この文章の冒頭で、読者には簡単に言っておこう。実は私は大きな秘密を持っている。身の毛もよだつような、その恐ろしい秘密は、人類の中で私にだけもたらされたものである。持って生まれたものではない。まだ若かった頃、何者かに拉致され、手術室のテーブルの上に縛り付けられ、植え付けられたものである。もちろん、その内容は世界が驚愕するようなものである。もし、私が何らかの気まぐれを起こし、これを発表するようなことがあったら、世界のすべての人間は驚愕するだろう。秘密の持つあまりの恐怖に、不条理に、秘密を作り出した人間の醜さに言葉を失い、震えおののくだろう。そして、人類は束になり、秘密を明かしてしまった私を激しく非難するだろう。
『偉そうなことを言うな! 何もおまえだけじゃない、誰だって秘密ぐらい持っているんだ!』
この話をすると、あなた方は常々そう言われる。しかし、それは秘密という言葉の用法を取り違えているのだ。皆さんが言われているのは、嫁さんに隠れて隣家の未亡人と浮気をしているとか、酔っ払っていて思わず近所の犬を蹴飛ばしたら血を吐いて死んでしまったとか、ギャンブルやりたさに会社の資産を横領してしまったとか、その程度のことでしょう。それは誰もが心の奥に隠し持っている、人に見せられない弱みというだけで、絶対の秘密ということにはならない。もっと言えば、あなたさえ死んでしまえば、誰もが真っ白に忘れてしまえる、非常にくだらないものである。
『じゃあ、おまえが持っている秘密とやらはいったいどんなものなんだ? どのくらいの価値があるんだ?』
あなたがたが次にこのような質問をするのは目に見えている。言うまでもなく、私が胸に秘めている情報は、大国がその国家予算をつぎ込んでも知りたい内容であり、その価値は計り知れない。皆さんが話の続きを焦るのも無理はないが、おいおい、秘密の内容をこの文章の中で語っていくつもりである。
 私は毎朝6時に起きて身支度をする。テレビで一応の事件事故を知り、ドライヤーを髪にあてて、紺の背広を着る。そして苦いコーヒーを口にする。ニュースのアナウンサーは数分前のリハーサル通りに一通りのニュースを読み終えると、最後に、『昨日も千葉県在住のT氏はその秘密を誰にも語らなかったようです』と残念そうに告げた。私はその言葉を確認してからほくそ笑み、テレビを消し、革靴を履いて家のドアを開ける。その途端に、ドアの外で今か今かと待ち受けていた取材陣がどっと押し寄せる。彼らは乱暴に私の腕を押さえ付け、いっさいの身動きがとれなくなると、自局のマイクを顔に押し当て、「いい加減に何かおっしゃってください!」とがなり声をあげる。
「今日、あなたがたに発表したいことは何もありませんから、解散して下さい」
私はマスコミの横暴に、いくぶん声を荒らげてそう言ってやるが、誰も納得はしない。自分だけが、自社の新聞だけが秘密を暴いてやるのだと息巻いている。私は仕方なく報道陣を押しのけて進む。彼らも簡単には引き下がらない。壁を作って私を取り囲む。
「なぜ、秘密を明かしてくれないんですか?」
「国民はあなたの言葉を待っていますよ」
「我々にも知る権利があるんですよ!」
「あなた一人で持つには、余りにも重すぎる秘密じゃないんですか?」
後ろからそのように問われるが、聞く耳は持たない。彼らに秘密の重大さを説明してやってもどうせ伝わらず、結局のところ、『それなら、発表してしまったほうがいいですよ』という結論に落ち着くことは目に見えているからだ。私には仕事が待っている。いつまでも彼らに構ってやることは出来ない。彼らの横暴な態度にどんなに頭にきても、暴力だけは奮わないように報道陣を無理矢理左右に押しのけて私は駅に向かった。それでも、しつこくマスコミはぞろぞろと後ろを追いかけてくる。道行く人も、私をすっかり芸能人か何かだと思い込んでいるようだ。見るからに暇そうな主婦たちが、何かひそひそと話ながら私の方を指さしている。毎朝このような馬鹿馬鹿しい光景が展開されるわけで、実は私も少し疲れているのだが、自分が選ばれた人間で、誰にも暴かれない秘密を所持していることに、多少の優越感も持っていることは確かなので、私は嫌悪感を少しも顔に出すこともなく、平然と会社に向かうのである。
 人権も無視するような、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗り込むと、自分もしょせんはしがない一般人なのだと思い知らされる。周囲の乗客たちも、他人の圧力から自分の身を守ることに必死で、私が有名人であることに気づかない様子だ。ふと、隣に立っていた黒いスーツの男が私の耳元でささやく。
「私はある大企業に雇われた者です。あなたが秘密を持っていることを知っています。私の雇い主があなたの秘密を非常に高額で、ええ、あなたが一生働かなくても済むような大金で求めたいと言っておられます。秘密を手放したいと思っておられるのでしたら、今がいい時期だと思いますよ。いかがですか?」
男は柔らかい口調で誘惑するようにそう囁いてきた。私はこれまでにも何度もこういう誘いを受けてきたが、相手の旨い話に耳を貸したことはないし、飛びついたことは一度もない。
「何のことですか? 私に何の秘密があると言うのです? いや、秘密があるとしたって、それは私だけの話ではないでしょう。現代は情報化社会です。いわば秘密の宝庫です。政治・経済・外交、いずれも秘密を持っている。いまさら例えをあげる必要もないでしょう? ケネディ暗殺、ロッキード事件、三億円事件、この社会は、まだ解決されていない事件事故であふれている。マスコミがいつまでもそういう古い事件を追わないのは、決して飽きたわけでなく、限られた人員では、次々と生まれくる新しい事件に対応しきれていないからです。つまり、現代では、秘密を追いかける者より、秘密を守る人間のやり方の方が優れていると、そういうわけなんです。とにかく捜査の期間を引き延ばす、任意聴取するには証拠が足りない、証人が少ないとか、言い訳を付けてね。そのうちに時間が経てば証人や証拠にモザイクがかかります。証言もあやふやになってくる。
『君は本当に犯人の姿を見たのかね?』
『何しろ、辺りはすでに薄暗かったので、絶対に間違いなくその人かと言われれば、解答に困ってしまいます…』そんな言葉が聞かれるようになってくる。
やがて、お上から『もう、調べなくていいから』と御達示がきます。これは権力者が期待していた通りの結末だ。そうなれば、どんな秘密だって暴かれることはないんです」
私はいつも通り強気な態度を崩さずにそう言ってやった。それでも黒いスーツの男は引き下がらず、口元だけを一度ニヤッと歪ませて話を続けた。
「そう、確かにこの世は秘密だらけですね。しかしですね、あなたの持っている秘密は一級品です。現金輸送車が襲われて金が奪われただの、企業から賄賂を贈られた政治家が逮捕されただのといった、新聞を賑わす他の秘密とはわけが違う。あなたが今例えで挙げられたような事件は一般の人間でも薄々とですが、その真相に気がついている。数々の暴露本があり、何度もテレビで特集番組が組まれていて、何も政府関係者だけじゃない、一般の社会人や学生の間にも、そういった過去の大事件の秘密が囁かれている。結局のところ、真相はこんなところだろうと、誰もが話している、暇な休み時間に漫画を読みながら想像している。
『あの事件は調べていくうちに、お上にとって何か都合の悪いことが見つかったんだ』
放課後の喫茶店でひそひそと噂しあっている。しかし、あなたが持っている秘密は、そんな誰もが真相を知っている秘密とは違う。この社会の裏に、確実にケネディ暗殺より恐ろしい陰謀が、あるいはギロチン処刑よりも恐ろしいものが存在する。しかし、我々はそれを目にすることはない。話に語ることもできない。政府関係者はすっかり口を閉ざしている。企業家はそれを早く知りたいと躍起になっている。国民の誰もが秘密がどこかにあることを知っている。黒ずくめの官僚が料亭で話している。
『どうやら、あそこに秘密があるらしい』
外国の二重スパイ同士のカップルが、お互いをうまく騙しながらベッドの上で夜通し語り合っている。
『どうやら、この国にはすごい秘密があるらしいわ』
しかし、誰も本丸にはたどり着けない。なぜなら、今回ばかりは政治家の黒幕や、石油ファミリーや経済界の大物がそれを握っているわけではないからです。そういう有名人が秘密を握っている場合は話は簡単です。足を忍ばせて近づき、袖の下で札束をやり取りしたり、そういう有名人のお気に入りの女を買収したり…、何しろ、そういう人間はネクタイを外せば隙だらけで、高いウイスキーと、とびっきりの美女がいれば何でも話しますからね。しかし、今度ばかりはその手は使えない。何しろ、秘密を持っているのは、しがない一般人のあなただ。しかも物欲金欲がほとんどないときている。性欲を満たすような特定の女もいない。家系を調べていってもたかが知れている。どこまで辿っても出てくるのは百姓ばかりだ。そこで、どうしても知りたい人間は私のような薄暗い人間に依頼しなければいけないわけです」
男は淡々と事情を説明した。
「なるほど、あなたの事情はよくわかりました。しかし、やはりこの秘密は渡せませんね。実を言いますと、私の秘密はやや入り組んでいまして、これを発表したところで、誰が特をするのか、誰が被害を受けるのか、私自身にもよくわからないのです。何しろ、これまで人類が目にしたこともないような秘密ですからね。あなたが言われた政治家や企業家なんて目じゃありません。これを知ったら路上でマリをついて遊ぶ小学生の女の子から、むきになってキャベツの大安売りをしている八百屋の店員まで、みんなが目を丸くして驚きます。『何だって! この国にもそんなものがあったのか!』ってね。あなただって、今は冷静にしていられますが、秘密を知ったら驚くだけじゃ済みません。頭を掻きむしって、『なんてこった。そういう秘密なら明かさないでいて欲しかった』ぐらいのことを言い兼ねませんよ。つまりは知らぬが仏というやつです」
私は意地悪な態度でそう言ってやると、その男の手を押しのけて目的の駅で降りた。
 そこからは徒歩でとぼとぼと人目を避けるように移動し、15階建ての自社ビルに乗り込むと、広い会社のロビーを通過する際、受付の前でさっそく呼び止められた。
「おはようございます。どうです? 今日もまた秘密を明かさないで来たんですか?」
