その日はエンリケ氏にとって危機的な一日だった。
 朝いつものように分相応の安い朝食をとっていると、突然テレビが臨時のニュースを伝えた。それによると、ここ5年間の間に少なくとも21人の異星人がこの星に降り立ったというのだ。だが、一人も当局の手に捕まっておらず、異星人たちの目的は知れないという。政府は総力をあげてこれから調査にあたるという。アナウンサーは何度も原稿を読み返し、語気をどんどんと強めて、その驚くべきニュースを読み上げていた。普段から警戒心の薄い国民に緊迫感を植え付けようとしているようだった。まるで画面からその緊張感が伝わってくるようだった。しかし、朝のニュースはそれ以上の情報を与えてはくれなかった。少し目を離した隙にニュースからスポーツに切り替わっていた。エンリケ氏は努めて平静を装い、コーヒーカップを静かに置いた。
「なんてことはない、これから何があろうと、これまで通りの日常を送るだけさ」
しかし、彼はどれだけ心を落ち着かせようとしても、それはままならなかったし、自分でもそのことが理解できていた。これが彼の人生に訪れた最初の危機であった。彼は浮かない顔のまま視線を自分の左手に落とした。一見はどこにでもある人間の手に見えた。しかしよく見るとそこには6本の指があった。彼はそれを確認すると大きくため息をついた。世間に隠してはいるが彼もれっきとした異星人だった。これまでは誰にも疑われたことはなかった。地球人と共に暮らしてきたあまりに平凡な日常に、いつしか自分が異星人であることを忘れてしまっていた。正体がばれる危険など生涯訪れないだろうという錯覚に陥っていた。とにかく、ばれていないことをひたすらに願いながら、これからも普通の生活を続けることだ。
彼は完全な異星人であったが、忙しい日常に追われているうちに、この星に初めて降り立ったときのことなどすでに忘れてしまっているし、この地球という星を訪れることになった当初の目的も、今は薄れてしまっていた。上官からは地球という星の調査のことや、この星の高官との交渉のことなど詳しく聞いてきたような気もするが、地球という星での充実した生活に追われているうちに、自分の重要な使命のことなどほとんど忘れてしまっていた。今は地球人としての日常にすっかり慣れ親しんでしまっていて、自分が異星人だとばれたときの恐怖感の方が余計に大きかった。自分が地球人でないとばれたら周囲の人間たちは手のひらを返したように彼を非難し、差別し、もはやこの星には置いておけないから出て行けと言うかもしれない。これまで親切にしてくれた人々からそんな冷たい言葉を聞きたくはなかった。
すでに時計は7時をまわっていた。ぐずぐずとはしていられない。習慣を大切にする彼には遅刻こそ最も忌み嫌う行為であった。
「とにかく、ばれなければいいんだ。平静にいつも通りの生活を送ることだ」
彼はそう呟いてから黒い革のカバンを手にとった。ドアの外には普段と変わらない日常が待っていた。夏もすでに近い、強い太陽の日差しに爽やかな風が迎えてくれた。
「そうだ、私が見つかるとは限らない。この世界には数えきれぬほどの人間が住んでいるんだ。変人だって、変わった身体的特徴を持った人だって多くいる。簡単に特定出来るわけがない。外見はこの通り、すっかり地球人なのだ。左手を見られない限り、私は安全なのだ」
エンリケ氏は穏やかな日常の中で朝の不幸なニュースを忘れ去ろうとした。そうさ、今日からはなるべくニュースを見ないようにしよう。会話の中でも異星人のことが出たらなるべく避けるようにしよう。口笛を吹きながらいつもの通りを歩いた。
「それにしても、マスコミの奴らは、あるいは政府の奴らかもしれんが、どうやって異星人の不法侵入を知ったのだろう? いくらこの星の技術力が優れていても、異星人を区別する方法は確立されていないはずだ。もしかすると、密告者がいたのかもしれない。やはり金銭に目がない火星の奴らか、それとも、性格がイかれている冥王星人かもしれない。自分の安全と引き換えに他の侵入者の情報をばらしたのかもしれない。とにかく、奴らは他の異星人を売ったのだ。腹立たしいことだ」
ところが、こんな日に限って自宅から100メートルも離れないうちに知人に見つかってしまう。
「やあ、エンリケさん、今日はいつもより出るのが遅いじゃありませんか。何かお困り事がありましたか?」
近くに住んでいる旧知の住民はいつもの笑顔で近づいてくると心を見透かすように尋ねてきた。エンリケ氏はギクりとした。
「いえ、特に何もありません。庭からね、あの例のどら猫が入ってきてしまって……、居間の花瓶を一つ割ってしまったんです」
隣の住民は彼の表情の変化を読みとろうとするかのように顔を覗き込んできた。
「そうでしたか、それは災難でしたな。しかし、不幸の後には幸運が舞い込むといいますからな、あなた、これは迷信ではないですよ。私もね、二年前の今頃、急に母親が亡くなって、誰も頼れる人はいない、これからどうしようと落ち込んでいたら、翌年にはまさかあんなに多くの遺産を手にするなんてね、まあ、これは蛇足でしたな。とにかく、朝のニュースには驚かれたでしょう?」
「驚くというと、何のことですか?」
エンリケ氏は感づいていたが、何も知らないことを装おうとした。
「何って、もちろん、異星人のことですよ。テレビをご覧にならなかったのですか? あなた、あれは近年では最大のニュースですぞ」
「ああ、異星人が侵入してきているということでしたか…、確かに興味はありますね…。しかし、私は文系の人間でして…。天文学には疎いのです。申し訳ない」
エンリケ氏は、もはやしどろもどろになってそう答えた。やはり、情報に飢えている一般市民どもは、あのニュースに夢中になっていた。これは彼にとって非常にまずいことだった。上手く切り抜けなければ、そのうちに住民同士の探り合いが始まるかもしれない。放っておけば、周りがすべて敵になりかねなかった。
「ええ、そのニュースです。しかしこれは由々しき事態ですぞ。まあ、私もですね、これほど惑星間の探索が盛んな現代ですから、一人二人はこの星にも入って来ているのではと勘ぐっていたのですが、まさか、20人も侵入しているとはね、これは驚きでした。地球の防衛軍は何をやっていたんでしょう」
「まったくその通りです。はは、うまく入り込まれてしまったものです。しかし、偵察なんでしょうね? その入り込んだ異星人とやらは。それでは今頃、どこで何をしているのでしょう? 煙草を吸っているのか、娼婦を抱いているのか、案外、我々の身近に潜伏しているかもしれませんね」
エンリケ氏は話を合わせるために、無理にそんな話題を持ち込んだ。本当は異星人関連の話をするだけで手は震えだし、背中に冷たいものが走るのであった。しかし、彼のそんな気持ちを逆なでするように、隣人はこの話題を続けた。
「それこそ、笑いごとではありませんよ。あなたの仰るとおり、我々は彼らの侵入を許してしまいました。彼らは誰にも知られることなく、ことによると、もう数年に渡ってこの国に潜伏しているのもしれない。会社員に化けているのかもしれないし歯医者を装っているのかもしれない。あなた、ひょっとすると、すでに我々の近所まで忍び寄っているのかもしれませんぞ」
エンリケ氏は隣人のその言葉に心臓が浮くような気がした。もはや、上手い逃げの言葉が思い浮かばなかった。
「はは、軽い冗談ですよ。いくら異星人の変装が巧くても、この付近の住民ではありえない。みんな戸籍がしっかりしていますし、隣人同士の交流も盛んです。ここまで長いことばれずにいられるわけはありませんからな。では、私は急いでいますのでこれで…」
隣人はそれだけ言うと走り去っていった。エンリケ氏は胸を撫で下ろした。
 エンリケ氏はそこから足を早めて駅へと急いだ。心は落ち着かなかった。道の途中で出会ったすべての人が今朝のニュースを知っていて、異星人が身近に迫っていることを気にかけているような気さえした。彼らはそのうち隣の家に住む住民の素性すら疑いだすかもしれない。しかし、実際のところは多くの民衆は自分の生活のことで手いっぱいで、異星人探しのできる余裕のある人間はほとんどいなかった。通勤時間帯の駅はいつも通り会社員でいっぱいだった。エンリケ氏は誰も自分に注目していないことを確かめると安心して電車に乗り込んだ。
 ガタンゴトンと列車は動き出した。誰も周囲に気を使っていないように見えた。そうだ、朝の数分足らずのニュースなど、誰も気に留めていないだろう。他に注目すべき事件事故だってあるはずだ。本当にいるか知れない異星人のニュースなど他国の戦争のようなものである。きっと人々はまだ日々の生活に追われている。彼は人々の弛緩した様子からそう考えたが事実はそれほど甘くはなかった。それからすぐに車内アナウンスが流された。
「お客様、今日も電車をご利用頂きましてまことにありがとうございます。さて、皆様も朝のニュースでご覧になられました通り、この地球にも異星人が侵入していたことが明らかになりました。異星人どもは地球人の姿になり変わり、すでにこの電車にも乗り込んでいるかもしれません。乗客の皆様に危害を加えようとしているかもしれません。そこで、ご乗車の皆様にはお手数ですが、一度ご自分の周囲の人の風貌や行動を注意深く観察されまして、万が一、不審な人物を見かけましたときは駅構内におります係員にお伝え下さい。そのときには係員が直ちに地域の異星人取り締まり係に連絡致しまして、悪さをしようと、のこのこと、この地球に入り込んできた異星人をとっ捕まえる所存でございます。皆様、こうなってしまった以上、片時も油断してはなりませんぞ!」
最後に力強くそう叫んでアナウンスは終わった。エンリケ氏は思わず下を向いてしまった。乗客の中の数名が辺りを見回していた。
「宇宙人って言われたってわからないよねえ? 外見は普通なんでしょ。たしか…、火星人はうちらに比べてキツイ目つきをしているって聞いたけど…、それだって証拠にはならないよねえ?」
数名の女学生が困惑顔でそんなことを話していた。エンリケ氏は心の中で頷いた。そうだ、火星人の奴らだけ捕まってしまえばいいんだ。彼らは短気で粗暴でタチが悪い。道端で灰皿も置かずに平気で煙草を吸っていたりする。女の子の尻を触ることを何とも思わない。暴力的なシーンが繰り返し出て来る漫画を好んで読んでいたりもする。そういうガラの悪い異星人だけを捕まえて本国に送り返せばいいのだ。地球の住民が協力して幾人かの火星人を捕獲し、最新鋭のスペースシャトルにでも縛り付け、さあ飛んでいけ、もう戻ってくるなよとばかりに派手にうち飛ばしてしまえば、単純な地球人のことだ、それで満足してくれるかもしれない。さあ、あれほどの邪悪を放り出してしまったのだから、もう後は善人しか残っていないだろうと、勝手に錯覚をして異星人のことなど忘れてしまえばいいのだ。翌日からはまた無邪気な思考の彼らに戻って、ほうれん草が値上がりしただの、近海もののマグロの値段が高騰しただの、そんなことに神経を使う日々にまた戻ればいい。エンリケ氏がそんな想像を巡らせていると、すぐ隣にいた若禿げのサラリーマンが話しかけてきた。
「もしもし、あなた、さっきからどうも落ち着かないようですが、まさか、今のアナウンスに動揺しているのではないでしょうな」
「と、とんでもない。少し驚いただけです」
「それならいいですが、そんなに神経を尖らせない方がいいですよ。確かに、まあ、21人もの異星人に入られてしまった、これは重大なことですが、彼らとて良識はありますからな。すぐに悪いことをしでかすわけではない。そう、その通り、順序があります。まさか、その数人の異星人が本国の惑星と日頃から連絡をとりあっていて、明日、突然に巨大宇宙戦艦が攻めてくると、そういうことはまずあり得ません。悪気があるにしても、しばらくは様子見でしょう。それに、もしかすると、向こうもこの地球と仲良くやっていきたいと、そう思っているのかもしれませんからな」
「あなたの仰る通りだと思います。彼らもきっと自分の星のことで手いっぱいなんですよ」
エンリケ氏はそう返事をしたが、そのサラリーマンはすでに手元の新聞記事に夢中になっていて、彼からは目をそらしていた。これを幸いとばかりに一つ前の駅だったが、彼は電車から降りた。あのまま乗っていたら周囲の乗客に気づかれていたかもしれない。これはいい判断だった。彼は国道を道なりにぶらぶらと歩き、行き慣れた道を会社へと向かった。これ以上事態が悪くならないことを祈っていた。ところが、その途中で、手押しボタンのある横断歩道の手前で白いワイシャツを着た、少し目つきの悪い若いサラリーマンに話しかけられた。
「もしもし、ずいぶん体調が悪そうに見えますが、大丈夫ですか?」
「ええ、少しこの暑さにまいっているだけです」
その男は周囲を見回して、他に通行人がいないことを確かめると、注意深く話し始めた。
「実はね、私は異星人なんですよ」
「何ですって?」
エンリケ氏はわざと驚いたふりをして、大げさに応じた。
「そう、信じられないのも無理はありません。しかし、あなたも朝のニュースをご覧になったでしょうから、ご存知だと思いますが、この地球にはすでに数十人から数百人の異星人が侵入しているのです。そして彼らは何食わぬ顔をして人々の間に紛れ込み、地球人と同じ生活を続けているのです」
「そして、あなたもその一人だと言うのですか? 申し訳ないですが、ちょっと信じられませんね」
「私は冥王星人なんですが、五年ほど前に本国の方で移民法が制定されまして、すっかり人口の多くなった本国にいるよりも他の星に移住するほうが税金の上で優位になったのです。それを機会に私を含めて数百人の冥王星人が他の星へと移住したのです」
「それで、これからどうするおつもりなんです? 正直に役所に出頭されるのか、それとも、このまま何食わぬ顔で地球に居座るのか」
エンリケ氏は自分のことを棚に上げてそんな質問をした。ここでこの男に会えたのは良かった。自分はまだ態度を決め兼ねているが、朝のニュースを見て、他の異星人たちはどうするのか、自分の決断はそれを見てからでも遅くはないと思った。
「あなたはどうした方がいいと思いますか?」
異星人の男性は突然そう尋ねてきた。
「何を仰るんですか、私には異星人の気持ちはわかりませんよ」
そう答えると、男はふうーんと一度鼻を鳴らした。
「私には直感があるんですよ。いや、もっと言えば、私は地球人と異星人の見分けがつくんです」
男の鋭い目線がエンリケ氏を捉えた。彼はとっさに目を逸らした。男は無気味に笑ってからエンリケ氏の肩をぽんぽんと叩いた。
「まさか、こんなところで仲間に会えるとはね」
「やめてください! 私はれっきとした地球人です」
エンリケ氏は怒鳴りつけるように言い返した。
「しらばっくれるおつもりですか? しかし、私が万が一捕まったときに、実は他にも仲間がいると訴え出たらどうするつもりです?」
「何ですって?」
「私があなたも異星人だと訴え出れば、役所はあなたの身辺を徹底的に洗うでしょうね。あなたはそれでも自分は無実だと、完全な地球人だと証明出来るんですか? あなたの家に子供の頃の写真でもあるんですか? それとも、ご両親を紹介するんですか?」
「私を脅そうというんですか?」
エンリケ氏はすでに真っ青になっていて、拳を握りしめながら、なんとかそれだけ言い返すことができた。
「いえいえ、そんなつもりはありませんがね。しかし、どうです? ここはじっくりと考えてみては。今の快適な生活をたった一本の密告で失ってもいいんですか? それとも、この私ともう少し仲良くなって、今の平穏な日常をお続けになりますか?」
「私にどうしろと言うんですか?」
エンリケ氏は声を震わせてそう尋ねた。男はふところから煙草を一本取り出して、ゆっくりとした動作でそれに火をつけた。
