■ HOME ■


Roman-Fleuve 『 狼星*SIRIUS 』 [レス数:199]
1 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/8(月) 06:58:02
★この物語はフィクションであり、
  実在の人物、団体等とは一切の関係が無いことをご了承下さい。

平家「アンタなぁ……、他にも途中のとかあるんとちゃうん?」
中澤「これのことかい?

    http://920ch.conte.ne.jp/musume2/readres.cgi?bo=morning&vi=0301(Text)
    http://fargaia.hokuto.ac/html/roxy/res.cgi/000001/(Text)

    放置とちゃうで、これはこれで責任もって書くがな。
    ……まぁな、作者は作者なりにいろいろ考えてることもあるっちゅうことで、
    今度の話は基本的にトーク無し。本編以外に書くことあったら、

    http://fargaia.hokuto.ac/html/roxy/res.cgi/000000/(Text)

    の方に載せる予定です」
平家「何を言うてるねん、全部この板絡みやないかい!
    手前味噌にもほどがあるわ」
中澤「……さっきから、悪性の酔っ払いがギャーギャー騒いでますねんけど、
    ア●厨の言うてることは気にせんと、本編 『ドーン』 といきまっしょい!」
平家「欽ちゃんかい! ……って、誰が 『●ル厨』 やねん!」

2 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/8(月) 06:59:57
「なんや、なっちやないかい」
「裕ちゃんも呼ばれたのかい?」

突然の召集に応じた中澤の眼前にどっかりと鎮座する安倍は、
自分もしているのであろう目線を、そのまま中澤に返した。

「さよか……、改まってなんやろ?」
「知るわけないべ、なっちも急に呼ばれたっしょ」

暗がりをほのかに照らす明かりは、二人にその部屋の奥を見せようとはしない。

「……なっち、最近締まってるよな」
「何がサ?」

交わす言葉の隙間に、まじまじと安倍を見た中澤が不意な感慨を投げかけた。

「せやからその……、ほっぺたちゅうか、横幅ちゅうかな……」
「なっちは元々スリムだべ」

安倍の言葉には、嬉気とした色合いと、
立腹の色合いが微妙な螺旋を描いている。

確かに華奢な少女時代には誰もが目を奪われたものであるが、
今ならどこを起点にその尺度を計るべきであろうか。

3 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/9(火) 07:12:42
「……待たせたな」
「体の具合はどないです?」
「無理したらダメだべ」

二人が顔を合わせてからしばらくの間が置かれていたが、
中澤が焦れ始めるタイミングを見計らっていたように、二人が正面を向いた時、
まるで最初からそこに居たかと思わせる一人の老人が腰を落ち着けていた。

歳にすればおおよそ八十は下らないであろう老人は、
しっかりと背筋を伸ばし、その実見た目よりはるかに鋭いことが伺える。

とは言え、安倍の言葉から察するところでは体調が思わしくないらしい。
二人は改めて正座し直すと、厳かに老人の言葉を待った。

「そうかしこまるでも無い。楽にするが良い」

尖った調子は感じられない。
淡々とした口調は、しかし遠大な杞憂と言うべきか、
何か特大の荷でも預けるための方便を探しているようにも聞こえる。

「で、ウチとなっち……、一体何ですの?」

焦れたところを見せないように切り出しを促す中澤に、しばし目を閉じた老人は、
勿体付けた言い草が浮かばなかったのか、一息すると単刀直入に切り出した。

4 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/10(水) 07:03:07
「『譜弾樂』 の都を知っておるな」
「『譜弾樂』 言うたら……」
「悪人いっぱいの、祭りばっかりの都だべ!」

老人の顔が一瞬曇ったように見えた。体調の急な悪化であろうか。

「『悪人ばかり』 と言うのは穿ち過ぎだが、確かに危険な場所ではある。
 実は、おまえ達に 『譜弾樂』 へ潜って欲しい」
「……誰の密命ですのん?」

片眉を上げる中澤に、老人の言葉が途切れる。
またしばらくの間が置かれると、その体を気遣うように安倍が問い掛けた。

「本当に体の方は大丈夫だべか?」
「ワシの体なら心配無用」

老人は改めて背筋を伸ばしたが、二人の視線にその目は微妙に宙を泳ぐ。

「……大体さっきから変だべ、本当は依頼主なんて居ないんでないかい?」
「……左様、この密命はワシの一存」

安倍の推測は、言ってみただけのものであったが見事に核心を突いていた。
老人は飄々としているものの、安倍をしての図星に、
どこか決まりの悪そうな表情を見せる。

5 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/11(木) 07:01:58
「せやけど、ウチらが自分のために動く言うたら……」
「……もっと詳しく教えて欲しいべ」

通常、彼女達が依頼の外に動くとすればその目的は自衛である。
しかし、今現在この里に差し迫る危機など微塵も無いはずであった。
まして、わざわざ他の地である譜弾樂へ潜入するともなれば、
余程の理由があるとしか思えない。

「この所の諸国を騒がす怪異の数々、承知はしておろう」
「……『物の怪』、『あやかし』 が跳梁跋扈してるっちゅう、アレですか?」
「裕ちゃん、今時はレベルが違うべ、『魔物』、『化物』 の類サ」

安倍の言葉に意外な力がこもる。老人は静かに目を閉じた。

「ワシはこの不穏の根源、譜弾樂にあると睨んでおる。
 おまえ達は、あの都の言い伝えを知っておるか?」
「言い伝えって何ですのん?」

訝しんだ表情のまま、しかし興味も湧いたのであろうか、
中澤と安倍の体は、気持ち分前に乗り出していた。

「『天狼その眷族、名鏡吻合せし双子宮の江湖、
               ……譜弾樂より夜陰を往きて終焉へ赴く』」
「……なっち、初めて聞くっしょ」

6 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/12(金) 06:48:06
何やら不安に響く老人の言葉に、
中澤はおろか、安倍の顔も今度ばかりは曇ってしまった。

魔都 『譜弾樂』 (ふだらく)。

かつて闇の都と恐れられたこの地が日常に顕現して久しい。
その存在が平易になったことにより、押し寄せる流民の莫大な人口増加は、
都そのものを以前とは変質した意味で、更なる化物と成らしめているが、
それに伴う悪鬼の横行は、譜弾樂にとどまらぬ周辺諸国への脅威と化していた。

勿論、城下のすべてが魑魅魍魎の住処である訳はなく、
まっとうに生活を営む人々の方こそ大多数なのであるが、
都全体を覆い尽くしてしまった圧倒的な負のパワーは、
尚も否応無く類を呼び込んでしまう側面を否定出来ず、
何がしかの対策を求める市井の声が日増しに強まっていることも事実であった。

「この言い伝えは、ワシが幼少に聞かされたモノ……」

老人は遠い目をしている。
じっと耳を傾ける中澤と安倍の傍らで、灯る炎が妖しくゆらめいた。

「ワシの時代は戦国の乱世、その使命の前には譜弾樂など無縁に等しい日々、
 しかし、幼きより耳を離れぬその言葉……、あの時……、
 ……戦の最中に、ワシは一度だけこの魔都に迷い込んだことがあった」

7 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/15(月) 05:56:50
「迷い込むって、誰でも行ける所ですやん」
「今ではな、……しかしワシらの戦の時分はそうでは無かった」

それは、日常に顕現してしまった都であるからこそ恐ろしい……、
そう言外に込められているかのように聞こえる口ぶりであった。

「これを話すのはおまえ達が初めてになるが、
 この里に奉納される御神像のうち二体に亀裂が走っておる」
「ホンマですか?」
「あの御神体にはワシが譜弾樂を抜ける時、あるお方から授かった呪印玉を
 封じてある。これを以って鎮守としておったのだが、不吉な……」
「(クスクス……)」
「(コレ! アンタは何を笑とるねん)」

眉間に厳しい皺を寄せる老人を前に、安倍が笑いを押し殺している。
さすがにたしなめる中澤であったが、隠し笑いは依然として収まらない。

「(裕ちゃん、アレ見るべ)」
「(……プッ!)」

小声の安倍に指し示された部屋の小さな入り口には、
尻から入ろうとしてそのまま挟まってしまった辻の姿があった。
本人も焦っているのか、無理やり体を押し込もうとするあまり、
モゾモゾと尻だけが動いている光景は、場の空気にそぐわぬ滑稽さである。

8 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/16(火) 06:48:15
「(クスクスクス……)」
「(……辻、肥え過ぎやで)」

安倍と中澤の視線は、完全に辻に釘付けになってしまったが、
老人の話は構わず続けられていた。

「そのお方は別れ際、これに危機が見出された時は頼むと言い、
 玉をワシに託された。ワシが現役であれば今すぐにでも
 飛んで行きたいところだが、時代は巡りワシもこの身体……。
 そこで、我が里でも名うての使い手であるおまえ達に、譜弾樂へ……、
 ……聞いておるか?」

「へい!」

目的を達成した辻は、砲筒から飛び出した弾のように激しい勢いで
室内に転がり込むと、安倍の弾力で跳ね返り三人の中央で静止した。

「使い手って、……辻もですの?」
「左様」
「てへへへへ……」

にわかには受け入れがたいという表情の中澤に、老人が大きく頷くと、
辻は全員を見回して照れたような笑みを浮かべた。

「頼んだぞ、『赤陽 (あかかげ)、白陽 (しろかげ)、青陽 (あおかげ)』」

9 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/17(水) 06:55:36
路上に横たわるのは大きな猫であった。
のっぺりとした顔には白目の点と、歪んで開いた口許……、
それだけを見て取れば、或いはとぼけた味わいであるのかも知れない。

しかし、人二人分は軽くあろうかという巨大な全身には、
見事に一条の太刀跡が刻まれ、往来に打ち捨てられた姿は、
もはや刀創とは呼べない、落雷に割られた大木を見るようであった。

野次馬達により、激しい人ごみがさらに膨れ上がっている渋滞の最中、
近頃ようやくその姿が様に成ってきたようにも思える、
四人の目明しが群集をかきわけ、ようやく魔物の前へ歩み出た。

「すいません! も少し離れて下さい」
「……旦那はまだかなぁ」
「すぐ来るって言ってたよ」

到着してすぐ、しり上がりの抑揚を一層高目に現場整理を始めた高橋の隣で、
目の前の物体にまだ少々動揺の隠せない小川が、新垣の腕を掴んでいる。
紺野は、巨大な猫にも目立った反応は現さず、
ただ目の前に転がる奇怪な姿を見つめていた。

「これが今度の騒ぎの張本人?」
「いよっ! 『絡繰同心』!」

紺野の傍らに大小の太刀がゆっくり現れると、群集からすかさず野次が飛んだ。

10 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/18(木) 06:53:45
ざわめきの増す人波は、しかし保田の一睨みで一瞬静まった。
その眼力に後押しされるように、高橋と新垣が人垣を押し広げる。

この骸は、昨夜まで市中を騒がせた魔物であろう。
主だった悪行は人を嘲ることであるが、油断をすれば命の保障は無い。
保田にとっては、もはや手馴れた手合いであったが、
四人の少女にとっては、まだそうも行かないようであった。

「……旦那」
「あの……、これまだ生きてるみたいに見えるんですけど……」

いつの間にか保田の袖を掴むように立っている小声の小川を横に、
紺野の声はどこか遠慮がちに響いた。

鋭い娘だと保田は思う。その指摘は保田の抱いた考えと相違無い。
或いは、この娘も自分と同じなのであろうか。無残に打ち捨てられた猫は、
それでも完全に息の根が止まっているようには感じられない。
……しかし、それにも増して自分以外にこれほどの一撃を浴びせるなど、
一体何者の仕業であろうか。

「とにかく、このまま捨て置けないわね。みんな、用意してちょうだい」
『ハイ!』

野次馬を抑えていた高橋と新垣から入れ替わるように、
保田がその位置まで後退すると、四人は骸を捕縛する準備にとりかかった。

11 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/19(金) 05:57:17
『絡繰同心 圭』 (からくりどうしん (やすだ) けい)。

そもそも、素性さえ定かではなく、
飯屋の手代等で糊口をしのいでいた一介の浪人である保田が、
突如同心に取り立てられることなど、この都以外ではあり得ないことであろう。

世は泰平、いつしか武士 (もののふ) をして、
抜刀を由としない世俗の移り変わりが、保田に機会を与えた。
譜弾樂城下の怪異の数々に、腑抜け同然の役人達を尻目に、
物怖じすることなく、幾多の魔物を斬り捨てた実績が今日の保田である。

そして、魔物と相対する為の、
地味な歌舞伎者と云った装束に施された数々の仕掛けをして、
彼女はいつしか 『絡繰同心 圭』 と呼ばれるようになっていた。
しかし、それとて保田の本質を覆い隠す表象に過ぎないことは、
本人を除いては誰も知らないことであった。

彼女に帯同する四人の少女達はかつて保田の剣に命を拾われている。
元は武家の娘達であるが、まるで運命に魅入られたように、
一様に魔物の襲撃に遭い、その度保田が危機の前に立ちはだかった。

そもそも目明しというのも建前で、以前に悪事を働いていた訳では無い。
つまるところ、保田と行動を共にする為の半ば強引な理由付けであったが、
魔物相手故か、『絡繰同心』 については、特例もしばしば認められていた。

12 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/22(月) 01:55:27
しかし、保田には始めからこの四人を自分の元に置くつもりなど毛頭無かった。
絶えず危険に相対する身である、下手をすれば足手まといにさえなりかねない。

……結局、保田の剣に救われた以上、その庇護の外は危険という判断の上に、
行き掛かりのまま現在に至っているのであるが、
保田自身に腹黒い考えは一切無いものの、彼女達の存在こそが、
自分をうまくこの日常に紛れさせることに一役買っていることもまた事実であった。

かくして日夜、譜弾樂城下を怪異の元へ馳せ参じる保田であるが、
そもそも 『旦那』 と呼ばれるのは如何なものか? ……自分は女である。
表情にこそ出しはしないが、そう呼ばれることにはどこか複雑なモノがあった。

汗をかきながら捕縛に没頭する四人につかの間気を取られ、
取り止めもなく思惟していた保田は、辺りに漂う面妖な空気を察知するまでに、
不要な間を持たせていたことに慄然とした。

「きゃあぁぁぁぁぁ!」
「しまった!」

すでに周囲を取り巻いていたはずの野次馬達は雲散霧消している。
……天空を漆黒に染める譜弾樂城下、
夜より深く、暗い闇の中には赤い月と、居てはならぬはずの天狼星……、
それは魔の刻であった。この特異な都は予期せぬ時機をもって、
突如得体の知れない闇へ飛ぶ。魑魅魍魎の動きが激しくなるこの時節、
往来に立っているなど命知らずも度を越していた。

13 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/23(火) 21:08:00
「だ、誰も居ない!?」
「旦那〜〜」

専心していたためか、気付いた高橋は抑揚の幅が最大になっている。
太刀を抜いた保田は既に涙目の小川を自分の後ろに引かせると、
ユラユラと立ちあがる大猫を正面に構えた。のっぺりとした顔は、
目と口の配置をそのままに、見る間に細微の度を増して行く。

「あっ!」
「旦那!」

保田の両脇に立つ新垣と紺野が声を上げる中、
魔物の姿は、割られた根元を境目としてゆっくりと二体に分離を始めた。

「紺野、新垣、コレ!」

保田は太刀を片手で持つと、どこに隠し持っていたのであろう、
先端が握り拳状の筒を二本取り出し、各々二人に投げて渡した。
『絡繰同心』 と呼ばれる所以である。

……展開は旨くない。この類の魔物であれば通常の保田でも
充分に対処は出来る。しかし、相手が分身したとなれば保田の身体は一つ。
自分が片方の始末を終えるまで、四人には自力で闘ってもらうしかない。
そうと分かっていれば 『拳筒』 などという玩具では無く、
もっと気の利いた絡繰も用意できたろうに……。慢心であったろうか。

14 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/24(水) 20:54:23
「旦那、来ます!」

落ち着いているのか、反応の極点が皆と違うのか、
四人の中では一番冷静に見える紺野が珍しく大声を上げる。
振り下ろされた爪を受ける切先は、意に反して大きく横にはじかれた。

「(手強い!)」

出来ることであれば、分離した二体を自分一人で引き受けるつもりであったが、
この相手では一対一でも際どいかも知れない。
爪の二波目を受け拮抗した保田に、もう片方の魔物が動き出す。
この片割れも自分に向かって来れば、まさに絶体絶命であるが、
二体目は迷うことなく保田の後ろで震えながら見ている四人の方へと向かった。

「来たあぁぁぁぁ!」

泣いているのであろうか、小川の声は微揺している。
思わず四人に目をやれば、小川をかばうように横に立つ高橋に、
その前を拳筒を持つ紺野と新垣が塞いでいる。

「みんな、逃げて! アタシはこれを始末したらすぐに追いつくから」
『ハイ!』

一人を除いた斉唱が綺麗に響いた。小川は腰が抜けて居ないであろうか?
声をかけ際、保田の頭の中にはそのことばかりが引っ掛かっていた。

15 名前:名無しさん@えりあ929 投稿日:2002/4/25(木) 18:21:54
おお、新作っすね。期待してます

16 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/25(木) 22:55:15
拳筒を使う機会は得ていない、……と言うより、そう簡単には使えない。
保田の元を離れてから、もうどれだけ走っているのであろうか。

四人を追う猫形の魔物は、いまやおぞましい姿に変わっていたが、
目鼻の配置が変わらないためか、見ようによってはまだ滑稽にも思える。
追われる四人との間隔は、走っているようには見えないのであるが、
不思議なことに一向に開くことがなかった。

魔物はその気になればもっと速度を上げることも可能なのかも知れない。
角度によっては、薄ら笑いを浮かべているようなその顔は、
逃げ回る自分達を相手に楽しんでいるようにさえ思えた。

「きゃあぁぁぁぁ!」

小路を角への曲がりしなに、体勢を崩したのは高橋であった。
魔物の姿は一旦視界から消えたが、赤い月に照らされて伸びる影が、
四人に見えぬはずは無い。高橋は大きく転がってしまったが、
すぐ起き上がればまだ追いつかれないと他の三人は思った。

「ダメ! アタシもう走れない!」
「愛ちゃん、何言ってるのよ!」
「大丈夫、走ろう」

緊張の糸が切れてしまったのであろうか、
さっきまで気丈に振舞っていた高橋が突然泣き出してしまった。

17 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/26(金) 06:52:05
これには小川も驚いてしまったが、自分も泣いている身である。
泣かない新垣は高橋を促すが、四人の足が止まってしまった。
このままでは魔物の思う壺である。

「影が伸びて来る」
「大丈夫、まだ間に合うよ!」

一緒に腰を落としてしまった小川の声がいよいよ微揺している。
そんな二人を励ます新垣も落ち着いている訳ではない。
相手が刻々と近づいて来ることは分かっている。
その言葉には徐々に焦りがにじみ始めていた。

「里沙ちゃん、貸して!」
「えっ!? あさ美ちゃん?」

振り向いた一瞬、何が起こったのか把握しきれなかった新垣から、
紺野は拳筒を奪うように掴むと、ますます大きくなる影へ向かって走って行く。

『あさ美ちゃん!!』
「みんなは隠れてて! それより旦那の所へ……」

呆気に取られ、そのまま見送るだけの三人の先を、
語尾が小さく消えて行くのと呼応するように紺野の姿が見えなくなった。
高橋に幾分冷静さが戻る。小川と新垣も紺野の消えた角を見つめているが、
誰もが固まったようにその後を追うことは出来なかった。

18 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/29(月) 01:26:43
後ろを顧みず飛び出した紺野に、魔物の姿は既に目前まで迫っていた。
怖くないと言えば嘘になるが、今は恐怖よりも使命感の方が勝っている。

「えい!」

紺野は果敢に化猫に向かうと、すれ違いざまに拳筒を放った。
今駆け抜けた小路の前を通り過ぎて、仲間が見つかることを嫌ったのであるが、
その行動は勇気というより、あまりに無謀な賭けである。

「こっち!」

筒から伸びた拳は、おぞましい猫の顔の正面を捉えたが苦もなく跳ね返された。
しかし、この一撃で敵の関心は幸か不幸か確かに自分に移った。
くるりと踵を返すと、魔物はそのままの姿勢で紺野を追い始める。
その足許は宙を滑るように足音を立てない。

「えい! あっ!?」

実効が定かでない拳筒は、何度か繰り出すうちにその一本を折られてしまった。
紺野は残りの一本を両手で抱えると、今度は一身に走り出す。

走ることなら自信がない訳ではない。相手のペースがこのままであれば、
あるいは巻くことも可能かもしれないと思った。最初からそうしなかったのは、
三人に注意の向かない場所まで誘導する、という一念だけである。
しかし、誘導成功と引換えに頼みの筒の一本は使えなくなってしまった。

19 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/4/30(火) 01:16:12
囮になってから、さらに走り続けている紺野であったが、
さすがに息が切れて来た。弄ぶように自分を追って来る魔物は、
疲れを知らないのであろうか。

そろそろ逃げ切らなければ取り返しがつかなくなるかも知れない。
そう思う紺野の足は、しかし生い茂る草むらに分け入っているように、
次第に重くなっていた。化猫は一向に変化する様子無くその後を追って来る。
それどころか気付いてみれば、魔物との距離は縮まり始めていた。

「このっ!」

背中から込み上げる恐怖を引金に、夢中で拳筒をお見舞いするが、
見切られているのか、もはや当てることすら出来ない。
尚も歯を食いしばり渾身の一投を放つと、突然化猫の爪が長く伸び、
紺野には判別のつかない一瞬に、その足許を鋭く襲った。

「えっ!?」

全く予期出来なかった訳では無い。本当に冷静な状態の紺野であれば、
その危険も計算したことであろう。
しかし、今の彼女にとってこの一撃は青天の霹靂であった。
そのまま転倒してしまうと、ゴロゴロと転がった身体は、
道なりに並ぶ戸板に打ちつけられた末ようやく静止した。
とっさに拳筒を身構えるが、獲物を追い詰めた影は、
何とも憎らしい余裕を漂わせながら、ゆっくりと紺野の前に立ちはだかった。

20 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/1(水) 07:04:36
無言で放つ拳筒も、いまや折られる木の枝よりたやすく屑と化した。
つむじ風が吹き抜ける間の中を、自分に残された手段は小さな十手のみ。
転がって打ちつけられた身体と化猫に襲われた足許がやけに痛いことに気付く。

保田は目の前の魔物と分裂した化猫を始末したであろうか……、
残してきた三人は、無事に逃げたであろうか……。
魔物は感情も見せず、ただ機械的に狙いを定めている。

額に当るのは化物の呼気であろうか。鋭く鳴っているのは爪の音であろうか。
自分は引き裂かれてしまうのであろうか。素振りのように繰り返されていた音が
一瞬止むと、凄まじい風圧と鋭い音が顔面を襲う。
極限の力でまぶたを閉じた紺野であったが、
最後に爪より鋭い音が聞こえると、そのまま刻が止まってしまった。

……恐る恐る目を開いた眼前には、確かに魔物の姿があった。
訳の分からぬままただ化物を見つめていると、その身体は激しい音をたて、
胴体から上が斜め下に崩れ落ちた。崩れた向こうには誰かが立っている。
ぼんやりと見つめる紺野の目の中には、見たことの無い侍の姿が映っていた。
白い獅子の頭を持つ異形の武士。その瞳は、どこか悲しげで、どこか優しい。

「旦……那……?」

異形の獅子に襲い掛かってくる気配はない。放心した様子の紺野と目が合うと、
無事を確認して納得したのか、たてがみをなびかせた獅子は静かに背を向け、
ようやく薄れ始めた魔都の闇の中へ音も無く消えて行った。

21 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/2(木) 23:23:34
「ごっちんは出かけたん?」
「だいぶ前に出かけましたよ……」

そう語る松浦の口許には、面白くないことでもあったのか、
ささやかな不満が表出している。その訳を催促するように、
じっと見つめる稲葉に、気まずくなったのか松浦は言葉を繋いだ。

「せめて 『行ってくる』 位は言ったって……」
「ええやん、あの娘 (こ) もここに落ち着いてきた証拠やん」
「先生は優しいですね……、物好きなのかな?」

松浦の表情からすぐに不満が霧消すると、後には笑顔が残った。
特有の人の鼻先をくすぐるような表情は、
魅力的ではあるが、人によって好悪がはっきり分かれるところであろう。

「無理とかしてるんじゃないですかね、普通の体じゃ無いのに」
「あんたかて、普通とちゃうねんで」

その言葉は聞きたくなかったのであろうか、松浦は小さく首をすくめると、
今度は言葉を返してこなかった。

しかし、よく続くものであると思う。詮索はしないが、
夜毎に出掛ける後藤が何をしているのか、おおよその見当は付く。
見当が付かないのはその動機であり、
彼女も、まだそれを打ち明けるまでは心を開いていなかった。

22 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/3(金) 23:27:35
「昨日、『獅子武者』 が出たちゅう話やん」
「大丈夫じゃないですか?
 後藤さんだったら 『獅子武者』 だって連れて帰って来るかもしれませんよ」

確かに無いとも言えない話ではある。
そうなれば後藤を助けた最大の見返りとなるかもしれない。
もっとも、当の稲葉はそんなことは一切期待などしていないが。

「先生、髪の毛……」
「……あん? アハハハハハ、なんやねん今の突っ込み、
 まとも過ぎやで、もっと勉強しいや」

旧名家、萩本家の細君 『良妻、悪妻、常妻』 の悪妻を思わせる、
稲葉の紫陽花状の髪の毛が大きく目にかぶさるようにずれ込んでいる。
松浦の言葉はあまりにも普通であったため、思わず逆に突っ込んでしまった。

「……ええよ、何心配そうな顔してるねん」

松浦の目は潤んでいるように見える。稲葉も急に切なくなり、
何か言葉を探したが、気の利いた文句は浮かんでこなかった。

闇医者を生業とする稲葉貴子、通称 『黒ひげ』。
その筋でこの通り名を知らぬ者は皆無であったが、
ここに至るまでの彼女の経緯を知る者は存外少ない。
印象的な、遠目に見れば大きな紫陽花状の髪型はかつらであった。

23 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/6(月) 09:05:59
「静か……」

仰向けに浮かび見る空に月の姿は無い。
夜毎の後藤は、譜弾樂城の濠に浮かんでいた。
過密な人口により種々混濁の重なる水である、
通常であれば、軽く浸るだけでも無残に汚れてしまうところであったが、
後藤が汚れを纏うことは決して無かった。

体調は良好である。稲葉には口にこそ出さないものの、しっかりと感謝している。
ただ、あの時の自分がどうなっていたのか、
その部分の記憶だけが抹消されたように残っていない。
残っているのは見事な敗北の事実、それは一生の不覚としてもまだ余りある。

目を閉じて暗がりを漂う後藤の身体は、
かすかな風に流されるまま進んでいる。診療所の居心地は悪く無い。
稲葉は信じられないほど自分に良くしてくれる。
反面、松浦とは今一つしっくり来ていないことも実情であった。
目が合っても、向こうから逸らされてしまう……、嫌われているのであろうか。

姿勢を変えることなく、不意に斜め下方に目をやると、
濠に沿って何者かがこちらの動きに合わせて移動している。
自分の肢体を拝みたいのであれば、着衣したまま浮かんでいるのである、
それはお生憎さまであった。後藤は再び目を閉じる。
自分のことを追っている足音は複数に聞こえる……。

24 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/7(火) 23:12:27
「先生、大丈夫ですよね……」

松浦の表情は、滅多に見せることのない悲しい顔であった。
稲葉貴子……、ノリの良さとは裏腹の苦労人である。
彼女はかつて譜弾樂で起きた事故に巻き込まれ、
生死の間をさまよう重傷を負っている。かつらを用いているのは、
その時の傷を隠している為とも言われているが、
本当を知る者は、本人以外もはや誰一人として居なかった。

助かったことは奇跡としか呼べない儲けモノであったが、その一件以来、
ど根性をもって、闇とはいえ遂に医師となったのが今日の彼女である。
それ故か、こと生命に関しては並外れた情熱を見せ、軽く扱う者は許さない。

「先生、もう休んだほうがいいですよ」

無言ではあるが、何事も無いように雑事を片付け始めた稲葉に安心したのか、
松浦は先程の表情とは打って変わり、眠た気に目をこすった。

後藤との出会いは巡り合わせだったのであろうか。
赤い月夜の譜弾樂城下、濠に打ち上げられた異形の姿の後藤を、
ここまで担ぎ込んだのは他ならぬ稲葉自身である。
普通の人間であれば間違いなく致命傷を負っていたはずの瀕死の後藤は、
しかし、手当てが適切だったこと以上に、常人では考えられない
驚異的な治癒力を発揮し、治療に当った稲葉を当惑させた。
そして傷の癒えた素顔の後藤は、目を見張るほどに眩しい年頃の娘であった。

25 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/8(水) 23:49:17
身を任せるままに流れていた濠は間もなく行き止まりに差し掛かる。
追手の足音は尚も続いていたが、水門までたどり着くとその音は散開し、
対岸に距離を設けて二人、門上に一人が立った。

追手は水から上がって来るであろう後藤を待ち構えているが、
肝心の姿は行き止まり直前で忽然と見えなくなった。
水中に潜ったとしても、その時間はとうに人の呼吸の限界を越えている。
静寂の中にようやく顔を見せた月の色は、うっすらと赤味を帯び、
三体の追手はそのまま身動き一つせず、ただ水面を見つめていた。

誰をも眠りに誘う刻がひたすらに過ぎていたが、
突如、螺旋状の水流が垂直に登り始め、
渦の中央から勢いよく人影が飛び出すと、
水門上に構える追手の頭上を軽々と飛び越えた。

残る二体の追手は、すぐさま濠から現れた影の元へ駆け寄り、
門上の主と合流すると、三体でその一体を取り囲む。
そして、囲むと同時に神輿の掛け声を発しながら踊り始めた。

踊るその顔、それは 『おにぎり』 であった。微笑むような表情は一見親し気だが、
両手には各々鋭い鉤爪が光り、笑顔である分、一層不気味である。
しかし、囲まれた当の影は、まるで意に介する様子もなく、
ゆっくりと一歩を踏み出した。赤月に照らし出された姿は異形であった。

「『化身忍者 海豹 (あざらし)』 見参!」

26 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/9(木) 22:56:21
おにぎり達は、一瞬固まったように動きを止めたが、
すぐに元の調子を取り戻すと、その掛け声と踊りの度合いはさらに激しくなった。

全部を名乗ることが面倒なのか、本人は端折っていたが、
『化身忍者 護魔府海豹』 (けしんにんじゃ ごまふあざらし) が正式である。
しかし、その口上は凛々しいものでは無く、どこか気が抜けている上、
姿体などは恐ろしいどころか、何と言うべきであろう……、可愛いのであった。
脇に抱えたなら、海生哺乳類の鳴声が聞こえてきそうである。

『おにぎり』 対 『あざらし』……、どこか締まらない顔合わせであったが、
おにぎり三体は踊りながら途切れることなく鉤爪を鳴らしている。
否応にも殺気が増す中、海豹はおにぎりにまるで動じる様子無く、
大きな扇を取り出すと一気に広げた。

『魔浄扇 (まじょうせん)』。
鉄扇 (てっせん) である。骨はおろか張装に至るまで総鉄張りの扇は、
開いた外周が鋭利な刃になっており、おまけに軽く・強く・錆びない。
台所に用いれば世の奥方垂涎の保温まで効く万能包……、魔法の扇であった。

神輿の群舞に対抗しているのか、ヒラヒラと扇を振りながら
身体をくねらす海豹に、おにぎりは次第に間合いを計り始めている。
前触れ無しに出くわしたなら、まるで緊張感に乏しいであろうその光景も、
刃の音と光が乱舞するに至り、強まる殺気はいよいよ極点に向かっていた。
とはいえ、海豹を中心に輪を作って踊るおにぎり達は、
やはり、可笑しいと言えば、あまりにおかしい、……異位相の狂気であった。

27 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/10(金) 23:36:22
稲葉は苦い思い無く済んでしまったことがよほど嬉しかったのか、
後藤をいたく気に入った様子で、そのまま診療所へ置くことにした。
わざわざ自分の空間を割いてまで、
二階に彼女用のスペースを用意してしまったほどである。
松浦の態度が近頃不満気に映るのは、
そんな黒ひげの態度が面白くないことも一因なのであろう。

珍しく稲葉本人が担ぎ込んだこの客人は、
なかなか無口で自分からは素性を明かそうとはしない。
話をしたくなるまで待てばいい……、そう言う稲葉は、
後藤が言葉少ないこともさほど気にしてはいなかったが、
松浦は頑なに、ささやかな抵抗を続けているようであった。

「なぁ、今ごっちんはどこで何してる?」
「わかりません。『千里眼』 は出来ません」

ひどく素っ気無く言われてしまった。
松浦亜弥。顔見知りからは 『あやや』 と呼ばれるこの少女は、
『念動力』 を有する為に、稲葉の元へ身を寄せている素性であるが、
実はそれだけでは済まされない個性の持ち主であった。

その個性が広く知れ渡れば、譜弾樂の魔物より質 (たち) の悪い、
『興味本位』 という名の俗世間の格好の餌食になってしまうことであろう。
稲葉の存在は、後藤や松浦の平素の世過ぎに降りかかろうとする、
外敵の手を断固として遮断していた。

28 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/13(月) 01:11:36
黒ひげには異形の者に対する偏見は無い。そして同情も無い。
有るのは無邪気な好尚。理由付けなど皆目不要に寛大であり、
その意味で稲葉は彼女らの最大の理解者であった。

公には看板を掲げていないこの診療所は、このところやけに忙しい。
明方になると、後藤が夜中に市中の怪異に襲われたとおぼしき
怪我人を連れ帰って来るからであったが、
松浦は、直接本人に対しては口にしないものの露骨にいい顔をしない。
本来、闇で営んでいるはずの診療所を公にしていることが嫌なのであろうが、
稲葉はそれさえ一向に厭わなかった。

もともと自分の裁量で切り盛りしている診療所である。
その診療報酬は、取れる……、取っても構わない……、
否、取らなければならない者からしか取ることをしない。
これが、闇医者をして黒ひげと呼ばれる所以であるが、
後藤の連れ帰る怪我人は、その意味で時に大当たりが混じっており、
診療所の台所事情は、以前よりむしろ良くなっていた。

「ボチボチ寝るで?
 ……って、なんやねん先に寝とるやん」
 
松浦は可憐な寝息を立てている。
その寝顔を見るたびに、この娘を安易に白日の下にはさらせないと思う。
……しかし、後藤は一体どんないきさつにより、
夜毎の譜弾樂で闘っているのであろうか?

