谷水竹雄 飛曹長

独特の撃墜マークで有名な谷水竹雄は日本海軍戦闘機隊の傑出したエースの一人である。

 1919年(大正8年)4月、三重県に生まれる。母は真珠を採る海女だったが、彼女の希望に反して海軍に入った谷水少年もまた、同じように海にかかわっていくことになる。

太平洋戦争がはじまる8ヶ月前に飛錬教程に入り、開戦後の1942年(昭和17年)3月に卒業した。

以後は直接戦闘にかかわる任務はなく、1943年(昭和18年)2月に空母「翔鶴」飛行隊へ転勤。

 1943年の11月2日、ラバウルの初空中戦で2機のP-38を撃墜し、初戦果を記録した。ラバウルでは毎日のように続く空戦で多くの零戦搭乗員が戦死した。

谷水にとってはF6Fヘルキャットがもっとも強敵に思えた。「機動性に富み、すばやく横転ができるヘルキャットが一番手ごわい相手でした。

P-38やF4Uコルセアは小回りが効かず、一撃して離脱していくだけでしたから。米軍機は総じて空中で火を吐かせるのは至難の業でした。

弾丸を命中させても、いくらか煙をひくだけなのです。煙が出る様子をみれば、それがアメリカ機か零戦かすぐにわかりました。」

逆ガル式主翼のF4Uコルセアは米軍のあいだで「死の笛吹き」と呼ばれ、獰猛さで名をはせていたが、たいていの零戦搭乗員はそんなに怖い相手と思わなかった。

「F4Uコルセアを確実に落とそうと思うなら、気づかれてはいけません。そして、後方のある特定の角度からでないと、銃弾がはね返されてしまいます。

また、私はコルセアが低高度から機首を上げきれずにそのままジャングルや海中に突っ込んでいくのを目にしています。機体が重すぎるのでしょう。

我々はときにはコルセアを追いかけて海に突っ込ませたものです。零戦は軽かったのでそんな心配はありませんでした。」

 「殺るか殺られるか」という戦場において、谷水一飛曹は敵に情けをかけたこともある。

1944年(昭和19年)1月4日、空戦からの帰投中にセント・ジョージ岬沖で、損傷したコルセアからパラシュートで海面に落下する敵パイロットをみかけた谷水一飛曹は、

VMF-321のハーベイ・F・カーター大尉めがけて救命浮き輪を投げた。カーターは浮き輪を引き寄せ、手を振って零戦に応えたが、生還できなかった。

1944年3月、谷水一飛曹は台南空(2代目)で教員生活を送るかたわら、台湾での迎撃と哨戒の任務についた。

ときには夜間出撃もこなし、同8月31日の夜、B-24 11機による高雄港爆撃の際にも出撃した。

その夜、425thBSのノーマン・B・クレンドネン中尉が操縦するB-24を前方攻撃によって発火させ、撃墜、唯一の生存者は捕虜となった。

またジョージ・ピアポンド大尉機にも損害を与え、同機は中国大陸で山に衝突した。

搭乗員の遺留品が発見されたのは1996年(平成8年)10月になってからのことで、翌1月、在中国アメリカ大使に手渡されている。

 1944年11月3日、谷水上飛曹と列機の伊藤学上飛曹は中国アモイ湾に入港する輸送船団の護衛任務を終了後、

着陸態勢に入ったところで米陸軍74FSのポール・J・リース大尉とジョン・W/ボリアード中尉の乗るP-51 2機に急襲された。

遠距離からのライス大尉の銃弾が谷水機の翼端に命中したが、谷水上飛曹はそれが敵機によるものだと気づかず、

うしろを飛行している経験不足の伊藤上飛曹機による誤射だと勘違いした。ボリアード中尉はすばやく伊藤機を撃墜し、谷水機も炎につつまれた。

これが終戦までに5機を撃墜するボリアード中尉の最初の2機であった。「火だるまとなった私の零戦は操縦不能で、まっすぐに降下していきました。

ここで死ぬんだと覚悟しました。」と谷水氏は回想する。谷水上飛曹が燃えさかる零戦から脱出したのは海上わずか80メートルのところだった。

海面にたたきつけられる前にかろうじて落下傘が開いた。結局、かれは2時間後に近くの海岸にいたふたりの中国人に助けられた。

台湾の病院で1ヶ月の療養後、特攻を志願したが台南空司令によってやめさせられ、本土帰還と九州の203空への転勤を命じられた。

 1945年(昭和20年)3月18日、谷水上飛曹は鹿児島県笠ノ原飛行場に機銃掃射を加えにきたVMF-83のコルセアと空中戦を行い、1機に煙を吐かせて、

さらに別の1機、ジェームズ・J・スティーブンス中尉機に致命傷をあたえた。

スティーブンス機は激しく黒煙を吹きながら海上を低空で離脱していき、谷水上飛曹はとどめを刺そうと追跡したが、捕捉できなかった。

だが、コルセアは結局不時着水し、スティーブンス中尉は溺死した。経験不足の搭乗員たちを鼓舞しようと、谷水上飛曹は自らの機体に撃墜マークをつけはじめた。

笠ノ原のF4U撃墜に加え、トップエース岩本徹三少尉と協同撃墜したB-29の撃墜マークを入れ、不確実だったもう1機のB-29マークも入れた。

6月10日には九州上空でP-47と熾烈な空戦を行い、サンダーボルトを大破させたものの、自らの零戦も滑油パイプに被弾、緊急着陸した。

 8月15日の玉音放送後も敗北を受け入れなかった谷水飛曹長は、5日間にわたって敵機を追い求め、戦争継続を主張するビラを撒いたりした。

谷水上飛曹は終戦までに飛行時間1425時間を記録、32機の撃墜を記録している。