おっ、あそこを見ろよ。こっちへ向かって何かが来るぞ。あれは何だ。草木を掻き分け、砂塵を巻き上げ、手足を大きく動かしての行進だ。えっちら、おっちら、あれはきっと兵隊さんだ。でも、外見は痩せていて、ずいぶん弱そうな兵隊さんだ。きっと悩みがあるんだろう。他になりたい職もあったんだろう。武器も弱い、盾も弱い、その上、隊長も弱い。手先は無器用で頭は硬い。頭を横に振っていくら考えても、物覚えは相当に悪い。それでも、今日も列を乱さずに行進するよ。えっちら、おっちら。 それにしても彼ら、空元気を見せながら、いったい、どこへ向かっているんだろう。 「正直、どこへ行けばいいのか、何をすれば人の役に立てるのか」 これは困った、ずいぶん弱腰な兵隊さんたちだ。道だってきちんと続いてくれるとは限らないぞ。 「あら、いつから、そんなに信頼される存在に?」 そう言って、途中で途切れてしまうかもしれない。未来までは続いていないかもしれない。それでも、今日も進むよ、えっちら、おっちら。隊長の厳しい声が飛ぶ。気をつけろよ、大きな穴があいてるかもしれんぞ、道路が突然陥没しているかもしれんぞ。でも、それは道路会社の責任ですね。屁理屈を抜かすな、事故が起きてからじゃ遅いんだ。両手をしっかり振って行進だ。 「しかし困った、どこも行き止まりだ。もしや、人生には最初から正解の道など存在しなかったのか」 隊長、自分を置き去りにして進んでいった旧友の道の上に、大きな落とし穴があるのを見て笑っていたら、自分の道の上にも同じような穴があるようです。入り口は違ったはずなのに、なぜか出口は一緒です。みんな、パチンコ玉のように弾かれて、最下層からゴロゴロと出てきます。茄子やキュウリのように大きな違いはないようです。ここにはバインダーに綴じられた大量の履歴書が捨ててあります。誰の人生にもそれほどの意味はなかったようです。そうか、ずいぶん寂しい時代だな。進め、進め、ここは砂漠の荒野だ、落ちているものを拾うなよ。大事なものを捨てるなよ。エゴ、エゴ、どこもエゴ、誰もエゴ。希望? 『そんなものは最初からありませんでした』 お偉いさんよ、世の中金だと言い張るなら少しは分けてくれ。右に羽振りのいい金持ちは? いない。左に貝塚は? これもない。ここはどこだ、魔物の巣窟だ、弱い兵隊たちの行進だ。えっちら、おっちら、ずいぶん足元が怪しいな。君は酔っ払っているのかい? ちゃんと食べているのかい? いえいえ、現実に疲れているんです。ゴキブリのようなアパートに住んで、「違う、俺達はそこまで貧しくない!」と言います、言わされます。区役所ではパンパンパンとリズムよく住民票にナンバリングしていきます。18番は貧乏人、19番は犯罪人、20番から24番までは貧乏人です。まるで虫歯だらけですね。 この仕事をやったらいずれは楽になれるんですか? いえいえ、絶対になれませんけど、期限は守ってください。失敗したら、もっと下まで落ちますよ。倒れるまで続けて下さい。我々に味方はおりますか? 似たような兵隊はいっぱいおりますけど、果たして仲良くやっていけますかどうか。みんなわがままですからね。昇進すれば少しは楽になれますか? 待遇はさほど変わりませんが、仕事はもっときつくなるようです。 缶ジュースを飲んでください。ハンバーガーを食べてください。それを贅沢だと思ってください。 『このパンをハンバーガーに変えてみせよ。されば、この地獄を楽園に変えてやろう』 吊り革にしっかりとつかまってください〜、この電車は人身事故のため〜、しばらく立ち往生します〜。急いでいるですって? そんな嫌そうな顔をしないでください〜。車掌の私が後で一番責められるんです。ハイヒールで他人の足を踏まないでください。エチケットを床に捨てないでください。あなた、さっきからポイポイしてるけど、そのごみ箱は私のですよ。不幸は見知らぬ他人に押し付けてください。私のごみ箱はすでにいっぱいです。家族まで入れていきます。