29 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/14(火) 23:43:54
相次いで振り下ろされるおにぎり達の爪をかわす海豹の姿は、
水の中を泳ぎ回る姿に等しかった。
その上、双方の表情は朗らかなのであるから、
見ている者が居るとすれば、どう思ったことであろう。

鉤爪と鉄扇のリーチでは、必然的に接近戦を余儀なくされる分、
実際は激しい刃の応酬となっているのであるが、
それにしては海豹からは鼻歌でも聞こえてきそうであった。
おにぎりにもさほど焦っている様子は見受けられない。

戯れているような両者の間、海豹はヒラヒラと振っている扇とは別に、
片手にもう一本、袖の中から扇を取り出した。
そして、踊り狂うおにぎり達が交差したその刹那、
二体のおにぎりに向けて、今握られた扇の強烈な一撃を放った。

『魔浄扇 : 甲扇』 (まじょうせん : こうせん)。
海豹は二本の扇を持つ。一本は先に開いている 『乙扇』 (おつせん)、
そしてもう一本がこの 『甲扇』 である。

甲扇は閉じられたままの形状で、開かれることの決して無い、
扇の意匠を纏う鉄柱であった。
その用途は十手のように相手の攻撃を受けるだけでなく、
敵に放ち攻撃することにも用いられ、海豹の手を離れた扇は、
まるで見えない線で繋がれているように、自在に操ることが出来る上、
最後には必ず自分の手の中に戻るのであった。

30 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/15(水) 23:22:19
弾き飛ばされた二体を顧みることなく、残るおにぎりの表情が険しくなった。
さっきまでの朗らかさが微塵も無くなっているところは、本性の表出か。
神輿の掛け声も、粗くおぞまし気に変化すると鉤爪の攻撃は一層激しくなった。

甲扇を呼び戻した海豹は、一進一退の攻防となっているが、
さきの二体が体勢を立て直して来たことにより、やや押され始めている。
しかし、打ち込まれた二体は、甲扇の一撃がよほど効いたのか、
怒っている形相に加え、どこか泣きそうな表情も見て取れた。
海豹は、今や怒り狂うおにぎりの刃を寸前でいなしている状況であったが、
取り囲む三体の隙を突くや、その周縁にあっさりと抜け出し、
狂気乱舞するおにぎり達に、おもむろに向き直った。

「秘剣! 影映し!」

相変わらず緊張感に欠けた調子であることは、この際不問としよう。
海豹が一声とともに乙扇をかざすと、半光沢であった羽の一枚一枚が、
きらめく鏡面へと変わり、その全てにおにぎり達の姿が映し出される。
そして、魅入られたように固まるおにぎりの僅かな瞬間を目掛け、
乙扇の刃が、三体の正面から一直線に打ち込まれると、おにぎりの体は
そのまま各々が両断されていた。……実に鮮やかな太刀打ちであった。

「……お腹へった」

後藤は化身を解く。おにぎりを食べたくなっていたかは定かでは無い。
悠然とした後姿は、いつの間にか薄明るくなり始めた市中へ消えて行く。
また誰か怪我人を拾って帰れば、稲葉は起きているであろうか?
後藤は伏し目がちに歩きながら、小さく鼻の頭を掻いた……。

31 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/16(木) 23:36:41
「ほな、行って来るで」
「福ちゃんごちそうさまな。また帰りに寄らせてもらうべ」
「……帰りって、無事に帰って来れるのかな?」

福田の言葉は以前と変わらぬ乾きをもって響く。
しかし、それは突き放した言い方というより、
余計な感傷を廃するために機能する醒め方とも受け取れる。
三人は、店の前で見送っている福田に大きく手を振ると一路先を急いだ。

中澤、安倍、辻が里を発ってから、既にそれなりの日数が経過していたが、
譜弾樂までの道のりはまだ途上であった。
一行はここ数日を、当初から予定していたのであろうか、
福田の店で過ごし、再び出発するにあたり、
その装束を中澤の 『薬売り』、安倍 ・ 辻の 『菓子売り』 へと改めた。
勿論、各々の中身は福田の店から購入している。

「『はちだんあいす』 がたべたかったれす」
「そんなんこの時代には無い」

福田の店に泊まっている間は、借りて来た猫のようにおとなしかった辻も、
ようやく緊張を解くことが出来たのか、
伸び伸びとした表情からは偽らざる本音が吐き出される。
福田と親し気に話す中澤と安倍の姿は、自分の知らない世界であったが、
福田は辻に対しても気さくな態度で接してくれた。

32 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/17(金) 23:39:30
「こら! 辻!」
「てへ……」
「……なんで、なっちも手を伸ばしてるねん!」

頭を小突かれた辻の横で、安倍は小さく舌を出した。
偽装としての 『薬売り』 や 『菓子売り』 は、忍 (しのび) の間諜の常道であるが、
よりによって安倍と辻が菓子売りというのは、正直どうかと中澤は思う。

ならば自分が菓子売りかと問われれば、それも気恥ずかしいところではあるが、
この二人の場合、目的地へ到着する前に、
肝心の中身を空にしてしまう危険の非常に高い点が頭痛の種であった。

そもそも、この装束の決定にはひと悶着生じている。
全員薬売りを提案した中澤に対し、強固に菓子売りを主張した安倍は、
すかさず辻を抱き込むと、菓子のことで頭の中がいっぱいになった辻の、
頑ななあまり涙を流しながらこらえる姿をダシに、中澤を渋々懐柔させていた。

中澤自身、辻の泣き顔にはつい甘くなってしまうところを自覚しているが、
こらえる辻の隣で、半分笑いながら嘘泣きをしていた安倍の姿が、
辻を余計に泣かせていたことは、安倍本人の自覚には無いようであった。

「固いこと言うなサ、裕ちゃんも食うべ」

とうとう安倍が飴玉を口に入れてしまった。
じっと見てはいるものの、怒る気力の失せている中澤に飴玉を手渡した安倍は、
辻の口の中には直接入れてやり、自分はもう一個を口に入れた。

33 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/19(日) 18:47:34
「ところでサ、ウチらのペースってどんなだべ?」
「みっかもとまったれす」
「……まぁ、ええやん。あすかにも久しぶりにゆっくり会えたことやし」

逆襲であろうか、道中のペースに疑問を呈するような二人の切り出しに、
中澤は少々焦ったが、頬に飴玉のこぶを作ってニコニコしている姿には
気が緩む以上に脱力してしまう。この二人の発する磁場は強力であった。

「里の方とか連絡しといた方がいいんでないかい?」
「……連絡言うたかて、ここまで来てるねんで、どないせえっちゅうねん」
「携帯使えばいいっしょ」
「……なっちまで何を言うてるねん、
 この時代に 『アイス』 とか、『携帯』 とかそんなんは無い!」
「え〜〜っ!? したらここから現場まではロケバスで行くとか……」
「『ロケバス』 も無い!」
「しろかげさん、おこるとしわがふえるのれす」
「白陽言うなあぁぁぁぁ! ……大体、なんでウチが白陽やねん!
 ホンマはウチが赤陽で、なっちが黄……」

『しろかげ』 と口にした時の中澤のリアクションが楽しくて、
辻には、好んでそれを言う節があるが、
中澤は正面切って 『白陽』 と言われることを好まない。

『赤陽、白陽、青陽』 (あかかげ、しろかげ、あおかげ)。
彼女達は陽炎の里を本領とする、『陽炎忍者』 (かげろうにんじゃ) であり、
正式には 『赤陽炎』、『白陽炎』、『青陽炎』 と呼ばれる。

34 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/19(日) 18:49:29
愉快な旅人にしか見えない三人はしかし、里でも名うての使い手であった。

……戦国の世に彗星のごとく頭角を現した 『陽炎流忍群』 は、
太平の世となった現在でも、仕事の依頼が途切れることは無い。
各人の呼び名は、言わばコードネームであるが、
平素は愛称で呼び合うことの方が多く、
たまに色の名で呼ばれたなら、却って困惑してしまうことの方が多い。
ことに中澤に至っては 『白陽』 と呼ばれることを極端に嫌う傾向があった。

今回、三人は老師の命により、譜弾樂へ向かっているが、
依頼の発端が長老自身の命であることが通常と大きく異なっている。
老師の譜弾樂での出来事は、結局仔細に聞くことなく里を発っていたが、
それは余計な先入観を与えないためか、
或いはそれも含めて調べるということなのか、
その意識の濃さは中澤から、安倍、辻の順へと薄くなって行く。

「……したら、『タクシー』 使えばすぐっしょ」
「『タクシー』 なんて無い!」
「しろかげさん、しわ……」
「白陽言うなあぁぁぁぁ!」

ボケまくる二人に、本来は引き気味に突っ込むことの多い中澤が、
青筋まで立てている光景は一見珍しく思える。中澤はこの突っ込み方なら、
他にもっと適任者が居るような気がしてならなかったが、
道中では自分しか居ないことに、力一杯その役割を炸裂させていた。

35 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/20(月) 23:50:16
「いよいよ行くのね?」
「うん、明日には発とうと思う」
「間違い無いよ、あいつらの電波が譜弾樂から飛んで来る」

その物腰は、以前にも増して大人びているのであろうか。
今や母親となった石黒の問い掛けに、
矢口の表情は決意に満ち、飯田の確信は自信に満ちていた。
……ただし、軽はずみに電波などとは言わない方がいいとも思われる。

『魔狩人 刃蒲公英』 (まかりうど じんほこうえい)。
厳つい名前であるが、本人達は単純に 『たんぽぽ』 などと名乗るだけで、
別段気負いがある訳では無い。
琉球の地にて宿敵 『醐狸照屋、羅亜川田』 (ごりてるや、らあかわだ)
と激闘を繰り広げてきた彼女達は、密かに琉球を離れていたこの二人に、
飯田の交信を頼りとして敢行した執念の追跡をもって、
ついに彼らの到達地とおぼしき譜弾樂の目前までたどり着いた。

ところが、これを単なる偶然と呼ぶべきであろうか、
そこには旧知である石黒の嫁いだ御神楽堂 『月海屋』 があり、
再会を喜ぶ女将石黒が四人を招き入れると、一行はそれからしばらくを、
月海屋で世話になる運びとなっている。

……そうは言っても、気心の知れている飯田や矢口はともかく、
この二人に石黒が加わっている姿は、
石川や加護から見れば気後れ以外の何者でも無い。

36 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/21(火) 23:14:35
ただでさえかしこまってしまう石川はもとより、
世話になる当初の加護に至っては、まったく所在無さ気にしていた。
しかし石黒の娘、玲夢と遊ぶようになってからの加護はそんな心情もどこへやら、
明日発つという矢口の言葉が聞こえた時には、
情が強く移っているためか、いきなりの涙目となっていた。

「その格好で行くんだよね」
「そうだよ、何かおかしい?」

石黒の口許がやんわりと歪んだ。

「だって、オイラ達は 『宇宙忍者』 だもん」
「……そうそう、そうだよね」

旧知のはずの石黒でさえ、改めて四人を見れば何とも言えない気持ちになる。
背の高い飯田が纏っているのは着流しであった。
その姿は、スラリと伸びた容姿と合わせ見れば存外悪くもないのであるが、
残る三人は、統一されている分だけ一層微妙である。

まず、真っ先に目が行ってしまうその兜。
各々正面から野太い三本の線が入った黒く丸い兜は、
特に、身長の低い矢口が着けた場合など、
頭が殊更に大きくなってしまう印象が否めず、バランス的に良好とは言い難い。
そして、時代考証というものからはおおよそかけ離れた襟巻き込みの装束……、
一瞬の沈黙を挟むと、石黒と矢口の目が合った。

37 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/22(水) 06:47:46
「絶対おかしいと思ってるでしょ?」
「そんなことないわよ」

そうは言いながらも、石黒のリアクションが自身とは強く結びつかないのか、
どこか不思議そうな顔をしたままの矢口は、本人をして忍者と名乗ったものの、
忍者以前に一体何者であるかの見当が付かない。
ハッキリ怪しいと言ってしまえば、それは言い過ぎであろうか……。
とはいえ、怪しさだけなら譜弾樂の存在自体はるかにその上を行っている。
そう考えると頬が緩んでしまう石黒は、笑いをこらえつつ矢口から視線を外す。

「あの、……石黒さん?」
「何?」
「ずっと聞こうと思ってたんですけど……」
「何、なんでも聞いていいわよ」

いつの間にか、傍らには思い詰めたような石川が立っていた。

「……どうしてお嫁に行ったのに旧姓のままなんですか?」
「え?」

意外な質問であった。……それが作劇上のお約束であることは、
石黒本人にも知る由の無いことである。

「……さぁ、どうしてかな。考えてみたことも無いけど」
「そうですか……」

38 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/23(木) 22:06:20
石川に笑みを浮かべながら、巻き毛を指で遊ぶ石黒の姿は、
歳を超えた可愛さが感じられる。石川はそのまま しばらく黙り込んでしまった。

「なんだよ、りかちゃんは! ハッキリしないな」

助け舟にしては少々乱暴な語気の矢口が、
ゆっくり石川の方へ歩み寄ろうとすると、
如何せん気後れがちな石川は、押し上げるように頭をもたげた。

「……あの、石黒さん」
「今度は何?」
「いろいろ、ありがとうございました」
「……りかちゃん、気が早過ぎ」

律儀と言うべきかせっかちと言うべきか、石川は明日に言う礼を今言っている。
これには矢口も拍子抜けしたのか、随分気の抜けたトーンになってしまったが、
その言葉は飯田と加護の目を同時にこちらへ向けさせた。

「いいのよ、そんなこと。
 また、譜弾樂から帰る時に寄ってくれればいいんだし、
 ……加護ちゃんもまた遊んでやってね」

玲夢と遊ぶ加護を見つめる石黒に、
小さな手を優しくつかみ上下に振っている加護は、今にも泣き出しそうであった。
……明日は自分の娘が大泣きしてしまうのであろう。

39 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/24(金) 23:00:30
「ねぇ、貴方達は他にも名前を持ってたでしょ、……なんて言ったかしら」

加護と玲夢の姿に多少なりとも寂寥の念が入ったのか、
石黒は目を閉じながら、それでも笑みの残る口許で四人に問い掛けた。

「オイラはね 『星辰 (せいしん)』」
「石川は 『群星 (ぐんせい)』 です」
「えっとですね、加護は 『月影 (げつえい)』 です」
「それで、かおりが 『色彩 (しきさい)』 なんだけど……、なんで?」

飯田の表情は、自分で言い終えるのと同時に見るみる怪訝な顔となったが、
その訝しむ先が石黒の質問なのか、自分の別名の由来なのかは定かで無い。

「でもね、こっちの名前を名乗ることはほっとんど無いんだよね」

矢口がそう言うと、場の一同は声高に笑った。
玲夢も訳は分からないであろうが、一緒になって笑っている。

「……ウチの旦那に会うことがあったら、たまには帰れって伝えておいてね」

明日からはまた静かな生活に戻る……、現実を引き寄せたように、
パッと目を見開いた石黒は、その勢いに反して静かな調子で一言加えた。
どことなく凄みを感じさせる石黒の言葉に、
石川はまたしても気後れをしてしまった。

40 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/26(日) 22:59:10
「ですから志村様……」
「とんでもねぇ! あたしゃバカ殿だよ!」

『バカ殿様』 こと譜弾樂の大名、志村けんは決して馬鹿では無い。
馬鹿ではないのであるが、顔面白塗りの出で立ちと、
時折発する奇声やその奇行は、こと品格という面で、
世間の風当たりが皆無という訳では無かった。
しかし、それにしては妙に人気のある理由はひとえに人徳なのであろうか。
芸事の好きなバカ殿には、このところお気に入りの二人が居る。

『醐狸照屋、羅亜川田』 (ごりてるや、らあかわだ)。
この二人は全くの同格であり、
どちらが科学者で、どちらが腹心ということでは無く、
あまつさえ美しい星を汚す者が許せない訳でも無い。

琉球の地で 『刃蒲公英』 と闘いを続けていた二人は、
何故にか、密かに琉球を抜け出すと吸い寄せられるように譜弾樂を目指し、
城下へ入ってからは迷うことなく本丸へと進んだ。

そして次に姿を現したのは、驚くなかれいきなり志村の寝室であったが、
その外見は醐狸の 『蛸』 に、川田の 『烏賊』 という、
志村を喜ばせるには充分な風采であった。

この、突如眼前に登場した珍客に対してのバカ殿の反応は、
気に入ったと言うより、意気投合に近い。

41 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/26(日) 23:03:34
「それじゃ、あれやって 『エンジョイプレイ』」
「♪ あ、1……2 あ、1234エンダンスエンダンスエンダンスエンダンスエンダンス
 ダンスダンスダンスダンスエンジョイプレイバカ殿様!」

こうして志村の許へ接近した二人は、今やバカ殿の良き遊び相手であるが、
表向き戯れるその裏で、着々と本来の目的を進行させている。
しかし、その彼らにしても 『刃蒲公英』 がすぐ近くまで迫っている事実は、
夢にも考えていないようであった。

「いやあぁぁぁ〜〜、いいねぇ、若さだねぇ、
 ……それじゃ、今度はあれやって 『エンジョイプレイ』」
「ですから志村様……」
「とんでもねぇ! あたしゃバカ殿だよ!」

既に、何度目のダンスとなるのであろうか。
余りにハードな稽古とも取れる状況に、二人は玉の汗を流している。

「(なぁ、醐狸……)」
「(な〜に、今日当りには 『風掌操 (ふうしょうそう)』 が動き出す、
 お楽しみはそれからだ……)」
「なんじゃなんじゃ? 何をコソコソ話しておるのじゃ?」
「……い、いえ、エンダンスエンダンスエンダンスエンダンスエンダンス
 ダンスダンスダンス……」

醐狸は疲れた笑みを浮かべながら、再びダンスを始めた。

42 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/27(月) 04:18:17
「アタシにも一杯ちょうだい。 ……二人は食べる?」
「あっ! 旦那!」

目を上げた小川の声がひときわ弾んだ。
つい先般まで目明しであった四人が切り盛りする 『保田亭』 は、
往来にそびえるように鎮座し、結構な繁盛を見せていた。

「OH! デリ〜シャス!」
「……アンタ達、少しは言葉に気をつけなさいよね」

保田から器を手渡された二人は、その端々に異国の言葉が見え隠れするが、
この時代において、それは歓迎されざることであった。入れ替わりを含めれば、
この二人の許からは、既に都合四人もの少女が去っているのである。
語学に堪能なことが、却って異形であることと同義にされてしまう世情……、
どこかに自分の素性をダブらせたのか、保田の表情は沈痛であった。

……木村アヤカと藤堂ミカ。
表の顔として鋳掛屋 『堅果堂 (けんかどう)』 を営む二人は、
同時に発明家という顔も持っている。
保田の一連の絡繰等は彼女達の手によるものであるが、その最新作が
目の前の 『蕎麦処 機甲保田亭 (そばどころ きこうやすだてい)』 であった。

『保田亭』。端的に言えば蕎麦屋の屋台車であるが、その蕎麦は
海を渡った本多ルルにより残された、かんすい麺を用いた汁蕎麦であり、
中華の要素が随所に盛り込まれた味は、『絡繰同心 圭』 の姓氏を冠した
屋号とともに、不思議な麺として近頃評判となっている。

43 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/28(火) 23:30:20
そして、評判なのは蕎麦だけでなく、屋台も同様であった。
『機甲』 という名が示す通り、全面を装甲で固めた屋台車は、
窮屈ささえ我慢すれば、最大二人まで搭乗することができる上、
歩行者並みの速度ではあるが自走も可能である。
さらに、至る所に絡繰を格納する武器弾薬庫としても機能し、
装甲を盾に屋台を展開すれば、ちょっとした防塞にまで使える造りであった。

そもそも、こんなものが作られた経緯は、先だっての紺野の一件である。
幸い大事には至らなかったものの、
負傷者を出した事態はやはり看過する訳には行かない。
思案した末に、保田は四人を目明しの任から解いたが、
一同に落胆の暇を与えず、代わりに屋台商としての役割をあてがった。
それに伴い、突貫で仕立てられたのが 『保田亭』 である。

この裁定は、結果論になるがおおむね吉と出たと言えよう。
少なくとも商売だけで手一杯な分、落ち込む時間など無くなってしまったことが、
四人に新鮮な活気を与えていた。あまつさえ 『機甲保田亭』 である。
あれから実戦にこそ遭遇していないが、これで保田の支援はもとより、
相手が自分達に襲い掛かってきた時の準備としても以前の比では無い。
その心強さは四人に一層の活力を与えているようであった。

「あの、旦那……、今日のこの感じ……」
「……そうね、アタシも同感よ」

仕事がもたらす汗によるのか、海から上がって来たように見える紺野は、
相変わらずの調子で話しをするが、感じているところは保田と通底している。
先刻から譜弾樂を覆い始めている妖気は、いつもより格段に強い……。

44 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/29(水) 23:48:58
「何の真似かしら?」
「てめぇこそ何のつもりだ」

燃え盛る現場に駆け付けた吉澤の口許が、
軽くではあるが真一文字に結ばれた。
行く手を阻む火消し達の数は、軽く見ても総勢十名は下らない。

「何って、一仕事始めるのよ」

男達の気性は荒い。気性の荒さでは自分も決して引けを取らないものの、
手に手に鳶口を構えながら吉澤と相対するその姿は、
ただでさえいきり立つ火事場の空気を、より一層燃え立たせている。
そんな中、吉澤だけは逆に涼しい顔で、言葉尻もどこか醒めていた。

「……何もクソもねぇ、俺らのシマをこれ以上荒らすつもりなら、
 ちったぁ痛い目にも遭ってもらわねぇとな」

仕事の道具まで持ち出して痛い目とは随分なご挨拶であろう。
それが本気であれば、喧嘩どころの騒ぎでは済まない殺傷沙汰である。
威喝する言葉には、過剰に上乗せされた脅迫の念が塗り込められていたが、
吉澤はまるで意に介さず、その上で軽く鼻を鳴らした。

「どうかしら? アンタ達にやれるものならね」

全員を一瞥した吉澤の目が鋭く光る。
これには因縁を付けた火消し達の側が怯んだ。

45 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/30(木) 23:02:56
「……構わねぇ、やっちまえ!」

一向に動じない吉澤の様子に辺際を越えてしまったのか、
容赦の無い長い柄が一斉に振り下ろされると、
吉澤の身体は残像を引き連れながら瞬く間にその場を離れ去る。
そして、流れるような動きと時を同じくして、次々とうめき声を上げながら、
一様に顔面を手で覆い倒れて行く火消し達の姿は、
全て吉澤の鉄拳が決められている証拠であった。

「(ヒッ!) ……お、覚えてやがれ」

余りにも圧倒的な光景を見せつけられ、
蒼白になりながら逃げて行く残りの数名を吉澤は追おうともしない。
自分が本当に闘わねばならぬ相手に比べれば、
まるで取るに足りぬ相手である。
平素の自分があなどられていたことなど問題にもならぬことであった。

……『火消し』 の吉澤ひとみと言えば、
『絡繰同心』 と並ぶ対魑魅魍魎のスペシャリストであり、
男前の器量はなかなかの人気ぶりである。

彼女は、そもそもが激しい気性の持ち主故か、
自分特製の鳶口や掛矢を縦横にふるい、
家屋を破壊するのに、一人で一気に数名分の働きをこなしてしまう。
その姿には鬼気迫るモノがあるが、吉澤の最たる特異性は、
どの組にも属さぬ一匹狼であるということであった。

46 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/5/31(金) 23:28:58
元来、『町火消し』 は 『名誉職』 という側面を多分に持ち、
本業は主に鳶職人などが、自らの命を張って炎に敢然と立ち向かうという、
高い誇りと心意気をもって活動している。その中にあって、
とりわけ世間的にも人気の高い吉澤の素性は、意外にも藪の中であった。

確かに吉澤の仕事ぶりは強力であり、その実績は有無を言わせぬモノがある。
しかし、面子が張り合う火消しの世界にあって、どこの組にも属さず、
気ままに現れてはおいしい所だけを持って行くように映る吉澤のやり方は、
他の火消しの面目を潰していることもまた事実であり、
積み重なる反感の大きさは、潰された面目の大きさを遥かに超えてしまっていた。

それ故か、現場へ到着した吉澤が因縁を付けられる場面は度々であったが、
結果は毎回吉澤の圧勝であり、一度たりとも破れたことが無い。
もっとも、吉澤には負けることが許されなかった。
それが誰であれ、何であれ、己の身に降りかかる火の粉には、
決して負ける訳には行かないのであった……。

顔を押さえてうずくまる火消し達を捨て置き、
現場を足早に、吉澤は延焼の危険の高い家屋を目指し前へ進む。
売られた喧嘩とはいえ、叩きのめしたのは自分である、
頭数が減ってしまった分はきっちり働かなくてはならない。

しかし、今日は何かが違っていた。この肌にまとわりつくような面妖さ……、
充分に知っているようで、初めて味わうその感覚を拭い去るように、
吉澤は気合もろとも、大きく掛矢を打ち始めた。

47 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/3(月) 00:58:11
「アンタ達は避難しなくてもいいの?」
「何言ってるんですか、保田亭はこれからが本番じゃないですか」

濃密な妖気を漂わせていた譜弾樂が闇の中へ飛び始めている。
赤い月光の下を人々が皆、蜘蛛の子を散らすように消えて行く最中、
硬直する保田亭の四人と、堅果堂の二人に交互に目をやった絡繰同心は、
帰る気配を見せないミカとアヤカに思わず問いただしてしまった。

この二人からは恐慌や戦慄の念など微塵も感じられない。
それどころか、どこか嬉々として見えるのは気のせいであろうか。
ただならぬ様相の状況下で、その佇まいは存外ただ者ではない。

「みんな準備はいい?
 何かあっても無理して前には出ないで屋台を盾にしていて。
 アタシは途中でまた戻って来ると思うから」
『ハイ!』
『いってらっしゃ〜い!』

見事に揃った四人の声は固く響くが、
それに続く二人の声は緊張感というものが極度に希薄であった。
まったくもって気が抜けてしまうテンションなのであるが、
動じていない要員の存在は、今の四人にとってはむしろ好ましいのかも知れない。
何より保田亭の仔細となれば、ミカとアヤカの方が遥かに詳しいのである。
保田は大太刀に手を掛け一息つくと、
後ろを振り返らずに足早に屋台を後にした。

48 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/4(火) 23:29:13
「来た……」

強烈な破壊力を発揮している吉澤の頭上を漆黒の闇が覆って行く。
まだ鎮火の余地を残す街中を、身を隠せる場所へ収まって行く群集を尻目に、
火消し達はその意志などまるで無いように作業に精を出している。

譜弾樂で火消しが命を張るという意味は炎の他方、
魔刻と投合した際の身の危険も指し示していた。
そこかしこから顔を覗かせている魔物達にとっては、
狼藉をはたらく相手が誰であろうとお構いの無い話である。
しかし、火消し達に現場放棄の上逃げる輩などまずお目にかかることは無い。
それは、性分というだけでは説明のつかない、
何か別の次元の意志に突き動かされているとさえ思えることがあった。

「てやんでぃ!」
「ふざけるなゴルァ!」

跳梁を始めた魔物に、鳶口で応戦する火消しの声が相次いで響く。
今はまだ威勢良く立ちまわっているが、
そのまま放っておけば全滅してしまうことは時間の問題であろう。
自分の持ち場をいつになく強引にさばいた吉澤は、
辺りに誰も居なくなってしまい放置されたままの龍吐水を見つけると、
急ぎ足でその前に立ち、水槽の中を見やった。
赤い月が照らす水面は、穏やかな鏡面をたたえながら吉澤の顔を映し出しており、
奇妙ではあるものの、どこか風流でさえある。

49 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/6(木) 22:10:31
鏡の中の自分を見つめる吉澤は、
垂らした両の腕を指先まで一直線に伸ばし、身体の脇から後方、
下から上へとゆっくり弧を描きながら、最後に胸の正面で掌を十字に結ぶ。

「……閃鏡!」

交叉と同時に発せられた小さいながら力強い声は、掌に光の輪を収束させ、
まばゆい閃光が走り去った直後に、七色の残像を纏いながら現れたのは、
吉澤とは似て非なる別人の姿であった。

白銀に輝く頭部は、吉澤の毛髪までを一体成形した一種の仮面を思わせ、
耳にあたる部分はそれぞれが半球で覆われている。
そして、両の半球から伸び出し、正面で結ばれている遮光器には、
緑色に光るスリットが真っ直ぐに刻まれていた。

「うわあぁぁぁぁ! 助けてくれえぇぇぇぇ!」

聞こえて来た悲鳴は先刻自分に因縁を付けた火消しのモノである。
その声に素早く反応した異形の主が、悲鳴の主の許へ一目散に駆け付けると、
火消しは魔猫に乗り掛かられ、今にも噛み付かれそうになっている頭上から、
小さな魔物を引き離そうと懸命にもがいている最中であった。

「そのまま! 動かないで!」
「(!)」

50 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/7(金) 23:30:26
言うが早いか、遮光器から青白い光線が矢を射るように放たれる。
命中した魔猫は、一瞬身体を硬直させると緑色に燃え上がり、
地面へ落下した最期には影だけを残して消滅した。

「おう、鏡風姿! ……お陰で助かったぜ。
 今のは不覚を取ったがあとは大丈夫。他のヤツに加勢してやってくんな」

『鏡風姿 (きょうふうし)』。吉澤ひとみのもうひとつの姿は、
闇の譜弾樂に跳梁跋扈する魔物達と闘う鏡の化身である。
しかし、そもそも自分が火消しであることによるものであろうか、
成り行きとして彼らを守護する傾向が強い。

平素は、その火消し達に執拗に因縁を付けられる吉澤であったが、
彼女自身には火消し達に対する嫌悪や意趣などという感情は一切存在しない。
そして、守ってあげているなどと言う修惑も皆無であった。
あえて言うなら、共に戦う同士として、
魔物の凶牙にかかることを阻止しているだけのことである。

「そっち!」
「ありがとよ、鏡風姿!」

縦横無尽に光の矢を照射する鏡風姿であったが、どうにも釈然としない。
火事に魔刻が重なることは、別段珍しいことではないのであるが、
それにしても妖気が強過ぎる……。
不穏な胸騒ぎを静めながら、鏡の使者は跳ね回る魔物達を焼き払い続ける。

51 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/16(日) 23:51:10
『アヒャヒャヒャヒャヒャ……』
「みなさん、もっともっと漕いで下さい!」

跳梁する魔猫の表情は、どう見ても人を愚弄していた……。
展開した保田亭は、強固な盾となり魔物の攻撃をしのいでいる。
応戦するのはミカの撃つ 『電光筒』。
ただし、放電荷から発生する電撃の威力はさほど強力なものではなく、
命中させても地面に叩き落すのが精一杯であった。
しかし、怯まないミカはそれどころかどこか楽し気である。

「まだまだ行けますよ、頑張って!」

盛んに鼓舞するミカの口調は明るく快活であり指導員向きの片鱗などを見せる。
違う時代の下であれば、語学の才と併せて立派な看板娘となれることであろう。
その掛け声のもと、屋台車から伸びたケーブルの先には、
四つの漕ぎ足が繋がれており、保田亭の四人は懸命にペダルを漕いでいた。
『電光筒』 の供給源は驚くなかれ人力である。 
足に掛かる負荷はかなりの重さを示しており、黙々と漕ぎ続ける紺野など、
海から上がってきた状態どころか、海中さながらの大汗をかいていた。

「みんなゴメンなさいね。次には改良するから今回は我慢して」

撃ちまくるミカとコントラストを描くように、
アヤカは屋台車直付けの計器類に首っ引きでメモを取り続けている。
突貫で完成させた保田亭にはまだまだ修正、改良の余地が山積みなのであろう。

52 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/16(日) 23:53:01
本気で済まなそうな顔をするアヤカの言葉には救われる四人であったが、
他方、俄然楽しそうなミカの声が聞こえてくると、やはり不公平感が頭をよぎる。

そんな視線を背負いながらますますテンションを上げるミカであったが、
漕ぎながら見つめる四人の前では、徐々に際どい場面が頻出し始めていた。
一歩間違えれば食いつかれてしまうタイミングで撃ち続ける状況に、
しかし恐怖の介在を感じさせないのはミカの特質か。

「あの……、お水……」

いつの間にか不公平の念は応援の念に変わっていた四人であるが、
ペダルのペースは次第に鈍って来ており、疲労の度合いは極限を迎えつつある。
不意に言葉を漏らした紺野に至っては、脱水症状の危険さえ感じてしまう。

「まぁ、大変! ちょっと待ってて」

急ぎメモの手を止め、屋台車から水を用意するアヤカが仏様に見えた。
やがて茶盆の上に水を運んで来たアヤカの姿は、違う時代の下であれば、
きっと素敵なコスチュームに身を包んでいることであろう。

「……それでは問題です。今から言う言葉を訳して下さい。
 正解者にはお水のプレゼント! 尚、漕ぎ数に比例して水の量が増えます」

仏様の中身が鬼に変貌した。冗談なら勘弁して欲しいモノであるが、
用意された水を見て目の色の変わった四人は、再びペダルの勢いを上げ、
そのお陰で 『電光筒』 の出力は一気に回復した。

53 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/17(月) 22:58:45
「アンタは粘着質?」

上等そうな仕立ての羽織をなびかせながら八頭身の猫が、
保田の顔から目を逸らさずにひたすら走っている。
絡繰同心が保田亭を後にしてから間もなく、
スルスルと近寄って来た人猫は、前触れ無く保田に切りかかると、
そのまま刃を交えつつ執拗に並走していた。

「(!)」

時折放たれる鋭い太刀には保田も気を抜くことが出来ない。
当初は呆れていただけであったが、ここで魔物をやり過ごしてしまうなら、
他に及ぶ被害は甚大なモノとなってしまうであろう。
保田はいつしかこの敵との決着にただならぬ責任を感じていた。

それにしても市中を取り巻く妖気がますますもって尋常では無くなっている。
それは時に、眼前の相手よりも気になってしまうほどであり、
集中を切らさないように絶えず修正を繰り返す保田の、
その隙を見透かすように攻撃を仕掛けて来る敵の太刀は、典型的に嫌らしい。

「行き止まり……」

頭を横に向けながら走る二つの影が小路を進み行くと、その正面は袋状態、
保田は切先を相手から外さないように注意しつつ、右腕を大きく振った。

54 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/18(火) 23:51:38
「ここまでいらっしゃい!」

先端に鉤を付けた細い鎖が勢い良く袖の中から飛び出すと、
鋭く曲がった爪先は軒を掴み保田の身体を力強く引き寄せる。
その手応えを頼りに軒先づたいに蹴上がって行く絡繰同心は、
相手の上段を取れるのならそのまま切りかかるつもりでいたが、
敵も然る者、保田同様に軒先を蹴上がると、屋根の上に躍り出た二つの影は、
赤い月明かりに照らされながら一丈の間を置いて対峙した。

さて、どうしたものか。
正直なところ走り詰めているせいで少々息が上がってしまっている。
取り合えず睨み合うことで多少の時間を稼ぐとするか……。
しかし不穏に強まる妖気は、今や極点に達する感覚として保田に迫る。

「何っ!?」

激しい揺れが屋根の上を襲ったのは、それから一寸もしない出来事であった。
驚愕する保田の周囲では凄まじい音を立てながら家屋の倒壊が始まり、
状況が完全に把握出来ないままの絡繰同心の眼前には、
八頭身の猫の後方を、大地を突き破り巨大な物体がゆっくりと姿を現し始めた。

「な、何よ……。こんなの聞いてないわよ」

にわかにはリアクションが取れず、固まったまま見上げるだけの保田を下方に、
やがて全面を地上に出現した巨大な人型の姿は、赤月を背にそびえ立つ。

55 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/19(水) 23:30:59
穏やかな口許に相反するように光る赤い目、通天から突き出る小さな鉤型の角、
……それは鬼面であろうか。全身は緑掛かる銀色で統一されており、
何より顔以上に大きな左手が一際目を引く。それはまるで巨大な団扇であった。

「わっ!!」

人猫は自分の背後の鬼など全く眼中に無いらしい。
襲い掛かる魔物に、保田は間一髪でその太刀をかわしたが、大きく体勢を崩す。
畳み掛けられれば危険な状況に陥るかと思われたその時、
巨大な鬼の左手が、突如として振り上げられた。

「(!) 聞いて無いってばあぁぁぁぁ!」

巻き起こる烈風は、屋根瓦を吹き飛ばし、家屋を吹き飛ばす。
そして思わず這いつくばった保田を目掛け、
動作の自由を奪われたまま飛ばされている人猫が、ムササビのように迫り来る。

「アンタはもっと自分の状況ってモンを考えなさいよ!」

とっさに反応した保田は、凄まじい風の中に立ち上がると、
一太刀で見事に魔物を両断したが、自身も尻餅をつくように飛ばされてしまった。
左手を振りながらゆっくりと動き出した緑銀の鬼は、
歯車の回る盛大な音を立てながら前進を始める。
その音の意味するモノ……、鬼の正体は巨大な絡繰か?

