産の話が出た途端に、これ! 大喧嘩ですよね! ありえますかね? いや、実際世間ではありふれているらしいんですが、私はテレビドラマぐらいでしか見たことはないですが、酷いらしいですよ。全然会ったこともない親戚がですね、遺産の配分が始まった途端に現れて、分け前をくれって怒鳴り込んでくるわけですからね。故人の介護もまったくしないで、一度もお中元すら送ってこないような連中が、死んだ途端にこれですよ。まったくね、人間ってのはどこまで卑しいんだろうって思いますよね? いや、正直私なんかもね、今はこんな商売してますが、親兄弟を裏切ってまで現金を受け取ろうっていう気持ちはないですね。しかも、あれでしょ? 親の不幸をバネにして自分が幸せになろうって言うんですから、これはもう、人間の心の内の汚さをね、全部見せてもらっているような感じですよね。中世ではあれですよね、魔女狩りって言うんですか? ちょっと変な行動を取る人がいたら身内でもチクってしまって、すぐにギロチン送りですよ。ひぇーって、怖い話ですよね。でもね、現世では何と言ったって相続問題ですよ。これが一番汚い! 今の弁護士さんや司法書士さんなんかは大変らしいですよね。年に数回は人間の一番醜い争い事を見せられるってわけで、言い方悪いですけど、ある意味病院の看護婦さんなんかより心臓に悪いそうですね。ですから、ある司法書士さんは、自分の知り合いの資産家の方が病気になったとき、いや、たいしたことない風邪だったっていう話ですが、それでも慌てて枕元まで走って行って、こう言ったそうですね。『おい! 薬を飲んでいる暇があったら、まず遺言書を書け!』ってね、あはははは、こりゃ笑えないですよね。ですから、何が言いたいかってね、あなたも今、失われた二年間に思い至って十分に不幸そうな顔をしてらっしゃるけど、人間の不幸を探していたらきりがないって気もしますよね。いや、私らなんて、すっかりこれまでの関係は壊れちゃいましたけど、それでも、五体満足でいられるんだから、まだ幸福ですよね。そう思いません? ああ、話していたら熱くなってきたな、ちょっと野菜ジュースを一本頂きますね」 間借り人の男は一度立ち上がって廊下に出ていき、立てかけてあったダンボールからジュースを一本抜き取るとそれを持って戻ってきた。こんな状況になっても、堂々と自分の家のように振る舞っている。 「さて、何でしたっけ? そうそう、我々の生活の仕方が不公平だっていう話でしたよね? あなたは毎月きちんと賃料を払って住んでいる。私は一円も払わずに間借りしているってわけで、その辺はね、やはり、皆さん、かなり気になるみたいですよね。同じ屋根の下に住みたいんだったら、まず金を出せってわけですよね。この国も旗印は民主主義ですが、すっかり資本主義社会になってしまって、まったく、誰が悪いんでしょうね? お金を持っている人が勝ちみたいなね、そういう空気になってますよね。でもね、私に言わせれば、他の人に肩をぶつけられるたびに下がっていって、負け犬になりきって、身を引いてばかりいたら、際限のないところまで落とされてしまうんですよね。いやほんと、この国の社会はそういう仕組みになっているんですね。誰も自分が居座っているいい立場は譲ってくれない。だから、欲しかったら、もぎ取りに行かないといけないんですよね? それはわかってます。私だって学生の頃からわかってました。でもね、やはり人間の心は弱いものです…。将来のことをよく考えずにグズグズと遊んでいる間に世間に置いていかれて…。おっしゃる通り、これは自業自得ですがね。いやはや、今となっては、他人の家を盗んで借りるような、こんな生活を送っているわけですが、でもね、世間を見渡せば、そういう弱い立場の人も多いと思うんですよね。本当はみんなについていきたいけど、どうしてもいつも身を引いてしまう。他人と同じことをやれって言われるのが苦痛なんですよね。この国には、そういう物を言えない大人しい人も多い! 実にね。でも、そういう人にも居場所があっていいんじゃないですかね? 私は思うんですが、生れつき立派な社会人に慣れない体質の人もいるってね、この国にはね。どうしても自己主張ができない。家系も悪い。親は飲んだくれで、財産も土地も持ってない。当然、いい大学にいけるようなお金も知力もない。それに加えて運もないと来た日には! これはもうね、他人に頼って生きる他はないと思うんですよ。いや、私だってちゃんと生きれるんだったらそうしてますよ。親のコネ! これが大事ですよね。市役所の職員! あんなものはほとんどがコネでの就職です。最近は教職員なんかもそうらしいですね。