みんなで利用するのはいいけど、誰が掃除してくれるんですか? 誰が引き取ってくれるんですか? 希望と夢を一緒に捨ててしまったんですけど、取り返しがつきますか? 『おや、ごみ箱の一番下から希望が出てきました』 いえいえ、よく見てください。それは白アリです。 諸君、我々は市民から注目されている。もっとしっかり手を振って足を上げて雄々しく行進するように。右に黄金宮殿は見えてきたか? 見えません。ここはすでに砂漠のど真ん中。砂とサボテンと死の世界です。ああ、助かった、左にオアシスが見えてきました。水桶を背負ったラクダがゆったりと歩いています。馬鹿もん、それは蜃気楼だ。テグジュペリに笑われるぞ。 『理想は霧の中にあるのかもしれない』 馬鹿め、そう言って飛び込んでいく奴はどれもこれも白骨死体だ。歴史を見ても、最後まで無駄に動かなかった人間が勝利している。そうやって他人を笑ったところで、自分も苦しいには変わらないんですね。そうだ、それが何千年も続いた人の歴史だ。運命に従って泣いた呪いの声だ。動いても貧乏、寝ていても貧乏。勝者も長くは生きられない。大衆は毎日あえいでいる。隊長、いつの間にか便利な時代になったものです。なんと、今は携帯電話で助けを呼べるそうです。トゥルルトゥルル。 『もしもし、助けなんてとんでもありません。こっちの樹海は余計に広いですよ。あなたがたの困難に目を向けている場合じゃないんです』 隊長、どうやら仲間の部隊も苦しんでいるようです。ううむ、他に助けを呼べる人間はいないのか? この間、都会で好きになった女からメールが届きました。これに期待してみます。おいおい、まずは疑えよ。最近は物騒だからそんなもの安易に開くんじゃない。 『あなたはどうせ一生その砂漠から出られないんでしょ。安物買いだったわ、バイバイ』 隊長、悲痛なメールであります。仕方ない、経歴という引き出しを次々に開けてみろ。藁にもすがる思いだ。中は請求書と督促状の山であります。生ゴミの方がまだマシです。見ていられません。馬鹿もん、つべこべ言わず、一番下まで開けてみるんだ。隊長、一番下の引き出しからコインが出てきました。万国共通のコインです。表面には希望という文字が彫ってあります。でかした、ちょうど、西の方角に自販機があるぞ。これは縁起がいい、ここで使ってみよう。カランカラン。隊長、空っぽの缶が落ちてきました。内側には現実と落書きしてあります。なにくそ、どうあっても一歩ずつしか進ませない気か。これでは冒険の意味がない。無駄に危険なだけだ。この砂漠に近道は存在しないのか。総力を結集して何とかここを脱出するんだ。だがしかし、我々は常に正義だ。不正な手段は使うなよ。隊長、右に金色のスフィンクス、左側には氷漬けの女神であります。何らかの助けになるかもしれません。待て、それもどうせ奴らの罠だ。我々の現実はどこまでも汚れきった作業着だ。隊長、朗報です。今度は砂の下から黒いモロッコ革の手帳が出てきました。しめたぞ、何て書いてあるか読んでみろ。 『そこから百歩歩いた先を掘ってみろ。現実が埋めてある。二百歩先も掘ってみろ。そこにも現実が埋めてある』 なんと、我らは現実という監獄に押し込められた囚人か。ラジオの音に耳をすませろ、敵軍の情報は出てないか? 隊長、敵も方向を見失い、この砂漠の中でもがいているそうです。逆に、水をくれないかと尋ねられました。なにくそ、ライバルにもなれないのか。ふがいない奴らだ。相手にする気にもならん。右手に巨大な山脈が見えてきました。ほう、立派な山だな、何という名前の山だ? あれは借金の山であります。そうか、文句なしに我が国で一番高いな。時計の針だけがグルグルと回っております。方位磁針も回っております。ううむ、我らが助かる術はあるのか? しめた線路があるぞ、ここは電車が通るんだ。ゴットン、ゴットン。隊長、これは有名なサンテカロニカ号です。数年前に大事故を起こして166人が犠牲になったそうです。そうか、しめたぞ、そういういわくつきの列車なら安く乗れるはずだ。 