56 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/20(木) 23:47:30
「おまえ達は見なくても良いのか?」
「いえ志村様、どうぞごゆっくり……」

自分達の望遠鏡を奪い取っておきながらその台詞はどうであろうとも思うが、
自信に満ちた醐狸と川田は、余裕をもって志村を促した。

「なぁ醐狸よ、『銑鉄士』 にここまでの妖気が必要か?」
「どうもこの都の妖気は絡繰の稼働率を高める作用があるようでな、
 ……まぁ、『風掌操』 はそのデータ収集も役目の一つだ」

『銑鉄士 風掌操』 (せんてつし ふうしょうそう)。
平たく言えば自律作動の傀儡である。この小高い丘よりもさらに巨大な絡繰は、
譜弾樂に繰り込んでからの醐狸と川田による劈頭の朋輩であり、
過去に彼らが造り出した 『銑鉄の同志』 達の究極形であった。

風掌操の最大の特徴は、外観からも顕著な特大の左手に他ならず、
掌から引き起こされる烈風は、さらに表裏の能力として、
強烈な吸引力をも発動させることが可能である。

その左手を本気で振るい始めたなら、風を切っての破壊活動はおろか、
燃える火事場を煽り、譜弾樂全土を焼き尽くすことさえ可能かも知れない。
折りしも火の手がかすかに見える現場が、同じ時間と空間の中に存在している。
風掌操は、探知機、感知機……、あるいは検出機なのであろうか、
一度身体の動きを止めると、首から上だけを全方位に微速で回転させ始めた。

57 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/21(金) 23:39:55
「OH! 『エクソシスト』!」

アヤカの声が素っ頓狂に響く先で、緑銀の鬼はひたすら頭部を回転させている。
足場を固めた屋台車は、烈風にもなんとか持ちこたえたが、
乱舞していた魔猫達は、全ていずこともなく吹き飛ばされてしまった。

保田亭の四人は漕ぎ足からは解放されていたが、そのまま足止め状態である。
もしここで足場を緩めたなら、また烈風に襲われる危険性も否めないだけに、
リアクションの取れぬまま、手持ち無沙汰で風掌操を見上げていると、
堅果堂の二人は何やら屋台車の操作を始めていた。

「何してるんですかぁ?」

興奮も入り混じっているせいか、高橋の語尾は一際高く、
御当地の響きが顕著に顔を覗かせる。

「みなさ〜ん! 危険ですから少し下がってくださ〜い!」

身を乗り出す保田亭の面々に振り向いたミカは、
相変わらず語学教室の講師のような調子であるが四人が素直に一歩下がると、
保田亭の屋根は引戸式に下がり、中から見るからに急造の砲筒が姿を現した。

「これ撃つんですかぁ?」

ますます語尾の強まる高橋に、アヤカは微妙な笑みを浮かべると、
ミカと軽い抱擁を交わし屋台車へと乗り込んだ。……悲壮感はまるで無い。

58 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/23(日) 10:16:54
しかし無言になったミカからは、それなりの神妙さが伝わって来る。
軽率に動けないとすれば、交戦してみるのも手ではあるのか。
ミカに促され、もう一歩下がった四人が、
展開して盾となっている装甲の内側に移動すると、
その火力を誇示したいかのような保田亭は、
何度も照準を合わせ続ける砲筒を、やがて風掌操に向けピタリと固定した。

頭部のみが回転している鬼との間には不思議な静寂が漂い、
一同が固唾を呑んで見守る中、連接式の砲筒が一斉に火を吹いた。

「あんれ、まぁ!」

向きを間違えていれば危うく大惨事であったが、
激しい火柱は筒の半分を吹き飛ばし、五人に対してあさっての方向へ四散した。
呆気に取られた分、高橋の声が他人事のように響いたのも無理はなかろう。
しかし無事であるもう半分の筒は、風掌操に向け火線を曳光させる。
その軌跡は鬼の腹部を直撃したが、銑鉄士は悠然としたまま動かない。

頭部を狙うのなら、筒の仰角を上げるか屋台車を後退させる必要があろう。
足場を解けない保田亭は、半壊している砲筒に更なる傾きを加える。
もともと小さな発砲角の仕様であるが、それでも目一杯の角度から火を吹くと、
直後の弾道は、運が良いと言うべきか、悪いと言うべきか、
一撃で風掌操の顔面を捉えた。
……それはちょうど頬の部分であろうか、鬼の頭部が急停止した。

59 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/23(日) 20:05:35
「Nice hit!」

ガッツ・ポーズで小躍りしているミカを除いた四人は単純には喜んでいない。
やはり逃げた方が良いのではないか……、しかし、ミカの余りの喜びように、
なかなか口に出せない面々は、互いに顔を見合わせている。

「……こ、こっち見てる!」

唐突に小川が叫んだ。上機嫌のミカも思わず鬼に目を向けると、
風掌操は確かにこちらを睨んでいた。しかも、無表情のはずの鬼面は、
激怒しているように見える。果たしてそれは自分達の印象の投影なのであろうか。

「……やっちゃいましたか?」
『やっちゃったですうぅぅぅぅ!』

笑顔が引き攣っているミカに、四人はユニゾンで答えた。
まだ少しでも鬼と距離のあるうちに、足場を解いて退散するのが賢明であろう。
このやり取りに呼応するように、保田亭からはしきりに始動音が聞えてくるが、
案に反して屋台車は一向に動き出さない。

「どうしたの!?」
「動かなくなっちゃった。……故障したみたい」

操縦席に首まで突っ込む勢いで保田亭に駆け寄ったミカに、
バツの悪い顔をしたアヤカは、その鼻先を制するように身を乗り出した。

60 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/24(月) 05:31:32
「こっちに来るうぅぅぅぅ!」
「……徹底抗戦!」
「I agree completely!」

悲鳴を挙げる小川を横合いに、ミカとアヤカが頷き合う。
風掌操は再び左手を振りながら動き始めた。
同時に巻き起こる凄まじい風に、動かない保田亭は持ちこたえるのみ。
操縦席に戻ったアヤカは砲撃を再開する。

「やっぱりダメだよ、踏み潰されちゃうよ!」

すでに泣きが入り始めている小川を、高橋と新垣が抱きかかえている。
二人にとってもそうすることで恐慌を抑えているようであったが、
この烈風を前にしては、防塞の外に出たなら魔猫達のように、
いずこともなく吹き飛ばされてしまうことがオチであるだけに逃げ場は無い。
身を寄せ合う三人の前方で、ミカと紺野は成す術無く巨大な鬼を見上げていた。
風掌操は進路上の障害物を全てなぎ倒しながらこちらへ向かって来る。

砲撃は効いているのか? 残弾量はあとどれだけなのか? どうなんだアヤカ!
……とは言わないものの、さすがのミカをしても愉楽は影を潜めていた。
しかし、そんな中でも不思議とポジティブな念が感じられてしまうのは、
やはりミカの特質なのかも知れない。

「……あっ!?」
「Wao! 『LION SAMURAI』!」

61 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/25(火) 23:18:51
風掌操の顔面目掛け、赤い月光を背に鬣をなびかせながら、
太刀を一直線に突き出したシルエットが躍り出た。
それだけスケール差があれば、別段動じる必要も無いと思われる鬼はしかし、
顔に仕掛けられることが余程嫌なのか、
突如出現した獅子武者に対し、巨大な左手を縦横に振りまくる。
それにより拡大した暴風域は、収拾の付かない乱流状態となってしまった。

「いまのうちに直せない?」
「……そうね、やってみる」

風掌操の足が止まったことを見計らってか、ミカが操縦席に乗り込んで来る。
ただでさえ狭い室内が満杯になったことにより、
アヤカは半ば押し出されるように席を外すと、
風に飛ばされないように注意しながら屋台車の動力部へ向かう。
ミカは入れ替わりに、獅子武者もろとも鬼の頭を目掛け再び砲撃を始めた。

「(旦那!)」
「あさ美ちゃん! 飛ばされちゃうよ!」

奮戦する獅子武者にお構いなく火を吹く砲筒には、
さすがに憤ってしまう紺野であったが、それ以上にその獅子が気になる。
……あれは本当に保田なのであろうか?
ついつい烈風の中へ身を乗り出そうとする紺野を新垣と高橋が懸命に引き戻す。
二人に引っ張られた紺野は、巨大な鬼を見上げたまま、
身を寄せ合う三人の中へ勢いよく尻餅をついてしまった。

62 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/26(水) 23:18:30
「やってる、やってる! ……アイツらあんなの出して来てるじゃん」
「でも戦ってるのは一体誰が……?」
「わかんないよ。……敵の敵は味方なんじゃない?」

暴風の中を大慌てで駆け付けてきた四人は、やや硬い表情の矢口を先頭に、
石川の表情は相変わらず気苦労が絶えない様子であった。

「あの矢口さん、ここは今までと随分場所が違いますし、月は赤いですし……、
 本当に大丈夫なんでしょうか……」
「もぅ、なんだよこんな時に……。
 大丈夫だから! 『ネガティブ退散!』」

慎重と言うべきものとも一味違う、石川のお約束の面持ちに、
矢口は今更ながらのフォローを入れる。
しかし、そんな石川を余所に加護などは大物ぶりを発揮しているのか、
どこか眠い目をしたままであった。

そもそも刃蒲公英が譜弾樂の地に立ってからというもの、
当初の目論見は余りにも甘過ぎたことを痛感させられている。
醐狸と川田の追跡に高性能の威力を発揮した飯田の交信を持ってすれば、
城下内の二人の居所など容易く突き止められるはずであった。

ところが、都を飛び交う怪電波は量、質ともに想像を絶し、
実は存外繊細な感度の飯田を襲う混信は、彼女の上限を遥かに越えてしまい、
その詳細な居場所を一向に掴むことが出来ない。……大誤算であった。

63 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/27(木) 22:42:32
加えて、譜弾樂城下の尋常では無い人いきれにまで翻弄され通しの一同は、
心身にわたる疲弊の累積であろうか、銑鉄士の出現に気付くまで、
当座の安宿の一室に、全員で爆睡していた事実など、
恥ずかしくて誰にも言うことは出来ない。

「りかちゃんも加護ちゃんも準備して。かおりは準備OK?」
「ちょっと待って、水、水……」

頭上の皿に緊急に水が必要とでも言わんばかりに血眼で辺りを見回す飯田は、
暴風の中で奇跡的に無事なまま手桶に汲置かれている防火用水を見つけると、
脱兎の如く走り寄り、吸引する勢いでその水を飲み始めた。

大きな瓶に水が注がれるように、辺りをはばからない壮絶な飲みっぷりは、
それだけでも絶句してしまうところであるが、
そもそも無茶苦茶な飲み方の上に防火用水……、大丈夫なのか飯田?

「……準備OK! いつでもいいわよ!」
「りかちゃん! 加護ちゃん!」
『ハイッ!』

鬼を攪乱する獅子武者の勇猛な戦いぶりにより、
四人の場所はうまい具合に風が弱まった。
用水の桶を投げ捨てた飯田は、三人と少し離れた位置で仁王立ちになっている。
矢口、石川、加護は、それぞれが自分の装束から細長い帯を解くと、
各々の帯は一斉に剣へと変化した。

64 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/6/28(金) 23:56:40
『鋼鐵帯』 (こうてつたい)。
一見ただの帯である鋼鐵帯は、ひとたび解き放てば、
伸縮自在、硬軟自在の万能忍具としてその威力を発揮する。
これを誇示したなら、宇宙忍者という枕詞も数段説得力を増すと思われるが、
彼女達にあえてその立場を強く主張する意志が希薄である以上、
目を見張る人々も存外少数に留まっているのがこれまでの通例であった。

『智・仁・愛! 『鋼鐵王』 変身願います!』

三人は剣となった鋼鐵帯の切先を重ねると、
最も身長の低い矢口が伸ばす腕の上限に合わせ三本の剣を空に向け掲げた。
『智・仁・愛』 とは矢口、石川、加護各々の帯の名称である。

琉球での闘いと変わること無く、いつも通りの口上を唱えた三人であったが、
辺りは風が渦巻く一方で、立ち尽くす一同には何事も起こらない。
やはりこの地では駄目なのか……、寝坊したのが原因なのか……、
石川の中では、まだ微々たる時間の経過も勝手に膨れ上がる兆候を見せ、
ネガな念がムクムクと頭をもたげ始めたその時、天空に一条の稲光が走った。

「よっしゃ! かおり、頼んだよ!」
「かおりんショック! でぃあぁぁぁぁぁぁ!」

力強く叫んだ矢口に、稲妻は間髪を容れず飯田を目掛け直撃し、
直後のシルエットは仁王様状態が一転、
感電した蜥蜴のように両手両足を互い違いに上げ、
道化者さながらに、勢い良く大地から飛び上がっていた。

65 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/1(月) 23:42:08
「稲妻!? (!)」

奮闘する獅子武者がほんの一瞬見せた隙であったろうか。
突然の雷光に、集中の矛先が移ろう寸刻を風掌操の左手が直撃した。
空中を全身きりもまれながら弾き飛ばされるその姿は、
常人であればひとたまりもないところであろう。

「旦那!」
『えっ!? 旦那?』
「あ。……だ、旦那はどこかなって」

思わず声を出して立ち上がってしまった紺野に、三人は怪訝な顔を向ける。
そのまま泳ぎ気味の目が新垣の目と合った紺野は、すぐさま我に返ると、
やや照れ臭そうに曖昧な笑みを浮かべながら言葉を濁した。

……そうではないか。獅子武者が保田である確証など実際はどこにも無い。
やはりこのことは自分で納得するまでは誰にも言うまい……、
改めて誓う紺野の視程、鬼の後方を霧のベールが突如として取り巻いた。

『きゃあぁぁぁぁ!』

次の瞬間、薄霧の中から紅い巨人が威勢良く出現すると、
躍り上がる膝に当てられた風掌操は、
成す術なくバランスを崩し激しく前方へ倒れ込む。
その転倒の余りの苛烈さに四人は思わず悲鳴を上げてしまった。

66 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/2(火) 23:31:56
「何!?」

鏡風姿は壮烈であった。跳梁する魔猫の始末もあらかた終了に近づき、
尚もしつこく火消し達に襲い掛かる魔物さえ片付ければ、
この現場も一段落、後は鎮火作業を詰めるだけである。

あれほど気になっていた妖気の強さも、立ち回りが激しくなるにつれ、
いつしか意識の外へと紛れてしまい、この凄まじい地響きが無ければ、
彼女の役目もそのまま終熄してしまうはずであった。

思いがけない轟音と烈風に、急ぎ火の見櫓を登る吉澤の瞳に映し出されたのは、
両手を交互に構える真紅の巨人と、起き上がろうとしている緑銀の巨人。
見たこともない騒然とした光景に、さすがの鏡風姿も息を飲んだ。

「『天狼その眷族、名鏡吻合せし双子宮の江湖、
               ……譜弾樂より夜陰を往きて終焉へ赴く』」

……その言葉は確かに吉澤から発せられた。鏡風姿は櫓から飛び降りると、
残りわずかな魔物と入り乱れる火消し達の間を疾風のように駆け抜ける。

「おぅ!? 鏡風姿!?」
「済まない! 後は頼んだ!」

先刻のまま放置されている龍吐水まで舞い戻った吉澤は、
水槽を満たす鏡面の正面に立つと、吸い込まれるようにその中へ姿を消した。

67 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/3(水) 23:31:06
「すんげぇ、すんげぇ、すんげぇ、すんげぇ、デカい!
 ……おまえ達は見なくても良いのか?」
「ですから、どうぞごゆっくり……」

醐狸と川田は城窓の外を見ていない。
二人には志村の反応を見ていればそれで十分であった。
興奮する殿様は窓から身を乗り出し、今にも落ちそうなほどである。

「もう一つ、紅いのが飛び出して来たで」
『へっ!?』

志村の意外な言葉に、醐狸と川田の表情が途端に強張った。

「(ア、アイツら……)」
「(……ここまで追って来たってのか?)」
「……なに、何? アイツらって知り合いかえ?」

呟く声が聞こえてしまったのか、城窓に乗り出すバカ殿の上半身が、
器用と言うより、奇怪な形でこちらを向いた。

「……い、いえ、志村様、知り合いだなんて滅相もない」

両手を振る川田の声は微妙に上擦っている。
こうなると状況を直に確認したいものであるが、望遠鏡は志村の手の中であり、
頼みはその実況だけであった。次回からは人数分の用意が必須であろう。

68 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/4(木) 23:11:19
「(とにかく落ち着け。今度の銑鉄士はこれまでとは訳が違う……)」
「……何だ、紅い方押されてるな」

肘で川田を小突く醐狸の表情からも余裕は消え失せている。
再び城窓の彼方へ視線を移した志村は、言葉尻に一瞬の落胆を匂わせた。

「鋼鐵王が動いてるうちにウチらもいきまっしょい!」
『……っしょい!』

矢口達三人は、紅い巨人の急襲に転倒した鬼へ接近すると、
各々の鋼鐵帯を風掌操の頭部へ投げ掛け、その巨体へ取り付いて行く。
やはり闘い慣れしていることは明白であり、勝手の掴みきれないまま
弾き飛ばされた獅子武者を省みれば、手際の違いは一層鮮やかであった。

その三人のことなど気にも止めない銑鉄士は、大地を叩きながら立ち上がるが、
どう考えても表情が無いはずの顔相には、更なる怒りの形相が加わり、
突如として出現した巨人へと向き直る。

……刃蒲公英の三人が鋼鐵帯を天空へ掲げ、
招来した雷光が飯田を貫く時、霧の中から真紅の巨人が現れる。
『鋼鐵王 (こうてつおう)』。

全身に紅 (くれない) の鎧を纏い、頭部から胸部を白銀に染める巨人は、
構える両手の間から垣間見える、胸部に蒼く灯らせた鋼玉状の意匠から、
時を刻む砂のように、その光がめまぐるしい早さで消えて行く。

69 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/5(金) 23:33:17
鋼鐵王は、水をエネルギーとする環境に優しい巨人であるが、
燃費が極端に悪いことがたまにきずであった。
活動限界時間は、後世の時単位で便宜上2分間というところであろうか。
出現からすでにその半分近くの時間が経過してしまっている。

短い時間の内で敵と渡り合うためには、矢口達との連携はもちろん、
場合によっては、三人こそが銑鉄士を倒す……、
実はこちらの方がメインだということは周知の貴兄もおられるかも知れない。

登場こそ鮮やかであった鋼鐵王は、しかし風掌操の左手に悩まされていた。
繰り出される烈風に、前進も出来ないどころか、
暴風に足許をすくわれ、新しい喜劇のように転倒を繰り返している……、
何やってるんだ鋼鐵王!!

確かに琉球における銑鉄士は、体格的にどれも鋼鐵王より小振りであり、
スケール差をもって何とか勝負になっていた面は否めない。
また、それらは全て素朴な獣型でありここまで完全な人型は皆無であった。
鋼鐵王と対等の威容を誇る銑鉄士はこれが初めてなのである。

「終了〜〜!」
「りかちゃん!」

風倒を続けていた鋼鐵王は、結局そのまま時間切れとなってしまい、
加護の掛声とともに、その場から凋むように姿を消して行く。
矢口は石川に合図を送り、軽く目配せをした石川は風掌操から離脱した。

70 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/8(月) 23:23:43
「ロック解除!」

故障の委細を見たアヤカは、当座の動力部の復旧を断念し、
固まってしまった保田亭の足場の修繕に全力を注いでいたが、
ようやく目的を果たしたその声の先には、誰からの反応も無かった。

「……どうしたの?」

不可解な空気を察し、ようやく顔を上げたアヤカの面前では、
ミカも含めた五人が、声も無いまま漫然と鬼を見上げている。
砲筒はすでに撃ち尽くされ、屋台車も自走出来ないのが現況である、
保田亭はとにかく手押しで撤収すべきところなのであるが、
誰もがその場を動こうとする気配さえ見せない。

「ね、ねぇ、みんな……?」

突如出現した鋼鐵王は敢え無く姿を消し、
勝利したと思われる風掌操であったが、その様子がどうにもおかしい。
前屈姿勢のまま身体を小休止させ、
再び頭部を回転させている鬼の動きは、確実に壊れ始めていた。

今ならチャンスなのである。
強引にでも退散を促さねばならない状況にあって、
しかし、不思議と成り行きが気になってしまうのも人の常なのであろうか……。
いつしかアヤカも風掌操を見上げたまま動けなくなってしまった。

71 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/9(火) 23:27:34
「飯田さ〜ん」

手桶を握る石川は案外落ち着いている。声も張り上げてはいない。
変身の解けた飯田の居所もおおよその見当が付くのは、ひとえに慣れであろう。
重そうな両手の桶でさえ、それを象徴するように中身をこぼすことは無かった。

「飯田さん!」

鋼鐵王は先刻までの勇姿が一転、瓦礫の中にうずくまるように倒れていた。
その姿は、カラカラに干乾びてしまう直前といったところであろうか。
小走りに駆け寄る石川は、飯田を抱え起こすと渇いた唇に手桶をあてがう。

「(!)」

途端に両目を見開いた飯田は、条件反射的にその水を飲み始めた。
両手で桶を抱えながら一心不乱に貪り飲む姿はまるで大きな赤ん坊であり、
こう言ってはなんだが、……すんげぇ怖い。
離脱した風掌操の挙動は狂い始めている。矢口と加護が侵入したのであろう。
片桶の水を一気に飲み干してしまった飯田に、残りの桶を手渡そうと、
石川が取っ手を持ち上げた瞬間、水面から何かが飛び出した。

「えっ!?」

光る遮光器の緑が鮮烈なその影は、こちらのことなど顧ずに走り去って行く。
そして、飯田はそんなことなどお構いなしに再び水を飲み始めた。

72 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/10(水) 22:52:40
「アイン、アイン、アイン、アイン、アイ〜ン!」
「こらあぁぁぁ! 調子に乗るなあぁぁぁ!」

決して広い空間では無い。鋼鐵帯を振り回し、
度を越して飛び回る加護の姿には、矢口も少々怒気を強めてしまった。
鋼鐵王が時間を稼いでいる間にまんまと鬼の内部へ侵入した二人は、
休む間も無くその体格を生かした忍術、
『鼠術』 (ねずみじゅつ) を駆使して目当ての場所へ到達した。
これは銑鉄士の内側を移動する際には必須の術であり石川には不可能である。

巨大な絡繰の内部には操縦席とも解釈できる空間が例外無く設けられており、
ここをうまく壊すことさえ出来れば、周囲への被害を最小限に抑えたまま、
闘いを仕舞えるのであるが、風掌操の内側は想像以上の複雑さを見せ、
とても琉球時の比では無かった。これでは最善の破壊は難儀であろう。

「全部やっちゃいましょう!」
「……う、うん、そうだね。……それしか無いか」

加護が妙に弾けている。
短絡的に壊してしまうことには、あまり気の進まない矢口であったが、
深く考えていないように聞こえる加護の言葉に異論は無い。
乱暴に過ぎることはこの際目を瞑り、矢口も槍となった鋼鐵帯を突つき出すと、
二人は鬼の内部を手当たり次第に破壊し始めた。
赤い月に照らし出される風掌操の姿は、狂った頭部の回転のみならず、
いよいよ脈絡の無い挙動が、より一層の拡大を見せる。

73 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/11(木) 23:22:37
「どこを狙う……?」

鏡の世界を通り抜けた吉澤は、暴走中の鬼を目の当たりに、
攻撃のポイントを思案していた。
両腕を上段から正面へ振り下ろすことにより放たれる、
鏡状にきらめく光の小刀は、闇雲に撃つだけでは、
風掌操に軽微なダメージしか与えることが出来ないようであった。

その上、鏡風姿で有り続ける時間にも限界が迫っている。
眼前にそびえる鬼を何とかする為には、意識的に焦る必要も生じていた。

銑鉄士は、暴走と言っても走り回っている訳では無い。
所在は一所から動かないのであるが、今や身体ごと左手を振り回し、
ねじ切れんばかりに、全身で狂的な回転を繰り返している。
中に居る矢口と加護は大丈夫であろうか。

「……あの左手!」

もちろん、矢口や加護のことなどまるで知る由も無い吉澤は、
全方位に及んでいる暴風を食い止めようと、団扇状の左手を狙うことにした。
何より、この風が後を委ねて来た火事場を煽ることを嫌っての決断でもある。

キラキラと輝く光刃は、その狙いに対し今度こそ上々の首尾を見せた。
目標はこの巨大な左手の破壊。鏡風姿はひたすら光刃を放ち続ける。

74 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/13(土) 00:10:51
「痛! 痛たたた……」

……気絶していたのであろうか?
覆いかぶさる瓦礫の下で、軋むような身体の痛みに目を開いた獅子武者は、
咄嗟に立ち上がろうとしたものの、
全身を駆け抜ける激痛に面食らってしまい、ひとまず立つことを断念した。
この痛みでは、最低でも肋骨の2〜3本は折れているかもしれない。

自分は今、何をしている……?
仰向けに、真上を仰視したままの獅子武者の頭の中には、
弾き飛ばされて意識を失うまでの経緯が、緩徐に浮かび上がる。

「……あの化物! 痛たたた……」

特大の鬼面が意識の中に結像した途端、
跳ね起きようとした心の動きに、身体の動きが悲鳴を上げた。
……再度、今度はゆっくりと上体を起こした獅子武者は辺りの様子を伺う。
そして、轟音の中に荒れ狂う巨大な銑鉄士の姿を目に止めた。

「……『我意流 飛龍星』 (がいりゅうひりゅうせい)」

被ったダメージを鑑みれば、怒り心頭であることも確かではあったろう。
狂っているとはいえ、依然健在な風掌操を彼方に、
憤怒が故の激情に走ってしまった獅子武者は、
平素であれば自重の限りを尽くす筈の禁断の妖文を半無意識のまま口にした。

75 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/15(月) 23:28:24
その視線は微動だにしない……、『飛龍星』。
天空から招来するのは、筒状隕石とでも呼ぶべきであろうか。
燃え上がりながら飛来する流星群は、直撃した相手を微塵に粉砕する。

凶悪な破壊力を持つ飛龍星は言わば獅子武者の最終兵器であるが、
こと命中精度に関しては、その威力と相反する所ではない程に甚だしく低い。
ピンポイントで狙いを定めるなどという芸当は、恐ろしく無理な話であった。

獅子武者が自重に努める最大の事由は、実にこの点を指すのであるが、
術法を使うための身体的負担も、決して小さくは無い理由であった。
これで少なくとも一週間は獅子の姿に変わることが出来なくなるであろう。
しかし、それと同時に怪我を負っていることも考え合わせれば、
全快するのはいつになることやら……。

妖文から程なくして、まばらに現出する飛龍星は、
肝心の鬼を無視するように、その周縁に相次いで落下を始めた。

『きゃあぁぁぁぁ!』
「防塞変形! みんな固まって!」

だからあの時に逃げておけば……、などと言う台詞を吐く資格は自分にも無い。
屋台車に乗り込んだアヤカは、指示を飛ばしながら保田亭の形状を組替え、
やがてアルマジロに見紛う形態となった屋台車は、
大きな外套が子猫を包み込むように、装甲を展開し五人を内側へ保護した。
保田亭は自走こそ出来ないものの、それ以外の動きであればまだ可能であった。

76 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/16(火) 23:58:26
とは言え、暴走状態の鬼により一層激しくなってしまった嵐と、
得体の知れぬ流星群の落下により、保田亭は今や窮地に追い込まれている。

「ダメだよ、爆発しちゃうよ……」
「大丈夫だから。みんな麻琴ちゃんを中心に固まって……」
「Wao! 『おしくらまんじゅう』!?」

……健気である。身を寄せ合う健気な娘達の中に陽気な娘も約一名。
今更手押しで逃げられるはずもなく、一同は小さく、固く、
ひたすら身を縮めてやり過ごすしか手立ては無くなっていた。

「こ……、こんなのって!」

風掌操の左手は既にボロボロである。
目標とする破壊まであと一息に迫ったところで、
流星の出現は一気に激しくなり、ほぼ無差別状態で地表に降り始めた。

火事場から吉澤に纏わり続けた妖気は、この鬼と流星だったのかも知れない。
街は既に、落下した隕石により多大な損害を被っている。
こうなってしまうと、鏡風姿は攻撃対象を変更せざるをえなかった。
変身の時限が気になるところではあるが、
光刃の矛先を流星に定め直すと、吉澤は激甚に迎撃を始める。
鏡風姿の対空攻撃により空中で四散する飛龍星は極彩色の花火を思わせ、
仮に余興であったなら、さぞや痛快な眺めであったろう。

77 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/18(木) 22:12:08
「う、うぇぇ……、気持ち悪ぅ……、加護ちゃんは大丈……」
「ほ○えぇぇぇぇ!」
「わあぁぁぁぁ! 吐くなあぁぁぁぁ!!」

やはり、異常回転を続ける銑鉄士の内部で、矢口と加護が無事な筈はなかった。
室内の破壊は、風掌操を止めるどころか、
却ってその挙動を悪化させてしまったようであるが、ここに来て回転が鈍い。

「ふえぇぇぇ、気持ち悪いぃぃぃ……」

涙目の加護は妙に可愛かった。
鬼はどうやら身体ごと大地を掘ってしまい、下半身が地中に埋まったらしい。
ようやく回転地獄から解放された二人はしかし、同時に手詰まりであった。
鋼鐵王もすでに居ない今、どうしたものであろうか。

「……ねぇ、外が騒がしくない?」
「ふえぇぇぇん、もう出るうぅぅぅぅ……」

一刻も早くこの場から離れたい気持ちを、体一杯で表現している加護に対し、
思案の途中、外部の様子に気を向けた矢口は大人であった。

「……もうイヤやあぁぁぁぁ!」
「爆発とかしてるじゃん! 急いでここから出るよ!」

上方言葉全開で、急激な幼児退行を見せている加護に、
矢口はなんとかなだめすかしながら、大急ぎで 『鼠術』 に入った。

78 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/21(日) 23:26:42
「……やってもた」

獅子の口許が苦い笑みを浮かべている。
もはや笑うしか術が無いことも分からぬではないが、……笑ってる場合か!

獅子武者は怒りが心頭に達すると、容易に飛龍星を招来する……、
否、してしまう。ハッキリ言って弱点であった。
自己制動の利かぬまま発動してしまう流星群など、
切り札などとはとても呼べない、あまりに危険な代物ではないか。

半身を起こしたまま見つめる先では、地上から白銀の光が飛龍星に放たれる。
流星群を迎撃しているのは一体何者なのであろうか。
そのまま静かにまぶたを閉じた獅子武者から、再び意識が失われた……。

「ここまで……」

無双の働きで飛龍星に立ち回っていた鏡風姿にも遂に活動の限界が来た。
吉澤のおかげで、それ以降の都への被害は大半を未然に防ぐことが出来たが、
最後の流星であろうか、今までとは桁違いの大きさの飛龍星が姿を現す。

「ダメ、もう撃てない」

早急にこの場を退避しなければならない自分に悔いが残らぬはずは無かったが、
全速力で現場を離れながら、途中で元の姿に戻った吉澤の遥か後方を、
巨大な隕石は風掌操の正面に直撃し、鬼は受け止める姿のまま大破炎上した。

79 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/21(日) 23:28:10
「ファ、ファイナル・シーサー……」

醐狸と川田の顔色は単に悪いと言うだけでなく、どす黒く変化している。
極彩色に舞う花火は、望遠鏡を必要とせずとも直に見えていた。
鋼鐵王が姿を消したことは、志村の実況により伝わっていたものの、
流星や花火の所在となっては、とても刃蒲公英の仕業とは思えない。
この都には他にも敵が居るということか。

「ヤッタ〜!!」

バカ殿が喚声を挙げると、城窓の先では花火などまるで比較にならない、
極大の爆発が起こった。大破炎上していた銑鉄士の四散であろう。

「おまえ達さっきから変だぞ……」

窓辺から引き上げて来た志村が、固まったままの二人を怪訝な顔で覗き込む。
そもそも予想外であった刃蒲公英の出現に加え、その後の展開には言葉も無く、
凍り付いたように動かない醐狸と川田に、リアクションを取りあぐねる殿様は、
取り合えず借りていた望遠鏡を返そうと、醐狸の腕を強引に曲げ、
落とさないように掌に握らせた。

「♪ ア〜、アイヤイヤイヤ……」

スイッチが入ったように、突如踊り出す二人組に驚いた志村であったが、
すぐ様対抗するように扇を広げると、『アイ〜ン』 と叫びながら踊り始めた。

80 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/22(月) 23:42:48
「ありがとうございました〜」

張りのあるお愛想の調子、その店は居酒屋である。
しかし、酒など出ない昼時にも結構な賑わいを見せている店の中は、
今時分がちょうど稼ぎ時であった。

給仕をしているのは少女と呼ぶにはとうの立つ、
……と言っては失礼であろうか、少々痩せ気味の娘と、露出を極端に嫌うのか、
両の袖を異様に長くした娘が、せわしなく店内を行き来している。

譜弾樂が魔物と呼ばれる理由の一つは強靭とも呼べる城市の生命力であった。
巨大な鬼の出現により、多大な被害を生んだはずの町並みのほとんどが、
中一日を待たずして、すでに過日と変わらぬたたずまいを見せている。

人的被害さえ表に聞こえないのは、やはり魔都ならではの所以なのであろうか。
まだ多少の瓦礫は見受けられるものの、
復興というにはあまりに性急な都の様子を入口の向こうに眺める中澤は、
安倍と辻との待ち合わせであった。

譜弾樂入京以来、ひたすら地道に窺見 (うかみ) を続ける三人は、
装束通りの二手に別れて行動しており、
途上で魔物などに遭遇してしまった場合でも、無闇に戦闘は行っていない。
今回の自分達の使命を考えれば、その選択こそ本分であり、
『陽炎流忍群』 の名に賭けて、彼女達はプロフェッショナルであった。

81 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/23(火) 23:07:32
とは言っても、何も堅苦しさに固執している訳では無い。
中澤とて元来が優等生では無いのである。それは数々の修羅場を経る過程で
培われたものであり、やがて次代へと受け継がれて行くのであろう。

安倍と辻の到着を焦れることなく待つ中澤であるが、焦れているとすれば、
都に入ってからというもの、酒を飲む機会を上手く持てていないことであった。

居酒屋での待ち合わせは珍しく中澤本人の要望である。
辻の手前、酒のことにはことさら触れていないが、いくら安倍といえども、
どこかいじましい中澤の気持ちを、言外に察せぬはずは無いであろう。

「(あの娘は、食が細いんやろか……)」

店は繁忙中である。中澤に注文の品はまだ来ない。
細身の娘をぼんやりと眺めながら、取り留めの無い思惟を泳がせていると、
もう一人の娘の周囲が何やら騒がしい。流れのままに視線を移せば、
袖の長い娘は、質 (たち) の悪い集団に絡まれている様子であった。
異様な装束に身を包む男達は、どの場所であろうと目立つ風体であったが、
ただ昼飯を食べているだけなら、誰からも咎められはしなかったであろう。

「なぁ、いいじゃんかよ、ネェちゃんよぉ」

可愛い娘には虫がつく……、月並なお約束であるが、
娘はまるで取り合おうとしない。しかし、尚も食い下がる狼藉者の集団に、
細身の娘の方が店の奥へ姿を消すと、すぐに主人と思われる女性が現れた。

82 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/24(水) 23:46:13
歳にすれば自分と同じ位……、あるいはずっと年上であろうか。
若い気もしないでは無いが、自分とはあまりに対照的な老け顔に、
外見からの判断だけでは、そこまでが限界であった。

「お客さん、ウチはそない店とちゃうで。面倒は余所でやってや」
「何だとおぉぉ!」

女将は動じる様子など見せず、騒ぎの間に割り入るように立つと、
右の袖をまくろうとする娘を自分の後方へ引かせた。

「(ええねん、アンタはおとなしくしとき)」
「(でも、元締……)」

小声でなだめる女主人の傍らには、いつの間にか細身の娘も立っており、
その構図は完全に店側対狼藉者集団となっている。他の客がざわつき始めた。

「なんでぇ、なんでぇ、何をコソコソ言ってやがる!」
「コソコソもへったくれもあるかい!
 文句があるならこの平家さんが相手になったるで、表へ出んかい!」

狼藉者は総勢六名。全員が身丈の異様に長い黒尽くめの井出達をしている。
色眼鏡をかけ、鶏冠を筆頭に各人各様の取り留めの無い髪の形、
そして襟首まで各色に染める姿には、少なくともこの時代、洋の東西を問わず、
他でお目に掛かる機会など微塵も無いことであろう。

83 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/25(木) 23:25:49
「おい、聞いたか? 『平家』 だとよ、……蟹の甲羅か?」

平家と名乗った女将は、狼藉者の煽りには乗らない。存外涼しい表情なのは、
その手の煽りならとうの昔に免疫が出来ているのかも知れなかった。
一向に釣られる様子を見せない平家に、六人組はいよいよ顔を前に突き出すと、
肩を左右に揺すりながら店側の三人の方へにじり寄り始める。

「(み、みっちゃん……、お愛想、ここに置いとくよ……)」

険悪な空気にいたたまれなくなったのか、常連と思われる多数の客が、
小声ながら律儀に代金を置き、そそくさと店を後にして行く。

「アンタらのせぇで、お客さん帰ってしもたやろ!」
「うるせぇ! オレらはその娘に用があんだよ! (痛ぇ!)」

騒然とする極の劈頭、突如中澤が鶏冠頭の後頭部に調味料の瓶を投げ付けた。
驚く双方を尻目に、中澤は狼藉者達を厳しい目付きで睨み付けている。
そして、平家は割られてしまった容器を見ると、何故か中澤に腹を立てた。

「アンタら、他の客の迷惑っちゅうもんも考えられへんのかい!」

無用な争いは努めて控える中澤であったが、そこは自身とて女である。
目の前での同性に対する狼藉、みすみす見て見ぬふりとまでは行かなかった。

「なんだおめぇは! ……年増の薬売りはすっこんでろ!」

84 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/26(金) 23:54:53
至当に放たれた言葉は、中澤の目の奥を鋭く光らせる。
平家を差し置き、よりによって自分のことを 『年増』 だと……。

「……アンタらえぇ度胸しとるなぁ、……『夜露死苦 (ヨロシク)』!」

眉間に深い皺を寄せた中澤は、言うが早いか六人組中の一人、
坊主頭の胸倉を瞬く間に掴み、その腹に電光石火の膝蹴りを見舞う。
そして、思わず屈み込んだ背中に間髪を入れず強烈な肘打ちを食らわせた。
坊主頭は堪らず椅子と膳台を道連れに、盛大な音を立てながら床へ転げる。
こうなってしまった中澤は手が付けられない。

「お、おぃ、お前ら気を付けろ! こいつはただの薬売りじゃねぇ!」

鶏冠頭が叫ぶ傍からまた一人と倒されて行く最中、中澤の真の恐ろしさは、
一度倒れた相手でも流れの内に放置などせず、隙さえ見えれば、
何度でも追加の攻撃を繰り出すことにあった。気付いた時には、
重複したダメージにより、全身ただごとでは済まなくなっていることであろう。

「こ、こらあぁぁぁぁ! 店の中で暴れるなあぁぁぁぁ!」

出し抜けに仕掛けた中澤に、当初は言葉も無かった居酒屋の面々であるが、
やがて、ことの成り行きに追いついた平家の怒りの矛先は、
狼藉者を越えて、中澤へ向けられているようであった。
この事態を避ける為に、自分はならず者に表へ出ろと言ったのでは無いか!
平家にとって、今や中澤の行動こそが悪夢となっていた……。

85 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/29(月) 01:20:57
「裕〜ちゃん! 待たせたんでない、か……、い……」
「しろかげさん……」

やや遅れて姿を見せた二人は、店に着くなり入口で棒立ちになってしまった。
……中澤が舞っている! 奥から怒号を飛ばす平家などお構いなしに、
縦横無尽に飛び交う中澤の姿を、安倍と辻は久々に見る気がする。

「……運動した後のご飯は最高だべ!」
「……へぃ!」
「へっ!? ……ゴルァ! そこの二人はいきなり何やねん!」

猛り狂う中澤の姿が嬉しくなった二人は、大きく伸びをすると、
自らも騒ぎに乱入し、こちらも平家の制止などお構いなしに店内で暴れ始めた。
しかし、暴れると言っても狼藉者の相手は中澤一人で十分に間に合っている。
安倍も辻も、そこは当然納得しているように見受けられるのであるが、
ならば、この二人は何のつもりなのであろうか?