「いやね、私はただの移住者ではありませんで、実は本国から偵察の任務を受けているんですよ。ここの言葉でいえばスパイというやつです。冥王星の首脳たちはこれからの太陽系内での地位の向上のために、何としても高度な文明を持った地球の情報が欲しいわけです。特に、この地球にはあって冥王星には無い物が欲しいわけです。ハンバーグなんてのは、あなた、どこにでもありますからな、はは。これは冗談。そこで私のようなスパイは自分の出世のためになるべく貴重なもの、本国では絶対に手に入らないものが欲しいわけです。それを奪えなければ潜入した意味がないですからな。そこで、私が目をつけたのが、あのダイヤモンドというやつです。あの硬くて美しい宝石。テレビで何度も報道されている。これを持っていればステータスになるとね。あれを持ち帰ってほらこれだと見せてやれば、首脳たちも驚くでしょう。私の出世は間違いなしですよ」
「ははは、し、しかし、ダイヤは高いですからな…」
エンリケ氏はごまかすようにそう言ってやった。
「そう、私の給料ではとても手に入らない。地球に来る前はまさかそんなに貴重な鉱石だとは思ってもみませんでしたよ。まあ、それも人為的なものかもしれませんけどね。何でも地球のお偉いさんはダイヤモンドの価格を維持するために、取れすぎたダイヤは海に捨てているとか…、まあ、それは蛇足でした。とにかく、私はダイヤが欲しい。要はあなたがそれを融通してくれればいい」
「私が? 冗談じゃない! 私の安い給料ではとても無理ですよ」
「いや、そんなことでは困る。あなたには絶対に手に入れてもらいます。二人の異星人が互いに相手の秘密を握ったからにはね…。私だってあまり強引な取引はしたくないが、なにせもう時間がないんです。わかるでしょう? 地球人たちの捜索はすでに始まっている。このままではいつ警察の手が迫ってくるかわからない。しかも、我々は互いに相手が異星人だと知っている。今日中にもどちらかが相手を裏切って役所に訴え出ないとも限らない。とにかく、私には時間が無いんです。ダイヤを手に入れたらすぐに冥王星へ帰還するつもりです」
「そんなことを言われても、私にはどうすることもできませんよ」
「あなたには3日だけ猶予を与えます。その間に私を満足させるダイヤを準備してください。それができれば、あなたに何の迷惑もかけずにこの星から去ることをお約束しますよ。いいですか、3日ですよ」
男はそれを言い終わると素早い動きで横断歩道を渡って行ってしまった。エンリケ氏は力なくそれを見送った。
「これは困ったことになったぞ…」
エンリケ氏は歩道の真ん中で立ち止まったまま、うつむき、肩を震わせた。まさか、ずる賢い地球人ではなく、同じ悩みを共有しているはずの冥王星人から脅迫を受けるとは思ってもみなかったのだ。このままでは勤務先に向かうことすら危なくなってきた。都会にいれば、他にも何らかの秘密を握っていて、彼を陥れようとする人間が現れるかもしれない。しかし、考えてみれば、この星で自分の価値を一番認めてくれたのが会社の同僚たちであった。彼らならエンリケ氏が異星人などとは疑ってもいないだろう。これまでの勤務の中での彼のふるまいは地球人よりも地球人らしいものだった。面白いニュースに人間らしく笑い、突如襲った不幸なニュースを我がことのように悲しんだ。遅刻も欠勤もなく面倒臭い仕事にも手を抜いたことはなかった。他の社員をなるべく上機嫌にして家路につかせることが彼の喜びでもあった。異星人だからという引け目もあったが、常に行動は遠慮がちで地球人の同僚たちに不快な思いをさせたことはなかった。もちろん、地球人ではあり得ないような怪しい行動を他人に見られたことは一度たりともなかった。完全に社会の歯車として回っていた。
「とにかく、会社まで行ってみよう。その上で善後策を考えよう」
彼はやっとの思いでそういう結論を導き出すと、よたよたとした足どりで会社へと向かった。受け付けで社員証を見せて一階の整理部へと入った。彼の仕事はこのフロアでの書類整理である。
ここは小さな新聞社だった。記者が書いたばかりの原稿を、パソコンに登録して他の階で紙面を組んでいる同僚のところにシューターを使って送るのが彼の第一の仕事だった。他にも各階から送られてくる書類の仕分けや試し刷りを記者の手元へ運んだり、責任校了が近くなると、必然的に床に散らかってくる試し書きのチラシや、出力しまくった試し刷りを手際良く片付けるのも彼が自然に担当するようになった仕事である。この日も席についてカバンを降ろすなり、正面の席に座っていた記者から声がかかった。
「おう、来たとこですまんけど、この差し替え頼むわ」
「はい、すいません」
彼は原稿を受け取ると、原稿の右上隅に書かれているID番号を素早くパソコンにインプットした。それが終わると原稿をくるくるっと丸めてプラスチックの筒の中に入れてシューターの中に放り込んだ。数秒もするとバンという小気味いい音がして筒は三階へと飛ばされていった。ちょうどそれと同時に入り口の方から駈けてくる足音が聞こえて、何者かが彼の机の上にどさっと荷物を置いた。それがトキナー嬢であることは誰もが知っていた。彼女はまだ学生の身分だが、新聞社に興味を持っていて将来はここで働くことを決めているらしかった。アルバイトの身分で、まだ、採用試験に通ったわけではないが、誰にでも愛想がよく話上手聞き上手なので、すでにこのフロアの人気者だった。
「ごめんなさい、電車が遅れちゃって」
「なに、ちっとも構わないさ」
彼女と会えた喜びを間違っても表には出さないように、彼は素っ気なくそう答えた。このフロアの大多数の人が彼女に好意を持っていたとしても、エンリケ氏だけは平静を保つ必要があった。もちろん、それは彼が異星人であったからで、もし、まかり間違って恋愛などに陥ってしまえば、自分の正体がばれる確率は格段に高くなると言えた。しかし、何か問題が起こるたびに、彼が彼女に対して一歩引いた冷たい態度をとればとるほど、このトキナー嬢は逆に彼に興味を持ってしまい、彼の近くにすり寄ってくるのであった。自分の都合の悪いときほど上手くいくというのは恋愛の常かもしれない。
「ねえ、朝のニュース見た?」
この日も彼女の方から馴れ馴れしく話しかけてきた。
「見たけど、それがどうかした?」
「どうかするわよ。前々から疑わしいとは言われてきたけど、ついに公式発表で異星人がこの星に住み着いていることが判明したのよ。私の学校でもみんな大騒ぎだったわ」
「ああ、そうらしいね…。でも、たかが20人だろ? 僕たちの暮らしに影響が出るとはとても思えないな。例えば、広い海のどこかには大王イカなんていう生物が住んでいるらしいけど、誰もそれを見たことがないわけだからね。どんなに粘着質なマスコミにだって見つけられないものはある。この地球は広いし、何十億の人間がいる。何千人も住めるような広い街が無数にあって、その中には聖人も変人もいろいろだ。たった十数人の異星人をがんばって捜索しても結局骨折り損で終わるんじゃないかな」
エンリケ氏は楽観的な希望を含めてそう返事をした。
「それはそうね、でも、私がずっと思っていた通りだったわ。小さい頃からね、絶対、この星には異星人が住んでいると思っていたわ。だいたいね、もう100年も前からUFOの目撃談はあったのよ。アメリカ軍の戦闘機が高速で移動する未確認物体を見たとか、あるいは、何人かの行方不明者がそれにさらわれたっていう噂だってあったわ。そういう話を人から聞くたびに、私は身近に異星人がいると思ってきたの。あなたはマスコミを買っておいでだけど、私は政府だって怪しいと睨んでいるわ。きっとそうだわ、私たちの知らないうちに、もうとうの昔から異星人との談合は始まっていたのよ。歴代の大統領が交渉役になって異星人との対話は細々と続いて来たんだわ。彼らは地球の侵略が目的で、俺たちには巨大な戦力があるんだ、さあ降伏しろと最終通告を地球の首脳に突きつけたけど、政府の役人たちは裏取引によって、のらりくらりとその要求を避け続けてきたの。きっとそうだわ、だから、時々テレビで報道されるでしょ、どっかの国の絶世の美女が忽然と行方不明になったって。ああいう事件で消えた人っていうのはきっと政府に秘密のうちに拉致されていて、異星人への貢ぎ物として檻の中に押し込められて、スペースシャトルで打ち上げられているんだわ。すでに今頃はどこかの星の…、まあ、火星でしょうね。あそこは野蛮な印象があるもの。火星の断崖に囲まれた岩屋の牢に囚われていて、夜な夜な火星人たちの慰みものに…。ああ、なんて恐ろしい!」
トキナー嬢は恐怖をエンリケ氏にも共有させたいようで、いかにも子供っぽい大げさな身振りを交えながらそう言った。
「それは少し考えすぎだな。まったく国民に知られずに数十年もそんなことをやり通すのはさすがに無理だよ。首相にはお付きの記者だっているんだぜ。彼らの目をごまかしながら、他の惑星と頻繁に連絡を取り合うなんて非現実的だな」
「私はこれっぽっちも政府の報道を信じてないわ。きっともう、異星人との癒着はずいぶん前から始まっていたはずよ。政府は異星人たちがこの星に入ることを、ずいぶん前に認めてしまったのよ。最初は対等な対話だったけど、話し合いを重ねるうちに、相手の星の方が地球よりも圧倒的に進んでいることが判明してしまったんだわ。それで、地球の首脳たちは余計に遠慮した弱腰の対応をするようになってしまったってわけ。低い姿勢で長いこと対話を続けてしまった…、そのツケで彼らはいつの間にか地球を植民地だと思うようになってしまった…。何人ものスパイをすでにこの星に送り込んで日夜調べまわっているのよ。地球人を晩飯のおかずにすることを何とも思わない連中が、すでにこの地域にも暮らしているんだわ。すぐその辺を残虐な異星人たちが当たり前のように歩いているのに、私たちが気づいていないだけなんだわ」
「しかし、例の報道が本当なら、出会える確率は単純に言っても何億分の一の確率だ。万が一、そいつが君の横を素通りしたところで、どうする? どうやって、異星人と地球人を見分ける気だい? ここに平気で暮らしている以上、奴らだってすでに地球の言葉を修得しているだろうし、地球のお金や衣服だって手に入れている。不正な手段を使って戸籍すら手に入れているかもしれないんだよ」
エンリケ氏は長々と話しているうちに、いつの間にか自分のことを説明しているようで不思議な気分になった。
「そうね…、私だったら、ここ数年以内に突然社会に現れた人を怪しむわね。いくら異星人でも映画みたいに身体を乗っ取ることはできないでしょ? つまり外見は元の惑星のものを使っているわけでしょ? だったら、身近にいる人達なら薄々は気づいているはずだわ。あれ、こんな人、昔はいなかったわ、いつの間にいたんだろうって。あるいはこの星にどうしても馴染めなくて、長年に渡って不審な行動を続けているかもしれない。怪しいと思われる人間を一人ずつあげていって、少しずつ捜査の範囲を狭めていけば、いずれ見つかるはずよ」
「おいおい、勘弁してくれよ。僕だって天涯孤独の身なんだ。真っ先に疑われてしまうよ」
エンリケ氏は疑惑から自分を除外させるために、あえて冗談めかしてそんなことを言った。トキナー嬢は軽く笑って首を振った。
「あなたは絶対違うわ。考え方が地球人っぽいもの。あなたは何でも常識から入るけど、異星人なら何か問題が起きたときに、もっと世の中の常識や道徳からかけ離れた考え方をするはずよ」
「おい、仲がいいのはわかったけど、そろそろ仕事をしてくれよ。原稿が溜まってしまうぞ」
離れた席にいた別の社員から声をかけられて二人の会話は中断した。エンリケ氏が4枚ほどの原稿を片付けた頃、ちょうど打ち合わせの時間になり、整理部の面々は二階の会議室に向かった。社員ではないトキナー嬢はその場に残ってテレビのバラエティ番組に夢中になっていた。
 二階のフロアには5つの会議室がある。整理部は30人もの部員がいるのだが、朝の打ち合わせはいつも一番狭いA会議室で行われる。最も広いC会議室は、役員が緊急のミューティングで使用することが多いからだ。エンリケ氏が部屋に入るとすでに中はぎゅうぎゅうで十数個ある椅子はすべて先に来た部員で埋まっていた。座りきれない部員はいつも立ったまま壁際に寄りかかって部長の話を聞くのである。エンリケ氏はメモ帳を構えて部長の話を待った。だが、心は上の空だった。まだ部員が全員揃っていないので、部長のハムロン氏は目を閉じたまま、中央の席で身動き一つせず、何か深い考えごとに陥っている様子だった。これは彼が重大な発言をするときの前触れだった。ハムロン氏は50代の小柄な体躯で黒ぶちのメガネをかけ頭はカツラかどうかはわからないが、年齢から考えて不自然なほど黒々としていた。他人とはあまり目を合わさず、自信がなさそうに小さな声でボソボソと話すので威厳はまったく感じなかった。しかし、数年前アルバイトとして働いていたエンリケ氏をこのハムロン氏が社員に登用してくれたのである。この部長は普段はぶっきらぼうで決して優しい人間ではない。なぜ突然に登用してくれたのか、当時の彼にはわからなかった。努力家だからというのがその理由だった。
やがて、全員が室内に入ると、ドアが閉められ、ハムロン氏の演説が始まった。
「よし、じゃあ、始めようか」
彼はややはっきりとした声でそう言ってから、みんなの顔をゆっくりと見回した。これも大事な話があるときの癖である。新聞社では重大な事件が動いているときの会議は往々にして空気が重くなりがちであった。
「みんなも知っている通りだが、今朝、政府から緊急の発表があった。事情はまったくわからんが、この地球にはすでに21人もの異星人が侵入しているということだ。ニュースでも散々報道されていた通り、ここ数年、UFOの目撃談が非常に多かった。中には、実際に異星人が地上に降り立つところを見たとか、地球人の男女が両手を縛られ、宇宙船内に連れ込まれるところを見たとか、極端な例になると、自分は異星人と直に話したというタレコミまであった。しかし、政府は我々マスコミの厳しい追及にも関わらず、今日まで異星人の存在を明かしてこなかった。それが、今日になって突然、その存在を認める発表があったわけだ。現在、発表できる情報は異星人が実際に地球上にいるという情報だけだが、今後の政府の発表でどこの惑星の異星人が何人潜入しているのか、これまでも地球政府と他の惑星との接触はあったのかなど明かされると思う。そのときのために各自、いつでも特別態勢が取れるよう準備しておいてくれ。特にここ数日間は、この国でかつてなかったほど、重要な情報が飛び交うことになると思う」
部長はそこで一旦話を区切った。
「21人が潜入しているっていうのは何が根拠なんですか?」
壁際にいた部員からさっそく質問が飛んできた。
「それは政府が明かさないから、まったくわからん。政府が独自に調査をしていて、地球で活動する異星人のうち、21人の尻尾をつかんだということかもしれないし、元々政府と他の惑星の首脳との間に密約があって、その数の異星人を我が国で受け入れることを承認していたということかもしれない。とにかく、今は何もわからんのだ」
部長はそう言って下を向いてしまった。もちろん、この一件で一番苛立っているのは、このハムロン部長を始めとするマスコミの幹部たちだった。
「次の動きを待って記事を書くことになりますか?」
「そうだな、憶測で何を書いたところで、近いうちに報道規制が出るかもしれんし、今日中にまだ大きな動きがあるかもしれないからな」
