『メトロポリス』 − 2001/06/30


 久々に冒頭からエンドクレジットの出る間までの時間、話し声や携帯の明かり
が座席につく事も無いひとときではあったが、多分にそれは映像のインパクトに
よるものであっただけでしかなく、映画の出来がよかったワケではないのは劇場
から出る観客のため息と文句がよく示していたし、実際私も会社帰りって以上に
観賞でガッカリして疲れが酷く感じてしまったくらいで。


「物語」として見るなら、山場の作り方以前にそこまでの持っていき方が説明不足
だし甘い。特にティマの心情変化についてはもっとやるべきだった筈なのに、そう
ではないがゆえに唐突で盛り上がりにも欠ける。だが、それより気になったのは
全体的な散漫さ… 1つの「世界」としてあまりにも散漫でバラついたままに進み、
終わってしまった「物語」に対する不満がある。


 手塚治虫という「作家」がどういう存在であるのかは人それぞれだろうとは思うが、
私の中には「政治」「思想」の無い作家、という印象がある。それらはあくまで作品
の「背景」「設定」以上のもので無くましてテーマ、テーゼにしようという気も無かった
と思うのだが、全共闘などの政治の時代に育った監督のりんたろうや脚本の大友
克洋は、あえて今回の作品、『メトロポリス』に入れてしまった。
 それを「現代に作るのだから」と言うのは間違いではないだろうか? … というの
を初めとして、偏見を承知で書くが、両者における
「手塚治虫ってこうだよね」
「そうそう、そうだよね」
 という雰囲気がこの作品と「物語」にあり過ぎるように思えてならなかったんですよ。
特に原作には出ていないロックの扱いにそれが顕著に現れてて、ロックというキャラ
をただのファザコンにしてしまっているが、手塚作品の『バンパイア』や『アラバスター』
や『火の鳥』に出るロックはそんな単純な性格設定の存在ではない。
「レッド公とケンイチの存在の間を繋ぐ橋」とパンフレットやインタビューにはあるが、
それをするのであれば、ますますそういう存在でいていい筈は無い。だって動機が
ただのファザコン、ってだけなのよ? レッド公が権威でケンイチが個人という「間」
まるで繋いでもいないし…

 それ以外にもこういう説明不足なのも、消化不良なの少なくないんだけども総じて
「手塚ってこうだよね」
 として、やってしまったんじゃぁないのかね?

 まして、初期の手塚作品にこだわってみせた筈なら『「絵」で「動き」を「見せる」』事
にこだわってもよかった筈だが、結果として『「動き」の「絵」で「見せる」』になっちゃった
のは、演出以前の問題では無いのだろうか?

 無論、それも「映画」ではあるが、「手塚作品の映画」では無いのではないのか。


  かつて、
「僕はあなたの作品、好きじゃないんですよ。だって描こうと思えば描けますから」
 と言われた大友の返答がこんな程度だったのか… という気がしてならない。
ひょっとすると、大友も「物語」作家としてはこんな程度だったのか? って気がして
してならない。
 そんなもんじゃぁ無かった筈だったのだがな… と、かつて『AKIRA』を劇場で観て
衝撃を受けた私としては映像作家としても物語作家としても退化したとしか思えない
この映画に失望しか無いんですよ。

 この映画、あくまでも「りんたろう」と「大友克洋」の映画だった。
「手塚治虫」は素材、モティーフであって「原作」ですら無かった。
 その事自体は、別に構わない、と思う。
 制作する人間のものであっても構わない、と思う。

 しかし…

 結局、『メトロポリス』は1月くらいしかもたなかった映画でしかない、と思う。
1、2週間で打ち切られる程では無いにしても、何ヶ月にも渡ってロングランを続ける
ような映画では無かった、という事だ。
 映像自体は「映画館で観なければ意味の無い絵」であったものの、それだけの価値
は日本映画ならともかくハリウッド映画ではいくらでもある程度のものでしか無かったし、
日本映画としては珍しい、最先端であっても日本のアニメ的に観れば随分と散漫だし
洗練もされていなかったからこその結果、だと。

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 手塚は確かに「天才」であったのかもしれない。
だが、その「天才」は「創造」そのものよりも、「読者、観客を喜ばせる(驚かせる、泣か
せる)か」という事に徹底して腐心出来る、という点にあったと思う。
 『悟空の大冒険』の時、
「何でここでこのキャラを殺すんですか! 全然、ストーリー上の必然も何も無いじゃぁ
ないですか! どうしてなんですか!」
 と激怒したアニメーターの宮崎駿に対して、
「だってその方が盛り上がるでしょ」
 と心外そうに手塚は答えたという。
それも元、というかキッカケにして宮崎氏は手塚から離れる事になり、そして自分の作る
「物語」には必然の無い死や別れやら単に「その方が盛り上がる」などといった事だけは
絶対にしない、と誓ったそうだ。
 
 そこまで徹して欲しかったなぁ… 手塚になるにしても宮崎になるにしても。
 大友、りんたろうは共にそれだけで名のあるクリエイターだった筈なんだから。
例え手塚をやるのが嫌だったとしたのなら、そもそもの素材に手塚を選ばなければいい
だけの事じゃぁなかったのか?


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