怒りにワナワナと拳を震えさせている平家の眼前を、再び悪夢が襲った。
安倍と辻はハシャギながら騒動に無事であった店の調度を次々に破壊している。

「こらあぁぁぁぁぁ!! 何しとるねんーーーーー!!」

青筋を立てる平家のこめかみは、今にも切れそうになっていた。
飛び入りの二人は、どう見てもドサクサに紛れて遊んでいるとしか思えない。
もはや他の客も完全に居なくなってしまった。何やってるんだ安倍と辻!!

86 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/7/31(水) 23:51:08
「ス、スンマセンでした……。
 俺……、あ、いや……、僕達が悪かったです……」

廃墟の町を彷彿とさせる店内……。
さんざんの大立ち回りは、結局、中澤一人に六人組の完敗であった。
なんとか動けるのは当初から目立っていた鶏冠頭の一名のみ、
残りの五名は完膚無きまでに床の上に叩きのめされ、身動き一つ取れない。

「ホンマに悪かった思とるんかい」
「(痛ててて……) 思ってます、思ってます!
 思ってますからその手を離して……」

恐い顔をした中澤は、ヨレヨレになってしまった鶏冠の襟首を掴むと、
前後に揺すりながら低い調子で凄んだ。
本気で恐いのであるが、安倍と辻はその様子を前にしてもニコニコしている。
……何がそこまで可笑しいねん?

「あ、あの、俺……、あ、いや……、僕達 『花の応援団』……、
 ……違った! 『氣志團』 って言います。
 僕は 『綾小路背露兄亜棲翔 (あやのこうじせろにあすしょう)』。
 ……いやぁ、御姐様ったら本当にお強い! しかも御綺麗!」
「さっきは年増聞こえたで」
「……い、嫌だなぁ、空耳ですよ、そ・ら・み・み」

すっかり恐れ入っているならず者に、しかし、中澤の態度も軟化の兆しを
見せていた。実は案外乗せられやすいたちなのかも知れない。

87 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/2(金) 02:56:55
「僕らアレです、決めました! 御姐様のためならたとえ火の中、水の中……、
 地の果てだって参上します。 ご用命の際は、いつでもここへ……」

背露兄亜棲は懐から小さな長方形の紙片を取り出すと、恭しく中澤に手渡す。
紙片には氣志團の仔細が、目が回るほど細かく記されていた。

「ほな、早速……」
「ハイハイ! なんなりと!」
「倒れてる全員連れて、この店からとっとと出て行き」
「ガッテン! お安いご用で」

背露兄亜棲は寄れた身からは及びも付かない強力な力で全員を担ぎ上げると、
早々に見えなくなってしまった。存外、有言実行の男なのかも知れない。
混沌の巣窟と化してしまった店内は気の抜けたような静寂の中に六名が残った。

「一応、礼……って、アンタら、ホンマええ加減にしいや」
「せやね、ウチの若いのがやり過ぎてもうたわ、かんにんな」

アンタもや! と言いたい気持ちの面前で、思いの外しおらしい中澤に、
剣呑ではあるものの、平家も声を荒げることは無くなっていた。

「信ちゃん、もうええよ」

平家が斜上を見上げると、いつのまにか天井と鴨居の間には、
何とも器用な格好で何者かが貼り付いている。……その装束は飛脚であろうか。

88 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/6(火) 23:45:18
「派手にやったわね……」

床へ降り立つ飛脚は、この場を初めて見るような口ぶりをしているが、
壁に貼り付いて騒動の一部始終を眺めていたことは中澤達も承知の上である。
その余りに華麗な身のこなしは、安倍も辻も感嘆してしまうほどであった。

信田美帆。体術にかけては自分をも遥かに凌駕するであろうこの飛脚は、
その身体能力だけを見ても只者では無い。仮に推測が外れていないとすれば、
彼女もまた忍の出自であろうと中澤は思った。

「とにかく、店の中キチンと片付けてや……」

一気に表出した疲弊に襲われたのか、発熱したように語気の緩くなった平家が、
信田を伴い店の奥へ消えると、雑然とした店内は思った以上に広く見える。

「……ほな、片付けるで」

中澤に促され、今度ばかりは笑顔も曇る安倍と辻の傍らで、
今まで平家の袖に立っていた娘達が、何を思ったのか相次いで整頓を始めた。

「ええよ!? アンタらは関係無いやん」
「……でも、人数多い方が早く済むし。あの、アタシ柴田あゆみって言います。
 さっきはすごかったですね、感激しました!」

かいがいしく片付けを手伝う柴田は、中澤に好感を持ったらしい。
その外見故か柴田は平素、狼藉者に絡まれることが少なく無かった。

89 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/11(日) 02:12:36
しかし、本当の柴田の力を予めに知れば誰も狼藉など働かぬことであろう。
今回にしたところで、店のことを顧慮する必要さえ無ければ、
平家の助けも殊更不要であり、柴田一人で十分であった。もっとも、
自分の為に全くの第三者が騒動に介入してくれたケースなどは、未だかつて
一度として無く、増してそれが同性であったことに柴田は痛く感激していた。

「ウチは中澤裕子、こっちの二人は……」
「安倍なつみ、なっちだべ!」
「え、えぇ……、つ、つぃ、つぃののみえす!」

堂に入った笑顔の安倍とは対照的に、照れているのであろうか、
辻はいつもの倍以上も舌が短くなった上、引き攣る口許はやけに早口であった。

「……最後に村田めぐみ、メルヘン担当です」

簡単に自己紹介を終えた五人であったが、
言い終えた直後に、村田がウッカリと言うには少々気まずい顔をしている。

「メルヘン担当って、柴田ちゃんの担当は?」
「……アタシは、アタシはナチュラル担当です」

質問はごくありふれたものであり、中澤に別段他意など無い。
……村田の首尾の悪さは、自分を 『メルヘン担当』 などと言ってしまえば、
次には必ずその問い掛けが来てしまうことに不用意過ぎたことであった。
ややうつ向き加減になってしまった柴田の表情はどこか寂し気に映り、
何か不味いことでも言ったのかと、中澤まで罰の悪い顔になってしまった。

90 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/11(日) 02:14:27
「……な、なぁ、ところでこの店。
 店の名前が 『紫式部』 で、女将の名前が平家ちゅうのは……」
「……あの、深く突っ込まないでやって下さい」

平家の居酒屋は、通り名こそまさに 『平家の居酒屋』 であるが、
本来の屋号は広く知れ渡らないのが悲しい所、実は折々で改名されていた。
それは、ある種の新装開店なのであろうが、今回の屋号にしても、
ほぼ無視と言えるほど話題に登っていない。いよいよ洒落にならない事態に、
なんとかならぬかと思案する矢先、無情にも遂に手遅れとなってしまった……。
この件に関しては、作者をして執筆のペースを鈍らせたことも想像に難くない。

店はそこそこの繁盛を見せ、常連もそれなりに定着している。
気丈なコメントを発した平家は、案外 『へっちゃら』 という噂もあるが、
その心中は幾許であろうか。今度は村田の表情が曇ってしまった。

「アンタらは、ここで働いてるん?」
「いぇ、しょっちゅうじゃないんです。アタシ達は万屋 (よろづや) なんで、
 今日はこの二人で、……ネ!」

話柄を変える中澤の問い掛けに、柴田と村田は顔を上げると軽く目配せをした。
今日はこの二人……、まだ他にもメンバーがいると言うことか。

「こぉらぁ〜! (キャッキャッ……)」

……安倍と辻がじゃれ合っている。その平和で楽し気な光景は、
一向に進まない作業と、よもやの散乱が増す様相を真裏に見せ始めており、
さすがの中澤も、先刻の平家と同じ胸裏がすぐ傍まで込み上げて来ていた……。

91 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/13(火) 20:18:21
「静か……」

……漂う後藤の肢体に、夜毎の濠は今や完全な彼女の庭と化している。
静寂に身を任せ瞼を閉じた両の端を、時折伝う涙は何故であろうか。

自分はクールでなど断じて無い。
ただ、人を楽しませるような物言いが得意でないだけだ。
今の境涯とて自ら望んでのこと、何を悪くした訳では無い。
……自身に言い聞かせながら、時に底知れぬ寂寥が胸の奥を駆け抜ける度、
流される涙は後藤の身魂に呼応しているようであった。

「(……!)」

鋭く跳ねる水の音に両の瞼が開かれる。
それは魚など及びもつかない、泣き濡れた瞳の先に現れた人の影であった。
狙って見れるほど容易くは無い、緑色に光る遮光器のラインが鮮烈な風姿。
そのシルエットを初めて見たのはいつのことであったろうか。

「……また会ったね」

赤く染まる天井の月に、面妖な気配は譜弾樂一面を覆い、
軽やかに水面を後にした遮光器の主は、
呟いた後藤を顧みることなどまるで無いままに、疾風の如く走り去る。
出現のタイミングは決まって魔刻の中、
待ち伏せなど出来ようも無いのであるが、ひどく気になる存在であった。

92 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/13(火) 21:30:25
根拠などどこにも存在しない。しかし、後藤にはそれが敵とは思えない。
そして、水辺を本領とする自分を前に、今だその実像を把握させない所作。
決まって水から出現することが、後藤を何より強く惹きつけて止まなかった。
稚気の琴線に触れるような奇妙な親近感は気のせいなのであろうか。

後藤は無手勝流である。あの巨大な鬼の一件さえ別段気にも留めていない。
むしろ、まるで関係が無いと言うべきなのであろうか。
彼女にとって自身へ危害が及ばぬ限り、好んで干渉することなど絶無であろう。
それは夜毎に闘う海豹の姿とは大いなる矛盾であったが、後藤の本意は、
存外戦闘以外にあるのではと思われる事象も、実は折節で見受けられている。

際立って好戦的という訳では無く、まして都の平素を脅かす訳でも無い。
当人の中でも既に本来の目的など、半ば消失しているのかも知れなかったが、
診療所の黒ひげ稲葉は、殊更にそれを問い詰めようとはしなかった。

ならば、あくまで推測の域を越えはしないが、
後藤の行動もまた、譜弾樂の魑魅魍魎を防ぐ為の力の呈示なのであろうか?
……本人からの披瀝は依然として何も無い。後藤はただ、
一度たりとも欠かすことが許されぬ参内のように夜毎の市中へ通い続けていた。

「……雨?」

頬を微かにたたき始めた水の礫は、やがてまとまった量となり、
漂う後藤に降り注ぐ。……丁度良い、この雨が全てを紛れさせる。
どこまでも続く穏やかな息づかいは、いつしか鉄壁の寝息へと変わっていた。
そこに不思議なオーラを見た者は、決して偶然では無いことであろう……。

93 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/16(金) 00:18:31
「それじゃ、後は頼んだわよ!」
「気を付けて下さい」
「アンタ達もね」

隠密同心、藤井摩周隆 (ふじいましゅうりゅう) は、
そう言い残すと、とり急いで人気の無い往来を後にして行く。
月は赤く、こともあろうに外はあいにくの雨までが重なっている。
都を発つにしては最悪の状況の下を、根が生真面目なこの男の中では、
自分の身を顧みるより使命への忠義が勝るようであった。

先般の巨大な鬼の出現と、その顛末をまとめた報告を、
急を要する枢機事項と位置付けた藤井は、
せめて魔刻が過ぎるまでととりなす二人にも耳を貸さず、
危険な闇の中を敢えて出発に臨んでいる。

その後姿を見送る石井リカと藤本美貴。残された二人もまた公儀隠密であった。
年齢、キャリア共に開きのあるこの二人が、
公儀の任に就いたのはほぼ同時期のことである。

藤本にとっては、これがほぼ初任と言って差し支えなかったが、
潜在的に高いポテンシャルから、彼女は主に戦闘を受け持つ。
そして、端で見る以上に数々の局面を経ている石井は遁走のプロであった。
忍とは追跡を許すという段階で、任務の半分が失敗であるという見方もあるが、
それほどの難事においても、掴んだ情報を確実に持ち帰る石井は、
『超流体足袋』 (ちょうりゅうたいたび) と呼ばれる独自の足袋を使い、
過去にどんな危険な任地からも生還を果たした実績を持つに至る。

94 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/16(金) 08:57:30
譜弾樂の世情は、既に公儀の者までも呼び込む世態となっていたが、
謎の鬼の出現は藤井摩周隆をして、
事態は悠長な調査などと言う次元を、とうに越えているという判断の許、
彼は独特の斜にストライプの入った、派手な襟巻きと相応するように、
現在までのリサーチを性急にまとめる傍らで、すわ上申と心逸らせていた。

「石井ちゃん」
「いいタイミングですね……」

藤井の見えなくなった往来を隔て、その向こう側がにわかに騒然としている。
辺りを走り始めた妖気に、二人は軽く頷くとすぐさま軒伝いに身を潜めた。
間もなく現れた気配の主は鏡風姿! 入京してからというもの、
幾度となくお目に掛かっている印象的な遮光器であったが、
手合わせをしたことは一度も無い。
もっとも、藤本をして決して勝負などしたくはない相手であろう。

その実、これほど間近にその姿を見ることもまた初めてであった。
周囲にあまたの魔物を引き連れながら走る今宵の鏡風姿は、
しかし、狂気とも言えるほどにその偉力が冴え渡っている。

「す、凄い!」
「(シッ!) 声が大きい」

平素は柔和である石井の語調が、抑制されているとは言えやけに鋭く響く。
やや浮き足立ってしまった藤本も息を殺し、再び視線を向けると、
鏡風姿は恐ろしいまでに荒々しい、かつてなく凄まじい光景を展開していた。

95 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/19(月) 23:45:03
「オオオォォォォォォ!」

吉澤にとって端緒など何一つとして存在しない愁嘆であった。
それは突然に胸の内を去来した、ある種の予感なのであろうか。
鏡風姿の旗幟とは譜弾樂の闇を諌める天命の守護。
それとて、機縁は思いも寄らぬ始まりから、かくして変じている鏡の姿も、
既に自らの使命として、懐疑なく注力しているはずである。

それは当該の折、夕陽に照らされる吉澤の目の前を覆った灰色の慨嘆は、
単なる後顧と片付けてしまうには何かが違っていた。
大切な何かが、大事な何かが、自分の手の中からすり抜けてしまう、
自分ではどうにもならない彼方へ行ってしまう。

漠然とした心像は、あるいは胸騒ぎを通しての直感であったのかも知れない。
しかし、吉澤はそれが指し示す本意を深く確かめぬまま激昂に走った。
彼女は涙を流さない。むしろ涙であれば笑顔を見せてしまう性分であるが故に、
しゃにむに飛び出した己の胸裏に制動など利くはずも無かったことであろう。
吉澤がそのとき希求したこと……、それは不覚にも魔刻の到来であった。

嘲弄するように過ぎて行く穏やかな時間に焦れながら、
やがて訪れる魔の刻に現れた鏡の化身は、鋭利で激しいオーラを全身に纏い、
その手が付けられない暴威を中和するように彼女は水鏡の裏側へ飛び込んだ。

そして再び姿を現した鏡風姿は、市中を辺り構わずに駆け巡り始めると、
陰極へ向いた霊気から、次第に周囲へ集まるおびただしい数の魔物を、
全て自身の許へと引き寄せつつ、忽然と降り落ちる雨の中で戦闘に突入した。

96 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/20(火) 23:46:24
敵は、一体が大人数名分にも相当する大きな犬であったが、
煙る雨にひしめき群れるその影は、巨大な頭から直結する二本足の姿が、
妙に微笑ましい、……否、怪しい形象を連ね、真っ向から吉澤を襲う。

四方はやがて、魔犬の集団により壁状に取り囲まれてしまったが、
鏡風姿は怯む心気など、はなから消失しているように、ひたすら力任せに、
次々と噛み付きにかかる巨大な頭部を、絶え間無く両断し続けている。

黄色い体色に、口を閉じた状態こそやけに無表情なその魔物は、
一度牙を剥けば未曾有の惨事を引き起こす手強い相手であったが、
それにしては、むしろ魔犬の方こそ被害者ではないかと錯覚させるほどに、
目の前の光景は一方的であり、表情の伺えない吉澤の内面からは、
深い憤りと悲嘆が沸き上がっているようであった。

鏡の化身を狙う犬の群れも、ただいたずらに倒されている訳では無い。
単体ごとの単純な突進は、やがて波状の突進へ、そして多段の突撃へと、
折を重ねるごとに、組織立った仕掛け方へ変化を見せているのであるが、
今宵の鏡風姿の前には、まるで歯が立たない。

鬼神の様相を呈す吉澤の、青白く輝く両の腕は今や閃光の剣と呼ぶに相応しく、
剣から流れ落ちる光芒は、憤怒の涙に等しい趣まで漂わせており、それは最早、
いかなる攻撃によっても太刀打ちなど出来ない魂の咆哮に相違無かった。

それでも圧倒的に無力な己を躍起になって否定するように、
襲撃の気勢を緩めようとしない魔犬達は、飽くなき突撃を繰り返しているが、
今の状況が続く限り、それは単に無謀としか言いようのないことであろう……。

97 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/21(水) 01:31:24
「……すごい」

絶句であった……。
浮き足立っていた先刻を通り越し、今や顔面蒼白となっている藤本が、
しかし、かろうじて言葉を発すると、傍らの石井もまた厳しい表情であった。
あれから一言も口にしない石井の様子は明らかに平素とは異なり、
その姿に釣られてしまうのであろうか、藤本の全身はどうにも強張ってしまう。

「怒ってるのかしら……」

間近に見る鏡風姿の力に、気圧されているのは事実であった。
石井に無言で居られることが却ってプレッシャーになってしまう藤本は、
尚もつぶやき続けるが、依然、石井に取り付く島は無い。
往来で繰り広げられている凄絶な光景は、荒々しさを増す一方であり、
鏡風姿は間違い無く魔犬を全滅させてしまうであろう。
それより、自分達のことさえとっくに気付かれているのではなかろうか。

「……行きましょう」
「えっ!?」

不意に背筋を駆け抜けた戦慄に、無意識のうちにすがっていた石井の顔は、
気付いてみると、いつもの柔和さで藤本に向けられていた。
穏やかさを取り戻しているその表情は、何かを納得したのであろうか、
微笑みさえ見て取れた気がするが、藤本は敢えて問い返すことはしない。
雨は一向に止む気配を見せず、二人は水の暗幕に紛れるように、
鬼気迫る鏡風姿を瞼に焼き付けながら、軒を密かにその場を後にした……。

98 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/22(木) 19:02:57
「……誰?」

目覚めれば一切が無事である自分に、後藤は拍子抜けしていた。
濠に漂ったまま寝入ってしまうことは、別段珍しいことでは無い。
彼女の場合、自身に危険が近付けば、本能的に目が覚めてしまうのであるが、
何事も無く夜が明けてしまったことは、すこぶる珍しいことであった。

白み始めの空は、深更の雨もすっかり止んでいる。
そして、後藤の身体も水辺から上がるなり、着衣も髪もいきなり乾いていた。
それはまるで、全身全霊で水を弾き続けていたように、
どこにも濡れている箇所など見出せないのであるから驚嘆である。
危険に目が覚める習性といい、まさに海豹ならではの所以なのであろうか。

素通りした夜に勝手を狂わされ、逍遥する気の失せてしまった後藤は、
今朝に限り真っ直ぐ診療所へ戻ることに決めたが、
その矢先、半分以上は道化のようにも聞こえる男の声が道の傍らより、
まだ半分以上は寝ている節も濃厚な、彼女の後ろ髪を引いた。

「……誰だ、チミはってか!?」
「……」

慮外にも程が有る……。巧みなリアクションなど返しようも無かったが、
さりとて、構わずその場を去ることも出来無い後藤に、男は続ける。

「……」
「そうです、ワタシが変なおじさんです! ♪ ア、変なおじさんだから変……」

99 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/23(金) 23:04:26
……不覚にも、後藤は笑っていた。
戸板の前に尻餅をつく格好で背中を傾けている男の顔は、
自分で描き加えているのであろうか、髭やほくろの毛がやけに濃密に、
和装とは思えない薄い桃色の上下を着込んだ腹部には、
蛇腹状の赤い編込みを身に付けており、全てに自分の顔が描き込まれている。
魔除けなのであろうか? おかしな風体は何もかもが彼女の理解を超えていた。

「だっふんだ! ……って、ア痛タタタタ」

いつのまにか立ち上がっていた男は、お道化た振り付けまで披露して見せたが、
どうやら足に怪我を負っているらしい。
一度は壁際から離れた背中も、そのままズルズルと腰が沈み始めると、
思い切り尻餅をついてしまい、打たれた背中は結局壁にもたれてしまった。

「その足……」
「これかえ? 犬の化物に囲まれちゃってさ……、アハハハハ……」

男の足は一見しただけであれば、軽傷に見えなくもない。
しかし、その言葉は自分が寝入っている間に、
確かに魔刻が訪れていたことを雄弁に物語っている。
そして、その渦中を通り抜けながらそれだけの被害で済んでいる男の姿に、
後藤は訝しくも妙な感心を覚えていた。この男は単に怪しいだけでなく、
何か特別な能力も持ち合わせているのかも知れない。

「あん? 囲まれたんだけど、その後そいつら一斉にどっか行っちゃってさ、
 だからおじさんはこれだけで済んだの……、アハハハハ……」

100 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/23(金) 23:06:37
後藤の表情を察したのであろうか、男は事のいきさつを胸を張って語る。
どこをどう取れば意を強く出来るのかは理解の外であったが、
さらに理解を超えた彼女の手は、ごく自然に男へと差し伸べられていた。

まっとうに考えて年頃の娘である。得体の知れぬ相手を前に、
それは決して好ましいとは言えない行動であったかも知れない。
しかし後藤に男を忌避する気持ちは、自分でも不思議なほど希薄になっていた。

「な、何……?」

差し出された手が意外であったのか、男の方もなにやらかしこまり始めている。
その姿は相変わらず怪しいのであるが、危険な様子は見て取れない。
むしろ、はにかんでいる気配さえ感じられた。

「……で、おじさんをどうしようって言うの?」
「あの、怪我の手当て……」
「手当てって……、なんで?」
「……アタシのとこ、お医者さんが居るから」

なかなかすんなりとは気の利いた言葉を出せない後藤に、
その場の空気は、依然ぎこちなさがつきまとっている。

「……そ、そぉ?」

しかし、互いに他意の無いことだけは、どうやら伝わったようであった。
しばしの間が置かれると、男は後藤の手を握りながらよろよろと立ち上がり、
後藤は肩が杖の代わりになるように、二人は診療所までの道を歩き始めた……。

101 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/25(日) 03:40:35
「ただいま……」
「おかえり。……で、今日のお客さんは?」
「うん、……足をね、怪我してるんだ」

稲葉は普通の顔で起きている。
既に習慣と化した早朝の診療は、そもそも後藤に端を発しているが、
黒ひげは、今や拳を鳴らしながら朝を待ち構えているようであった。

「それにしても、今日の人はまた、えらい格好やな……」
「先生……」

まだ眠た気な目をこする松浦が、奥からそっと顔を覗かせる。
しかし、足をひきずりながら診療所の中を見まわしている男の姿を目に留めると、
固まったように言葉を失い、すぐまた奥へと引っ込んでしまった。

「……いつもこうやって誰かの手当てをしてるのかえ?」
「せやで。毎朝あの娘 (こ) が怪我人を連れて来るさかい、
 それを診るのが医者の勤めやねん」

後藤は自分の為に作り置かれた握り飯を頬張りながら黙って男の方を見ている。
腰を下ろした男は稲葉に足を見せながら、尚もしげしげと室内を見回していた。
ここが闇医者 『黒ひげ』 の診療所であることなど知っているのであろうか。

「……痛! 痛いなチミは!」
「大の男がこんなんでピーピー言うてたら笑われるで」
「……痛! 痛いっつーだヨ!」

102 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/25(日) 23:23:03
男は声のトーンを上げながら、肩の高さに構えた手刀に、
突き出したあごを、上半身ごと稲葉の方へ乗り出した。
その滑稽な声と仕草に、処置中の稲葉はこれと言った反応も見せなかったが、
後藤は弾けるように笑っている。

「……何? これをおじさんにくれるのかえ?」

痛がる男の気を紛らすように、傍らまで歩み寄って来た後藤は、
まだ手をつけていない握り飯を一つ、構える手刀の前に差し出した。
男は、多少おどけた様子を見せながら瞬く間に平らげてしまい、
その様子を眺める後藤の目は、ますます可愛らしい笑みを浮かべている。

「さぁ、出来たで。痛いとこあったら言うてや」
「済まないね……。ところで……」
「ええよ。お代は、まぁ人助けっちゅうかな、返す当てが出来たらで構へん」

稲葉は慈善として医者をしている訳では無い。
それは単に診療所の会計が十分に潤っていることの裏返しであったが、
そこはかとなく醸し出されている余裕は、巷に 『良心的な闇医者』 という、
冷静に聞けば、どこかおかしな風評も広め始めている。

「いや、おじさんはもう帰らなくちゃならなくてな……」
「なんや、忙しいお人やなぁ」
「じゃ、アタシが送ってくる!」
「……そうかえ? ……何から何まで済まないねぇ」

稲葉には、ここまで声高に聞こえる後藤の語調もまた珍しい気がした……。

103 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/26(月) 03:22:13
「先生!」
「……なんや、アンタがキッチリ起きてるのも珍しいな」
「さっきの人は誰ですか?」

再び奥の部屋から現れた松浦の語気は強く、
いつもならまだ眠い眼であるはずのこの時分にも、今日は違っていた。

「誰って、……誰やろ? どっかで見た気もするねんけど……」
「何言ってるんですか!」

その語気は強いだけでなく、少々きつ目でさえある。
朝から何を怒っているのであろうか。

「お殿様じゃないですか!」
「あっ!? ……せやな、あのけったいな格好、あの声色、その通りやわ」
「感心してる場合じゃないですよ!」

松浦は腰に手を当て、仁王立ちになっている。
しかし、予想より反応の乏しい稲葉に、やがてしびれを切らせたのであろうか、
釣り上がった眉は徐々に持続が困難となり、当初の調子が弱まって行く。

「……どうするんですか?
 後藤さん、とうとうあんな人まで連れて来ちゃいましたよ」
「どうって……、別にどうもせえへんよ」

特別なことなど考えていないのは事実であった。
自分は医者としての本分に従っただけのことであり、誰であろうと関係は無い。
黒ひげは朝食の支度を整えると、微笑を返しながら改めて松浦を呼んだ……。

104 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/26(月) 06:12:38
「……そうかえ? おじさん困っちゃうなぁ」

連れ立って歩く二人の姿は傍目にはどう映るのであろうか。
親子とでも言えれば無難な所であるが、それには男の風体に難が有り過ぎる。
一度戻ってから間を置かず、再び往来へ出ることは存外珍しいことであったが、
後藤に厭う様子は見られない。むしろ、楽しそうにさえ感じられた。

男は、稲葉から渡された簡素な杖をつき、
まだ早くは歩けないが、それでも後藤の肩に頼ることは無い。
朝の往来は思った以上に人の出が少なく、それは今更ながら妙に新鮮であった。
……この男は一体どこまで帰るつもりなのであろうか。
閑散とした光景の中、不意な疑問が頭をよぎる。

肝心なことをまだ聞いていなかったことに気付いた後藤が、
男に問い掛けようとしたその矢先、辺りを走る緊張が彼女の心機を逆撫でした。
夜は濠で寝入り、昼間は診療所で寝ていることの多い後藤であったが、
さりとてそこは 『化身忍者 海豹』。決して勘が鈍っている訳では無い。

気配は複数。それも、二人や三人どころの話では済まないであろう。
十数名、場合によってはそれより多いかも知れない。
それだけの人数が、自分達を取り巻くように一斉に動いている。
狙いがどちらに有るのかは定かで無いが、
甚だ歓迎されざる客人であることだけは確かであった。

事態はどう考えても二人に不利に働いている。海豹へと姿を変える後藤は、
夜毎の通り連日の変身が可能であったが、それには大きく二つの条件を要した。

105 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/29(木) 04:20:41
一つに現況の魔刻への転変。
一つに全身が十分に潜れるだけの水の周備。
一度化身してしまえば、魔の刻が過ぎ去っても変身の維持は可能であったが、
肝心の水の欠落は致命的であり、魔刻とてそうも都合良く到来するはずは無い。
なおかつ、こちらには怪我をした連れまで居るのである。

男を巻き込まないように戦うとすれば、安全な頃合いを見計らって、
上手く別れるのと同時に、敵を自分に引き付けつつ水辺を目指さねばならない。
思案するだけならまだしも、遂行となれば多分に至難であろう。

「なんでそっちへ行くのかえ?」
「えへへへへ……」

男からは羨ましいほどに緊張が感じられない。
逆に、ピリピリと張り詰めている自分を出来るだけ表に出さないように、
後藤は曖昧な笑みで、なんとかその場を取り繕うことに尽力していた。

周囲の気配が自分達を追っていることは最早疑うべくもない。
市中で立ち回りを繰り広げるなら、人気の無い場所まで持ち込むべきであろう。
化身はこの際あきらめ、男は路地裏に突き飛ばした上で素早く別れ……。

「(!)」

意を決した後藤の機先を制す攻撃が、左右二手より勃発する。
飛び交う車剣の中、そもそも当該の事態には全く心当りの無い彼女にとって、
それはまさしく不条理の体現であり、甚だしく不愉快な胸中であった。

106 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/29(木) 23:05:12
しかし、容赦の無い襲撃は、こちらの気持ちなどまるで無縁のまま、
卍の刃を躱しながら地を転げる後藤が、袖中の扇に手をかけると、真上から
斬りかかる新手の一撃は、寸前で抜出された甲扇に激しく受け止められた。

「已めい!」

……それは男からの一声であった。その声を契機に一斉に姿を現した忍衆は、
皆一様に足を怪我するこの男に向かい、片膝を付いた姿勢で顔を伏せる。
予想外の展開に、後藤は構え直した体勢が一転、思わず尻餅を付いてしまった。

「この娘は恩人じゃ。手を出してはならん」
「しかし……」
「分かっておる、今日は帰るのがちと遅くなった」
「いぇ……、ならば今日と言う今日は……」
「なんじゃ小湊! 言いたいことがあればハッキリと言わんか!」

頭目なのであろうか、他の者より近い距離で男に片膝を付くその忍は、
頭巾を緩め顔全体を露にすると、伏していた目を男の顔へと向ける。

「……恐れながら困るのです。我々を欺き、そうまで気随に城外へ出られては」
「固いこと言うな。城の中ばかりでは息が詰まるでの」
「いかりや様にお叱りを受けるのは我等なのですぞ……、
 それも、そのようなわけの分からぬ格好まで……」

呆気に取られている後藤を尻目に、
憤りと口惜しさを懸命に押し殺している反動か、小湊の語尾は小さく震えていた。

107 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/8/31(土) 01:30:17
「……あぁ、もう、分かった分かった! 帰りが遅くなったのは悪かった!
 爺にはその旨、よう言い聞かせておくで、それで良かろう?」

小湊に泣かれてしまった男の顔は渋く、盛大な筋を浮かべた首を掻きむしり、
本人にすれば詫びているつもりなのであろう言葉を、捨て鉢気味に発する。
何か話の筋がずれている気もするが、小湊からもそれ以上の言及は無かった。

「もうここまででいいよ……」
「……」

小閑を置いて後藤へ向き直った男は、照れているのか頭を掻き、
疲れたような苦笑を浮かべている。目の前の急な展開に当惑中の後藤は、
一人立ち尽くしながら、ただその顔を見るばかりであった。

やがて、次々に面を上げる忍達は男を囲む隊形へと動き始め、
ごく短時間のうちに、いつでも撤収出来るだけの準備を整える。
小湊も最早泣いてなどおらず、
あとは男の発向を待つだけとなった周囲の警戒に神経を注ぐ。

「いろいろありがとね。……おじさんは志村けん、……チミの名前は?」
「アタシ……、アタシは後藤……、後藤真希です」
「そうか、……後藤、……真希ちゃんか」

動き出す忍の衆に御身を護られながら、
後ろ髪を引かれるように、横顔の向こうで後藤を見ていた志村は、
じきに曲がり角へ差し掛かると、多勢と共に一瞬で姿を消した。
そして、後藤はしばらくの間その方向をじっと見つめ続けていた……。

108 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/2(月) 23:30:45
「どう? 食べない?」
「……和尚」

質素な手套を盛んに長円筒型の袋に叩き込む吉澤は、大粒の汗を流している。
大きな袋の中身は砂であった。

兎角その身の宿命なのであろうか、彼女の日常は絶え間無い闘いである。
その仇敵の一つに自身の体重があった。
気を緩めれば、たちどころに太くなってしまう体質はどうにも始末が悪い。
それは、美貌はもとより、いざ戦闘の際の身体の切れにまで、
如実に影響してしまう為、断じて怠る訳には行かない闘いであった。

和尚と呼ばれた男は、高徳の僧というより、
僧兵崩れの生臭坊主と言った方がしっくりくる風采である。
かつては拳が強かったであろうことが、素人目にも容易に感じられるこの男、
人呼んで怪僧 『森の石松』 (もりのいしまつ) は、
寂れた山寺 『土性骨』 (どしょうぼね) に一人で住む。
お世辞にも聡明とは言い難い人となりであったが、決して悪人では無い。

石松は己もかつて減量に苦しんだ経験を持つが故か、
時折やって来る吉澤にも、気兼ね無く発散の場を与えていた。

吉澤は、鏡の姿で荒れ狂った胸裏を思い返し、
目に見えて太くなってしまった自重との調整を兼ねて、
ここ数日を石松の許へ訪れていた。それは都の外れ、
夜ともなれば人が通ることもはばかられる、鬱蒼とした山間である。

109 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/3(火) 04:38:49
譜弾樂の大動脈は、かつての脆弱さも今は昔、生起した幾多の深刻な問題も、
種々方策をもって、昨今の想像を絶する人口の流入をどうにか捌いていた。

それに伴い、主だって整備された行路は、俗に五街道と呼ばれ、
港湾部である南を除いた各方角へ、それぞれが伸びている。
しかし、脇往還へ逸れれば、まだまだ危険な兆しも依然として残っており、
『土性骨』 の、廃寺と呼んで差し支えないほどに荒れた佇まいなどは、
山間に浮かび上がる、獣道に相応しい竜宮といった趣であった。

さりとて、この寺は修験の者等も頻繁に利用しているらしく、
吉澤が訪れている今現在でさえ、顔を合わせることは無いものの、
見知らぬ顔が数名は居るように思える。

「どうだ? ちょうど甘いぞ。黒くなっちゃったらもったいないからね」

いつの間にか胡座をかいている坊主は、自分で栽培しているのであろうか、
鈴生りの黄色い果実を、段状の房ごと床に広げ、
両手に数本づつ、剥いた皮から現れた白く細長い中身を食べている。

石松曰く、完全食であるというその実は、
これだけ食べて生きて行けるとまで言う。吉澤も嫌いな訳では無かったが、
野猿のように旺盛に食べ続ける坊主の姿は、単なる遠慮以上に引いてしまう。

とは言え、気を使う必要の無い、どこか自分とも共感を覚える石松の寺は、
吉澤にとって、存外居心地の良い場所であった。

110 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/3(火) 23:34:59
「なんだ? まだスッキリしないの?」
「……和尚、『闘い』 ってなんスかね?」

手套を外し自らも腰を下ろす吉澤は、手に取った果実の黄色い皮を剥きながら、
呟く言葉の先に、石松の姿を写してはいない。

「『闘い』 とは……」

新たな実に手を伸ばした石松は、一度は吉澤の横顔を見つめたが、
やがて視線を上方に泳がせると、動かす口はそのままに問いの答えを探した。
妙な間が開いて行くが、気まずいという雰囲気でも無い。

「闘いとは運命との格闘だね。人生が闘いの連続であるならば、
 ……『快闘』 しよう!」
「(……プッ!)」

二人の間は、いつしか呆けるような沈黙に支配されていたが、
降って湧いた石松の一言に、吉澤は思わず吹き出してしまった。

「嵐の中でも時間 (とき) はたつ。
 どうにもならない時には、どうあがいてみてもどうにもならないんだね。
 そんな時はじっと力を蓄えて待つ以外にない。
 時が解決の女神になるよ。耐えるたびに、少しずつ人生がみえてくる」

至極当然と言ってしまえば、身も蓋もなくなってしまうが、
発言主の曲折を考え併せればまさに 『カンバック』、不思議な含蓄が漂う。

111 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/4(水) 19:15:19
「『いまにみていろ!! 男ならやってみな』」
「……アタシは女ッス」

自分に酔いしれてしまったのか、にわかに身を乗り出していた石松は、
素っ気無い吉澤の返答を聞くと急に顔を赤らめ、
照れ隠しのつもりか、力強く握り締めていた大好物の皮をしげしげと眺めた。

「この裏側をね、よく乾燥させて煙管で飲むとここいら辺が気持ち良く……」
「和尚、それはただの思い込みッス!」

よもやの迷走が始まった石松に、今度ばかりは吉澤の反応も素早い。

「……『神様ありがとう 俺の人生』。どう? 勇気ある男の生き様!」
「活字は眠くなるから困るッス」
「日本酒が苦手な俺だけど、俺自身も楽しみたいじゃないか。
 そんな想いを込めて味を考えてみたよ。
 酒飲みと同じ気持ちで飲めるお酒 『気』。
 肩を組んで、今夜は飲み明かそうぜ」
「この歳で飲酒はヤバいッス」
「特製 『健康&ファッションブレス』、金と銀……」
「健康は間に合ってるんで要らないス」

