早朝、社内の二階にある、まだ静かなロッカールームの中から、女性社員たちの明るい声が響いてくる。
「ねえ、秋本さんってふくろうに似てない?」
「彼が何に似てるかなんて、興味もないし、考えたこともないけど、なんでそう思うの?」
「なんかさあ、あの、ぼけーっとしててどこを見ているのかわからない視線とか…、用事がなければ、ほとんど身動き一つしないでしょ? あの人、普段から何を考えてるかわからないし、勤務中だって絶対仕事のことなんて考えてなさそうだし…。午前中なんて周りの人から話しかけられても一言も言葉を発しないし、夕方、薄暗くなって仕事の締め切りに追われてくると、ようやく慌てだす感じ。夜になると動き出す、ふくろうそっくりだよ」
「わかるわかる、それはわかるけどさ、なんで急にふくろうと彼が被ったの?」
「昨日、彼氏と動物園に行って野鳥の展示室で見てきたの。ふくろうは昼間は枝にとまってじーっとして、目の前に人がいても全然動かないの。自分の夢想以外は何物にも興味がない感じ。それでピンと来たの。これは、秋本さんとそっくりだってね」
「あの人はほんと何を考えてるかわからないよね。仕事中も、絶対、アイドルとかアニメとか、そういうくだらないこと、帰ってからやることを考えてそう…」
「ふくろうってね、メスは高いところにある枝にとまってオスを見張ってるんだよ。オスはメスに頭が上がらないの。女性にいい場所を取られて、社内に居場所がない彼にそっくりだと思ったのよ」
「たしかに、あの薄ぼんやりとした目は何を考えてるかわからなくて、よく似てるかもね…」
 社内で、始業前や仕事の合間の会話で、秋本のことが話題になるのは珍しいことではなかった。彼は外見も内面にしても、他人から馬鹿にされやすい性質の人間であった。おとなしく、極めて無口で、他人から責められると、自分に非がないことでも、すぐに頭を下げてしまう。極めて臆病なので、他人と無用なトラブルになることを避けたいようだった。
 仕事にもうまく集中できず、理解力もなく、頭が回らない方で、一つのことはなんとかやれても、二つのことに同時に取り組むことはなかなかできなかった。社会人の常で、一つの仕事に取り組んでいても、後から緊急の仕事が舞い込むことは多いのだが、彼は二つのことに手を出すと頭が混乱してしまうため、一つを完全にやり終えてからでないと、もう一つの方に移ることができなかった。そのため、彼の机の上で、部内の急ぎものの書類の流れがせき止められてしまうことが多かった。仕事が貯まってくると、緊張に負けてしまうため、すぐにあわてふためいて、余計に能率が悪くなり、仕事がさらに滞ってしまうのだった。決断力にも欠けていて、大事な局面では常に誰かの指図を必要とした。自分より経験の浅い人間に指示を仰ぐこともしばしばあった。終業時間が近くなると、締め切りのプレッシャーに押されて余計に能率が落ち、この時間になると上司に付き添われていなければ何もできなかった。手際が悪いため、終業時間になっても、他の社員より長く会社に居残ることが多く、上司や同じ部所の仲間にそれ相応の迷惑をかけることが多かった。
 しかし、時間はかかっても仕事はすべてやり終えるため、昨今の不景気でも、首にされるところまではいかなかった。いわば、彼は企業社会のカースト制度での、『仕事はできないが、悪い人間ではない』という身分に属しており、本人も心の内ではそれを認めていた。この身分の人間は社会全体で見れば決して数は少なくなく、『できない上に性格が悪い』という最下層の人種よりはずいぶんマシと思われていた。

 この秋本という男が2010年5月31日、会社の同僚の殺人と死体遺棄容疑で逮捕されるのだが、警察署でこの男の取り調べにあたった刑事数名は、いずれも彼の殺人に至るまでの決定的な動機を認めることができなかった。
 殺害されたのは秋本と同じ職場の皆川という22歳の女性で、同じ年の4月末に採用され、入社したばかりであった。彼女は5月23日の深夜殺され、翌日の早朝に山中に埋められたと見られている。彼女の姿を最後に確認したのが、この秋本であり、彼の供述によって山中から彼女の絞殺遺体が発見されたのだが、皆川宅に秋本が侵入した形跡はなく、彼の指紋も靴跡も発見されなかった。23日は部内で新人の歓迎会があった日で、秋本も被害者の皆川も参加していた。秋本自身は23日の夜に彼女の後を付けていって、自宅に行ったことを認めているし、心の中で彼女に好意を持っていて、強く意識していたことも認めているのだが、彼女への殺意は否定した。
 彼自身は取り調べに対してどのような質問にでも素直に応じたが、自分が皆川をどのように殺害したのか、また、なぜ殺害に至ったのかを説明することができなかった。自分は皆川を守るために彼女の家に行ったのであって、殺すつもりはなかったし、殺したことも覚えていないと供述した。
 しかし、秋本のここ一ヶ月の記憶はしっかりしていた。調べていくと、秋本がこの被害者に好意を持っていたのは事実のようで、この事件に関わった多くの警察関係者は動機の謎に首をひねったが、全容解明のために、とにかく、彼の5月に入ってからの足取りと、秋本自身の性質を詳しく調べることにした。
 秋本が皆川という新入社員に初めて出会ったのが、5月9日だが、彼の同僚の言葉を借りれば、秋本のこの日の仕事振りは普段と変わりなかった。だが、少々落ち着きがなく気分が浮ついているようなところも見受けられたという。秋本はいつも通り朝8時55分に出社し、ロビーでこの皆川という女性社員とすれ違った際に、彼女から丁寧に挨拶されたという。秋本は自分の職場に女性の新入社員が配属されることは、部長からの報告で知っていたし、紺のリクルートスーツという見なりからして、彼女がその新入社員であることはこの時点で察しがついたという。端的に言えば、秋本は一目でその清楚で大人しそうな風貌を気に入ってしまった。本人の供述によれば、もう十数年まともな恋愛をしていない彼にとって、それは青天の霹靂のような出来事であったという。その場では平静を装ったが、心の動揺はかなりのものがあったらしい。取調室でも彼はそのことをはっきりと認めた。ロビーの女性に未練を残しつつも彼は3階に上がり、気分を落ち着けようと自分の席についたが、間髪入れず、同僚の尾上という女性に話しかけられたという。秋本はこの女性が苦手だった。それというのも、この女性はいくぶんヒステリーなのだが、通常の女性のそれと違って、他人への不満からではなく、自分の口から発せられる言葉によって、さらに無用な興奮や混乱を引き起こしてしまう性質で、最後には自分が何を言っているのか、何に対して憤っているのかさえわからなくなってしまうのだという。怒りの矛先は身近なところにも及び、例えば、壁のポスターの貼り位置であるとか、ロッカーの上の花瓶の配置などであり、それが少しでも自分の気に食わなければ大声で文句をつけてくるという。
「ねえ、聞いた? 須藤さん、昨日からゴホゴホと咳してるけど風邪を引いたみたいね。そんなにたちの悪い風邪が流行る季節でもないのに…」
彼女はここで一つ間を入れたが、秋本が返事をする前に再び話し始めた。
「最近、残業が続いたみたいだから仕方ないんだろうけど、そういうときに誰かがカバーしてあげればいいのよね? 秋本さんだって、そう思うでしょ? 私が同じ部所だったら、そんなとき、絶対放っておかないと思うわ。仲間が困っているときにきちんと手を差し延べられるのが、常識的な社会人でしょ? (ここで一服して口から煙を吐き、秋本の顔を凝視する) だいたい、本人もおかしいのよね。そんなに悪くなるまで休まずに働き続けるなんて! そんなにしてまで、自分の評価を上げたいのかしら? まあ、それが真面目だと言えばそうなんでしょうけど、やっぱり社会人だったら体調の管理くらいはしてくれないと困るわよね」