『お客様、ノーネクタイでのご乗車はご遠慮願います』 なんてこった、こんな縁起の悪い列車にも乗れないのか。メアリーセレスト号になら乗れるかな。隊長、海上に出るにはさっきの列車に乗っていなくては。そうか堂々巡りだな。どっちに動いても事故に遭わせる気か。よし、仕方ない、次の列車に乗っていこう。ガタンゴトン、隊長、眠くなって肩によりかかってきた女は、すべて自分に惚れていると考えてよいのでしょうか? たわけが、それは金だけを搾り取られるうかつな男の理論だ。その女の目を見てみろ、全く笑ってないぞ。 どうやら、都会に戻ってきたようだな。いえ、隊長、ここはTOKYO砂漠です。人が多く見えるのは見せかけです。人影の多くは心を持たない操り人形です。奴らはみんな我々のなけなしの金を狙っていて、砂漠の海に浮かぶサボテンよりも悪質なんです。我々も助かりたいと思ったら他人を騙す以外にありません。馬鹿もん、貧乏人が亡者から金を取ってどうする。どんな人間にも笑顔をくれる女神のような女性を捜すんだ。隊長、目の前に女人たちの巣窟があります。偵察をだしますか? 馬鹿め、あれはキャバクラだ、我らがたまに訪れる幸運で、一時的に潤った瞬間を狙ってくるメデューサだ。 『キャバクラで払えなくても刑務所行き』 しめた、チェーン店が見えてきた。あそこへ入ってみよう。ガララ、邪魔をするぞ。いらっしゃいませ、お客様にぴったりのメニューがあります。今、お持ちしますね。なんと、これこそ女神だ、ここは楽園だ。お待たせしました。砂漠で死にかけていた牛を使った牛丼でございます。馬鹿もん、たまにはいいものを食いたいわ! 隊長、この店はどうやら一杯250円で丼が食べられるそうです。なんだと、食った後にどんな症状が出ても文句は言えんな。お客様、ただ今、サービス期間中です。5杯以上食べて頂きますと、無料でもう一杯進呈します。なんてことだ、こいつら原価いくらで商売してるんだ。隊長、前方に今度は予備校が見えてきました。そうか、賢そうな子がいっぱい通っているな。子供は未来の宝だな。おじさんたち、14%の食塩水と19%の海水を混ぜたらどのくらいの濃度になるでしょう? 馬鹿もん、そんな塩辛いものを飲んだら病気になってしまうわ。 『我々には正解などいらん、真実が欲しいのだ』 隊長、この店では爪に紋様を彫ってくれるそうです。お試し期間中です〜、今ならお安くできますよ。そうか、では砂漠脱出祈願とでも彫ってもらおうかな。はーい、では、砂漠脱出祈願by砂漠の牛より、と彫っておきますね。なんと、こいつらは我々に呪いをかける気か。隊長、左方に銀行が見えてきました。そうか、しかしながら預ける金がないな。隊長、大変です、中では銀行強盗が立て篭もっているようです。うーむ、助けてやりたいが、我々には武器も勇気もやる気もないな。隊長、銀行員たちは金をしこたま奪われたにも関わらず笑っております。 『どのお金も、どうせ銀行に戻ってくるような社会構造になっておりますので心配はいりません』 なんと、こいつらは強盗に輪をかけて悪党だな。 道を歩く民衆が悪意を持って我々を見つめているな。そのうちに石でも投げつけて来そうな雰囲気だ。隊長、ここは危険です、デパートに逃げ込みましょう。ほほう、ここは涼しいな。それに何でも売っているようだな。どこまでも続く商品棚が見ていて気持ちがいいな。お客様は何をお求めですか? そうだな、それでは永遠にたゆとうことのない愛をもらおうかな。失礼ですが、お客様は俗物です。どうやら、そんな強い愛を受け止める度量はないようです。なんと、ずいぶん哲学的なデパートだな。よし、わかった、では普通のレモンを一つもらおう。甘いレモンと苦いレモンが残っておりますが、どちらをご賞味されますか? ちくしょう、酸っぱいレモンは売り切れか、誰も同じことを考えているな。隊長、私はフグを一匹買ってきました。そうか、でかしたぞ、高かっただろう、どんなフグだ? 我々でも毒を取れるのか? いえいえ、このフグは全身の器官がすべて毒を持っているそうです。