創ることは生きる証 (アイトワの理念が生まれた背景)


 わが家では毎夜のようにやすむ前に妻と対話をしてきました。私は1つの確かな願いを込めて結婚していますから、その願いを妻の心に刻み込んでもらうために始めた、といってよさそうです。やがて2時間も3時間にも。たまには翌朝の3時までということが生じるようになってゆきました。もちろん今も続けています。

 私は18歳のときから荒地の開墾に手を付け、20歳のときから植樹を始めましたが、植樹を重ねるうちに次々と新たな意義に気付かされています。ですから、植樹を始めた動機と、新に気付かされた意義が相俟って、生きる指針が次第に固まってゆきました。

 菜園に加えて植樹を始めた動機は単純です。受験浪人のときに聞いた知的障害を持つ年上の友の一言によって、化石資源に頼っている人間が、つまり人間が作ったわけではない資源に依存している工業文明が不安に思われたからです。果樹や燃料になる木の苗木を植えながら、古代文明は木材資源の枯渇化や農地の砂漠化を進めたために崩壊したに違いないと憶測し、同様に工業文明もやがて化石資源の枯渇化を進めて崩壊するに違いない、と考えています。

 植樹を重ねるうちに気付かされた意義とは、当初は生活を潤すために始めた菜園や植樹でしたが、つまり生産や循環に意義を見出していましたが、やがて家族の心身を健康にすることを知り、ついには近隣や友垣を潤すことが理解できるようになり、私流の庭造りや庭は、道場や病院にもなれば、学校やサロンなど多様な役割も果たすことに気付かされたことを意味しています。

 他方、私は工業デザイナーになるための大学に進学しています。入学してすぐに、工業デザイナーは工業文明が生み出させた職種であり、まさに化石資源の浪費を助長する触媒の存在だと気付かされています。同時に、100年以上も昔の人ウイリアム・モリスの存在を知り、知的障害を持つ年上の友の一言を、稀有な至言であったと思うようになっています。

 モリスは、産業革命の成果を目の当たりにできたロンドンで、工業文明の行く末を危惧して数々の至言を残しています。工業社会は「略奪と新しい需要の創造という悪循環」を起こしかねず、また「古代社会の奴隷や封建時代の農奴よりも惨めな賃金労働者」を生み出しかねないなど。こうした至言に私は心を打たれ、荒地の開墾と植樹にいっそう情熱を傾けています。

 就職先には商社を選び、やる気満々で入社しています。配属は構造的不況下にあった繊維部門でした。商社の繊維部門は当時、日本を生産基地と見て、綿から生地にいたる原料を扱っていました。それは農業社会から工業社会への移行期に繁栄した産業の位置づけであり産物です。だから私は、工業社会型に転換するように提案しています。つまり取扱商品を原料から製品に転換し、日本を消費市場として育成する提案です。続いて、この転換を円滑に運ぶためにソフトウエアーの充実が不可欠であるとも訴えています。

 それが会社の方針として採用され、伊藤忠ファッションシステムという子会社も作らせてもらいます。実は、この子会社はわが国の商社や紡績が誕生させたソフトウエアー子会社の中では最初に黒字経営をした事例になり、その後毎年超優良子会社として社長表彰を受けています。だが私は、こんなことをしていて本当にいいのだろうかと不安にかられています。

 だから私生活では、商社に就職した後も、土曜日の午後と日曜日は庭仕事に没頭しています。マージャンもゴルフもスキーにも興味がわきませんでした。私流の庭造りに充実感を見出したからです。その庭造りと仕事場を行き来している過程で1つのアイデアが浮かびました。人類は工業文明を見限り、次の時代を創出し、移行しなければいけない、と。次の時代を私は第4時代と呼ぶことにしており、第4時代に即した「生き方」に興味を集中してゆきます。

 会社では、1973年から「第4時代到来論」を提唱しはじめています。やがて「コットンハウス・プロジェクト」という新企画を構想し、百貨店の協力を得て勤めた商社の体質転換を計る糸口にしたい、と願っています。百貨店は、欧州で産業革命が軌道に乗り、消費材の大量生産が可能になってから誕生しています。いわば庶民の欲望を解放し、消費者化する装置でした。商社は、わが国が工業化を計る上で貢献しましたが、私には工業社会の弊害が次々と見え始めていたのです。それは公害や自然破壊だけでなく、人間の心まで破壊しかねないとの危惧です。

 なぜなら、ビジネス的に成功しようとすれば、過去の貴族階級の真似事が出来るように仕向ければよいことに気付かされていたからです。自己完結能力や自己責任能力を不要にする商品やサービスを大量生産したりチエーン化したりして届ければ歓迎されたのです。それは画一化、拝金思想、生きる力の喪失、寄生心などの諸悪の根源、と見て不安になったわけです。