どこに仕舞い込んでいたのであろうか、次々に繰り出される怪しい品々は、
宣伝以上に実売目的を窺わせている。生臭坊主の目は多分に真剣であった。
吉澤は、ある種天才的に往なしているが、怪僧石松の暴走は止まらない。
その姿はまさに 『破戒僧』……、否、『破壊僧』 であった……。

112 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/7(土) 02:28:20
「おいしい……」

器の水を片手で口許に運ぶ大人びた飯田の仕草に、小川はつい見とれてしまう。
まだ磐石とは言い難いものの、商売繁盛を続けている保田亭の四人は、
絡繰同心の居ないこの日、かねてから申込のあった屋台車の取材に応じている。

保田はあの鬼の一件以来、公務としては一度も表立って姿を見せていない。
床にこそ臥していないが、彼女が依然本調子に程遠いであろうことは、
おおよそ誰の目からも明らかであった。

本人は別段深刻な素振りも見せず、内勤も公務の一環と笑顔を浮かべるが、
そんな保田を人一倍気遣う紺野は、旦那が居ない分まで自分達ががんばろうと、
他の三人に向け、気持ちの割に大層頼り無い気合を見せたりもしている。

「この厚さで防御はどれ位有効なの?」

保田亭への取材に当っているのは 『刃蒲公英』。
飯田と矢口の発起による瓦版の発行は、予想以上の反響をもって迎えられ、
その手応えにすっかり気を良くしてしまった四人は、
行く行くは一枚刷りなどと言わず、内容も本分である速報はおろか、
音楽やポエム、コラム、果ては悩み相談までと、夢は膨らむ一方であった。

醐狸と川田という本来の目的を余所に、妙な錯覚に陥らないことを切に願うが、
少なくとも、ポエムなどと言ってしまった時点で欲張り過ぎではなかろうか。
事件等、これといった話題の無い折にも特集記事を組み、
定期刊行を目指しているその瓦版の名は 『往素路』 (おそろ) と言った。

113 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/7(土) 03:10:24
「この屋根はどうなってるの?」

保田亭の取材は、当初の名目こそ 『話題の店』 であったが、
この屋台車が銑鉄士と交戦したことを知った矢口の関心は、
肝心の質問内容も二の次に、専らその戦闘能力を訊ねることに傾注している。

堅果堂の二人がこの場に居ない為、
忙しい仕事の合間を縫いながら、主に紺野が質疑応答しているが、
矢継ぎ早かつ、時に鋭い質問を浴びせる矢口に、
さすがの紺野をしても戸惑い、口篭もってしまうことがしばしばであった。

アヤカにより更なる改良の加えられた保田亭は、
せんだっての巨大な鬼からも着想を逃さず、
魔刻時であれば、都の妖気を漸次的にフィードバックして行くことにより、
まだ全廃するには至っていないものの、足漕ぎ四人分の人力負担を、
半分まで軽減することに成功している。

そして、新たな特色として水周りに関する機構が設けられた。
それは化学反応と物理現象を巧みに用い、
蒸留から真水への生成を効率良く行う装置である。
主に調理方面への新機軸であったが、実はそれ以外にも何かと重宝であり、
その分、水槽を連結した二両編成となってしまった屋台車は、
ここまでの改装を 『弐型機甲保田亭』 として現場へ再投入されている。

飯田は、優れた画才を生かし保田亭の外観を写し取っているはずであったが、
連結されたタンクの中身が水であることを知ると、小川の愛想良い勧めもあり、
いつの間にか描画そっちのけで、ひたすら水を飲み始めてしまった。

114 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/8(日) 01:35:13
取材を受けている屋台車は、れっきとした商い中である。
保田亭の四人に暇という言葉は縁遠く、応援があればさぞ有難いことであろう。

そんな関係者の面々を余所に、すっかり局外の置物と化している石川と加護は、
手持ち無沙汰に事を欠き、他の客に紛れてちゃっかり蕎麦の注文をしていた。
もっとも紛れると言ったところで、必要以上に浮きまくる形振りそのものは、
どこにも隠れ様が無いのであるが……。

際限なく水を飲み続けている飯田を、ぼんやり見つめる石川にとって、
自分達のリーダーの顔の広さには、正直頭が下がってしまうことが多々ある。
入京より安宿への仮住まいを続けていた四人であったが、程なくすると飯田は、
自身のつてをもとに旧知である前田有紀と接触、名門五木家の流れを汲む、
大酒蔵 『前田酒造』 (まえだしゅぞう) への間借りを難なく決めてしまった。

目的の二人組こそ依然見つけられないものの、そんな飯田のことを、
暗に頼っている自分がいつでもそこに居ることを石川は自覚している。

まるで奇術のような手許の水を度外視すれば、実に様になっている飯田の姿に、
小川が見とれていたよりも長く、石川はおぼろ気な瞳のまま眺め続けていた。
飯田と自分とは果たして幾許の定めを持ったつながりなのであろうか……、
何故か儚さにも似た感情が、彼女の心の片隅を不意によぎって行く。

「りかちゃん……?」

怪訝そうではあるが、恐らく自分のことなど余り心配していないであろう加護が、
石川の目の前で掌を左右に振っている。

115 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/8(日) 03:05:49
「どないしたん?」
「……うぅん、なんでもないの。ちょっと考え事してただけ」
「ふーん……、お腹空いたなぁ……」

油断すれば顔に当たりそうな手の動きに、我に返った石川が加護の方へ向くと、
本人はすぐ反対を向き、腕の上に頬を乗せながら忙しない店の少女を目で追う。
自分と然程変わらない気もするその姿、歳はいくつなのであろうか。
恐らく同年代の少女達のこちら側で、注文を待つ身の自分がどこか妙に思える。

初代保田亭は立ち食い専門であったが、弐型では店を開く際、
簡素な椅子と卓を用意するようになっていた。今日は川縁に屋台車を広げ、
屋外を意識させない珍しい布材の屋根や、ささやかな照明まで設える外観は、
異国の情緒とも微妙に違う、不思議な雅致を見せている。そう考えたなら、
どこに行っても場違いにしか映らない蒲公英の、特に矢口、石川、加護の姿は、
むしろ、この舞台装置に最も相応しい役者であるのかも知れなかった。

「矢口さん、全然飽きないんだね」
「ホンマや」

水さえあれば虜になる飯田は毎度のこととしても、矢口の動きが意外である。
質疑にあたる紺野は、あくまで仕事の合間を縫っている為、
紺野が外してしまえば一人きりにされてしまうのであるが、
止まるところを知らない探究心は、その間にも屋根の上までよじ登り、
車輪の下まで潜り込む。単なる好奇心の域をとっくに超えている彼女の行動は、
一体、何にそこまで駆り立てられているのであろうか。
矢口の細かい動きを見ていた石川と加護は、目が合うと小さく笑い合った……。

116 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/9(月) 02:06:11
「……志村様は居らんのか?」
「あぁ、お疲れだそうだ。奥で寝てなさる」

両腕に何やら抱えつつ部屋へ現れた醐狸に、川田は安堵の表情を見せている。
譜弾樂城家老、いかりや長介に頼み込まれてしまった二人は、
近頃では殿様の見張りを密かな役目としていた。
自分達の本道からは著しくかけ離れた役向きである気もしないでは無かったが、
いかりやの要請は事実上の脅しに他ならず、
かつて 『漂流者達』 を震え上がらせた強烈な 『執行力』 は、
今尚往年の威力をそのままに、結局無理矢理押し切られてしまった感が強い。

「アレはそろそろなのか」
「今ごろ川を上っておるな。そろそろこれを着けておくとよい」

醐狸は、志村に望遠鏡を召上げられてしまった前回の教訓から、
複数分の機器の準備を心掛けるようになっていたが、
そこは伊達に 『銑鉄の同志』 を仕掛けている男では無く、
長円筒の光学機は、いつの間にか風防眼鏡状の形態へと変化していた。
眼鏡の正面からは、小さな円筒が二本突き出している。
一種異様な風情でもあるが、その上で蛸と烏賊の格好をしているのであるから、
志村が起きていれば、あまりの滑稽さに手を叩いて喜んだことであろう。

「……見え加減にコツが要るぞ」
「左右に竜頭があってな、それをこう回して……」

澄み渡る譜弾樂の空は暑さも峠を越え、時に爽やかな風が吹き抜けて行く。
城窓では二人の男だけが汗だくで、装着した機械の調節に腐心していた……。

117 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/9(月) 04:44:07
「……ね、ねぇ、麻琴ちゃん」

その事態に初めて気付いたのは高橋である。
タンクの水を絡繰も顔負けに、ひたすら飲み続けている飯田は、
湯呑みの大きさが盲点であったのだが、ここまでで驚愕の量を消費していた。
動転しているのか言葉も途切れがちな高橋は、その分力強く小川の袖を掴む。

「本当だ……」
「……早く言わないと」

水槽の目盛は残り四分の一に迫ろうとしている。誰かが声を上げなければ、
尚も定常を保つ飯田は、タンクの中身を全て飲み尽くしてしまうことであろう。

「ヤダヤダ……、里沙ちゃん言って来て」
「え!? だって、麻琴ちゃんが勧めてたんだよ」

青ざめる小川から突然話を振られた新垣など、明らかに困惑の表情であった。
道理からすれば、やはり小川が言うべきなのであろうが、
彼女にしたところで、そもそも自らが勧めていた上に、水を飲む際の飯田の、
妙に幸せそうな表情を見てしまえば無下に言うのも忍びない。

「無くなっちゃうってば」
「……アタシが言って来る」

躊躇する空気の中、多少語気の強まる高橋に意表を突いて紺野が歩み出る。
このままでは小川が泣き出してしまうであろうことも容易に想像がつくだけに、
巧みな判断であったが、その足は飯田ではなく矢口の許へと向かった。

118 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/10(火) 04:44:50
「あのね、かおり! 油売ってないで仕事してよね!」

飲み水を前にした際の飯田の反応を、分からぬ矢口では無かったが、
今の自分達は取材が本分である。受け持った役割はキチンとこなして欲しい。
そんな矢口に敢えて次第を伝えた紺野の行動は賢明であった。
直接飯田へ言わずとも事は足りた訳であるが、一際涙もろい小川が、
窮地に立たされ取り乱していれば、こうも速やかな収拾は不可能であったろう。
取り合えず一安心した紺野に、しかし矢口はそれだけでは収まらなかった。

「……君達は何をしているのかな?」

ようやく届いた注文の、まさに食べ始めを突かれた形の石川と加護は、
大上段から腕を組み、口許を引き攣らせた、見上げればやけに巨大な矢口に、
口へ運んだ麺と箸の動きがピタリと止まっている。

「……あ、あの、取材に備えて体力も付けておかなくっちゃ! ……って」
「なんだよ! 真面目にやってるのはオイラだけかよ!」

石川の弁明も苦し紛れとはいえ、凍えるような吹雪を巻き起こしていた。
立腹の矢口は怒りの度合をそのままに、一旦はトーンを下げたが、
依然、麺を口に固まったままの加護を見ると、再びこめかみを動かし始める。

「ふざけるのもいい加減にしないと……」

無言のまま丸く見開かれた加護の目は、指差す方向と真直ぐに一致していた。
戯けがちの平素と比べれば、その様子は少々違うように思われる。

119 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/12(木) 03:18:46
「あさ美ちゃん……?」

硬直している紺野に気を止めたのも高橋であった。
川の先を見つめたまま、黙って身動き一つしない地蔵のような紺野の姿に、
釣られた高橋が目を細める水上の彼方には、
大きく細長い三角錐が、勝利に開いた二本指の角度でゆっくりと動いている。

「……麻琴ちゃんにはまだ言っちゃダメだよ」
「……戦闘準備?」
「うん……、始めた方がいい……よね」

戦慄の走る二人に、妙に察しの良い新垣も歩み寄って来た。
その中で小川だけが、水を諦めようやく屋台車を描き出している飯田の絵を、
チラチラと横目で覗き見ている。やはり直前まで知らせるべきではないであろう。

水面を流れるように進む三角錐は、時折わずかに浮かび上がるが、
その度に根元から青い球面が垣間見える。その形状は人型の頭部を想起させ、
だとすれば二本の三角錐は、著大な角に相違なかった。

「……かおりは気付いてる?」
「矢口さんに怒られちゃったんで、描くのに一生懸命ですよ」

異様な刻限に出現した先般の銑鉄士と違い、今回は人も賑わう白昼堂々である。
にわかに琉球時の緊張がよみがえる三人に、大きな角は突然浮上を始め、
盛大に水を撒き散らしながら陸地へ踏出す姿は、青み掛かる巨大な鬼であった。
驚いた群衆と、そして小川の声がざわめきから一気に叫声へと変わる。

120 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/12(木) 05:32:09
「キターーーーーー!!」

醐狸は歓声に合わせて身体ごと頭を全方位へグルリと一回転させた。
今にも踊り出さんばかりの反応と、余りのやかましさに、
川田は顔をしかめ、思わず耳を塞いでしまう。

「な、なぁ、醐狸。……おい、醐狸。……醐狸ってばよっ!!」
「あぁ?」

やけに嬉し気な醐狸をこちらへ向かせるには、それ以上の大声が必要であった。

「この銑鉄士には、妖気を必要とせんのか?」
「(……ウム) 正確には使ってるんだがな、
 『輪転斬』 (りんてんざん) には前回のデータが無駄なく生かされておる!
 つまり、より効率良い運用が可能になってるって訳だ。
 ♪ あ、1……2 あ、1234エンダンスエンダンスエンダンスエンダン……」

川田を置き去りに、とうとう一人で踊り出してしまった醐狸であるが、
ゴーグルの中の鬼は、水から市中へ完全に姿を現わすとそこで歩みを止めた。

「立ち止まったぞ」
「まず、肩からだな」

まるで醐狸の言葉に操られるように、銑鉄士は両肩の上方を丸く巻く、
平たく形作られた左の射出口より、三日月状の巨大な刃を打ち出す。
それは、回転しながら直線上の家屋を両断すると、再び左の肩口へ収まった。

121 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/14(土) 06:06:54
「えらく切れとるぞ」
「おぅ、バッチリよ!」

試し打ちなのであろうか、醐狸は会心の笑みを浮かべている。

『銑鉄士 輪転斬』 (せんてつし りんてんざん)。
予期せぬ鋼鐵王と刃蒲公英の出現に加え、
醐狸と川田にとってあまねく未知の相手により敗れ去った風掌操であるが、
当初目的である収集データの回収には辛うじて成功し、その諸測定値を基に、
都での稼働傾向の修正及び、一層の柔軟性を持たせた銑鉄士が輪転斬である。

川田がついて行けないほどに醐狸が狂喜したのは、
魔刻に伴う妖気の係数を、実質的に弱めたことへの不安に対し、
予想以上に軽快な動きの鬼を目の当たりにして、感情が爆発したのであろう。

輪転斬の特徴は、強烈な切断力を有するブーメラン状の大きな刃と、
立姿の巨大さを感じさせない敏速な動作性能であった。
左手が特大の団扇である風掌操が、全般的に鈍重であった感の否めない分、
輪転斬の動きは殊更素早く映る。

「今度は行けるか?」
「当然だ! この間は不覚を取ったが、この輪転斬は違うぞ!
 アイツらは取り付くことさえ出来まい」

醐狸の言葉尻は妙な自信を漂わせ、市中により深く踏み込む銑鉄の同志の、
左肩から繰り返し放たれている巨大な刃は、最早凶悪の域に達していた。

122 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/14(土) 06:22:18
「愛ちゃん、砲筒行く?」
「うん! ぶっ放しちゃう!」
「じゃ、里沙ちゃんとアタシは撤収、あと麻琴ちゃんね」

板に付いて来ているのであろうか、何処か頼もしい高橋が屋台車に乗り込むと、
紺野と新垣は慌しく保田亭の引き揚げに取り掛かる。

「麻琴ちゃんも手伝って!」
「……う、うん!」

狼藉を繰り広げる青い鬼を見上げ、狼狽から早くも涙ぐんでいる小川に、
新垣が努めて明るく声を掛けた。
実際、急いで店を畳んでいる状況は、猫の手も借りたい忙しさなのであるが、
そこにはもう一つ、とにかく小川にも身体を動かしてもらい、
泣く暇を与えないという意図も働いている。
小川の顔は、磁力に引かれているように鬼の方を向いてしまいがちであったが、
それでも二人に加わると、健気に店の撤収に精を出す。泣くな小川!

「あっ、器とお箸は食べ終わってからでいいですから!」

早晩、蕎麦を食べているのは石川と加護だけになっていた。
他の客達は既に保田亭周辺には見当たらない。
さすがの逃げ足は魔刻仕込み……、と云えばさにあらず、
魔物が跳梁していれば、一切の戸締りをして表に顔を出さない人々も、
白昼堂々の事態に、屋台車から少し離れた周囲は盛大な野次馬となっている。
誰もが、機甲保田亭の戦闘に刮目していることは言わずもがなであった。

123 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/17(火) 04:04:46
引き揚げの続く屋台車に、次第に取り残されて行く石川は、
落着いて食事も出来ないどころか、野次馬を背負っての立ち食い状態である。
尋常では無い含羞なのであるが、加護に至っては逆になぜか嬉しそうであった。
仕舞いにはギャラリーに向け、遊芸の真似事まで披露して見せる始末である。
アンタは大物というべきか、何というべきか、……何物なのであろうか?

「ここじゃイヤ!」
「ちょっと、何言っちゃってるのさ!」

銑鉄士の出現にも、黙々と描き続けている飯田の許へ駆け寄った矢口は、
尚も描く手を休めない飯田との間に、思わぬ険悪な空気を漂よわせ始めていた。

「かおりはここで変身なんてイヤなの!」
「なんでだよ! だって、アイツもう陸に上がっちゃってるんだよ!」

自分の方へ顔を向けない飯田に、輪転斬を指さす矢口の語気が激しくなる。
飯田の鋼鐵王への変身は、自身の十分な水分補給、モチベーションの維持、
そして、矢口、石川、加護の三人が鋼鐵帯をかざすことにより成立した。
それ以外の条件としては、魔刻の影響など一切無縁であるが、……と言うより、
そもそも琉球時には、そのような面妖な事柄自体が存在していない。
その一方で時機に厳しい制限があり、一度鋼鐵王となれば次回の変身まで、
最低でも中一週間の時間を置く必要があった。

いつでも自由に変身が利く訳では無く、
本人の意志、並びに他三人の誰がその場に欠けていても変身は不可能、
更に鋼鐵王の活動時間は約二分間……、列挙を始めれば煩瑣にきりがないが、
ここは彼女達が頼みである、ネガティブな念慮は閉じておこう。

124 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/17(火) 22:35:45
時機的に見れば、前回の銑鉄士から一週間などとうに経過していた。
エネルギーである水も、今しがたまでさんざん飲んでいる。
飯田のモチベーション低下による変身拒否であるとすれば、
それは水を諫められたことに対する反攻、矢口への腹いせなのであろうか。

「暴れてるんだよ! 早くしようよ!!」
「絶対に嫌っ!!」

腕と足を一斉に、かすかに残像さえ見えるほどの激しさで、
扇状にバタつかせている矢口に譲らず、飯田の態度はあくまで頑であった。
強硬な意地のぶつかり合いに、取り持つ術の見出せない石川であるが、
自分と似た性分である飯田の心境の方が、どちらかと言えば分かる気がする。
突然の変身拒否は、水の一件も勿論含まれていようが野次馬こそ主因であろう。
雷光が直撃した際の、飛び上がり交互に動いてしまう両手足のシルエットは、
衆目の前で立ち食いをしている今の自分より数十倍も恥ずかしい。
仮にも乙女かつ繊細な飯田であれば、軽佻に人には見せたくない姿である。
苛立つ矢口の気持ちも察しながら、石川の心情は飯田により憐憫的であった。

「りかちゃん、遅いなぁ」
「……え? あ……、ちょ、ちょっと待ってよ」

石川が二人に気を取られている間に、加護はサッサと食べ終え器を下げている。
『早飯、早○○芸の内』 とは言ったものであるが、
平素でも気安く○○○と口にする加護を、石川はその度に子供だと思う。
ちなみに彼女自身は 『する』 か 『しない』 かと問われれば、
断固として 『しないよ』 と答えることであろう。この余りに意味の無い、
俗流ネタの極みはしかし、今尚連綿と続く果てしのない物語であった……。

125 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/19(木) 21:48:05
「早く撃てーーーー!!」

熱気に蒸せ返るギャラリーからは野次が飛び始めている。
好き勝手に煽ってくれるものであるが、過大な注視下の異常なテンションは、
保田亭の四人を徐々に浮き足立たせていた。

「愛ちゃん、まだ?」
「……準備完了」

幾分焦慮する三人の前に、開いた屋根から姿を現わしている砲筒は、
半分を吹き飛ばした前回の教訓故か、多分に応急処置の痕跡を残したままの、
より強固に巻き束ねられた形跡が明白に見て取れる。
先回時、照準を合わせる迄に少々手間を要していたアヤカは、
自身が運用したことによる実感を伴った上で、種々改修を施したのであろう、
目下操作中の高橋のオペレーションは改良され、平易かつ精度も上がっていた。

「行くぞーーー!」

日々、密かに 『裏返しの特訓』 を続ける高橋は、気合それ自体は良しとして、
操縦席で拳を突き上げているであろう今日の科白は何か間違っている気もする。
本来であれば、顎を突き出した小川に言わせてやりたいその台詞であったが、
最早それどころでは無くなっている小川本人のことを顧みて、
高橋が替わりを勤めたと考えるなら、それは厚情に過ぎるであろうか。
店はすっかり畳まれ、屋台車が広げる装甲の片袖を、手前に収まる三人は、
紺野と新垣で感情が抑え切れない小川をしっかりと抱きかかえている。
輪転斬の胸部より上方に申し分のない狙いを定める砲筒は、依然喧騒を続ける
後方の野次馬達の、一瞬静まり返ったタイミングを突くように火を吹いた。

126 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/19(木) 21:50:06
「キャッ!」

加護に先を越されながら、未だ食べ終わらない石川は、
悲鳴とともに思わず蕎麦汁を吹き出している。
しっかりと束ねられているはずの砲筒は、約三分の一がよもやの暴発を起こし、
四散した筒の残骸は、険悪な状態を続ける飯田と矢口の脇をかすめた。
しかし、二人は動じる所か、睨み合ったままジリジリと互いの額を近付け始め、
焦って顔を見合わせた石川と加護に、ひとまず胸を撫で下ろさせる。

「……こっち見てる!」

目標の砲火は、見事なまでの精度で横向きの輪転斬の顔面を捉えたが、
直後に動きを止めた銑鉄士は、体の向きを変えずに頭だけを保田亭へ向けた。
長い三角錐の角を生やした輪転斬は、典型的な鬼の容貌でありながら、
青い体色に光る赤い目は、どこか不機嫌、若しくは病人のようにも見える。
そして、不興な印象をより強めているのは口許から覗く小さな牙であった。
西洋の血を吸う鬼がモチーフにあるとすれば、やや悪趣味とさえ思える……。

「愛ちゃん! 連結解除するから、屋台車起動させて!」
「アントンマテ茶。アントンリブ!!」

高橋のテンションは、どこから注入された闘魂であろうか。
その台詞も、出来ることなら是非小川に言わせてやりたいところであったが、
こちらへ向けられた恐ろしげな鬼の顔に、彼女の涙はもうどうにも止まらない。
とりなす役割は新垣に一任し、紺野が屋台車と水槽車の連結を解いている間に、
身軽な動きで体を正面へ向け直した銑鉄士は、容赦の無い肩口から、
恐怖の三日月を、殊更に激しい回転を加え保田亭へ打ち出した。

127 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/20(金) 03:48:08
「キャッ!!!」

放たれた巨大な刃は、強烈な風圧を伴いながら飯田と矢口の傍をかすめ、
そのまま後方を取り巻く野次馬の中へ飛び込んで行く。
最早、吹くと云う次元では済まされない石川の器の中身は半分以上がこぼれ、
加重された風で押し戻された蕎麦汁は、彼女の顔面を洗っている……。
それでも尚、飯田と矢口に動じる気配は無い。危ないんだってばそこの二人!!

「元気があれば何でも出来る!!」

高橋が燃えている、……ことはこの際良しとして、
さすがにヒヤリとしながらも、連結を解除した機甲保田亭が発進を始める。
屋台車の速度はおおよそ徒歩と同等、機動性は見るべくも無いのであるが、
その上で前進する姿は、嗚咽を繰り返す小川をあやす、闘う山車を思わせた。

「なぁ、りかちゃん……」
「何、あいぼん?」

タンクを切離し、砲撃を交えつつ自分達から離れて行く保田亭を見送る石川に、
その袖を、一目見ただけでうずうずしている様子の加護が強く引く。
気付いてみれば、あれだけ居たはずのギャラリーが完全に霧消している……、
野次馬達の逃げ足は魔刻仕込み、その本領は遺憾無く発揮されていた。

「飯田さん! 矢口さん!」

ようやく食べ終えた汁蕎麦の、器と箸を水槽車の手前へ置いた石川は、
今や力ずくで額と額を押し合っている飯田と矢口に、一際甲高い声を掛けた。

128 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/22(日) 18:48:26
「大丈夫だから、ネ」

涙にむせぶ小川を両側からなだめ続ける新垣と紺野であったが、
いくら展開した装甲の内側に居るとはいえ、
本人達もどこまで大丈夫と感じているのかは、やや疑問の残るところである。

市中を進む保田亭の砲筒は、移動しながらの発砲が不可能であった。
適当な位置で停止しては輪転斬へ攻撃を仕掛けている。
屋台車の現状を鑑みれば、建物に紛れながら家屋越しに行う砲撃は、
能力に見合っているとも言えるが、その分大きなダメージは見込めない。

「愛ちゃん、頭狙おう、頭」
「アントンナッツ!」

小川と対照的に、感情の抑揚が少なく一段と冷静に見える紺野が低い声で促す。
何かに取り付かれてしまったような高橋は、これ以上追求しないこととして、
先回といい今回といい、どうにも頭部への攻撃を嫌う傾向が見られる銑鉄士は、
その反動こそ恐ろしいのであるが、保田亭の威力を考えた時、
少ないチャンスに懸けるという観点であれば、確かにその標的が妥当であろう。

輪転斬は、一ヶ所に留まってはいない。
屋台車を視認すれば、軽快な動きをもって次々と移動を繰り返している。
途中の家屋が障害物となった場合でも、破壊するより迂回して来るところに、
この銑鉄士の運動性能の高さが顕著に現れていた。
保田亭に掘削機能があれば、路上に造った穴に鬼を落として地中に埋める、
古都が舞台の名作 『平安京エイ……』、そんなものはこの時代に存在しない!

129 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/22(日) 18:50:26
「元気ですかーーー!」
『きゃあぁぁぁぁ!!』

それは瞬時の出来事であった。砲撃と時を同じくしての危殆に、
屋台車は盛大な土埃を上げながら、自身を巻き込むように横転する。

輪転斬の三日月をかすめながらここまで来ている保田亭は、
次の一撃を、比較的建物の開けた見晴らしの良い場所から放ち、
休むことなく打ち出される刃を通例にかわすと、一安心しようとしたその矢先、
銑鉄士は突如として左前腕から先を、屋台車目掛けて発射した。

迫り来る左腕は掌が刃になっており、寸前で停止した高橋の操縦の妙にも、
急停車に転倒してしまった保田亭は装甲を破損、追って移動不能に陥り、
身代わりで腕の命中した家屋は、見るも鮮やかに切断されている。

輪転斬が先読みしていたとしか思えない攻撃であったが、
機甲保田亭の四人にとって、予期せぬ銑鉄士の左腕は慮外の悪夢であった。

「こっち来るうぅぅぅぅ!!」

輪転斬の動きは、それまでにも増してより一層の凄まじさを発揮し、
難渋する屋台車を見て取ると、獲物を狩る獣の勢いでこちらへ駆け寄って来る。
極度に取り乱す小川を抱きかかえる新垣と紺野は、
高橋のことなど一瞬で頭の中から消失させたまま、大慌てで保田亭を離脱した。

「アントンハイセル!! コノヤローーー!!」
『愛ちゃん!!』

130 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/22(日) 18:52:26
『ハイセル』……。それは、なんと不吉な象徴であろうか……。
建物の影に身を潜め、ようやく高橋がまだ中であることを悟った紺野と新垣は、
時既に遅く、銑鉄士に抱え上げられてしまった屋台車の、
最早、成す術もない動向を、悄然と見つめるだけであった。
輪転斬は保田亭を軽々と大上段まで持ち上げると、
放り投げる方向に迷っているのか、しばらく体を左右に振っている。

「きゃあぁぁぁぁ!」

やがて家屋の密集する地点を選び、銑鉄士はおもむろに屋台車を投棄した。
小川が絶叫であった分、紺野と新垣は逆に固唾を呑んで沈黙したまま凍り付く。
ここに保田が居れば、彼女はどうすることであろうか……。

「あさ美ちゃん……」

不意に新垣が紺野の肩を揺さぶる。
スローモーションのように落下して行く保田亭の軌跡は、
忽然と薄霧のベールに包まれ、彼方から現れた真紅の巨人は、
屋台車を捕捉すると、轟く鳴動に大地を沈み込ませながら見事に着地を決めた。
ナイスキャッチ!!

「あの時の……」

自分達の味方などと言ってしまえば、おこがましさにも程が有ろうが、
見上げる紅の巨人は多少頼り無いものの、恐ろしい鬼とは一線を画している。
思わず建物の影から歩み出る三人に、保田亭を往来へ戻す為、
屈み込んだ鋼鐵王へ向けて、輪転斬は猶予を待たず三日月の刃を放った。

131 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/24(火) 08:03:08
「キャッ!」

その凶悪な回転に、石川が思わず悲鳴を上げる。
鋼鐵王の活動時間を逸しないため、先を急ぐ刃蒲公英の三人の前を、
真正面に対峙しないうちから攻撃している鬼は、何という卑怯者であろうか。

「ヨッシャ!」

しかし、矢口は当然と言わんばかりに拳を引き締めた。
三日月の直撃した鋼鐵王は、鋭い音響を伴いながら衝撃に身体を傾がせたが、
緩やかに立ち上がると、屋台車を離れ、軽く握った両拳を銑鉄士へ向け構える。
改めて正対した紅い巨人に、青い巨人は間髪を入れず今度は左の腕を放った。

「キャッ!」
「大丈夫だよ。ウチらも急がなきゃ!」

矢口の確証は、飯田との付き合いの長さがもたらす表裏なのであろうか。
直撃する左腕に、鋼鐵王は三日月の衝撃よりさらに大きく身を逸らせたが、
真紅の鎧に若干傷らしき跡が見受けられる以外、体勢は依然として崩れない。
その姿はまさに 『鋼鐵の王』。硬い……、硬過ぎる!!

素晴らしい防護力を発揮する、自身の余りの硬度に気を良くしたのであろうか、
半ば余裕を醸し出すように、鋼鐵王は胸を張り、両手の甲を腰に当てた。
輪転斬は慢心にも似た不遜な態度を見逃さず、一瞬間だけ怯むと思わせつつ、
左腕が戻るやスルスルと隙の出来た巨人に接近し、低い位置から足許を掬うと、
うつぶせに転倒した鋼鐵王の脚を自らの脚に巻き付け、
そのまま腰を落とす背中の上で、伸びた左足を脇に抱え込み、強烈に引き絞る。

132 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/27(金) 00:22:17
「拳飛ばしたらズルだろ」
「いや……、ズルとかそう言うんじゃないス……」

血が騒いでいるのであろうか、迷走を繰り返す石松は依然飛ばしていた。
譜弾樂は都とはいえ、高層の建築物が林立している時代とは訳が違う。
闘う紅、青の両巨人は、寺の境内からでもしっかりと見ることが出来た。

突如現れた鬼に、障碍さえ無ければ再び自身の制動を脅かし兼ねない吉澤を、
しかし、こちらもどうやら怒っているらしい生臭坊主の極度に天然な言動が、
結果として鎮静させることに大いに貢献している。
都の平穏を乱す者を、黙って見過ごす訳には行かないその身上にとって、
実際、刻限が平時のままでは、逸る気持ちの彼女に変身は不可能であった。

吉澤が鏡の姿へその身を変えることは、条件さえ揃えば連日でも可能である。
その為には、魔刻の最中であること、及び自身を映し出す鏡面体を必要とした。
鏡面に関して言えば、極端な話水溜りでも構わず、映し身が適うのであれば、
鏡風姿は鏡中から鏡中への移動能力さえ有するが、
変身間隔が詰まれば、その分持てる力が漸減して行くという弱点も併せ持つ。

土性骨を訪れる際の彼女は、わざわざ山道を登ってなど来ない。
寺の裏手には古びた池が有り、いつでも鏡の姿で現れることを常としていたが、
魔刻を外している今の時分に、そのさかしまは適わず、
いつしか自分より遥かに熱気を帯びている石松を傍らに、
吉澤はそのまま土性骨へ足止めを食らっている。

休養は十分、減量の結果にさえ目を瞑れば、準備は万端であるだけに、
ひたすら見守るしか術の無い闘いの行方は、もどかしさも一入であろう。

133 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/27(金) 00:24:22
「倒れてるのに、脚なんか組んだら反則だろ」
「……もういいッス」

拳にこだわる男、森の石松。天然と言うなら未開、未開と言うより、
原始人である彼に言わせれば、問答無用にルール違反の鬼の行動も、
吉澤に言わせれば、坊主の頭の中身こそ問答無用であった。
これで二度目の遭遇となる、あの真紅の巨人は一体何者なのであろうか。
鮮やかな登場と凄まじい硬さには目を見張ったが、その後がどうにも戴けない。

見事に決められている脚技は、後世で言えばさしずめ 『蠍固め』 であろうか。
鋼鐵王にとって急転を襲う激痛は、すべからく災いに等しい。
掌が空を掴む白銀の仮面は、表情こそ動きはしないものの苦悶は確実であろう。

両腕で懸命に大地を叩く巨人の呻吟は、しかし、誰にも言葉を伝えられない。
刃を難無く弾き返し、思わず欣快に浸ってしまった自身の防護力に、
一瞬の油断がとんだ事態を招いてしまった。
銑鉄士のここまでの素早さは予見出来なかったにせよ……、
何やってるんだ鋼鐵王!!