いったい何に対して憤っているのかがわからなかった。秋本はただ聞いているばかりで口を挟ませてもらえない展開が続いた。
「だからね、37度以上熱が出たら出社しないとか、咳が止まらない日は午後休を取って帰るとかのルールを作ればいいと思うのよ。それはわかるでしょ? それは職場のみんなに有益なことなんだから」
もちろん、平社員で成績が優秀なわけでもないのにこんなに小うるさい女は、誰からも相手にされていないのだが、彼女はとにかく自分の思い通りに周りの人間が動いてくれないと気が済まないようで、職場の中に次々と勝手なルールを作り出すのである。勤務中、どんなに暇になっても書籍や新聞を読んではいけないとか、パソコンの近くには飲み物を置かないようにするとか、コピーはまとめてとらないで、5枚ずつ分けてとるようにするとか、健康のため、甘いジュースやコーヒーは一日一杯にするとか、禁煙を心がけるようにするなど、言われてみればその通りなのだが、上役でもない人間から強制されると窮屈に感じるものだ。彼女は勝手に作ったルールを自作のポスターにして壁に貼りだし、自分の中の常識を会社全体のルールに高めようとするのだった。別に悪いことをしているわけではないから、上司も苦々しさはあっても、こういった行為を黙認せざるを得なかった。
「うちの課に新人が来るらしいわよ。朝、ロビーで会わなかった?」
突然、核心を突く質問が飛び出したため、秋本は平静を装うのが大変だった。
「ああ、ちらっと見たけど、なんだか、静かそうな子でしたね。うちは賑やかな部所だからついていけるかな?」
心を落ち着けて、尾上と目を合わせないようにして、うまく答えることができた。今朝の出会いには、一目惚れに近いような感覚を受けたのだが、この口の軽い女に絶対にそのことを知られるわけにはいかないと、秋本は直感的に思ったのだという。彼女に知れてしまったら、その日のうちにどこまで噂が拡がってしまうか、想像するだけでも恐ろしかったという。彼は自分の感情をコントロールすることは得意で鉄仮面を崩すことは滅多になかった。
 この尾上という女性は他人から得た情報を、中身を簡略せずに、そのまま次の人に伝えていかねば気が済まない、九官鳥のような人間で、時々は自分の身内に関わる情報をネタとして扱うこともあるようなのだが、自身はそれほど派手な生活をしているわけではないので、面白い話題はそれほど多くなく、会話の中ですぐに手持ちぶさたになり、他人の情報頼みになってしまうのだという。もちろん、この女性の情報の受け手として話し相手になってやる社員もいるのだが、ほとんどの社員は彼女を毛嫌いし、彼女が側を通りがかると皆話すのを止めて、自分たちの個人的な情報が極力漏れないようにしていた。尾上本人は他人の負い目をしゃべり尽くして楽しいのだろうが、本当のところ、誰とも心打ち解けるところがなく、誰からも本当の気持ちを伝えられることもないのだという。秋本はそんな彼女を哀れに思うとも供述していた。
 尾上は秋本の顔をしばらくじっと見て、何も話すことがなくなると、彼の机を離れて、次の話し相手を求めて飛び立って行った。相手が誰であっても、おそらく話す内容は一緒である。彼女が誰かの失態や中傷を伝え回るたびに社内には嫌な空気が少しずつ蔓延していくという。秋本は刑事からこの女性について尋ねられると、「彼女が他人の秘密を漏らし続けることが、無用なトラブルの原因になっていた。こういう女がいなければ、世の中はどんなに平和になるかわかりません」と冷静な口調で語った。秋本は自分のことにはさして興味を持てないと話す一方で、こうした他人の特徴にはやたらと精通していて、その、どこを見ているのかわからないような瞳で、他の社員のことについても楽しそうに語った。
 秋本のその日の仕事は彼にしては比較的順調であった。ところが、午後になって、新規に受注した顧客の仕事に若干のミスがあり、そのやり直しをする羽目になった。そのため、6時半過ぎまで会社で残業をすることになった。彼は今朝会った新入社員のことばかり考えていたので、仕事ははかどらなかった。彼が十年ぶりに体験する心の高ぶりであるから、無理からぬところではある。ちなみに、その皆川はこの日は研修のため職場には姿を見せなかった。秋本はきれいに整頓された、真新しい彼女の机を何度も確認して、昼過ぎになって今日は彼女が出社しないことがわかると、ひどく残念がり、早く一緒に働きたい衝動に駆られた。彼女の成長を見ながらこれからの日々を過ごすことが、自分の新しい楽しみになりそうな気がしたのである。ところが、この日は残業時間に入り、秋本のために一緒に残業することになった上司の井上という男から、「なんで、おまえのつまらんミスのせいで、俺まで残業しなければならんのだ」と叱責の言葉を受けたという。
 この井上部長についても、秋本は詳しい人間観察をしていて、取り調べ中に彼のことを尋ねられると、自分の考えていたことを刑事たちに何でも話して聞かせた。ただ、この上司のことに限らず、秋本の口からは同じ部所で働く同僚たちの詳しい生態を残らず聞くことができた。この秋本という男は自分の身の回りにいる人間たちを動物になぞらえて、内心で笑い飛ばす癖があった。あるいはそうすることによって、自分の低い立場から生まれる屈辱を紛らわそうとしていたのかもしれない。彼の言葉を借りると、人間は日々の労働に追われて、単純思考で動くようになると、生態が動物に近くなるそうで、例えば、女性社員の中には、他人のやること成すことにすぐに興味を示すカラスや猫が多くいて、男性社員の一部には他人のやることすべてに敵意を持って睨みつける野犬がいるらしい。その他にも、仕事が暇になるとすぐに他人にちょっかいをだす山猿や、ところかまわず話題を振り撒く九官鳥がいるという。ちなみに、この井上部長は彼の言葉を借りるとゴリラで、それはなぜかと言えば、身体はでかいが、行動が極めて単純で、全く知性の足りない人間だからだという。秋本はこの井上の話を始めると、熱を持ち、口が止まらなくなった。
 職場では毎朝9時からその日一日の予定を上司が報告する朝礼があるのだが、その場は井上の独演会だという。彼はひとたび話し始めると、その日の仕事の内容だけに留まらず、今の時期には関係のない未来の予定のことまで延々と話し続けるという。その無駄の多い長さゆえに、この朝礼を不必要だと感じている社員も多くいるらしい。井上の口癖は「そういう細かいことは、私ではなく関連部所に言ってくれたまえ」と「俺の命令をきちんと一回で覚えられないやつはチンパンジーだ」の二つらしいが、彼自身も、他人から受けた連絡事項を5分足らずで忘れることが多いらしい。責任感に乏しく、他の部所からクレームが来ても、「俺は現場責任者じゃないんだから、そんなに細かいことはわからない」と平然と答えるという。業績に関する会社の重要な情報はすべて自分のところで止めてしまい、部下には伝えようとしなかった。その様子は、まるで我が子を自分の足元から決して出さない子育てペンギンのようだという。管理職であるから、机の上にパソコンは常備されているが、使用するのはインターネットでゴルフの情報を調べるときだけで、肝心なアプリケーションソフトは何一つ使えなかった。勤務時間中はほとんど席から立ち上がらず、お茶を飲みながら部下の動向を冷めた目で見ているが、自分より上役が訪ねてきたときだけ慌てて席から立ち上がるという。権力志向が強く、他の企業の幹部や自社の社長などの有力者の名刺を机の上に並べて眺め回し、一人でにやけていることがよくあるのだという。秋本は井上からいわれのない叱責や嫌みを言われることが多いらしいのだが、秋本は彼が自分よりも明らかに小さな人間だという意識の下に怒りを押さえ付け、井上の小言に反論などはしたことがなかったという。
