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(副題)『古事記」の中の一文と葦の仲間の「セイタカヨシ」との関係
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(一)
『古事記』下巻、安康天皇の御代に載る「爾興軍待戦 射出之矢 如葦来散」の終わりの八文字に付いて私見を述
べたいと思いますが、その前に、現在その解釈がどの様になっているかと申しますと・・・
○「射出る矢、葦のさかりに散るがごとし」
『本居宣長全集』四 校訂 本居清造
○「両軍の射出す矢は、葦の花が風に吹かれて散るようだった」 『日本文学全集』古事記
訳者代表山本健吉
○「敵の射つけて来る矢は葦の散るごとくであった」 『古典日本文学全集』古事記 訳者石川淳
○「双方の射放つ矢は葦の花のように盛んに飛び散った」 『日本古典文学全集』古事記 校注者荻原浅男
○「射出す矢は、葦の花が飛び散るようであった」 『日本古典文学大系1』古事記 校注者倉野憲司
と、諸先生方がそれぞれに解釈をなされておりますが、どうして、似ているようで似ていないその様なものになったの
か、小生としては頗る困りました。
そこで、その理由を調べる事になり・・・そもそもの始まりである『古事記伝』に到着、其処に記された本居宣長の
解釈がその大本である事が解りました。
従って、そのところが大事ですので、『古事記伝』のその部分を特に取り上げて少し書かせて戴きます。
○待戦マチテタタカウは、 大長谷ノ王の御軍を待受て戦ふなり、 ○葦来散アシノキチルとは葦の穂の散り来クるを云、
ただ葦とのみ云て穂と云ハざるは、 万葉集【十八丁二十六丁三十四丁】に、 難波の枕詞にも、 安之我知流アシガ
チルとあるが如し【堀川百首に寒蘆、 難波がた網手になびく葦の穂のうらやましくも立チのぼるかな、 又なにはが
た葦の穂末に風ふけば立よる浪の花かとぞ見る、】 古へは海辺など葦の殊に多かりしかば、 其穂の盛りに散るさま
はおびたゞしかりし故に、 【難波の枕詞ともなり】かく射る矢の甚稠イトシゲき譬へにも云るなり、 さて来と云ること穏
オダヤカならず聞ゆるは、誤字なるべし、【敵の軍の射出る矢は、 此方ざまにのみ来るを譬へたるなれば、 来散キ
チルとも云べきにや、 とも思へどなほいかゞ、】故に、 つらつら考るに盛を誤れるなるべし、 【?と?と草書いと
近し】佐加理尓サカリニと訓べし、 【師は華ノ字の誤とせられたれど記中に花を華と書る例なし、 花ノ字は形遠し、
又己レ思ひしは葦散アシノチルなりしを誤りて葦ノ字を重ねて書るを、 又誤りて一つを来とせるにや、又は葦之散
アシノチルなりしを誤れるにやなども思ひしかど、然にはあらず、】・・・・
と、 以上が『古事記伝』の抜粋ですが、文中、赤字及び下線で示した処は小生の意思です。又、?マークは草書体
でしたので判読出来ませんでした。
(二)
前置きが長くなりましたが、小生が申し上げたい点は、「来」を一方的に誤字として退け、盛りサカリである、いや花ハ
ナであると迷路に入り込み、その前の「葦」に付いて、その重要な属性に何ら注意も払わずに通り過ぎてしまった事
なのです。
結論から申せば・・・当時の人々(今から約1500年前頃の奈良盆地を中心としたその周辺の人々)は、「射出之矢
如葦来散」とある文章では、矢から→葦へと続くその文脈から、その葦はセイタカヨシ(の葉)を指しているものと、
多くの人々がその様に理解していたのに違いないのです。
従って、「葦」即ちセイタカヨシがこの問題の鍵を握っていたのです。
いきなり聞き慣れない植物名を出しましたが・・・勿論、当時に於いてセイタカヨシと云う植物名は存在(通用)してい
なかったし、当時の人々が呼んでいたのはやはり通常の葦アシですが・・・ですが、そのセイタカヨシに付いて書かな
い事にはこのレポートが終わりませんので、今暫くお付き合い下さい。
(三)
イネ科ヨシ属には、ヨシ、セイタカヨシ、ツルヨシの三種類がありますが、此処ではヨシとセイタカヨシに付いて書か
せて戴きます。特に、その外観が見分ける時のポイントですので、そのところに注目して欲しいと思います。
先ずは、『野草大図鑑』発行者福田元次郎北隆館平成2年4月発行から抜粋しますと・・・
[ヨシ] 日本名は葦アシ、アシの音が悪ァしに通ずるのを避けてヨシと呼ぶようになったのである。山間から海岸に至
るまで、広く水湿地に生育する。[高さ]100〜300cm
[セイコノヨシ](セイタカヨシ)日本名は西湖(せいこ)のヨシの意で、花屋の雅称とされる。河岸や海辺の湿地には
え、葉の先がヨシのように垂れずに鋭角に真っすぐに立つことが大きな外観上の特徴である。[高さ]200〜400cm
とあり、小生もその点を指摘したいので、その儘載せました。
【ヨシ】 と 【セイタカヨシ】 の写真
さて、二つのヨシに関連して、その分布(植生)がどうなっているかと調べますと、ヨシは日本各地に分布しております
が、セイタカヨシは本州中部以南とされており、又、河川等の護岸整備が進んだ昨今、その群落を見る機会は減って
しまいましたが・・・然し、当時の人々は自然の風景と共に日々それ等を眺めていたと思います。
何しろ「豊葦原」の国ですから。
ですから、その群落の中に、【イ】葉の先が垂れたものと、【ロ】葉の先が真っすぐな二種類の「葦」があった事も知
っていた筈です。