「分かった! 喧嘩だな。……よし、俺が許す!」

石松は、黄色い果実を数本、一気に掌中にもぎ取った。
この和尚は果たして自分と同じ光景を見て言っているのであろうか?
最早、突っ込む以前に自らの頭の中に疑いを向けてしまう吉澤であったが、
彼方で繰り広げられている闘いに、その心情は真紅の巨人を応援している。
そして、石松の場合本気で間違えたまま青い鬼を応援している可能性もある為、
その時は顎下に一撃お見舞いしてやろうと、彼女は密かに拳に力を込めた。

134 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/9/30(月) 01:14:39
「まずいね、取り付けないや」

打ち掛けられる三人の鋼鐵帯に、輪転斬は容易に隙を見せない。
なるほど、醐狸が誇らしげに語っていた通り、
銑鉄士は、予め刃蒲公英の動きを想定し対策を施しているのであろう。
加えて、三人の行く手は、苦悶し顛倒する鋼鐵王の激しい上体の動きが、
輪転斬に輪を掛けて阻んでおり、矢口の口許からは思わず焦りの色がこぼれた。

「飯田さん……」

飯田の激痛に共鳴しているように、にわかに涙ぐんでいる石川を前に、
鋼鐵王の胸元を彩る鮮やかな青い光彩は刻一刻と消灯を続け、
残すところ、あと半分に差し掛かろうとしている。
苦痛を堪える鋼鐵王の、それが解放までのカウントダウンであるとするなら、
飯田にとっては、最早、自ら進んで消してしまいたい光なのかも知れない。

「りかちゃん、泣いてたらアカン!」
「キャッ!」
「みんな、散って! とにかく誰かがアイツに取り付こう」

加護に叱咤され、唇を真一文字に結んだ石川に、激甚な風圧が刃蒲公英を襲う。
銑鉄士は頭部だけを全方位に回転させ、三人を哨戒していた。
空を切り、打ち出される三日月は、依然街を破壊し続けていたが、
その狙いは建物というより、今や明確に自分達に向けられている。
咄嗟に散開したものの、間合いを仕損じて輪転斬の正面に出てしまえば、
左腕が飛んで来ることもまた明白であるだけに、
取り急ぎ瓦礫の中に紛れる形で、刃蒲公英は銘々が一心に展開した。

135 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/1(火) 00:48:06
「愛ちゃん!」

鋼鐵王により辛うじて難を逃れた保田亭の中で、高橋は気を失っている。
屋台車の操縦席内は乱雑を極め、高橋本人も裏返しとなっていたが、
もともと舞踊をたしなむほどの身体の柔軟性が奏功しているのか、
幸い、どこにも怪我を負っている様子が見られないことは何よりであろう。

「どう?」
「……ダメみたい」

高橋の無事を確認してからは、ひたすら保田亭の操作を試みる紺野であるが、
覗き込む新垣に面を上げた目は、急迫の色を見せないものの決して芳しくない。
屋台車はどうやら作動不能に陥っており、全く身動きが取れなくなっていた。

「……どうしよう?」
「里沙ちゃんはアヤカさんの所へお願い。アタシはもう少しやってみるから」

誰もが認める大食い少女紺野は、その実、稀に見る利発な娘である。
トラブルに見舞われている保田亭も、あと少しのところで何とか動かせそうな、
微かな期待が随所で膨らんでは凋むが、やはり最後は堅果堂が頼みであった。

「麻琴ちゃん、行こう!」

二人のやりとりの前に、涙を流しているばかりの小川の手を新垣が強く握る。
嗚咽の収まらない小川は、その手を握り返し、涙を拭うと小さく頷いた。
自分達の危機を救ってくれた真紅の巨人は、物言わぬ大苦戦の真只中である。
強まる脚の絞られ具合を見るにつけ、堅果堂へ急ぐ気持ちは一層逸った。

136 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/3(木) 23:05:22
「のの、ウチらの敵はどっちだべ?」
「あお〜!」
「ウチらの術は何を使うサ?」
「ひゃっか〜ん!」
「狙いはどこだべ?」
「あったま〜!」

平素であれば、その思惟の長さが往々にして周囲の間を崩壊させる辻であるが、
安倍との掛け合いはやけに要領が良く、スムーズな応酬を見せている。

黒い装束に身を包む二人は、各々赤と青のマフラーをなびかせ、
組合う巨人達から少し離れた高みである櫓の上より、その光景を眺めていた。
……櫓は彼女達の重みに耐え切れるのであろうか?
まともに佇んでいる安倍と辻は、何の気無しに現れていれば、
忍にあるまじき、すこぶる目立つであろう所在も、
論外に付す眼下の展開故か、その陰に隠れ不可解な程周囲と融合している。

狼藉を尽くす鬼の所業は、最早迷惑などという生易しいレベルを遥かに超え、
専横な脅威となっていることは、陽炎忍者である二人にとっても例外ではない。
騒動の拡大に伴い、安倍と辻は装いを仮姿の菓子売りからあっさり本来へ戻し、
その際に飴玉を口に放り込むことも、決して忘れることは無かった。
共に大玉を三個から四個、強引に頬張っていたことは中澤には内緒である。

例えば、現況に遭遇しているのが、その中澤であったとすれば、
あくまで任の本分をわきまえた上で、自らが矢面に立とうとはしないであろう。
仮に闘うこととなったにせよ、直接勝負は可能な限り回避すると思われるが、
この二人の場合は、そもそも基本のスタンス自体に相違が有る物と感じられる。

137 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/3(木) 23:58:53
「したら、なっちから行くっしょ!」

赤陽 (あかかげ) ・ 安倍なつみは、目の周りに赤い仮面など着けはしない。
全陽炎忍者には共通の仕様であるが、
彼女達は有事となれば、鼻までを覆う伸縮自在の所謂マスクを着用し、
目から上、頭髪までは露出させることを通常のスタイルとしている。

もちろん、髪は常にタイトに纏めており、頭全体をマフラーで包むなら、
従来の忍装束としても十二分に通用するのであるが、
身軽な上、少々の火災程度であれば煙中でも軽快に活動可能なこの井出達は、
慎重な中澤でさえ、特に躊躇すること無く標準としていた。
或いは、陽炎流の中においては個人の好みの次元となっているとも言えよう。

「ののも続くべ 『百貫』! オバンビ〜!」
「へぃ!」

勢いを付け飛び出す安倍は、銑鉄士の頭を狙うにしては明かに高度が足りない。
『百貫術』 (ひゃっかんじゅつ)。
陽炎流忍群伝来の体術を基本とした技であり、彼女達が三人で行動していれば、
凧の使い手である中澤との連係により、高々度から繰り出されるこの術は、
一目では道化な安倍と辻の外見に反して、恐ろしい威力を発揮した。

特に、二人の用いる百貫術は激突する瞬間に、体当たり時の衝撃を、
掌の面積当たり、百二十貫を超えるまで一気に増大させる。
さらに、これが安倍 ・ 辻同時攻撃の合わせ技となった場合、
その破壊力は相乗して三百貫以上にも膨れ上がろうというのであるから、
そこまですれば、銑鉄士の三日月をも遥に凌ぐ凶器とさえ言えるかも知れない。

138 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/10(木) 04:45:10
「なっち鰻は苦手っしょおぉぉぉ!」

何やら個人的な主張を叫びつつ、険しい表情で輪転斬へ突撃する安倍は、
鋼鐵王の頭を踏み台にすることで足りない分の高度を補うと、銑鉄士の背中へ、
爆裂な父君的に体当たりを敢行する。輪転斬の身体は大きく前方に傾ぐが、
同時に鋼鐵王の顔面も、踏まれた拍子に激しく地面に叩き付けられてしまった。
始めからそのつもりであったとすれば、ひどい……。

続く辻は、前屈したことにより今度こそ低くなった銑鉄士の頭部を目掛け、
尻から術を行使するが、ゆっくり上体を復元する輪転斬の起き上がりに遭い、
鬼の側頭部やや上方に横殴りに激突、予想外の命中箇所に集中した荷重は、
銑鉄士の首の根元を三分の一以上裂き、首の皮で繋がるに見紛う状態とした。
そして、打ち返される形の辻は、こちらも上体を復元中の鋼鐵王の後頭部に、
またしても尻から痛烈な一打を浴びせ、ライナー性の当りで後方へ抜けて行く。
おかげで、鋼鐵王は再び顔を大地に強打してしまった。ひど過ぎる……。

更に安倍は三度目の一撃を、赤子並に不安定となる輪転斬の頭部に畳み掛け、
まるで疑問に小首を傾げていた鬼の頭と胴は、遂に首の根元で完全に折られた。
倒れた頭を肩の上に乗せる銑鉄士の裂けた首許は、今や空しく口を開けている。

「シタッケネ〜!」
「つぃひめらっふんら!」

安倍と辻は終了を宣言するように、銘々が再応に個人的な声明を残しながら、
嵐とともに去って行く。後は刃蒲公英に任せたということであろうか。
突然に立ち上がる輪転斬は、にわかに変調の兆しを見せ始め、
ようやく脚技から解放された鋼鐵王は、うつ伏せのまま時間切れで消滅した。

139 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/10(木) 04:47:10
「なあ、醐狸よ……」
「なんじゃ、川田よ……」
「あれは何者だ?」
「分からん……、こっちが聞きたい……」
「刃蒲公英 (アイツ等) じゃ無いよな」
「そうだな……」

大仰かつ滑稽な光学機器を顔面に装着した二人は、
城窓から眺め続ける思わぬ展開に、半ば放心した様子で立ち尽くしている。
刃蒲公英対策は、銑鉄士に組込まれたパターンが確かに有効に機能していた。
三人への攻撃は、鋼鐵王を撃退した後に改めて本腰を入れる手筈であったが、
再び謎の応戦に、肝心の輪転斬が首を折られてしまうなど予想外も甚だしい。

「同志が立ち上がったが……」
「頭をやられた……、制御が狂い出しておる……」

醐狸の眉間は、微動だにしない身体に代わり、徐々に情けなく歪み始めていた。
銑鉄士はすべからく自律制御であるが故、遠隔操縦は望むべくもない。
邪魔者さえ居なければ、万事が自動的に活動を遂行する 『銑鉄の同志』 に、
しかし、この邪魔立ての多さは一体何事であろうか。
二人にしても、さすがに何らかの方策の必要性を感じたことかも知れない。

「……踊っている訳だが」
「アイツ等め、取り付きおったか……」

不安定に置かれた首をまるで顧みず、輪転斬は妙な動作を繰り返している。
舞踊のようにも見えるその動きは、見つめる醐狸と川田の風体にも匹敵した。

140 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/12(土) 01:58:03
「加護ちゃん、まだまだ行くよ!」
「おやびん、ガッテンだぃ!」

平易な入口となった銑鉄士の首跡より侵入し、鼠術を行使する矢口と加護は、
鬼の内部を破壊しながら、巨大な絡繰の更に奥へと進む。
輪転斬の内側も、先の風掌操に劣らず奇怪な機構で埋め尽くされていた。
首を折られ左方に倒れている銑鉄士の頭部は、水平に小首を傾げていたが、
中に入り込んだ二人の活動が深まるにつれ、胴体以下の動きは狂った舞となり、
千切れんばかりに振られる頭部は、今や、正に首の皮一枚で繋がれている。

「飯田さん……」

変身の解けた飯田は、身体をやや横倒しに、脚を庇うように倒れていた。
痛々しいその姿に、石川は溢れる涙も拭わず、ひたすらタンク車を目指す。
昂る自身の気持ちによるものか、或いは背負う飯田の上背故か、
幾度もよろけてしまう石川は、その度に歯を食いしばり懸命に転倒をこらえた。

後頭部を踏み台にされた際の鋼鐵王の様子は、確かに滑稽の極致であり、
その場面だけが甦れば、不謹慎に込み上げてしまう笑いに度々困惑もするが、
見方を変えれば、蔑ろにされているとさえ感じられてしまうあの時の鋼鐵王に、
石川は遺憾の意を抑えることが出来ない。……余りに悔しいではないか。
それが、概して飯田を軽んじているとすれば、余りに悲しいではないか!!

笑いの混ざる複雑な嗚咽を繰り返し、ようやく水槽車にたどり着いた石川より、
倒れ掛るように蛇口へ促された飯田は、律儀なほど機械的に水を補給し始める。
絡繰さながらの動きを見せる飯田は、まだ抜け殻のままであったが、
その背中に額を当てる石川は、収まらぬ口惜しさに声を殺して泣き続けた。

141 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/12(土) 02:00:03
「……加護ちゃん、刃だよ刃!」

複雑な立体迷路中の矢口と加護は、途中、全身が抜けるスペースに出くわすと、
さすがに疲れたか迷わず這い出し、鼠術を解く身体は久方振りに腰を落着ける。
胡座を組み見上げる矢口の目前には、どこかで見覚えのある巨大な三日月が、
不気味な黒光りを湛え、堂々と鎮座していた。

錯雑な内部をさんざん動き回っている為か、方向感覚の怪しい矢口であったが、
どうやら現在は、左肩の下近辺に到達しているらしい。
斜め上方に佇むのは、市中に狼藉を働いていたブーメラン本体である。
二人は、しばし絶句していたが、恐らく深くは考えていないであろう加護が、
槍形態の鋼鐵帯を、何気なく付近の機構へ、突つき上げるように差し込んだ。

「三日月、発射〜〜!」
「打っちゃうのかよ!」
『……うわ、わ、……わああぁぁぁぁぁぁ!!』

すかさず突っ込む矢口であったが、余計なスイッチを刺激したのであろうか、
突然の作動に驚く二人を尻目に、緩慢な間を挟んだブーメランは、
鼓膜をつんざく高音を発しながら衝撃波を放ち、大回転で打ち出されて行く。
矢口と加護は耳を塞いだまま、しばらくその場から動けなくなってしまった。

肩口から射出された巨大な刃は、発射の際に輪転斬の長い角を二本とも切断し、
狙いを持たずに飛び回っていたが、やがて本来帰るべき場所とは明らかに違う、
銑鉄士の腹部に旋回しながら突き刺さると、背中までを貫きピタリと停止する。
青い顔に光る赤い目が、つとに等しく哀れの具現と化している自身の姿に、
狂気の舞を忽然と収めた輪転斬は、今度は辺り構わず猛然と駆け回り始めた。

142 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/14(月) 23:48:53
「う……ん……、あさ美ちゃん?」
「良かった、気が付いた?」

際どいながらも事無きを得た高橋の表情は、拍子抜けするほどに尋常である。
黙々と操作を試し続ける紺野に、屋台車は一向に変化の兆候を見せていない。

「ここは……、何処?」
「何処って……、鬼に投げられちゃったんだよ」
『(……!)』

会話の刹那に窓の外を見た二人は、銑鉄士の姿に言葉を失い顔を見合わせる。
輪転斬は根元から首が折れている上、際限無く出鱈目に走り回っていた。

「動かないの?」
「うん、さっきからやってるんだけど……」
「……あ、あさ美ちゃん、こ、こっち来る! こっちに走って来る!」
「えっ!? ……ダメだ、諦めよう、アヤカさんに悪いけど降り……」
「……あさ美ちゃん?」
「……愛ちゃん、そっち側開く?」
「……開かない!!」

銑鉄士の両掌は真っ直ぐに伸び、何らかの競技のようにこちらへ駆けて来る。
こんな時にドアの開閉まで故障してしまうなど、紺野にも青天の霹靂であろう。
いつしか進路を一直線に保田亭へ向け、激しく迫っている輪転斬は、
首から上を背中の側へ完全に垂らしており、正面となる二人の側から見れば、
不気味な首無しの八頭身が、土煙を上げながら全力疾走している。
絡繰とはいえ、人像 (ひとがた) を採る以上、気味悪い印象は殊更に際立った。

143 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/16(水) 23:58:04
「あさ美ちゃん!!」

パニックに陥る高橋は、どこまでも体当たりに相応する勢いで紺野に抱き付く。
その途端、しばし無言であった紺野がダッシュボードへ正拳を放った。

「あっ?」

自分でも意外であったのか、紺野は小さく驚き、高橋は目を丸くしている。
唐突に披露された紺野の武術にも驚く高橋であるが、それ以上に驚いたことは、
屋台車がにわかに始動したらしい……。

「……本当に動く?」
「どうだろう……」
『(!) きゃあぁぁぁぁぁ!!』

保田亭は訝る二人の胸中を捨て置き、突然の急発進から鬼を目掛け飛出した。
当惑の暴走にも辟易するが、次々に起こる一驚の事態は心臓に悪過ぎる。

「そ、そっち行ったら!?」
「……ダメ! 方向が変えられない!!」
『ぶつかるうぅぅぅぅぅ!!』

紺野も叫んでいた。制御の利かぬ屋台車は、挑むように銑鉄士へ突き進み、
狭い車内で抱き合う二人に、残された術は悲鳴のみと思われたその瞬間、
輪転斬と真向から激突した保田亭は、鬼の足許を掬いそのまま走り抜けて行く。
つまづき宙を舞う銑鉄士は、往来に砂塵を巻き上げながらうつ伏せに倒れ込み、
一旦停止したが、小閑の後に再起動すると、次は手足を蛙泳状に動かし始めた。

144 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/24(木) 03:58:07
「ヤッホ〜イ!」

錯乱をきたしたアルゴリズムがループしているのであろう、
壊れた挙動を反復する輪転斬から、ここぞとばかりに背面を突き破り、
矢口が鬼退治の主人公よろしく、ばねで弾かれたように直上へ飛び出す。

三日月発射のショックから立ち直ろうとした矢先、自身の腹を貫く銑鉄士の、
突き通る刃による内部破壊で、脱出不能に陥ってしまった矢口と加護は、
鬼が前のめりに転倒し、自壊箇所の損壊を著しく拡大させたことにより、
埋もれていた輪転斬体内の瓦礫の山からようやく解放された。

肉薄した三日月は極めて険呑な様相を見せ、あと少し当たり所を間違えれば、
二人のどちらかは既にこの世の人間では無くなっていたことであろう。

「……加護ちゃん?」

どうにか自由の身となった矢口であるが、いつまで待っても加護が現れない。
銑鉄士はその場から一向に進まず、移動に全く貢献していない手足の動きは、
辺りへ混濁させた不気味と滑稽、そして哀れさの光景を放出している。

「……加護おぉぉぉ!!」
「お、おやびん……」

巨大なブーメラン越しに、無残に取り散らかる鬼の内側を窺っていた矢口は、
積み重なる屑鉄の向こうに、かろうじて体を動かしている加護を発見した。
一目しただけでは外傷こそ認められないものの、ひどく弱まって映る姿に、
大慌てで、再度輪転斬へ踏み込んだ矢口は、その全身を強引に引きずり出す。

145 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/24(木) 04:00:09
潤んだ瞳の中に、上手く言葉を出せない加護の視線は彼方を朦朧としていた。
一人では力無くへたり込んでしまう身体を強く抱きしめた矢口は、
着衣の汚れを優しくはたいてやりながら、感情が一挙に去来したのであろうか、
まるで保護者と見紛うばかりに、こちらもいつの間にか両眼を潤ませている。
うつろな加護はしかし、矢口と目が合うとようやく小さな笑みを見せた。

「……えらいことになっちゃったね、よし! 一旦ここから離れよう」

加護は無言で頷き、ほぼ全面的に矢口に支えられる形で銑鉄士を後にする。
その間も衰えず泳ぎ続けている輪転斬に、鋼鐵王との余りの燃費の違いを、
歴然と見せつけられた矢口は、その脅威的なスタミナだけは感心してしまった。

「まだ暴走してる」
「あの人達が中に入って暴れていたのでしょう」

壊れた銑鉄士を陰から見つめる藤本と石井も、現場でこの騒擾に直面している。
血気に逸ろうとする藤本を、石井が冷静になだめているという感が強かったが、
確かに、この二人が闘いに加勢する義理などどこにも無いであろうどころか、
そもそも本分は別に有るとするならば、石井の態度こそ正鵠を射ていよう。

「……あのまま放置?」
「破壊してしまいましょう」
「(わっ!? 石井ちゃん、やっぱり怒ってる……)」

公儀隠密である二人は、支給されている公費により活動資金には余裕がある。
鬼の出現で都がパニックに陥るまで、石井と藤本は茶店に甘味と洒落ていた。
刃蒲公英などから見れば優雅なことこの上なく、全く羨ましい限りであろう。

146 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/24(木) 04:02:05
「食べ始めたばかりでしたしね」
「(うわぁ、石井ちゃん怖〜い……)」

その折角の甘味を、暴れ回る輪転斬に台無しにされてしまったのである。
特に石井はまだほとんど手を付けていなかった分、つらむ恨みは恐ろしい。

トーンこそ素っ気の無い石井も、かつては今の姿が信じられないほど、
無闇に弾けていたそうであるらしいが、今一つ実感の湧かない藤本である。
前後の事情さえ考慮すれば、それは予想通りの発言とも取れなくは無かったが、
努めて静かな口調のまま、あっさり止めを刺そうなどとのたまう石井の、
余りに際立つコントラストの差は、やはり怖いと藤本には感じられた。

「準備しましょう」
「……えっ!? う、うん」

二人は刃蒲公英と入れ替わりに銑鉄士に取り付くと、その巨大な背面上に、
どこに隠していたのであろうか、何やら重く物騒な筒を大量に取り出し始める。

「……ねぇ、石井ちゃん、これって一体何者なのかしら?
 それにさっきの人達とか、他にも鬼と戦っている人達、この都だって……」
「それを調べるのが私達のお仕事ですよ。
 それじゃ、美貴ちゃんは上の方に仕掛けて下さいね」

石井はより複雑に込み入る輪転斬の下半身へ、臆することなく侵入して行く。
『超流体足袋』 の裏付けが、確信として行動に反映されているのであろう。
石井を目で追っていた藤本は、その姿が見えなくなると、
気を取り直すように深呼吸をして、自らも鬼の上半身へ消え入った。

147 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/25(金) 05:18:07
「お〜い、りかちゃ〜ん! こっちもお願〜い!」

重い足取りの加護を連れ、保田亭の水槽車まで立ち返る矢口の前では、
タンクの中身をあらかた飲み干し、なんとか落着きを取り戻した飯田が、
地べたに腰を下ろし、苦闘の痕跡である脚を投げ出した格好のまま、
泣き疲れ、まぶたを腫らした石川の頭をしきりに撫でている。

「……あいぼんもダメージ?」
「ちょっとだけね……」

言葉にならない石川を軽く抱き寄せながら、代わりに受け答える飯田に、
言葉にならない加護を抱える矢口は、多少言葉を濁した。

「……りかちゃんは大丈夫なんでしょ?」
「うん、かおりのことで心配させちゃったみたい」
「じゃぁ、加護ちゃんもかおりにお願い。オイラはもう一回行って来るから」
「行って来るって、……なんで? もう片付いたんじゃないの?」
「詳しいことは後で話すけど、止めがまだなんだ」
『(!)』

加護を飯田に預け、狂った銑鉄士の許へ戻ろうと踵を返した矢口の鼻先を、
怒濤の如くいきなり押し寄せた凄まじい爆風が、執拗に撫でまわして行く。

「ウヘェ〜、何だよ、……勝手に爆発しちゃったのかな?」

輪転斬の最期に至る経緯は、刃蒲公英の四人にも知る由のないことであったが、
見届けるまでは終わった気のしない矢口は畢竟、鬼へ向け引き返して行った。

148 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/25(金) 05:20:36
「ファ、ファイナル・シーサー……」
「……あ〜〜っ! 何者じゃっ! 誰が我らの邪魔をするっ!」

爆発を確認した二人の言葉は激昂していたが、身体は硬直したまま動かない。
しかし、麻痺しているも同様の全身に抗しているのか、醐狸と川田の顔だけは、
忙しなく動き続けており、その表情は怒りと失望で情けなく歪んでいた。

序盤から中盤までは順調であった。むしろ圧倒的とさえ言えたかも知れない。
琉球では散々なまでに辛酸を嘗めさせられた刃蒲公英をここでついに撃破、
あわよくば、一気に都までも制圧してしまう腹積もりであった二人に、
銑鉄士の終局が壊れた道化とは阻喪である。苦渋が脳裏を巡る醐狸と川田は、
急に目眩を覚えると、そのまま呆然と立ち尽くしてしまった。

「なんじゃ? おまえ達揃っておったのか」

二人のいつもの風体を前に、昼寝明けから突如現れては俄然浮き立つ志村の、
休養の成果を誇示するかに見えるその動きはいつにも増して軽快である。
そして、醐狸の顔面に見慣れぬ機器を見つけると一層心躍らせた様子であった。

「のう、その機械……」

触りたくて焦燥している殿様に、しかし醐狸も川田も身じろぎ一つしない。
志村は微動だにしない醐狸のゴーグルを取ろうと、眼前にそっと手を伸ばした。

「♪ ア〜、アイヤイヤイヤ……」

突然踊り出す二人組に、どうやら待ち構えていた節も感じられる殿様は、
両手に扇を広げ、『アイ〜ン』 と叫びながら自身も負けじと踊り始めた……。

149 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/30(水) 22:40:03
「こんにちは」
「よう来たな、調子はどないや?」
「おかげさまで」

黒ひげを訪れる柴田に、一目して変わった様子は見られない。
彼女本人にしたところで、現状で身体に具合の悪い箇所など思い当たらず、
普通に元気であると言ってしまえば、それで事足りる話ではあったが、
その上でわざわざ稲葉の診療所まで出向いたのは平家に促されてのことであり、
最低月に一度の定例、強いて好意的に捉えての儀礼であるとも言えよう。

「堅果堂には寄って来たん?」
「えぇ、ここに来る前に」
「さよか……、また近いうちにやるつもりなんやな」
「信田さんがそろそろだろうって」

どこか表情の冴えない黒ひげとは対照的に、小洒落た手拭いを小さく畳み、
口許に当てている柴田の声は妙に涼しく、まるで他人事に響いた。

「なぁ、アンタが来る度にいつも思うねんけどな……、
 ホンマにそれでええのん? みっちゃんに乗せられてるだけちゃうんか?」
「……先生には本当に感謝してるんですよ」

唐突になじられてしまった柴田の表情に、殊更な変化は見られなかったが、
透徹している訳でも無いのであろうか、その顔には一瞬の影がよぎる。
急な稲葉の変調に、彼女もすぐに話の成り行きを描出したのであろう、
この局面を転換するように、急いで捲り上げられる長い袖から現れた右腕は、
生身の腕とは似ても似付かない、武骨な人造の腕であった。

150 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/30(水) 22:44:38
「……柴田さん!」

柴田の所在に気付いた松浦が、花に誘われた蝶を思わせる可憐さで、
奥からいつの間にやら笑顔だけをこちらへ覗かせている。
気まずくなりかけのタイミングで、絶妙の間をもって出現したその顔貌に、
何やら助けられた気もする柴田は、そんな彼女に静かな笑みを返すと、
二人はしばらく微笑を交わしていたが、やがて松浦は静かに元へ消え入った。
柴田に大層な親しみを覚えている松浦であったが、今はその許へやって来ない。

「……先生」
「あん? ……あぁ、松浦は今アレやさかい、こっちには来いひんよ」

当の二人の間にも、いつしか一応の笑みが浮かべられていた。
勿論わだかまりはそのままであるが、今更蒸し返すにも気が逸れたのであろう、
柴田と黒ひげは始めから何事も無かったように、淡々と診察を開始する。
しかし、対する柴田の左側に目をやるたびに、稲葉の胸懐は幾度でも痛んだ。

柴田あゆみの身体において、人造の部位はその右腕だけに止まっていない。
彼女は実に、肩から下にかけて右半身の総てが機械化されており、
時代を余所にした言い方をすれば、まさに 『サイボーグ』 であった。
そして、別途機能附加された右腕には、アーク放電から発生させた熱プラズマを、
高出力で前腕部に集束させることにより一気に対象を焼き切る、
『円弧光端』 (えんここうは : アークエンド) なる絡繰までもが施されている。

黒ひげを訪れる柴田の診断とは、残された生体部のコンディショニングであり、
堅果堂でのチェックはそれに対を成す、機械部のメンテナンスであった。
彼女の袖が常に異様に長いのは、右腕を偽装するためのフェイクに他ならない。

151 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/10/30(水) 22:47:37
「万屋の方はあんじょう行けてるん?」
「えぇ、こっちのことは気にしなくていいからって言ってくれるんですよ」

柴田は、村田めぐみ、大谷雅恵、斉藤瞳と協同で、
『万屋 甜瓜庵』 (よろづや てんかあん) を営んでいた。
ちなみに甜瓜とは、海を渡る本多ルルより、別れの際に彼女達へ贈られた、
一種の真桑瓜であるが、その香りと味にすっかり魅了されてしまった四人は、
以来自分達の屋号として用いており、時代が下ればメロンなどと呼ばれている。

柴田の周囲の人間は皆、彼女のことを取り分け大事にしていた。
時にはその大切が過剰に溢れ、気遣い所では済まないとさえ思えることもある。
それは、確かにありがたいことに違い無かったが、
それ故にやり場なく、やり切れなくなってしまうこともしばしばであった。

「ここはどないや? 痛いことあらへんか?」
「……ちょっとくすぐったいです」

『甜瓜庵』 の四人は、『平家の居酒屋』 でもよく目にすることが出来たが、
彼女達はそもそも独立した万屋であり、『紫式部』 専属の従業員では無い。
それでも、その機会が存外多く見受けられるのは、
平家も含めた全員が、どこかで擬似姉妹を演じているのかも知れなかった。

……そう、『甜瓜庵』 は万屋であり、その名も遅過ぎた感は否めないものの、
最近では 『平家の居酒屋』 より知られるようになりつつある現実がほろ苦い。
そして、柴田は自らを沈思する呼称、他の誰もが思っていたとしても、
決して自分に向けては口にしない呼び名……、自身の胸奥に 『改造柴田』 の
苦い四文字が浮かぶ度、彼女はその思念を塗り込めるように魂を塗抹していた。

152 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/5(火) 00:22:07
「ねぇ、最近もアンタ達のところへ来たでしょ?」

保田の問いに、アヤカとミカは取り留めもなく室内をたゆたう。
時折、絡繰同心と目が合っても、小さな笑みで受け流す一方であった。

堅果堂は鋳掛屋と称しながら、少なくとも保田の視界の内に、
おおよそ修繕品等の一片も見て取れないのは一体何故なのであろうか。
その上、接客は入用としても過度の装飾など不要であろうと思われる房内は、
海にゆかりの色とりどりの品々で飾り立てられ、まるで漂浪した異国の果てに、
図らずも辿り着いてしまった竜宮を想起させる、一種夢幻の趣に包まれている。

「月に一回とか二回、必ずここへ来てることは分かってるのよ」

深刻さなどかけらも感じさせない二人は、しかし思った以上に口が固い。
魚の骨のような貝殻を天井にかざしながら、保田は調子を荒げないように努め、
希求の情報を手繰り寄せようとする音吐は、諦めぬ眼力と共に尚も食い下がる。

「身体の方はイイんですか?」
「……まぁね、これでも修羅場は度々くぐって来てるし」

いつの間にか横に立つアヤカは、手に甘味を携え保田の為に給仕までしていた。
その姿は妙にお似合いなのであるが、いよいよ以てここは何屋なのであろうか?

「アンタ達が話したくないなら仕方無いけど、
 アタシだって召し捕ろうとか言ってるんじゃないわ。ただ、重要なことなの」
「……別に隠してる訳じゃないですよ」
「(! ……)」

153 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/5(火) 20:36:42
竟に釣られたのであろうか、ミカが何気無く発した言葉と、
一瞬ではあるが、渋く変化したアヤカの表情を保田は見逃していない。

「この都でアタシが闘ってるのは、
 単純に正義の為だけなんかじゃないってこと、
 ……頭の良いアンタ達なら薄々気付いてるでしょ」

絡繰同心はやや思わせ振りにかぶりを振る。
しかし、二人の視線が黙って自分に注がれていることを感じ取ると、
急に照れてしまった己の、間を取り持つ所作であることを悟られないように、
彼女はアヤカの用意してくれた甘味にゆっくりと手を伸ばした。

「……この前の怪我は、凄く痛かったけど天が与えてくれた機会だったわ。
 表立って動けない間に、アタシは日頃から少しずつ集めていた情報の断片を、
 ようやく組み立てる時間を持てたのよ」

口の中に急激に広がる甘さは、少々度が過ぎているとも思えたが、
押し黙る二人を釣り上げるにはあと一息であろう、保田はさらに一口を喫する。

「その中には、どうしても目に留まる存在が少なからずいてね、
 そのうちの一人、長い袖の娘は毎月ここへ顔を出している……。
 ねぇ、お願い、悪いようにしようって言ってるんじゃ無いわ、
 アタシにどんなことでもいいから教えて欲しいの」
「……う〜ん、やっぱり保田さんには話しておいた方がいいのかな?」

組んだ両掌を裏返し、胸の前へ伸ばすアヤカの目線は真っ直ぐにミカを訊ね、
頷くミカの瞳は、暗黙のうちにそうしようと語り掛けていた……。

154 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/14(木) 23:30:09
「ここが黒ひげさんの診療所?」

柴田が稲葉の許を後にしてから、いちるの刻が経過したであろうか。
入口を包むおぼろな光の向こうに、不意な顔を現わしたのは中澤であった。

「……何? 用向きは何やねん?」

行商人を思わせる装束の主は、別段具合が悪いようには見受けられず、
その上、妙に隙を感じさせないこの客人に黒ひげはやや不機嫌な調子を返す。

「みっちゃんから聞いて来てんけど、ウチに薬を分けてくれへんやろか思てな」
「……あぁ、アンタかい、『紫式部』 の居候ちゅうのは」
「居候ちゃうで、しっかり部屋代も払てるがな」

中澤、安倍、辻は、狼藉者との間に一騒動の起きたその日のうちに、
当の平家の居酒屋へ下宿を決める次第となっていた。これには柴田と村田、
殊に柴田の強い口添えが大きく影響していたが、渡りに船とはいえ、
都での活動拠点を定めぬままであった三人にとって、それが悪い話の筈は無く、
当初は難色を示した平家も、結局は柴田に折れる形で同居を承諾している。

「……健康人に売る薬、そんなんあらへん」
「ちゃうちゃう、ウチは薬売りやねんけど売る分の薬が底を尽いてもうてな、
 どっかええ調達場所無いか、みっちゃんに訊ねたらここやて。
 ……なんでもええねん、適当な薬を分けてくれると助かるんやけどな」

当たり前の顔で話を進める中澤に、稲葉は寸刻絶句した。
よりにもよって 『適当』 などとは余りに医術を舐めた言い草ではないか。

155 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/14(木) 23:32:10
「……アンタなぁ、えらい雑な言い方してくれるやないかい」
「ええやん、固いこと言わんと、
 薬代はみっちゃんとこにツケといてくれたらええから」

相変わらず仏頂面の黒ひげに、中澤はやんわりと微笑を返すが、
その表情は取り繕っているというより、不自然な余裕の上に浮かべられていた。

「(……)」

二人のやりとりに、部屋の奥方がそっと開く……。
松浦は機微に鋭敏なのであろうか、またしても気まずい空気の漂う診療室へ、
ひそかに顔を覗かせたが、稲葉の他方は見知らぬ訪問者であった。

「(!)」

黒ひげの表情などお構い無しに、中澤は尚もすました面持ちであったが、
もう少し様子を見ようと、奥の隙間が更に僅かだけ広げられた瞬間、
突如舞い踊ったその身体は天井を蹴り、瞬く間に松浦の目前まで到達する。
そして、目を見張り再び絶句している稲葉の眼前で、軽やかに着地した彼女は、
こちらも驚いてしまったのか、声も出ず微動だにしない松浦を巧みに捕捉すると、
そのままあっさり自分の両腕の中へ取り込んでしまった。

「……アンタ可愛いなぁ〜。大丈夫やで、なんも怖いことあれへん」

松浦を優しく抱きすくめる中澤の笑顔は平素のそれと特に変わらない。
来客の突飛な行動に凍り付いてしまった黒ひげであるが、
もっともな風情で松浦に接している彼女の姿を見るとひとまずは安心した。

156 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/16(土) 23:34:09
稲葉が肝を冷やす最大の要因、それは端的に松浦亜弥本人の態様である。
今現在、彼女の身体は常人のそれから大きく変貌を遂げていた。

背中から鱗翅目の羽を広げた身の丈は大人の四分の一程の大きさにして、
櫛歯状に枝分かれした細い毛をなびかせる二本の触角が頭部より伸びている。
体躯に比して大きな羽は、全体がサイケな桃色の紋様で覆い尽くされており、
その手足を綿毛状に飾り立てている井出達までを含めたトータルな印象を前に、
ハッキリ 『蛾』 と言い切ってしまえば、彼女は確実に立腹するであろう。

松浦は周期的に繭を作り、やがて羽化する小さな姿へと転化を繰り返す。
これこそが、広く世間へ知らしめることをはばかる彼女の最大の秘事であり、
黒ひげの腐心であったが、中澤はまるでお構いなしに松浦を捕まえてしまった。
彼女にとっては、単に美しい、可愛い対象を愛でるという性向の、
反射的な顕現なのであろうが、実際のところはどうなのであろうか……。

この状態に至っている松浦は、自らの姿を滅多に人前に晒さない代わりに、
生来の念動力が最大となっている。それ故、一度パワーが発動されれば、
只では収まらず、軽はずみな接触を図る中澤は極めて危険な行為であったが、
当の松浦からは彼女に対して敵意を示す兆候など微塵も感じられず、
その腕の中で、ただしおらしくしていることが稲葉には誠に意外であった。

「この娘 (こ) がこの診療所の秘密なん?
 ……柴ちゃんかて普通の身体とちゃうねんもんな」
「アンタッ!」

一気に顔付きの硬化した黒ひげが、声を荒げ鋭く中澤を睨んだ。
やはりこの客人に油断は禁物なのであろうか、稲葉の眉間が厳しく強張る。

157 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/18(月) 03:54:32
「先生! ……あらやだ、お取込中?」
「えっ!? あ、あぁ……、構へんで」

険呑な空気を余所に、診療所に再び客人が現れた。
黒ひげとは今やなじみの顔であるが、羽を持った松浦との面識は一度も無く、
また、この先も現状の松浦を彼女に会わせるつもりなど稲葉には毛頭無い。

とはいえ、メタモルフォーゼ真っ最中の松浦である。
続けざまにまた一人、彼女を晒してしまうことになるのかと慨嘆する黒ひげに、
しかし、端から予見していたとでも言いたげな中澤は新たな来客へ背を向け、
松浦を覆い隠したまま静かに奥へ消えてしまった。

「患者さん?」
「……う、うん。まぁな」

依然得体の知れない中澤の行動に、納得は行かない稲葉であったが、
どうやら松浦を見られた様子は無いらしく、黒ひげは辛うじて胸を撫で下ろす。

「あのね、郷里から届いたんだけど食べ切れないんでお裾分けしようと思って」
「なんや、いつも悪いなぁ……」

稲葉の前には、籠一杯に積まれた見事な桃が重そうに置かれている。

「……のどの調子はどないや?」
「それが、おかげさまで調子いいのよ。
 直ったらまたすぐに教室を開くから、先生も遊びに来てよね」

やけにアットホームに笑っているこの女性、……それは小湊美和であった。

158 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/24(日) 22:26:31
そもそも黒ひげの近隣へ転居して来た小湊のタイミングは、
後藤が譜弾樂の城主であるバカ殿志村けんを助けてから程無くのことである。
稲葉の許を訪れた当初の彼女の説明は、民謡の師範である自分は目下、
のどを痛め休業中の身であるが、芳しくない回復の節に黒ひげの評判を耳にし、
思い切って身体ごと診療所の近くまで移って来たというものであった。
実際、ひどく痛めたのどの状態で稲葉の前へ現れているのであるから、
諸事如何を含めた上で、小湊がやはりその道のプロであることに相違は無い。

折しも隅角を横切る後藤は、途次に期せずした彼女との再会に目を点とさせ、
咄嗟ながらも言葉を絞り出そうとしたが、それを敏に目線で制した小湊は以来、
気さくな近所付き合いというスタンスを堅持したまま診療所を行き来している。