清楚な恰好をした受付嬢は、愛想よく目を輝かせてそう尋ねてきた。人気者の彼女は、他のつまらない社員には、決してこんな笑顔を見せたりはしない。こんな華やかな女性でさえ、私と近づきたくなるのは当然だ。私はこの会社で唯一の特別な人間だからだ。私のような立派な秘密を持っている人間は他にはいない。誰もが私と友人になりたいと思っている。一緒に都会の裏通りにある薄暗い酒場で飲み明かしたいと思っている。陽気な気持ちのままでビリヤードを楽しみたいと思っている。しかし、彼女は秘密というものを、甘いお菓子ぐらいにしか考えていないらしい。それはひどく幼稚な考えだ。だが、まだ心が社会に汚されていないということか。秘密に利益を見出だす者にとっては、これを手にすることによって、純金の延べ棒やブランド物のハンドバッグ以上の差をライバルにつけることが出来るのだ。この受付嬢に悪意はないようだが、社員の中には私を上手く手なずけて、うまいこと秘密を聞き出して、即刻外国に高跳びしてやろうと目論んでいる人間もいる。私の持つ秘密を出世の糸口にしようとしている人間もいる。だから、私は人を騙すことも知らないような、こんな純粋な娘にも甘い顔をしてやることはできないのだ。
「悪いが先を急ぐんだ。君と長話をするわけにはいかない」
そう言ってやると、受付嬢は普段の冷静さを取り戻した。彼女は真剣な表情に戻ってペコッとお辞儀をした。私が可愛い女なら誰にでも甘い顔をする男ではないと悟ったらしい。
「失礼しました。今日も一日お仕事をがんばって下さい」
私は軽く手を振って彼女と別れた。エレベーターに乗り込むと、今度は後から話しかけられた。
「やあ、T君、次の日曜日、一緒にゴルフでもどうかね? 実は取引先の幹部たちにも、君を紹介すると約束してしまったんだよ」
営業部の部長は気軽にそんなことを話してきた。
「部長、すいませんがそれは無理です。何しろ、私には秘密があるんですよ」
私は機嫌が悪かったので、少し上目遣いにそう言ってやると、部長はすぐに頭を下げた。
「すまなかった…。私としたことが、気安い態度で君を誘ってしまうなんて…。どうか、腹を立てないでくれ。ゴルフのことは、出来たらでいいんだ。今度暇が出来たら考えておいてくれたまえ…」
部長はそう言って深々と頭を下げると、足早にエレベーターから降りていった。彼のような重役でも、私を心底恐れていることが見て取れた。
こういった一連の出来事でもわかるように、社内での私の地位は特別である。万年平社員だが、大きな秘密を持っていることによって、ある意味管理職以上の特権を手にしているのだ。うちの会社の幹部にしてみても、私という存在が社内にいることによって、人材の面で他の企業を一歩リードしている気にもなっているらしく、取引先にも自慢することが多いらしい。
『うちの会社には、T君という社員がいましてね…、そうそう、あのTです、顔がいいというわけではない…、仕事が出来るというわけでもない。しかし、何しろ、ご存知の通り、すごい秘密を持っているんですよ…。もちろん、それをどう使うかは私の一存で決められます。彼は私の言うことなら何でも聞いてくれるんです。秘密をどう扱うかは私の一存で決められるんですよ。今期の受注は、絶対うちの会社にしておいた方がいいと思いますよ。あの秘密がある以上、御社に損はさせません』
そうやって取引中の決め文句に使うらしい。秘密の効果は絶大だ。おかげで我社の業績は右肩上がりなのだ。ただ、時には、私だって仕事に失敗することもある。上司から呼び出しを食らうこともある。
「T君、君が企画したプロジェクトだがね…。どうやら、客の入りがいまいちらしくて、大幅な赤字を見込みそうなんだ…」
眉間にシワを寄せたうちの課の課長代理からそう言われたときも私はまったくひるまなかった。
「なんですって? 私の企画が失敗だったとおっしゃるんですか? あなた、私に向かってよくそんなことが言えますね。私にとてつもない秘密があることぐらい、とうにご存知ですよね? これを上手く使えば、まあ、それは限りなく汚い手段になりますが、顧客の耳に、秘密を上手く囁きながら立ち回れば、私はいくらでも成功することが出来るんです。あなたより上の地位にいつでも就けるんです。これまで私の面倒を見てくれたあなたをあごでこき使うなんて、そんな大それたことをしたいとは思いませんがね。いや、こんな小さな会社に、いつまでもいなくてたっていいくらいなんです。どんな大企業だって私を欲しいと思っているんです。私がこの会社に留まっていることはいわば恩情ですよ。政治家や芸能人だって私には道を開けるんです。野良犬や野生の熊でさえ、私の秘密を恐れている。私は誰にだってなれるんです。この秘密さえあればね。もちろん、私は自分の才能をひけらかすような、そんな真似はしませんけどね。あなたがたより格段に優れているという自己満足で十分なんです。ただ、もう少し言葉遣いには気を使っていただけませんと」
私にこの台詞を言われてしまうと、上司たちはもう平謝りするしかない。私を不用意に怒らせた日には天地をひっくり返されることになる。秘密の持つ意義はそれほど大きいのだ。普段は誰とも気楽に付き合ってやっているが、私が怒ればその矛先はどこへ向くかわからない。本当のところは、みんな心底私を恐れているのだ。
 ただ、こんな生活を続けているうちに、私も精神的に疲れてくることはある。それは、私に心の内を打ち明けてくれる人がいないからだ。上司はもちろん、同期の社員でさえ、私とは一歩距離を置いて仕事をしている。私をくだらない仕事に巻き込んで、迷惑をかけまいとしている。私と深い付き合いをして、下手に弱みを握られるのが恐いのだ。私の心の奥底に深くて暗い底無しの沼があることを恐れているのだ。そういうわけで、本音で話せる友人というものが私にはいない。本当の悩みが出来たときに私は誰に相談すればいいのだろう? 
 会社を動物園だとすれば、他の社員は一般的な見せ物の、象や猿やペンギンだが、私はいわば人気者のパンダなのだ。生まれたばかりの子供から杖をついて歩く老年まで、皆が私に注目している。私が笹を噛むとことを見るために遠路はるばる来ている。誰もが私の行動を知りたいと思っているし、私の仕事を観察するためにここへ来ているのだが、他の動物からすれば、嫉妬の対象でもあり、一目置かざるを得ない対象でもある。自分のお客を取られても文句も言えず、自分より餌を多めに取られても、隣の部屋のリスは愛想笑いをしなければならない。私は独善的であり、私は強権的であり、私は孤独である。他の動物のようにわざわざ客にパフォーマンスをして人気集めをしなくてもいいが、誰からも愛されているようで、実は誰からも理解されていない。私と本音をぶつけ合う人間はいないし、涙をこぼしながら説教をしてくれる人もいない。本当の愛を打ち明けてくれる人もいない。すべて、上辺だけの付き合いである。
「あの人はこれから、あの大変な秘密と、どう付き合っていくつもりなんだろう?」
みんなが同情を込めた視線で私を見つめている。私を少しは心配もしているし、それ以上に残忍な結果を望んでいるのかもしれない。どうせ秘密が手に入らないのであれば、私が最後に派手にすっころんでくれた方が、彼らにとっては良い結果なのだ。そのときになって、初めて私に向けて大衆からの嘲笑の笑い声が浴びせられるのかもしれない。
 私には百万長者の気持ちがわかる。みんなからは羨ましがられるが、彼だって本当は苦しんでいる。財産は守らなければならない。これ以上に増やしていくことは苦しみをさらに大きくする。家族だって信用は出来ない。昨日まで笑顔で会話してくれたのに、今日になって、スープに毒を盛られるかもしれない。自分が死んだとき、それをどう処理すればいいかもわからない。遺族たちが相続を巡って言い争うことは目に見えている。税務署と弁護士が舌なめずりをしている。顔も見たことも無いような遠い親戚まで自分の死に期待をしている。自分が死んだ後に平穏などないのだ。未来のことを思うと、現実の金銀財宝もちっとも楽しく思えないものだ。私とて、それと同じである。他人を絶対に寄せつけない、国家の主でさえ、スポーツ界の英雄でさえ、私に一目を置く、その圧倒的な優越感はあるが、では、この秘密をどう扱って、どのようなタイミングで、どう処理していけばいいのかは、私にもわからないのだ。秘密はどこまでもついてきて私の耳元で囁く。
「おい、いつまで隠し通しているつもりだ? 早く、おおっぴらにして楽になっちまいなよ」
しかし、その誘惑にのるわけにはいかない。秘密あっての私である。秘密が消化されてしまえば、私もただの一般人になる。誰からも相手にされなくなる。受付嬢も下を向いてしまう。他人の笑顔は私を素通りするようになる。今までのでかい態度の仕返しをされる。暇つぶしに折られた紙飛行機が頭上を通過するようになる。苦虫をかみつぶした上司に肩を叩かれるようになる。いずれは会社を追放される。自宅にも住めなくなる。うかつに通りも歩けなくなる。さすがに一般人に戻るのはごめんだ。不本意ながら、秘密は守らなければならない。私の苦しみがわかっているのは血の繋がった家族だけだ。実家に帰れば、家族は心配して声をかけてくれる。
「今は我慢するしかないよね。それでも、秘密をばらしてしまいたくなったら、まず、母さんに教えるんだよ」
「なぜ、そんなに大きくなるまで放っておいたんだ? もう、誰も近寄れないほど秘密がでかくなっているじゃないか」
「兄貴は、最終的にその秘密をどうしてしまいたいわけ?」
みんな気を使って話しかけてくれる。それでも、私は上手く話を逸らして自分以外の人間をこの秘密に巻き込まないようにしている。
「大丈夫だ、いざとなったら、秘密を小出しにして上手く切り抜けるさ」
含み笑いを浮かべながらそう答えるが、心中は相当に迷っている。母親が作ってくれた筑前煮も味がしない。

 秘密の持つ重さに、次第に疲れてきた私は、三ヶ月ほど前から精神科に立ち寄るようになっていた。今日仕事帰りに立ち寄ったときも、精神科医院の先生は悩み一つないような笑顔で迎えてくれた(もちろん、彼が顔を青くして思い悩んでいるようなら、この世は救われないだろう)。頭にはほとんど髪の毛は残っておらず、丸い輪郭にそれ以上に丸い眼鏡に白い髭をたくわえていた。
「どうしました? また秘密が悪さをするようになりましたか?」
彼は間違いなく自分には悩みなどありませんと言い切れるような明るい表情でそう尋ねてきた。