 取り調べの期間、秋本は刑事の質問に素直に応じ、時折上の空になることはあったが、要所で厳しく追求されても、必要以上に反発したり、話をごまかそうとすることはなかった。彼は終始感情的にならずに冷静な口調で話し続けることができた。入社したばかりの女性社員の首を絞めて殺害し、遺体を山中に埋めるという、凄惨なこの事件の容疑者とはとても思えなかった。事件の動機につながりそうなことでさえも、自分から進んで話をすることが多かった。取り調べの中で、彼はこの数年間の社会生活の中で、忘れられない、捨て置けない二つの事件があることを供述し、その話をするときだけは若干身を乗り出し、目を吊り上げて、幾分興奮したような態度を見せたという。その一つが社内でいわゆる宝くじ事件と呼ばれている件で、もう一つが元同僚が駅のホームに落下して轢死した事件なのだが、ここではまず前者について解説する。
 女性社員殺害事件から一年前の夏、その頃、会社の総務部では一人の男性のアルバイト社員が働いていた。総務には彼以外に六人の正社員が働いていたが、この部所では日々他の部所との煩雑な書類のやり取りがあり、これは単純作業ではあるのだが、他にも重要な仕事を抱えている正社員の手にはとても負えないために、書類整理を専門にする20代のアルバイト社員が必要となり、募集広告がだされ雇われることになった。この男性を仮にAとするが、会社に勤めてから丸二年が経過したある日、ギャンブル好きだったA青年は、会社の帰り道で例年のように宝くじを購入した。彼にしても、身体に染みついた癖で何気なく勝ったくじだったので、購入した当初はさして期待もしていなかったらしい。ところが、後日の発表でA青年の購入した番号が二等の1億円を当てていたことがわかったのである。このA青年は当選の翌日興奮した顔で会社に来ると、「宝くじを当ててしまったのだが、このことが肉親や友人などにばれると大変なことになるので、この仕事を辞めたい」と言い残して辞表を置いて立ち去り、この日以降行方不明になったという。
 会社も退社後の諸手続のことがあったので、何度もこのA青年と連絡を取ろうとしたのだが、彼の行方は結局わからなかった。こういう単純な事件なのだが、殺人事件とは直接関わりのないこの一件の詳細を警察が知ったのは、秋本の供述を元にして会社の役員から直接話を聞いたからであって、当の秋本本人はA青年が会社を辞めた本当の理由を詳しくは知らなかった。彼がA青年の突然の退社をギャンブルの大当りではないかと訝ったのは、A青年と数回顔を合わせて競馬や麻雀の話をしたことがあり、その中でA青年が相当なギャンブル好きであることを知っていたことと、もう一つはマスコミの数社が、この会社の社員が宝くじを当てたことを嗅ぎつけたためである。
 A青年が宝くじを購入した販売店が会社のすぐ側にあるのだが、この売場の店員がA青年のことをよく知っていたため、マスコミ関係者にこの付近の会社員に当選者がいると、口を滑らせたのである。それを受けて、一部の週刊誌が社名入りでこのことを報道したのだ。秋本はその週刊誌を大事に机の引き出しにしまっておき、時折、その記事を見るたびに、自分であらぬ方向に想像を膨らませるようになってしまった。それは例えば、A青年がどこか遠くで、今だにこんな境遇にある自分をあざ笑っているのではないかとか、自分も、もしくじを購入していれば当たっていたのではないかとか、そういうことらしいのだが、そういう想像によって、秋本は不思議と気分が高ぶるようになってしまい、仕事中であればまともに書類を書けない状態に陥り、自宅では高揚して寝つけない状態になってしまったという。
 秋本はA青年の退社を知ってから、上司の井上に執拗に青年の辞めた理由を問いただすようになった。それは、仕事の合間でも休憩時間でもお構いなしだったという。当然、A青年の辞めた理由は社内でトップシークレット扱いになっていて、井上は聞かれるたびに話をうまくごまかして、彼に真相を伝えないようにした。しかし、どんなに秘密にしていようとも、どこからか漏れてしまうもので、この宝くじの一件は、いつの間にか社内の誰もが知るところになってしまい、A青年の辞めた理由も皆の話の種になることが多かった。ただ、この青年が会社を辞めてから一年が経っても、この問題に執着しているのは秋本だけである。秋本は殺人事件で逮捕された後も、この宝くじの一件についてはもっと詳しく知りたいと語っていた。A青年が住んでいる場所を知っていれば教えて欲しいと刑事に懇願したこともあった。彼がこれほどに執着する理由を完全に説明することは難しいが、自分と仲が良かったのに、大金を得たからといって挨拶もせずにすぐに退社して去ったA青年の態度が、秋本の心を激しく波立たせたのかもしれない。
 秋本という男は同僚たちの言葉を借りると、いささかずぼらで社会道徳には無頓着な男らしい。20代の頃は会社のルールに真面目に従って働いていたらしいのだが、30代に入ってからは生活が目に見えて乱れるようになった。休日に家で大酒を飲むようになり、社内で上司や来客に対して挨拶をすることもなくなり、何日も洗濯をしていないYシャツを着ていたり、夜中まで海外のサッカー番組を見ていたとかどうでもいい理由での遅刻が目立つようになり、それを上司から指摘されることも多くなった。遅刻や仕事のさぼりなどの悪癖は一度身についてしまうと、なかなかそこから脱却できないものである。それがいつ自分のものになってしまったのかを本人すらも忘れていることが多いが、自分の社会的義務の一部を省くことによって得られる、ほんのわずかな悦楽をいつか味わっているはずである。
 秋本はこの年の5月までは数日に一度の割合で遅刻していたが、この皆川という女性社員が入社してからはパタッと遅刻をしなくなり、そればかりか、始業の30分以上も前に出社するようになった。秋本はこのことについて問われると、皆川さんよりも早く出社すれば、彼女が入室してきて自分の机の前を横切るときに、ちょこんと頭を下げて挨拶をしてくれるからだと供述した。それは、彼にとって憂鬱な会社での一日が始まる前の、ほんの少しの安らぎであったのかもしれない。
 皆川という女性社員が入社してから数回に渡って、秋本はこれまでに体験したことのない、自意識が途切れるほどの強い感情の高ぶりを体験したと供述している。錯乱状態に近いそれは、小学生の頃に体験した初恋の衝動に近いものだったらしいが、彼はこれほどまでに、他のことを何も考えられなくなるような高揚感を味わったことがないと話した。それが、いずれ殺意に繋がったのかと問われると、彼は強くそれを否定した。そのような強い高揚感を再び得たいと思うようになり、彼はその日から出社することが楽しみになったという。それは皆川という存在と触れ合う機会を探すためであった。秋本は休み時間になると、彼女の姿を探すように社内を散策するようになった。彼と皆川の机の位置は距離にして15メートルほどで、それほど離れてはいないのだが、観葉植物や敷居に遮られていて、自分の席に座ったままでは彼女の姿を見ることはできなかった。彼女の近くまで行くには、例えばコピーを取りに行くとか、上司に書類を提出しに行くとか、何かの口実が必要なのである。自然を装うのは、尾上を始めとする部内のうるさい婦人たちに自分の気持ちを悟られないためであった。5月10日に皆川が部内で新入社員として紹介されて自己紹介し、他の社員がそれに拍手を返したときも、秋本は自分の意に反して、さして興味もないという態度を見せなければならなかった。
