「休日に『エイリアン』を観て… 」 − 2002・11・30


昔の映画を観ていて思うんだけど、
「今ならコレ、CGだよなぁ… 」
 というのも実写か特撮でやっていたんですよね、当たり前なんですけど。
別にそれがチャチとか思わないかわりに、CG至上主義でも無い、と言うか
確かに見栄えとしてはよくなったんだけど、どうもこぅ、CG特有の「軽さ」や
「綺麗さ」ってのに未だに違和感ってのがどっかで抜けないんよね… って
私はどちらかと言えば限定派、なんでしょうかね。


 モデルだからこそ出るスケール感とかは好きなんだけど、『エイリアン』は
それが巧くいい方向に作用したと思うんですよ。逆にCGでやったらもぅ変な
スピードつきまくりでムードもへったくれも無くなってる可能性がありますし。
 とは言え、これが『エイリアン2』の場合はモデルの縮尺と動作にズレっか
不自然、チャチに見えるトコが結構あって劇場公開時から気になっていたん
ですけど、観直してみたら余計にそれが強調されてる感じがしたんで、こう
いう時は今ならもぅCGを使ってくれて… って思ったんですけども。


 でも、個人的には『ターミネーター2』か、そうでなければ『タイナニック』の時
のようなピンポイントの画面効果か『ファイトクラブ』のような演出補助程度で…
ってのがいいんじゃぁないか? と思うんですよ。
 逆に合戦時の大群衆シーンとか、そのCGシーン、それこそがその映画の
「ウリ!」
 とかされるとかえって引いてしまうんですよ、私。
「あぁ〜あぁ凄いよ、よく作ったねぃ」
 っと。
「だったら全編フルCGの映画作ればいいじゃん」
 とかね。

『アメリ』はその点でギリギリのライン上ですか。あれ以上やられたらウザイと
と思っただろうし、難しいトコだとは思うんですよ、その配分っか匙加減ってば。
 でも、何の為に作ってるのか何がやりたかったのかサッパリ解らない映画って
このバランスがおかしい作品だと思うんですよ。


「便利だからCG使っちゃえ〜」
「楽だし、CGだと。」
「っか流行ってるし」
「映画にCG使うってのは… こういうもんでしょ?」
「いや作っちゃったし、CG」
 とかいうのだけはやっぱ駄目ですよ。

 古臭い考えかもしれないけれど、
「実写」「アニメ」「CG」とかって、それに合った映画ってあるじゃぁないですか。
実写で充分出来る事をCGでやっても技術、専門的以外に無いじゃない、意味。
画面の密度があったって、いくらそこまでCGを作り込んだって、観客はそのCG
効果を観る為だけの映画でなければ無駄な画面のノイズと一緒に過ぎない。
 人間の眼は、そこまで精緻ではないし、正確でもないし、今の技術ではCGに
リアルを追求させても「リアリティのあるCG」にはならないんですよ、まだ。
 例えば「人間がじっと立っている」ってのでも実はじっと静止してはいないのね。
だけど、その肉体の動きをシミュレートしても、服や皮膚や内臓や髪や眼球まで
全部はとても出来ないし、パーツ単位での動作指定をフレームで自動計測して
繋ぐしか出来ないから全身の筋肉の繋がった動き、ってのを再現出来ないのよ。
ディティールだけならまだしも。


 将来的にはCG作成のツールやデバイス、ノウハウに革新的な技術が出る余地
はあるし、それによって、それでしか出来ないものを観れる日が来るだろう… と
思ってはいるんですけど、でも、結局造るのも、創るのも、作るのも人間なのね。

 まだ絵画と写真しか映像の無い時代の『映画』の製作と違って、良くも悪くもTVと
モニターが映像の基準になってる現代の『映画』の製作の方が、イマジネーション、
クリェィティブ的に凄く大変になっているのに、安易に走られてもなぁ… って私は
思うんですが…



 これはオヤジ世代の言いがかりになっちゃうのかなぁ…


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