現代の都会人の心理を反映していると店員がくれたのです。馬鹿もん、そんな嫌みな哲学はいらんわ。 隊長、私は新聞を買ってきました。一面は鉄道事故です。あのサンテカロニカ号がまた大破したそうです。そうか、二度あることは三度あるな。それほど驚かずに済んだぞ。続報です。その事故を起こした列車に敵の部隊が全員乗り込んでいたそうです。そうか、不憫な話だが、我々も危なかったな、紙一重だったからな。隊長、ここは気軽に頭髪を増毛できるコーナーだそうです。髪がないだけで不幸なのに、この上金まで取られるシステムか。こんなご時世だし仕方ないな、試しに10本だけ植えてもらおうか。いらっしゃいませ〜、お客様は剛毛なので、砂漠の牛の毛を植えておきました〜。ううむ、どこまでも砂漠の呪いがついてまわるな。隊長、ここは最も身分の差が出ると思われるペットショップです。ううむ、我々の資産でペットを飼うだけの余裕があるかな? お客様にぴったりのペットをご用意しました。このドーベルマンです。犬は駄目だ。我々のほうが頭も身体も弱いし、逆にしつけられてしまいそうな気がする。『それでは、負け犬というわけですね』 お客様、大変お待たせしました。こちらの九官鳥が何か申したいことがあるそうです。なんだ、これは派手な色合いで可愛い鳥だな。何でも言ってみてくれ。『おまえたちの学ぶスピードと歩むスピードは遅すぎる』やたらと口の悪い九官鳥だな。こんなご時世だから仕方あるまい。現代っ子にはもっとひどいことを言われたこともあるしな。お客様、これから避難訓練を開始します。急いで、外へ出てください。よしわかった、我々の力でも天災だけは防げないからな。先に避難させてもらうぞ。隊長、今のはまやかしの訓練だったようです。我々以外は誰も避難していません。なんだと、うるさい我々を外へ追い出すための罠だったのか、これは嫌われたものよ。仕方ない、行進を再開するぞ。 えっちら、おっちら。都会の砂漠の行進さ、目的はこれから探すんだ。隊長、そうこうしているうちに砂漠に夜が来ました。そうか、周囲に十分注意を払えよ。不幸はいつでも我々を狙っているからな。ドドドドド! すごい爆音だ。隊長、バイソンの群れです。違うぞ、あれは暴走族だ。道徳も知らない無法者に関わっては駄目だ。大人しく道を開けよう。真っ暗だ、進む方向も見えない人生路だ。我々はまた道に迷ってしまったぞ。こうなったら、映画の知識だ、北極星を探すんだ。隊長、我が隊の兵士の二人が突然倒れました。なに、ついに敵兵が現れたのか? 違います、一人は空腹で、もう一人は過酷な現実に迷い迷ってうつ病になったようです。何て情けない兵士だ、敵と出会う前に倒れ込むとは。仕方ない、少し休憩だ、手当てをしてやれ。隊長、我々のようなハンバーグ育ちの坊ちゃん兵士は、ちょっとやそっとのことですぐに人生をあきらめてしまうのです。隊長、今、無線を傍受したところでは、どうやら敵の部隊も同じ悩みを抱えていて、隣町の交差点で立ち往生しているようです。泣き出した兵士もいるそうです。うむ、そうか、このままでは戦闘にならないな。どうやら、我々を苦しめているのは敵の兵士ではなく、この過酷な現実のようだな。一度、上官に相談してみるか。もしもし、上官殿聞いておられますか? 我々はTOKYO砂漠に迷い込みました。ここでは誰もが他人の言葉を疑い、他人の気持ちを踏みにじり、他人をいかにして騙すかを目的にして生きています。敵は敵兵士ではなく、我々を飲み込もうとする現実そのものだったのです。現実は我々を間違った方向へと導き、我々を嘲笑い、我々を操って支配者の壮大な野望の片輪にしようとしています。これから現実の恐ろしさ、過酷さをここから伝えます。兵士たちは戦う前から負けています。何とぞ、次の指示を下さい。 私は都会の喧騒に脅え、それに耐え兼ねて一度立ち止まり、辺りを見回してみた。踏み切りの前で足を止め腕まくりをする少女、これからの長い航路を見据えている。