エンリケ氏などはこの話を聞いている間、身が凍りつくような思いだった。みんなが躍起になって探そうとしているのはこの自分であり、土星では遥かに軽かった自分という存在が、今やこれだけ世間を騒がせているのである。思い切って、実は異星人はこの自分ですと、もう地球に5年近くも住んでますと、大声で言ってやりたくなったが、みんなに余計な迷惑をかけることになると思うとそれは出来なかった。この国中のマスコミが必死になって追っている異星人が実はその内部の新聞社にいました、などということになったら、うちの会社が持つ信用は失墜するだろう。幹部は責任をとらされ、従業員たちは他の民間人に笑われながら仕事をしなければならなくなる。正体を隠していたことについて自分にはまったく悪気はなかったが、他のマスコミの目から見れば数年にも渡って異星人を働かせていて、しかも、同僚の誰もがその正体を見破れなかったとなれば、十分な笑いの種になってしまう。
「しばらくはみんなに遅番をやってもらうからな。仮眠室をフル活用してくれ。他に何か質問はあるかな?」
部長がそう言ったとき、凄い勢いでドアが開かれ、トキナー嬢が駆け込んできた。彼女の切迫した表情を見ただけで、全員がこの一件で新たな動きがあったのだろうと推測した。
「たい、大変です! 先ほど、この近辺で異星人が逮捕されたそうです!」
それを最後まで聞くことはなく、全員が床を蹴って走り出し、テレビの置いてあるフロアに向かって飛び出した。
「何てこった! こんなに早く来るとはな!」
「早く! メモできるものを貸して!」
「これから紙面の大幅な移動あるよ!」
テレビで確認をするまでもなく、誰かがそう叫んだ。テレビの中は現場からの中継だった。隣町の魚市場の前が映されていた。つい30分ほど前、現場をパトロールしていた警官が目つきの悪い不審な男に職務質問したところ、異星人であることを自供したのだという。男はその後わけのわからないことを叫びだしたため現行犯逮捕された。現場からの中継をしているアナウンサーはその時の様子を早口でまくし立てていた。続いて画面は警察署の前に切り替わった。逮捕された異星人が署の中に連行されるところだった。エンリケ氏はその画を見て目を丸くして驚いた。数人の刑事たちに両肩を抑えられて連行されていたのは他でもない、先ほど、エンリケ氏を脅迫していった異星人だった。彼は顔を隠そうともせず、ふてぶてしく笑いながら、時折刑事たちの手を振りほどこうと、激しく抵抗し、もがいていた。
「いいか、地球人ども! 俺以外にも異星人はいっぱいいるぞ!」
彼はカメラの前を過ぎるときそう叫んだ。エンリケ氏はそれを聴いて震えあがり、画面から視線を逸らした。
「凶暴そうな奴だなあ。前科はあるのか?」
「とりあえず、一面は今のところこれでいきますよ!」
「政治面に大物議員の談話を入れるから一段空けよう!」
フロアを色んな叫び声が飛びかっていた。後ろから誰かが彼のシャツを引っ張った。
「とんでもないことになったわね」
振り向くとトキナー嬢が青ざめた顔をして立っていた。彼は彼女の身体を椅子に座らせた。
「なんてことはない。大丈夫さ。歴史上、こういう危機的な時期は何度かあったけど、人類は知恵を発揮して状況を打開してきたんだ。この騒ぎだってあと一月もすればきっと収まるさ」
「でも、この様子じゃ、政府の発表はまるっきり嘘かもしれないわよ。実際は何人の異星人が紛れ込んだのか、誰も知らないのかもしれない。本当はもう私たちは凶悪な異星人の集団に包囲されているのかも…、ああ、恐ろしい!」
彼女は両手で顔を覆ってしまい、身に迫る恐怖を表現した。
「心配しなくても大丈夫さ。異星人だって地球の侵略が目的だと決まったわけじゃない。それは想像の中の世界さ。観光や会談のために来ているのかもしれない。とにかく、政府がこれまで情報を公にしなかったのには、それなりの意味があると思うんだ」
「いたずらに国民を混乱させたくなかったってこと?」
「そうさ、もし、本当に危機的な状況なら、とっくに防衛軍が組織されているはずさ」
トキナー嬢をそんなふうに励ましながらも、エンリケ氏は今の事態に相当緊張していた。このまま緊迫した事態が続けば、いずれこの会社も詳しい内部調査が行われることになり、自分の正体を明かさねばならないことになるかもしれない。何より、自分はこの世界にすっかり順応しているが、異星人が侵入していることに対して、地球人がこれほど危機感を持っているとは思ってもみなかった。彼は考えた。このまま自分が異星人であることを隠していて、後でもっと切迫した局面になってから、警察の捜査などによって正体がばれてしまったとすると、職場のみんなに与える衝撃は計り知れないほど大きなものになるだろう。何より、これまで自分を評価して使ってくれた部長や他の管理職の方に申し訳がなかった。それならば、今のうちに素直に正体を明かしてしまった方が、皆に与えるダメージは少なくて済むのかもしれない。彼は次第にそう考えるようになっていた。彼はうつむいているトキナー嬢の肩をぽんと叩いた。
「少し話があるんだ」
「どうしたの? 今じゃなきゃダメな話なの?」
「ああ、大事なことなんだ」
彼はそう伝えて彼女を連れ出した。
その頃、整理部の一面担当の記者はA3の割り付け用紙に大きな文字で【異星人大量侵入、一人逮捕】と書き込んでいた。ハムロン部長や他の管理職はその様子を真剣な面持ちで眺めていた。今まさに、後世に長く伝えられるであろう、極めて重要な、そして歴史的な紙面が作製されているのだ。周囲の緊張感も凄いものだった。記事が一つ流れるたびに、整理記者はその扱いについて幹部のアドバイスを求めていた。明日には大衆が雪崩を打ってこの新聞を買い求めに来るのが今から目に見えるようだった。
そんな状況の中でエンリケ氏は部長の横に立った。
「どうした? さらに何か起きたのか?」
部長は心配そうな表情でそう尋ねてきた。
「少し、お時間をもらってもよろしいでしょうか?」
「今がどんな時かわかっているのか」
部長は思いの外厳しい表情だった。
「どうしても、聞いて頂きたいことがあるんです。この異星人の一件に関することです」
部長は彼の真剣な表情に押され、渋々後をついてきた。三人はそのまま会議室に移動した。
「それで…、なんだ、話というのは」
席に着くなり、部長は厳しい口調でそう尋ねてきた。これから自分の指令の元で教科書に残るような、劇的な誌面が作られていくというのに、それを途中で中断させられたので、苛立ちを感じているようだった。エンリケ氏は一度頷き、トキナー嬢の方をちらっと見てから話を始めた。
「これから申し上げることは、とても重大なことでして…、ことによると、これからの我が社の方針を180度転換しなければならなくなるかもしれません。皆さんが笑っていられるのは、私がこの話をする前までかもしれないのです。事は重大ですので、このことを世間に向かって発表するか否かは部長にお任せします」
「わかった、とにかく話してみろ。それからのことは話の内容次第だ」
部長は焦りの色を隠そうとせず、早口でそう言った。
「ええ、わかりました。取りあえず事情をお話ししますね。最初に言っておかねばならないことは、とにかく、私にはいっさい悪気はなかったということなのです。かつての惑星の盟主からどんな指令を受けていたとしても、この星に降り立ったその時には、私は誰を騙すつもりも無かったのです。私はあるいは地球人よりも純情無垢な異星人だったのです」
「なんだと!」
部長が叫んだ。トキナー嬢は両手で口を抑えて声も出ない様子だった。
「ええ、そうなんです。私は5年ほど前に地球に降り立った異星人なんです」
「なんてこった…」
部長はすでに頭を抱えてしまった。しかし、心のどこかでは彼がそんなことを言い出すのではないかと感じていたようだった。トキナー嬢は静かな視線をエンリケ氏に向けた。
「私は薄々気づいていたわ…、あなたが異星人だということも、いつか、こうやって打ち明けてくれるということも…。それとわかっていてあなたと付き合っていたの。あなたと打ち解けて話していれば、楽しい空気の中で時間を過ごしていれば、ふと心の片隅に沸いて来る、あなたが異星人かもしれないという疑惑はどこかへ吹き飛んでしまう気がしたの。ああ、実際は出会いしなに、あなたが地球の人ではないという疑念を抱いたのかもしれない…。でも、そんなことを冗談にも口には出せなかった…。あなたとの関係が、あるいはあなたと社会とをかろうじて繋いでいる糸が、そんな無邪気な一言で壊れて、断ち切れてしまうような気がしていたの…」
「ええ、私は弱腰でした、それ以上に臆病でした。もっと早く皆さんにお伝えしておけばよかったのに…」
エンリケ氏は申し訳ないように、何度も何度も頭を下げた。
「謝るのは私の方よ!」
トキナー嬢も感極まってそう叫んだ。部長は苦々しく二人の様子を見守っていた。このことによって一番被害を受けるのは自分なんだと、そう言いたいようだった。
「それで…、まさか、飛んできたわけじゃあるまい。宇宙船に乗ってここまで来たのか?」
「そうです。いわゆる偵察用の、外見は隕石を模倣した造りになっています」
「その宇宙船はまだ使えるのか?」
「いえ、この間、確認にいきましたら、長い年月の経過ですでに使えなくなっていました…」
「そうか…、すでに戻ることも出来ないわけだな…」
ハムロン部長はすっかり悲嘆にくれてしまった。
「先ほども申し上げました通り、私は誰も騙すつもりはありませんでした。実は私は土星人なのですが、地球人の実態調査のためにこの星に送り込まれたのです…。土星の閣僚は決して地球人に悪意を持ってはいません。今回のことは、いわば観光のようなものだったのです。地球が今どんな様子か、休暇を利用して見てこいと、そんな感じに指令を受けたのです。しかし、私は地球で救われて、長い時間をここで過ごしているうちに、自分が土星人であることすら忘れて日常に埋没してしまったのです」
「しかし、それが本当なら、ここでクヨクヨしていても仕方あるまい。自分の方から区役所か警察に訴えでた方がいいだろう。向こうの捜査で追い詰められて、見つかって捕まるよりもこちらから自首した方が罪としては軽くなるかもしれんな」
「私は反対よ」
そこでトキナー嬢が口を挟んできた。
「それが事実だとしても訴えでるのはよくないわ。警察やマスコミはすでに躍起になっていて、異星人を害のある生物として、とことん追い詰めて晒し者にしながら捕まえる気なのよ。これまで地球人として普通に暮らしていたから同情してくれ、なんて言っても通用しないわよ。土星に送り返されるならまだいい方で、最悪の場合、一生研究施設で暮らす羽目になるかもしれないのよ」
「いや、黙っているのはさらに良くない。こちらから頭を下げて相談すれば区役所の方で何らかの対応を考えてくれるかもしれん」
部長のこの一言で結論は出た。エンリケ氏は役所に訴えでることにした。この時点ではそれが最善だと思われた。彼が黙って地球人の中に隠れていても、これまで捕まった異星人たちが彼の存在を明かしてしまうかもしれないからだ。
「トキナー君、君が役所まで送っていってくれ」
部長からそう命令を受けて、トキナー嬢がついてくることになった。
「役所が結論を出すまで、記事にはしないでおくから」
「ハムロン部長、いろいろとありがとうございました。おかげで助かりました」
エンリケ氏は最後にそう挨拶をしてから逃げるように会社を出た。新聞社の前には夜勤を終えた社員目当てのタクシーが必ず待機しているものである。この日も4台のタクシーが抜かりなく待っていた。二人は先頭の車両に乗り込んだ。
「どちらまで?」
「区役所までやってください」
「はいよ、区役所ね、何か問題でも起こったんですかね」
中年の運転手は渋い声でそう尋ねてきた。
「ううん、何でもないのよ。早く車を出してちょうだい」
トキナー嬢は何も悟られまいと、慌てて否定した。エンリケ氏は黙り込んでいた。生来大人しい性格の彼には、これから起こることがとても怖かった。
「すでに知っておられるでしょ、異星人のこと。まったく、困ったことになりましたなあ。政府は朝の情報を出した後はすっかりだんまりだし、まあ、政府はいつもそうですけどね。自分たちに都合の悪い情報は絶対に出してこない。こっちからはこれ以上の情報は出さないから、推測の記事でもいいなら好きなだけ取材して書けって言うわけですよね。まったく、マスコミをなめてる。それ以上に国民をなめてるわけですよね。これまで何年も異星人をかくまっていたくせに、今になってもちゃんとした情報を出さないんですからね」
車はようやく走り出した。スピードはぐんぐんと上がって行く。景色は目まぐるしく変わっていった。重苦しい空気の中で二人が何も返事をしないでいると、運転手はさらに自説を続けた。
「まったくね、これはすっかり社会情勢に無関心になっちまった国民も悪いんですよ。自分の国に異星人が土足で踏み込んでいるのに、何の関心も示さないんですからね、窓の外をご覧なさい。みんな昨日のスポーツのことで、アイドル同士の恋愛発覚のニュースのことで騒いでるんですよ。まったくね、どこまで愚かなんでしょうかね、異星人のことは今後自分の命に関わる問題ですよ。奴らは舌なめずりをしながら常に私らを観察しているんです。そして隙を見せれば頭からつま先までかじってしまうような連中が何人上陸したかわかりゃあしない。それを軽視してるんですからね。そりゃあ、なめられますよ。私なんかはね、強力な愛国者ですからね。まあ、今はこんな商売をしていますけれどもね。しかし、どうなんですかね、昨今は底辺層の方が愛国者は多いとか専門家はいいますね。本当なんですかね? 逆に中級以下の公務員にはレベラル? リベラルでしたっけ、そういう、反体制的な連中が多いそうですね。まあ、とにかく、私の一家は揃いも揃って愛国者ばかりでして、テレビではバラエティそっちのけで時代劇ばかりを見たり、夜寝る前に国旗を拝まないと寝つけないたちなんですが、うちの親族の中で一番強烈な愛国者が実は姉でして、これがもう、皇族になってもおかしくないほどの筋金入りです。彼女が一度飛行機で海外に行ったことがありまして、ええ、後にも先にもその一回きりです。ところが、離陸前に手荷物を棚の上に上げようとしましたところ、彼女一人の力ではなかなか難しいようでして、何しろリュックの中にぎゅうぎゅうに着替えやら土産やら何やらを押し込んでありましたので相当な重さになってましてね。そこで彼女はスチュワーデスを呼んで代わりに上げてもらおうと思ったんですが、スチュワーデスの方もその時は忙しかったらしくてですね、なかなか来てもらえなかったわけです。そうこうしているうちに、離陸の時間も差し迫ってきまして、姉の方でも相当に焦っていたらしいんですが、そんな時、隣りに座っていた金髪の外人さんがこころよく手伝ってくれまして、荷物をひょいと上にあげてくれたわけです。普通ならそこでお礼を言いまして、それはただの美談で終わるところなんですが、うちの姉の対応はまったく違うものでして、後から駆けつけてきたスチュワーデスの右頬を思いっきり殴りつけまして、ええ、なんで余所の国の人間なんぞに自分の大切な荷物を触らせたんだと、そりゃあもう、すごい剣幕で怒りまして、スチュワーデスに土下座まで要求したというではありませんか、機長が仲裁に入りましても、うちの姉の怒りはいっこうに収まりませんで、飛行機の離陸時間が大幅にずれ込んだといいますから、その一連の騒ぎは、そりゃあもう凄いものだったようです。実は後で裁判沙汰になったということですが、ここから先はもう、人様にお話しするようなことではないんでしょうな。その姉がもしこの事件を知ったらなんというか、もちろん、今も健在ですがね、会いに行くのが怖いだけでして…、へへ。知るのも怖いことですわな。うちの姉が自分の身近に異星人が迫っていることを知ったらどうするか、これはあなた、私だって知りたくもないほど怖いことですわな。それこそ、付近の住民に迷惑がかかるような言動や行動を今現在、絶対にとっているに違いないんですからな」
運転手が勢いよくそこまで話してしまっても、二人は一度も相槌を打たなかった。車はすでに区役所の表玄関までたどり着いていた。
「ここでいいんですか?」
「ええ、ありがとう」