 皆川は研修を終えて10日から通常勤務に入り、太田という30代の男性社員が彼女の教育係にあたることになった。太田は、女性と面と向かうと、すぐにしどろもどろになる秋本とは違って、女性にかなりの免疫がある性質らしく、まったく気後れすることなく彼女と接し、作業上のことだけでなく、日常生活のことなどもうまく会話に織り交ぜながら、彼女をリラックスさせ、楽しませていた。ところが、二人が仕事そっちのけで楽しそうに会話をしているところを見て、秋本は激しく憤ったという。
 なぜ、太田が皆川に優しく接したことにそれほど腹を立てるのかという刑事の質問に、「太田が許せない男だからだ」と答えたという。秋本はこの質問をされたこと自体に腹を立てていて、突然、机の脚を蹴り上げて、「奴は盲目のキツネだ」と何度か叫び、ひどく機嫌を害していたという。
 太田という社員は妻子持ちだが、社内では女性社員から人気のある方で、愛嬌があって場を盛り上げることが得意だという。食堂で自分より若い女性社員と向き合って一緒に食事を取っているところをよく見かけるそうで、秋本はそういう場面を苦々しく見守ることもあるという。年齢は秋本より二つ下だが、高い学歴があり、仕事の要領も良いため会社での地位は一つ上である。社内での人間関係を含めた立ち回りの上手さが、秋本が彼を嫌っている原因の一つであろうと思われた。秋本に言わせると、社会人というものは、会社の中で自分の女性関係を匂わせるような行為を極力避けなければならないのだという。太田は妻帯者だが、例え独身者であったとしても、周囲の人間の目に触れるところで、女性と二人きりで話したり、不用意に身体を触ったりすることはしてはならないのだという。秋本の話をさらに聞いていくと、社会人は自分の妻以外の女性と一緒に食事を取る場合は二人きりではなく、必ず三人以上で食事をしなければならないのだという。さらに、仕事が終わっても、独身の女性と一緒に帰るなどもってのほかで、周囲に関係を疑われる行為は厳禁であるというのが、秋本の心の中にある、女性との接し方に関するルールだった。太田はこういったルールを守れない破廉恥な男だから、皆川さんに近づくのが許せなかったのだと秋本はやや興奮しながら話した。
 怒りは簡単には収まらなかったようで、この日の仕事が終わってから、秋本は自宅への帰り道の途中にある、大道路の下を通り抜ける地下通路に立ち寄っている。彼は極めて人通りの少ないその薄暗いトンネルの中に、何もせずに長時間いるのが好きだった。そこには、スーパーのビニール袋や読み捨てられた雑誌、他にはビール缶などが散乱していて、この近辺で一番汚い場所のように思われた。いわば、社会の毒がここに集まっているのだと、秋本は思っていた。通路の壁にはとても読むに堪えないような汚い言葉がまんべんなく書かれていて、そこには暴走族などが書き込んだ、自分達の縄張りを示すための記号のようなものもあった。
 彼はこういうやりきれない夜は、わざわざこのトンネルに来て、そういった社会から漏れだした害毒を見物した。他人に不快な思いをさせるべく書き込まれた落書きを見ると、彼はなぜだか安心するらしい。人間というものは誰しも社会の残酷で厳格な規則に縛られていて、自分の希望だけでは思うように身動きが取れず、常に道徳や常識によって自由を押さえ付けられているのだという。元は正常な人間であっても、そういう状態に長く置かれると、いつしか心中に悪意が充満し、生活のどこかで自分の腐った内面を表に出さなければならなくなるという。秋本に言わせると、家庭内での妻や子供への暴力行為や、通勤途中での駅員や他の客への乱暴行為や痴漢行為も、それが表面化したものであるという。そういった犯罪行為に走るのは、高い知性を持つ者も、まったくそれに恵まれない者も一緒であると、秋本は常にこのトンネルの中で思うのだ。つまり、自分は道徳心のある人間だから、この壁に書かれているような汚い言葉を表に出さなくて済んでいるのだ。俺が普段から無口なのは高い知性の証拠だ。この汚いトンネルは、社会の中に、自分よりも遥かに劣った人間が多くいることを教えてくれるのだと、秋本は取り調べの中で語った。

 新入社員歓迎会の日取りが翌週の23日に決定したのは、5月16日だった。秋本が最も楽しみにしていたイベントが近づいてきた。職場でうまく皆川に接近できない彼にとって、このイベントは自然に彼女と接することができる大きなチャンスだった。
 しかし、彼には困った問題があり、それは入社してから、これまでのほとんどの歓送会を欠席してきたことである。歌も歌えない、笑いも取れない彼にとって、大人数が集まり盛り上がる場というのは特に苦手だというのがその理由だが、これまで、自分がお世話になった人の歓送会でさえ、参加を断ってきた男が、今回の新入社員歓迎会にだけ突然態度を変えて参加してきたら、周囲の勘の鋭い人間から疑われるかもしれないと、彼はそのことを恐れたという。事実、この日の午後3時をまわっても、他の社員は誰も彼に歓迎会への参加の有無を尋ねてこなかった。当然のように、秋本はどうせ不参加であろうと判断しているのかもしれなかった。だが、4時の休憩時間になって、尾上がいつものように寄ってきて、少しの雑談をした際に、「そういえば、秋本さんは歓迎会には出ないの?」と軽い口調で聞いてきたのだが、この程度の軽い誘いにほいほいと乗るわけにはいかず、「まだ、決めていないんです」とさして興味も無さそうな表情で答えるしかなかった。尾上も、「ああ、そう」とだけ言って、それ以上は誘ってこなかった。出否の締め切りは20日なので、それまでに、どうにかして自分は参加したいのだという意志を鮮明にしなくてはならなかった。それも、誰にも皆川さんのことについて、それと悟られないような自然な態度でだ。秋本は内心ひどく焦っていたという。
 この日は終業間近になって思いもかけないことが起きた。朝から、新入社員の皆川と同じフロアで勤務することができて、秋本は彼女が張りきって仕事をしている様子を微笑ましく眺めていたのだが、午後4時過ぎになって、彼女の方から秋本に近寄ってきたのだという。想定外のことにひどく動揺したが、それを顔に出すわけにも行かなかった。突然、「ごめんなさい」と頭を下げた、彼女の話をよくよく聞いてみると、新人の仕事覚えの一環として、部内の文房具の発注作業をしていたらしいのだが、秋本と他数名が提出していた発注書を業務部へ提出することを忘れてしまい、そのために秋本が頼んでおいた付箋とボールペンが今週中には届かなくなってしまったらしい。新人に対して、ボールペンが一本届かなくなったくらいで怒りだす社員もいないと思うのだが、いったい何に脅えているのか、彼女は何度も何度も頭を下げて謝罪した。社会人になってまだ数日であるから、自分のしたことがどのくらいの落ち度なのかが判別できないのであろう。秋本はここぞとばかりに、彼女の言葉を遮って優しい声で話しかけた。
「いいかい、いいかい、そんな小さなことで謝らなくてもいいんだよ」
彼女は小さな声で「はい、はい」と礼儀正しく頷きながら、彼の話を聞いていた。
「顧客とのトラブルならともかく、同僚の発注を間違えたくらいでそんなに頭を下げることはないんだ。だいたい、僕は管理職じゃない。君と同じ立場の人間なんだ。僕だってよくつまらないミスをするし、今度は君に迷惑をかける立場になるかもしれない。だから、そんなに恐縮することはないから、これからも何かあったら、気軽に相談に来てよ、ね?」