「いえ、もう長い期間に渡って、このやっかいな秘密と付き合ってきました。そりゃあ、最初は誇らしい気持ちにもなりましたよ、秘密を植え付けられたときは苦痛など微塵もありませんでしたよ。『どうだ、この世で俺だけがこんな立派な秘密を持っているんだ。俺はこの世界でもっとも存在意義のある男なんだ。人の心を簡単に言い当てる、どんな優秀な心理学者でも、俺の秘密を知ることは出来ない。そいつらは偽者だ。俺だけが本物なんだ』そう思いながら暮らしていたんです。怖いものなどありませんでしたよ。ですが、近頃はそう楽観も出来なくなってきました。なにしろ、一生爆発させてはいけない巨大な時限爆弾を、腹に抱えて生活しているようなものですからね。しかも、どうやら、この秘密は少しずつ成長していっているようなんです。私はどうすればいいんでしょう? 家族にも友人にも、この苦しみは決してわかりません。先生、あなただって、他人事だと思っているから、一人娘から誕生日プレゼントを受けとったときのような輝かしい顔をして、私の秘密と向き合っておられますが、これがもし自分のことだとしたらどうです? 胸の中に無理矢理秘密を埋め込まれたのが、もしあなた自身だったら。そんなに無邪気な笑顔でいられますか? いったい、何が可笑しいんです? もし、私の話を他人事にして、そんなに笑えるのだとしたら、あなたは真っ当な医者ではない。ペテンではないですか!」
私は苦しい表情でそう伝えた。先生は深く頷くと、私の胸に聴診器をあてた。
「なるほど、そこまでおっしゃるからには、あなたの秘密もいよいよ抜き差しならないところまで育ってきたのかもしれませんね。薬だけではほとんど効果が無いようですね。一度、レントゲンを使って心の内部の様子を見てみましょうか?」 
「レントゲンですって? ここは精神科の病院なのに、レントゲンが置いてあるんですか?」
先生はそれを聞いても、当たり前だとばかりに、にこやかに頷いた。
「もちろんですよ。患者の悩みを聞いて、『それは大変ですね。では、お薬を出しておきましょうか』しか言えない医者は二流でして、それほど稼ぐものではありません。欧米から伝わった最新の医療では、患者の心を放射線で素通しして、心の秘密、まあ、あなたの持っている秘密に比べれば、他の患者の内心などは、どれもくだらないものですが、それを探し当ててから治療の方針を定めることがあります」
精神科の先生は私を隣の治療室へ案内した。そこは青いタイルに覆われた清潔そうな部屋で、まるで手術室のように細々とした機械が置いてあった。患者の状態を示すモニターがいくつも並べられていた。
「その台の上に横になって下さい」
彼はそう言ってから看護婦を一人呼んだ。
「これから、レントゲンを取るから。この患者さんは大変な人間不信になっておられるけど、心の奥にたいそうな秘密を持っているらしいからね。なんとか、それを暴いてみようと思うんだ」
「わかりました、それでは、重症患者用の高性能なレントゲン装置を起動して参ります。これを使えば、その秘密がどの程度まで大きくなっているか、どの程度まで患者の心を蝕んでいるか、はっきりとわかると思います」
看護婦はそれだけ言うと、足早に操作室へと消えていった。彼女が部屋から出てしまうと、初老の医者は部屋の電気を薄暗くして機械の起動に備えた。
『自分の秘密を見てショックを受けて大暴れしたり、卒倒する方もいますのでね』
彼はマニュアル通りにそう言うと、身動き出来ないように、私の手足を台の上に縛り付けた。私はレントゲンを起動する大掛かりな機械を見るに至って、急に不安になってきた。そこで、寝っころがった姿勢のまま、先生の白衣を右から掴んでぐいぐいと引っ張ってみた。
「何です? 急に不安になりましたか?」
「先生、そうではないんです。私はずっと何者かに秘密を埋め込まれた、自分の意思に反して、いつの間にか秘密を持たされたと思って生きてきました。ですが、実はそうではないのかもしれない。思い詰めて考えているうちに、最近は心の中で逆のことも考えるようになったんです。つまり、秘密を巡る一連の馬鹿騒ぎはすべて私の妄想で、本当はただの一般人に過ぎないのではないかと。社会の片隅で効率のいい歯車となって働く、取るに足らない男が浮世の冷たさに腹を立て、自分や同僚のつまらない失敗にストレスを募らせ、ある日を境に、自分は特別な人間ではないかという空想を働かせるようになったのではないかと。もちろん、それは自分の背負った現実が少しでも軽く楽になるようにと願ってのことです。ええ、早くいえば、現実が嫌になり、想像の世界に逃げるようになったというわけです。しつこく追ってくるマスコミや、私に媚びへつらう同僚などは、すべて私の想像の産物なのです。本当は誰も私のことなど、道端に生えている恵まれない雑草のように気にしていないのです。大都会の雑踏に紛れる一般人だったのです。本当は秘密などどこにも存在しない。そういう、結論はいかがですか?」
先生はそれを聞いて、一度白い口髭を触り、首を横に振った。
「確かにそういう患者さんもおられますけどね。誇大妄想症とかいいまして…、自分への不満を募らせる余り、ある日を境に自分を宇宙人やら大統領だと思い込んでしまい、他人に暴言をぶちまけるようになり、意思の疎通が取れなくなり、日常生活が送れなくなってしまう方ですね。あまり知られていない病気ですが、よくご存知ですね。何かの本で読まれたんですか? あなたの言われる、そういう病気は確かにあります。しかしですね、あなたの場合は残念ながら本物です。心の内に本物の秘密があるんです。苦しいのはよくわかりますが、この世で唯一の秘密を持つという、この重苦しい現実から逃げることは出来ませんよ」
「先生、それを聞いて少し安心しました。例えば、自分は癌ではないかと思い込んでいる患者さんが、大掛かりな医療機器で数日がかりの検査をすることになったとき、『癌じゃなかったらいいなあ』と願う気持ちがあるのは当然なんですが、それと同じくらい大きな気持ちで、『親戚や家族も引き連れてきて、ここまで大袈裟な検査をするんだから、癌ではないにしても、それ相応の病気にはかかっていないと困る』という微妙な心理が働くものなんですよね。気恥ずかしさが先に立つんでしょうかね。自分は重病だと大騒ぎしておいて、身内の人間を驚かせておいて、実際は何もなかったでは収まりがつきませんものね。もちろん、それなりのお金もかかっているわけですし。つまり、癌が発見されたとき、ほとんどとは言いませんが、ある一定の患者さんの心理には、『ああ、実際に癌があって良かったなあ』という気持ちもあると思うんです。自分の推論が当たっていてほっとする気持ちですね。私もそういう患者と同じ気持ちです。先生から秘密があると言って頂けて良かったです」
「では、レントゲンを撮影しますね。身体の力を抜いて一度呼吸を止めてみてください」
ガシャン! という小気味よい音がして撮影は無事に終了した。ベッドの横に設置されているモニターに私の身体の内部が徐々に映し出されてきた。上半身がすべて映し出された頃、突然、「ああ!」という大きな声を上げて看護婦が倒れ込み、床に両手をついてしまった。こんなに残酷なレントゲン写真を見たことがなかったらしい。彼女はハンカチで口をふさぎ、涙をこらえながら足早に部屋から飛び出していった。
「すいませんね、あの子はまだ経験が浅いので、本当の秘密というものを見たことがないんですよ。あなたの体内の秘密を見てショックを受けてしまったんです」
「先生、それで、わ、私の秘密はどうなんです? どういった種類のものなんです?」
すっかり怖くなって、私は声を震わせながら尋ねてみた。
「そうですね、右胸の上部に大きくモヤがかかっていますね。おそらくこれが秘密でしょうね。最初は肺の下の辺りに埋め込まれたと思われますが、それがあなたの自尊心と共に大きくなっていきまして、今ではもう、取り返しのつかないほどにまで成長しています。いやいや、長年この仕事に従事しておりますが、ここまで立派な秘密は見たことがありません。ほとんど末期的です。ここまで成長してしまいますと、今からでは吐き出すことも叶わないでしょうね」
医者はモニターを指さしながらそう説明してくれた。モニターを見ると、確かに右の肺の辺りに紫色のモヤが大きくかかっていた。
「なんとか、取り出すことは出来ませんかね?」
私は懇願した。
「取り出したいとおっしゃるんですか? 秘密というものは腫瘍とは違います。持っているからといって決して悪さをするわけではありません。すべて、秘密を持つ人間の行動や態度によって良し悪しが決まります。秘密を持っていることをおおっぴらにしてしまいますと、後で後悔することになります。世間からの視線が煩わしく感じるようになります。次第に、孤独と寂漠感に堪えられなくなります。しかし、これが唯一のものであることは事実です。あなたの名誉のためにはこれはいいものかもしれませんよ。何しろ、世間を見回しても、こんなに大きな秘密はそうざらにありませんからね」
「私も最近まではそう思っていました。自分は特別な人間だから、何も持たない人間に比べて幸せだと考えていました。しかし、慎重に考えを進めてみますと、今、私を半ば支配しているこの秘密が本当にいいものなのかどうか、わからなくなってきたんです。色んな人が私に近づいてきます。有名な人も魅力のある人も私に興味を持ってくれます。しかし、それは私の才能や外観に惹かれているわけではなく、秘密という、この一点に惹かれているだけなんです。私はまるで玉ねぎです。秘密という皮をむいていっても中には何も残りません。単純な一人の人間という、つまらない芯が顔を出すだけです。秘密が私という存在をわからないもの、世間的な評価を未知数なものにしているのです。私はもう秘密には飽き飽きしました。秘密を持たない元の自分に戻りたいと思うようになったんです」
「お考えはよくわかりました。では、このポリ袋を使ってみましょう」
医者はそう言うと、半透明の大きな袋を取り出した。袋の表面には中央の大変目立つところに、大きなドクロのマークが印刷されていた。
「この中に自分の秘密を思いっきり吐き出してみてください。うまくいけば、もう秘密と付き合わずに済みますよ」
私はすっかりその気になって、奪い取るように医者の手から袋をもぎ取った。袋の入口に口を当てて、大声で叫んだ。
「新宿の倉庫街には……、恐ろしいものが、人が見てはならぬものが住んでいる!」
医者はこの秘密を聞かないように、私が叫んでいる間耳を塞いでいたことは言うまでもない。私は何度か同じようにして秘密を叫んでみた。しかし、外に吐き出そうとしても、秘密は胸の内に留まったままで、なかなか外には出てこなかった。船舶のイカリのような形状をして喉にかかってしまうのか、それとも、あまりに長い年月が経過するうちに、赤茶色の錆となって、私の心の内にこびりついてしまったかのようだった。隣の診察室では看護婦がむせび泣いている声がいまだに聞こえてきた。秘密の詳しい内容も知らないくせに、まだ立ち直れないのか。それとも、こんなに苦しんでいる私に同情の念もあるのかもしれない。
