・『ハイ・フィデリティ』 − 2004/04/25
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原作は「男の痛いトコロを突く」ものであったが、良くも悪くもこの映画、
原作に惚れ込んで製作・脚本化・監督・主演をしたジョン・キューザックの
モノになっている時点で別物になっちゃってるから結局んトコロ
小説は「30代より前の男性が読んでもあんまり意味が無い」
で、
映画は「30代より前の女性が観てもあんまり意味が無い」
って違いがあると感じたのはテーマが明らかにズラしてあるから。
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「一人の、歳だけはそろそろ中年と言われてもいいけど中身はまだまだ
青年の男・ロブが」
ってのまでは同じなんだけど
「いかにして己と他者とに気付き、向き合うようになっていくのか」
ってのが原作で
「いかにしてフラれた彼女とヨリを戻すのか」
ってのが映画なんよね…
というのだけなら単に「好き・嫌い」の話であって、それが何故冒頭のように
なるかと言うと、映画ではあくまでも
「いかにして、フラれた彼女とヨリを戻すのか」
の為に刈り込まれたエピソードから男の内面の気付き(成熟、とまではとても
言えない… )を削り、変化(成長、までは言えない… )を削ってる為に、実に
単純な映画になっているのね。
あの〜… 単純だから女性向き、って言ってるんじゃないよ。
そもそも、どんなモノかは別にして自己を写す鏡を内面に持っている事が多い
女性(まぁその鏡がどんなモノか、ってのはありますが…)からすればこの映画の
足りない部分は自己認識のズレだからそれを自身の経験なりで埋めて笑う事が
出来るんだろうけど、どちらかと言えば己を写す鏡を社会や世間に置く事が多い
男性にとって足りない部分はただ「足りない」だけ… 己を写す鏡との間の事や
その距離感等を認識してないから… ってになりかねないんよ、この映画では。
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この刈り込み方、解っててやったジョン・キューザックはいいんだけどそれを埋め
合わせるだけの演技じゃなくて雰囲気でやっちゃてるけどそれが必ずしも巧くいって
るとは思えないのね、私には。男だからそう思うのかもしれないけど。
舞台的に観客の方を向いた「語り」スタイルも原作への尊重なのだが語る分だけ
説明や進行になっていないしなぁ…
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そりゃぁ原作を読んだ男全員気が付くか? ったらそうはいかねぇけど、少なくとも
平行進行するエピソードの整理のとっちらかり方とかも含めてあまりいい映画には
思えませんでしたな…
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まぁライトに男の汚いトコとか狡いトコとか下心とかスケベ心とか見栄とかを実に、実に
アッケラカンと見せたトコロと競演のジャック・ブラックらの演技が良かったから… って
トコでね、っとぉ。
『KILL BILL』的なデティールの付け方をしている原作をよく纏めたダイジェストだとは
思いますが、肝心な物まで削り落とされてるようではちょっと… ね。
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なんで30代より前は… ってしてるかと言うと、これはもぅ加齢による経験と実感を説明
されても頭で理解するのと既に体で実感しているのとではリアリティも違ってくるでしょ?
あと、ちょっとした色恋… 性欲のサカリが先に、前に、上に来る1、20代ではこういう
感覚ってまず理解出来ないと思うんよね(まぁ実年齢と精神年齢は必ずしも一致しないし
解ってる人は解ってる事だし解らない人は解らないんだろうから、こういう一元論的な言い
方ってのもマズイかなぁ? と思わないでも無いけど)。
…まぁ40代には甘っちょろい、青臭い話だけれど。
でも、未婚者に『アイズ・ワイド・シャット』を薦めたってしょうがないのと一緒、って事ですわ。
知ってるのと解ってるのとは別で、だからこそ冒頭に
小説は「30代より前の男性が読んでもあんまり意味が無い」
で、
映画は「30代より前の女性が観てもあんまり意味が無い」
って書いたんですけどね。
まぁこれって私の偏見なのかもしれないけどもね…