彼自身も好きな女性と初めて話すにあたって、これほど気の効いた言葉もないだろうと、内心は自画自賛だったらしい。秋本が見たところ、皆川は彼の言葉にすっかり陶酔してしまっていて、感極まって今にも泣き出しそうに見えたという。彼女の純粋さに秋本もまた心を動かされた。思えば、彼の周囲にいるのは、携帯電話で大声で余計なことを話したり、仕事中に平然と化粧をしたり、他人とどうでもいいおしゃべりすることだけに熱中するくだらない女ばかりだった。現代に皆川さんのような女性が多くいたら、俺だって、どれだけ救われるかわからないのに、と彼は悔しそうに供述した。
 彼は皆川と話したこの夜、興奮してしまい、眠れなくなったという。眠りにつこうとしても、頭の中には皆川が自分に平謝りしている姿が浮かんでしまい、気持ちが落ち着かなかったという。正確に言えば、この日から、彼が皆川を殺害するまでの数日間はずっと同じような状況が続き、眠りが浅かったらしいのだが、彼は目が冴えてしまうときは、大学ノートを開き、そこに、「皆川さん、皆川さん、皆川さん」と数ページにも渡って無心で書き付けていくことで何とか気持ちを落ち着けたという。この作業を毎夜続けることによって、彼はこの期間も数時間の睡眠を確保していた。
 話は少し前後するが、皆川が仕事のミスのことで謝罪に来た折り、別れしなに秋本の方から、「太田は恐ろしい男だから気をつけてね」と声をかけたらしい。刑事はそこで一度彼の供述を止めさせ、「なぜ、彼女にそのようなことを言ったのか」と質問した。秋本は彼女を守りたいがあまり、自然と心の中から出てきた言葉だ、と答えたが、さらに突っ込んで質問されると、彼の記憶の中の二つめの事件、元同僚のホーム転落事故について語りだした。
「刑事さん、よく聞いてくださいよ。犯罪者は僕じゃない、太田こそ殺人鬼なんです」
秋本は目を見開いて、説得力を持たせるような強い口調でそう言った。彼の話では、3年前の秋、この会社の当時の新入社員であった塚本という男が部内の同僚との飲み会の帰りに最寄りの駅のホームで電車を待っている間に気分が悪くなってふらついたあげくにホームから転落し、ちょうど侵入してきた電車に跳ねられて即死したのだという。秋本の供述を受けて、警察で当時の記録を調べてみたところ、確かにそういう事故は起きていたが、原因は転落した塚本本人の過失死となっていた。
 事件というのは、被害者の先輩であった太田と佐々木の二人の社員が、新入社員の塚本に気を使って飲みに誘い、仕事終わりに連れ出したことが発端になっている。三人は二時間余りに渡って社員行きつけの飲み屋でビールや焼酎を飲んだ。先輩二人はもう一件別の店に立ち寄ることにしたため塚本を一人で帰したが、この直後、彼は駅のホームで体調を崩し、前後不覚になってホームから転落し、上り電車とホームの間に挟み込まれる形となって即死した。警察からの一報を受けて太田と佐々木の二人は安置室に駆け付けて変わり果てた同僚の遺体と対面した。二人とも、相当なショックを受けていて、まだアルコールにさほど慣れていなかった新入社員に深酒をさせたことを後悔している様子であったという。もちろん、会社でも大問題になり、上司から叱責の言葉を受け、塚本の両親への事後連絡と謝罪も二人で行ったという。新入社員を連れ出して、酒を飲ませて泥酔させたことは道義的に良くないが、ホームから転落したのは本人の過失であるから、太田が塚本を殺したことにはならないだろうと刑事が尋ねると、秋本は顔を紅潮させて、「それは違う。太田が彼を殺したんだ。太田は塚本を殺す目的で連れ出したんだ。泥酔させて、奴が後ろから背中を突き押してホームから転落させたんだ」などと、人が違ったように怒鳴り声をあげた。
 なぜ、そんなことがわかるのか、と続けて問うと、秋本は「自分が会社から帰るときに塚本の姿を見かけた。その後ろを太田が付けるように歩いていた」と答えた。それは幻覚や人違いではなく、確かなことなのか、と問うと、「確かに、塚本の姿を見た。酔っていてふらふらしていた。時間差は少しあったかもしれないが、太田も確かに同じ駅にいた」と強い口調で答えた。
 では、太田が塚本を突き落とすところを直に見たわけではないのか、と問うと、「太田が殺したんだ! そうに決まってる! あいつは新人のくせに態度が生意気だった塚本のことが気に食わなかったんだ!」と答えて、その言葉ですべてを言い尽くしたようで、あとは黙りこくってしまった。

 5月20日は新入社員歓迎会の出否表明の締め切り日であり、秋本は自分でもどのように行動したらうまく参加にこぎつけられるのかわからず、相当に焦ってイライラとしていたという。彼は気になって何度か皆川の方を覗き見たが、彼女はそんな秋本の焦る心を知らず、周りの女性社員と楽しそうに話していて、すっかり打ち解けた様子を見せていたという。事態がようやく動いたのは午後で、秋本と仲の良い佐々木という社員が仕事の書類を届けに来たついでに彼に声をかけた。
「よお、おまえ、来週の飲み会どうするのよ? 来るんだろ? そろそろ出席人数を確定させないといけないんだよ。店を決めたいからな」
秋本にとってそれは渡りに舟の問いかけだった。秋本は社内のイベントにはとことん出無精な男であったから、この佐々木という男以外が幹事であったなら、出否を尋ねられることなどなかったであろうが、佐々木はよく気が回る、面倒見のいい男なので秋本のような世をすねた男にも声をかけてきたのだ。
「俺は遠慮しておくよ。俺が行っても、つまらない話しかできないし、盛り上がらなくなるだろ? どうせ、太田が来るだろうし、あいつが代わりに騒いでくれるよ。俺抜きで楽しんできてくれよ」
秋本はわざと自分の気持ちと正反対のことを言って、佐々木の気を引こうとした。案の定、佐々木は心配そうな顔をして言葉をかけてきた。
「身体がどこか悪いのか? 同じ職場で席も割と近いのに、おまえが出席してくれなかったら皆川さんも変に思うよ。もし、太田がうるさくて嫌なら、あいつと離れた席で二人で飲もうぜ」
同僚にここまで言わせておいて、断ったら逆におかしいだろうという空気を作っておいて、秋本は承諾することにした。
「わかったよ、ありがとう。おまえがそこまで誘ってくれるなら出ることにするよ」
感謝を込めた表情で返事をすると、佐々木も安心したようで引き下がっていった。
 秋本がこれによって最大の喜びを得て、この日から仕事になどますます集中できなくなったのは言うまでもないだろう。
 刑事から、「参加を承諾したこの日までは彼女を殺害するつもりは本当になかったのか?」と尋ねられると、「もちろんです、最初から最後までそんなつもりはなかった。彼女が入社してからの毎日は幸せでいっぱいだったのです」と秋本は答えた。
「では、皆川という女性への殺意は具体的にいつ頃から出てきたのか?」という問いには、「今になっても、わかりません。自分が逮捕されるべきというのはわかりますが、なぜ、彼女を殺すことになったのかがわからないのです。殺意など…、絶対にありませんでした」と少し考えた後で答えた。これまでの彼の話が真実であれば、秋本に皆川を殺害する理由は無さそうだった。
 秋本は5月23日、事件当日の出来事を話し始めた。この日一日の彼の心情の変化から動機を見つけださなければならなかった。刑事はこの日の出来事で覚えていることはなるべく詳しく話すように告げた。