「なるべく、秘密を具体的に語った方がいいと思いますよ。すべてが明確に発表されない限り、秘密を明かしたことにはならないのですから」
医者は一度耳から手を離して、同情心からそうアドバイスをくれた。
「だめだ、そんな詳しくは語れない。秘密を具体的に話すと、あなたたちを不必要に巻き込むことになるし、何より、それでも外へ出ていかなかったときのリスクが計り知れない。自分の中に秘密を残したまま、今度は秘密を打ち明けた罪悪感に悩まされることになる。私の場合、治療に失敗しましたでは済まされないのです」
「そうですか、それでは治療はここまでですね。お代はいりませんからお帰り下さい」
医者は少し不機嫌そうに、それでもなるべく丁重にそう言うと、出口のドアを開いた。彼が治療に失敗した唯一の患者かもしれなかった。扉の隙間からは私の心のように薄曇りの灰色の空が見えた。人通りはなかった。私は靴を履いてから安心して外へ踏み出した。
「あなたのことがどんな結末を迎えても、私はこのことを、あなたが今してくれたことを忘れませんから!」
後ろから看護婦がそう叫ぶのが聞こえた。私がこの先でどんな目に遭ったとしても、彼女にとって、そこまで大袈裟なことにはならないだろう。

 行き過ぎる人が覗き込むように私の顔を見ていった。『この男もしぶといな。まだ、秘密は暴かれていないようだ』と思っているのかもしれない。私は小さな商店街に足を踏み入れた。夕方になろうとしているのに客の数はまばらだった。この国の経済がすっかり麻痺してから久しい。ここも不景気なのかもしれない。惣菜屋の女将が店の外にバケツを置いて、何かにとりつかれたように、すごい形相で道路に水をまいていた。辺り一面のアスファルトが水びたしだった。
「これでもか、これでもか」
彼女は何かを忘れ去ろうとするかのように、真っ赤な顔でそう言っていた。
「今日はそんなに暑いですか?」
私がそう尋ねると、女将はイライラしたような表情でこちらを向いた。
「違うのよ、私は猫が嫌いなの。あの泣き声を聞いただけで鳥肌が立つわ。猫が寄り付かないようにしているのよ。それとも、動物が寄りついて、何かいいことってあるかしら? 今日は、何もいいことが起きないから、せめてそれだけでも成功させたいの」
「もし、よろしければ、コロッケを2つほど売ってくれませんか?」
このままでは通行人といさかいを起こしてしまいそうだった。私は彼女の気性をなだめようとして丁寧な口調でそう話しかけた。
「早く、中に入って、本当はあなたのような素直なお客が欲しかったの」
女将はそう言って今日初めての笑顔を浮かべ、品揃えを見せてくれた。
「から揚げもいいですね。こちらにしましょうか」
私は自分のことがうまくいかないから、せめて他の人間の役に立ってやろうと思い、いくつかの商品を指さしてみた。
「あなた、よく見たら有名人じゃないの?」
女将は何かに気がついたように動きを止めた。
「ええ、実は秘密を持っている男なんです。私のことをテレビで見たことありますか?」
私は少し照れ臭くなってもじもじした。まだ、有名人に慣れきっていなかった。
「いいわねえ、その歳でもう秘密があるなんてねえ…、あなたのような人から見れば、惣菜を売って日銭を稼ぐ人生なんて、ずいぶんつまらないものに見えるでしょうね…」
「そんなことありませんよ。秘密っていうものも、慣れてくるとそれほどいいものじゃないんです。深く考えているうちに、少しずつ気持ちを暗くすることもあるんですよ」
私はそう言ってから商品の代金を支払った。女将はコロッケを丁寧に梱包してくれた。
「私に秘密を打ち明けてくれるなら、惣菜の代金なんていらないんだけど…」
女将は最後に少し恥ずかしそうに、少し悔しそうにそう呟いた。私は商品を受けとって苦笑いをすると、それ以上何も語らずに店の外に出た。
 まだ天気は崩れなかった。家に帰るまでもちそうだ。役に立たなかった医者を恨むわけにはいかない。秘密のことはあきらめよう。そんなことを考えながら駅までの道を歩き、私はすっかり油断してしまっていた。自分が孤高の存在で、ボディーガードも付けずに歩いていることを忘れていた。気がつくと、真っ黒なスーツを着た二人組の男が私を取り囲むようにゆっくりと近づいてきた。上の空だったので、私は身構えることさえ出来なかった。サングラスをかけた男が右手に刃渡り15センチはあるナイフを取り出した。私は顔を真っ青にして慌てて振り返り、逃げようとしたが、もう一人の男に回り込まれてしまって後ろから羽交い締めにされてしまった。
「今日はこんな日なんですよ! な、何をやってもうまくいかない日なんです!」
私は助けを呼ぶために思いっきりそう叫んだ。
「うるせえ! 黙れ!」
もう一人の男が素早く近づいてきて、私の喉元にナイフをあてがった。すでに万事休すだ。私は抵抗することさえ出来なかった。
「待ってください! あなたがたは誰ですか? もしや敵対する思想の持ち主ですか? 私のこれまでの行動や発言に腹を立ててしまったんですか? 落ち着いてください。どんな感情が発生したとしても、直線的に行動してはいけません」
「うるせえ! 俺達の目的のものさえ出せば許してやる。余計なことをそれ以上語ると刺し殺すぞ」
私の説得をまるで聞いてくれず、男たちはすごい剣幕だった。彼らは間違いなくギャングだった。思想哲学や道徳など微塵も持ち合わせておらず、最初から、私に危害を加える目的で近づいてきたようだった。話し合う余地なんてどこにもなかったのだ。それでも、私は焦りのあまり、何とか男たちを説教出来ないかと考えていた。
「代々木ってのはまったくいい土地だぜ。新宿と渋谷という二大都市に挟まれているのに、この静けさだ。通行人なんてほとんどいねえ。おまえが、どんな秘密を語ったところで、あるいは語らずにどんな死に方をしたところで、それを見ている人間はほとんどいねえぜ」
男はそう言いつつ、舌なめずりをしながら、私の首の皮の上をナイフを滑らせていった。
「待ってください! 世の中には色んな思想の人間がいるとは言え、短絡的な思考を持った一部の人間は、賢明な議論を避けて、すぐに直接的な行動に出ると思うんです。今のあなたがたがまさにそうです。自分たちの極論を押し通そうとするだけで、話し合いにもなりはしない。そのやり方では、結局大衆の大勢を納得させることは出来ないんです。近道のようで、実は非常に回り道をしているわけです。まるで、前世紀の人間の考え方です。もはや、武器を突き付け合って、互いに脅しながら議論する時代は終わりました。今は、大衆の心の揺れ幅が政治を動かすようになったんです。市民も話し合いに参加する世の中になりました。旗を立てて、顔をマスクで隠してデモ行進をする時代も終わりました。今は個人の小さな主張こそが大事です。これまで見向きもされなかったおとなしい職業の人の強い主張が、これまで政治に無関心だった小市民の感情を揺れ動かす時代です。まずは話し合いです。憎しみや怒りはさておいて、お互いが譲歩しませんと大衆を納得させるような本当にいい結果というのは出ないと思うんです」
「だから、うるせえ! 何をぶつぶつ言ってやがる! 早くこっちへ来い!」
これだけ真面目な話を聞かせてやっても、まるで取り付く島がなく、彼らは私を引きずったまま裏路地の方へと移動していった。私は無駄な抵抗はしなかった。武器を持った相手をこれ以上逆上させるのはまずいと思った。しかし、このまま殺されるわけにもいかない。まして、簡単に秘密を明かすわけにもいかない。何とか、彼らを説得して解放してもらうほかなかった。
「お二人さん、焦ってはいけません。とにかく私の話を聞いてください。それだけでも考えが変わるかもしれません。この世の中は広い、この国にも色んな人間が住んでいる。その事実を軽んじてはいけません。自分の身内で語られている軽率な事柄だけで人生を論じてはいけません。それこそ誤解の元です。愚かなる人間にたびたび訪れる勘違いの源です。『息子よ、おまえは賢いな』父親にそう言われても鵜呑みにしてはいけません。どんなに世を拗ねていても部屋に篭りきっていてはいけません。我々が食う寝る遊ぶを楽しんでいる、この世界は金魚鉢ではありません。ここは大海なんです。たまには目を遠くに向けるべきです。大海の彼方にオーロラを探すべきです。されば、新しい考えも芽生えます。上から下から右から左まで思想は様々です。身近な人間の中から自分と同じ思想を見つけることさえ難しい。親兄弟でも意見は食い違います。官公庁も大企業も学校もスポーツ界も内部ではそれこそばらばらです。広大な森林に住み込む雑多な鳥たちが、それぞれ違う声で鳴くのと同じです。昨夜のスポーツの話題はみんなで楽しんだ。やたらと感情を出しすぎるバラエティ番組の司会者への不満もそれなりに受け入れられました。ここまでの雰囲気はまずまずです。笑顔がほとばしる、軽い冗談が飛び交っている。しかしですね、思想信条について話が及ぶと途端に意見がまとまらなくなる。各々が目をぎらつかせて勝手な持論を叫びだす。他人の意見には耳を貸さない。娯楽や芸術と政治は同等には語れないというわけです。政府はメディアを利用して色々と画策しているようですが、思想の統一というわけにはなかなかいかない。そんな中で、現在は自由と平和思想が町を支配しています。それぞれが生きたいように生きて、不満は多くあっても、とりあえずは暴力を避けるように他人と付き合う。極力トラブルが起きないよう、無難なところに落ち着いたわけです。しかし、みんなが同じように成長するわけではありません。中には、あなたがたのような世に馴染めない人達も生まれてしまいます。善良な教師の声に耳を貸さず、終始下を向いて薄笑いを浮かべています。そして、草影に身を潜め、いたいけな子供の手を負傷させた毛虫が、やがては毒蛾に成長するように、不幸な人間は結局他人の正論に耳を貸せないまま成長してしまいます。常識や道徳という苦いドリンクを飲み干せなかったんです。上下関係や権力という言葉はなんとか認めたのに、スポーツや芸術における他人の才能を尊敬することは出来たのに。道徳という観念だけが信じられなかったんです。どんな平和国家であれ、殺人事件や交通事故をゼロには出来ないように、これは必然です。涼しい風が吹き渡り、牛や鹿が平和に草を噛む牧草地で、殺人事件が起きないというわけではないんです。そこに複数の思想を持った人間のある限りです。悪しき事件の起こる確率をゼロにすることも、限りなくゼロに近づけることも難しい。それは人間が代を重ねていけば、必ず正義や道徳を履き違える人間が生まれるからなんです。彼らが前提とするのは金と権力です。愛情や友情ではない。