彼女の出現がどの筋からの差し金により、またどのような意図を持つのか、
小湊自身から表出することなど有ろうはずも無いとはいえ、慮外の対顔に、
面喰らう後藤の中では志村の前で涙していたあの時の姿が余りにも鮮烈に甦り、
そのイメージに突き当たる度、たちまち放散してしまう彼女に対する思念は、
とどの詰まり、それ以上のロジカルな思量を不可能とさせていた。
もっとも後藤にとってもそこまで深く考察することの方が珍しいのであるから、
結局はいつもと何ら変わらないと確言しても差し支えは無いのであろう。

「……でね、ウチの子が言うこと聞かなくてさ」
「ここ連れて来たらええよ、灸 (やいと) のフルコースで待ってるさかいに」

小湊は譜弾樂の忍衆を束ねる立場である外に、れっきとした主婦でもある。
世間話が家庭寄りへ変移することも常日頃であったが、黒ひげは別段厭わない。
まして彼女は闇医者であり、鍼灸の心得こそおぼろでありながら、
用具等も一当たり揃えられている。……災難とすれば子供達の身であろう。

159 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/11/26(火) 05:38:40
「えらい長いこと話してたな。
 ……怖い顔するなや、ウチかて柴ちゃんを興味本意で言うてる訳や無いし」
「……当たり前や、気安い話しとちゃうねんで」

ひとしきり話し込んでいた小湊が去り、しばしの間を置くと中澤が所内へ戻る。
松浦の姿は既に無かったが、すっかりこの場に馴染んでいる様子の薬売りに、
一旦は収められていた稲葉の語調が、再び荒ぎ始めた。
松浦と奥に消えている間、中澤は二階で寝ている後藤も垣間見たのであろうか、
あるいは後藤は起きていて、面識までも持ったのであろうか。

大きな羽を生やした小さな松浦、武骨な右腕を隠し持つ半身半機械の柴田、
そして、魔刻となれば海豹に化身する後藤……、
自分が平素の世過ぎから、厄介を振り払っている彼女達を、
中澤は涼しい顔をしたまま、いとも容易く一望したつもりなのであろうか。

「アンタ、ただの薬売りちゃうんやろ?」
「そんなん、この際どうでもええねん……。
 あんな、こっから先はみっちゃん達には内緒やで。甜瓜庵とみっちゃんって、
 本業とは別に毎月何してはるの? ウチらが居酒屋で世話になる条件は、
 余計なこと詮索せえへんちゅうことやねん。……せやけど柴ちゃんはアカン。
 あのままやったらホンマにアカンことになってしまうのとちゃう?」

中澤の言葉に一転、軟化した稲葉の表情はどこか物憂げな色を浮かべていた。

「ウチの性分とちゃうねんけど、このまま他人事ちゅうのもどないやろなぁ、
 せやからその辺の事情を黒ひげ先生に……」
「……端からそのつもりでここへ来はったん?」
「なんでやねん、ウチは薬を分けてもらいに来ただけや……」

160 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/1(日) 23:52:05
「おにぎり持って来ました。……どうです?」
「何も無い。まぁ、毎度のことやね」

観音長屋の外れに甜瓜庵が髪飾りの露店を構え、既に数日が経とうとしていた。
外れと言ってもそこそこの往来に、夜店風の簡素な屋台が組まれた露店である。
陽は夕刻へ傾ぎ、長屋の斜を窺う平家の身体は置物のように微動だにしない。
店は万屋の四人と平家が折々に顔を出し、五人が一時に揃うことは無かったが、
常に複数態勢で必ず誰かしらが張り付く最中、差入れを携え合流した柴田は、
振り返らぬ平家から自分へ伸びる掌の上に、まだ温もりの残る握り飯を乗せた。

「……美味いなぁ、これ。中身は何?」
「さぁ? 安倍さんの特製です」
「ホンマ、なっちの味には頭が下がるな……」

『紫式部』 への下宿を決め、ようやく拠点の定まった形となる陽炎の三人の、
先立って福田の店にて調達した安倍と辻の手筈分である山のような量の菓子は、
『へそくり』 と称する僅かな私的確保分を除き、とうの昔に底を突いている。
それは、中澤の用意分である薬が売り尽くされるより大幅に早く、実を言えば、
入京時点で残三分の一にも満たぬ状態まで進行していた摘み食いであったが、
なんとか道中を持たせた由を鑑みて、中澤も允許としたのであろうか、
あるいは諦観という説も一部囁かれる中、彼女から取り立てて咎めは無かった。

とはいえ、譜弾樂規模の都をしても行商に通用するだけの甘味など、
そう都合良く補充の利かぬ時代である。当初こそ買付けに奔走していた二人も、
難無く薬の補填先に目星を付けた中澤とは余りに異なる勝手も手伝ってか、
次第に鈍くなるその動きは、やがて得意である料理の腕を見込まれた安倍が、
居酒屋の厨房へ出入りを始めるに至り、そのまま溶暗してしまった。
紫式部の新戦力として、今や彼女元来の調理の才は大いなる貢献を果している。

161 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/4(水) 00:16:39
しかし、ここでも中澤から苦言等が呈されることは皆無であった。
食材を前に、安倍の異様に嬉しそうな顔が殊更印象深かったことは別として、
それに伴う魔都の窺見の、辻単独への移行さえやけにすんなり運んだ次第に、
彼女の不可解を極む分別の良さは、二人にとって奇異に値しないのであろうか。

もっとも、嬉々としていた安倍は勿論のこと、いよいよ羽を伸ばす辻も、
自身の装束を菓子売りから、強引な展開が甚だ怪しい謎の狸へと変貌させ、
着ぐるみとの指摘も憚らないその姿……、狸と言い張る自称 『ののぽん』 は、
置物を模した全身から、本人の顔だけが露出しているという有様であった。
それは、どう考えても世間を甘く見ているとしか言い様の無い代物であったが、
甘味に目の無い辻の、単なる手前勝手を超越した飽くなき甘美、……延いては、
『食』 そのものへの探究へと変容を来たしているらしい窺見の中にあっては、
道化た姿こそ目的に即し、中澤の真意も遠く胸懐の外であるのかも知れない。

「元締……」
「えっ!? ……あ、あぁ、……せやな」

平家と共に露店に立つ斉藤は、当座を長屋近傍の周回に充てていたが、
程なく店へと戻った彼女は、携帯用の徳利を口許へ傾けている平家の傍らへ、
握り飯を差し出す柴田より先に歩み寄った。平家本人には半ば無意識の節も、
一際案ずる調子で咎める最近の彼女からは、時に唯の寂寥を遥かに超えた、
憂愁さえ伴う周波が感じられ、甜瓜庵の中でもとりわけ平家を慕う斉藤の、
その余りに真摯な瞳を前にしては、彼女へ返す言葉などあろうはずも無い。
紐にしだれる小さな栓をつまんだ平家は、平たい器の注ぎ口を静かに塞いだ。

「お疲れさん。……で、その後の首尾はどないや?」
「妙に片付いてるんですよね。今の裏手なら思った以上に入り易そうです」

162 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/6(金) 19:46:15
素直に応じた平家に安心したのであろう、握り飯を頬張り始めた斉藤の横で、
柴田は自身で届けた安倍特製の結びに手を付けようとはせず、そればかりか、
徐々に浮立つ。先に済んでいるなら別段不問の差入れも、気忙しく辺りを窺い、
すこぶる落ち着かない佇まいには、平家をして思わずその肩を押し止めさせた。

「……お疲れ〜〜」
「おーーーっす!」

緩やかな喧騒の彼方から揺らめく落陽を背負い、柴田あゆみが今一人、
揃えた二本の指を眉の上に軽く当て、三人の許へゆっくり足を運んで来る。
平家の手の置かれた柴田は、己の姿を確認するとようやく緊張が解けたのか、
安堵の笑みを浮かべながら、現れたもう一人の自分を親しげに迎え、
愁眉を開く彼女に、平家の掌もその厳つく硬質な肩からそっと下ろされた。

「絡繰同心、あんじょう撒けたか?」
「後はマサオくん次第ですけど……、何でウチらなんですかね?」
「……なんでやろなぁ、
 ……この都にもようやっと使える役人が現れたっちゅうこととちゃう」

黙々と食べている斉藤の傍らで、髪を振り解く二人目の柴田のシルエットは、
しかし、よく見れば身体の線が判然と細く……、それは村田めぐみであった。
腑に落ちない表情で偽装を解く彼女の口許は、歪んだまま収まらない。

堅果堂の商売は存外手広く、その内実は本業を謳う鋳掛屋より、
明らかに副業である発明品の数々に拠っていることは最早顕然としていたが、
紫式部も御多分に洩れず、店の様々な設備等をアヤカとミカに委ねている。
平家は先日、居酒屋へ出向いた二人の口から保田との一件を聞かされていた。
但し、その後の彼女から甜瓜庵の四人へは堅果堂の旨は伝えられていない。

163 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/7(土) 16:50:08
アヤカは実に屈託無く件の一部始終を説明してくれたが、
最後に強調されたのは、あくまで柴田についてのみと言うことであった。
それ以外は一切口外無しと爽やかに語る彼女に、平家からも返す言葉は無い。

堅果堂の顧客に絡繰同心が存在していることは事前に承知の上であった。
しかし、今までこちらに関心を示す素振りなど微塵も見せていなかった保田に、
気にも留めぬまま前もって口止めを怠っていた自分達が甘かったのであろうか、
あるいは時期が到来するまで、まんまと油断させられていたのであろうか……。

にわかに視界へ現れるようになった絡繰同心の姿は、目障りに相違無かったが、
どうにも解せないのは彼女の動きが、柴田一辺倒に偏っている点であった。
その気になりさえすれば、いつでも居酒屋へ踏み込めるであろうにも関わらず、
まるで、努めて厳格な間合いを保とうとでもしているかのように、
一向に押し込む気配の感じられない保田は、執拗に柴田のマークを続けている。

不気味な絡繰同心に、黙殺だけでは決着しない状況へと立たされた彼女達は、
止む無く替玉を方策として保田を翻弄し、当面は様子を窺うことで合意した。
覚悟ならいつでも出来ているが、まだ邪魔をされる訳には行かない。
そして、現時点で絡繰同心と対峙してしまう事態は全くもって本意では無い……。

『元締?』
「大丈夫やて、隠れて飲むつもりとちゃうから……」

四人も集結したまま長時間を経ては、さすがに周囲からも怪しまれるであろう。
不意を突かれリアクションに窮する斉藤の手へ、平家は人肌に温められた、
彼女の特製である徳利を預け、左右に振るう両の拳に大きな伸びを加えながら、
背中へ杞憂の視線を投げ掛けている甜瓜庵の三人を後にした……。

164 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/9(月) 21:50:42
「……って言うことは何? 撒かれちゃったって訳?」

ターゲットの柴田は、彼女の現前で突如幻惑と見紛う振舞いから分身を始め、
ぶしつけな認識を咄嗟に拒絶したのであろう、ようやく納得した頃合いには、
呟くことも時既に遅く、絡繰同心は彼女達を見失っている。
すべからくその術中に嵌っていたことを悟った保田は当初こそ立腹もしたが、
すぐさま込み上げる胸奥の内は、いつしか快哉であまねく満たされ、
哄笑を噛殺しながら歩く姿は、道行く人々にさぞ奇怪と映ったことであろう。

甜瓜庵……、取り分け柴田を集中的に追尾している絡繰同心の現下の目的は、
ひとえに、実地に勇躍する彼女達の現場への 『逢着』 であった。
『押さえる』 つもりなど無く、『遭遇』 することのみを目標としている点で、
保田が堅果堂の二人に語った内容のほどに嘘偽りは無い。
それは、絡繰同心の求める遂行の準的に、可否無く必須とする事柄であった。

「あなごを一串頂戴」

口許を覆い隠した保田の、絡繰同心の名は譜弾樂に轟く指折りの高名である。
今更取り繕ったところで、然程の違いは無いようにも思われるが、
天麩羅をあがなう屋台の少女からは、これと言った反応は返って来ない。
保田亭の四人は、こんな自分をどんな目で見ているのであろうか。
故意とは相違なるが、ともすれば近頃疎隔気味の彼女達を瞼の裏に浮かべると、
保田の胸襟は少しばかり複雑に痛む。己がこれから進もうとしている道に、
最早あの娘達の立脚する余地は無く、……否、むしろその方が良いのであろう。

澄み切った夜空に瞬く星々の輝きは、あたかも無数の宝石を思わせ、
魔刻の到来の近いことを感じているのであろうか、彼女の地肌は薄く総毛立つ。

165 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/16(月) 21:38:59
「綺麗やなぁ……」

さんざめく星空の光芒に誘われるまま、往来を離れ一人河原に立つ平家は、
広げた両手に少女を彷彿とさせながら、その場を幾度となく回旋してしまった。
次いで、天空を仰いだ彼女はしばしの間目を閉じ己自身を問うていたが、
やがて開かれる瞼に相反した口許は、真一文字に厳しく結ばれている。

……甜瓜庵と自分との間には、もうどれだけの月日が経過しているであろうか。
三佳千夏、北上アミ、大木衣吹、末永真己、荒井沙紀……、
かつて平家と搦んだ彼女達の噂となれば、今や風の便りにさえ聞くことは無い。

思えば、平家みちよが纏った修辞とは 『不遇』 の一語に集約されるであろう。
彼女の起点は充溢した力量と栄光に輝き、未来も約束されていたはずであるが、
その周縁にいつしか付き纏う暗澹と、目に見えぬ底知れない深い闇の果てが、
平家の光彩の滅却であったとすれば、そして、それが宿業とされてしまうなら、
彼女の運命とはかくも哀しく、至極無念な帰趨であったと揚言せざるを得ない。

路辺の草叢へ迷わず腰を下ろした平家は、軽く膝を組み再び夜空を仰ぐ。
上を向いていなければ、涙がこぼれてしまいそうになったのか否か……、
それは彼女のみぞ知ることであったが、先刻より潤み滲んで映る星の彼方には、
この期に居てはならない、蒼く輝く面妖な天狼が黄道十二宮を突き進み、
急転から一切の星斗を飲み込む一斉の暗転は、膨大する赤い月球を生み出す。

「アカン! ここで来られたらタイミング最悪やっちゅうねん!」

一人身のまま、自分でも思った以上に長居をしていたらしい。
気概諸共に立ち上がった平家は、メランコリックな漂揺を路傍へと打ち捨てた。

166 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/21(土) 22:36:51
「(ハァハァ……) 急いて走らされるのはかなわんわ……」

大粒の汗を流し息を弾ませる平家の前へ、再応に姿を現わした観音長屋は、
息を潜めて静まり返り、その所為で否が応にも目立っている甜瓜庵の中でも、
彼女の不在中に参着していた大谷は、輪をかけて大きく平家に手を振っている。

「目星は何処に付けます?」
「……手前から四軒目が怪しい思うねんけどな」

駆足から解放され、大谷に手を振り返す平家は、脈動の収まらぬ肩を余所に、
懐から努めて冷静に指輪を取り出すと、村田が首を伸ばしその手許を覗き込む。
『金剛眼』 (こんごうがん)。慎ましやかなリングに納められた鉛灰色の石は、
一瞥すれば単なる石塊であるが、魔の刻にその右手が彼女の額へ翳された時、
金剛眼は平家に残された霊験の引き金として、無色透明に光り輝く。

村田と柴田の見守る先を、彼女の手中から俄に照射された閃光は予想通り、
四軒目の障子の向こうに、薄気味の悪い影の蠢きを幻灯さながらに映し出した。

「……ほな、ぼちぼち行くで」
『ハイッ!』

強引に呼吸を整えた平家に、柴田と村田の返報は小さく引き締められる。
向こう正面に身体を動かしながら待機している大谷は、準備運動に余念が無い。
『円弧光端』 用ジェネレータの収められていた露店の屋台は几帳面に畳まれ、
平家の傍らには厳つい右腕をあらわに、背中から長いケーブルを伸ばす柴田、
そのコードを緩く束ねた終端に、偽装解除した件の特殊発電機を構える村田、
そして、姿の見えない斉藤は裏手に回ってスタンバイをしているはずである。

167 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/23(月) 05:45:12
魔刻の最中にも関わらず、一つとして魑魅魍魎の出現しない長屋付近一帯は、
彼女達の四囲だけが別次元を思わせる、異様なほどの静寂に包まれていたが、
それさえ至当の風情とするように、平家は目星の屋根へ甚だ身軽に飛び乗った。

眼下に構えている斉藤は、忙しなく身体をほぐしている大谷とは対照的に、
精神を集中しているのであろうか、両目を閉じたまま微動だにしない。
平家も彼女のことは敢えてスルーし、ひとまずは長い棟の四周を見渡した。

『居酒屋おみち』 (いざかやおみち)。
月次の内分……、甜瓜庵と平家が手を染めるのは裏稼業に他ならなかったが、
彼女達の客体の本分は、人を殺めることとは大きくかけ離れている。
故に如上より、居酒屋紫式部女将、平家みちよの裏の名を知る者の数は、
その屋号のバリューにも増して、譜弾樂でもごく一握りなのではあるまいか。
尤も、この件に関しては表向き触回っていないことも又事実ではあったが……。

仕置きの仲介、手配、間諜のひとわたりは信田美帆の手に委ねられており、
他方、居酒屋にて直接依託するのであれば、品書きに並べられた仕舞の札、
『名無し』 の掛札を用命とすれば、依頼者は人知れず勝手口へ手引きされた後、
紫式部の奥へ通されるシステムとなっていたが、本来嘱するべき当人自体、
既に狡猾な相手に取り込まれてしまっている場合がほとんどなのであろう、
そうしたケースはほぼ皆無に等しく、専ら信田の収集する情報に合わせて、
実働隊である五人が動くというパターンが定法となっていた。

長屋の裏手は確かに斉藤の言った通り、気味の悪いまでに整頓されている。
平家は裏口に降り立つと、同時に臨戦態勢に入る斉藤を後に一人中へと入った。
何とも言い難い暗闇と妖気に、彼女は明光強まる一方の金剛眼を額へかざす。

「外道照身 (げどうしょうしん)!」

168 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/25(水) 03:00:24
「柴っちゃん、起動するよ」
「いつでもどうぞ」

練達と緊張が微妙に交錯する村田と柴田にジェネレータの灯が点された。
平家の潜入した棟割りの表裏から、逓次に這い出す白濁の霞は、
螺旋を描きながら屋根上で塊となり、やがて二つに分割した各々が実体化する。

「……ワレヲオウハ、……ナニモノナルカ」

明白に人語を発した霞の正体は、身の丈に相当する巨大な鎌を両手で持ち、
黒いローブを頭の先から纏う、背筋が凍るほどに蒼白然とした髑髏であった。

「訳あって、氏んでもらいます……」

真っ先に魔物に魅入られたはずの村田は、怖気づく心機もまるで見せぬまま、
彼女独特の節回しで啖呵を切ったが、諧謔な調子は柴田の口許を寸暇に緩め、
その心境に共鳴したように、武具なる右腕も小さな唸りを上げる。

柴田にコネクトされたジェネレータは、堅果堂製アークエンド発電機であり、
種を明かせば蓄電池なのであるが、丸七日の充電時間が大きな課題であった。
補助手段として保田亭の事例同様、足漕ぎによるチャージも可能ではあったが、
思うほどの効率は得られない上、張番の際などは偽装が不可能となることから、
邪に美容目的等が頭をかすめたところで、一度たりとも実行された試しは無い。

「……ショウシ (笑止)!」

中空を定まらず漂い続けていた髑髏は、村田の言葉に些少の間を置くと、
大きな鎌首をいきなり振り上げ、急旋回から二人へ目掛けて襲いかかった。

169 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/28(土) 05:42:20
「曵光!」

大谷が即座に髑髏の針路へ割って入り、鋭く光らせた足先で横殴りに蹴り込む。
狙いを妨げられた黒衣の主は、それでも斜め急角度の攻撃を難無くかわすと、
返す刀で今度は大谷へ向け、手に持った大鎌を凄まじい勢いで振り始めた。

『曵光倶伽羅蹴』 (えいこうくりからげり)。
大谷の左足に装着された 『風神脚』 (ふうじんきゃく) は、背負った電荷を、
蹴撃との併合から足先で発動させる、柴田と同原理の蓄電式電撃履であるが、
機動性並び充電時間の点においては円弧光端を遥かに凌駕する具足であった。
使い勝手が良い分一撃は軽微なものの、ヒットアンドアウェイを信条とする、
スピードファイター : 大谷雅恵にとって、それこそが必定の実戦装備である。

「破!」

棟越しには七色の閃光が瞬く。『七色連獄破』 (しちしきれんごくは)。
パワーファイターである斉藤瞳は、背中のジェネレータから連結した左手に、
ややもすれば大振りな籠手、『雷神掌』 (らいじんしょう) を装着する。
こちらも堅果堂製からなる蓄電式雷撃手蓋であるが、防具の面影は露も残らぬ、
飛び道具と言って差し支えない七色の雷撃破を放つ完全な武具であった。
近接格闘戦を信条とする斉藤にとって、殊に間合いの詰まらぬ相手への攻撃、
及び牽制の得物となる雷神掌は、風神脚に比してより強い威力を発揮するが、
装身時の取扱性が後退していることに加え、撃ち出せる数も風神脚より少ない。

「……マサオ!」

先刻こそ強腰に見えた村田は、いつしか柴田の背後に寄り添い、
その掌をそっと握る柴田の左手には、湯に浸したと錯覚する程の発汗が伝わる。

170 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2002/12/30(月) 22:20:29
渡り合う大谷に目を注ぐ二人に、闇雲な右腕の発動は御法度であった。
勿論、自身に直接危害が及ぶのであればアークエンドも迷わず行使されようが、
莫大な電力を要する円孤光端故、フィニッシュエンドの不発は死と同義であり、
例え状況が加勢を欲しても、無駄撃ちの堅忍は無情を承知の上の要諦である。

戦闘に立ち向かう際の甜瓜庵に、特定のフォーメーションは存在しない。
下見を済ませた現場に即してその都度シフトを決める、良く言えば柔軟、
裏を返せばアバウトな編成であり、出現する魔物との相性に至っては、
現物を前に初めて判明することまで考慮すれば、各人の配置は博打とも言えた。

譜弾樂には大きく分けて二つのタイプの魑魅魍魎が把捉されている。
一つに魔刻を跳梁する数多の有象無象、一般的にはこの手合の認識を指すが、
他方にもう一タイプ、人間との会話もこなし、より高等な実存と思われる、
決して自らを顕現しようとはしない類型が、闇の奥底にうごめいていた。

狡猾に世俗に紛れようとするその正体は、人々の欲望、憎悪、嘲笑、嫉妬……、
あまねく負の想念の掃き溜め、集積した悪意の実像とも言われているが、
彼らは常に人の寄り合う場所に潜伏し、その厄災は前者のタイプの比では無い。
魔刻の一過後に壊滅の憂き目に遭った繁華所の悲劇は、絡繰同心をしても、
門外にただ手をこまねくだけの非情な様相を呈していた。

平家と甜瓜庵の仕置きの相手は、まさにこの類の魔物を対象としていたが、
彼女達以外に譜弾樂で裏稼業に手を染める者の噂はついぞ耳にしない。
尤も都を隈無く調べ上げるとすれば、法外の度を超した無理難題ではあろうが。

四軒目の長屋の屋根には再び白濁の霞が這い出し、新たな髑髏へ実体化する。
先の二体と同じ姿の魔物は、応戦中の大谷と斉藤を見比べているようであった。

171 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/4(土) 05:40:08
大谷の推移は互角ながら、展開の思わしくない斉藤は間合いに苦慮している。
連獄破の撃数も残りわずかの彼女に、相性の不適を見定めたのであろうか、
髑髏は鎌首を上段に、分の悪い斉藤目掛けて降下を始める正に出端であった。

「アンタはここで仕舞いや……」

金剛眼の光る右手が、剥き出しの歯の覗く不気味な口許を臆せず引き戻し、
異様な長さの錐が寸時の間も置かず、その頭頂から顎までを真直ぐに貫き通す。

『金剛酩錐』 (こんごうみょうすい)。
紫式部に設置された堅果堂製の製氷機は、商の隠し目玉として重宝されている。
客向けに使用されていることは勿論、平家は店が閉じればこの氷を用い、
極私的なキープである南蛮渡来の酒を嗜むことを密かな楽しみとしていたが、
居酒屋おみちの仕置きの得物は、そのアイスピックに破魔の加工を施した上で、
左右のふくらはぎに各々一本、抜き差し自在の刃として仕込まれた錐であった。

頭部を貫通された魔物が平家の足許に崩れ落ち、緑に瞬いて消え去ると、
苦戦する斉藤を見て取った彼女は髑髏に成り代わり、休まず助太刀に加わる。

「……来る!」

身構えた柴田に、慌てて定位置まで戻った村田はジェネレータを構え直す。
倶伽羅蹴の残撃も少なくなりつつある大谷は、しかし中空を舞う魔物に対して、
ここまで良好な相性を見せ、完全にペースを掴んでいる様子であった。
隙を与えず粘り強く蹴りを放つ、その彼女の左足が大きく空を切った刹那、
薄気味の悪い微笑を浮かべた髑髏へ、続け様にヒットする溜めの利いた右足は、
意表を突かれ、おぞましくも愚昧な顔へ転じた魔物を豪快に柴田へ弾き飛ばす。

172 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/6(月) 01:56:42
「……アークエンド!!」

凄まじい電光を纏う稲妻は柴田を軸に正円を描き、その周縁から天上へと猛る。
真正面を一刀両断された髑髏の身体は、緑に燃え上がりながら左右に消滅した。

「やった!」
「瞳ちゃんの方がまだだよ!」

快哉を上げる村田に、柴田の表情は尚も厳しく次の敵に向けられている。
さすがに疲れたのであろう、片膝を付き小休止する大谷にかまけること無く、
二人は長い棟の片側を目指し、時折稲光を発する右腕を顧みず行動を始めた。

件のジェネレータには台車が備え付けられており、移動は車輪を転がすものの、
その重量は、斉藤のパワーをしても持ち上げることなど到底不可能であろう。
これを村田一人で動かすのであるから、荒仕事の印象も殊更に強調されようが、
円弧光端を放った柴田の足取りは、それにも増して過重に見受けられた……。

「破!」

接近戦に釣られない相手は、よくも忌々しく自分を翻弄してくれたものである。
この発動で七色連獄破は仕舞い、……飛び道具は全て撃ち尽くされた。
終止分の悪い斉藤であったが、暗黙に加わった平家の助勢は合点している。
彼女のスタイルは一撃必殺……、ならば自分に要求されるのはタイミングか。
折々に垣間見える金剛眼の清廉な輝きと、金剛酩錐の冷たく鋭利なきらめきは、
勝機へ向けた集中と、それを逃さぬプレッシャーを斉藤へ突き付ける。

彼女の視界には先に始末を終えた柴田と村田が姿を現わし、
気が付けば大谷も軒先からこちらを窺っている、……役者は揃った。

173 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/7(火) 02:20:04
「……曵光!」

交戦中の二者が離れた瞬間を目掛け、大胆に蹴り込む大谷は楔を連想させる。
平家のモーションは自身の像を努めて晒さぬことを特徴としているため、
見慣れているはずの倶伽羅蹴が、無闇な派手さを伴い斉藤の目に飛び込んだ。

魔物はいつしか三倍増となっている相手の趨勢を察知したのであろう、
巨大な鎌の動きがより凶暴性を帯びるが、それに比例して隙も増大している。
やがて平家が髑髏の背後に取り付き、こめかみに金剛酩錐を突き立てると、
その切先を際どくかわした魔物の後頭部に、今度は大谷の蹴撃が炸裂した。

「準備 OK!」

閃光のブレードと化す柴田の半身は低く唸り、 GO サインは村田から送られる。
大谷の一撃で、さんざん手を焼かされた髑髏にようやく組み付く間合いが生じ、
畳み掛けて魔物を抱え込む斉藤は、パワーを全開にして髑髏を締め上げるが、
その感触は一切の推量を否定する疎ましい空虚として上腕から全身を這い回り、
彼女は急速に衰微する魔物を、そのまま光る右腕に向け渾身の力で投擲した。

「アークエンド!!」

……逐一の言明は不要とも思われるが、そこはお約束に承知済としておきたい。
髑髏を V 字に斬り捨てた柴田は、緑の炎が滅すると同時に身体の支えを失う。

「大丈夫!?」

急ぎ駆け寄り肩を抱き止める村田の、顕著な気遣いに柴田は小さく頷き、
生気が失せ、青ざめている彼女の表情を、平家は無言で胸奥に仕舞い込んだ。

174 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/9(木) 08:30:53
「終了……、ですかね?」
「……せやな、今日のところはこれ位で勘弁しといたろ」

すっかり弛緩した大谷が、しゃがみ込んだまま平家に視線を投げ掛けると、
彼女は自身の二の腕を抱え込み、固まってしまったように動かない斉藤へ、
呪縛の解放であろうか、にわかに歩み寄りその肩を軽く二、三度掌で叩いた。

「……まだ来ないんでしょうか?」
「どないやろな……、やっぱ来いひん方がええ?」

深刻さなどおくびにも出しはしない平家が、どうにも顔色の優れない柴田へ、
ともすれば不謹慎とさえ思われる、おどけた調子の笑顔を差し向ける。
村田に支えられながら立ち上がる柴田は、まだ呼吸の乱れを若干残しているが、
彼女の具合に目処を付けた村田は身体を離し、ジェネレータの灯を落とした。

「どや、大丈夫か?」
「……不穏って言えば、確かに前より不穏なんですよね」

全身へ纏わり付いた忌まわしい気色を振り払っているのであろう、
ようやく動きを始めた斉藤の両腕は、幾度も激しく胸の前で交叉される。

「……帰りましょうか?」
「外はまだ嵐やさかい、あと少しここで待っとこうや」

いまだ魔刻の渦中を移ろい、魍魎の祭事を彷徨しているはずの譜弾樂にあって、
彼女達の一帯だけはまるで無縁に、静まり返る観音長屋は常闇に相応しい。
大仰な装置の撤収を整えた村田へ、平家は片目を悪戯気に瞑って見せた……。

175 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/12(日) 05:01:09
「なぁ、醐狸よ……」
「なんじゃ川田よ」

その麦藁帽子はアダンの葉であろうか、砂糖黍を振りながら市中を行く二人は、
概して変り者の少なくない譜弾樂の城下町にあっても、やはり格段に際立つ。

「さっきからやけに視線を感じるのは気の所為か?」
「……然り!」

夢枕に迄浮かべた城外の、久方振りに吸い込む空気はここが異国とさえ思える。
何の因果であろうか、虜に等しく置かれてしまった現在の自分達の境遇は、
その主因の究明に当てる間隙も与えられず、事実上の軟禁状態とされたまま、
城主志村けんの隠し目付役として、城中に押し込められ通しなのであるから、
いつしか、ひたすら窓の外が恋しくなっていたとしても詮の無き所ではあろう。

家老いかりや長介に決死の覚悟で相対し、猿人対猿人の対決に臨んだ醐狸の、
……実際には直談判の上で臆面もなく泣き付いただけの話であったとしても、
それは、涙無くして語れない辛くも勝ち取った 『暇』 (いとま) であった。

「我等 『ギノ&マンタ』 に怪しまれる筋合いなどどこにも無い!」

……十二分に怪しいのであるが、声高な醐狸に振向き、吹出す往来も数知れず、
放逸に時代と無関係な装束は、平素の蛸と烏賊に比しても全く引けを取らない。
描き込まれた顔と首に下がる赤いレイを前に、志村がその場に居合わせたなら、
共に出るなどと宣ふことも必至で、新たなる一悶着が生じていたことであろう。

「……で、我等は何処へ向かっておるのだ?」
「何処って……、何処へでも、何処までも……、思いのままよ!」

176 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/16(木) 22:15:23
歓喜の余り、本人の思う以上に心持ちが肥大しているのであろうか、
呆れ気味の川田にお構いなく、醐狸には勇み足の兆候さえ見え隠れするが、
問われた行先は、改めての思案も虚ろなまま、実際に当て所など存在しない。

バカ殿に取り入る首尾までは上々であった二人も、入京してからというものは、
銑鉄士の建造と監視を含めた志村との応酬に掛り切りにされている日常を因に、
糺す本意がマクロな視野の狭窄に覚えた渇望であるなら、行先は幻影である。

それ以降をしばらくの間、醐狸と川田は取り立てて言葉も交わさず、
さらに増す一方の、信じられない人出の最中を混ぜ返されながら歩き続けたが、
やがて、その雑踏にあって、醐狸の中にもさすがに不信感が芽生え始めた。
……不特定多数とは明らかに違う、特定の何者かの視線が確かに感じられる。

過敏に反応し、徐に立ち止まって振り返れば、それこそ相手の思う壺であろう、
肘で自分を小突く醐狸に川田も確信を持ち、二人はそれまでの無言を一転、
わざとらしさに過ぎている事を承知の上で、息を合わせたコンビネーションより、
歩きながらの掛け合いを始め、オーバーな身振りをする度に辺りを窺う。

「それにしても君ぃ、えらい人込みだねぇ (……何か見当たるか?)」
「まったくだぁ、ボカァびっくりだよ (分からん、……が、遠くはないぞ)」

いよいよ激しさの増す人いきれは、人二人も挟めば以降の判別はとうに不可能、
さまよい歩いた醐狸と川田がいつしか取り込まれてしまった人の流れは、
よもやの凄まじい混雑を見せている大十字路へ差し掛かろうとしていた。

群衆は洗われる芋を想起させ、誰もが強引に進もうとしているカオスの前に、
役人の交通整理も、もはや最低限の機能ですら望むべくもないであろう……。

177 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/24(金) 06:32:42
「遅いなぁ、りかちゃんと矢口さん……」

醐狸と川田をピタリと追尾している加護は、ただでさえ周囲の見渡せぬ雑踏に、
身長差から来る目線の高さの違いを、恰好の迷彩として巧みに纏っていた。

入京後に端を発した、飯田の受信能力の不調は先にも述べた通りである。
発信についてのみならば、逆に電波はいくらでも飛ばし放題なのであったが、
当初の想定通り、醐狸と川田の居所を突き止めるべく敢行された都での探知は、
予想を遥かに超える凄まじい思念の混濁と混沌に直面し、混信はおろか、
罷り間違えば人格をも破壊されかねない状況に、企図は早々と断念されていた。

それに伴い彼女達は 『前田酒造』 へ腰を落ち着け、持久戦へシフトする傍ら、
資金調達目的の瓦版の発行が、思いの外好評のうちに軌道に乗り始めている。
そして、編集に携わる加護の役回りに所在の無い傾向も、本人は不承であるが、
誠に不本意ながら表面化し、やがて彼女は持て余す時間を逆手に取るべく単身、
譜弾樂市中へ醐狸と川田の捜索を行いたいという趣旨を、自発的に提案した。

とは言え、一人身で動くことに多少の気恥ずかしさも感じているのであろうか、
加護は平素の自分達とは頭から違う、着ぐるみとの指摘も憚らないその姿、
桃色を主体とした自称 『かごじぞう』 として、人込みの中へ出向くようになり、
却って恥ずかしいと思えるなら、それは感性の相違であると言い張っている……。

まともに当てられてしまえば、吐気どころでは到底済まされない譜弾樂をして、
受信を封じられている飯田ではあったが、加護、石川、矢口の発する念波のみ、
辛うじてキャッチすることが可能であることも次第に明らかとなっていた。
『刃蒲公英』 とは、実質的に彼女の魂の本城といっても過言では無かろう。
それは、自身が育んだ 『タンポポ』 への愛情、或いは執念とさえ言えたが、
その強い所懐が、三人のシグナルに限り唯一識別可能としたのかも知れない。

178 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/27(月) 02:30:03
それは、不粋に捉えれば飯田の本意を蔑ろにする結果とも相成ってしまうが、
混信の譜弾樂にありながら、取りも直さず彼女をターミナルとすることにより、
無線に相応しい通信環境が実現されることを密に具現化せしめる帰趨であった。

激しい往来に紛れる加護の二人分先には、あれ程所在の知れなかった二人が、
華々しくも常軌を逸す、異様さをも通り越した装いで並足しているのであるから、
世の中とは誠に慮外なものにつき、数奇な巡り合わせなどと問うべくもない。
捜索と言った所で、遊んでいる方が多いという噂も無いではない彼女であったが、
その端緒は自身に加え、飯田が平常であれば一応の捕捉も可能であることから、
三人が加護を咎めることは無く、何より今回に至っては彼女の大金星であった。

後は飯田へ発したサインより、矢口と石川の合流を以って万端の手筈となるが、
送受信は飯田圭織のみ、他方三人は発信オンリーであることを鑑みるなら、
さすがにここまでの二人の詳細な動向は、加護だけでは分かろうはずも無く、
増して輪を掛けた凄まじい雑沓に、石川も矢口も埋没してしまっているとすれば、
名乗りでも上げない限り、姿形を確認することは土台無理な話であろう……。

「……矢口さん、手、離さないで下さい」
「りかちゃんこそ離しちゃダメだよ」

飯田からの通報を受け、極度の人込みの中を突き進んでいる石川と矢口は、
呼ばれて飛び出る迄は上々であったものの、そもそもが入京時の段階でさえ、
過剰な人々の群れを目の当たりに、厳しい眩暈に襲われてしまった口である。
覚悟を決めて来たつもりとはいえ、現状は更にその数段上を行っていた。
人いきれにすっかり圧倒されてしまい、思わず手を取り合ってしまう二人の、
殊に、はぐれたくない心情は石川の情意の表出であったが、傍目からはむしろ
逆にも見えかねない自分達の姿を、しかし矢口が気にする様子は感じられない。

179 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/28(火) 05:04:03
「加護ちゃん、どこだろうね」

ごった返す人波の中を、もはや洗われているに等しい状況の彼女達にあって、
矢口の念頭は、いつしか自分と同目線の高さへのみ集中しているようであった。
駆け付けた目的が度々飛びがちな石川に、彼女の手がやけに大きく感じられる。

流されるままでは如何せん行先の見当もつかない二人は、人の絶え間を縫い、
強引に分け入りもするが、この状態を一蹴したくなることも又事実ではあった。
すっかり汗まみれになりながら、是が非でも進み続けている矢口の掌からは、
やがて辟易とした湯気が立ち上り、無言の石川が甲斐々々しくその後を追う。

「キャッ!?」
『……ゲッ!?』
「りかちゃん、どうした!?」

石川の驚愕に時を同じく、忙しない針路から何処かで聞き覚えのある声が響く。
麦藁帽子と赤いレイ、人々を挟んだ向こう側に覗いている砂糖黍の先端……、
加護を一足飛びの遭遇は大当りであったが、やはりお互いの心臓に悪過ぎよう。

「や、矢口さん! 見つけちゃいました!」
「お、おまえ達、何でここにっ!?」

即座に踵を返した醐狸と川田に、しかし、自在な動きを容認しない群衆の壁は、
二人を強硬にブロックし、石川と矢口とて事情こそ同じではあるものの、
身体サイズの素朴な違いが、予想外に大きな反撥の差として彼等へ押寄せる。
人込の頑強な抵抗を前に、力押しの対抗で流れを逆行し始めた醐狸と川田は、
その途上、眼下に鎮座する桃色の物体が目に留ると一瞬間だけ動きを止めた。

180 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/1/31(金) 21:40:07
「……お前、加護か!?」
「『かけ算の九九光線』 だぞう!」

二人は先刻より自分達に纏わり付いていた怪しい視線の正体を理解すると、
忘れ物に気付いた顔で互いを見遣り、即座に加護を境に二手に散開した。
三人はより濃く描かれた顔相に吸い寄せられるように、迷わず醐狸を追い、
嬉しさなど欠片も無い彼の怒髪は頭頂に向けて逆立ち、ひれ状に反り上がる。

「わっ!? わあぁぁ! りかちゃん助けてくれえぇぇぇぇ!」
「えっ!? 矢口さん!?」

無理押しで進む矢口の姿が突然石川の眼前から消え、彼女の足許付近からは、
間髪を入れず、元気さだけであれば赤丸急上昇の甲高い悲鳴が上がった。

「助けてくれって、あの、どこに……」
「こっち、こっちいぃぃ! 早くうぅぅぅぅ!!」

機転のつもりであったろうか、或いは単に誤術であったのかは定かでないが、
やにわに鼠術を繰り出してしまった矢口は、尋常では済まされない往来に、
術の無謀さを悟るまでもなく、裏目としか言様の無い小さな姿で救いを求め、
その声にたちまち踏み潰された彼女の映像を思い浮かべてしまった石川は、
大慌てでしゃがみ込み、時ならぬパニックに陥る。……何やってるんだ矢口!