二人は車を降りた。区役所は七階建ての立派な建物だった。300台は止まれるような駐車場が隣りの敷地にあった。新聞社の前よりも多くもタクシーが並んで待っていた。
「私はここで帰るね」
「わざわざ、ありがとう」
「ううん、いいのよ。あなたが異星人だと知ったときは、そりゃあもう驚いたし、許せない気持ちも多分にあったけど、今はもうどうでもいいと思えるようになったわ。だって、人には必ず他人に言えない秘密が一つはあるっていいますものね。それを長年に渡ってうじうじと打ち明けられなかったからといって、その人を責めるべきじゃないわよね。私だって、もし、自分の家族に異星人がいたとしたら、あなたにも、他の誰にも言えなかったと思うわ」
「ありがとう、うまく解決出来たらまた君に会いに行くよ」
二人は区役所の前で別れた。エンリケ氏は一度大きく息を吸い込むと役所の中に足を踏み入れた。

 区役所の内部はエンリケ氏の想像とまるで違っていた。行儀のいい落ち着いた静かな空間を予想していたのだが、ロビーは人で溢れかえり、多くの人が大声を張り上げながら長い列を作っていた。列に漏れた人々は、いや、あるいは最初から列に並ぶつもりなどなかったのかもしれないが、そういう人間たちは徒党を作って職員たちが大勢をさばききれずにまごまごとする姿を見て、笑ったり、大声でそれを非難したりしていた。フロアでは数人の制服を着た係員が事態の収拾にあたっていたが、この大騒ぎを鎮めるためにはまるで人員が足りていなかった。個々の客の要望に応えるために、その少人数の職員はあちらこちらへと振り回されていた。エンリケ氏は今何が起こっているのか判断がつかず、最初に誰に声をかけたらいいのかわからず、しばらくの間、立往生してしまった。それから仕方なく、ちっとも進んでいない列の最後尾に並んで待っていることにした。すると、奥から小太りの中年の女性の係員が出てきて、こちらに向かって歩み寄ってきた。
「すいません、緊急の用事があるのですが…」
エンリケ氏は誰よりも早くそう話しかけた。
「どうなさいました?」
「実は異星人取り締まり課の方に大事な報告があって来たのです」
「ええ、よくわかります。ですが、今ここに並んでいるほとんどの方が異星人のことでお見えになってますのでね…」
「それはそうなんですが、私の用事は違うんです。身近に異星人を見つけたとか、獰猛な異星人から身を守って欲しいとか、そういう細々としたことではないんです。もっと重大な要件で来たんです。きっと、聴いて頂いた方がいいことだと思います」
そう言ってやっても、その女性は彼を特別扱いしてはくれなかった。こちらがどんなに焦ってみても、彼女の態度は冷静なままであった。
「ところが、皆さん、そうおっしゃるんですよ。ここに並んでいる皆さん全員が、自分のいう事を聞いてくれ、自分だけが大事な要件を持っているんだとおっしゃるんです。しかしまあ、こうして最初に話しかけられたのも何かの縁ですから、私があなたの要件を伺って差し上げてもいいんですよ」
係員の女性がそう言ってくれたので、エンリケ氏は思いきりをつけるために大きく息を吸い込んだ。あと数秒後、間違いなくここにいる誰もが驚愕することになるのだ。
「実は、こんな姿をしていますが、私はれっきとした異星人なんです…」
「ほら、また、同じことを聞かされた」
その女性は衝撃の事実を聞いても全く驚かなかった。それどころか、彼がそう言い出すのを知っていたかのようだった。周りにいる連中もエンリケ氏の発言が耳に入ってきても特に興味もない様子だった。彼が期待していた爆発的な反響はどこにも存在しなかった。
「私が異星人であることがわかっても、たいしたことではないと言うんですか?」
「あなたはそう言いますが、ここに押し寄せて来ているほとんどの人が同じことをおっしゃるんですよ。自分は特別な人間だ、実は異星人なんだ。早く逮捕してくれ、隔離してくれ、皆さん口々にそうおっしゃるわけです。朝、あのニュースが流されてから、たくさんの人が押し寄せまして、ずっとこんな調子ですよ」
「いくらなんでも、こんなにたくさんの異星人が地球に紛れ込んでいるはずはありません。きっと、何かの間違いです。信じて下さい。ここに並んでいる人たちは無実です。口から出まかせです。見栄を張りたいだけのただの一般人です。私だけが異星人なんです。さあ、遠慮はいりません。早く私を逮捕して下さい」
「ええ、私は別にあなたが異星人であろうとなかろうと、あなたが言うように、ここに並んでいるほとんどの人が嘘をついていようと、それはどうでもいいことなんですよ。大切なことは、こんなに大勢のちょっと変な方々を、これから一日かけて相手にしなければならないということでしてね。下手をしたらこっちまでおかしくなります。私も身が持ちませんよ。早く解放されたいと思ってます」
エンリケ氏はどうしても納得がいかなかった。自分が知る限り、この星に侵入した異星人はごく僅かのはずだった。だいたい、どこの惑星にしろ、そんなに高度な宇宙船を一般人の移民用に100も200も準備できるはずがなかった。この国の政府が早朝に発表した21人という数字は妥当な数だった。断じて、こんなに多くの異星人が地球上に存在するはずがなかった。ここにいる民間人たちは明らかに嘘をついているのだ。それぞれの顔つきを見てもそれは明らかだった。各々がただ感情的になり大声を発しているだけのように見えた。真実味が感じられなかった。だが、これだけ多くの人間が役所を欺くためにここへ来ているとしたら、いったい何のために?
「地球人はいったいどうしてしまったんでしょう? みんなが嘘を言っているのです。危険を犯してまで異星人を装っているんです。なぜでしょう?」
係員の女性は顔を少し下に向けてふっと笑った。明らかに『おまえも同類だろ』と言いたげだった。彼女は両手を広げて、少し大げさな身振りをしながら話し始めた。
「それは私にもよくわかりませんが、つまり、こういうことではないでしょうか。今のご時世ではどこの誰でも自分が社会から粗末に扱われている、努力は続けているのに無視されている、迫害されていると思い込み、普段からストレスを貯めながら生活しているわけです。
『自分をもっと見て欲しい』『もっと注目されて、特別な人間として扱われたい』
そう思いながら生活しているわけです。まあ、華やかなテレビ番組の功罪ですわね。社会は冷たい。今の慎ましい生活にだって満足しているわけではないけど、そんな地味な生活だってこの先何年続けられるかわからない。政治家のやることに反論もできないうちに、税金がさらに高くなって払えなくなるかもしれない。企業間の競争が今より進み、リストラがさらに進められて自分も職を失うかもしれない。誰もが少ない給料から税金と社会保険を払ってなんとかやりくりをしている。ああ、自分は社会という農場に繋がれた家畜なのかもしれない。なんとか、差別を抜け出して特別な人間になりたい。毎日のように豪華な居間で踏ん反り返り、ワインとステーキをほうばる暮らしをしたい。少しは世間から注目されたい。そう思っていたときにですね、この異星人騒ぎですよ。ここにいる民間人たちはそのニュースに飛びついたわけです。
『そうだ、俺は異星人だったんだ。道理で何もかもがうまくいかないわけだ、他人との疎通がうまくとれないはずだ、人間どもと同じことをしても能力が発揮できないはずだ。俺は元々この星の人間ではなかったんだ。そういえば両親の血統も曖昧だった。親族には変わった職業についている者が多くいた。自分も幼い頃から他人と交わるのが苦手だった。他人と意志の疎通をとるのが下手だった。それによく病気もした。やはり自分は特別な人間だったんだ。この朝のニュースが何よりの証拠だ。いつの間にかこの星に紛れ込んでしまった異星人だったんだ。さあ、こうなったら早く俺を逮捕してくれ、元の惑星に戻してくれ。俺を特別扱いにしてくれ』
そう思ってここに来てしまったんでしょう。きっと、あなただってそうですよ。本当はただ税金を払いたくないだけの民間人なんでしょうよ。別にこの騒ぎだって今回が初めてだというわけじゃありません。長い不況が続き、政治不信が広まり、人々が自信を持てなくなってしまう時期には必ず今回のような騒ぎが起きているんです。我々が油断をしていただけで、これはある意味で必然だったんです。朝の衝撃的なニュースは、マッチを擦る役割はしましたけれども、ダイナマイトから出ている長い導火線はずいぶん前から存在していたんです。我々の目にそれが映っていなかっただけなんです」
「あなたは今回のこの異星人騒ぎが必然だったとおっしゃるんですか?」
エンリケ氏は驚いてそう聞き返した。
「ええ、そうです。先月の今頃だったかしら、ちょうど今回の出来事の予兆のようなことがありましてね、そのときのことを少しお話しましょう。その日の正午ごろでしたかね、一人の若い女性がここの受け付けにお見えになりまして、すぐに異星人係の人を呼んでくれということでしたので、私が応対させて頂きました。外見は30台の前半ごろのメガネをかけた痩せ型の神経質そうな女性の方でして、よくよく話を聞いてみますと、普段から幽霊などよくご覧になるそうで、呪いや占いというような非科学的なものにも特に興味があるということでした。その方が特に強調されていたのは、自分は呪いの力を信じていて、自分に不幸を為すか、あるいは不幸を為そうとする人間は必ず呪いによって苦しめられることになるのだと、絶対に幸せになることはないのだと、悪魔のような形相でそうおっしゃられておられました。その方は右手に黒い5センチくらいの石を握りしめておられまして、最初におっしゃるには、とにかく、自分は異星人なんだと、宇宙の他の生命体と意思の疎通がとれる女なんだと、そうおっしゃられていまして、その後、顔を小刻みに震わせながら申されますには、今朝9時ごろ、自分の部屋の窓際の机に座って書きものをしていると、突然に窓ガラスを突き破って隕石が飛び込んできたとおっしゃるんです。彼女が握りしめていた黒い石がその隕石だとおっしゃるんです。隕石は彼女から80センチほど離れた机の上に着弾しまして、もちろん彼女に怪我はないということなんですけれど、木製の机の上には削られたような大きな傷がついたということでした。彼女が熱を持っておっしゃるには、はるばると宇宙から飛来して来たものが、特定の人間のすぐ側に落ちることなどあり得ないとおっしゃるわけです。地表の大部分は海か山ですからね。人が多く住んでいる都市部など全体から見れば本当に僅かです。ここまで偶然が重なったからには、何か天の意志のようなものが働いているはずだとおっしゃるわけです。まあ、この言い分はいくらか的を得ているような気がいたしました。もちろん、それは、彼女の家に墜落したのが本当に隕石だったらの話ですが。ここからが面白いんですが、いや失敬、不思議なんですが、彼女はその落ちてきた隕石をすでに宇宙工学の専門家に鑑定してもらったと言うのです。その先生はどこの研究所の何という方か、というこちらの問いには一切答えてくれないわけです。ただ、国内で最も権威のある先生に見てもらったと繰り返すばかりで一歩もゆずらないわけです。黙って話を聞いてみますと、その権威ある先生はその黒い石をフルメカチン鉱石と名付けまして、その先生の話ですと、その鉱石は地球上には存在しませんで、太陽系の惑星の中では土星でしか取れないそうです。ですから、その女性はうちに墜落してきた隕石は間違いなく土星からのもので(すでに、他の惑星から飛んできたものが個人の家に落ちる偶然はあり得ないという前提がありますので)、これは土星からの何らかのメッセージであると結論付けられたわけです。彼女はここまでの偶然が重なったからには、自分は一般の地球人などであるわけがなく、おそらく、昔、土星から渡ってきた異星人の末えいであると、こう結論づけられたわけです。そして、こうなったからには、もうこの星には住んでいたくないから、早いうちに土星へと脱出させてくれと、こうおっしゃるわけです」
彼女はそこで息を吸って、一度同意を求めるかのようにエンリケ氏の顔を見た。
「まあ、おっしゃられたことだけでも、あの女性が世間一般の基準から見て相当に外れていると言いますか、おかしいということはわかりましたので、本当のことを言えば、出来れば願いを叶えて差し上げたかったんですけどね。そういうおかしな方を何人でも連れてきて、相手のお話をそのままに承るふりをして、その上でおだてあげてスペースシャトルに乗り込ませてしまい、そのまま打ち上げてしまえば、どれだけ地球人のためになるのかわからないんですが、残念ながらそうもいきませんで、シャトルを一回打ち上げるのにも気が遠くなるほどのお金がかかっておりますのでね、そんな精神異常を起こされた方の妄想を満足させるために、ほいほいと打ち上げるわけにもいきません。ですからね、こちらとしましては、その隕石を持って来られた女性の方にですね、良い精神科のお医者さんを紹介して差し上げることしか出来ないわけですね。いやしかし、これだって、最初にくだらない妄想話を何十分にも渡って聞かされるという勤務の後の処置ですのでね、私らだってただで働いてるわけじゃありませんし、人件費的に言いますと、かなりの赤字になっておると、残念ながらそういう現状なんですよね。ここまで話せば私の言いたいことがお分かりになりますよね? 周りをご覧になって下さい。今日は自分は異星人だと言い張る方が100人はお見えになってます。これがどういうことかお分かりになるでしょう。これから何時間もかけて、この方たちの妄想話にいちいち付き合ってあげなければいけないということなんです。つまり、今日も大変な労力が必要だということです。ここまでの話を聞いてどう思われます? 正気の沙汰ではないですよね。いえもう、暴言と知って申し上げてしまいますが、この隕石の女性が地球人であれ、異星人であれ、こんな方がこの地域に大勢おられて、何か事件が起こるたびに顔を真っ赤にされて、この役所に飛び込んでこられて、その度に大暴れをなさる。昔ありましたけど、ヒッチコック監督でしたっけ? あの『鳥』という映画のように、理解出来ない生物にあっという間にこの場を占拠されて、何か口々にピーチクパーチクと叫ばれてしまいますとね、これはもう混乱という言葉を飛び越えて破滅と表現した方がよろしいでしょうか。それとも、ヒッチコック監督が表現されたように、これは世界の終わりでもあると、そう表現した方がよろしいでしょうか、とにかく、あの隕石の女性はめでたいことに精神病院送りになったということですけど、腹立たしい限りですが、その結果で満足するしかありますまい。ただし、失われてしまった役所の職員の時間は戻って来ませんのでね、あなたにも、もうこれ以上無駄な時間を使わせないで頂きたいですね」
「それはわかりました。では、私が自分を異星人であるとどれだけ説明しても、あなたにはわかってもらえないわけですね?」
「ええ、実際、役所の内部がこういう状態になってしまいますと、この大勢の中の誰が異星人でも、あるいは、この地球上に異星人など実は一人も存在していなくても、私にはすでにどうでもいいことですのでね。もし、これ以上自分が異星人だと真剣に訴えたいのであれば、ここではなく、この役所の裏手に保健所がありますから、そこで相談されてはいかがでしょう? あそこはこの時間はすいているはずです。きっといい解決策が見つかると思いますよ」
「わかりました。それでは、そちらの方へ行ってみます。ご親切にありがとうございました」
エンリケ氏は軽く頭を下げてお礼を言って足早に役所を後にした。自分は異星人であると名乗ってしまえば、役所の内部はすぐに大騒ぎになって、真っ青な顔をした職員に警察を呼ばれることになり、やがては駆け付けたパトカーに逮捕される流れだと思っていたので、何を言ってもまるで相手にもされないという、この展開は意外だった。さりとてこのまま何もせずに会社に戻るわけにもいかなかった。相手にされなかった、話を聞いてもらえなかった、などという結論では、部長やトキナー嬢を始め、新聞社の社員が誰も納得はしてくれないだろう。彼らは事態の解決を望んでいるのだ。自社の中に異星人が一人いるという日常が続くことを望んではいない。
