嫌なやつ





 ここは都心にある、とある中堅出版社。とりたてて言うほどはない地味な顧客から、チラシやポスター、パンフレット、自分史やホームページなどの受注生産を生業としている。社員に臨時ボーナスを出すほど儲かっているわけでもないが、毎年赤字を出すほどでもない堅実な経営が売りである。今はちょうど休憩時間。その3階にある喫煙室で、制作部に勤務している一人の若者が背中を丸めて椅子に座り、大きなため息をついていた。

「いっそのこと、もう、辞めてしまおうかなあ……」
 彼の名前はA君。田舎から上京してきて、大学を卒業してこの会社に入社して丸2年。希望を持って社会に出てきた多くの若者が悩みを持ち、傷つき、苦汁をなめて、人生の意味を己に問いかける時期でもある。人間は必然的に悩みを持つ動物である。だいたい、社会に出て大成功を収めた富豪や偉人で、この時期に悩みを持たなかった人間がいたのだろうか? 自分の進路に迷わないで数十年間も順風満帆に歩めた人間がいたのだろうか? いるわけがない。神のように崇められた彼らとて、若い頃は多くの悩みを持ち、それを克服して大勝負に勝ち、大衆に認められ成功したのだ。ということを加味して考えてみれば、今の段階での彼のこの悩みは、新たな飛躍や成長への大きな一歩となる可能性も秘めているのである。

 A君は灰皿に安タバコの先っちょを押しつけて火を消すと、また、頭を抱えて悩みだした。働こうにも身体が緊張で硬直して、次の一歩を踏み出せる気がしなかった。最近の仕事の中で、よほど気に障ることがあったのだろう。彼はこれ以上この部所で仕事を続けることに躊躇していた。かといって、今さら他の部署に配置転換してやっていく勇気も自信もなかった。この会社に見切りをつけて辞めてしまうのなら、今この時期である。ちょうど社会全体は好景気に向かっているし、ネットや雑誌で調べる限り、求人の募集の質も悪くはない。上手く今より上位の会社に食いつけば、給料の面でも、仕事の地位の面でも、優遇される可能性は高い。

 だが、もっと深く考えてみれば、会社というものは入社してみれば、結局、どこも似たようなものであったりする。どこにでも、ヒステリー気味で自分の機嫌次第でガミガミと吠える上司がいて、面倒なばかりで儲けにならない、嫌な仕事ばかり回してくる頼りにならない先輩がいて、何度教えても仕事を覚えず、挙げ句の果てにミスを起こして足を引っ張る部下がいる。仕事も当初の思惑とは違って自分に合わず、給料も地位も思った通りには上がらないかもしれない。入社する前の面接で聞いた待遇とはまったく違ったりもする。どの会社も強いのは景気が良い時期だけ、景気が右下がりになれば、その業界の中小企業は揃って給料ボーナス右下がりとなる。気がついたらリストラ要員にされてしまっているかもしれない。それに、自分が転職したことが周囲にばれれば、家族や親戚、昔の友達に、辞めた理由、新しい会社の居心地などを根掘り葉掘り聞かれるだろうし、それにいちいち答えていかねばならない面倒なイベントがある。そう考えると、この段階では辞めないでおいて、今自分が所属している企業が、もっと有利な状況になるのを待つという手もある。辞めるか残るか。もちろん、どちらの道を選ぶにしてもリスクを伴い、難しい選択である。
「あと3年後……、せめて、あと1年後の未来がわかればなあ……」
A君は自分にそういった先見の明がないことを悔やみながら、いたずらに転職の道を選ぶことは諦め、あともう少しのあいだはこの会社で我慢して働くことを決心しようとしていた。