 5月23日は朝から薄曇りの天気で、降水確率は50%、歓迎会に雨天中止の取り決めはありませんでしたが、降り出さないかとにかく心配で、仕事の合間に何度も空模様を確認しました。職場の様子は普段よりずいぶん賑やかでした。全員が歓迎会を意識していたわけではないでしょうから、特別にそれを楽しみにしている私がそう感じただけかもしれません。普段ならあまり話さないような人達も入り混じって少人数でグループを作り、昨日のスポーツのことや芸能人の結婚話などの雑談をしていました。その中でも、やはり太田の大声が目立っていて、「みんな、今日はあまり間食はするなよ、後に美味しい食事が控えてるからね」などと、余計な愛想を振り撒いていました。まったく、うるさい男です。私自身は、歓迎会での自分のコメントをどうしようかと、そのことばかり考えてしまい、皆川さんとどう接するかなどと併せて考えているうちに緊張してしまい、周囲の雑然とした雰囲気が疎ましく感じられました。当日にもなると、気分の高まりがピークに来てしまい、ありえない妄想に取り付かれてしまいました。それは例えば、佐々木や尾上が気を使って、自分と皆川さんを二人きりにしてくれるとか、太田が皆川さんに言い寄って、何か良からぬことをするのではないかというものもありました。自分にとってはこの歓迎会はこれ以上後がないイベントに思えたのです。なぜって、私の立場や器量では、これから皆川さんに近づくチャンスは簡単には訪れないと思えたからです。この日ばかりは集中して、間違っても残業にならないように仕事に取り組みました。
 午後5時に仕事が終わると、皆書類や荷物をそそくさと片付け、10分も経たないうちに職場から消えてしまいました。女性陣はどうせ化粧なのでしょうが、太田や佐々木も含めた男どもの姿も見えなくなってしまいました。歓迎会の会場は会社近くにある『花市』という店だそうですが、私は場所を知らなかったため、誰かについていかねばならなかったのです。仕方なく、ロビーに降りていって一人で外国文学の本を読みながら、参加者が通りがかるのを待ちました。その間、今日の清楚な皆川さんの身なりを考えながら、とりとめもない想像をしました。一日の疲れが取れるような気がしました。もし、今夜の飲み会で太田が彼女に言い寄っていく場面があったら、自分がなんとか間に入って止めねばならないと思っていました。皆川さんの話し相手として似合っているのは、自分のようにきちんとした社会的ルールを備えている気高い男であって、決して太田のようなつまらない男であってはならないのです。今日の会において、奴はただの客寄せピエロに過ぎないのです。正面扉の外を眺めると、ポツリポツリと雨が落ちてきました。それを見て、皆川さんは傘を持ってきているだろうかと心配になりました。そんなことを考えていると、5時半過ぎになって、佐々木が通りがかりました。
「まだ、誰も来ないの?」
佐々木は私の姿を発見してそう尋ねてきたので、私は頷きました。みんなはもう先に出発したのか、それとも社内のどこかで時間をつぶしているのかわからなかったので、とりあえず二人で花市の前まで行ってみることにしました。道を詳しく聞いてみると、会場は会社から目と鼻の先でした。それほど焦る必要はなかったのかもしれません。途中で、佐々木が余所の部所の課長が顔を出すと言っていたというようなことを話していましたが、私は上の空だったのであまり彼の話を聞いていませんでした。実はずっと太田のことを考えていました。あいつは恐ろしい男で、若い女を食い物にするためなら、どんな手を使うかわからなかったからです。皆川さんがあいつになびかなければ(上品で清純な彼女が簡単になびくわけがありませんが)、どんな目に遭わされるかわかったものではありません。もしかすると、数年前の塚本のように、事故に見せかけて殺されてしまうかもしれないではありませんか。そこで、良いことを思いつきました。私の机の一番下の引き出しの一番奥に前任者が置きっぱなしにしていった食器セットがあります。なぜ、新品の食器セットが職場に置いてあるのかはわかりませんが、あの中に確か果物ナイフが入っていたのです。太田が皆川さんに失礼なことをしたら、それで刺し殺してやろうと思いました。自分が太田の胸を何度も突き刺しているところを想像して何とか気持ちを落ち着けることが出来ました。
 そんなことを考えていたら、すぐに花市へと着いてしまいました。時間はまだ開始時間の15分前でしたが、店の人は我々をこころよく中に入れてくれ、奥の座敷の席に案内してくれました。まだ、私たち二人しか来ていませんでした。大きな横長の木の机の上には、16人分のおしぼりとガラスコップが用意されていました。私と佐々木は店の一番奥の壁際の席に座りました。そういえば、みんなを待っていたこの時、皆川さんはどのくらいお酒を飲めるのだろうか、というような話をしていたと思います。私は彼女にはあまりお酒を飲ませたくないと答えました。もちろん、帰り道が心配になるからです。
 二人でそんな話をしながら待っていると、次々とうちの社員が到着しました。私は皆川さんのことしか待っていませんでしたので、最初に来た井上部長や他のどうでもいい男性社員の顔を確認するとがっかりしました。私の隣の方から、席は次々と埋まっていきましたが、皆川さんはなかなか現れませんでした。やっと、6時を5分過ぎたところで尾上と太田に連れられて、皆川さんが到着しました。私は主役を遅刻させるとはどういうつもりかと憤りましたが、お祝いの会だからということで佐々木に諌められました。
 メンバーが全員揃ったので、井上部長が音頭をとって乾杯をしました。結局、皆川さんは私から一番遠く離れた、店の入り口側の席に座ってしまいました。私が首を伸ばしてそちらの方を見ると、酒に慣れていない皆川さんに、太田が下品に笑いながら、ビールをなみなみとついでいました。いくらお祝いの会だからといっても、あいつはすっかり悪のりしていました。みんなの声に混じって、太田の獣のような笑い声が私のところまで届いてくるたびにイライラとした気分になりました。こんな席順になってしまうとは、まったく理不尽な話です。あいつに皆川さんを楽しませることが出来るわけがないじゃありませんか。彼女は優しいし、人なつっこい性格だから、太田のような下品な男にも愛想笑いや相槌を打つかもしれませんが、本心では太田から離れたいと思っているのです。私はビールをかなり飲んでいたため、この頃になると気分が良くなってしまい、なりふり構わず、皆川さんの方にばかり顔を向けて、彼女が小さな唇を動かして何か話していると、なるべく、そのか細い声を聞き取ろうとしました。そういう私の不自然なそぶりを見て、佐々木が、「おまえ、彼女が入社してから、会社に来るのがずいぶん楽しそうだな」と茶化すように言ってきましたが、私は聞こえなかったフリをしました。しかし、それまでの不自然な態度をごまかそうと、井上部長や佐々木と最近の大相撲の勝敗や、それぞれの田舎の話などをしました。内容はほとんど覚えていません。
 みんながビールを一杯ずつ飲み終えると、希望者の多かった焼酎を飲もうということになりました。店員の女性が一升瓶を抱えて持ってきたので、私と佐々木とで、全員分のグラスに注いでやることにしました。声が大きくてうるさい太田や尾上のグラスは濃いめに、皆川さんのグラスは氷と水で割って薄めに作りました。太田などは早いうちに酔い潰れてしまえばいいと思ったのです。
 この辺りで、一人ずつ彼女への挨拶も兼ねて自己紹介をすることにしました。私はかなり酔っていたので、自分が何を話したのかをあまり覚えていませんが、覚えの早そうな子だから仕事もきっと大丈夫だろうとか、困ったことがあったらいつでも相談に来てくれとか、そういう当たり障りの無いことだったと思います。最後に皆川さんが立ち上がって挨拶をしました。皆さんとお仲間になれて嬉しいです。仕事でも、もっとがんばって早く皆さんに追いつけるようにしたいです、とそういう話だったと思います。私には彼女のその言葉がまるで自分に向けられているように感じたのです。