 彼は役所の駐車場の中にある歩道をつたって保健所の方へ向かった。無駄な時間を使っているうちに、陽はだいぶ傾いてしまっていた。しかし、エンリケ氏にとっての非日常はまだ続いていた。その道の途中で思いがけない人物が倒れていた。
「フォックスさんじゃないですか!」
彼は慌ててその人物に駆け寄った。倒れていたのはかつての土星の官僚の一人でエンリケ氏より先に地球に飛び立った人物だった。彼と最後に別れてから、すでに5年の月日が経ってしまっていた。
「おお、エンリケ君か、久しぶりだな…」
フォックス氏は土星の英雄だった頃の面影はなく、すっかり汚れた山吹色の作業着を着て、脇腹を押さえた格好で倒れていた。辺りの道路には血が点々とついていた。
「いったい、何が起きたんですか! 誰がこんなことを?」
「気をつけたまえ、奴らだよ…。我々の様子を監視しているだけでは飽きたらず、ついに追っ手を差し向けてきたのだ。奴らは異星人すべてに敵意識を持っている。油断するな。君も狙われているぞ」
「奴らとは誰です?」
フォックス氏は少し驚いた顔をして首を横に振った。
「やれやれ、そんな大事なことも忘れてしまったのかね。君は私以上に地球の平和に馴染みきってしまったようだな…。土星の外交官をしていた当時の、隙のないふるまいとギラギラとした目つきはどこへ行ったんだ? 顔つきも、すっかり地球人のものになってしまったな…」
「それより誰に刺されたんですか? それだけでも教えてください!」
「私のことはもういい…。さっき、助けを呼んだから、間もなく本国から迎えがくる頃だろう。みんなより一足先に土星へ帰還するつもりだ。それより君の身が心配だ。まだ地球にいたいのなら、早く保健所に逃げ込んで地球人に保護を求めたまえ。君が善良な土星人だとわかれば、地球人も手荒なことはしないだろう。さあ、早く!」
急き立てられるようにして、エンリケ氏は役所の裏側にある路地に入った。向かって左側に三階建てのみすぼらしい建物があって、手前にある看板を読むとそこが保健所だった。豪華な建物だった役所とは違って、駐車場も車三台分のスペースしかないみすぼらしいものだった。外から眺めて見て、自動ドアの内部はずいぶん薄暗かった。多数の人が押しかけて混雑していた役所とは打って変わって、中は薄暗く、ロビーには人っ子一人いなかった。案内をしてくれる職員の姿もなかった。内部には薄緑色のタイルが敷き詰められていた。使われた形跡のない自動販売機が二台、廊下の隅で光を放っていた。入り口の正面にはエレベーターがあり、その横にある施設案内で、異星人課は三階にあることがわかった。今度こその思いを抱きつつ、彼は三階行きのボタンを押した。息を整える間もなく三階に到着した。三階のホールには赤いソファーが並べられていて、親の用事が終わるのを待っている子供たちが仲良く絵本を読んでいた。その横を素通りしてエンリケ氏は三階のフロアに踏み込んだ。
中には多くの職員、ざっと見積もって50人はいるだろう、が忙しそうに働いていた。しかし、ここにも役所で見受けられたような助けを求める人々の大行列は見られなかった。訪問客の姿はほとんどなかった。フロアはざわめきもなく、静かで職員が世話しなく書類をめくる音しかしなかった。今日ここを訪れている市民の数は視界に入る範囲で二三人ほどだった。エンリケ氏は窓際の細い通路をつたってフロアの奥へと向かった。異星人課は奥から二番目のテーブルだった。そこへたどり着くと、奥の方から私服を着た一人の女性が話しかけてきた。
「こんにちは、どうなされました?」
「驚かないで聞いてくださいね。実は、私は異星人なのですが、先ほど、異星人逮捕のニュースを見まして、このままじっとしていては、自分もいずれはああなるのではと、すっかり怖くなりまして当局の手で追い詰められる前に出頭しようと思ったのです。地球人に害をなすつもりはさらさらありません。何か指示があればそれに従います。この星に住み続けたいのです。手続きをお願いします」
三度目の告白なので、今度こそは心を落ち着けたまま口にすることが出来た。
「ああ、異星人の登録手続きで来られたのですね。それではまず、地球への転居の書類の方を作成していただくことになります。こちらの書類に記入して下さい」
受け付けの女性は平静を保ったままそう言って、引き出しから白い用紙を一枚取り出した。受け取ってみると、そこには『異星人申請手続き書』と書かれていた。最初の設問には『あなたはどこの惑星の住人ですか?』と率直な問いが書かれていた。エンリケ氏は正直に土星人と記入した。書いた瞬間、前で見ていた女性の顔が少し歪んだような気がして背筋が寒くなった。
「祖国に帰りたいと思ったことはないんですか?」
ふいに女性は目線も合わさずに考え深げな表情でそんなことを尋ねてきた。
「もちろん祖国を思う気持ちもありますが、地球の居心地の良さについつい時を重ねてしまいました…。それと、帰ろうにも最近確認したところでは、宇宙船が故障してしまいまして、帰れなくなってしまったんです」
「それでは地球に永住なさるおつもりですか?」
「それができれば嬉しいのですが、可能なんですか?」
女性はその質問を意外なものとして受け取ったようで、少し微笑みながら、「さあ…」と答えただけだった。『あなたが努力すれば可能なんじゃないですか』とでも言いたげだった。エンリケ氏は手元の書類に再び目を移した。次の設問は、『地球へやってきた目的は何ですか?』というものだった。エンリケ氏は困ってしまった。観光目的ですとでも気軽に回答すればいいのだろうが、土星の上官からは地球の人間たちの様子をさりげなく観察してきてくれとも言われていた。つまり、これはスパイ行為ともとれるのではないだろうか。しかし、この期に及んではそれを素直に言わない方がいいだろう。言ってしまえば、この星への悪意のある訪問者ということになってしまい、今後の展開が悪い方向へ進む恐れもあった。自分は地球人に害をなすつもりはないし、今までのところはスパイ活動をしたこともなかった。テレビや新聞をつたって耳に入ってくる情報は仕方ないにしても、それ以上の情報を不当に集めたことはない。そうだ、自分は地球に従順な異星人なのだ。そう思い直して彼はその設問に観光目的ですと答えた。女は彼がその文字を書くところをじっと見ていた。
「一つお聞きしますけど、スパイとか、したことはないですよね〜?」
少し気だるげにそう尋ねてきた。
「ありません。根が善人なんです。地球人に背こうだなんて、一度も考えたことはありません」
疑いを払拭するために、彼ははっきりとした口調でそう答えた。鋭い女の洞察力に心臓は高鳴っていた。しかし、疑り深い女は、「みんな口先ではそう言うんですよね〜」と下を向いたまま誰に言うともなく呟いた。最後の設問は『地球に来て一番驚いたことは何ですか?』というものだった。彼が覚えていることで言えば、一番驚いたのは地球人があまりにもデリケートであることだった。

 一度会社の同僚との間で起きた不快な出来事を思い出した。その相手は30代半ばの女性で既婚の身であり、3歳になる息子がいた。彼女はおっとりとしていて美人で人当たりがいい申し分のない女性だった。この年代の女性にありがちなとげとげしさがまったく見られなかった。新聞社という荒っぽい現場には不似合いなほど上品な雰囲気を持っていた。さらに大人しい気性で誰に対しても優しく差別をしなかった。ある日、その彼女と幼稚園に通い始めたばかりの息子の話をしていた。エンリケ氏が『今は子供のことが可愛くてしかたないでしょう? 』と尋ねると彼女は頬を赤らめて控えめに喜んだ。
「四六時中、子供の写真を見ていないと気持ちが落ち着かないんですよ」
彼女は財布に入れてある写真を差し出してそう言った。そこでやめておけばよかったのだが、エンリケ氏は調子に乗ってしまい、思わず、「次のお子さんをまだ産まないんですか?」と尋ねてしまった。彼女は突然放たれたセクハラまがいの発言に驚き、身をこわばらせ目にはうっすらと涙を浮かべて返事をしなかった。助け舟を出す同僚もいなかった。その場が凍りついたのは言うまでもない。エンリケ氏はそれからしばらくの間、職場で変人扱いされることになった。しかし、彼の常識ではこれは仕方のないことで、土星では子供を産む行為というのは、地球のように極まった愛情や痴情をともなう重々しいことではなく、別に愛し合うという感情も必要なく、誰とでも、通りすがりの人とでも、そういう行為に及ぶことができるため、レンタルビデオ店でアダルトビデオを借りるくらいの勇気があれば誰にでも子供が作れるのだ。地球人のように妊娠を恋愛活動の延長だとは、性的興奮の行き着く先だとは、そもそも誰も思っていないのである。女性の妊娠についても地球人のようなハレンチな行動を必要とせず、男女の頭についている二本の触覚を互いにこすり合わせることで女性側の生殖器は胎児することになる。土星では出会った人に多少の興味さえあれば誰でも恥ずかしがらずに道端でそれをやっているのである。街の喫茶店で出会ったイケメンと気軽に挨拶した5分後には妊娠していた女性もいる。避妊について学校で教えられることもない。自己責任だが、別に本人の名声にとってマイナスになるわけでもない。ひどい例になると、お互いに知り合いでも何でもないのに、交差点で信号待ちをしているときに、ちょっと身体がよろけた拍子に隣にいた中年の女性の触覚と触れ合ってしまい、それで妊娠に至ることもある。もちろん、その場で妊娠に気がついても、特別な驚きはない。お互いに少し残念そうな、あるいは面倒そうな顔をして「ああ、子供が産まれてしまうね」と呟くだけでそれっきりの関係である。女性は病院に通うこともなく、産婆を雇うこともなく、二ヶ月もすれば子宮から子供を生み出すが、それだって何の痛みもなく、何の感動もない出産である。男性側にも法的には何の責任もない。地球人でいえば排便くらいの行為である。子供は産み出されてから2分もすればてくてくと歩き出す。5分もすれば自我が芽生え、10分も側に置いておけば、やがてうんちくを語り出す。
「やれやれ、この家には召使いもいないようだ。ひどい家庭に生まれちまったな。おいおい、最初のミルクは誰が温めてくれるんだ?」
 もちろん、こんな調子で次々と産み出されてくるため、産んだ女性に我が子を育てる義務などない。極端な例になると、女性は出産の5分後には赤ちゃんの顔も確認せずにそのまま出勤してしまい、子供の方も1時間もすれば勝手に歩き出し、自分で立ち上がって冷蔵庫を開け、食事を作って食べると大きなゲップをしてドタドタと玄関から出て行ってしまい、そのまま社会に溶け込んでいってしまい、二度と親子として会わないこともある。土星では誰かと血が繋がっているということに特別な感情は生まれないのだ。生みの母も、すれ違っただけの女性も価値は一緒である。目に映るすべての人間に等しく価値がある。こう言うと、土星という星が次々と生まれくる人間で溢れかえっているような印象を受けるかもしれないが、地球と違って生殖活動自体にさしたる魅力もないため、これほど簡単に新しい命が産まれてしまっても、総人口はさほど増えていない。自分の子供に愛情を持てないため、出産という行為にそれほどの魅力を感じられないのである。せいぜい、気になった異性とのやり取りの後、その記念に子供を作る若者がいるくらいである。土星人の寿命は長くても50年ほどで、地球人の半分ほどしかないこともその一因である。それも地球人のように少しずつ肉体が衰えてから草木が枯れるようにゆっくりと亡くなるのではなく、数分前まで狂喜乱舞して絶好調な状態であっても、寿命を迎えると同時にぱたんと倒れ伏して、まるで電池がきれたオモチャのように、そのまま一言も発せずにこと切れる。遺体も腐ったりはせず、15分も放っておけば自然に溶け出して土に帰っていくため、後の処理もいらない。後には、服と靴だけが残される。生命の価値が薄く、サイクルが早いため、人が死んでも哀しむ者はいない。病院も存在しない。怪我や病気は自分や身の回りの人間の医術で治せるかどうかの問題である。手がつけられないような重い病気にかかっても、末期癌が判明した地球人のように大騒ぎしない。土に帰るタイミングが他の人より早くなったとそう思うだけである。自分が消えてもこの街のどこかで新しい魂が生まれている。個人の意識というものに価値を見いだせない種族なのだ。以前に顔を合わせたはずの人たちも病気や事故で次々と消えて行く。葬式も通夜も行われないためそれを知ることは出来ないが、思い出だけは地球人と同じように貯まっていく。自分を世話してくれた人、窮地から救ってくれた人を忘れはしない。ところが、死んだ人が土に帰っていくところを自分で見ていない限り、誰がいつ死んだかもわからない。新聞の死亡欄に掲載されるわけではない。朝食で隣の席に座っていた人が昼食には現れないかもしれない。帰宅途中に心臓麻痺を起こしていて、すでに地面に帰っているかもしれない。消えたのが知り合いであれば寂しいという概念はある。
『そういえば、最近あの人と会わないな。知らないうちに土に返ったのかもしれないな』
 地球で道端に落ちている蝉の遺体に誰も関心を払わないように、土星人の遺体も日常の風景の一部であり、誰も気に留めることはない。元々の生命の価値がそんなものであるため、土星では事故や事件にも関心が払われることはない。道端で誰かを轢き殺しても、気に入った娘さんを家に連れ帰っても自由である。そもそも犯罪という概念も存在しない。他人という存在のことを深く重く考えている人間がいないからである。自分と関わりのない他人は人格を持たない風景の一部である。さえずる野鳥や風に揺らぐ木々と同じである。そういう穏やかな風景を関心を持って描き留める画家が存在するように、そこに感動を見出す人もいるが、大多数の人間は他人の風貌には興味を持っていない。ほとんどの土星人にとっては自分の行動と欲求がすべてである。
「あれをやりたいけど、(勇気、財産、友人、時間、地位)がないからできないな」
