ここに少年雑誌,「少年倶楽部4月号付録,『最新運動競技寶典 選手血涙物語集』 大日本雄弁会講談社 昭和3年4月1日」があります。この中にフィンランドに関する読み物がありましたのでご紹介しましょう。ここに出てくるヌルミとはヘルシンキ市内オリンピックスタジアム前にある銅像のパーヴォ・ヌルミ(Paavo Nurmi)のことです。
また,その他の選手でリトラとはVille Ritola(ヴィッレ・リトラ),ルマティーネンとはHeikki Liimatainen(ヘイッキ・リーマタイネン)のことである。原文はルビ付縦書きですが横書き(ルビ)とします。
死の競走
南 郷 城 二
『只今,セーヌ河畔に沿うて進んで行きます。先頭は瑞典のヴイダ君です。芬蘭のリトラ君,ヌルミ君がこれに続いて行きます。』
擴聲器がスタンドの観衆に知らせてゐる。
それは一九二四年,巴里で開かれた国際オリンビック競技会に於ける,一萬米断郊競走(注:クロスカントリーのこと)の實況報告である。
『ヴイダが先頭だつて。』
『未だわからない。其のうちにヌルミが追ひぬくよ。』
『超人ヌルミだからな。この間の五千米で,ヴイダは百米も引放されてゐるのだから。』
スタンドでは,擴聲器の聲と共に,予想の花が咲いて居る。
七月十二日,午後三時過ぎの太陽の直射が競技場にも観覧席にもしみ入つて,人を熱殺するかと思はれるほどだ。然し,熱心な観衆は,やがて,世界的超人が,決勝線を切る時の劇的光景を想像して,動かうともしない。
擴聲器は遂に,先頭が競技場から三粁の辺まで帰つて来てゐることを報告した。
(−ヌルミ君が先頭を走つてゐます。百五十米おくれてリトラ君,更に五十米おくれてヴイダ君,次には芬蘭のシビラ君です。)
『やつぱりヌルミのものだ。もうヌルミのものだ。』
『おそろしい體カだ。リトラが二等で,芬蘭の優勝だ。』
スタンドの空気が引きしまつて來た。
( − 芬蘭のシビラ君,米国のジョンソン君,瑞典のツールソン君,西班牙のアンデア君等が,暑さと戦つて來ます。皆苦しさうです。− もう十数人落伍しました。−
−瑞典のヴイダ君がたふれました。芬蘭のシビラ君が中止しました。西班牙のアンデア君がたふれました。瑞典のツールソン君も・・・みなさん,實に悲壮です。)
人々の心には,力を誇る各国の覇者が,無念の涙をのんで,よろよろと倒れる様がありありと浮いて見えた。
『無理もない,この暑さだもの。じつとしてゐてさへ倒れさうだ。』
『かうばたばたたふれて,結局どうなるんだ。』
『何だか,すごいやうだ。』
自国選手の安否を気づかふうめきが,場内をすごい色につつむ。
突如!
『來た! 來た!』といふ聲と共に,『ヌルミだ。ヌルミだ。』の叫びが,次から次へ伝はつた。
入口に雄姿をあらはしたのは,まさに芬蘭のヌルミである。大きな口を心持開けてはゐるが,その口尻は引き釣つて,烱々たる眼光に前方を見据ゑ,鉄板の如き胸を張つて,灼熱の炎天下に,鉄脚を踏みしめ踏みしめ,地をけつて進む超人の姿! これこそ,人類最高の意志と力との表象でなくて何であらう。偉大なるカの芸術でなくて何であらう。
人々は圧倒せられたやうに驚嘆の眼を見張つたが,やがてヌルミがトラックを一周して,悠々とテープを切るや,拍手の嵐と,歓呼の怒涛が,期せずしてスタンドをどよもした。それは,さつきまでの悲痛な気分をきれいに吹き去つてしまふやうな力強いものだつた。
次にあらはれたのは第二超人リトラである。さすがに苦闘の影が面上に漂うてゐたが,そのホームは確かだつた。
リトラから三百米おくれて,米国のジョンソン,ジョンソンから百米隔てて英国のハルパーがゴールに入つた。
おゝ,然し,次にあらはれたのは,何といふ痛ましい姿だらう。顔は血の気を失つて,眼を釣りあげ,奄々たる気息をはきながら,トラックを逆にまはり初めたのである。
西班牙のアデイオ選手である。
笑ふには,あまりに痛ましい姿である。
『逆だ。こつちから。』