 その頃までに私がどのくらい飲んでいたかですって? 刑事さん、本当にそんなことが知りたいのですか? ほんのビール二杯と焼酎二杯です。そんなもの、酔っているうちに入りません。私はあの夜、自分はずっと正しい認識を持って行動していたと誓って言えます。そのようなわかりきった質問でこの話を中断しないでもらいたいですね。では、話を続けましょう。
 歓迎会が始まって、一時間半ほど過ぎて、七時半を回った頃に、それまで私と話していた佐々木が急に寂しそうな声を出して、「皆川さん、こっちに来てくれるといいのにな」と私に目配せしながら言いました。彼の意図はわかりませんでしたが、二人で皆川さんのいる方まで行こうと私を誘っているのでしょうか。私は同意はしませんでしたが、彼以上に寂しさは感じていたので、一度彼女の方へ視線を向けました。皆川さんは尾上など酒の強い女性の面々に囲まれて余計に飲まされてしまっている感じでした。
「いや、若い人同士で話をしていたほうが、楽しいに決まってるよ」
少し考えた末、そう返事をすることにしました。この期に及んでも、私の小さな自尊心が生きていたのかもしれません。それから、また少し時間が経ってから、それまでずっと正面に座っていた佐々木が、何も言わずに突然席を立ちました。彼はそそくさと入り口側の方へ歩んでいって太田や皆川さんが座っている方へ行ってしまったのです。その時は、私と一緒にいると会話が弾まないし、楽しくないと感じて移動したのだと思いました。私はすっかり落ち込んでしまって、そこからしばらく独りで飲んでいました。そうして考えていると、皆川さんがみんなにあれだけ飲まされてしまったのだから、帰りは彼女をきちんと駅まで送ってやらなければならないと思うようになりました。私自身がそんなことを言い出せば、皆の注目を浴びることになりますが、もうすでに、他のメンバーにどう思われようと構わないほどに、私の気持ちには勢いがついていたのかもしれません。
 そのときでした。すぐ近くから、「ちゃんと、飲んでますかー」という明るい声が聞こえてきました。慌てて顔を上げると、私の正面の席、先ほどまで佐々木が座っていた席に皆川さんが来てくれていたのです。私はこのときほど驚いたことはないですが、すぐに、佐々木が気を使って、彼女をここまで案内してくれたのだと感づきました。私は彼に自分のいじけた心を読まれてしまったことに恥ずかしくなりました。皆川さんはすっかり酔ってしまっていて、私が何も話さなくてもケラケラと笑っていました。
「慣れてないんだから、あんまり飲んじゃだめだよ」と優しく声をかけてやると、「そんなに飲んでませんよー。やだなー、そんなに赤く見えますか? みんなが楽しそうだから、なるべく飲んだフリをしているだけです」と彼女は勢いよく答えて、机をバンバンと叩いて、また笑い出しました。彼女はぼんやりとした瞳で私の顔を見つめ、「今度、仕事を教えてくださいねー」とか「日曜日とか、家ではどんなことをしてるんですかー」とか次々と質問を浴びせてきました。いつも物静かな彼女がこんなに大きな声ではっきりと話すところを見るのは初めてでした。
 刑事さん、メモばっかり取っていて、ちゃんと私の話を聞いてくれていますか? この時の私の充実した気持ちがわかりますか? 今、あなたがたが知りたがっていることをきちんと話しているではありませんか。いい加減、そんな不審そうな顔はやめてください。私が彼女に殺意を持っていたとまだ思っているんですか? よくそんなことを言えますね。これまでの話から判断してくださいよ。そんなわけがないでしょう。
 私は皆川さんと十数分ほど二人きりで談笑することができました。時計はいよいよ8時を回り、我々が店を予約していた時間が過ぎてしまったので、一時解散することになりました。濃い酒を飲まされたせいか、太田は相当に酔っ払っていて、まともに歩けないほどでした。彼はすっかり調子に乗っていて、皆川さんをもう一件別の店に連れて行こうとしていました。私は彼の悪のりにすっかり腹を立ててしまい、彼の胸を突き押してよろけさせました。彼自身は私にそんなことをされてずいぶん驚いていたようでしたが、他のみんなも空間が把握できないほど酔っていたせいか、誰の目にも入らなかったようでした。私は自分が皆川さんを駅まで送っていくと宣言して彼女と歩きだしました。その頃にはみんな意識を保っているどころか、足取りまでが怪しい状況だったので、私の言うことを不審に思う人間はいなかったはずです。私は皆川さんに「さあ、もう帰るんだよ」と告げました。彼女は上司にきちんと挨拶した後で、私に付き添ってきました。
 帰り道は太田が後ろから追ってきてないか、それだけが心配でした。すっかり泥酔してしまった皆川さんがよろけて転倒しないように時々肩を支えて、彼女が車道にはみ出ないように気を配りました。
 え? なんです? 送っていったのは本当に私一人だったのかですって? もちろんです、帰り道で他の同僚には会いませんでした。佐々木や尾上は太田と一緒に二次会のカラオケに行ったようでした。私は途中で皆川さんに、「大丈夫? 電車に乗って、自分の家までちゃんと帰れる?」と尋ねましたが、彼女は「もう大丈夫です、ありがとうございました」と弱々しい口調で答えました。酒に強い私は一度トイレに行ったので、徐々にアルコールが抜けてきていましたが、彼女はまだぼんやりとしていました。少し、気分が悪かったようです。それしか話さないうちに駅まで到着しましたが、私は彼女をこのまま一人で返すことが不安になってきました。車内で寝込んでしまうなどして、遠くの駅まで連れて行かれてしまうのがかわいそうだと思ったのです。そこで、私も彼女と一緒の電車に乗り、自宅の最寄りの駅まで送ってあげることにしました。もちろん、やましい心からではありません。彼女を守りたいがためです。彼女を自宅に届けてから私の家に向かっても時間的には問題はないと思ったのです。
「大丈夫? 気分悪くならない?」
列車に乗ってしまってから、振動が気になって私はそう尋ねました。多くの乗客がいましたが、いつもは孤独を味わっているこの空間で、皆川さんと二人きりでいられることが嬉しかったのです。皆川さんはすっかり酔いがまわっていて、うわごとのように今夜他の人間と話したことをつぶやきだしました。
「知ってましたか? 太田さんは秋に行われる主任昇格の試験を受けるために…、今、猛勉強中なんだそうです…」
「あんなわがままな奴が主任になんかなったら、うちの部所は終わりだよ」
私に言ったのではないかもしれませんが、私はドアの外の夜景に目を向けながら、彼女に言い聞かせるようにそう答えました。皆川さんも、吊り革に掴まったまま、窓の外の景色に目を向けて、しばらくしてから、再び話しだしました。
「太田さんは…、英語はペラペラなんですけど…、世界で…、もっと活躍したいんだって…、今、中国語も勉強しているそうです…」
「中国語? あいつにピッタリな言語だな。自分中心の国、自分のことだけしか考えない国」
彼女の心がここに一緒にいる私でなくて、どうも太田の方に向いているようで、私はすっかり機嫌が悪くなってそう言い返しました。私は太田の巧妙な話術によって、奴の手が彼女に迫っているような気がして、ますます自分が守ってやらねばと思うようになりました。
 彼女の自宅の最寄りの駅に到着すると、二人で電車を降りて並んで改札に向かいました。皆川さんはそこでちょこんと頭を下げて、「ここから家は近いので、もう大丈夫です。送っていただいてありがとうございました」と挨拶をしてくれました。彼女の表情を見ると、酔いはかなり醒めたように見えました。私は黙って手を振りました。彼女はもう一度お辞儀をすると、ゆっくりと歩み去っていきました。