多くの地球人はそう呟いて二の足を踏む。だが、土星人にはそういう抑止力はない。自分がやりたいことを遂行していくことの積み重ね、それが人生であると思っている。地球でなら、何をするにも他人の協力を得るか、あるいは障害を権力や金の力で強引に押しのけて進む必要があるが、土星では他人に対してそこまでの配慮を持っていないため、他人の思惑や行動は自分の行動の障害にはならない。他人の好きあっている女が欲しいなら、一直線に割って入って触覚をこすりつけるだろうし、他人の住んでいる邸宅が気に入ったなら、今日から自分もそこの住民になればいい。赤の他人が突然自分の家に乗り込んできても、元々の居住者が怒りだすか恐がるかは半々だが、土星には警察も裁判所もないため、何が起ころうと当事者で解決する他はない。君が誰であろうと、何の権利を持っていようと、私が元々この家に住んでいたのだから、後から乗り込んできた君の方が悪者だろう、という他の惑星でありがちな理論がすんなりとまかり通ればいいのだが、相手も、しかし、あなたとて、他人からこの住居を奪いとって、いつからか平気な顔をして住んでいる悪党かもしれませんね、それとも、これこれこの通り、何年の何月からここに住んでいるという確かな証拠でもあるのですか、と反論を投げてくるかもしれない。法律もない、登記も信用できない。歴史は意味をなさない。あるのは自分だけの正義となれば、どんな小さないきさつで発生した民事事件もやがては水掛け論となる。中には、物分かりがよく、確かにここはあなたの家だ、後から踏み込んできた私が無法者だった。これはすまなかった、失礼をした。と言って大人しく出て行く人間もいるが、そんなめでたしめでたしの事例は稀である。ほとんどの場合、どちらかが拳銃を抜くまで熱い議論の応酬である。決着は正論によって訪れるのではなく、ほとんどの場合、有無を言わさぬ暴力である。勝者がそこへ住む権利を手に入れるのだ。地球人は法律は紛争の解決手段として便利だと言うが、土星人は独裁者に自分有利のとんでもない悪法を作られてしまうよりは、法も道徳もない今の状況の方が住みやすいと感じている。小魚など気にも止めずに深海を気兼ねなく泳ぎ進んでいく巨大な鮫のように、他人を気にせずに生きていける人間にとっては、強固な自我があれば国家や法律などそもそも不必要である。法律も存在しないということは、基本的に何をやっても自由である。思ったことはすべて行動に繋がっていく。行動力さえあれば理想と現実の間に境界線などない。可愛い女も優れた乗用車も大邸宅も望めば少し手を伸ばせば自分の手に入る。地球人のように悪を悪と思わなければいい。他人という存在に心を砕かなければいい。自分以外の存在はすべて自分を飾り立てるために自分の利益になるために存在するのだと思えばいい。目に映る風景すべては他人のものではない、他人が築き上げた自分のものである。奪い取るに抵抗する者がいれば、道端の石ころのように蹴飛ばして進めばいい。全体がそういう考えに支配されているため、協力共存という概念もない。そのため文明の発達が異常に遅い。価値のある物が生まれると、それをいちいち奪い合っているため当然である。美しい資産も人の手を経る度に傷つき汚れていく。新しい資産を築こうとする善人はどうしても他人との争いに巻き込まれ、早く滅びを見る羽目になる。そういうわけで土星の建築物や貴金属は使い古されたものが多い。新しい希少なものはすべて奪い合いの対象である。奪うことと守ることを同時に考えねばならない。
 教育の歩みも遅い。すべては独学である。黙っていても誰も勉強など教えてくれないため、いや、それ以前に誰も信用することが出来ないため、学校での教師からの教えや読書といったことも大多数はしていない。身近な人間への愛情も薄いため、家族も行方不明になっているケースが多い。成人しても文字を書けない人間が多い。もっとも、生まれつきに備わっている知性は地球人より高く、独学で素晴らしい発見や発明を繰り返す偉人も生まれる。ただ、そういう人間にも他の研究者との助け合いや後進の育成という考えを持っていないため、あるいはそもそも後輩を育てることに嫌悪感を持っていて、自分より才能の面で劣っている周囲の俗人を見下すことに喜びを見出す人間が多いため、一人の偉人が生まれても、それが次世代に繋がっていくことはほとんどない。数々の発明をした偉人の弟子や後輩は先輩の死後また一から研究をやり直すのである。そのため、生命学や天文学などの基本的な学問でも世代ごとに考え方にかなりの相違が見られる。地動説の後に再び天動説が登場することもある。前世紀は解けていたはずの数学の証明が今世紀に入って誰も解けなくなることもある。学者は金や社会的地位に興味を持たない人間が多いため、金銭での取引が出来ず、芸術家よりも余計に厄介である。偉人が書き残した偉大な書物も、それが正しく理解されなければ、後輩の愚か者に意味も通じなくなるほど書き換えられてしまい、どんな偉大な研究も一代限りの運命である。もちろん、地球でも元々優れていたはずの学問が、天才が世を去った後、代を重ねるごとに色あせていき、やがては衰退の道を歩むことがあるが、土星はより極端である。天才の次の代が凡人であったら、もう目も当てられない結果が待っている。復活には数百年を要するかもしれない。学業を伝えていくということの難しさに輪をかけて、土星ではものを教えるという慣習がないのである。
 土星において大事なことはすべて自分でやるということである。パンを盗むのは自由だが、そもそもパンを売ってくれる人がいないため、結局は小麦粉を手に入れて自分で作る必要がある。他人のパンを奪うことも自由だが、パンに毒を塗りこむことも、パンを守るために他人を殺すことも自由なため、自分より強そうな人間には向かっていけない。資産をろくに持っていないのであれば、自分から余計な行動を起こさず、普通に生きている限り、争いごとも滅多に起こらない。誰もが他人との干渉を極力避けている。愛情は存在しない。道徳も存在しない。公からのいっさいの束縛がないということは、つまり、常に生き残っている人間が正しいということになる。他人の作った道徳や理念がどんなに素晴らしいものであれ、いや、客観的にそう見えたとしても、その人間が罠にはまって、あるいは正々堂々の決闘に負けて滅んでしまったのであれば、生き残った側の論理や方法が尊重されるのである。この淘汰方法であれば、まぐれで勝利してしまったろくでもない生き方や方法論がまん延するため、文明の発達はひどく雑なものになる。
「おい、おまえはどうやって生き残って来たんだ?」
それが大衆酒場での合い言葉になっている。60歳を超えて生き残っている人間は必ず悪事を働いて勝ち残ってきた人間である。知能が高い人間の方が悪事を思いつくため、上の階級にいけばいくほど年齢層は高くなり犯罪率は増加する。誰も公的な立場からそれを取り締まる者はいない。そもそも、ずる賢い人間が公的な機関を支配してしまっている。公的な機関には一応のルールがあるが、上層部の人間の得になるような規則しか作られず、下々の市民たちはそれを守ろうとしない。少数派によって時折芽生える正義は多数の悪に叩かれて、すぐに弱者として滅びる運命にある。これまでも少数の人間によって人間的な正義、種が繁栄していくための道徳、他人との助け合い、子供への教育の必要性、老人へのいたわりの推奨、そんなことが説かれたこともあった。
「みんな、よく聞け! このままじゃ共食いだ。俺たちは百年後も二百年後も同じことを繰り返すことになる。成長のない国家に繁栄や存続はない。今からでも遅くはない。助け合いのある世の中に変えていこうじゃないか」
一度や二度ならず、そんな主張をする人間が現れたが、それが浸透することはなかった。他人の意見よりも、今の自分の感情、自分の欲情を優先させたからである。結局、国家の変革を唱える人間はことごとく変人として消されていった。土星人はそれがどんなに聡明な意見であっても、自分の意志や行動を束縛するような変革を望まなかった。 上層部がそんな状態であるから、今さら自分の家族や親類に道徳をしつける者もいない。悪行はやったものがちだが、成功するとは限らない。そのため、総合的な犯罪率は地球と比べて大差ない。多くの人間は犯罪者になることを恐れているが、取り締まる機関がないため、同じ人間が味をしめて何度も犯罪を行う傾向にある。ただ、個人的な正義の名のもとに悪人を勝手に処罰をするのも自由である。犯罪が予見されて実行に移す前に処罰されてしまうかもしれないという恐れが、悪行の抑制に繋がっている。愛情や友情が存在しないため、笑顔も存在しない。デートもプレゼントもない。性的な活動は他人への興味から始まるのではなく、暇だから子供でも作るかという、極めて個人的な欲求である。他人が気に入らないという感情は存在する。いじめも殺人も涙も復讐もある。道端で気に入らない人間を殴り殺そうと思っても、その行為を見ている他の人間の独善的な処罰によって自分も消されてしまうかもと思うから、犯罪はなかなか成立しない。今、どうしたいのかという個人の感情がすべてである。皆が皆、直線的な生き方を選択している。安全装置はいっさい働かない。悪意が心に芽生えた瞬間に指は銃の引き金を引いている。目的の人間が血を吐いて倒れたら、次は自分が狙われる番だ。敵を撃ち殺す前に警戒して地面に伏せなければならない。自分は相手を知らなくても相手は自分を知っていて、悪意を持ってこちらを見つめているかもしれない。犯罪はドミノ倒しのように次から次へと起こる。一つの感情のもつれが数十人の犠牲者をだす。相互理解は必要ない。なぜ、そんな殺人が起きてしまったのかと捜査をする人間もいない。解明する必要もない。自分も同じことをし兼ねないことを誰もが知っている。遺体も数分後には地面に溶けて消えている。他人を消すのに動機は必要ない。常にゆらゆらと揺れ動く感情がすべてである。

 エンリケ氏はそういった土星人の事情を目の前の保健所の職員にかいつまんで説明した。つまり、自分のエゴのためには他人を害してもいっこうに構わないと考えるほど非常に短絡的な思考で生きている土星人が、地球のきめ細かい法律やマナー、それにも増して繊細な地球人の心情を理解することは難しいと、そう説明してやったのである。そして、元々そういう雑な世界に生きていた自分が(これでも努力はしているが)、なかなか地球人の輪に溶け込めないでいるのも無理からぬことであると。もちろん、これは自分の立場がこれ以上悪くならないようにである。彼はこの期に及んでも、ここで緊急逮捕されて、新聞社の同僚たちに恥をかかせる結果だけは避けたいと考えていた。女は二三度うなずいて、公務員にありがちな持ち前の機械的なそれでいて洗練された態度で返事をした。相手が異星人であれ、それを脅かすようなそぶりはまったくなかった。
「もちろん、それはわかっておりますよ。土星と地球の文化や思想の違いということはね。それを解消するために、そんな理解できないほど遠く離れた異星人でも地球に馴染んで暮らしていけるようにするために、この保健所には異星人課のような部所がありますのでね。それでも、毎回困ってしまいますよね。異星人の方というのは、出身の惑星によってその特性がまったく違いますからね。なんでも、火星人の方は熱いものが大嫌いで、どんなものでも氷漬けにしないと食べられないそうですけどね。カレーライスの上に氷の塊をじゃぶじゃぶとかけていたのを見た時は目を疑いましたけれども、私どもからしますと、どうも逆のイメージがありますよね。火の星というからには焼き豚や焼き鳥ばかり食べているようなイメージがあるじゃないですか。地面は常に熱く燃えたぎっていて、火炎が夜空を照らしながら宙を飛び交っていて、防護服を着ていなければ数秒で肉体が燃え尽きてしまう荒れ狂う猛火の星。わざわざ焚き火など起こさなくても芋を地面に転がすだけで自然と焼き芋が作れるようなイメージがありますよね。ところが実際に当人に話を聞いてみると、こちらの想像とあべこべだったりする。炎なんて、熱さなんて大嫌いだとこうおっしゃるわけです。地球とはなんて湿気の多い星だ、クーラーをもっと効かせてくれとおっしゃるわけです。この仕事に就いておりますと、こういうことはよくあるんです。今、異星人のことを例にあげてますが、地球人だってそうですよ。軍人だとか、弁護士だとか、スポーツ選手だとか、どうしてもね、その人の職業だけでその人の本質まで、いわば性格の中枢まで判断してしまうようなところがありますけど、これは大きな誤りでして、その人の歩んでいる道とその人の元々の嗜好はまったく相入れないことがありまして、私などもね、何度か驚いたことはあるんですが、スポーツ一辺倒だと思っていたオリンピック級の水泳選手が実は子供向けアニメのマニアだったりしましてね、大変驚いたことがあります。軍人が引退後に政府の批判者になったり、刑務所から出てきたばかりの人が文学賞をとることもありますのでね。とにかく、どの惑星に限らず、人間の可能性には際限がないと、こう申し上げた方が良いでしょうかね。あるいは、他の言葉を持ち出すとすれば運命ですかね。元々の特性とまるで違った道を歩く、あるいはまるで似つかわしくない趣味や興味を持つとなりますと、これはもう、精神科の大先生を連れてきて自慢の理論、凡人には到底理解できないような理論をお聞かせ願ってもいいんですが、大先生の話をあくびをこらえながら数時間に渡って拝聴しまして、それが解明したところで、辞典よりも分厚い本の講釈をお聞かせ願って時間を潰し潰して授業を受けたところでね、結果として、世の中のいついかなるところにも変人はいるとわかったところで一文の得にもなりませんものね。私は思うんですが、世の中のすべての知識を二分しまして、有用なものとそうでないものですが、そうして分けてみますと、知識というのはどうも人間にとって不要なものの方が多いように思われるんです。足長バッタの生態とか惑星の楕円軌道とか新種のカクテルの作り方ですとか、それを知ったところで、それを誰かに披露したところで、大根一本も買えませんものね。長年、この席に座っていまして、あなたのような異星人の方と話しておりますと、余計にそう思えるんです。
『ああ、無駄話を聞かされてしまった。この知識は知らなくてもいいことだったな』
とね、そう思うことが非常に多いんですよ。ですからね、先ほどあなたが話してくれましたような土星人の奇妙な生態、いや、簡単に奇妙と表現しては失礼ですかね。あなた方はそれで日常を送っているわけですものね。触覚をこすり合わせて子供を作ることを当たり前だと思ってらっしゃるんですものね。そういう方々が地球のセックスなんて見たら卒倒しかねませんが、ちょっと一般には理解し難い生態、こう言い換えますか。これについても私は理解できるんですよ。今、外でほっつき歩きながら憎たらしい顔をして有意義なことなど何も考えずに、煙草をふかしている凡人の若者には理解できないでしょうがね。私にはあなたの言うことがわかるんです。私の思うところでは、人間というのは、この宇宙ほどもあるような巨大な円系のグラフに広く分布しておりまして、もちろん、私もあなたもその円グラフの中のきっと中央部分の付近でしょうけど(二人とも他人に対する思考は当たり前のものですものね)、そこに位置しているわけです。普段、何事もなく生きている限りは、グラフ上で自分とほぼ同じ位置にいる人としか触れ合うことはないわけです。人間はどうしたって自分に近い存在を探しますからね。貴族は貴族と商人は商人と俗物は俗物と付き合って生活をしていくわけです。貴族の娘と八百屋の息子が出会って恋に落ちても構わないんですが、それがうまくいくのはドラマの中だけでしてね。実際はお互いの考え方の違い、何か出来事があったときの判断はこれはもう天と地ほど違いますのでね。長続きするとはとても思えないわけです。ですけどね、広い目でこの世の中を見渡せば、人間の種類も質も限りないものです。『自分は旅に出るぞ』と一吠えして、腕を振って地平線の彼方まで歩いて行くことができれば、円グラフの外側の端の端の方、通常の人間にとって鬼や蛇よりも遠い存在と思えるような人とも出会えるものなんです。
『なんだ、どこの地方にも似たような人材しかいないな』それを言っているうちはまだお子様ですよね。アフリカの喜望峰でしたっけ? そこまで歩き続けて、道に出会った人達とすべて交流を持って、初めて人間をすべて理解したとこう言えるんですよね。この世に一人しかいないような天使か、それとも悪魔か、そういう場所で出会えるわけです。そういう理解を超えた人間と出会った時にどうするか、もちろん、この異星人課などはその奇妙な出会いの場の代表、そして最たるものですが、これが大事なことだと思うんですよ。異星人と出会った時に我々が持たなければならない心構えというのはまさにここだと思うんです。人間は普段の慣れ切った生活の中で、当たり前の目線でもって円グラフの中央付近ばかり見ているから、いざ、ばったりと異星人と出会った時に錯乱してしまうんです。恐怖のあまり大声をあげて叫んでしまうんです。相手にそんな意志があるかもわからないうちに襲われると勘違いをして助けを呼んでしまうんです。そう言えば、遥か以前になるが出会ったことはあるぞ。地球にもこんなタイプの人間がいるぞと、そう思えばいいんです。ですからね、あなたも地球人からどんな反応をされても、実際はあまり気に病む必要はないんですよ。今出会った生物が、どんな惑星の住人であれ、地球にはきっともっと異端がいると、そう思っておけばいいんです。それで気は晴れるでしょう。未来は明るくなります」