 そんなとき、喫煙室の扉が乱暴に開き、5年先輩のCがつかつかと入ってきた。CはここでA君と会えたことをこれ幸いにと舌なめずりをしているように見えた。彼は4階の総務部に勤務していて、以前はA君と同じ制作部にいたため、二人は旧知の仲であった。しかし、Cの性格は無粋で粗雑であり、相談相手としては適当といえる人物ではなく、彼に打ち明け話をしてしまうと、かえって事態をめちゃくちゃにされかねなかった。しかも自分の偏向した考えを何よりも優先し、心が狭く、自意識過剰で他人を見下すようなところがあり、一緒に話をしていて愉快な人間ではなかった。A君はここで彼と出会ったことにすっかり失望して目を伏せた。よりによって、自分が弱っているときに……。

「よう、久しぶりだな。なんだって、ちょっと小耳に挟んだんだけどさ、おまえらの部署でまた顧客からのクレームがあったんだって? ちょっとその話を聞かせてくれよ」
「いえ、そのことはもういいんです……。できれば、そっとしておいてください……」

 Cは社内を所狭しと飛び回る銀蝿のような男で、会社内のどこかにちょっとした異臭を感じると、すぐにその場に急行して、デリカシーなどまったくなく当事者の秘密を探ろうとするタイプの人間で、しかもこの上なく口の軽い男であった。こういう男に自分の気持ちを探られると、そのあとはどこまで広範囲にその秘密をばらまかれるか、考えるだけで恐ろしかった。せっかく一箇所に溜まっていた汚れを、わざわざ社内全土に拡散しながら飛び回るのである。A君はタバコをスーツの内ポケットにしまうと、彼とは目を合わさずに立ち上がって出ていこうとした。しかし、Cはすぐに後ろからA君の手を乱暴につかみ、元の場所に強引に座らせた。

「いいから、少し話を聞かせろよ……。俺がアドバイスしてやるよ(Cはここで一度軽く目配せをした)。あの一件はさ、俺の見るところ、おまえの責任じゃねえよ。あれはBが悪いんだろ? 俺が聞き集めた情報によれば、全部あいつの雑な仕事のせいだ。あいつがきちんとお客の要望をおまえたちの部所に伝えていれば、あの事故は起きなかった。でも、おまえとBは同期で仲が良かった。昔はな。疎遠になったのは別の部署に異動になってからだ。だが、おまえにはBに対する愛着が残っている。だから、あいつの不利になることを素直に上司に伝えられずに悩んでいるってわけだ……」
相変わらずCは少ない情報と憶測だけで事の顛末を考えてきたらしく、偉ぶってそんなことを言い出した。A君は慌てて右手を振ってそれを否定した。

「そういうわけではないんです。あれは僕も悪かったんです……。僕がもっと丁寧に指示書を読んで仕事の内容を理解していれば……。ただ、ちょっと……、お互いのミスだったのに、Bの言い方が強気だったので頭にきてしまって、それで口論になってしまったんです……」
「いいから、素直になれって。今後、この会社で長くやっていくためにはこういう問題は大事なんだよ。後ろに引いてばかりじゃだめなんだ。他人の信頼を得ることはできないんだ。きちんと自分の言い分を通して処理しなければならないんだ……」
「いえ、そのことは本当にもういいんです……。あれからいろんな人と話し合って対策を考え、問題はあらかた片付いたんです……。本当にもう大丈夫で……」

 A君は苦しそうにそう返答した。現実には問題は解決しておらず、まだあちこちでくすぶっていたが、これ以上、Cに根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だったのだ。しかし、無神経なCはA君のそんな気持ちを慮ってはくれなかった。
「なんでだよ。いいことはないだろ? まだ、管理職のやつらはこの問題でせかせか動き回ってるぞ。顧客だって、不良品なんだから値引きしろって騒いでいるらしい。おまえ、Bと激しい口論になったらしいな。あいつとはその後ちゃんと話したのか? 仲なおりできたのか?」
「ええ……、もう昔の通りに話すことができてます……。僕の意思も彼に伝えました。上司にも、この一件は個人の問題ではなくて、いろんな部門が少しずつミスを犯した結果起きたものだと、そう伝えましたし、上司にもそれで納得してもらえました」