 新しいプロジェクトの狙いは、百貨店には「欲望の解放装置から人間の解放装置への転換」を、商社には「工業社会型から第4時代型の花型企業への転換」を呼びかけ、資源小国の日本が次代を牽引する国になるための第一歩を印したかったのです。だが「環境では飯が食えないよ」などの声が続出し、言わんとするところを理解してもらえなかったのです。

 やむなく私は、独自のリスクで試みられる私生活で、「コットンハウス」プロジェクトを実践することにしています。次の生き方を、目に見える形にすることに情熱を傾けたわけです。同時に、きっと世界の企業家の中から、人間の解放を求める人が続出する時代を予見し、そうした人たちの期待に応えようとする人が現れるに違いない、と期待するようになっています。

 そんなわけで、妻とは毎夜毎夜対話を重ねる必要があったのです。これまでの有限の資源を浪費し、自然を破壊しながら、欲望を無限に広げようとする生き方の限界に気付き、太陽という無限の資源を生かして創造的に生きようとするわけですから簡単ではありません。誰しも欲望の解放は安易でしょうが、人間の解放は簡単ではないはずです。だから、私たち夫婦は毎夜のように対話を重ねるはめになったのです。

 その間にあって妻は人形つくりを始めました。自然発生的に人形教室が出来たかと思うと、個展を開催しました。やがて人形作家と呼ばれるようになり、私は消費ではなく創造の喜びに目覚めたものと見て歓迎しました。両親も人形作家になった妻を励ましています。両親の助言もあって、妻のために人形工房の建設に手を付けることになりました。

 その構想から竣工までに5年ほどかかりましたが、その過程でさまざまなものが誕生しています。私たちの理念に沿うようにした半地下構造やトップライトとか薪ストーブなどを採用した建物。その理念の明文化。その理念に基いてつくられつつあった生活空間にふさわしい名称としての「アイトワ」。そのシンボルマークとして「森」と「太陽」、そして「循環」と「エバーグリーン」を図案化した紋章。第4時代の旗手をイメージする「VIBGYORCOLLAR」という名称など。同時に「第4時代」を待望する一書の原稿もできあがりました。

 VIBGYORとはバイオレットのVからレッドのRにいたる虹の7色の頭文字(Iはインディゴ)を連ねたもので、COLLAR(襟)をつけて多彩な人をイメージさせました。工業社会は人間をホワイトカラーやブルーカラーなど単色の人間に分解したが、資源小国の日本は多彩な人を輩出して第4時代つまりポスト消費社会を創出し、移行すべきだ、との呼びかけです。

 人形工房の建設過程で、付属喫茶室を喫茶店にしてもらってそこで働きたい、と妻に提案する人が現れ、私は理念に沿わせることを条件に賛同しました。家具は発注済であり変更できませんでしたが、急遽厨房の設計を変更しています。かくして1986年4月に喫茶店を開店し、庭を開放しました。それが、日本初の禁煙喫茶店の誕生に結び付けました。

 その後、部分的な欠陥に気付いて草屋根を採用したり民間では関西初の太陽光発電機の設置者になったりしています。理念や、理念に基く行動規範を対話を通して定めていたおかげです。その理念にも触れた一書の原稿は、その後2年の歳月を要しましたが『ビブギオールカラー ポスト消費社会の旗手たち』と題して1988年6月に日の目を見ました。工業社会が生み出したホワイトカラーやブルーカラーなど単色の人間に留まらず、多彩な人に転換しようとの呼びかけでもあったわけです。

 続いて、『人と地球に優しい企業』という一書で第4時代に謳歌するであろう企業の姿(仮説)を描いたり、さらに8年をかけて調査を進め、『「想い」を売る会社』という検証編の上梓にこぎつけたりしています。その間にあって、ほぼ構想どおりの生活空間が出来上がったのを見て、庭に「エコライフガーデン」との愛称を与えたり、教員になるチャンスを与えられたのを幸いに、デザインの転換を提案したりしています。

 これまでの工業デザインは地球をつぶす触媒でしたが、これからのデザインは地球のためにモデルチェンジをするなど、地球を立て直すデザインに転換すべきだと訴えるグリーンデザイン論を展開したり、第4時代の生き方つまり消費の喜びに酔いしれるのではなく、創造の喜びに目覚める生き方を提唱したりしています。妻は個展を定期開催するようになり、「創ることは生きる証」との副題をつけた『人形に命を込めて』というエッセーを著わしました。

 次第に私はアイトワのコンセプトはまんざらではなかったと思うようになり、そのコンセプトに基いた生き方を1本の縦糸にした一書を『次の生き方』と題してまとめました。それがきっかけになって2004年11月から産経新聞関西版の夕刊でコラム「自活のススメ」を綴らせていただけるようになり、コンセプトづくりをしてきた過程や背景も紹介しはじめました。1年間の予定でしたがすでに3年目に入っており、確かな手ごたえを感じています。

 このたび、やっとコンセプト自体を公表してもよさそうだ、と考えるに至ったわけです。

 

 


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