女性職員はそう言ってエンリケ氏の手元からアンケート用紙を回収した。
「では、これで面談は一応終わりですが、何か質問はありますか? なければ、これから局長をお呼びしてこれからの生活のことについてお話を頂きますのでね」
エンリケ氏が何も反論をしないのを見て取ると、女性はフロアの奥の部屋に消えていってしまい、それから数分もしないうちに、今度は眼鏡をかけた人の良さそうな初老の男性が現れた。頭髪はほとんど白髪で図体は大きくずんぐりむっくりしていた。彼は一礼をすると、エンリケ氏の正面の席に腰を降ろした。
「これはどうも、異星の方でしたね。聞いたところでは土星人ですとか」
エンリケ氏は黙ったまま頷いた。この男が信用に足る人物なのか、まだわからなかったからだ。その局長を名乗る初老の男性はさらに満面の笑みを浮かべて、異星人でも一向に構わないんですよとでも言いたげだった。警察庁に訴え出るような緊張した態度は微塵も見られなかった。
「土星からここまでは遠かったでしょう? 宇宙船はどうやって手に入れられたんですか? ああ、なるほど、もう長い年月が経ってしまってここにたどり着いた当時のことは忘れてしまったというわけですね。それでいいんですよ。そういう方も多くいられますからね」
エンリケ氏は目の前の男の丁寧な態度におされて、今日一日の出来事、ここまでの流れをかいつまんで説明した。朝のニュースに驚き面食らい、冥王星人に脅され、会社の同僚と自分の未来について相談した結果、ここへ来ることにしたことなどである。局長はその一連の話をまったく動揺を見せずににこやかな表情で聞いていた。
「お話はわかりました。朝の政府の発表で動揺されてしまったわけですね。まあ、突然の発表でしたからね。お気持ちはよくわかります。いろんな方が政府の発表で混乱されて区役所を訪れているようですね」
「そ、そうなんです。この星の一般の方が多数押しかけていて、職員には相手にしてもらえなかったんです」
エンリケ氏は少し前のめりになって、区役所の女性職員に追い払われたことを話した。
「ほう、そうですか。精神に異常をきたした地球人と勘違いされてしまいましたか、あそこのまずい対応は勘弁してやって下さい。異星人課は区役所でも特に忙しい部署なので、職員もイライラしているんでしょう」
白髪の局長は頭をかきながら、そう説明してくれた。しかし、ここはまったく静かな部署だった。周りで働いている十数人の職員にも、エンリケ氏が異星人であることはすでに伝わっていることだろうが、誰も動揺する気配がなかった。皆冷静に淡々と自分の仕事に取り組んでいた。
「しかし、あまり政府を責めるわけにもいきませんからね」
エンリケ氏が無言でいると、局長がまた話し始めた。
「何しろ、これだけの問題ですからね。異星人がすでにこの地球に住み込んでいるということですが、一般の人にはまったく寝耳に水ですからね。いくら状況が切羽詰まったからといって、簡単には公表できなかったんでしょう」
「切羽詰まったといいますと?」
「それは異星人が増えすぎたということですよ。十人や二十人の頃は警察や公安の管理も行き届きますから良かったんですが、今はもう、あなた、数万人は入り込んでいますからね。警察の方も状況は把握しとるんですが、あなたも先ほど仰られたように、異星人同士のトラブルが次第に増えてきて、一般の人々も疑問を持ち始めた。これ以上隠しきれなくなったわけですな。空中浮遊やらテレポーテーションやら、明らかに地球人とは異なる能力を発揮して事件を起こしているのに、いつまでも、『いや、その人は少し変わっている地球人です』では通りませんからね。暴力的な事件は冥王星人によって起こされることが多いようですが、火星人も土星人も少なからず事件を起こしているわけです。酒やら女やら淫らな世界をここに来て初めて体験したわけですからね。異星人は皆心が浮かれています。事件が起きやすくなっている。地球人なら誰しも旅先の観光地の浜辺で夜間に浮かれてしまうのと同じですよ。あなたは先ほど、土星にはこんな厳格な法律はないと仰ってましたが、それはその通りなんです。火星にも金星にも人を殺してはいけないなんていう法律の条文はないわけです。中には、人口の抑制には望ましいことだから、どんどん人減らしをしろという条文がある惑星もあるくらいです。同様に、窃盗やスパイ行為が罪にならず、日常的に行われている惑星もある。そういう星に長年生きてこられた方が、いい大人になってから、突然、この地球のように厳しい法律のある惑星に降り立たれても、当然容易には馴染めないわけです。そりゃあ、当初は政府も黙認していましたよ。この広い社会に一人や二人変人が混じっていても、まさか気づかれないだろうと、あいつは異星人だなどと、騒ぎ出す人間なんていないだろうと考えていたわけです。その人は精神異常者ですと偽って、それで追撃をかわすこともしていたわけです。まして、異星人が一人見つかったところで、それを政府の責任にされることはないだろうと考えていたわけです。宇宙船がある限り、この星に侵入する方法は無限ですからね。まさか、政府の側が異星人を誘致しているなんて思いを巡らす人はいなかったわけです」
「それでは、政府は異星人が大量に流入していることをすでに知っていながら、それを国民全体が知ってしまうことは都合が悪いと判断して、これまで隠していたわけですか?」
「その通りです。異星人の存在なんて、各国の首脳はずっと知っていたのです。1960年代にアームストロング船長が初めて月に降り立ちましたが、あのときに人類は初めて異星人を見つけたんです。月に住む異星人ですね。現在では月星人などと呼ばれて非常にポピュラーですが、NASAの月面着陸の時にはすでに発見されていたんです。しかし、公にはされなかった。宇宙飛行士たちはえらいことを発見してしまったと、顔を真っ青にして地球に戻ってきましたが、沈黙を強制されてしまう。当然ですよね。当時は冷戦の真っ只中ですし、敵国に自国の不利になる情報を渡す必要はない。しかも、どこの国にも異星人と緊張した外交を行える余裕はなかった。それが漏れて伝わっていったところで、その情報を有益に使える国はありませんでした。どこの国も第二次大戦後の復興にすべての神経を使っていて、異星人と同盟を結ぶことに利益を見出せなかった。しかし、もし人民がこの事実を知ってしまえば、何をぐずぐずしている、早く接触をもてと、そういう流れになるに決まっています。一般大衆はテレビやラジオで流される幼稚なストーリーを見てよく知っていて、異星人なるものの存在を強く信じていたし、出来れば、早く発見されることを望んでいた。異星人を自宅でも飼えるペットか映画スターくらいにしか思っていない。自分たちの平凡な日常を大きく転換するようなワクワクさせる存在だったわけです。せっかく月星人を発見しておきながら、外交も持たずにそのまま放っておくなんていう政策を許しはしなかったでしょう。ところが、当時のアメリカもソ連邦も核戦争を間近に感じていたわけで、直近の軍事衝突を差し置いて宇宙人と対話をしていく余裕などまったくなかったので、NASAの最終的な判断でこの問題はとりあえず棚上げされることになったわけです。月星人とは出会わなかったことにされました。宇宙飛行士たちは固く口止めされました。異星人との接触に関わる機密文書はすべて破棄されました。この時点では異星人の存在を知っていたのはアメリカの一部の人間だけでしたが、70年代に入ると、各国が高性能な宇宙船や望遠鏡を競って開発していって宇宙開拓の歴史が始まるわけです。そこでさらに驚愕の発見が次々となされるわけです。まずはソ連邦の宇宙船が地球の周りを周回中に火星人の宇宙船を発見して接触を持ってしまう。驚いたことに彼らは地球の言語を知っていた。地球はすでに他の惑星によって知られていたのです。どう考えても我々の発見が先だろうと地球人は考えていましたが、そうではなかった。地球はすでに他の惑星の住人によって発見され、監視されており、もっと言えば、地球人の生態は詳しく研究されていた。
『仲良くしましょう。良かったら貿易でも始めませんか?』
思ったよりもフレンドリーな態度でそう尋ねられてしまう。続いて、スイスの開発した強力な望遠鏡が水星や木星にも人が住んでいることを発見してしまう。もちろん、当初アメリカが発見してそのままにしておいた月星人もこの時点で見つかります。あんな目立つところにいるのに隠しておけませんからね。しかも、外見は我らと対して変わりはない。それだけでなく、生活様式も服装までも地球とそう変わりはないことがわかった。月面のクレーターにはコンビニまであったそうです。この時点でも、この事実を知っていたのは各国の首脳だけでした。マスコミには知らされないから庶民の耳までは届かない。口の軽いスイスやソ連邦の首脳から各国の首脳にこの事実が伝えられる。そこでようやく『なんだ、アメリカはずっと嘘をついていたんじゃないか』ということになったわけです。そこで、隠しきれなくなりアメリカも各国に真相を伝えます。
『これこれこういうわけで、60年代にはもう異星人の存在を知っていて、各国に黙って接触を持っていたんだ』
ここでやっと世界中の首脳が騒ぎだすわけです。今さらどうしたらいいんだ。今から月星人と同盟を結ぶなんて遅すぎる。他の惑星の異星人を発見した今、月なんて枝葉の存在だ。まずは、地球を攻撃しようとしている惑星と外交を結ばねば、となる。しかし、月を放っておいて気を悪くしてしまい、敵対関係に陥ると余計厄介なことになる。何しろ、地球から目と鼻の先ですからね。とりあえずは現状の維持を望むと相手方に伝えなければ。でも、話し合うと言ったって、どこの国の誰が対話をしに行くんだ? 最初に見つけたアメリカか? いや、おまえはダメだ、血の気が多すぎる。もっと冷静な民族がいい。あんまり弱腰になってもいかんぞ。なんでも『はい、オッケーです』で対応してしまうと幕末の日本のようになる。こちらに優位になるような条件でなら同盟を結ぶのもやぶさかではない。アメリカとソ連邦の関係よりは地球と火星の方がずっと仲良くしていけるかもしれない。そのタイミングでイタリアの首脳が切り出す。
『地球人のサンプルが欲しいと言われたらどうしようか』
それはまずいぞ、人権問題だ。イルカや鯨を捕獲するだけで怒り出す国もあるのに。しかし罪人や捕虜くらいなら渡しても構わないだろう。彼らの人権なんて国によっては曖昧なままだ。その通り、火星人や冥王星人を怒らせる方がよっぽど恐い。いつミサイルを撃ち込まれるかわからない。それより、移民を受け入れて欲しいと言われたらどうしようか? 少人数なら構わないだろう。地球の文化や道徳をきちんと伝えられる国がいい。どこがいい? 該当するのは日本とアメリカとカナダくらいか。では、その三国になら、他の惑星の宇宙船が着陸してもいいことにしよう。異存はありませんか? では、日本の行政機関は異星人受け入れの準備をして下さい。そんなに嫌な顔をしないでください。国民に他の惑星との関係がばれたらどうしましょうかって? あなた、そんなこと自分で考えなさい。そんなことも決められない政治家ばかりだから、弱腰外交なんて言われるんですよ。
とまあ、他国とのこういう協議を経てこの国に異星人を受け入れる流れになったわけです。しかし、いざ受け入れると決まってしまうと、どこの惑星も競い合うように次々と宇宙船を送り込んでくる。外交目的で来た例もありますが、ほとんどはあなたのように個人が自家用宇宙船で偵察目的で来られるわけです」
「待って下さい。そこまでは理解出来ましたが、私は決して悪気があってこの星に来たわけじゃないんです。土星のために情報収集をしようと、後で地球を侵略するためにですね、そういうつもりはさらさらないんです。あくまで観光が目的なんです。地球の文化を深く知りたかったんです」
「では、お聞きしますが、あなたがもしこのまま土星にお帰りになられて、自国の上官から『地球との外交を有利に運びたいから地球人の弱みを教えてくれ』と言われたらあなたはどうするおつもりですか?」
局長の問いは厳しかった。エンリケ氏はしばし考え込んでしまった。
「わかりました。私はこのまま地球人としてこの星に骨を埋めることにします。もう、土星には戻りません」
「素晴らしい決心をなさいましたね。しかし、向こうの方で、土星の方であなたを迎えに来るのでは?」
「それは心配いりません。土星にはそんなに温情のある人間はいないのです。皆、自分のことばかり考えて生きています。私がいなくても、土星の行政は着々と進んでいるでしょう。この数年間に何度か非常用の連絡ボタンを押してみましたが、それでも、誰も助けには来てくれませんでした」
「それならば、このまま地球人として生きるのが、あなたにとっても、周りの人にとっても良いでしょう。政府は今日から少しずつ異星人についての情報を開示していって、あと2週間もすれば、この国のほとんどの人が異星人は普通に存在するという現実に気づかされるでしょう。そうなったとき、市民はどう対応するでしょうか。ああ、やっぱりそうだ、異星人とも共存していく時代なんだと素直に納得してくれる人がどのくらいいるでしょうか? やはり、他の惑星の住人の存在を許せない、出来れば追い出してやりたいと思う人の方が多いのではないでしょうか。それはこれまで黙り通していた政府への怒りではなく、何の法的な根拠もないままに土足でこの地球に乗り込み、平然と生活をしている、あなた方異星人全員にその怒りは向かうかもしれません。言葉は悪いですが、異星人狩りのようなことが起きるかもしれません。飛び交う罵詈雑言、それまで大人しかった市民が突如として鋭い刃物を手に持って暴れまわる。それとも、ああ、これは想像の飛躍になりますが、異星人といっても外見で簡単に判別できるわけではありませんので、地球人同士でお互いの出身を疑いだし、そのうちにとんでもないデマが流れ、例えば、肌の浅黒い人や声のかん高い人は異星人だなどといったものですが、そうなれば、すぐに地球人同士で同士討ちが始まり、流血の事態になるかもしれません。恐ろしいことです。なるほど、これまで政府が異星人の存在を伏せていた理由がわかります。ひとたび、異星人の存在を発表してしまえば、それほどの混乱、警察や機動隊が出動しても抑えられないほどの大混乱が起きる可能性を政府は知っていたのでしょうね。彼らは彼らで、事の重大性に気づいており、何とかこの情報の発表を遅らせようとしていたのでしょう」
局長は次第に声を震わせながら、顔を青くしてそう語った。
「実は私は新聞社の人間なんです。明日の朝刊にはどうしたって異星人についての詳細な情報が掲載されるのです。市民がそれを読んでどのような反応を示すでしょうか? 実は私が異星人であることをすでに知っている人間が数人いるのです。私が黙っていても、彼らの口から私の正体がばれてしまうかもしれないんです」
「そういうことであれば、今日のうちに口止めしておいた方がいいでしょうな」
局長は腕組みをして少し考えてからそうアドバイスをくれた。他人に自分の正体を明かしたことで気分的にはずいぶん楽になったが、事態はまだ一刻を争うようだった。エンリケ氏は少し名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。
「色々とお世話になりました。これから、私の素姓のことを黙っていてくれるように同僚に頼みにいこうと思います」
「あなたが地球人として平和に暮らしていけることを祈ってますよ」