Cはそれを聞いてその鋭い目を輝かせた。
「じゃあ、なんでこんなところに引き篭ってるんだよ。問題が解決したんだったら、さっさと表に出ていって堂々と働けばいいだろ。もう、何も怖いものはないはずだろ。俺の見るところは違うな。おまえは最近何かに怯えているように見えるよ。この会社に居づらそうに見える。辞めようとさえ考えている。お前が気持ちよく働けない、何か障害のようなものがあるんだろ? そのことを話してみろよ」
「いえ、もう、本当にいいんです……。先輩に聞いてもらわなければいけないような重大な問題はありませんので……」

 A君は必死な顔でそう釈明して立ち上がろうとしたが、Cは決して彼がここから逃げようとするのを許そうとはしなかった。
「俺の見るところ、おまえはでかい問題を内側に抱えて悩んでいるよ。他人にはなかなか相談できない問題があるんだろ? きっと人間関係の込み入った話だよな。俺が聞いてやるよ。少し時間をとってやるから、ここで話てみ?」
 Cはさらに蛇のような嫌らしい目つきになってA君に迫ってきた。本当は好奇心から他人の不幸話を聞きたいだけで、親身になってそれを解決するつもりなどこれっぽっちもないのだろうが、異常にしつこい性格のため、A君はこれはもう、悩みをさわりだけでも打ち明けない限り、ここから逃がしてはもらえないといつしか悟っていた。彼は仕方なく、問題の一端を話すことにした。

「実は社内に嫌な人間がいまして……。あまりにも嫌っているので、その人が近づいてくるだけで寒気がするんです。仕事中も休憩のときも、その人に付きまとわれて困ってるんです……」
 A君はことをなるべく詳しくせずにどうとでも取れるようにそう話した。Cはそこまで話を聞くと、うんうんと二度頷いて、A君の方に自分の顔を近づけ、少し小声でささやくように自論を展開し始めた。
「よく言ったな。それはわかってるよ。どうせ、第2制作部のEのことだろ?」
「いえ……、Eさんは違うんです」
A君は慌てて首を振り否定したが、先輩のCは取り合わなかった。
「大丈夫だって。ここであいつの悪事を語ってしまえよ。ある程度すっきりするぜ。俺の口からあいつに直接伝えたりはしねえよ。心の奥にしまっておくから、大丈夫だ」
「でも、本当に違うんです……。Eさんとは確かに入社当時少しトラブルがありましたが……。今はもう……」
A君はそう訴えたが、Cがその先を言わさず、右手を挙げて遮った。彼は弱気な人間がことの本質を隠して逃げまどうのを許さなかった。すっきりとすべてを話しきるまで(それはつまり自分が納得するまでだが)許さないつもりだった。

「そのちょっとしたトラブルが問題なんだろ? 確か、ちょうど一年前、おまえが休憩時間に会社のパソコンでネットを見ているところに、偶然Eが通りがかって、鋭い視線で睨みつけながら、強い口調でそれに注意してきたんだよな。『仕事中に会社のパソコンで遊んでるんじゃねーよ』とまあ、こんな感じか? まあ、確かに会社の規則にはパソコンを私用で使うなという項目はあるが……、そんな程度のルール違反はみんな多かれ少なかれやっているわけだ……。だいたい、今どきネットの情報も見れなかったら社会生活が成り立たないものな。管理職の連中だってパソコンのネットを使ってスポーツの情報やニュースを見ているしな……。Eはそういう権力のある奴らにはぶつかっていったりはしないわけだ……。わざわざ、自分より弱い立場のお前だけに言ってきたのが問題なんだよな? あいつはまだ新入社員だったお前が自分になかなか頭を下げてこないのが許せなかったんだよな。それで……、やつはそのことを上司に報告したと……。おまえさんはそれで上司に別室に呼びつけられて叱られる羽目になったと……」
「いえ、そのことは自分が悪かったことですから……。Eさんの言い分が正しいんですよ」
 A君はそう答えつつも、嫌な過去を思い出した不安と恐怖で右手が震えだした。当時のことを思い出してみれば、Eの態度に納得のいかない点がいくらかはあったのだろう。震える手で内ポケットから再びタバコを取り出して火をつけた。CはA君のそんな様子を見て満足そうに笑い、自分が今、他人の秘密に深く潜入しようとしていることに快感を感じているらしかった。