 え? なんですか? ここからが重要だからまだ先を話せですって? もちろん、あなたがたに言われなくても話をしますよ。これからあったことのすべてをお話するつもりです。
 私が見送っている、皆川さんの後ろ姿は次第に小さくなっていきました。このときの気持ちをあなたがたにうまく説明するのは難しいですが、私の気持ちはなぜかソワソワとして、やはり彼女の後をつけることにしたのです。それはやはり、太田のことが気になったからです。太田とは会社の近辺で別れたから、ここまで来てないですって? 何を言うんですか。あいつは以前にも誰にも疑われることなく、新入社員を殺してみせたではありませんか。
 皆川さんを追いかけて駅の外に出てみると、ロータリーで数人のサラリーマンが酔っ払って騒いでいる以外は静かなものでした。バスターミナルでは酔客で行列が出来ていました。路上では、無名のギタリストたちが何かぎゃんぎゃんと喚きながら演奏していて、家に帰り損ねた数人の女子学生がコンクリートの上に座り込んでそれを聞いていました。
「夢を追いかけようー、かけがえのない夢をー」などと昨晩出来上がったような歌詞を歌っていましたが、そんな夢などより、私にはこんな時間になっても家に帰らずに歌などを歌っている彼らの今後の人生の方が気になりました。
 私は皆川さんを見失わないように、しかもある程度の距離を保つようにして追いかけました。雨はすでに止んでいて、初夏の涼しい風が通り過ぎていきました。まるで、私を応援してくれているように感じました。私はこれから彼女の秘密を知ってしまうような気がして胸が高鳴りました。彼女は西町商店街と書かれたゲートをくぐって、比較的人通りの多い賑やかな道へと入っていきました。しかし、ここの商店街もこの時間ですから、コンビニや金券ショップくらいしか開いていませんでした。電灯の明かり頼みになっていて薄暗かったのです。そのうち、彼女はまだ開いていたチェーン店の惣菜屋に入りました。夜食を準備できるほどに脳が働いているということは、彼女の酔いがほぼ完全に醒めていると私は感じました。私は惣菜屋の正面にあるゲームソフト店の前にある電信柱の後ろに隠れて、息を殺して彼女が出て来るのを待ちました。それから10分も経たずに彼女は出て来たと思います。彼女は軽いステップを踏んでいて、何か嬉しそうでした。まだ、アルコールが少し残っているのかと思って心配しました。こうやって、闇に紛れて好きな人の後を追っていると、視界に入ってくる他の人間たちはすべて彼女にとって悪いものに見えてきました。商店街を離れると、電灯の数も少なくなってきて、このような薄暗い人通りのまばらな道を彼女が毎日通っているのかと思うと私は不安になってきました。こんなに暗い道の上で太田みたいな野獣のような男に出会ってしまったら、彼女を守りきれないかもと思うようになりました。これからも、私が時折見に来てやらねばいけないと思うほどでした。
 やがて、彼女は白い外観のアパートに到着しました。ポストを覗き込んでいたので、どうやら、そこが皆川さんの住家のようでした。彼女は後ろに何の警戒もせずに2階の中央の部屋のドアを開けて入り込むと、中から鍵をかけてから部屋の電気をつけました。私は極度に興奮した気持ちのままでそれを確認してから、安心して自分の家に帰りました。いや…、ちょっと待って下さい。しばらくその場にいたかもしれません。何をしたかは覚えていないんです。これは本当です。時計の針は5分も動いていませんでした。とにかく、その夜はとてもよく眠りにつけたことを覚えています。胸のつかえがすべて取れたような気持ちの軽さでした。なぜか、自分の心が皆川さんとずっと一緒にいるような気がしたのです。

 秋本が事件当夜の話をすべて終えると、刑事は憤慨してドンと机を叩いた。
「ふざけるな! 思い出せ! おまえは、彼女を送っていったその足で、彼女の部屋に入り込み、交際を迫り、それが断られると、彼女の首を絞めて殺したんだ! そうだろう!」
秋本はどんなに大声で罵られても、これまでと同じように表情を変えることはなかった。
「私が勢い余って彼女の部屋に入ったですって? とんでもない、私は彼女の動向を見守っていただけで、彼女の身体に一切触れていません」
「嘘をつくな! 皆川宅のベランダの窓にも、入り口のドアにも何者かが細工をして侵入したような形跡はなかった! あの夜、呼び鈴を鳴らして中に入れるおまえ以外に、彼女を殺せた人間はいないんだ!」
「刑事さん、何度同じことを聞かれても返事は一つですよ。私は何も覚えていません。だいたい、私は彼女のことが好きだった。父親が娘を見守るような愛情を持っていました。そのような強い愛情が殺意に変わることなどあるでしょうか? 私には彼女を殺害する動機がないのです」
秋本は虚空を見つめながら、そう繰り返すばかりだった。取り調べにあたった刑事はこれまでの質問、もう数十回は繰り返している同じ質問をまた繰り返さなければならなかった。
「それなら、なぜおまえは皆川という女性が埋められていた場所を知っていたんだ? いいか? あそこは事情を知らない人間が偶然に通り掛かって見つけられるような場所じゃないんだ。犯人がおまえの会社の別の人間だとしても、昔、青年団の山岳部に所属していたおまえぐらいしか知らないような場所なんだぞ。それをどう説明するんだ?」
「私は彼女があの場所にいることを知っていました。自分だけが知っているあの場所に彼女をそっとしておきたかったのです。なぜって、私以外に彼女を守れる人間はいないのだから…」
もはや、彼に何を尋ねてもそう答えてうなだれるばかりだった。

以上、これまで紹介した文章は、この事件を追っていた新聞記者が、現場の刑事から直に聞いた話と容疑者の供述をまとめてくれたもので、彼は大学で心理学の客員教授をしている私のところまでその文書を持ってきてくれたのだ。犯罪学においても、実に興味深い事例ではあるが、この秋本という男の殺害動機については私にも確たることは言えない。無意識的な殺人であることに疑いはないが、この秋本自身がまだ心のどこかに隠していて、供述していないことがあるかもしれないからだ。
 現代病という一言で片付けてしまうこともできる今回の事件だが、実社会の中での自分の存在や地位に失望して、空想の中に理想の自分を見出だす性質の人間は、その周囲にいる社会に従順な人間にとって、しばしば危険な存在となるものである。テレビや外部メディアの発達によって、それまで自分の周囲にいる人間との対話によってのみ成立していた人間関係だけでなく、現代人は自分の内側に潜む何物かとの対話にも関心を示すようになった。精神病社会といわれるようになった昨今、多くの現代人は自分もその一人であることを認めなければならない。
 それでも、道徳心のない青少年による残虐な犯罪も含め、動機の解明しにくい事件であふれかえっている現代にあっては、今回の事件もそれほど珍しくない事例なのかもしれない。おそらく、多くの社会人は新聞で事件のことを一読して、それを投げ捨て、二度と思い出さないのではないだろうか。しかし、人間の内面から、恋愛と嫉妬という単純な感情を否定することができない以上、この目まぐるしい時代に生きる誰もが秋本のような発作を起こす可能性を秘めている。
 今回のこの事件も、この世知がらい現代社会に順応することができなかった秋本という男の、一番心の奥に潜んでいた鋭い爪や、闇夜でのみ光るその眼光を、我々が感じられなかっただけなのかもしれない。
                     了
<2011年5月23日〜7月1日>