「りかちゃん、何してんねん!」

それは願っても見ない展開であったろう、加護を尻目に針路を変える醐狸は、
石川の方へ身体を向き直し、そのまま巧く流れに乗ると三人を後にして行く。

181 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/1(土) 04:56:02
「グブリ〜サビラ〜! ……オ、オワアァァァァ!」

追って来ない石川に、すっかり余裕まで漂わせていた醐狸であるが、
そんな砂糖黍男を待ち受けていたのは、余りにもあからさまな悲劇であった。
雑沓の足許を縫い彼を追う加護の前へ、突如出現した不可思議な物体は、
醐狸の足を掠め掬い上げると、そのまま豪快な転倒を引き起こして走り抜ける。
そして、しばし加護と見つめ合ったその 『物体』 は、露出した顔を除けば、
身体全体着ぐるみとの指摘に憚り様の無い……、一応 『狸』 なのであろうか?

『加護ちゃ〜ん!』

矢口は無事に術を解き、石川に支えられながらなんとか彼女まで追い付いたが、
一瞬気を取られた加護の隙に、謎の狸はあっさりと姿を消してしまった……。

「……ようやく捕まえたね」
「でも、ちょっと悲惨じゃありません?」

往来に飲込まれた醐狸の手に砂糖黍は跡形も無く、四散してしまったレイ同様、
無残に踏みしだかれた身体は、全身がボロ雑巾さながらに縒れている。
上向きに痙攣を続ける手足の様子が、彼を襲った悲劇の全てを物語っていた。
いつしか針路に異物を察知した人々の流れは、醐狸をセンターに分割を始め、
人込みを凌げる空間を得た三人は、ヨレヨレの男を三方からじっと見下ろす。

「……ほ、ほのれぇ〜、ほまえ達はひつでも我等の邪魔ばかりしほってぇ〜」
「言いたいことは後。とにかく観念してね」

極度に力の失せた醐狸の態様は、自力で動くこともままならないように思える。
矢口と目配せをした加護が、涎掛けの内側から捕縛のロープを取り出した。

182 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/2(日) 22:56:42
「醐狸!」
『(!)』

往来へ高みから響く川田の声に思わず反応した一同は、全員が辺りを窺う。
そして、その声に呼応するように周囲を洗う人々の波も蜘蛛の子を散らし始め、
脊髄反射とも呼び得る譜弾樂の民の逃げ足は、依然として恐ろしく速い。

「何だ、何だ!?」
「……矢口さん、あれはっ!?」
「あっ!? 逃げてまう!」

三人の間隙を突いた醐狸が、疲れた身体を顧ず逸早くその場から抜け出した。

「コラァ! 待たんかい……」
「加護ちゃん!! ヤバイって!!」

醐狸を追おうとする加護は、矢口と石川に逆向きの左右から強引に腕を組まれ、
引きずられる足もまるでお構い無く、全力疾走で大十字路の外へ連れ出される。
大道を覆う影は見る間に暗く膨れ上がり、落下の気配と圧力が一帯へと迫った。

「キャッ!!!」
「うわわあぁぁぁぁ!!!」

凄まじい激突音を伴った爆裂級の衝撃は、三人の身体を豆鉄砲さながらに、
組んだままの腕で前方へ飛び上がらせ、土煙を上げた地表は劇烈に陥没する。
前面へ転倒したもののなんとか振向く矢口に、大十字路を悉く塞いでいたのは、
要所々々に刺を持ち、鈍く光りながらそびえ立つ、黒く巨大な鉄球であった。

183 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/6(木) 22:54:42
「……盈随摧 (えいずいさい) か」
「如何にも」
「しかし川田よ、この銑鉄士は目下建造中の訳だが……」
「突発事故の置土産ってとこだ。このままあいつらにくれてやれ」

陸屋根に引き摺り上げられた醐狸のダメージは抜け切れていようはずも無く、
虚脱の覚めやらぬ有様共々、未だ放心し切った表情を全開で項垂れていたが、
太っ腹に過ぎる川田を思惟していた彼の頭は、やがて棟上にやおら擡げられる。

「よかろう! ハイサ〜イ……」
「メンソ〜レ〜!」

明らかに人を馬鹿にしているとしか思えない二人の声の溶暗と入れ替わりに、
続々と大十字路跡へ立戻り、一様に巨大な鉄球へと詰掛ける群衆を眺めながら、
間一髪のタイミングで難を遁れた三人は、今頃になって膝が笑い始めていた。

「逃げられてしもた……」
「やられたね。……元気出しなって、また捕まえればいいんだからさ。
 それより、りかちゃん! ……さっきから大丈夫?」
「(…………)」

石川は度を越した驚愕の所為か、一時的に声が出せなくなっているらしい。
空動きの口と泣き黒子の配合が微妙に可笑しい彼女の懸命なジェスチャーに、
矢口と加護は、いよいよ止まらない膝との合せ技で苦笑させられてしまった。

「……こんなん、どないせいちゅうねん」
「う〜ん……、これはちょっと、かおりと相談するしかないよなぁ……」

184 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/9(日) 04:32:38
「……アンタ、今回は長いなぁ」

半ば感心した顔で自分を見つめている黒ひげの視線を自在に縫い、
中空を飛び交う松浦が時折稲葉に返してよこす表情は、己を全肯定している。
通例であれば、とうに平素の容姿に戻っているはずの彼女であったが、
近頃めっきり訪れぬ、若しくは至極不順な魔刻の到来がその姿と相関するのか、
……あるいは何らかの因果関係として、自ずと介在しているのであろうか。

動き続ける羽の止まない松浦は勿論のこと、後藤のケースに目を転じれば、
彼女がすっかり調子を狂わされていることも、有り有りと窺うことが出来る。
夜毎に診療所を抜け出している行動自体に変わりの無い後藤とはいえ、
市中に戦闘は空漠なのであろう、無言で託つ不完全燃焼に輪を掛けた白昼の、
二階で眠りに付く彼女が、育ち過ぎてしまうのならそれは恐いと黒ひげは思う。

しかし、そんな後藤と松浦の間を、互いの関係は次第に変化が生じていた。
談笑の存立等を問われれば、未だお目に掛かることなど叶わないものの、
二人が相対しても以前のように瞼に剣を作ることは無くなり、それどころか、
時には眠る後藤の腹の上で、羽を休めた松浦も一緒に眠っているのであるから、
妙趣に愛おしい光景は、例え稲葉の絵心が名手に達せずとも追思の一齣に、
そのまま描き止めておきたいという衝動に駆られることさえしばしばであろう。

「あ、ごっちんな、今なんも作り置きあらへんさかい、
 小腹すいてるんやったら、表で買うてきてや」
「……んあぁぁ?」

階段を降りる後藤の、まだ半分以上寝ぼけているのであろう仕草に加え、
半開きの口と気の抜けた声を聞く松浦は、確かに可憐な笑みを浮かべている。

185 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/11(火) 00:05:30
一見の印象だけでは素気の無い後藤も、共に暮らす時間が長くなれば、
それが彼女の表層に過ぎないことは、剰え本人からにじみ出る話であった。
稚気な無防備と口下手の加減が織り成す、冷たさ、散漫さのイメージは、
天分とはまるで異なる虚構と言いながら、それが無用の誤解の延長として、
二人の間に溝を深めてしまったとすれば、松浦に比した人当りに纏わる後藤の、
拙劣な不幸とも言えようが、互いのわだかまりに薄明が射し込み始めた今なら、
後はきっかけ次第、和めるのも時間の問題であろうと黒ひげは目鼻を付ける。

「……ねぇ先生、窓から見えるあの黒い塊」
「せやな、なんも進展あらへんのやて。
 まったく、しょーもないもんが道の真中塞いでくれたもんやわ」

件の黒い鉄球が大十字路を遮断してから、早幾日が経過しているであろうか。
その無遠慮な図体は、診療所二階の眺望からも否応無く空間を占拠している。
ちなみに、落下の衝撃には稲葉も松浦も心臓が飛出るほど驚いたものであるが、
後藤はその状況にあって平然と眠り続けていたことを付記しておきたい。

直下以降、何ら変動も見せない巨大な構造物は当惑の厄介者であったが、
喉元を熱さが過ぎ去った譜弾樂の民も、それに負けず劣らぬ困り者であった。
取り敢えず目先に危険の無いことを確認した途端、強気に出た人々の群れは、
完全に大動脈の意味を失ってしまった大十字路跡へ、俄然押し寄せている。
当初は腹癒せ等の意味合いが強かったであろうことも推測出来るとはいえ、
いつしか地盤に沈み込む球体下部への落書きへ、その所業が変容をきたすと、
仕舞いには刺を伝い、球体上部へとよじ登る者まで現れてしまう顛末の、
調子に乗り出す狼藉者のモラルの低さが、新たな頭痛の種となり始めていた。

「……あれ何なのかな? これからどうなっちゃうのかな?」
「……どないやろな? なんや絡繰同心が張り付き通しやっちゅう話やで」

186 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/13(木) 23:22:49
「ほんっと、迷惑な話よね……」

彼女は絡繰同心と呼ばれるが故、ここに居ることを当然とされているが、
居座り続ける巨大な球体は、どうにも自分の管轄を超えているとしか思えない。
尤も、鉄球が動き出す事態を想像すれば、不安もまた保田の背中を駆け巡る。

『いらっしゃいませぇ!』

黒く丸い壁面を背負いながら店を開いている保田亭は、新たなメニューとして、
高橋の特訓の賜物である、それまでの汁蕎麦とはあからさまに趣を異にした、
『お好み焼き』 を品書きに加え、目新しさも手伝っているのであろうか、
屋台車に集まる客の注文数に比例して、その味は存外好評のようであった。

「……あんまり近寄らないようにしなさいよ」
「え? あ……、でも」

球体の側面をメモ代わりに、出納の計算や備忘録として用いている紺野の姿に、
正直ぞっとしない絡繰同心は、落書きを否定する極めて真っ当な利用法にも、
気を止めずにはいられない分、ついつい余計な口出しをしてしまう。

「まぁ、真面目に使ってるんなら文句は言わないけどね」

紺野は安堵を浮かべたが、その表情は保田の言葉より久々に近くに居合せる、
彼女の佇まいそのものへ向けられている気ざしも感じられた。

「てへへへへ……」
「(……) ねぇ、あれは何?」
「あれって、……辻さんのことですか?」

187 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/15(土) 04:43:03
何とも不可思議な物体が、小川の足を止め談笑している。
絡繰同心としてその姿を見据えるのは、改めてこれが初めてであったが、
やけに大振りな風体は、狸を無理矢理にこじつけたつもりなのであろうか?

「たまに見る気もするけど、よく来るの?」
「どっちとも言えないですけど、お蕎麦と交換でお菓子くれるんですよね」

辻のへそくりは、どうやら安倍のそれより数段多量に確保されていたらしい。
安倍に全く悟らせていないとすれば、彼女の成長の片鱗とも取れるであろう。

「あの……、旦那」
「何?」

辻から目を離した保田に投げ掛けられる紺野の瞳は、片隅に不安を映していた。
ここで店を開いている自分達も他人のことをとやかく言える筋合いではないが、
本来の機能などとうに失われた大十字路跡へ、こうも繰り出す譜弾樂の民は、
余りに勝手気ままな、無責任をも超えた不穏とさえ呼べる気焔を感じさせる。

「そうね、……気構えだけは疎かにしないでおいてちょうだい。
 アタシだって、アンタ達のこと頼りにしてるのよ」
「はい……」
「(てへへへへ……)」

まったりとした趣を漂わせる辻の声が、風に流れ紺野の耳元を通り過ぎて行く。
彼女の視線を外した絡繰同心の目は、そのままどこまでも遠い彼方を望み、
しっかり自分達を認めてくれた保田の、紺野にとって嬉しいはずの一言も、
同時に去来する一抹の寂しさの前には、儚く消える雪の結晶を思わせた……。

188 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/18(火) 06:20:07
「む〜ら〜さん! どう、その後?」
「何も無い。毎度のことやね、……って元締かい!」

稲をついばみにふわりと舞い降りたスズメを思わせる柴田の佇まいへ、
案山子さながらに立ち尽くしたままの村田から返された言葉は、
このところの平家の決まり文句と口振りが重ねられている。
甜瓜庵は岡場所に面す一角に鉄板焼の屋台を開き、黙々と待機を続けていた。

日暮れにも関わらず、男色家の集う場を前にした貞操の危機感は極端に薄く、
翻って頼もしいとさえ感じられてしまうことが、何やら妙な心持ちではあったが、
それにも増して、愛想の良い彼らと屋台の売上の良さには正直戸惑っている。
これでは、本業としてここに店を構えようかとさえ考えてしまうではないか。

暗がりに浮かぶ私娼窟に隣り合わせ、その傍らには人為的な整備跡とも思しき、
草木の薄い広漠とした野原が連なり、照身され実体化した外道との戦闘は、
迷わずそこで行われることが明白であろうとはいえ、魔刻の到来に生じている、
大幅な遷延の一層深まる近頃では、冗談めかして元締を真似た村田にしても、
それが、今迄とは違う胸騒ぎの方位へ推移していることは言外に感じていよう。

そもそも、これまで信田美帆より寄せられて来た情報における確度は、
誤差があったとしても、高々後ろに一日程度の範囲内で収まりを見せていた。
それだけの精度故、集結も短時間に迅速な仕置きが行えていたのであるが、
度を越した傾向にある最近の不順な魔刻は、ハッキリ言ってしまえば、
もはや 『毎度』 などと軽口を叩いていられる限度をとうに超えている。
甜瓜庵のスタンバイも、既に五日の日数が過ぎようとしており、
前回からのインターバルも短いヘビー・ローテーションで臨む今回の裏仕事は、
取り分け柴田に絡み付くような、鈍いストレスを強いていた。

189 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/20(木) 07:25:09
「右腕の方は大丈夫なの?」
「うん? ……うん、大丈夫だよ」

円弧光端が彼女の生体に及ぼす影響は、やはり傍目より厳しいのであろう。
村田が柴田の弱音を聞いた試しなど一度たりとてありはしないものの、
ジェネレータを預かる身とすれば彼女への必要以上の気遣いも又道理であった。

「ならいいんだけどさ。……で、絡繰同心の方は?」
「それがね、なんだか今のところ追って来てないみたいなの。
 なんでだろ、ウチらのこと諦めてくれたのかな?」
「そっか。……もしかしてアレのせいと違う? 例の大十字路」

執拗に柴田を付け回していた保田も、今回の彼女達へは姿を現わしていない。
そのまま終わりにしてくれるなら、どれほど気が楽であろうかとも思いこそすれ、
二人ともに、あいにくそこまでの楽観には至っていない様子であった。

「二人前いただこう」
「あっ!? はいっ! いらっしゃいませ! (クス、クスクス……)」
「(シッ! 聞こえちゃうよ)」

岡場所の出入りは、なにも此れ見よがしに品 (しな) を作る男ばかりではない。
黙していれば、その気などおくびにも知れない漢達の嬉々として行来する態が、
おかしくてたまらない村田は、柴田に爪先を踏まれながら必死に笑いを堪える。

魔刻が遠のいている現在、たとえ飛び交う魑魅魍魎の群れが目に見えずとも、
実は人の生業、あるいは人の存在自体が、それそのものであるのかも知れない。
客を見送る柴田の足が、笑いを堪え続ける村田の仕返しに軽く踏み付けられた。

190 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/24(月) 00:50:03
「せやなぁ、この店のオススメ言うたら……」

店の最奥の席で平家のインタビューを執り持つのは石川である。
彼女の傍らには飯田が陣取り、矢口と加護は追って駆け付ける予定であったが、
加護の単独行動に伴い、めっきりと少なくなった刃蒲公英の団体行動は、
瓦版の取材にも、適宜動ける者が柔軟にこなすという方向性の転換を及ぼし、
その出番の推移は、持ち回りに石川の機会を増やしていた。

「せやなぁ……」

無限ループ宜しく、先刻から平家の回答はひたすら疑問符を繰り返している。
出番が増えたことにより、徐々に取材慣れを進めている石川とはいえ、
まだ肝心の所でまごついてしまうケースも少なからず見られ、その際の彼女は、
折々の随伴者に目線で救いを求めていたが、店内の描画にかまける飯田は、
何事も起きていないように軽く石川を受け流し、淡々と絵筆を走らせていた。
二人に出された茶が、水に嵌まる飯田を偶然にも未然に防いだ結果であろう。

「みっちゃんなに考えとるねん。……せやけどあの兜、おもろい形やなぁ」
「おーとばいのへるめっとれす」
「そんなんこの時代には無い!」

辻の耳を摘まみ上げる中澤は、いまや小首を左右に傾げている平家と、
石川の小脇に置かれた兜を、団子に結われた辻の髪越しに交互に見て取る。
彼女が 『ののぽん』 として往来へ出ることは必ずしも常態とは言えず、
安倍に纏わり付きながら、表に出ない日も決して少なくはない。
昼間の店に居るのが珍しいのはむしろ中澤の方であり、瓦版の評判を知ってか、
彼女は辻を膝の上に乗せ、店の奥より刃蒲公英の取材の様子を眺めていた。

191 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/25(火) 05:37:08
「りかちゃん、かおり乙!」

新たに現れた丸い兜は、野太い三本線の入る石川と共通のデザインであるが、
身に付けている主が小柄な身長故か、頭のバランスが殊更に大きく見える。

「また瓦版の関係者かい?」
「おーとばいのへるめっとれす」
「せやから、この時代にそんなん言うたらアカン!」

辻は再び中澤に耳を摘まみ上げられているが、彼女は懲りていないどころか、
どうやら中澤のリアクションそのものを楽しんでいる趣が感じられた。

「いらっしゃいませ、……って言うか取材の方ですよね?」
「そうですけど、なんか頼んじゃおうかな。オイラ腹減っちゃって」

ごく常況に接客をこなす大谷を斜に見ながら、取材を先行させている二人へ、
ゆっくり視線を移す矢口は、黙々と描き続けている飯田は勿論のこととしても、
不器用とはいえ熱心に仕事に当たる石川の姿が何処か素敵に思える。

飯田に談判した件の球体は予想通り、にべも無い返答しか得られていないが、
平時での変身を断固拒否する彼女に、矢口も敢えてそれ以上の要求はしない。
ここ迄まるで動きを見せていない鉄球であれば、魔刻まで行動を待ったとしても、
結果は同じであろうと彼女は踏んでおり、もはや往来の一風景として、
すっかり馴染み切ってしまった感さえある銑鉄士に、無理矢理で動いたなら、
鋼鐵王の方こそ罵倒されて終わるのがオチであろうことまで計算に入れていた。

矢口は一息つくと、金髪を振り解きながら身体比に大きなヘルメットを外す。

192 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/2/27(木) 05:52:50
「うそ〜ん! あの娘 (こ) 誰やの〜ん!」
「(けへっ! けへっ!) し、しろかげしゃん……」

矢口の素顔に一目で釘付けにされた中澤が、思わず辻の首を両腕で締上げた。
楽しむ余裕など一瞬で吹き飛ばされてしまった彼女も、これは堪らないであろう、
真っ赤に膨れ上がる半泣きの顔をはばからぬまま中澤の腕を懸命にタップし、
我に返った彼女は速やかな辻の解放から、自身も同時にその場を消え去る。

矢口は大谷への注文を済ませ、居酒屋の店内をそれとはなしに見渡していたが、
髪を一回転させ、頭を正面に落ち着けるとそこには見知らぬ女性が座っていた。

「(?) あの……」
「アンタ、名前は?」
「えっ!? ……矢口」
「下の名前は?」
「は、はぁ……、真里ですが何か?」
「矢口……、真里……、ええっ名前やなあぁぁぁぁ!!」

突如敢行される中澤の逆ナン……、強行逆取材の前に徐に引き始めた矢口は、
最後の余りに力強い一言に至っては、危うく椅子から転げ落ちそうになっている。
自分の名を誉められることに悪い気はしないとしても、小節を利かせた中澤の、
極大に過ぎるリアクションは、言われたこちらの方がとてつもなく恥ずかしい。

「ほんで、今いくつや?」

妙に甘い声で矢口に迫る中澤は、とうとう彼女と横並びに座り込んでしまい、
今にも覆い被さらんとする様相を、辻は首を撫でながら呆れ顔で眺めている。

193 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/4(火) 07:55:31
「おやびん、遅くなりました!」
「……あ〜〜〜〜っ!!!」

加護は地蔵の態 (なり) で駆け付けたが、絶妙のタイミングをしての到着は、
風体如何など問うべくも無い、矢口にとって藁にもすがる助け船であろう。
有り難いかごじぞうを拝もうと、彼女が身をよじろうとしたその矢先、
店の奥から響き渡る辻の、耳をつんざく勢いで放たれる飛び切りの大音声が、
一人を除く店内誰しもの目線を、一斉に声の方角へと注目させた。

「何しとんねん辻! ウチの邪魔せんといてや!」

逆取材を中断された中澤だけが、怒りもあらわに遅れて辻に向き直ったが、
その隙に矢口は加護の陰へと隠れ、御地蔵様は憤怒の中澤の背中を見詰める。

「(ハッ!) ……矢口? ウチの矢口はどこ? 矢口ぃ〜、矢口いぃ〜〜!!」

鬼子母神顔負けの凄まじい妖気を漂わせている中澤に、只絶句する加護は、
そもそもここで何が起きていたのか、着きしなの身に見当がつくはずも無く、
怪訝なままの視線を再び大声の方向へ移すと、奥より現われた辻と目が合った。

「ぽ〜ん!!」
「あ〜〜〜〜っ!!!」
「う〜〜ん、……せやなぁ????」

ののぽんを見るなり仰天の大音を上げる加護が周囲の新たな注視を浴びる中、
けたたましい周縁に最早無縁の有様で鎮座する平家は、強く組む両腕も厳つく、
依然深まる疑問符を、炒る実のとうもろこしさながらに頭頂へ飛び交わせている。
喧騒の店内と要領を得ぬ平家を前に、石川は一人頭を抱え込んでしまった……。

194 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/6(木) 23:49:00
「助かりました。それでお代は……」

石井リカが対外的に見せる物腰は、相変わらず低く落ち着いたトーンを示し、
咄嗟に感化されたのか、応対するミカも時ならぬ折り目正しさを表出させたが、
その向う側に見え隠れする彼女の楽天的な明るさは、浮世離れとも紙一重の、
如何なる渦中にあろうと必定に醸し出されるエトランゼの萌芽が感じられる。

石井の 『超流体足袋』 に障害が発生したのはおおよそ一週間前にまで遡り、
それは表向きの佇まいとは裏腹の、存外激しい諜報活動の証左と言えようが、
耐久性は決して悪くない足袋にあって、今回のトラブルとスペアの不備を、
早計に想定の甘さと結論付けてしまうなら、少々酷な話というものであろう。

基本的に完全オーダーメイドとなる足袋は、気軽に手に入る代物とは訳が違い、
ここに来ての綻びに至る成り行きは、事故として認識した方が妥当と思われる。
他に類を見ない足袋の使い手である石井も、そのメンテナンスは至極月並に、
修理ともなってしまえば、それ以上は最早彼女ではお手上げなのであったが、
それでも藤本に慌てる様子一つ見せなかったのは、日頃の行動の賜物か、
即座に堅果堂を思い浮かべた石井に、アヤカは期待以上の仕事で応えてくれた。

「面白い絡繰ですよね」
「……石井ちゃん」

ミカの斜め後ろより、涼しい顔で一言を差し挟んだアヤカの視線は、
持主へ返還された超流体足袋の行方を、未だ尽きない興味の目で追っている。
藤本は戸口に寄り掛かり、そのまま雑談に突入してしまった三人へ向け、
終了を催促するが、彼女を見遣った石井はあくまで自身のペースを崩さず、
やがて修理代の支払いを済ませれば、振舞いもごく自然に堅果堂を後にした。

195 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/7(金) 23:27:00
「……今のお客さん」
「隠密よ」

客人が立ち去ったのを見計らうと、先に切り出したのはミカの方であったが、
その顔色からは頓着などかけらも窺うことが出来なければ、
石井の正体を平然と喝破したアヤカの表情もそれに負けず劣らず、
輪を掛けた明るいトーンの上には、悪戯気な好奇心までもが浮かべられ、
飄々とした彼女達の有り様は、何時でも場違いを超越した空気を作り上げる。

「この都の人多過ぎなんて今に始まったことじゃないけど、
 やっぱり、いろんな方面から動き回ってるんだ」
「どうなるのかな、保田さんとバッティングしちゃうとか。
 ……それよりあの足袋、おかげさまでいいヒントもらっちゃったから、
 今度、保田亭で使ってみようっと!」

リラックスしたまま軽く小躍りして見せるアヤカはやけに嬉しそうであった。
ここしばらくこそ落ち着いているようにも見受けられる二人の周辺であるが、
決して穏やかでは済まされないいきさつを、多々も経て来た彼女達の道程は、
根本的な感性の相違と、溢れる才気があってこそ成し得た業なのであろうか。
二人から感じられない悲壮とは、今や特性と言える次元にまで達しており、
或いは度重なる悲劇が、まるまるそれらを欠落させてしまったのかも知れない。

「例の黒い球は? あそこに落っこちてから、全然動いてないんだって」
「あれも面白そうなのよね。いつかの鬼の仲間かしら?」

堅果堂との腹心は、絡繰同心をしてもその実おいそれとは届かぬ距離であろう。
昼下がりの一時に、ミカとアヤカの顔はどこまでも楽し気であった……。

196 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/8(土) 23:45:53
「ふーん、別に何人居たって構わないんだけどねぇ」

おっとりとした口振りの吉澤を全方位に取り巻いている手勢は総勢二十余名、
繰り返される騒動の度に、その人数の増え方は大仰に極まって行く。

魔刻の遅延は、彼女とて己身に及ぼされる影響が皆無とは言難いのであろうか、
先回の鏡風姿の変身が何時かを思い出せない所存は誠に痛いのであったが、
吉澤の名誉の為に念押しするならば、決して石松の頭脳を伝染された訳でも、
況して天然ボケの素の関与とも違う、全て不順な魔刻の所為なのであろう。

それは、譜弾樂がここまで保ち続けた平穏の裏返しに相違なかろうとはいえ、
嵐の前の静けさと受け取るのなら、鷹揚な構えにも自ずと限度が浮かび上がり、
自身のウェイトをほぼベストに戻し、往時の切れを取り戻している彼女に、
何処かきな臭い都の空気は、胃腸の膨満感宜しく心中をすっきりさせてくれない。

「おまいら逝きますよ! なめんなゴルァ!」
「……アホちゃいまっか、と」

揃えた頭数が、そのまま勝利に直結するのであれば苦労など無用であろう。
何分もやもやの晴れぬまま、気持ちの当てどころに事欠いていた吉澤にとって、
血気に逸る火消し達の行動は、むしろ、おあつらえ向きに望むところであり、
彼らは無謀を文字通り体現する、まさに 『飛んで火に入る夏の虫』 であった。
月夜の閃光を顕現した、華麗な身のこなしに目を奪われ捲りの火消し達は、
美貌と鋭さの際立つ彼女の前に、赤子の腕を捻るより易くあしらわれている。

「……お、おまいら逃げますよ! 覚えてやがれゴルァ!」
「ハイハイ、いつでも来てちょうだいねぇん♪」

197 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/10(月) 23:30:10
強暴で鳴らす吉澤の、体の良い餌食にされてしまった彼らは多勢の甲斐も虚しく、
たわけた口調の上塗りまで浴びせられながら、一目散の逃走を開始した。
勝てる見込みが無いと悟れば、ダメージの浅いうちに切り上げる、
賢明な判断とはいえ、そもそも最初から喧嘩など売らぬ方がより英明なことは、
鑑みる気質が火消しである以上、土台無理な話なのであろうか……。

さすがに追う気まではしない彼女は、一息つくと大きな伸びで天を仰いだが、
その途上を視界に飛び込む巨大な球体は、いつ見ても目障りな存在であった。
全体のスケールは、これまで幾度か遭遇した真紅の巨人に同程度と目算され、
この厄介者が市中を戦場としたなら、再び大きな被害が生じるのであろう。

鏡風姿へ変容することそのものに、吉澤が気負う素振り等は見受けられない。
彼女が表裏にその姿を背負った契機とは、天才的との評判を呼んだ、
火消し稼業を始めて間も無くの事であり、目覚しい活躍で頭角を現わした後も、
闇雲な快進撃を推し進める余りに、自ら陥ってしまった危機を発端とする。

或いは増長に魅入られていたのであろうか、よもやの火の海に八方を塞がれ、
末期を覚悟した刹那の彼女へ、不意に目線をかすめた紅蓮に光る小さな鏡は、
良く磨き込まれた鏡面の向こうに、鮮やかな吉澤のひとみを映し出していた。
そして、思わぬ自身との対面に引き続き、脳裏をよぎる既視感を伴った刻印が、
変化を兆す己に困惑する彼女に構わず、轟音に崩れ落ちる炎の修羅場より、
鏡の彼方へとその身をいざない、無傷で脱離させて以来の鏡の化身なのである。

「『天狼その眷族、名鏡吻合せし双子宮の江湖、
                ……譜弾樂より夜陰を往きて終焉へ赴く』」

人の気配がとうに失せた夜道の上を、こぼれ落ちた言葉は密やかに流れ去り、
呟く度に奇妙な懐かしさを醸す文句を、吉澤は俯きがちに噛み締めていた……。

198 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/12(水) 02:56:37
「ひとみん、やっぱり間に合わなかったか」
「この状況を考えたら、誰かしら遅れても仕方が無いわよ」

村田の指は大谷を諭すように、彼女の背筋 (せすじ) に斜め十文字を刻む。
以降、岡場所に張り付くことを余儀なくされていた甜瓜庵と平家に満を持す、
今宵こそが魑魅魍魎の宴であり、結局彼女達は半月強も待たされてしまった。

当夜の付近一帯は、不気味な静けさがいつも通りに甜瓜庵を包むのみならず、
殊更に強い妖気で染め上げられていたが、大層な間延び故の所産であろうか、
彼女達のメンタリティは怒りを通り越し、むしろ安堵に浸り切っている様が、
人の心持ちにもたらされる、うつろな揺らぎを如実に立証している。

私娼窟に隣り合う野原は、いざ立ち入れば遠目の印象より遥かに広く感じられ、
先刻から岡場所に潜り込んだままの平家を除く柴田、村田、大谷の三人は、
時折砂塵の舞う殺風景な大地の中央に、ゆるやかに背中を合わせながら、
今や遅しと到着を待ち侘びる斉藤の姿を、かけらも逃すまいと目を凝らしていた。

「今日は何体出てくるのかな?
 ひとみちゃんもまだだし、ちょっとヤじゃない?」
「確かにね、このまま来られちゃったらキツイかもしれないけど、
 そんな時こそマサオくんが付いてるから」
「……あんまりプレッシャーかけないでよね、決め手はアークエンドでしょ!」

俄に身体をほぐし始めた大谷が、お決まりの柔軟越しに村田へ言葉を返すが、
彼女から放たれる気色の按配は、語尾のトーンとは裏腹にどこか浮立っており、
他の二人にしても同様の兆候が嗅ぎ取れてしまうことに相違はない。
さんざんに焦らされた挙げ句の反動とすれば、大敵とする油断の予兆であろう。

199 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/13(木) 02:35:03
「ねぇ、最近の元締どんな風に見える?」
「どんなって……、別にいつもと変わらないけど? ね、マサオ」
「うん。何かあったの?」

唐突な柴田の問い掛けに、村田と大谷は思わず互いの顔を見合わせたが、
当の本人だけは背中を向けたまま、二人を振り返ろうとはしなかった。

表層のみ捉えるなら、経験に裏打ちされた戦闘等、顕著な相違が見えるものの、
魔刻の渦中に刻まれたキャリアと、言わずもがなの柴田の右腕を差し引けば、
彼女達と平家の相関とは、保田亭の四人と絡繰同心に通じるのかも知れない。
初めて平家とチームを組んだ初期甜瓜庵の、舞踊と果実の混合を意匠とした、
見る者を気恥ずかしくさせる揃いの装いも、今となっては懐かしく思い出され、
そのまま不動の結束に至る彼女達が、気付いてみれば確かな年輪を重ねつつ、
柴田を除く全員が酒を酌交わす齢に達していたことは誠に感慨深いと言えよう。

もっとも、共に飲むとなれば 『おもいで』 と 『夢追い』 の繰言にくだを巻き、
深まる酒量が螺旋を描き始めるため、不用意な誘いは危険な平家を相手取り、
平然と付き合うどころか、往々にして彼女を呑み込んでいる中澤を見るに付け、
甜瓜庵は感嘆以上に、空恐ろしささえ覚えてしまうこともしばしばであった。

「元締、どうかした?」
「……うぅん、何でもない」
「変なの……」

自分から話を振りながらまるでつれない柴田に、わざわざ深入りもしない大谷が、
やがてストレッチに専心すると、厳つい前腕を無言でさする柴田を見遣ってか、
村田は改めてジェネレータを見据える。天空に鈍く浮かび上がる赤い月の下に、
斉藤は未だ姿を現わさず、平家が遊郭から戻り来る気配も無い……。

200 名前:920ch@居酒屋 ★ 投稿日:2003/3/14(金) 03:18:20
中澤「っちゅう訳で、『狼星』 はここまでです。
    読んでくれはった皆さん、ホンマおおきにありがとうございました。
    続きは下記で始めます」
平家「なんで? ここで続けたったらええやん」
中澤「ウチらの本分をよう考えてみい、毎度おなじみ流浪のサイトやろ。
    せやから、空耳〜♪」
平家「タモさん倶楽部かい!」
中澤「……いろいろ事情かてあるねんて、みっちゃんもサイトも投げまくり!」
平家「言うてることが訳分からんわ……」

    Roman-Fleuve 『 双子宮*GEMINI 』
    http://cgi26.plala.or.jp/ROXY/area949/mms.cgi?fname=20030314031515(Text)


■ HOME ■