局長は最後は元の清々しい笑顔に戻ってそう言ってくれた。エンリケ氏は何かこれまでの呪縛から解放されたような気がした。フロアを後にすると、すぐにエレベーターに乗り込んで保健所の1階に降りてきた。彼は廊下の隅に設置されていた薄汚れた公衆電話の受話器をつかんだ。ダイヤルを回すと彼女の携帯電話へと繋がり、すぐにトキナー嬢の声が聞こえた。
「もしもし、あなたなの? 本当にエンリケさん? こっちはもう大変な騒ぎよ。ううん、あなたの正体のことは誰にも話してないわ。そんなことで心配しないで。私たちを信頼してよ。それより、あなたと別れた後、正午頃だけど、社に戻ってテレビを見ていたら、突然政府が記者会見を開いたの。そうそう、今日二回目の会見ね。そこでね、すでにこの星には大量の異星人が侵入していることがわかったの。それを発表した大臣は顔が真っ青だったわ。そう、最初に発表された数字は大嘘だったのね。内訳については詳しく語られなかったけど、ええ、もちろん、偵察目的で侵入した人も、あなたのように移民目的の人もいるでしょうよ。そうよ、これでわかったでしょ? やはり私の思っていた通りなのよ。この星の首脳たちは他の惑星との関係のことを何もかも黙っていて、本当はこの世界はすでに異星人大量流入の時代に入っていたのよ。他の惑星の支配者に知らないうちにずっと圧迫されていたってわけ。子供の頃から夜空を見るたびにひしひしと感じていた霊的な緊張感は本物だったんだわ。ああ、私たちがバカだったわ。もう少し、異星人についてあれこれと調べておけば…。でも、もう今となっては手遅れよね。すでにこの星の誰にもこの流れを止めることは出来ないんだわ。私のような美女が無防備に街を歩いていれば、異星人たちの興味の視線に晒されることになるのよね。どこかの本に書いてあったわ。太陽系の中で地球人ほど顔の造形に優れた民族は無いんですって、地球で美女と崇められていれば余所の惑星に行っても通用するってことよね。ああ、私ったら、この間も肌を大胆に露出させるようなワンピースを着て街を歩いてしまったのよ。だって、あの頃はこの地球にそんなに多くの異星人がいるって知らなかったですものね。周りはすべて善人だとそう思っていたんですものね。でも、もうだめだわ、私はすっかりマークされてしまったのね。
『おい、見ろよ、あそこにえらく可愛い娘が歩いているじゃねえか。白い肌をあんなに大胆に晒しちまって、あれじゃあ、さらってくれって言ってるようなもんだぜ、なあ?』
異星人たちがそう呟きながら、私の姿を見ていたんだわ。私はもうすぐにさらわれてしまうに決まってる!」
彼はそこまで話を聴いて、これは何とか彼女を落ち着かせてやろうと考えた。
「まあ、こういうときはとにかく落ち着くことだろうな。異星人の大量流入が決定的になったからって、何も君までがそこまで落ち込むことはない。冷静になってみると、土星人や火星人の全てが悪人というわけじゃない。分をわきまえて地球人の中に溶け込んでいる人達もいる。いや、あるいはこれまで生活をさせてもらった恩義を返そうと地球人以上に道理を守って生活をしている人もいるんだ。思えば、異星人が流入してから、もう数年は経っているのに、まだそれほど大きな騒ぎが起きていないのは、地球に降り立った異星人に比較的穏健派が多いということの証ではないかな」
エンリケ氏は落ち着いた口調でそう説得してみたが、トキナー嬢の熱くなった気性はどうにも収まりがつかなかった。
「そんなことで落ち着けってそれは無理よ。確かにこれまでは異星人たちはおとなしく生活していたかもしれない。でもね、明日からは、いえ、今日からは状況が一変するのよ。この星の大衆がこぞって身近に異星人がいることを知るようになる。あなたも知っているように大衆なんて単純なものだわ。他人事ならいざ知らず、自分の身に不幸が降りかかるときには躍起になって反乱するのが一般人でしょ? きっと混乱して目を釣り上げた人達が街頭に飛びだして、闇雲に民家や商店を襲うに決まっているわ。人間の心はそれほど弱いものなのよ。誰もがお坊さんのようにどんなときでも座禅を組んでいられるわけじゃないの。そういう立派な方々なら言うでしょうね。
『こういうときこそ人間の知性を発揮する時です』
でもね、私たちの周りに暮らしているのはもっと素朴な人達なの。スポーツで自分の応援しているチームが勝ったの負けたので一喜一憂できる人達なの。それで自分の毎日の哀楽を支えられるような人達なの。胡散臭い政府の発表も財界からの提言も疑ったことが無いような人達なの。そういう単純思考の人達が、すでに自分のすぐ近くにまで異星人が迫っていることを知ったらどうするでしょうね。いえ、反対に異星人たちの方だってこの事態を指をくわえて傍観しているわけないわ。やられる前に牙を剥いて地球人に襲いかかるかもしれない。何しろ、本当はこの国の治安には何の興味もない人達なんですからね。家族は故郷の惑星にいるのかもしれない。ねえ、あなたならわかるでしょ? 火星人や土星人は火事や混乱なんて怖れないわ。逆にこの混乱に乗じて地球人の土地を侵略してやろうと考えているかもしれないわ」
「少し落ち着いた方がいい。そうでなくたって君はいつも小さな事件で右往左往しがちなんだ。大物大リーガーのトレードくらいで目を血走らせて大騒ぎしたこともあったじゃないか。そうだ、今すぐに僕のところへ来ないか。そして、二人で善後策を考えよう」
エンリケ氏はそう呼びかけてみた。トキナー嬢は少し考えてから返事をよこした。
「ダメよ、それはできないわ。あなたの言うとおり、今は落ち着いて行動すべき時だわ。こんな時に軽薄なふるまいはできないわ。こうなった以上、すでに誰も信用できないわ。あなただって例外じゃない。これまでは私も子供ぶってみんなに甘えていたかもしれない。猫を被っていたかもしれない。周りからは主義主張のない女だと思われていたかもしれない。でも、これからはそんな生き方じゃダメなのよ。異星人との共存の時代に入ったからにはね。周りの人間の行動をすべて疑ってかからなきゃいけないの。なぜって、これまで単純な私の思考はあなたを恋人のように、また実の兄のように慕ってきたけど、そのあなたがまさかの異星人だったわけですからね。言いたくはないけど、一番信頼していた人に裏切られた気分よ。あなただって少しは悪意もあってずっと黙っていたわけでしょ? もっと早く打ち明けることだってできたわけでしょ? これ以上、他人を信じて酷い目に遭うのはゴメンよ。ええ、極端思考な女と思われてもけっこうよ。今日からは周りの人間をすべて異星人だと思って暮らすことにするわ。あなたをこれからも信じてあげたいけど、それはもはや無理だわ。さっきの記者会見を見たら、人を信じる心なんて吹き飛んでしまったわ。この国の最高権力にある人たちが、長年に渡って嘘をつくまくって国民を騙していたんですからね。政治家の二枚舌は当たり前ですって? まだ、そんなことを言ってるの? 税金や福祉と異星人の問題を一緒に考えられないわ。お金のことで政治家が国民を欺くのは大昔から、それこそギリシャ・ローマの時代から行われてきたんでしょうけど、異星人の問題はまた別ですからね。これだけは、『はい、そうですか、やはり嘘だったんですか』で済ませることはできないわ。だって、そうでしょ? おかげでこの国の大多数の人にとって今日が人生の曲がり角になってしまったわ。開国を体験した江戸時代の人々だってこんな屈辱を感じることはなかったでしょうよ。それに私は騙されていたの、あなたという異星人にね。まさか、あなたがあの野蛮極まりない土星人だったなんて…。悔やんでも悔やみきれないわ。本当のことを知っていたら、あなたなんかに気を許したりしなかったのに。前にも話したわよね? 異星人は常に地球の美女を探しているって。私がまさにそうだったんだわ。他人に気を許してのんびり暮らしていて、ある日突然宇宙船に連れ込まれて他の惑星に連れ去られる運命だったのよ。あなたは優しい社会人を装って近づいてきて、この美しい無垢な揚羽蝶のような私を土星に連れ去ってしまおうと画策していたのね。ようやくそこに気づいたわ。私は蜘蛛の巣に絡めとられる寸前の蝶だったってわけ。私は地球から土星への貢ぎ物にされるところだったんだわ。え、なに? そんなつもりはないですって? それも嘘だわ。名探偵のポワロも言っていたけど、一つでも嘘をつく人はそれを隠すために嘘を次々と積み重ねることになるんだわ。あなただって、今頃は正体もばれたことだし、さて土星に帰還するかと画策しているところでしょうよ。そのお土産が私だったんでしょうよ。もう、あなたのことは信じないわ。会いに行くなんてまっぴらごめん。もし、疑いを晴らしたいんだったら、今すぐに新聞社まで戻ってきて弁解してみせてよ!」
受話器を乱暴に置く音が聴こえて、そこで通話は途切れた。エンリケ氏は静かに受話器を置くと顔を上に向けて考え事に耽りながら歩き出した。保健所の外へ出るとすでに外は真っ暗だった。星は見えなかった。今夜は満月だった。神秘的な夜空だが、地球上では一番犯罪の多くなる日だ。それでも、エンリケ氏は何も心配することなく路上を歩いていた。地球人が皆、自宅に引きこもってテレビを見ていることに確信を持っていた。何台かのタクシーが表で待っていたがそれには乗らなかった。そろそろ、自分の身の振り方を考えなければならない。無理をして地球に居続けたところで、すでにこれまでと同じ日常を送ることは困難だった。土星の官僚からは、我ら土星人が地球を侵略するその日まで地球にいて、注意深く情報を集めろという指令が続けざまに来ていたが、もはや、それを遂行するのは難しくなっていた。マスコミの社員でいられない以上、これまでのように情報を切り取って秘密裏に本国に送ることは出来なかった。それどころか、自分が異星人だと公的な機関で打ち明ける羽目になったことで、これからは地球人からも他の惑星の異星人からも微妙な視線で見られることになる。幸いにして、地球人の多くは、あれだけ衝撃的なニュースを見せられても、未だに身の危険を感じていないようだが、自分がこれ以上この星で諜報活動を続ければ、やがて、土星の思惑に気づく人間が現れるかもしれない。自分に疑いの目を向ける人間があの女の他にも現れるかもしれない。ここから会社まで戻って彼女を説得することは簡単だ。どんなに小賢しい理屈をこねてみたところで、あれは単純な人間、ちょっと真剣な顔をして、『大丈夫、最悪の事態になったら僕が守ってやるから』とかドラマのようなセリフを聴かせてやれば、またほいほいとなびいてくる。しかし、地球の政府はまだ情報を隠し持っているはずだ。土星や火星が地球の資源を狙っていることを嗅ぎつけているかもしれない。遠くない日にそれが発表されたとき、マスコミ関係者の鋭い視線が再び自分に集まることになるかもしれない。その時のために自爆用の爆弾を身につけてはいるが、そんな手段はなるべく取りたくないし、それが使えなくなるような事態に発展するかもしれない。フォックスさんも言っていた。ここは身を引くべきなのかもしれない。
 エンリケ氏はそこまで考えて、ポケットの中の秘密のスイッチを静かに押した。本国へ連絡を取るのは一年ぶりだった。今日になって、自分は善人で地球人の味方だと散々嘘を重ねてきたように、地球という星に多少の未練はあった。本国を捨ててここで安楽な生活を続けることも悪くないと思えた時期もあった。しかし、やはり自分は異星人、地球人と同じ思考を持つには至らなかった。これまで作り上げてきた人間関係の全てに終止符を打つ時が来たのだ。土星に戻れば、これまでのスパイとしての業績が認められて自分も大臣になれるだろうか。地球で一般人として暮らしたこれまでよりは楽な暮らしが出来るのは確かだった。これまで本国へ送った地球の詳細なデータはここを侵略する上で十分役に立つはずだ。今頃本国では何百隻もの宇宙船が地球を爆撃するための準備を整えているはずだった。やがては勇猛な土星軍の兵士がここを攻めてきて、愚かな地球人の首を次々と跳ねるだろう。
 彼はそんなことを考えながら十字路を左折した。人通りはほとんどなかった。角にある電気屋にはまだ灯りがついていた。店内には少数だが客の姿もあった。ウインドウに展示されたテレビでは先ほどの記者会見の模様が続けざまに映し出されていた。マイクを手にした官僚や政治家たちは記者からの鋭い質問に顔を真っ青にして答えていた。これからどんな事態が起こるかなど、彼らにだってわからないのだ。今マイクを手にした大臣は額に脂汗を浮かべながら、記者からの質問にこう答えた。
「ええ、国民の皆さんがお聞きになりたいことはよく承知しております。これまでの異星人との接触の詳細についてですよね。我が日本政府はこれまでも各国と協議を重ねながら、異星人と慎重な態度で接触を持ってきました。ええ、もちろん、相手の要求をすべて飲んできたわけではありません。相手の無茶な要求には毅然とした態度で対応して参りました。ええ、異星人からの要求で一番多かったのは、地球上のどこかに異星人だけが住める土地が欲しいということでして…、まあ、地球も人口過剰でこんな有様ですから、他の惑星が土地問題で困っていても無理はありません。しかしながら、まだ同盟も成立していない惑星の住民を簡単に受け入れるわけには参りません。しかし、土星や火星の首脳は強行でして、移民を受け入れなければ、地球を攻める準備があるとまで言ってきたわけです。我らの心情も計って下さい。そこまで言われて、『いや、ダメだ、異星人は断じて受け入れられない』などと答えてしまえば、火星からの大型ミサイルが雨のように地球に降り注いだかもしれません。多くの命がすでに失われていたかもしれません。そこで、我々政府の首脳は協議に協議を重ねた末に、多くの異星人移民をこの国に受け入れることにしたわけです。皆さんが不本意なのはわかっております。我々としても不本意です。こうして親交を深めていき、やがては火星や土星とも同盟を結んでいきたいと思っております。国民の皆さん、その日までどうか耐えてくださいませ…」
大臣がそこまで話したところで記者会見は打ち切られた。画面が切り替わっても、幾人かの客が信じられないといった表情で未だに画面に釘付けになっていた。エンリケ氏は店の外に出た。
「地球人よ、今さら、あたふたとしても無駄だ」
彼は暗がりの中で一度立ち止まり、低い声でそう呟いた。空を見上げると、雲の切れ間から、何か大きな円盤状の物体が、木の葉のようにゆっくりと舞いおりてくるのが見えた。どうやら、迎えが来たようだ。優しい顔をして、愛想良く地球人の相手をするのはここまでだ。まず非情ありきの土星人らしい心が蘇ってきた。この宇宙船に乗れば、五日ほどで土星に到着する。祖国の土を踏む日も近い。
円盤はこちらを伺うかのように、エンリケ氏の頭上で数回旋回し、それから目の前の空き地めがけて垂直に降りてきた。彼はそれに向けて右手を大きく振って合図をした。周りでこの光景を見ている者はいなかった。円盤は風圧で草木を薙ぎ払いながら、地上に着陸した。上部に付けられた金色のランプがちかっちかっと点滅していた。やがて、ウイーンという機会音と共に正面の扉が縦に開いた。中からはもうもうと煙が吹き出してきた。
「土星外交官エンリケ様、お迎えにあがりました」
内部から機械的な声でそう声をかけられた。エンリケ氏は満足そうに頷いた。
「よく来てくれた。地球での任務はようやく終わったよ」
彼は一度振り返った。辺りに人の気配はなかった。野良猫が一匹こちらを見ていたが、金色に光る宇宙船の姿を見ると恐れをなしたのか、慌てて走り去っていった。エンリケ氏はしばらくの間、名残り惜しそうに地球の風景を眺めていた。おそらく、もう二度とここへ来ることはあるまい。人生の残りの日々は土星で過ごすことになろう。
「地球人よ、安閑としていられるのもあと数日だ。せいぜい、つかの間の平和を楽しんでおくがいい」
その言葉を残して、彼の姿は金色の光の中に吸い込まれていった。
                     了
<2012年9月11日>