一委員が走りよつて注意した。それを聞くと,彼はクルリと廻らうとして,ばつたりと仆れてしまつた。
『あツ!』
観衆の瞳は,其の仆れた一塊にあつまつた。アデイオ選手は,肱を張つて立たうとした。
『ゴールは目前にある。今一息だ。立ちたい』
彼は足をふんばつた。駄目だ。足と手と一緒にふんばり顔をあげた。やつぱり駄目だ。彼の精力は最早使ひ尽されてしまつたのである。
炎帝の猛威に焼けたヾれたトラックの上に,扁い一塊となつて仆れたアデイオ選手の姿は,再び,人々の心を暗くした。
『かはいさうに。』
『随分がんばつたがな。』
同情の聲が翕然と,担架で運ばれ去るアデイオ選手の身辺にそゝがれた。
『ラウポー。』
『マーシャル!』
スタンドをゆるがすやうな絶叫が爆発した。祖国の二勇士を迎へる巴里つ子の歓喜の聲である。
ラウポーもマーシャルも,實に堅實な足どりである。それは,さつきのアデイオにくらべて,何といふ颯爽たる姿だらう。それが,待ちに待つた佛蘭西人をとびあがらせ,其の心を明るくした。
然し,それも束の間であつた。ゴール前五十米ばかりに達した時,二走者の足は俄かににぶつた。そして,まるで失明した人のやうに,両手を前方へ差出して,泳ぐやうによろよろと二歩三歩 − 其のまゝばたりと仆れてしまつた。
『惜しいツ!』
『ラウポーラウポー。』
『マーシャルマーシャル。』
『もう一歩だ。』
『頑張れ!』
観衆は必死に叫び續ける。と,むくりとラウポーが立つた。なつかしい祖国の聲は,遂に,彼のカを呼びかへしたのである。
『ラウポーラウポーラウポー。』
観衆は総立ちになつた。
ラウポーは進む。然し其の足はよろけてゐる。顔はまつ蒼に沈んで,唇は紫色にあせて,凄惨,死相其のまゝである。
だか,何と根強い佛蘭西魂だ。彼のカは既に尽きて居るのに.彼の霊は雄々しくもゴールを切つて,責を果すと共に仆れたのである。
『おゝ,ラウポー!』
歔欷の聲が各處におこる。
『佛蘭西万歳!』
さう叫ぶものゝ唇も泣いて居る。
然し,未だ,悲痛きはまりない現實は,観衆の胸へ匕首を擬して背後に迫つて居る。
それはマーシャルだ。
マーシヤルもたつた。巴里子はそれを見ると,あまりにも雄々しい佛蘭西魂の展開に,聲を傾けて叫んだが,次の瞬間マーシャルは叉,ばたりと倒れてしまつた。
『マーシャル! マーシャル!』
マーシャルは叉立つた。しかし,すぐ仆れた。そして,立つては仆れ,仆れては立ち,マーシャルの必死の努力は蟻の群に喰はれる蛇の如く續いたが,ゴールに入るに至らずして,再び立てなくなつてしまつた。
人々は聲をつめた。この上彼の名を呼ぶ残酷がどうして出來よう。彼等は,おそろしい厳粛なものに胸をしめつけられ,泪を垂れて面を蔽うた。『おゝ,神よ!』一人の婦人は十字を切ると共にわつと聲をあげて泣いた。
彼等が最後の聲は,實に神の名であり,鳴咽であつた。續いて,佛蘭西のウヱ選手,芬蘭のルマティーネン選手が戻つて來たが,ゴールに入ると共に仆れてしまつた。
『見るに堪へない。』
『あゝ‥‥』
あまりの悲壮さに,今はもう観衆の中,正視するものは一人もない。
かくして,スタートを切つた三十九人の中二十四人は落伍し,十五番の佛国選手ノルランを殿に,この悲壮きはまりない「死の競走」は終つた。
この時のクロスカントリー,10キロの結果は,以下の通りであった。
クロスカントリー(個人)
金 Paavo
Nurmi Suomi 32分54秒8
銀 Ville
Ritola Suomi 34分19秒4
銅 Earl
Johnson 米国(Yhdysvallat) 35分21秒0
クロスカントリー(団体)
金 Suomi(Paavo
Nurmi, Ville Ritola, Heikki Liimatainen)
銀 米国(Yhdysvallat Earl Johnson, Arthur Studenroth, August Fager)
銅 フランス(Ranska Henri Lauvaux, Gaston Heuet, Maurice Norland)