モニターには真面目な表情で凶悪事件を伝えるアナウンサー、あなたがこの時代のシンボル。別れた男との真剣な約束をかたくなに守り通す女、言われたそばから忘れている女、どちらも時代を反映している。今日が初出勤の新入社員、旧友の忘れ難い言葉は心の成長を促している。 空を見上げ死んでいった者に思いを馳せる老人、どれもたった一度の人生だった。忘れていいはずがない。昔毎日のように通った旧友の家、どうなっているのだろうか? 今は思い出だけが住んでいる。慎ましい画廊で自分の作品を紹介する新人画家、まるで我が子を紹介するような面持ちで。夢中になってドラマを書いているうちに人生のシナリオを忘れてしまった脚本家、思い出すときは来るのだろうか。理想の自分は手を伸ばすほどに遠ざかっていく、まるで砂漠に浮かんだ蜃気楼のように。それができれば億万長者だとわかっていても、他人の心をつかむことほど難しいものはない。 地方から初めて出てきた女の子、心にカーテンを閉め忘れ詐欺師の餌食に、泣くことは取り戻すことではない。凶悪犯罪に脅えて通学できない女子児童、激しい雷雨に傘が開けない男子学生。交番の側面に貼ってある凶悪犯人の手配写真、市民に余計に恐怖感を与えているようで。大声で挨拶しろと部下を怒鳴りつける部長さん、まずあなたが頭を下げることを憶えなければ。足が不自由な老人を嘲笑う若者たち、20年後の自分を笑っている。経験が無ければ未来を見通すことは出来ない。経験が積まれた頃にはすべて遅すぎる。この交差点を慌てて踏み越えても、どうせ次の信号で足止めを喰らうに決まってる。すっかり客が離れて途方に暮れる蕎麦屋の店主、正面に出来た牛丼屋の看板を睨みつける。 現実はどんどん捻れ曲がっていく、支配者ですら予想がつかない。5年前とはまるで違う。10年前とはもっと違う。通じていたはずの道が今は存在しない。何もなかった野原に広い道ができている。拳を握りしめて線路をトントンと叩き、歪みを直そうとする少女、歪みを気にせず一気に突き進んでいく少年、どちらの未来も危うい。どちらも私にとっては過去の自分。 『そうか、わかった』と呟いて立ち上がり、階段をつたって一段下の道路に踏み込んだ少女、人と同じ方向に進むだけが道ではない。彼女は何とか答えを見つけ出したようだ。彼女は雨模様の街を懸命に走り出す。遅れを取り戻そうとしている。声をかけてやりたいが、私ではとても追いつけない。その後ろ姿も、霧もやの中に見えなくなっていった。『自分だけが美味いものを喰らえばいいんだ』そう思っている人間が支配しているからこの国はよくならないんだ。少年はそう呟いてじっと前を見据えた。 電車の中に鳴り響く赤子の叫び声、『うるさい』と怒鳴りつける会社員、それを見て何も言えずため息をつく読書家、その大人げない態度を情けないと思う他の乗客、単純な思考から同調する乗客、すまなさそうにする母親、泣き続ける子供、結局誰も解決は出来ない。 横断歩道の前で一時停止をしないで走り去るタクシー運転手、乗客への愛想はいい。『お金さえ払ってくれれば』道の途中から上機嫌になり人生を語り出す。『昔はよかった』 立派な黒スーツを着込んで漫画を読み耽るサラリーマン、知識がどんどんと薄くなっていく。仮想空間の楽しさに比べれば、現実の政治経済など口を出す気にもならない。新聞に100円を払うのも馬鹿馬鹿しい。『なるようになれだ』 サングラスをかけた若者が履いているジーンズ、灰色の都会を蒼く染め上げていく。子供の頃助けてくれた友にまた会いたいと願う青年労働者、相手もきっとそう思っている。二人きりなのに会話もなくうつむきながら歩くカップル、社会の未来を案じている。みんなが不幸なときに自分の幸せが続くとは思えない。中華料理屋で集まり、アルコールを貪りながら最近は若者の質が下がったと、ドンチャン騒ぎする主婦の集団。『すいません、その店は禁煙なんですが』 道路にしゃがみ込んでゲームに興じる金髪の若者、その一秒も誰かとの差が開いていく。