人生のどこかで優先順位を入れ替えることに失敗してしまった。教師の一言に、両親からの叱責に素直に耳を傾ければよかったのに、それが出来なかった。彼らの心には一般人への尊敬がありません。大多数の庶民を自分と対等という関係に置き換えることが出来ません。暴力や権力を盾にして態度の弱い人間を見下してしまいます。つまり、あなたがたは自分の正義を例え凶器を突き付けてでも押し通そうとする人間なんです。あなたがたのような社会をそねむ人間のことを頭が悪いとは言いません。それを言ってしまえば、おのずから新たな確執、新たな争論を引き起こすことになりますからね。自分を常識人だと主張するなら、敵に対しても口を慎むべきです。無用な感情の高ぶりを抑えるべきです。しかし、自分の主張を社会に反映させるために、結局は極論に走るしかないような人間は、どの時代にも、いずれの国家にも生まれるものなんです。昔の文学者はこれをならず者などと表現していますね。百年を生きた心理学者ならこう述べるでしょう。『ああ、こんな愚かしい事件も、私にはすでに慣れっこなのだ』とね。それは、どんなに鬱陶しいと思っても、ハエや蚊を絶滅させることが出来ないのと同じです。しかし、黙認は出来ても、暴力を肯定することは出来ない。さりとて、少数派の意見で政治を動かすこともできない。勘違いから生まれた金の亡者たちの愚かしさに民主主義の舵取りをまかせるわけにもいかない。そういう人間を野放しにしておくこともできないわけです。人民の95%は社会に従順に育った。法律を守れる、他人を尊敬もできる。後に残るは少しの人達、つまり、社会の残り5%ですよね。これを教育するためにはどうしたらいいか、私は考えたんです。そこで思いついたのが、今は義務教育などといいまして、児童には小中9年間の学業が義務付けられていますが、これを撤廃しまして、取り合えずは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読めるようになるまでは、教育機関から出さないようにする、例えいくつになろうが、立派な感想文を書けるまでは社会に出さないようにするんです。これはどうでしょう? こういう教育を行うことによって、社会の不道徳な人間をさらに減らすことが出来るように思うんです。もちろん、これは刑務所での教育や、人身事故を起こして免許失効になり、それを再取得しようとする人間の教育にも使えます。この倫理教育を続けることによって、社会をさらによくしていくわけです」
私がそこまで話したところで、ギャングは右手で思いっきり私の頭を殴りつけた。私は後方に跳ね飛ばされた。
「もう、たくさんだ! やせ細った犬のように、くだらねえことをきゃんきゃんと騒ぎやがって! そんな理屈っぽい話、とても理解できねえ!」
私は大きく両手を振って助けを求めた。
「勘弁してください。あなたたちを馬鹿にしたわけではないんです。ただ、世の中の常識人が持っている道徳を披露するとなりますと、どうしても、あなたがたのような世を拗ねる人達を非難するコメントになってしまうんです。まともな意見が反対派にとっての悪口になってしまうんです」
ギャングたちはそれを聞くとさらにいきり立って、私の頬をもう一発殴りつけた。私の身体は倉庫のシャッターにぶつかってそのまま地面に崩れ落ちた。ガッシャーンという大きな音が鳴り響いたが、辺りの人は誰も助けてくれなかった。みんな自分の身を守るので精一杯だからだ。暴力的な事件に関わりたくはないのだ。私はすっかり怖じけづいて地面に平伏したままだった。もはや、このまま殺されるしかないのではないかと思った。
「俺達への非難はもう十分だ! そろそろ例の秘密を明かしてもらうぜ。俺達の長年の調査で、おまえの秘密がこの辺りに隠してあることは突き止めてあるんだ。どうだ、そうだろう? おまえは精神科や惣菜屋を経由しながら、さりげなく秘密の場所へと近づいて来たんだろう?」
「勘弁してください。秘密を明かすことは出来ないんです。これは国家的な秘密です。銭湯の主人の女湯のぞき見の話ではないんです。とても、おおっぴらにするわけにはいかない。ローマ法王やアメリカ大統領にも話せないんです。とても、あなたがたのような、暴力にしか訴えない、つまらない俗物に話すわけにはいかない。いや、例え、この秘密をあなたたちが知ったところで、何に利用することも出来ない。何しろ、人間が初めて耳にする秘密ですからね。すぐに右から左へ換金できる黄金やダイヤとは違う。そもそも売り買いできる代物ではないんです。利用方法が発明されていない。それどころか、い、いや、私もこのことは初めて話すのですが、実は、私から秘密を聞き出した人間はすでに何人かいるんです」
「何だって! 俺達が最初じゃなかったのか?」
ギャングたちは驚愕して顔を見合わせた。
「そう、そうなんです。あなたがたに追い詰められ、頬を殴られて、ようやく思い出しました。この記憶は、私が本当に追い詰められたときにしか思い出せない記憶なんです。私は確かに、これまでも何度か今日のような酷い目にあって、秘密を話せと脅かされ、渋々に秘密を語ってしまったことがあるんです。ああ、今、思い返せば、その日も、今日と同じように何をやっても上手く行かなかった日なんです。サイコロを何度振っても1、次もまた1! そう、今日の、この今と同じ現象が、過去に何度も起こっているんです。新作映画を見てすっかり感動した老人が三日も経つと内容をすっかり忘れ、再び同じ映画館を訪れるように。今日と同じ局面を私は最近だけでも何度も迎えているのです。ただ、その時の記憶だけが抜け落ちているんです。その度に、私はどうやってこの危機を乗り越えてきたのか、結局は脅しに屈して秘密を語ってしまったのに、なぜおめおめと生きていられるのかがわからないんです。教えてください! あなたがたはどう思いますか? 私はこの通り無事に生きています。その頃と同じような日常を過ごしています。しかしですね、以前に私から秘密を聞き出した幾人かの人間は、その後どうなったというのでしょう?」
私は混乱のあまり敵味方の見境もなくなって、ギャングたちにそう尋ねた。
「つまり、おまえの他にも秘密を知っている人間がいるってことになるのか? 俺達にそっちの方を追えと言っているのか?」
頭の悪そうなギャングたちは、そこまでしか理解出来ていなかった。私は仕方なく説明を続けた。
「いえいえ、そうではないんです。私はひょっとすると、この人生の中で何度も同じことを繰り返しているのではないでしょうか? そのことを言っているんです。ああ、頭が痛い、おかしくなりそうだ…。つまり、うるさいマスコミから逃げ切り、会社で同僚を鼻で笑い、精神科で苦しみを訴え、そして、帰り道でギャングに捕まる。この一連の出来事をもうすでに何度も経験しているような気がするのです」
「だから、何だって言うんだ? 俺らの他にもおまえの秘密を暴いた人間がいる、だから、もう秘密に価値はないと言いたいのか?」
「違います、私が言っているのは、もう秘密は何度も漏れているということですよ。重大な秘密を独占していながら、世間を馬鹿にした態度をとり続けて黙秘を決め込めば、今日のように暴力沙汰に巻き込まれることは必然なんです。無知で暴力的で野心的な大衆が、私から秘密を奪い取るには、結局のところ暴力に訴えるしかないんです。しかし、なぜでしょう? なぜ、それで、ことは次の段階に進まなかったのでしょう? 私から秘密を奪ったギャングたちが狂喜乱舞して次の日には、秘密をネタに国家をゆする、そういうことは起きていないわけです。国政は行政は、今日も平穏に執行されている。政治家は誰も冷や汗を流していない。誰も国家の秘密が漏洩したことを恐れていないんです。つまり、次の段階がないんですよ。秘密が漏れ出したこの後に、また、新しい朝がやってくるんです。私がマスコミや近所のうるさいおばさんたちに追われながら会社に向かうという朝がね。前にも同じことが起きているなら、秘密はどうしたんでしょう? 以前に秘密を奪った人間たちはどこへ消えたんでしょう?」
私はもう半ば狂乱してそう叫んだ。自分でも自分の言っていることが信じられなかった。自分が何を言おうとしているのか説明できなかった。しかし、秘密はとうに漏洩しているはずなのに、それを手にした人間はいない。それが真実だった。
「うるせえ! おまえの言っていることは目茶苦茶だ! 恐怖に脅えて錯乱しているだけだ! 適当なことを言って、俺達を怖じけづかそうったってそうはいかねえ。さっさと秘密の場所に案内しろ! どこだ、秘密はどこだ?」
ギャングは私の胸倉を掴み、倉庫のシャッターに何度も押し付けた。尖ったナイフが私の眼前でちらつかされた。倉庫の入り口を塞ぐ青いシャッターには、私の身体が勢いよく当たって、ガンガンという音が響き渡った。
「ですから、ここが秘密なんですよ。この倉庫が秘密の現場なんです。だから、私は言っているんです。今まさにこの瞬間が、秘密が明かされた瞬間なんです。私以外の人間が秘密に触れた瞬間なんです!」
私がそう叫んだ瞬間、倉庫のシャッターが内部からぐらぐらと揺らされ、その内部から、この世のものとは思えないような耳をつんざく叫び声が聞こえた。そう、それは明らかに人間の声ではなかった。ジャングルでもない都会の片隅でこんな絶叫が聞こえるとは。巨大な倉庫の屋根までがギシギシと揺らされ、足元のアスファルトに十文字に亀裂が入った。この破壊力は明らかに人間の手によるものではなかった。倉庫の中では、人では有り得ぬ何かが暴れているのだ。
「な、なんだ、この中に何かいるのか?」
「兄貴、やばいです、何かでかいものが出てきます!」
ギャングたちはその声に脅えて一歩後ずさりした。やがて、メキメキという凄い音がして倉庫のシャッターは内部からぐにゃぐにゃに壊されて弾き飛ばされた。そのまま、屋根を吹き飛ばす勢いで、その中からは、巨大な狼の恰好をした二本足の化け物が飛び出してきた。悪魔のような尖った耳がついていた。全身に生えている黄金色の体毛が天に向かって逆立っていた。猛獣は我々人間を睨みつけ、その目が真っ赤に光っていた。まるで殺意を剥き出しにしていた。私はその時になってようやくこれまで秘密が明かされたときのことを思い出した。今までもこれと同じことが起きていたのだ。私がそれを忘れていただけで。
「てめえ! こんなものを隠してやがったな!」