「Eはさ……、趣味でボクシングをやってるんだよな。去年の夏から突然初めたんだ。本人は身体を鍛えるためとかダイエットのためとかほざいてるが、周りの人間を脅すためにそれを始めたことは明白だ。何せ、ことがあるたびに他人にそのことを吹聴して回っているからな。他人とのトラブルで自分の言い分が通らないときがあれば、パンチ力を見せて自分に有利なようにことを運ぼうとしているわけだ。本当に卑怯な奴だよな。そんなのさ、高校生のやることだろ? 喧嘩が強い奴が番長になって学校を仕切るみたいなことだろ? 社会に出てまで、そんな手段で権力を手に入れようとするやつが今どきいるか? 普通の会社だったらいないよな。そんな危険人物はすぐにクビになってるよな。いつ会社の信用を損なうような問題を起こすかわからないからな。うちだって、一応、客商売だろ? あいつ一人の事件のせいで信用失ったら大変だからな。うちの会社ぐらいだぜ、そんな乱暴者を飼っておくのはさ。とにかく、今現在は人材不足だからあんなやつでもクビにできないんだよな」
 Cはここで一度話を止めて、うつむいているA君の顔を下から覗き込んだ。A君は彼の眼を見ているうちに自分の心を覗かれているような気がして寒気がした。早くなんやかんやと理由いいわけを見つけて、この部屋から出ていきたい、とそう思っていた。

「おまえ、あの一件以来、いまだにあいつのことが怖いんだろ? あいつとすれ違ったり、視線を合わせたりするのが嫌なんだろ? 仕事の最中も背中に寒気を感じているんじゃないか? あんな奴と一緒のフロアにいたら、いつ見覚えのない罪を着せられてぶん殴られるかわかったもんじゃないよな。だから、それが怖くて仕事に身が入らなくなってるんだよな?」
「いえ、そんなことはありません。Eさんとはあれ以来何もトラブルはありませんし、今回の顧客クレームの一件にもEさんは何も関係ありませんし、一言も口を聞いていませんし……」
「表向きではそうかもしれないけどな……」

 Cはここでタバコをくわえたまま、顔をゆっくりと上に向け、天井を見上げた。
「おまえはどこかでまだEを怖がってるんだよ。あいつに何か弱みを握られるのが怖いんだ……。みんなは休み時間に漫画を読んだり、インターネットを見たりして楽しんでいるのに、自分だけはそれができない。監視の目があるからな……。背後からいつEが近寄ってくるかわからない……。緊張が高まっていく……。だから、知らず知らずのうちに不安やストレスが溜まっていくんだ……。必要以上にルールを守らなきゃとか、事故を起こさないようにしようとか常に考えているんだ……。正直に言ってみろよ。あいつの存在が嫌なんだろ? あいつに自分の小さなミスを探られて、上司に報告されるのが怖いんだろ? それに言い争いがこじれて、いざ力勝負になっても勝てるわけはない。あいつはボクサーだからな。こっちがいくらいきり立ったってボコボコに殴られるだけだ。だから、どうすることもできない自分に苛立っておまえはこの部屋に引き篭っているんだ……」
A君はうつむいたまま、目をつぶり、首を何回も横に振って、その話を否定した。しかし、Cは冷静な表情のままこの話を続けた。