売れっ子歌手に憧れてギターを買った若者、あなたの今こそがライブ。互いに手をとりながら楽しげに通りを歩く二人組の女子大生はすでに20歳の若葉、めくるめく会話が楽しいだけ、こちらを振り向きはしない。高笑う声を交えながら色紙のような会話が飛び交っている。遅刻をしても化粧を欠かさない女性社員、夢だけは南洋の島に飛んでいく。地図をくちゃくちゃっと丸めるように人生はワープ出来ない。早く27歳になりたい人、27歳に戻りたい人。若い頃惚れた少女の微笑みは今も心に生きていて、明日への活力になっている。 駆け巡るJRは爆発音のようながなり声をあげる。鉄橋の下にいる人民のことを考えているか。SOS SOS 帰り道、会社に残してきた不安をまた思い出す。過去の作家たちの空想を未来の重々しい現実たちが押し潰していく。そこには揺るぎない道徳も本当に興味深いジョークもあったのに。ゴットン、ゴットン。ああ、ジョイスはヘミングウェイはどこへ埋もれてしまったのか。宝物を失っても誰も気づかない社会。宣伝広告も無神経になってしまった。しかし、こんな僕をも満足させる音楽がある。 雨粒が落ちてくると無性に寂しくなり、傘についた水滴を見つめる会社員、雨ではない何かに脅えているのか。大きな願望を持ってそこから飛び込めと命令されれば行きますけどね、その前にパラシュートの使い方を教えて下さい。あなた、こんな危険な仕事なのに保険にも入ってないんですか。どんなに正論を並べても、『俺の言うことを聞いてくれ』と大声を出せば変人扱いをされる社会。政治に自己主張はいらないんです、欲しいのは連帯だけ。そうぶつぶつと呟いて、誰か名もない人が通り過ぎていった。 『おうい、君も一緒に行こうよ』 そちらを振り向いてみたが、呼ばれたのは私ではなかったようだ。何人かの幸せそうな女性が同時に手を挙げた。昨日、馬券が当たったと喜ぶ清掃夫、本当にそこが運の使いどころだったのか。何があろうと残酷に続く日常。絡まった電話線、針のないホッチキス、折れた定規、インクの切れたボールペン、腐りかけたサボテン。テレビで聞いたことのある文句の本ばかり店頭に並べる本屋さん、おじさん、あなたが本当に売りたいのはその本ではないでしょう。権力に逆らう本はすぐに廃刊になる仕組みなんだそうで。 サラリーマンは傘が飛ばされるような天候の日でも出勤するんです。上司に叱られるからですか? 違います、みんなもそうしているからです。職場に着けば他人を叩き落とすしかない狩人、それでも日曜ごとに家族の笑顔を見るのが楽しみ。誰かの不幸で自分の時間が削られる。誰かの幸せで自分のお金が減る。式場で写真を撮るからさあ笑えと言われたってこれじゃあ。あれ、君はなんで会社の支柱にしがみついているんですか? 『こうしないと、社会から振り落とされてしまいそうで』 道端で楽しそうに犬や猫に餌を配るおばさん、その隣に倒れている浮浪者には目もくれない。どんな病状でも『そうでしたか』で片付けてしまうお医者さん。人生はいつでもやり直せると思っている20代の夢追い人、人生は一度しかないと思っている10代の受験生。今はだらけてもいい、ゴールが見えてきたら全力で走り出せ。取り合えずの祈りは捧げておいたと胸を張るお坊さん、金勘定に夢中で現世に与える力は何もない。 脱ぎ捨てられたサンダル、ようやく回り出した扇風機。もう、夏は終わる。今年はあのバンドの曲を聞かなかったな。掲示板に貼られたツバメが巣を作ったことを知らせる案内、通りがかった善人の自己アピール。クーラーの風が寒いと訴える薄着の女の子、都会人の盲点を指摘している。埃にまみれいつの間にか見えなくなった望遠鏡、本当は二等星だって肉眼で見えるんだ。ぼやけているのは誰のせいだ、産業のせいだ、それなら、俺たちのせいだ。全員が回り回って何か悪事に関わってるに違いない。なかなか進まない腕時計、早く動き過ぎる置き時計、アインシュタインもうかうかできない。そうだ、見る人によって時間の進み方は変わるのだ。誰にも説明出来なかった理論。