ギャングたちは激昂して拳銃を取り出しそれをこちらに向けた。私はすでに死を覚悟していた。しかし、怪獣がこちらに向けて歩み出してきたため、ギャングは恐怖の余りそちらに向けて拳銃を数発発射した。こんな街中で平然と発砲出来るとは、さすがギャングだと思った。しかし、その猛獣には拳銃の弾は命中しても、まったく効いていなかった。猛獣はケロッとしていた。威嚇にもなっていなかった。次の瞬間、猛獣がけたたましい叫び声とともに、その鋭い爪のついた右腕を一振りすると、ギャングの一人は身体を切り裂かれて血にまみれて地面に倒れ伏した。猛獣はその上に馬乗りになり、人間の身体をまるでステーキでも平らげるようにむしゃぶりつくと、あっという間にバラバラにしてしまった。ギャングのもう一人は一目散に逃げ出していった。猛獣は一度二本足になると凄い速度でそのあとを追いかけていった。多分、誰も助からないだろう。私は余りの恐ろしさにその場で気を失ってしまった。数回、叫び声が聴こえたような気がする。しかし、その後、何が起きたのか何も覚えていない。

 気がつくと、私は医務室のベッドの上に横たわっていた。その隣に佇んでいた看護婦から、あれからすぐにここに運び込まれ、そのままもう二日も気を失っていたことを知らされた。彼女は一応心配そうな顔をしていたが、もう何度か、私がこのような状態に追い込まれる経験をしていることも知っているようで、余計に哀れんでくれているようだった。
「何にしても、秘密が守られて良かったですね」
看護婦は私の点滴剤を取り替えながら、少し寂しそうにそんなことを呟いた。
「君に何がわかるんだい? 恐ろしいことがあったんだよ。まるで悪夢だった…。まったく、私の持っている秘密はとんでもないものだ。秘密一つであんなことになるとは思わなかった。目の前で人が食い殺されるなんて…、あんな光景は、もう二度と見たくないよ」
私はまだ恐怖から立ち直れず、せめて看護婦に同情してもらおうと思ってそう言った。
「あなたの秘密は常人が知ってはならないもの…。そのことは、多くの人がわかりきっていると思っていました…」
看護婦は少し悲しそうな表情でそう答えた。彼女は秘密を巡る見苦しい争いが起こったことは知っているようだったが、その詳細までは知らされていないようだった。それなら、誰があの現場から私をここへ運んだのであろうか。私の他にも、あの現場を見ていた人間がいたのだろうか。
「あなたの意識が戻られましたら、ぜひ執務室まで来てほしいと書記官が申されていました」
「すぐにでも行きたいな。彼と話したいことが山ほどあるんだ。この恰好でも大丈夫かね?」
「ええ、書記官もあなたの元気な姿を見れば、ご安心なさると思います」
私は点滴を外して貰うと、パジャマのままベッドから降りた。まだ、身体中が痛かった。ギャングに脅迫されたときに、何度も殴られたような気がした。部屋の外へ出ると、ここはある省庁の一角であることがわかった。前にもこの長い廊下を歩いた経験があるし、新品のビル内部のような清々しい匂いを覚えていた。都会の様子が一望に出来るほど高い階層だった。窓の外には平和な都会の風景が映されていた。国民の誰もが先日起こったあの出来事を知らないようだった。普段は皆が執拗に秘密を追いかけているくせに、いざそれが悪人によって荒らされても、誰もその事実を知らないなんて。私は不思議な感情を抱きながら一人でその長い清潔な廊下を歩き、執務室のドアをノックした。
「入りたまえ」
中からは聞き覚えのある声が聞こえた。私はドアを開けて中へ進んだ。洋風の花瓶に黄色の華やかな花がいけてあるのが最初に目に飛び込んできた。書記官はこの間と同じように豪華な椅子に腰掛け、身体をこちらに向けていた。ここは特別室になっていて、普通の官吏が踏み込めるような部屋ではない。選ばれた人間だけが使える個室だった。壁には有名な絵画がかけてあった。
「大変な目に遭ったようだね」
心底同情しているかのように彼はそう切り出した。本当は私のことなど枝葉の存在なのだろうが、そういうふうに見せないことも彼の仕事なのだ。
「まったく、何と切り出せばいいのか…、とにかく無事に戻って来れましたよ…。たしか、以前にもこんなことがあったのを、今になってようやく思い出しましたよ」
私は苛立ちを隠せずに憤慨した口調でそう告げた。このくらい強い口調で言わなければ書記官の冷静な態度を崩せそうに思えなかった。
「何でも思い出すのはいいことさ。今回もいろいろとあったようだが、実はすべてこちらの予定通りでね、結果的には君が無事で済んで良かった。あの二人のギャングの遺体はこちらで片付けておいたからね。君は何も気に病む必要はない。明日から、また美しい太陽の下での生活が戻ってくる。すべては済んだことさ」
「一つだけ、お聞きしたいのですが」
「何でも聞いてくれたまえ。君には尋ねる権利があるし、私には答える義務がある」
「こういう悲惨な出来事が起こった後に、必ずといっていいほど、私の記憶が消えているのは、あなたがた官僚の仕業なんですか?」
書記官は一度下を向き、深く考えるときの癖か、万年筆のキャップででトントンと机を叩いてから口を開いた。
「いや、決してそんなことはない。我々の意志で君の記憶を操作したことは一度もないよ。もちろん、君の体内に秘密を埋め込んだのは我々の仕事だけどね」
「ですが、こんなことがもう何度も起こっているというのに、私の記憶にはいつも何も残っていないんです。過去に消された人々の顔も思い出せませんし、今回はあんな化け物の存在が記憶から抜け落ちていたんです。私は自分を普通のサラリーマンだと思っているんです。会社では、みんな私を普通の青年社員として扱ってくれます。事件が起きる前まではね。つまり、誰かが秘密を狙って襲ってきた後の記憶だけが毎回抜け落ちているのです。あんなことが起こりうることを事前に知っていたら、私はもっとガードマンなどの身の安全を要求するでしょうし、もっと周囲に気を使いながら生活をするはずなんです」
私は力強くそう訴えた。窓からは強い日差しがさんさんと照り付けていて室内を明るくしていた。それが眩しくなったのか、書記官は一度立ち上がってカーテンを閉めた。
「いいかね? 前にも話したと思うが、我々は真剣に君の幸せを願っている。記憶の操作や悪人の誘導などは断じてしていない。君が一般の人と同じような生活を送れるように善後策を考えている。記憶が消えているとしたら、それは君が普段の生活を送っているうちに、自然とそれを忘れ去ってしまっているんじゃないのかね? 人間は常に自分にとって都合のいい記憶だけを残したがる。自分の生活は危険に晒されていて、いつギャングに襲われるかわからない人生なんだ、などとは思いたくないものだ。君は立派な秘密を持った、ただの一般人だと自分を美化したいだけなんだよ。その思いが余りにも強すぎて、今回のような忌まわしい記憶をあやふやなものにしているんだ」
「本当にそうなんですかね…。しかし、どんなに日常に忙殺されていたとしても、あんな化け物を何度も目にしておきながら、それを忘れるものでしょうか?」
「それは簡単に起こりうることだね。何しろ、この世で自分一人だけが秘密を持ったという自尊心は、それほど大きな作用を人間の心に起こさせるものだからね。それが発生する前と後とでは、まったく別の人間になると言ってもいいほどなんだ。例えば、きらびやかなシンデレラストーリーを経てスーパーアイドルになった女性などは、元の自分、同級生にいじめられていた自分や、定食屋で皿洗いをしていた当時の自分の姿などを思い出したりはしないだろ? ドレスを着飾ってテレビカメラの前で歌い、社交界の貴婦人から素晴らしいパーティーに招待され、少しはにかみながらも優雅な態度で出席する自分の姿しか見ていないはずさ。そう、寝室の鏡には過去の自分の姿は決して映らないものだからね。今だけを凝視しているから必然的に過去の記憶は遠ざかっていく。それはごく自然なことなんだ。人間はそうでなければならない。だって、そうだろう? 周りの人間の反応にびくびくしていた過去の弱い自分を思い出すことなんて、輝かしい未来の足枷になるだけさ。もちろん、君が過去を忘れているのはいいことだ。その上で、秘密を武器にして、それを口実にして、必要以上に出世したり、自分が特別な人間であることを家族に自慢をしたり、普段なら手の届かない女を口説いたりすることは自由だ。我々もそれは止めないよ。何しろ、秘密によって、人々の注意が君に向くように仕向けているのは我々なんだからね」
「そのことにどんな意味があるんですか? 私のようなつまらない人間が秘密を持つという理由だけで、マスコミに追いかけられたり、一般人の興味を引くことが国家的にはどんな効果があるというんですか?」
「それはもうとっくに理解していると思っていたがね。君が先日体験したことがまさにそれだよ。いいかね? 今は一般人でも秘密を追いかける時代だということには君も賛成してくれると思う。何しろ、君自身が毎日体験している通りだからね。道を歩く誰もが君の顔を覗き込んでいく。そう、そこに秘密があると、どんな重要人物だろうが、どんなつまらない人間であろうが、自分の人生を省みずに首を突っ込んでくるものなのさ。心をくすぐる興味を隠すことが出来ないものなのさ。自分の人生の年表の中には、どんなに懸命に探してみても、がらくたのような事件しか転がっていなくとも、輝いている他人の人生の見えない部分はどうしても知りたくなるものなのさ。隣の庭の花は赤く見えるってやつさ。だから、マスコミなんてろくに机仕事もしなくても、カメラ片手に秘密を持つ人間の後を追いかけているだけで飯を食っていける。巻頭グラビアが載っている安っぽい週刊誌なんかを喜んで買う人間は、自分のつまらない人生のうっぷんを他人の秘密が暴かれることで多少なりとも憂さ晴らししたいだけなのさ。他人が今まさに輝き出したところでも、石に蹴つまずいてこれから落ち込んで行くところでも、それはどっちでもいい。とにかく、今、注目を浴びている人間の隠れた部分、本人が必死に隠そうとしている部分を誰もが知りたがっているのさ。金もない、職業的な楽しみも何もない連中は、そういうことでしか自分の欲求を満たせないものなんだ。他人を追いかけ回すなんざ、毎日ブロンド美女を片手に抱いて、古びた高級なワインを飲んで優雅にパイプを吹かせる人間には到底理解できない趣味さ。だから、平凡な奴らは不祥事が発覚した政治家を追いかける。莫大な財産を公表した企業家を追いかける。有名女優との恋愛が発覚したスポーツ選手を追いかけるわけさ。その人間の人生に、本当の興味があるわけじゃない。普段は政治のニュースなんて見てないし、スポーツだって目にするのは数日に一度くらいだろう。ただ、自尊心の塊になり見栄を張っている人間の秘密を酒のつまみにしたいだけなのさ。自分の人生には存在しない何かを、他人の人生に追い求めているだけなんだよ。