そして、葉の先が真っすぐなセイタカヨシを、当時の人々が「高葦」タカアシとでも呼んでいて呉れたら何の苦労もあり
ませんが、その様な記録はありません。
しかし、当時の人々は、矢から→葦へと続くその文脈では、当然その矢は葉の先が真っすぐな「葦」、即ち、セイタカ
ヨシの葉を指しているものと理解していたと思います。
云わずと、セイタカヨシの葉は矢に似て、殊更、葉と書き添えなくとも何ら理解を妨げるものでもなく、「葦」の一字だ
けでそれは十分だったものと思います。
(四)の一
前節の後半でセイタカヨシの分布は本州中部以南とし、又、当時の人々が日々それを目にしていたと書きましたが、
その点を、今度は別の視点から検討したいと思います。
先ず、現在発行されている□□県植物誌、□□県植物目録、□□植物誌等々から、セイタカヨシの分布に関する
説明を見ますと
A・・・「多、普、小、稀、極稀」と表示
B・・・「ごく普、普、やや普、まれ、ややまれ、ごくまれ」と表示
C・・・「多い、普通、少ない、稀」と表示したり
D・・・市町村別に細分した図に●印で表示
E・・・市町村名、河川名だけで量は書かない
F・・・分布がないものは記載されない
等々、様々な方法でそれを表示していますが、このレポートではそれを簡略し、普通に見られる以上を大きい●印、
それ以下を小さい●印とし、全国47都道府県図の上にセイタカヨシの分布を載せて見ました。
(資料は47都道府県発行の植物誌等からです)
更に、『理科年表』平成16年度版より、年平均気温が14℃前後の観測地点を選び出して14℃の等温線を求め、
それと併せて二つの合成図も作りました。
【セイタカヨシの分布図】 【14℃等温線】 【二つの合成図】
(四)〜二
二つの合成図は、云う迄もなく現在のセイタカヨシ分布の北限(これは私見です)を示しています。そして、地域を奈
良県、滋賀県、京都府、兵庫県、大阪府、和歌山県に絞って検討しますと、兵庫県、大阪府、和歌山県では普通に
見られる大きい●印なのに、他は小さい●印で、これだけで見る限り、奈良県、滋賀県、京都府ではセイタカヨシの群
落を見る機会が少ないと云う結果になります。
だが、それは現在の話、今から約1500年前頃は果たしてどうであったのか、と云う疑問も残ります。
と云うのも・・・北限の位置が現在より北に上がっていれば、自ずと小さい●印が→大きい●印に換わり、奈良県、滋
賀県、京都府においても普通にセイタカヨシが見られる事が想定出来るからです。
此処に、講座『文明と環境』第9巻、森と文明(1996年1月)安田喜憲、菅原聡 編集の1冊の本があります。
そして、その15頁に「今から6500年〜5500年前頃は、気温最適期(ヒプシサーマル)とよばれる高温期だった。年平
均気温は現在より2〜3℃高かった」と記載があります。
それで、それを参考にして約1500年前を考えますと、2℃の4分の1、即ち0.5℃程、現在よりも気温が高かった事が
分かります。
先に、14℃の等温線を作りましたが、それに習って、『理科年表』より13.5℃の観測地点を選び出し、その点を結め
ば当時の14℃の等温線が現れます。
作図はしていませんが、日本海側では、現在の石川県の金沢辺りから佐渡島を含む新潟まで、太平洋側では、現
在の茨城県の鹿嶋辺りから宇都宮と水戸を結ぶ線までセイタカヨシの北限が北上します。
従って、現在は小さい●印の奈良県、滋賀県、京都府であっても、当時は大きい●印であった事が推定出来ます。
想定、推定のそしりは免れませんが、以上の理由で、呼び名はともあれ当時の人々がセイタカヨシを知っていた事
は証明出来たと思います。
【付記】
セイタカヨシの分布図の中で、北限を大きく外れた山形県に(やや稀)を示す小さい●印がある事に付いて考えまし
た。
地球温暖化と云われている昨今、25年後50年後の地球の年平均気温が今より2℃高くなった時、現在の年平均
気温が11.5℃の山形、12.1℃の仙台、12.3℃の酒田では、それぞれ14℃に近い13.5℃、14.1℃、14.3℃となります。
従って、その頃になれば、最上川流域のあちこちでセイタカヨシを見る事が出来るようになると思います。
これは自然の摂理です。
(五)
此処で、「来散」に付いて私見を述べたいと思います。
文字をその儘解釈すれば、飛んで来て飛び散るとなり・・・飛び交う様を表した一つの表記であると小生は思って
おります。
さて、(三)の後半に続きますが、『古事記』が書かれた当時の人々は日頃見馴れていた「葦」アシの仲間に、背が
高く、その葉が矢に似た「葦」アシ、即ちセイタカヨシがある事を、十分に知っていた事が分かりました。
従って、『古事記』に載った「射出之矢 如葦来散」の文章は・・・
○「射出る矢、葦のさかりに散るがごとくなりき」 と、本居宣長が解釈したそれではなく
○「射出す矢は、まるで葦の葉が飛び交っているようであった」 となり、又は注釈を加えて
○「射出す矢は、まるでセイタカヨシの葉が飛び交っているようであった」 となり、此れが小生の結論です。
有名な『古事記』を取り上げ、重箱の隅を楊枝でほじくるような、且つ、組み立ての悪い文章で真に恐縮の極みです
が、これで終わります。
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笹山源次郎 (ご意見、ご感想、お寄せ下さい)
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