第二のマルクスが日本のどこかを歩いている。 もう、そんなに時間が経った? あの頃だって、記憶の中ではカラーのままだ。彼女の手を引けばほら、いつでも戻れると思っている。ほら、バンと鳴ったぞ、僕が一番注目しているレース、黒ずくめのドレスの少女が風を切って走り出す。あれでまだ5年生だと言うじゃないか。ほら見ろ、校庭を一番に飛び出して行ったぞ。これこそ胸に刻みつく憧れだ、生涯記憶に残る画に違いない。一瞬の思い出が出来たよ。それでも僕は恐くてシャッターが切れなかった。誰かに思い出を覗かれるのが恐くて。だから、セピア色に染まった時間の中を今も少女は駆けている。あの時の姿のままで。早く進めばいいと思っていた時間、本当は何より貴重なものだった。あの時、写した写真、今も残っているなら見せておくれ、今でも財布の一番奥に入っている。それからの記憶は散々だった。思い出そうともしないから、何時の間にか踏みつけられて記憶の一番底に。それでいいの? そんなことはない。君の道のりは立派なものだ。家族は励ましてくれる。今、もし出会ってしまったらすべて崩れてしまうに決まってる。思い出は一番美しい。みんなにそういう思いを抱かせるから、美人の責任は重いんだよ。母親は洗い物をしつつ軽く笑いながら。そんなことはない。あの子は今も朗らかに笑っているに決まってる。希望は大きかったが、自分はここまでしか来れなかった。彼女がどこかで幸せならばいい、そう思える人間になれた。そう思えることが大人になったということなのか。自分だけを褒めていた自分から、自分を創ってくれた人々を褒められるようになること? この厳しい社会の中では余りに薄い氷だ。そんなもの誰も評価してくれない。行き過ぎる人は冷たい視線を向けるだけだ。過去を晒すことは単純な幸せに直結していないからだ。 財産を作れ、家族を作れ、役立つ友人関係を作れ。みんな、それだけを命令されて動いているのか。皆が単純思考で生きているんだ。企業社会とはなんて単純なゲームだ。ふるい落としさえなければ誰にでもできそうだ。数年後の地位を計算してから入社する狩人。食堂は嫌いな人間のそばに座らないゲームだ。オセロより簡単だ。けど、積み重ねが大事だ。あいつが手前に座ったら自分はその後ろだ。相手はテレビに夢中だ、気づいてやしない。同じ人間が一度も隣席しない確率、計算出来るかな? 知らないうちに派閥が色を分けるマスゲーム。おほん、偉い人は言いました。周りの人間をすべて好きになれってそりゃ無理だ。睨まれたら睨み返すだけさ。孤独がさらに孤独を生む。癌になった人が偉そうに傷口を見せている。そうすることで願をかけているのか、そういえば、人はみんな弱いもの。嫌な人間のその後も見てみたい。どんなに興味を持った通行人もたった一度きりの出会い。絶世の美人、浮浪者、悪党、靴紐が解けているだけの人。今頃、ナイフが胸に突き刺さっているかも。明日はもっと強い風が吹け。自分以外は歩けなくなれ。自分を苦しめるものはすべて吹き飛ばされてしまえ。毎朝同じように電車に押し込められている人々、異常な日常をまやかしの物語で忘れようとしている。新聞だけが聖書。いいか、誰も飛び込むなよ、俺に迷惑をかけるなよ。眼鏡のひ弱なサラリーマン、それだけを念じているのかもしれない。身勝手なのはお互い様さ。僕も君も結局は狂っているのかもしれない。大きな黒いバッグ、何が詰まっているんだい? 死体が入っていてもわからないね。これから出張だって。あいつらだってうまくやったものさ。改札を鳴らしてしまう人、首をひねって後ろへ下がる。群衆に注目されてしまった。今日は運が悪かっただけさ。僕は都会を見渡すカラス。最近はスーツばかりじゃなくなったね。比率が変わったんですって。なるほど、女の人って頑張っちゃうから。昨日嫌なことがあったから、今日はついている日かい? 心情的にはそう思いたいものさ。そう思ってなきゃ毎日同じことなんて出来ない。テレビを見てみな、人間の人生なんてバイオリズムはだいたい同じさ。