自分の人生はどこをどう掘り出しても石油どころか泥炭すら出てこないような連中だからね。昼間の貴重な時間に、薄暗い部屋でバラエティー番組を見てほくそ笑むだけの自分の姿に、いい加減飽き飽きしたんだろう。ただね、政治家のお偉いさんも、毎日試合のあるスポーツマンも、そんな暇人たちにいちいち付き合ってやれない。彼らも忙しいし、有名人ほどプライベートを大切にしたいものなのさ。一時間、あるいはたった20分でも、その価値は常人とは桁違いだからね。毎朝、まだ恋人とゆっくり抱き合っていたい時間に、うっかり家の外に出てしまって、得体の知れない新聞記者やカメラマンに追いかけられるのは真っ平ごめんってわけでね。そこで君の出番なんだよ。君が暴かれた秘密の本丸から飛び出すネズミ小僧ってわけさ。マスコミに取り囲まれた真っ暗な秘密の城から、ポンと飛び出したのが、秘密という玉手箱を抱いた君なんだ。連中は君の姿に騙されて、やれ秘密が飛び出したぞとむきになって君を追いかけ回す。飛び出してきたのが、本当に素晴らしい秘密なのかはさておいて、取りあえずは取材しておかなければ他社に先行を許すことになるからね。どうせ罠だろうと頭ではわかっていても、もし秘密の男が逃げるままにしておいて、男が抱いていたのが本当に国家の秘密に関わるようなことだったら、どれだけ後悔しても追いつかないからね。君が赤い旗を掲げて『おおい、ここだぞ』と、飛び出したことによって、どんなにしつこいマスコミだって、政治家やスポーツマンからは一時目を離さざるを得ない。いわば、君が国家のお偉いさん方の風よけになってくれているわけなんだ。まったく、いい目くらましさ。いい仕事をしてくれているよ。高級官僚の中にだって君ほど役に立つ人間はそうはいない。先日起こったことだってまさにそうさ、あんな凶暴なギャングが、国家の懸案を抱える政治家や、一日何億も稼ぐようなスポーツマンを襲うことを考えてみたまえ。少し考えただけで背筋が凍りつくほどに恐ろしいことだろう。万が一、彼らの才能を失うようなことになったら国家的な損失だ。我々だって事務次官や大臣に顔向けできないわけだ。さりとて、全国に数万人もいる有名人すべてに厳重な警護をつけることも出来ない。予算も人員も足りていないからね。だが、その点、狙われるのが君ならOKだ。君がどんなに付け回されようが、ギャングに襲われようが国家的には何の意味もない。言葉は悪いが君が射殺されたとしても我が国の政治や経済に与えるダメージは皆無に等しい。いくら秘密をもっていると言ったって、しょせんはただの一般人なんだからね。悪の組織に腕利きのガンマンがいるなら、どんどん狙ってくれってわけさ。こちらから頼みたいぐらいだ」
「ひどい! それでは私はただの影武者ではないですか! 私だって、あなたが少しは自分の価値を認めてくれていると思っていたからこそ、この危険な任務を引き受けたというのに!」
私はすっかり腹を立てて、拳を握りしめて机の上を叩き付け、書記官に反論した。
「しかしね、それだってとっくの昔に納得してくれていると思っていたがね。なにせ、本来なら誰の相手にもされない、マスコミになんて生涯取り上げられることのない君が、悪者にちょっと襲われたくらいで、新聞誌上でこれだけ大きな扱いを受けるわけだからね。秘密様々だよ。先日の一件だって、我々は必死に隠したつもりだったが、一部の報道局に嗅ぎ付けられてしまって、『T氏ギャングに襲われる! 秘密、ついに暴かれたか?』の大見出しを打った大手新聞もあったくらいなんだ。もちろん、我々が背後で動いてすぐに火を消したがね。相当、金を使ったよ。猛獣に襲われて、すっかり気絶してしまった君の全身写真をカメラで写していた記者もいたから、揉み消すのは大変だったんだ。正直なところどうだい、世間に騒がれるってのは? 気持ちのいいもんだろう? 君が秘密を持たないで人生の道を歩んでいったとしたら、仕事中にどんな大きな手柄を立てたところで、それは上司や家族が喜ぶ程度で終わって、新聞記事になんて一生ならない。ちょっとしたボーナスくらいは出るかもしれんが、それだって一生を左右するような金額じゃあない。恋人と海に飛び込んで心中でもすれば数行の記事になるかもしれんが、自分の命をかけてその程度じゃ嫌だろう? しかも、死んだ後じゃどんなに騒がれても当人には意味がないわけだ。ところがだ、秘密を持った途端、今の君の輝き方はどうだい? まるで国家の重要人物だ。毎日新聞雑誌が君を書き立てる。婦女子はみんな君のことを噂をしている。『あの人が秘密を持っている人よ、誰も知らないことを握っているなんて、なんて素晴らしいんでしょう!』みんなが羨望の眼差しで見ている。会社でも君はヒーローだ。他社に先駆けて新製品を開発した男だって、君ほどはモテてない。もし、君が秘密を捨ててしまったら…、もちろん、我々の力でそうすることも出来るわけだが、そうしたら、その瞬間から、君は元の無価値な自分に戻ってしまうんだよ。それでいいのかい?」
「それは困ります!」
私は顔を真っ赤にして即座に反論した。悔しいが、すべて彼の言う通りだった。秘密を持たない私には、誰しも何の価値も認めてくれないのだ。場末のカレー屋で新聞を読みながら一人寂しく夕飯を食べる自分に戻るのはごめんだった。
「以前にもお聞きした通り、秘密の素晴らしさは私も十分にわかっているんです。長年、秘密を持ち歩いて、周囲の人々からちやほやされてきましたからね。ただ、他人の心は、他人が私を見る目線はどうなんでしょう? 例えば…、例えばの話ですよ? 私に愛を告白した女性がいたとして、彼女の本心を私はどうやって掴めばいいんでしょう? 例えば、顔も普通、能力も普通の、何の取り柄もない本屋のアルバイト店員に、通りがかりの女性がバラの花束を渡して告白したとなれば、疑いようもなくこの恋は本物です。女性の視力が確かなら、少なくとも才能や金目当てではない。一時の金策に目を眩ませたわけではない。まあ、結婚した後で生命保険くらいは賭けられるかもしれませんが、そのくらいの裏切りは我慢の範疇でしょう。『よし、ありがとう、今から僕は君のものだ』と言って、青年は恋を受け入れるわけです。しかしね、私の場合は違います。私の才能や外見や財産の前には、常に秘密が壁を作ってそびえています。秘密という事実がガーゼとなって私の身体を被っています。その薄い膜が女性たちの目を曇らせるわけです。私の姿を必要以上に輝かせるわけです。なるほど、私は映画俳優のように魅力がある男になりました。女性は私の才能や性格なんてどうでもいいわけです。秘密のことしか見えていない。私をこの地方で最も魅力的な、最も妖艶な魅力を持った人物として見ている。私と仲良くなれれば、この世で最も大きな秘密と付き合えるということしか考えていないわけです。さて、ここで私の根本的な性格に、秘密にではないですよ、玉ねぎを剥いた真芯の私にですよ、近所の子供と一緒に笑顔でキャッチボールをしてやれる、庶民の心を持った純心な私です。その私に惚れた女性がいたらどうなるでしょう。さてさて、彼女も他の女性と時を同じくして私に愛を打ち明けたとします。『あなたを影から支えられるのは私だけよ』そう告げてくれたとします。しかしですね、私にはその心が見えないんですよ。伝わってくるのは無機質な声だけです。私の根っからの素朴さに惚れた純心無垢な女性が、周りにいる、どれも同じような顔をした、秘密に浮かれたワイドショー女にしか見えない。私は宝石のような心を持った彼女が、秘密を目当てにして自分に近づいてきた悪どい女としか思えない。豪華な真鯛よりも栄養のある鰯の方が好きよと言ってくれた彼女の、本当の心が見えないわけです。まさか、ラブレターを受け取るたびに嘘発見機を取り出すわけにもいきませんからね。『ブーブー、この人は嘘を言っています。秘密目当てです、お金目当てです。心が濁っています』ってね、私にいい人が現れなければ、毎回そんなコメントを聞く羽目になるでしょうけどね。つまり、私が言いたいのは、私が秘密に頼らずに、真の愛、純愛を手に入れるためにはどうしたらいいのか。そのことをあなたにお聞きしたいんです」
書記官は私の長ったらしい話に苛立ったのか、そこで一度大きなあくびをして、カップのコーヒーを一口すすった。そして、冷たい目でこちらを見た。
「それは愚問だね。秘密のあるなしに関わらず、この世の中に本当の愛なんて存在しないからだね。うん、君がこの意見を真っ向から否定したくなるのはわかるよ。まあ、聞きたまえ。君は女性たちが君の身体の内部にある秘密に見とれて君に惹かれる、つまり本当の心の外側にある偽の自分しか見てくれない、そのことが嫌だと、それが不純だと思っているわけだね。しかし、凡人たちの天気のように移り行く心を顕微鏡で詳しく見ていくと、実のところ、それは世間の恋愛となんら変わるところはないわけなんだ。それとも、世間の恋愛、ウォークマンのイヤホンを耳から垂らした頭の軽そうな若者同士が手をつないで通りを歩く、あの恋愛の方が羨ましいと思えるのかね? それはまったく見る目がないよ。彼らもやっていることは同じさ。別に世間の人間が、君よりもっと高尚な恋愛をしているわけじゃない。例えば、スポーツマンに恋をしたブロンドがそのスポーツマンが怪我をして試合に出られなくなった瞬間に、当たり前のように彼を見限って他の男性に視線を移す。君が秘密を失ったときにも、これと同じ現象が起きると思っているわけだろ? それはそうさ、確かにその通りだ。君はまるで鼻汁を拭き終わったちり紙のように、秘密を口から吐いた瞬間に、それを他人に聞かれてしまった瞬間に、理由もなく捨てられるだろうね。自分を捨てた女性を卑怯と思うかい? しかしね、それは恋愛の上では当たり前のことなんだ。女性は男性の一時の魅力だけで心を動かすからね。出会った瞬間における細かい仕草や態度や物腰だね。つまり、自分の心を強く突き動かしてくれる相手の行動を、常に追い求めているものなんだ。もちろん、それが現実の相手であれ、テレビや映画の中の対象であれ、彼女らにしてみれば関係ないわけさ。恋に夢を見る女性は、現実も仮想も同じような恋愛対象となりうるからね。そんな浮気な心に、いちいちついていきたいと思うのかい? むしろ、一時的にしても、長く続かない付き合いにしても、金を持っているとか才能が輝いているとか、秘密があるってのも、もちろんそうだが、そういう客観的な事実に惹かれた恋愛の方が私に言わせればまともだね。違うかい? それよりも、男性のちょっとした仕草や行動、転んだときにそっと手を差し延べてくれたとか、金に困ったときに何も言わずに助けてくれたとか、自転車を無くしたときに夜中まで一緒に捜してくれたとか、そんなことを、そんな一時的で気まぐれな行動を恋愛の本質だと思ったりはしないだろうね? 君ともあろう者が、真実の恋愛とやらの入り口が、そんなつまらない親切行動の最中にしか存在しないと言うわけではあるまいね? それは浅はかだよ。秘密に釣られてフラフラと尻尾を振る女よりも、明らかに浅はかな恋愛だ。なぜなら、それこそ、恋愛もどきの思い違いってやつだからね。そう、確かに、その思い違いを武器にして、町で酔っ払って倒れていた彼女を介抱してやったら、その後連絡を取り合う仲に発展して、付き合うことになったんだよ、ってそんなくだらない自慢話をぶつけてくる人間もいるわけだ。そんなもん、本質的には金持ち男がキャバクラで札束をばらまいて釣り上げた女とのつまらない恋愛と何ら変わるところはないのにさ。本人だけは必死なわけさ。『俺は純愛を手に入れた。誰にも訪れたことがない、真の愛ってやつを手に入れたんだ』と周りに吹聴して歩くわけだ。君の言っているのはこれかね? こんなもん、いい恥さらしさ。いや、本来ならば、金や才能をばらまいて手にした恋愛の方がよっぽど本質的なものさ。少なくとも、ここには前提としたものがある。世の中の評価の基準が金なら、金で女を勝ち取った男こそが勝者さ。白銀の剣と黄金の盾で武装して街中を練り歩いて何か悪いことがあるのかね? 力を持っている人間がついでに女も手に入れる。それは理にかなっているわけさ。ところが、人間はしばしば何もないところに雑草のように生えてきた地味な結び付きに高度な恋愛観を見ようとする。