でもね、私にはそういうものが何もなかった。周りを見渡しても、ただススキが揺らめく原野が拡がるだけ。自分の両手には何もない。さて、どうする? 行き過ぎる人は皆さん金を持っているようだが、誰も手を差し延べてくれない。ここは都会の砂漠ですよ…。辺り一面ガラーンとしてね、寒くても暑くても、どこにも行くところがなくて、道端に座っていても白い目で見られるだけ。冷たい氷のような社会に復讐してやりたいけど、暴力的なことをする勇気はまったくない。人はいいんですよね。通り魔や銀行強盗をやろうなんて、そこまでは踏ん切りがつかないんだから。どこかで道徳心が責めるんでしょうね。そこはダメだ! 人間として間違ってる! ってね。悪いことはできませんよ、ほんと…。でも、それじゃあどうする? 仕事は何とか出来たが、住む場所がない…。こりゃあ、また不公平だって話になるわけですよね。仕事を見つけても、社会はなかなか我々を受け入れてくれない。そこでやっと登場した間借り人制度! 生きていくにはこれしかないってね、飛びついたわけですよ。仕方ないんですよ? ここにしか綱は降りて来なかった。私でもつかまれるような綱がね。この間借り人制度は社会の片隅でメソメソと泣いていた私に最後に降りてきた助け舟ってわけですよ」 私は彼の長話に我慢ができなくなって右手をあげた。 「ちょっと待って下さい。あなたは自分の都合のことばかりおっしゃってますけど、社会で辛い思いをしているのはみんな一緒ですよ。不幸な人がいるのはわかりますよ。この国は決してユートピアではありませんからね。どこもかしこも、老いも若きも立派な競争社会です。でもね、自分の不幸を他人に押し付けるような真似をしたら、それもダメだと思うんですよ。なるほど、こんな競争社会では思い通りにならない人生もあるかもしれない。知らない内に一人取り残されていることもありますよね。でもね、それでもみんな歯を食いしばって隙間を探しているんですよ。どこかに自分の居場所はないかなってね。バブルの頃みたいに席は多くないですけど、それでも小さくて汚いけど空いている席はある。好きでもない人に頭を下げるのが嫌なのはわかる。他人とうまく共存できないのもわかる。でもね、それでも、我慢して進まなきゃいけないんですよ。みんながあなたみたいな屁理屈をこねて犯罪に走っていたら、とんでもない社会になってしまいますよ。騙す側もね、一時はいいかもしれませんが、いずれは自分が騙されるわけです。上には上が、下には下がいますからね。やはり、勉強する時間を惜しまずに真面目にやってきた人達は報われるべきでね。いや、私も他人に自慢できるような立場にいるわけじゃないですけど、それでも今は納得してますよ。ああ、裕福にはなれなかったけど、とりあえず生きていて良かったなあってね。他人の家を間借りしてまで汚く生きるより、まず自分を見つめ直すことですよ。道を踏み外しちゃいけません。間借りなんて楽な道を選んでしまうと、どんどんダメな人間になってしまいますよ。あなたが言うようにこの世界は下に向かっていくとキリがないですからね」 間借り人の男はうんうんと頷きながら聞いていた。そろそろ、反省するか納得するかして出て行って欲しかったのだが、まだ席を立とうかという気配は見えなかった。彼はコーヒー一杯で粘る喫茶店よろしく、自慢の饒舌で仕事までの時間いっぱい粘るつもりなのかもしれないが、彼が自分のやっていたことを悪いと思ってくれなければ、それは明日もまたここに来るということで、私としては非常に困ったことになるので、それだけはなんとか避けたかった。私も再三警察という言葉で脅しているが、できればこれを事件にせずに穏便に解決したいも願っていた。警察が介入して大事になってしまえば、他人に何年も家を使われていた私の心の傷はさらに深くなってしまうからだ。他人に家を使われていて気づかなかった自分の愚かさを第三者に語るつもりもない。私はもう、この男が一言謝罪して出て行ってくれれば、それでいいと思うようになっていた。百歩以上譲っているつもりなのだが、それでも、この男に通じてくれるかわからず不安だった。 「いやあ、あなたはやはり立派な人だ。こんな私を責めもせずに逆に真理の道を指し示してくれるなんてね。仏のような人ですね。しかしね、やはりそれは善の側から見た真理であってね、我々には通用しないところもあるんですよね。もうね、言ってしまえば、そういう人生の分岐点は過ぎちゃったわけですよね。数年前、4年くらい前かな? 自分がまだ社会に溶け込めると思ってたあの頃、純金のように無垢だった心。