「おまえは結局、自分から積極的にこの問題を解決できない自分自身に苛立ってるんだよ。本当はきちんとした場を設定して、その上で討論をしてEを言い負かしてやりたい。『おまえだって仕事でミスをすることはあるだろ』『おまえだってルール違反をするじゃないか』『なんで他人の悪事だけを追求するんだ』そう言ってやりたいんだよな? でも、それはできない。それはEがボクサーで喧嘩がめっぽう強いことを知っているから。仮に、Eがボクサーじゃなかったとしても、あんな蛇みたいにしつこいやつに絡まれたら、この先の社会生活がどうなるかわかったもんじゃない。そっけない冷静な態度をとっているうちに、自然と恨みが溜まってEに目をつけられてしまったら、また身に覚えのない罪を着せられるかもしれない。だから、おまえはあいつを憎みながらも凍りついた雪だるまのように身動きできず、自分自身に失望しているんだよな?」
もはや、A君は何も言い返すことができなくなっていた。言い返せば、言い返すだけ彼との会話は長くなってしまいそうな気がした。
「そんなに落ち込むなよ……。大丈夫だ、おまえが安心して働けるように、俺がいい情報を教えてやるよ」
「いえ、そんな情報はもう結構ですので……」
慌てて立ち上がろうとするA君を、Cはまた肩を抱くようにして乱暴に押さえつけた。 「いいから聞け。ちょうど三カ月くらい前にあったろ? EがH(ベテラン社員)を殴りつけた事件が……」
「ああ、椅子にコーヒーをこぼしたとか、こぼされたとか、そういう事件でしたよね?」

 A君は話を合わせるため渋々そう答えた。この実りのない会話を早く終わらせたいと思っていた。
「そうだ、3か月前のその日、Eが3時の休み時間に席を立ってトイレに向かった。奴が席にいなかったのは5分ほどだった。そして用を足して自分の席に戻ってきたときに、椅子の上にコーヒーの染みが付いていたんだ。まだ、こぼされてから時間が経ってない新しい染みだった。普通の人間だったらそんなこと気にもかけない。まあ、自分のハンカチで拭いたらそれで終わりだからな……。だが、Cは隣に座っていたHさんに『おまえがこぼしたのか?』と一声かけると、突然Hさんに殴りかかった。Hさんは顔を数回にわたって殴られ、鼻の骨を骨折する大けがを負ったわけだ」

Cはそこで一度話を止めてA君を睨みつけた。
「おまえだったらどう思う? こんなおかしな話聞いたことあるか? 普通のどこにでもある事件だと思うか? 明らかに狂ってるだろ? 仮にHさんが手違いでコーヒーをこぼしたのだとしても、いきなり殴るなんてどうかしてる。しかも、この事件には続きがあって、結局、管理者による調査の結果、Hさんはコーヒーをこぼした犯人じゃなかったんだ……。つまり、何もしてない人を……、しかも自分の部所の先輩を殴りつけて怪我をさせたんだぜ?」
「その件は部会で報告がありましたので、知っています……。でも、その後、Eさんも謝罪をして罰も受けたんですよね?」
A君はうつむいて床を見ながらそう答えた。
「確かに処分を受けたな。懲戒処分な。でも、5日間の勤務停止と始末書の提出だけだ。普通の会社だったら完全にクビになってるぜ。刑事事件になっていてもおかしくないくらいだ……。警察や労基署が絡んでくると色々と話がこじれて困るから、会社としても、ことを穏便に済ませたかったわけだ……」
ここでCはA君の顔に視線を合わせてほくそ笑んだ。