『あの二人を見てごらん。本当にお似合いなんだ』
『困っていた彼女を助けてやったんだってな、まさに運命の出会いってやつだな』
そんな言葉を何日も前から準備しておいて、結婚式のお供えにしようとする。まるで馬鹿な話さ! 何も変わりゃあしない。金に頼った派手な恋愛が5年で破局するなら、雑草のように生えた恋愛だって、2年もすればすき間風が吹くようになるのさ。金もない、才能もない、幽霊でも出そうなすすき野に、にょきにょきと生えてきた恋愛もどきが、濃霧と空想に満ちたその効果を発揮していられるのは一年が精一杯さ。
『あの時はあんなに優しかったじゃない』
『何でこの指輪は買っちゃダメなの? お金はあるんでしょ?』
数年もすれば、そんな言葉が乱れ飛ぶようになる。そうなれば喧嘩なんて日常茶飯事さ。なになに、派手な有名人同士がくっついた恋愛はすぐに別れがくるじゃないかって? 貧乏人だって一緒さ! 同じくらいのペースで別れている。ただ、それが金持ちの破局のように目立たないのは、つまらなすぎて全く報道されないからであってね。貧乏人のカップル、あの、自転車を一緒に捜してやって付き合うようになったカップルだって終わるときはあっさりと終わるのさ。別れる間際に、自転車がやっとこさ見つかった夜の話を一緒にして涙にくれることはあるかもしれんがね。
『あなたも、あの頃は本当に優しかったのにね…』
ただ、世間の言うように、貧乏人カップルの方が長続きする確率が高いのは有り得る話かもな。平凡な人間同士の方がくっついていなければならない理由が多くあるからな。『もう飽きたからバイバイ』なんて、そんな簡単には離婚できない。一応は結婚式なんてものを開いてもらって、世間体だってあるしね。貧乏人はあのイベントを一生に一度のものだと思ってる。金持ちが飽きるたびに次から次へと婚約者を変えるのは華があるもんだが、貧乏人がそれをやったら、終いには親戚中から総スカンを喰らうからね。最初は幸運をつかんだ男だって、親戚中からもてはやされたのに、最後はただの腰の軽い男ってだけで終わってしまうのさ。それがわかっているから、貧乏人のカップルは別れない。本当はもう、同じ部屋に一緒に住む価値もない相手だってお互いにわかっていても、それでも別れない。もう、心をときめかせながら、お互いに遠慮ながら言葉を口にしたつまらない会話で笑い合うこともない。すでに互いの匂いが漂ってくるだけでも嫌なのに。君としては、そんな腐った切り干し大根をいつまでも軒先にぶら下げておくみたいな恋愛がいいのかい? そうじゃあるまい。人生は一回だよ。ドカーンと花火を飛ばそうじゃないか! 金でつかみとった恋愛、二枚目の顔に、ずば抜けた才能に惚れさせた恋愛、大いに結構じゃないか! 一時的な付き合いだっていい、相手が自分の財産や秘密にしか興味を持ってなくたっていい。所詮、人間は思い出を創るために生きるのさ。80になったとき、切り干し大根のようなしわだらけの婆さんが隣にいて、『お互いにここまで元気でこれて幸せじゃなー』って見つめ合って、それが一番優れた人生かね? そうじゃあるまい。老年の男だったら一人で十分さ! 豪華な金箔の椅子にどっかりと座ってさ、『おい、あの1976年もののワインを出してくれ』って紺のスーツの召し使いに命令する。隣にはピチピチの金髪の美女、壁には世界に一枚しかないゴッホの名画が掛かっている。それでいいじゃないか、何が不服かね? それでも、切り干し大根の方がいいと言うのかね? 君は大根マニアだったか?」
書記官はそこで一度話を止めて喉が渇いたのか、再びコーヒーを一口飲んだ。話に夢中になりすぎて熱くなったのか呼吸も荒くなっていた。私はその機を逃さず、口を挟んだ。
「そりゃあ、あなたの言うことも一理ありますよ。中には、金や才能に頼り切った刹那的な恋愛がお気に召す人もいるでしょうよ。単なる巡り会いから派生した恋愛に価値がないと言い張るのも結構ですよ。ですけどね、それは資産家が対象だったときの話でしょ? 僕は金はないんです。秘密を背負っているだけの、ただの一般人なんです。ですから、もっとわかりやすい幸せが欲しいんですよ。でも、あなたのような上級官吏に私の話を理解させるのが無理っていうことはわかりました。今日はもう帰ります。秘密に関する思いが固まったら、またこちらから連絡しますよ…」
私はそう告げてこのうっとうしい会話を打ち切った。
「必ず連絡をくれよ。待っているからね」
まだ何か話し足りないのか、少し寂しそうな顔をして書記官はそう返事をしてくれた。 「どんな残酷な出来事に遭っても、私は生き抜いて見せますよ。私が道端で突然死んでしまったら、秘密は喜ぶでしょうけどね…」

私は最後にその言葉を残して苦々しい気持ちのまま省庁を後にした。立派なビルの外に出ると、ようやく一般人に戻れたような気がする。秘密の持つ効力が少し薄れたような気がする。秘密さえ心にまとわり付いていなければ、私だって普通の会社員として振る舞えるのだ。なんて気持ちが軽いんだろう。私は一般人だ。何の権力も罪もありはしない。取り合えずは久しぶりの外の空気だ。まずは公園を散歩してみようか、そう思いながら道路を渡った。その時、興味を持ってこちらを見ている一つの視線に気がついた。
「おはよう、昨日は大変だったみたいじゃないの?」
見ると、昔からの付き合いのある女だった。昔の会社にいたときの同僚で、別に恋人ではない。わがままで単純な思考力を持った娘だったが、その雑な生き方が妹のように思えて捨て置けなかったのだ。私たちは何度も一緒に食事をしたり映画を見たりもした。彼女は私がまだ秘密を抱え込む前から、私のことをよく知ってくれているのだ。秘密というベールを素通しして私のことを見られるのは、家族以外では彼女だけかもしれなかった。
「また、危ない目に遭ったんですって?」
「ああ、秘密の本領を見て、死にかけたよ」
私は彼女に会えたことで少し安心して、微笑みながらそう答えた。自分でも驚くほどに口は軽かった。
「いつまで秘密にすがって生きるつもりなの? 秘密はあの世までは持っていけないのよ」
彼女は私を非難するように強い口調でそう言った。私は何も答えられないままうつむいていた。
「秘密って、もしかして、恋愛に関わることなの? だって、人間が生きているうちで一番恐ろしい目に会う時は、たいてい恋愛が絡んでいるときですものね」
彼女はそう言って無邪気に笑った。周囲の人間を見れば、確かに恋を多くする人間の方が危ない橋を渡っているような気がする。
「俺にこの秘密を埋め込んだ連中は、ただ、自分たちから秘密を遠ざける目的でそうしたわけじゃなくて別な目的もあったんだ。つまり、俺にわさわさと近づいてくる不届きな連中を、不純な動機を持った人間として一般と区別するために、秘密を俺に埋め込んで野放しにしてあったんだ。俺が秘密を任されたのは、才能を見込まれたからではなくて、秘密を無理にでも奪い取ろうとする人間を始末するためのシステムに利用されたに過ぎなかったんだ…。俺は権力に騙されていたんだよ…」
彼女は強気な女だった。私のそんな泣き言を聞いても、まったく動じることはなかった。
「仕方ないんじゃないの。多かれ少なかれ人間は騙されて生きるものよ。『生まれるはずじゃなかった』って言い出せば、親にだって騙されたことになる。学校に騙されて、友人に騙されて、会社に騙されて、それでもなんとか生きる術を見出だして生きてゆくのよ。だけど、騙されているうちに得ているものだってあるの。あなたは秘密に踊らされているけど、仕方ないことだわ。秘密を持っていない人間だって結局は他の何かに、お金や権力や恋人や親兄弟に踊らされて生きていくのよ。そう思いなさいな」
彼女は強気な口調でそう言って励ましてくれた。私は返す言葉が無くなって、下を向いた。その間にも、沿道を車が猛スピードで何台も通り過ぎていった。
「ねえ、その秘密を何に使うつもりなの? あなたはいつだったかしら、自分の秘密には大金と同じ価値があるって言ってたわよね。でも、それには使い道がなくては…。人生の終わりが見えてきたら、それをどう処理する気なの? 私のこと大事に思ってくれているなら、使い道だけでも教えてよ」
「秘密は絶対に壊せない貯金箱と一緒でね、心に住み着いた癌のように、ただ持ち歩いているだけなんだ…。『自分は特別な人間だ』って思いながら、心の中にふつふつと湧いてくる自己満足だけを楽しむものなのさ」
私はそう言って彼女の手を取った。二人で公園の中をあてもなくぶらぶらと歩いた。秘密は幸せな私を疎ましく思っても、こういう行動に口を挟むことはない。何か悪さをするわけでもない。ただ、心の奥に眠っているのはわかっている。
「いつか、私にだけ、秘密を打ち明けてね。せめて、そういう関係になれたらいいのに…」
彼女はどこか遠くを見て、独り言のようにそう呟いた。周りでは誰も見ている人間はいなかった。心を許せる彼女と二人きりで歩いている。今回の恐怖の一件を体験しても、私にはまだ秘密と別れる勇気は出来なかった。だが、せめて、この瞬間だけでも、秘密のことを忘れて過ごしたいと思った。
                     了
<2012年6月13日>