お金を入れればその分商品を出してくれる自動販売機のように、人生も努力をすればするほど報われると思っていた…。でも、私は悪魔も声に耳を貸しちゃったんですよね。酔い潰れて寝ているところを、黒いスーツの男に都会の道端で突然、『人生は上手くいっていますか?』ってね、尋ねられましてね。いってるわけねえだろ! ってね、そう答えましたよ。当時は何もかもがうまくいかなくてムシャクシャしていましたからね。金もなければ女もない、居場所もない、本当に社会からつまはじきにされていましてね。そんなときにその男は『あなたに家を紹介してあげよう』と言うんですよね。そりゃあ、私だって、最初は怪しいと思いましたよ。でも、その男が言うには、住宅街のアパートやマンションには昼間使われていない家がゴマンとある。そういう家は持ち主もきちんとしたスケジュール通りに生きているから、昼間忍び込んでも見つかる心配はないって言うんですね。眉唾な話でしたが、都内では数万軒の家が昼間は無人で放置されているって言うんですね。そこにはテレビもあればステレオもエアコンもパソコンもある。すべて使い放題だって言われましてね。その男はこれは犯罪だとは言わずに、しきりにもったいないと言っていましたね。そういう高価な電気製品が昼間使われずに置いてあるのはもったいないとね。君がそういう家でのんびりしたいのなら、一軒空いている部屋を紹介してあげようってね、うまいこと誘われてしまいまして、断ることもできたんですが、私は乗ってしまいましたね。金に困っていたっていうこともありますが、それよりも社会への復讐ってのも大きかったかな。自分をここまで追い詰めた社会へのね」 「それでは、質問させて下さい。二年間も他人の部屋を使ってきて、心が痛むような罪悪感はないんですか? それに反省の弁も一度もないようですが…」 私は恐る恐るそう尋ねた。 「あなたには申し訳ないですが、それはないですね。私はここを出ても次の間借りできる部屋を探すだけです。なぜって、私は人生を自然に歩んできてここへたどり着いたからですね。世の中には、生れつき家柄がよくて、勉強もできて、道なりに進んでいたら桃源郷だったっていう人もいるでしょうけど、私はそうではなかった。泥棒と言われても文句は言えませんけど堂々と生きていきますよ。私にこの仕事を紹介してくれた男は昼間空いている家の有効利用だと言っていましたが、私もそう思うことにします。罪悪感なんて糞喰らえです。今、家を乗っ取られていたあなたの心が少し痛んだと思いますけど、それは社会から迫害されてきた我々も一緒なんですよね。ですからね、こうやって少しずつみんなで不幸を分け合いながら、社会の真っ黒な不幸を薄めていく方がいいと思うんですよ」 男はそこで一度話を止めて、野菜ジュースの最後の一滴までグイッと飲み干した。 「それでは、言いたいことも大体言ったので、私は帰ります。あなたには本当にお世話になりましたね」 「もう二度と来ないと約束して頂けますか? これは、あなたの組織の他のメンバーも含めてですが…」 私が不安そうにそう言うと、間借り人の男はニッコリと笑って立ち上がった。 「では、組織の幹部にそう伝えますよ。この家は我々の組織の内情を知ってしまったから、もう間借りはできないとね。間違いなくそう伝えます。もう誰も来ないはずですよ」 「それは助かります。私もあなたがたの人生に同情しないわけではないんですが、何しろ会社のいうものに所属してますと、どうしても、規則に縛られてしまい、法や道徳といったものを重視してしまうんですよね。応援はできませんが、これからも身体に気をつけて頑張ってください」 私は廊下を歩んでいく男の後を追いかけながら自分の喜びをそのように表現して伝えた。その男の歩む、玄関までの一歩一歩が私の精神の解放を意味しているような気がした。男は慣れた手つきで靴べらを使って自分の運動靴を履くと、ドアを静かに開けた。 「それではお邪魔しました。また何かのご縁がありましたらお目にかかります。あなたも体調に気をつけて仕事の方を頑張ってくださいね」 男はそう言って一礼すると、小走りに立ち去っていった。私はようやく重圧から解放され、肩から重い荷物が降りた気がして、床に座り込んでボウーッとしてしまったが、しばらくして、居ても立ってもいられなくなり、電話の受話器を取ると、母親のいる実家に電話をかけた。彼女にできるだけ詳しく事情を話すと、母親は少し強い口調で、「それは口が上手いだけの、ただの泥棒だから早く警察に電話しな」 と教えてくれた。私が我に返ったのは受話器を置いてしばらくしてからである。 了 <2011年7月28日ー8月2日> |