「俺はこの話のさらに続きを知っているぜ……。教えてやろうか?」
「いえ、私は他人のプライバシーを聞きたいとは思いませんので……」
これ以上、彼の話を聞いていると、仮にCがEと揉めたときに自分まで被害を受けかねないので、A君は顔を逸らして苦しそうにそう言った。しかし、Cは嫌らしい目つきをしたまま、自分の顔をさらにぐんと近付けてきた。
「まあ、そう言うなよ。これは俺しか知らない話なんだ。何せ、実際に真実を見た人間は俺だけだからな……」
Cはそこで一度タバコの火を消して、その親指で自分を指し示した。
「その一件から一ヶ月後のある日な。Eが会社のロビーで上司と連れだって何やら深刻そうに話しているのを見かけたんだ。仕事中だぜ。こんな時間におかしいなと思っていたら、Eと上司はそのまま会社の外へ出て、大通りの方へ歩きだしたんだ。これは面白いものが見れると思って、俺は後をつけることにした……」
「本当に後をつけたんですか? それはまずいですよ。完全に他人のプライバシーを暴く行為じゃないですか」
A君はCの行動に驚いて、彼を強く責めた。しかし、Cはまったく請け合わず、その残忍冷酷な表情を崩そうとはしなかった。

「まあ、聞けよ。これは俺の正義感からの行動だが、さすがに仕事中だからな。多少のリスクはあった。上司に見つかっていたら、俺まで処分を受けるところだぜ。さすがの俺でも心臓が高鳴ったぜ……。そこまで苦労して手に入れた情報をおまえだけに教えてやるよ……。いいか? 上司とEは会社を出た後、大通り沿いに北に向かって、そのまま15分ほど歩き、渋谷にある精神病院に入った。いやあ、俺としても予想はしていたが、まさか、本当に精神病だとはな。いや、あるいは会社としても事件を起こした当人が精神を病んでいたという結論にもっていくしかなかったのかもしれない……。他人の秘密を暴くのは最高だ。興奮して震えがきたぜ……」
そこでCは側にあったテーブルを強くどんどんと拳で殴った。そして両腕を上に挙げてポーズをとった。
「やっと暴いてやったぜ! やっぱりそうだ! 精神病だったんだ! あの瞬間は嬉しかったな。他人が抱えている恥や苦痛を暴いたときほど興奮することはないからな……。しかし、まあ、当然の結果だろ……。あいつの行動は、誰が見ても頭がおかしいとしか思えない行動ばかりだからな……」

 Cはそのとき、一度腰をあげてこの喫煙室のドアを静かに開き、まるで、他人にこの話を聞かれることを恐れるように、外から誰も来ないかを確認した。A君にはこのときのCの様子はいたずらをして親に見つかるのを恐れている子供のように見えた。そして、CはまたA君の横に戻ってくると、一度彼の頭をぽんぽんと叩いてから、どっかりと椅子に腰をかけた。自分が今、重要な話をしているということをA君に強く認識させてやりたいようだった。そして、またいっそう小声になり、話を続けた。

「でもさ、まあ、わかってやれよ……。俺もさ、Eのことは大嫌いだから、おまえがEを避ける理由はよくわかるんだが、あいつも可哀そうな男なんだよ……。生まれつき肌が色黒だろ? おまけに学生の頃は痩せっぽっちだったろうし、周囲から相当なめられていたんじゃないかな。いじめを受けていたのかもしれない。それに加えて、あの性格だろ? 彼女はおろか、友達だって出来たことないんじゃないかな……。そんな寂しい男がやっとこさ社会に居場所をみつけて働き出したが、どういうわけかここでも友人ができない……。入社してから何年経ってもずっと孤立したままだ……。上司に褒められることもないから出世なんてあるわけない。他人が自分を避けているように感じる。先輩にも後輩にも陰で笑われているような気がする。自分はおかしい人間だと思われているんだろうか? それとも、実際に自分の脳みそはどこかおかしいのだろうか? とまあ、そう思い始めたわけだ。そういう人間はいつしか被害妄想を抱くようになっていくわけだ。特にあいつのは強烈な妄想だ。月日が経つごとに同じフロアの同僚がすべて鬼の仮面を被った敵に見えてくる……。みんながみんな自分を嫌っているように思えてくる……。ここで馬鹿なやつは開き直ってしまうわけだ。『それならそれでいいよ! 俺だって孤独に闘ってやろうじゃないか!』 そう思ってしまうわけだ。そして、余計にみんなと打ち解けなくなる……。半ばヤケになってボクシングを始める……。そして、被害妄想がパンパンに膨らんだ状況で起こったのがあのコーヒー事件だ。ついに犯罪の芽が生えてきてしまったわけさ……。これは世間一般の軽犯罪者たちが通る道と何ら変わりないぜ。刑務所の内部を一回覗いてみな。きっとEみたいなやつがうじゃうじゃいるぜ。とまあ、そういう経路をを辿ってやつは最終的にこれはおかしいぞと、ちょっとこのままでは、何か手を打たない限り、一緒には働けないぞと、そう判断されてしまったわけだ……」