えばってたあいつも三年ともたないだろう。今は輝きが足りなくって悔しくたって、あいつにはより大きな落とし穴が待っているのさ。税金か、税金だな? 君はそう考えながら、毎日を耐えているのかい? そうさ、人生を変える本なんてのがよくあるだろう? あんなのを信じて幸せになった気になっている人はどこまでおめでたいんだろう。次は正反対の道徳を書いてくるに決まってる。いいじゃないか、長い目で見ればそういう人の方が人生を楽しんでいるのかも。あっちに振られ、こっちに揺られ。壊れたシーソーのようだね。要は誰の言葉にも簡単に乗せられろと? 僕は自分のことも信じられないさ。僕は惰性で毎日同じ軌道を描くだけ。円じゃないよ楕円だ、毎日少しずつ崩れていくんだ。そんな人でも一人じゃない、見守ってくれる人がいる。それがわかっているからあえて歯車になっているんじゃないのかい? そうさ、こんな思いが集まって社会が出来ているんだ。 6時間の中で4回も夢を見た。理想の展開だ。悪夢の中に本当の自分を見つけてもいいじゃないか。普段は感情を表に出さないからな。線路に捨てられたゴミ、列車がムシャムシャと押し潰していく。夢の中でも僕は列車に乗っていた。どこにも辿り着かない列車。壊れかけた駅ビル。逆走する列車、どこかで見たような通行人。線路はあちこちで途切れている。どちらに進んでもたどり着きそうにない。人生そんな終わり方もいい。 明日、犯罪を犯す者も今日は黙ってニュースを見ている。刺身を食べているかもしれない。団扇で暑さを凌いでいるかもしれない。いつ風船が破裂するんだろう。この国のあちこちで破裂しているよ、メディアが伝えないだけで。確かに今は難しい時代だ。君は物事を難しく見過ぎているな。政治が簡単だった時代なんてないんだよ。流れ去る雲を見なさい。どんな形に生まれても不平不満を言わないじゃないか。偉い作家の受け売りですか? それだって言い換えれば権力者に媚びているだけのような。エレベーターは上に下に逆らわない。どんな奴でも載せてやる。ピーピー! 大地震が起きました、このエレベーターは最寄りの階に停止します。それでも助かるかどうかはあなたの運にかかってます。くだらない人生が歩いている。反省も改善もない人生なんて楽しいのかい。文句があるのかい? 家に帰ったら寝るだけさ。布団に入る前に他人を批判することを忘れるなよ。 社会はギシギシと歪みながら動いていく。万人の理想と支配者の野望の狭間で揺れ続ける。両側から思想の異なる人民にグイグイと引かれる。その動きに釣られて、しがみつく誰もが不自然に身をよじっている。新聞もニュースもジャーナリストもその変化を追いきれていない。流されるのはかなり前のニュースばかり。多くの弱者が振り落とされても構わずにその乗り物はさらに激しく揺らされる。この振動をなぜ伝えないのか。こんなことでは、いつか倒れるかもしれない。でも、誰も支えようとしない。みんな自分の時計しか見ていない。空を見上げてみろ、灰色の空だ、もうすぐ不安が束になって落ちて来そうだ。誰が誰を救うんだ? 身内の誰かだ、教師だ、弁護士だ、政府だ、いや違う、そこにいるのは自分だけだ。自分では誰も救ってやれないとため息をつく老人、威張りちらす経営者、頭を抱える債務者、少なくとも俺は悪くないと胸を張る労働者、法律にすがりつく女弁護士、椅子に踏ん反り返って命令を下す悪徳代議士。あれだけ時間が進んだのに、まだ口論しているナショナリスト、耳をふさぐコミュニスト。誰が誰と繋がっているのか、誰を倒せば誰が救われるのか。それとも最後にはみんな一緒に倒れるのか。俺の回答はすでにだしたぞ、答えはどこへいった? 誰にもわからないから誰も言わない。答えが知りたい人であふれている。 そんなとき、私は弱い兵隊たちの行進を見る。弱い兵隊たちの足音を聞く。どこへ行っても聞こえてくるよ。えっちら、おっちら。それなら、私の足音も誰かに届いていればいいのに。 了 <2012年7月11日> |