「それはまずいですよ。言い過ぎです。一度間違えを犯したぐらいで、同僚を勝手に犯罪者扱いしてしまうなんて。精神病だって、現代では治る病気ですからね。病気が良くなってくればEさんの行動も言動も模範的な社会人らしくなってくるはずです」
「おまえ、Eをかばうのか? 嫌いな人間ってのはあいつのことじゃないのか? ふーん、じゃあ、おまえの言う『嫌なやつ』っていうのは一体誰のことなんだよ?」
 反論をするために上目遣いだったA君はその質問を受けて、再び弱々しい表情になり下を向いてしまった。右腕がぶるぶると震えていた。何かを我慢しているらしい。
「ふーん、じゃあ、あいつだろ。制作部のF課長。あいつもかなりいかれてるぞ。仕事中に他人の些細なミスですぐ顔を真っ赤にして大魔神のように怒りだすから、赤鬼って呼ばれてるんだよな。巨人が負けた次の日は特に機嫌が悪い。俺がさ、『昨日は負けてしまいましたね』って気軽に話しかけたら、『うるせい! おまえと話なんかしたくねえ! どっかいけ!』なんて言いやがってよ。本当に勝手な人間だぜ。噂によると血圧が170以上あるらしい……。どうせ長生きはしないだろう……。ほっとけ、ほっとけ」

 A君はもうすでに、ライオンに追い詰められたシマウマのように、されるがままになっていて、それを聞いても力なく黙って首を横に振るだけだった。
「F課長でもないのか? じゃあ、誰だよ、おまえの障害になっているやつは……。誰かがおまえの健全な会社生活の邪魔をしてるって話だったよな? それじゃ営業のS課長か? いつもニヤニヤうす笑いしながら社内を徘徊してていらつくよな。たいして仕事もできないくせに……。それも違うのか……。まあ、ここで言いたくないなら無理に聞こうとも思わないけどな……。ところで……」
Cはここで大きく深呼吸をして、一度振り返り、誰もドアを開けて侵入してこないことを確認すると、話を新たな方向に展開し始めた。

「ところで、おまえのいるフロアに配属された新入社員のDさん(女性)かわいいよな。一目で気に入っちゃったよ……。先日、彼女の席を通りがかったから、ちょっと話しかけてみたよ。『もう仕事には慣れた?』ってな。そしたら、遠慮深くちょこっと頭を下げて笑顔で挨拶してくれてなあ……。あれは本当にいい子だよ。遠慮がちで、他人に不快感をまったく与えないタイプの子だ。よく、うちみたいな零細にあんな器量のいい子が来てくれたよなあ。あんなにかわいい子なら、筆記試験なんてしなくても通してあげたいよ。古いことわざで『その人間の笑顔が美しかったら、その人は性格も美しいと思いなさい』ってのがあるじゃないか。なに? ちょっと違う? まあ、いいさ、話を続けよう。ところで……」

 ここで、Cは再び声のトーンを下げ、顔は再び妖怪のように嫌らしくなり、ソファーの横に座っているA君の顔を覗き込みながら、A君の顔がどんな変化をするか楽しそうに眺めながら、質問を繰り出した。
「おまえ……、Dさんのこと好きなんだろ?」
「とんでもない。まだ、知り合ったばかりですし、彼女は新入社員ですよ。それに、僕みたいな地味な人間に傾いてくれるわけないじゃないですか」
A君はすぐさまそう反撃した。しかし、Cは顔を赤くして反論したA君の態度を見て、自分の推論に確信を得たようだった。
「まあ、そう言うなよ……。俺にはわかるんだ。なんでわかるかって? おまえ、朝の出勤時間帯にほとんどの社員とは目も合わせないけど、Dさんにだけはきちんと挨拶してるじゃないか。それで何がわかるんだって? わかるさ、あの子は間違いなくおまえの好みだよ。大人しいし、人間的魅力もあるし、愛嬌があるし……。だがなあ、ああいうタイプの子は相当遊んでるぜ……。大学の頃はバンドを組んでボーカルをやってたんだってな……。そういう目立つ子には男はすり寄ってくるんだよ……。同じ学年のイケメンたちが見逃してくれるわけない……。それに、一般のもてない男ってのはちょっと派手な子を見つけると、自分の器量なんて考えもせずに愛想を振りまくんだよな。まず、鏡を見ろっての! おまえらとあの子が釣り合うかっての! でもまあ、あの子に手を出すのはやめておいたほうがいいぞ。ああいうタイプの子は本当に遊んでるよ。男を何人も掛け持ちしてな……。バンド時代の仲間とだって肉体関係持ってるに決まってるだろ。今だって、会社終わりの夜は街に繰り出して、数人の男といい関係を築いてるに決まってる。あれだけの器量を持っていれば、会社の中で彼氏を見つけようなんて気はさらさらないのさ……」 「彼女の悪口を言うのはやめてください!」
A君はついに大声になり、Cを睨みつけながらそう叫んだ。

「まあまあ、おまえが現状を正しく認識してくれればそれでいいんだ。彼女を貶めようとする気はさらさらないさ。もう一度聞くが、おまえ、彼女のこと好きなんだろ? それで、嫌なことが何度あっても我慢できるわけだ。布団から出たくないような寒い朝でも、彼女の笑顔を見るためなら我慢して出社しよう、とそう意気込んでいるわけだ」
 Cはそこで手を叩いて大笑いし始めた。彼はどうやら最初からこの話がしたかったらしい。A君が顔を真っ赤にしてうつむくと、さらに顔面を近付けてきた。もはや、A君を悩みから救ってやろうなどという態度では無くなっていた。
「お、ま、え、彼女が、好き、な、ん、だ、ろ? 早く、こ、た、え、ろ」
Cは死刑囚への判決文を読み上げる裁判官のようにゆっくりとそう尋ねた。A君は恐ろしくなって、何の反応もできずに震えていた。
「おい、俺の目を見ろ。俺の、目、を、見ろお!」
A君はこの剣幕に耐え切れず、ついに首を縦に振った。
「はい……、一応……、彼女に……、好意を持ってます……」

 Cはそれを聞いて我が意を得たりというふうに満面の笑みを浮かべて立ち上がった。そして、吸っていたタバコを灰皿に投げ捨てると、憑きものが落ちたように、仕事に真剣に取り組むサラリーマンの表情に戻り、ドアに向かって軽快に歩き出した。
「やっぱりそうか、おまえも好きなんだな。でも、あの子はおまえには向かないよ。おまえじゃ、男としての魅力に欠けるし、美人の相手としては地味すぎる。そこで彼女の相手としてだが、この俺なんてどうだ? 背は高いし、顔もまあまあいけてるだろ? 貯金もあるし、車も持ってる。俺なら彼女の相手として適当だ。いい関係を築けると思うんだ……。おまえが、それさえ理解してくれればもういい。用はない。じゃあな……」
 A君は背中を向けて去っていくCの姿を恨めしそうに見ていた。やがて彼は立ち上がり、両手の拳を握りしめた。両脚ともぶるぶると震えていた。せっかく脳から消えかけていた、会社を去るという間違った決意が再び頭をもたげてきた。この怒りを何かにぶつけたくて仕方がなかった。そして心の底から強く思った。
「なんて、嫌なやつなんだろう……」